「的を得る」の記事を直した話と誤用警察について

はじめに

全然関係ない話ですが、少し前のカラオケで、岡崎体育の『Fight on the Web』という掲示板上のレスバトルをする曲を知り、大変印象に残りました。

この曲では、「的を得る」という言葉に対して、「的を射る」が正しいと指摘され、調べたらどちらも正しいではないかと反論するシーンが存在します。

話をタイトルに戻しますと、「的を射る」「的を得る」論争は今でもSNSなどでよく目にします。Wiki形式のサイトでも度々編集合戦になっており、pixiv百科事典で誤りとする意見しか取り上げられず、不明瞭な出典など客観性の問題があったため、何日かかけて書き直しました

その時に調べて感じたのはやはり「言葉は、時代に合わせた変化と、伝統やルールのバランスで成り立っている」ということです。特に「かくあるべき」という意識も言葉の変化に関わっているのだと感じました。調査を行った上で心がけたことや感じたことなどをまとめます。


前提:「的を得る」はよくある誤用論争ではない

よくある誤用論争の論点は「本来とは異なる表現を認めて良いか正すべきか」ということです。例えば、「姑息」は本来「一時しのぎの」という意味でしたが、「卑怯な」という意味が一般的になりつつあります。

言葉は変化するものあるとはいえ、意味が変わってしまうとコミュニケーションが成立しません。そのため、伝わっているから問題ないとするだけでなく、時にはネジを締める必要があります。

しかしこの論争のもう一つの論点に「そもそも別にどちらでもよかったのに誤用の烙印を押されていないか」というものがあり、「的を得る」もこの1つです。この2つの論点は切り分けて考える必要があります。

「的を得る」はそもそも本来誤りという考え自体が間違っているのではないかという意見は2010年台ごろに現れます。

その中でも有名なのが、2013年に『三省堂国語辞典』第7版が改訂された際、「的を得る」が誤った表現であるという説明を削除したことです。

誤用が広まったから容認した、というわけではありません。「もともと誤りでなかった」と認めたのです。 「射る」は矢を当てることです。一方、「得る」には、「要領を得た説明」「時宜を得た処置」のように、うまく捉えるという意味があります。「的を得る」もこの意味、すなわち「急所をうまく捉える」と解釈して差し支えありません。

飯間浩明「「誤用」表現は本当に誤りなのか?」考える人(2015)より引用(2026/05/23閲覧)

しばしば「的」は矢で「射る」ものであるから「得る」とするのはおかしいと言われます。

しかし「活躍が注目の的となる」といったように「的」は比喩的に物体以外にも使われますし、「的外れ」など「物事の核心」という派生した意味があります。必ずしも「的」を文字通りの意味で解釈する必要はありません。

『三省堂国語辞典』の編集者である飯間氏は「的=急所」を「得る=うまく捉える」から「的を得る」も不自然な表現ではないと判断したのです。

1980年代まで、「的を得る」は、作家や日本語学者たちも当たり前に使う表現でした。それを「誤り」と最初に指摘した国語辞典は、ほかならぬ『三国』でした。

同コラムより引用

この判断は決して単なる言い訳や正当化ではなく、どちらも使われていた表現であるのに、みだりに「的を得る」と「誤り」と断じてしまったことに問題があると主張します。

飯間氏によるコーパス調査では「的を射た」「的を得た」は戦後に広く使われるようになった表現で、「的を射た」がやや遅れて使われるようになりました。

また、個人ブログではあるものの、あらゆる時代の文献調査を行ったサイトが存在します。そちらによると、『崩れゆく日本語』(1977年・重版)など1970年代に「的を得る」が「的を射る」と「当を得る」が混ざったものだから誤りであるという主張が見られます。

要するに、「的を射た」の方が「的を得た」よりやや昔の表現ではあるものの、実態や解釈の観点で、「的を得た」を取り立てて誤りと断じる必要はないと判断することができるのです。

もっとも、これで常識が覆ったわけではなく、他の辞書など「的を射た」が規範的とする慎重な立場は現在も存在することには注意が必要です。

pixiv百科事典の編集にあたって

pixiv百科事典の編集履歴を見ると、「的を得る」は誤用(というより誤訳である)という主張や、どちらでも良いといった主張が感情的な表現を用いて全面的に書き換えられることがありました。

