人生で大切なことは小学校の図書室で学んだ——児童文学のすすめ
皆さんは、「児童文学」と聞いて、どんな本を想像しますか?
子ども向けの本、子どものために書かれた本、でしょうか。
ここで、自分自身の「子どもの頃の幸せな読書」について、
記憶がよみがえってくる人は、幸せな人だと思います。
しかしながら、「児童文学」と聞いて、
子どもっぽい本、子どもだましの本
……を想像される方も、中にはいらっしゃるかもしれません。
もし、そうだとしたら、とても残念なことです。
児童文学は、子どもっぽい本でも、子どもだましの本でもなく、
(もちろん、中にはそんな本もあるでしょうが…)
また、子どものためだけに書かれた本でもありません。
すぐれた児童文学は、子どものみならず、大人をも感動させるものです。
むしろ私は、本当に「万人を感動させる力」というのは、
大人向けの文学よりも、児童文学の方が強いのではないか、
とさえ考えているのです。
思うに、「児童文学」とは、
「大人にも子どもにも感動を与える文学」ではないでしょうか。
作家の灰谷健次郎さんが、「志の高い文学」と題した文章の中で、
同様のことを述べておられるのを読んで、さらに、その意を強くしました。
灰谷さん曰く、
(大人向けの文学作品よりも)
「いっそう志が高い文学が児童文学だとわたしは信じているのです。
考えてもごらんなさい。幼児から若者壮年、老人にいたるまで、
幅広い読者をもつ文学の創造なんて、たいへんなことなんですから。」
……実作者の言葉(心意気)ですから、説得力がちがいますよね!
ですから、今まで読んだことがない方、
これから読んでみたいと思っている方も、
ちっともあせることはないんですよ!
壮年、老人までOK、だなんて、なんだか、ほっとしませんか!?
読むべき本をどのように選ぶか
ところで、そのように奥の深い「児童文学」の世界なのですが、
それでは、読むべき本を、一体どのように選べばよいのでしょうか?
「手当たり次第に読む」という考え方もありますが、
あまり賛成できません。
世の中には、「面白い本」というのは数限りなく存在し、
そのすべてを読むことは、とうてい不可能なのですから。
その点、我々大人はよいのです。
必要な情報を集め、自分で取捨選択し、行動を起こすことができますからね。
しかし、子どもたちはどうでしょうか?
子どもたちが、自分自身で読みたい本を探して読む、というのも、
いうまでもなく、もちろん大切なのですが、
そのようにして選んだ本は往々にして偏りがち。
また、せっかく「読めば確実に面白い本」が本棚にあったとしても、
たまたま、子どもたちの目には入らないかもしれません!
(あるいは、目に入っても、
「面白い」と知らなければ手に取らないかも……)
そのような惨事(!?)を防ぐためには、
やはり、周囲にいる大人たちが、もっと、児童文学のことを知り、
知識を得、また、実際に読み、そして、なにより、
大人自身が児童文学を楽しむことでしょう。
先ほどから述べているとおり、児童文学は、子どもたちだけではなく、
大人たちをも充分楽しませてくれるだけのポテンシャルを秘めているのですから!
