それでも、国語の力で、生きていく~AI時代に問い直す「国語力」
今さらですが、私は国語が得意な学生でした。
正確にいうと、「現代文(現国)」。
文章を読んで、答えを探し出す。
それが楽しかったのです。
当時は、「国語力なんて、社会に出たら何の役にも立たない」と言われていたような気がします。
その後、世間、特に受験界隈において、少し「国語」の地位が向上し、「国語力がすべての土台である」と言われるようになりました。
そして、今。
AIの進化によって、また風向きが変わりつつあります。
風向きが変わったどころか、外に出るのが危険なレベルの暴風。
敵曰く、
「文章なんてAIに書かせればいい」。
「AIがあれば検索スキルも読書もいらない」。
……高まる一方の「国語力なんて何の役にも立たない」という圧力に、
肩身が狭い思いをしている「国語好き」の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
でも、私は声を大にして言いたい!
フォントを太くして言いたい!!
AI時代であろうと、国語力はすべての能力の土台だし、
自分の言葉で、自分の文脈で文章を作れる能力の重要性は揺るがないし、
国語力・文章力を培うのは読書しかない!
そして、私は、高らかに宣言したいのです。
「それでも、私は、国語の力で、生きていく!」
――と。
「国語力がすごい」という謎の評価
以前勤務していた会社の企画部門にいたときのことです。
その頃は、企画書を書いたり、経営会議に提出する書類を作ったり、
とにかく、多くの文章を書きまくる日々でした。
そんなある日。
忘れもしない……いつだったか。
上司から、こんなことを言われました。
「きのころ(仮名)は国語力がすごいな!」
それまでにも、文章を評価されたことはありました。
でも、社会に出てから「国語力がすごい」と言われる日が来るとは思っていませんでした。
――国語力って……。
それは、ほめられているのか!?
若干、不審ではありましたが、そのひと言が、妙に印象に残りました。
生半可に文章力を評価されるより、格段に嬉しかったのを覚えています。
「そうだ、私は――
たしかに、国語が得意だった!」
業務に忙殺される日々の中で、特に思い出すこともなかった昔の記憶が、するすると蘇ってきたのです。
「現国107点」というきっかけ
高校時代のことです。
私は現代文(現国)のテストで、107点を取ったことがありました。
200点満点ではありません。
100点満点のテストで、です。
当時の先生は、私に答案を渡しながらこう言いました。
「答案が素晴らしすぎて、加点したら満点を超えてしまった」――
……「そんなことある!?」と思ったものの、
その先生は、その後も何かにつけて、私の文章をほめ、
発想をほめ、表現をほめてくださいました。
それから、現国の偏差値は常に70を超え、
私はクラスで「現国神」と呼ばれるようになったのです。
進学校であったにもかかわらず、入学後、勉強ではなく、
読書や音楽に力を入れていたこともあって、
成績が伸び悩んでいた頃でした。
でも、現国の成績に牽引されるように、他の教科の成績も上がり始め、次年以降は選抜クラスに編入されるまでになりました。
今でこそ、「どんな科目であっても国語の力が重要」ということは受験界の常識になっているようですが、私自身の実感として、それは正しいように思います。
私は、もともと国語の成績は良かった(勉強しなくても点が取れるところが好きだった)ので、他の教科の成績まで上がったのは、「ある日突然国語力が伸びたから」というわけではありません。
それは、「現国107点」+「現国神」のコンボが私に与えてくれた、圧倒的な「自信」の賜物でした。
その先生は、私にとって、感謝してもしきれない恩師です。
――K先生、その節は大変お世話になりました!
先生の教え子は、社会人になっても「国語力がすごい」と言われ、
日々、noteで、AIに負けじと文章を書き綴っていますよ!!