詳細は省略しますが、編集前の版は1人でほぼ全て書かれたものであり、持論を交えた主張や、曖昧な出典の表現、特定のブログに誘導する内容が含まれているなど、客観性に欠けた内容が見られました。

私の全面的な書き換えも「編集合戦」に加担する危険性があります。また、私自身は記述主義寄り(ルールより言葉のありようを重んじる立場)であり、決して中立的ではありません。そのため以下の3点を意識して編集しました。

  • 歴史的経緯を示すこと

  • 蛇足にならない程度で典拠を示し批評可能にすること

  • 誤用派と容認派の意見を両方示すこと

pixiv百科事典の編集ガイド「編集合戦にもなったら」にもあるように大規模な修正は望ましくないため、既存の内容の問題点など、単なる反規範主義者による記事にならないよう注意しました。

「的を得る」と「重複(じゅうふく)」

歴史的経緯を調べて感じたのは、歴史的経緯を説明することと、正しい表現であることは別の議題であるということです。

「的を得る」は「重複」と同じ境遇にあると感じました。過去に「重複(ちょうふく/じゅうふく)」の読みについて数年にわたって文献調査を行ったり、漢字に関する論文・専門書を読み漁ったりしたことがあり、集大成となる長い記事を書きました。

「重複」自体も日本語や漢字の歴史を踏まえるとどちらも妥当な読み方であり、明治期にはどちらの読みも同程度に使われていましたが、大正以降「じゅうふく」が誤りと言われるようになりました。

かつて「ちょうふく」のみが正しいとしていたNHKが1994年に両方の読みを認めたのは、「じゅうふく」と読む人が増えたこと以外に、昔からどちらの読みも存在していた理由もあります。

つまり、「的を得る」と同じく、「どちらでも良くなった」と判断したのではなく「じゅうふく」が誤りと断じる必要がないと判断したのです。

しかし、現代ではどちらの読みでも良いと結論づけられなくなっていると私は考えています。

主張の妥当性はさておき「「じゅうふく」が間違い」という情報が広まっている現代では「じゅうふく」への抵抗感が大きくなり「ちょうふく」が多数派に転じているアンケート結果もあります。

「的を射る/的を得る」も似た境遇であり、文化庁の調査では2004年に「的を得る」が多数派であったのに対し、2013年の調査で「的を射る」が多数派に転じています。

このように伝統的な表現を知らずに言葉が変化することはしばしば論じされ問題視されますが、経緯や理由を知らずに正しい言葉を使うべきという規範意識が過度に強まることもこうした変化にくみしていると言えるでしょう。

ことばが世の中に流通するためには、ごく簡単な3つの条件が備わっていれば十分です。
①多くの人が使っていて、意思疎通の上で誤解を生むおそれが少ないこと。
②相手に失礼でないこと。
③一見不合理でも、意味または文法、音韻などの面から、何らかの説明が可能であること。

飯間浩明「「誤用」表現は本当に誤りなのか?」考える人(2015)より引用

飯間氏のコラムを再度引用すると、①は「的を得る」は誤りと思う人であっても「的を射る」のことを「的を得る」と言っていると理解している以上、意思疎通自体は成立しています。③も「急所をうまく捉える」の話から成立しています。

しかし、②に関しては「的を得る」を嫌っている人がいる以上、「相手に失礼」と感じさせる可能性があります。そのためpixiv百科事典では「いずれにせよ、長年「的を射る」が規範的と考えられ続け「的を得る」に対する誤用意識が現在も残っている現代では、間違いと断定できないが、使用には注意が必要である。」という結論にしました。

「的を射る」のみ正しいと考える人がどちらでも良いと受け入れる必要があるのと同じように、どちらでも良いと考える人も「的を射る」のみ正しいと考える人に合わせる必要があるのです。

しかし、私自身は安易な日本語マナーに否定的な立場です。だからといって、中立的を装って中途半端に相対化することも避ける必要がありますし、ましてや「言葉の真実を解き明かした!どちらでも良いと認めるべき!」などと主張するのは、それこそ価値観の押し付けになります。(実際、「重複」の記事も完璧な説明・真実ではないと自負していますし、全ての言語の変化に寛容になるべきとは思いません。)