本棚に囲まれた教室の原風景
さて、ここで、私の原風景である、
小学校5・6年生のときの教室の話をさせてください。
子どもの頃の読書というのは思い出深いものですが、
私の場合、小学校5・6年生のときの読書は格別です。
この頃は、今とは比較にならないくらい、本を読むのが早かった気がします。
まぁ、今でも本を読むのは、けっして遅いほうではないと思いますが、
特に、この頃は、今考えると不思議なくらい多くの本を読めていました。
けっして、「本ばかり読んでいた」、という記憶はないのに、
今になって考えてみると、この頃に読んだ本が、かなり多いのです。
それは、この頃の、特殊な環境に理由があると思っています。
この2年間は、比喩でも何でもなく、本に囲まれて生活していました。
担任の先生が、おそらく、本が大好きな人だったのでしょう、
もしくは、「子どもたちの周りに本を!」という強い信念を持っていたに違いありません。
この先生が担任になったクラスは、
文字通り「本に囲まれて」2年間を送ることになります。
それは、先祖代々(?)、ずっとそうなのです。
別に、「そういう(特殊な)小学校だった」というわけではなく、
この先生の教室だけが、こういう状態なのです。
ウワサには聞いていましたが、このクラスの教室は、
前方の黒板以外、すべての壁に本棚が設置してありました。
「そんな、おおげさな!」と思われるかもしれませんが、本当の話です。
部屋一面の本棚を埋め尽くす、山ほどの絵本に、世界の民話や童話。
科学のアルバムや図鑑の数々。
落語全集に、怪談、とんち話。
岩波のハードカバーに少年文庫に福音館の古典童話シリーズ……
まさに、もうひとつの図書室!
――いや、私にとっては、この教室こそが「図書室」でした。
驚くべきことに、すべて、
この先生が「自前」で集めた本なのだそうです。
うーん、こうやって文章にしてみると、改めて、
とんでもない環境であったなぁ……と思わざるをえません。
もちろん、本に囲まれて生活すれば、誰もが本好きになる、
本をたくさん読む子どもになる、とは一概にはいえません。
現に、同じクラスの友人でも、本をまったく読まない人はいました。
また、私も、このクラスになって急に本好きになったわけではなく、
元々、本は多く読んでいました。
「環境がすべてだ!」と言いたいわけではないのです。
でも、これが、私にとって大きな出会いであったことは間違いありません。
学級文庫の本を手に取るときに、
「どの本が面白いか?」なんて考える必要はありませんでした。
手を伸ばして、興味のある本を引っ張り出せば、
ほとんどハズレなく、面白い本に巡り会うことができました。
先生が、十分に選書していたからであることがわかるのは、
後年、「読んでおきたい児童文学」みたいな本を読んでからです。
あ、これ読んだ!
これも、知ってる本だ!
どの本にも、私がよく知っているタイトルが並んでいることが多く、
「当時のライブラリーがいかに充実していたか」に思い至り、
いっそう感謝の念が深まるのでした。
本当に、手当たり次第読んでいたのでは、
けっしてこうはなりません。
いや、手当たり次第の読書も楽しいんですよ!
でも、おかげで、私は、多くの名作、傑作に
知らず知らずのうちに出会うことができました。
そして、単に、多くの本を読んだだけではありません。
驚くのは、強く印象に残っている本が多いこと!
幼稚園に読んだ本はもちろん、小学生の頃に読んだ本であっても、
学校の図書室や近所の図書館で借りて読んだ本などは、
残念ながら、細部までは記憶に残っていません。
なのに、不思議と、この頃に読んだ本のことは、よく覚えているのです…。
どうしてなのかは、わかりません。
単に、ちょうどタイミングよく、本が染み込む時期だったのかもしれません。
本に囲まれて、本の背表紙を眺めながら暮らした(!)のがよかったのかも
しれません。
私は、なんとなく、「後者ではないかな」という気がしています。
身の周りに面白い本がある。
手を伸ばせばいつでも手に取れる。
こういう読書体験、生活体験を持っているがゆえに、
私には、けっして譲れない持論があります。
「本を読む習慣があることは、何より強い武器になる」
ということ。
そして、本を読む習慣をつけるためには、
「身の回りに本があることが重要である」
ということです。
児童文学が教えてくれたこと
あの教室で、私はたくさんの児童文学と出会いました。