AI時代における、国語力の再定義
かつて「文章を書く力」とは、
・語彙力
・文法力
・表現力
・構成力
・論理性
などの総合的なスキルを意味していました。
これらは、受験でも、ビジネスでも、クリエイティブでも、万能の“武器”だったと思います。
しかし、AIの登場によって、「書く」という行為は、ほとんど自動化できるようになってしまいました。
しかも、その精度も速度も、人間を圧倒しています。
報告書やメールの文案、SNSの投稿、果てはエッセイのような文章まで――
たしかに、AIが作った文章は整っていて、読みやすい……気がします。
でも、それだけです。
その「読みやすさ」の裏側に、空虚さを感じることがあります。
どんなに整っていても、
「その文章を書いた人の顔が見えてこない」のです。
人が文章を書くとき、そこには「背景」があります。
・なぜそれを書くに至ったのか
・誰に向けて書いているのか
・どんな気持ちで綴っているのか
・なぜ、今このテーマを取り上げるのか
それらすべてが、言葉の選び方や文体、構成ににじみ出る。
この「にじみ」を生み出すのが、私が考える国語力の本質です。
それは、単なる文章力ではありません。
「自分の中の文脈をつかみ、それを、外に向けて言葉にできる力」
これこそが、AI時代における「新しい国語力」なのだと思います。
AIは、与えられた条件に従って、既存の言葉を上手につなぎます。
けれど、
「自分の中にしかない土台や背景」、
「この文脈で、どうしても言いたい思い」を
汲み取り、形にすることは、できません。
なぜなら、それは、「経験」や「価値観」、
そして「文脈の理解」がなければできないからです。
私は、これからの時代の国語力とは「文脈力」ではないかと思います。
AIが文章を代わりに作れる時代だからこそ、
「何を書くか」「なぜそれを書くか」を考える力が、ますます重要になるのです。
形式的な文章では届かない感情。
正確な情報だけでは動かせない心。
そういったものに触れるには、
「その人らしさ」がにじむ言葉が必要です。
「うまく書けなくてもいいから、書いてみる」
「正解じゃなくても、自分の中から言葉をひねり出してみる」
その繰り返しこそが、
AIにはない、人間だけの「考える力」を育ててくれるのだと思います。
そしてそれは、私たちがこれからの時代を「人間として」生きていくために、ますます欠かせない力になるのではないでしょうか。
その力を育てるのは、やはり「読書」だと思います。
「なぜ読書が大事なのか?」とあらためて問われたとき、
私はこう答えたいと思います。
読書とは、他人の文脈を体験することであり、
それは、読書でしかできないことだから、です、
私たちは、普段、自分の価値観、自分の環境、自分の感情の中で生きています。
それは決して悪いことではないけれど、狭い枠の中に閉じこもりがちでもあります。
本を読むと、そこにはまったく違う時代、違う文化、違う性格をもった人たちの思考や感情があふれています。
・大正時代の女学生が抱えていた葛藤
・アフリカの小さい村で暮らす少年の日常
・数式の美しさを追求する数学者の世界観
本を通して、他人の人生の一部を“内側から”体験できること。
それこそが、読書の本当の醍醐味だと思うのです。
そして、それらの体験が、いつのまにか「言葉の地層」として自分の中に堆積していく。
「どこで覚えたんだろう?」と思うような表現や、ふと口をついて出る比喩、微妙な感情の言語化――
それらは、決して一朝一夕では身につきません。
本を何十冊、何百冊と読み続ける中で、
ようやく「自分のものとして扱える言葉」になっていくのです。
そして、そうやって育った言葉だけが、
人の心を打つ文章の材料になってくれるのだと思います。
私の「国語力」を支えているのが、今まで読んできた5000冊以上の本であることは間違いありません。
だから、私はこれからの若い人に、
「読書なんてしなくていい」とは、絶対言えません。
私は、誰よりも、読書の恩恵を受けてきた人間だからです。
「AIが最大の“読者”になる時代」説
最近、気づいたことがあります。