否定的な立場であるからこそ、マナーの主張を批評的に見た上で、歴史的経緯を整理した上で批評可能な形で残すことに意義があると感じています。

「誤用警察」の問題点

誤用とされる表現を警察のように指摘する人を「誤用警察」と俗に言います。

もちろんこれまで述べたように、相手に伝わる表現を心がけるために、誤用を正す心持ち自体は大事です。ただ「警察」と形容されるように、他者の表現に目を光らせ取り締まる行為に問題があると考えます。

誤用の指摘をするためには、相手が本来の意味でない表現を用いていると理解する必要があります。例えば、「姑息」も「「一時しのぎ」から「卑怯」に意味が変化していること」前提を理解した上で「相手が「卑怯」の意味で「姑息」の単語を用いていること」を把握しないと、「その使い方は正しくない」と指摘できません。

さらにこうした情報は「Aという単語は本来BでありCではない」という単純かつ固定化された構造だけ把握すれば容易にできます。

SNSでは、「永遠と」や「せざるおえない」など「誤用」とされる定型句を検索し、その投稿にいいねやリプライすることで指摘する行為が容易に行えます。その上、「本来の表現・正しい表現」という言葉を笠に着て他者を断じることができます。

誤用を気にしたりコミュニケーションの目的で時には指摘したりすること自体は否定しません。しかし、特定の表現のみが正しいという固定観念に囚われたり、他者を指摘して自分が知識面で優位であること示したりすることが問題であると言えるでしょう。いくら乱れた表現とは思っても、特定の表現だけ拘泥するのは却ってコミュニケーションの阻害の原因となりえます。

要するに言葉を重んじる姿勢は大切ですが、その問題をすり替えて他者にマウントを取る目的にしてはいけないということです。まさに『Fight on the Web』の歌詞を借りれば「インターネットで喧嘩すんな」という話です。

もちろん、誤用警察に反論する立場にも同じことが言えます。冒頭の『Fight on the Web』のPVのように、「「的を射る」のみが正しいという考えは誤りで「的を得る」も歴史的に正しい表現」という話を知れば、「的を得る警察」に反論できます。

私自身のこれまでの記事を振り返ると、世間のマナーに反論する快感を目的に書いている節は否定できません。今回「的を得る」の記事を編集する際、批評可能に論じるという必要性を意識したことで、自分の記事で反省すべき点だと感じました。

「的を得る」は誤訳説(?)について

「誤用」という言葉の意味は「使い方を間違える」ことであり、「的を得るは誤用ですらない」と言えよう。

なぜ間違いかというと「『的を射る』と『当を得る』の混同」ではなく、「外国語の誤訳」だからである。

pixiv百科事典「的を得る」(2025/07/05 08:43版)より引用

さて、pixiv百科事典の編集前の内容は「正鵠を失わず」自体が"誤訳"であるから、「正鵠を得る」や「的を得る」を避けるべきという主張であり、『三省堂国語辞典』を絶対視してはいけないと警鐘を鳴らすものでした。

こうした主張は2010年代に、同じような言葉遣いでさまざまなプラットフォームで編集・投稿されているものです。編集合戦を避ける目的でも、相手の主張を一蹴せず、元の版や似たような内容を書いている下記のサイトに目を通してから書きました。

まず、飯間氏を含め『三省堂国語辞典』の誤用を撤回したから「どちらでも良い」と全て解決したと、この動向を絶対視してはいけないことは同意します。繰り返しますが、言語の歴史的経緯を明らかにすることと、適切な表現を探ることは別の問題だからです。

日高水穂の「言語変化を抑制する誤用意識」(2009)の寄稿記事でも「ら抜き言葉」などを例に誤用意識も言語変化に関わっていることを主張していますし、実際文化庁の調査結果を見ると「的を得る」も2013年に「的を射る」が多数派に転じた結果が出ています。

歴史的にはどちらでも良いと分かったところで、今日の言語運用でどちらも認めるべきと結論づけてはいけません。こうした話はカクヨムで主張している「ヒュームのギロチン」つまり、事実からかくあるべきと主張してはいけないこととも接続します。