読書には、時間を忘れるほどの楽しさがあります。
でも、それだけではありませんでした。
ページをめくるたびに、知らない世界を旅し、
自分とはまったく違う考え方や感情に触れる――
そんな経験の積み重ねが、今思えば私の“学びの原点”でした。
本を読む前は、知らないことばかり。
でも、物語の中には、知らなかった知識や視点が自然に散りばめられていて、
夢中で読んでいるうちに、気づけば、いろんなことを知っている。
そんな“知ることの喜び”を、私は児童文学を通して何度も味わっていたのです。
そして、本を読めば読むほど、 自分が何も知らないことがわかる。
何もかも知っているなんて絶対にない、ということもわかってきます。
小学校時代の読書を通じて、
重要なのは「何かを知っていること」ではなく、
「本を読めば知らないことを知ることができること」だと学びました。
それは、「知らないことがあっても大丈夫」という、
揺るぎない安心感につながっています。
この感覚は、いま振り返るととても大きいものでした。
大人になってからも、それは変わりません。
人生には、前もって準備できることなんて、それほど多くありません。
子育て、仕事、健康、そして身の回りの変化――
何かにぶつかってから、はじめて
自分が「知らないということに気づく」ことの方がずっと多い。
そんなとき、私は自然と本を手に取ります。
図書館に通い、関連する本を何冊か並べて読んでみる。
比べて、調べて、少しずつ理解して、自分なりの答えにたどり着く。
それができれば、たいていのことには対応できるし、
逆に、それしかできないのが現実です。
――「これからの時代は、〇〇が大事です」
そんな言葉を、これまで何度、目や耳にしてきたでしょうか。
英語が大事。
21世紀型能力が大事。
プログラミングが大事。
最近では、AIを使いこなせることが大事。
――そんな声も聞こえてきます。
子どもに何を学ばせたらよいか、
不安に思っている人も多いかもしれません。
でも私は、児童文学が教えてくれたことを信じています。
大切なのは、「何を知っているか」よりも、
「知らないことに出会ったとき、自分で学ぼうとする姿勢があるか」
ということ。
そしてその前提にある、
「学べば、知ることができる」という実感です。
子どもの頃の読書を通じて、
私はそれを、自然に体に染み込ませることができました。
だから今も、
何が起きても、「本を読めば大丈夫」と思えるのです。
最後に
人生に必要なことは、小学校の図書室“だけ”で学んだ、
なんて言うつもりはありません。
でも、読書を通じていろんなことを学べる人間になる、
その“入り口”を開いてくれたのは、あの場所だった――
それは、きっと間違いのない事実です。
私は、自分の経験から、身の回りに「読書空間」がある生活の素晴らしさを多くの人に知ってほしいと思っています。
とはいえ、無理に勧められたり、押しつけられたりした本は、
面白さが半減したり、読む気さえ起こらなくなったりするもの……。
私たち大人には、子どもに「押しつける」ことなく、
出会ってほしい本、見逃してほしくない本を
さりげなく、されど確実に与える工夫が必要なんですね。
そのためにはどうすればいいか?
私は「自宅に子どもライブラリーを設置すること」が有効ではないかと考えています。
うちにある本なら、早かれ遅かれ、いずれは
自分から手を伸ばして読んでくれるでしょうから……
「いや、そんなにたくさんの本を買うことはできない!」
と思われるかもしれません。
もちろん、全部を買う必要はありません。
図書館という“もうひとつの本棚”を活用すればいいのです。
それから、もっと大事なことがあります。
それは、「親が子どもと一緒に読書を楽しむこと」。
自分の家にある本(図書館の本を含む)をめぐって、
家族の会話の中で、同じ世界を共有できたら、
きっと、家族にとって、かけがえのない時間になることでしょう。
私自身は、子育ても終わり、老後が始まるステージではありますが、
これからも本の背表紙に囲まれて、
たくさんの世界と出会い続けたい、と考えています。
そんなふうに思える自分でいることが、
小学校の図書室で得た「人生で大切なこと」の最たるものなのかもしれません。
たくさんのnoteの中から、私の記事を見つけて読んでいただき、
ありがとうございました。
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