自分の言葉で文章を綴りたいと思う人は、AIを“書き手”として張り合おうとします。
でも、本当に恐れるべきは、「AIが最大の“読者”になること」――。
つまり、これからは「人間に読まれる文章」だけでなく、
「AIに読まれて評価される文章」を意識しなければならない時代だということです。
すでに、ニュース記事もレビューも、AIに読ませて判断させる時代になっています。
今後は、SNSの投稿一つにしても、“バズる言葉”をAIが分析し、人間がそれに合わせて書くようになっていくのでしょう。
気づけば、「読者に届く」ではなく「AIに刺さる」文章がスタンダードになってしまうかも……
いや、すでにそうなっているのかもしれません。
人間同士の共感ではなく、AIの評価アルゴリズムに最適化された文章が量産される社会。
AIが書いた文章を、AIが読んで、評価し、また学習していく。
――そんなサイクルに、いったい何の面白さがあるのでしょうか。
それはまるで、AI同士で指している将棋や囲碁を、無言で見せられているようなもの。
精密で完璧だけど、心が動かない。
私は、人間同士の試合が見たいのです。
私の文章も、AIではなく、人間の誰かに届けたい。
誰か(今この文章を読んでくださっている方)に向けて、
自分の言葉で書く。
それが、私にとっての“文章を書く”ということです。
きっとこれから、AIはますます“読み手”としての力を持つようになるでしょう。
AIにウケる文章を書けなければ、淘汰される時代が来るのかもしれません。
でも、私はAIにウケる文章より、
たった一人の“人間”に届く文章を書いていきたい。
読みにくくても、揺れていても、形にならなくても。
そこに宿る、うまく言えない思いを、私は信じていたいのです。
そして、国語力は「生き方」になる
「AIが文章を書いてくれるなら、自分で書かなくてもいい」
そう考える人がいるのは仕方がありません。
でも私は、こう思うのです。
自分で「書く」ことをやめたら、「考える」ことも鈍ってしまうのではないか、と。
なぜなら、文章を書くというのは、
思考を一つひとつ、言葉に変換していく作業だからです。
書いてみて、初めて気づく矛盾。
文章にしようとして、言葉に詰まる瞬間。
それらすべてが、「思考の深まり」なのだと思います。
AIが整えた文章は、とてもスマートです。
でも、自分の心にぴたりと寄り添ってくれるのは、
誰かが不器用に綴った、ちょっとぎこちない言葉だったりします。
私たちは、そんな言葉の温度を感じ取る力を持っています。
そして、自分もまた、誰かにとってそんな言葉を届けられる存在になれる。
そのために必要なのが、国語力――
すなわち、「言葉を通して、自分と世界をつなぐ力」です。
そしてその力は、読書によって耕され、
自分の言葉で書くことによって、ようやく「使える力」になるのです。
振り返ってみると、私の人生はずっと、
「国語力」という見えにくい力に支えられてきたように思います。
高校時代、「現国107点」を取ったことをきっかけに、
自分の考え方や感じ方に自信を持つことができました。
社会人になって、「国語力がすごい」と言われたことで、
忘れていた原点を思い出し、自分の強みを再認識することができました。
そして今、AIが文章をつくる時代にあっても、私は思います。
AIが普及すればするほど、
自分の言葉で、自分の考えを書く力が、ますます大事になる――
これからも、AIは猛威を振るい、暴風は強くなるでしょう。
それでも、私は、人間にしか伝わらない言葉を、自分の頭で考え、
自分の手で書き、人間の誰かに伝えていきたいのです。
そして、「国語力」という、目には見えないけれど確かな力を、
大切に育て続けていきたいと思っています。
それでも、私は、国語の力で、生きていく。
どんな時代になっても。
どんな社会になっても。
私はそう言える自分であり続けたいと思うのです。
<関連note>
たくさんのnoteの中から、私の記事を見つけて読んでいただき、
ありがとうございました。
「なんかいいかも」と感じていただけたら、
スキやフォローで合図を送ってもらえると、とても励みになります。
どうぞ、よろしくお願いします。