しかし、それは「正鵠を得る」「的を得る」が誤訳であるから、「誤用ですらない」と一蹴し規範化させている元の版の主張でも同じことが言えます。

どちらが正しいと安易に白黒つけるのは難しいですが、上記のカクヨムや百科事典の元の版では、とあるブログではこう主張されている、否定する専門家がいるといった曖昧な表現が多く、飯間氏の主張や文献調査を行ったはてなブログと比較すると論理的に見えて結局、その判断根拠が「中正鵠」の用例の存在と「失(それる)」を「失う」と訳すのは不適当という判断に基づき、残りは参考文献に丸投げされている以上論述として不十分と言わざるをえないでしょう。

疑似科学を論じる際、科学否定論者の五つの論証戦略が知られています。

①チェリーピッキング(cherry picking)
②陰謀論(conspiracy theory)
③偽の専門家(fake experts)
④論理的誤謬(logical fallacies)
⑤不可能な要求(impossible expectations)

松村一志「「科学否定論」と五つの論証戦略 : 線引き問題からのアプローチ」(2023)より引用

これは以下のブログから広く言われるものとされています。

もちろん、誤訳説が完全な疑似科学と言いたいわけではありませんし、価値のある視点です。

しかし、この主張を読む限りでは、「②陰謀論」は無関係であるにしても、良い用例だけを選択する「①チェリーピッキング」、飯間氏の意見に否定する専門家がいるように扱う(が典拠不明である)「③偽の専門家」、先ほどのように「ヒュームのギロチン」を自身の主張にも適用してしまっている「④論理的誤謬」、反例を挙げたところで完全に証明したことになっていないことや(根拠不明に)和製漢語と断じる「⑤不可能な要求」など科学性に欠けていると言えるでしょう。


とはいえ、こうした主張を完全に削除するのは不当な削除に見え、編集合戦になる懸念があります。

そのため相手の主張の骨子を残しつつ、反例や実例を挙げるようにしたことや、『三省堂国語辞典』も一見解にすぎないことも記載したこと、こうした原義主義的な話は実際の日本語運用とは別問題であるから切り離すことを意識して、批評可能になるよう編集しました。

実例などに関しては飯間氏の調査結果や先ほどのはてなブログ、こちらの方の文献調査を参考にさせていただいています。

それらに加え、「国立国会デジタルコレクション」や北京大学のCCLという中国語の古典漢籍を調べられるコーパスも用いて、単なる孫引きにならないよう気をつけています。(「正鵠ニ中ル」や「正鵠ヲ失ス」などはその調査で付け加えています)

余談

本論から逸れるため割愛しましたが興味深かったことだけ一つ。

「正鵠」を中国の辞書でも調べても「的の中心」や転じて「目標」と言った意味しか掲載されておらず、日本語同様に「物事の要点」のような意味で使われていたのか確認をとりました。

note記事で挙げられている『元宮詞百章牋注』の「最得正鵠」がその比喩的な一例ですが、「中正鵠」でもそのような意味は少数ながらあったようです。

公以所得于丹溪者,觸而伸之,類而比之,研精覃思,明體適用,宜其遇病施治,若矢發機,必中正鵠。

『國朝獻徵錄』巻之七十八「太醫院」より引用

上の書籍は『明文衡』にも記載があり、明代(15世紀)に書かれたと思われる文章です。治療の的確さを称えた一文で矢が機械から放たれるように(若矢發機)、必ず的の真ん中に当たる様(必中正鵠)で例えられています。このように中国でも「中正鵠」が本質を突くといった意味に派生していたことが示唆されます。

吏隱不求貴,親老不擇祿。之子有俊才,弱冠中正鵠。弗墜先人業,何慚有道穀。一命佐碭山,枳棘聊容足。再命宰嘉興,絲桐幾易俗。

王禹偁『送朱九齡』より引用

この北宋の送別詩では、「中正鵠」を科挙での合格として使われています。(先人の業を堕とさなかったことや碭山とうざんたすけるなど官僚としての歩みについて書かれています。)

「正鵠」が物事の要点と比喩されること自体も中国語にもあったのではないかと思われます。



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