失正鵠記

「的を得る」を誤用としたのは、辞書としては1982年の『三省堂国語辞典』第3版が最初だそうですが、2013年の改訂第7版では、その誤用説が撤回されました。遅きに失したとはいえ英断だと思ったことを覚えています。ちなみに時事通信社は1981年の『記事スタイルブック:記者のための新用字用語集』で

「的を得た」は「的を射た」の誤用であるというのが、新聞界の考え方であったが、そのことは必ずしも当を得ていないということになった。「的を射た」を優先するが、外部原稿などの場合、「的を得た」については従来のようにやみくもに直さない。

と見識を示していますが、衆寡敵せずで誤用説が猖獗を極めることになったのは残念です。時事通信社は2012年の関西地区用語懇談会におけるアンケートでも「的を得る」について「直す場合と直さない場合がある、多くの人が使っている現実は無視できない」と回答しているそうです。

 しかし、何に対する忠義立てか、いまだに「的を得るは認められぬ」と頑張る人がたくさんいます。そして、それらの人たちが明確な根拠を示すことは一切ありません。
「的を得る」の用例には、古くは山本格安の『尾張方言』(1748年)に「我国先輩華名に訳す多くは其的を得ず」があり、やや下って曲亭馬琴『朝夷巡嶋記』中輯第四編(1821年)に「射て落さんと思ふものも。弓をひくに的を得ず」があります。明治に入ってからなら

師曰幾年覃思焦神スト雖トモ未タ其的ヲ得ス(浅田栗園「老医口訣」、和漢医林新誌 第67号所載、1885年)

苟も其的ヲ得バ万矢皆廃ス(澤井洵「眞理ノ花ニ月ニ遊バンカ」、反省会雑誌 第1号所載、1887年)

故に後世その的を得る者少なく(大内青巒「病間剰語」第二草、『仏教大家論集』第9輯所収、1894年)

空砲の如きに過ぎず、否当的を得ざるなり(本郷栄蔵『人能可賀美』下巻、1898年)

尚一歩進んで前より一層小なる的を得んと欲するが之れぞ即ち理想なり(中川寒碧「目的、希望、理想の区別と必要を論ず」、中学文壇 第9年16号所載、1907年)

など多くの用例が容易に見つかり、今日にいたるまで(誤用とされたあとも)使われています。なおそれらの用例には「核心を衝く」「要点を得る」という意味だけでなく「達成する」「射て当てる」の意味で使われているものも含まれますが、「的は射るもの、得るではおかしい」とコロケーション自体を否定する説への反証なので構いません。
 一方「的を射る」の、矢を放つ以外の意味での用例は、『俚諺辞典』(熊代彦太郎、1906年)の「的を射た。言能く其事をいひ當てたるをいふ。所謂正鵠を得たる義なり」が、現在見つけられる最も古いものでしょうか。本の標題に「俚諺」とあるので俗な表現ということになりますが、ある程度広く用いられていたのでしょう。

 この俚諺について、江戸時代の矢場あたりから出たのではないか、と思いつき、古川柳に当たってみると

土弓場も美しいのを的に置き
土弓場の娘をちやらで射て落し
小当りの的になつてる矢場娘
ほれたのをチヨイト矢先に掛けて見る
土弓場の小町穴目を狙われる
土弓場の与一官女の尻を射る
それはづれましたと矢場の娘あて
土弓場へ今日も太鼓を打ちに行き

などの柳句を得ましたが、肝腎な「的を射る」は見つからず。
 せっかくですから少し解説しましょう。大方は平易な句ですが、2句目の「ちゃら」はちゃらっぽこの約言で「いいかげんなでまかせ」のこと。6句目は、矢場の客を那須与一に、矢場女を玉虫の前に見立てたもの。7句目は「初心者が矢をつがえようとして弓の弦からはずれてしまった、その矢を矢場娘があてがってくれる」というのが表の句意で、裏はおそらくご想像の通り。最後の句の「太鼓」は太鼓結びの帯、すなわち「矢場女を射止めに行く」の掛け言葉……どう考えても矢場から出た俚諺だとしたら、もっと別の意味になりそうで、あてがってくれる者とてない「それはずれました」ですね。

 はい、贅言むだごとを申しました。話をもとに戻します。「的を射る」は俚諺とされるだけあって出版物での用例は「得る」に比べて多くはありません。「射る」の用例が増えてくるのは戦後です。
 次に、似た表現の「――を・得る/射る」について、それぞれ初出と思われるものを並べみるとおもしろいことに気がつきます。

初めて正風の真的を得られけるにや、まさに此脇あり(石兮『芭蕉翁附合集評註』、1815年)
それは小細工を弄せずして真的を射落したのである(千々和實「建武中興と新田氏族」、上毛及上毛人 第204号所載、1934年)

他の星を実測するごとく線に懸るを待て其正的を得て之を共に発するにはあらず(間重新による水星観測の記録、1837年)
志願者必各自の正的を射るへし(広沢真臣の日記、1870年)

後人は之さへ研究すれば鵠的を得べし(久米易堂「平仄法は唐詩に考ふべし」作詞作文之友 第10号所載、1899年)
其時代の空気なり、要求なりを咬み分けて、鵠的を射たといふやうな剴切な事を云つたものだと、(柳田友麿「炭坑管理法の骨子」、日本工業会誌 第509号所載、1927年)

 いずれの場合も「――を得る」のほうが古くかつ多いのは「的」「正鵠」の場合と同じです(ただし「金的」は明治初期から「得る」「射る」共に弓道関連で多い、煩を避けて省略しました)。もしかしたら俗間に言われているのとは逆に、「的を得る」から「的を射る」が派生したのではないか、だからこそ「的を射る」は俚諺とされたのではないか、という気もしてきます。

「正鵠を得る」については、これを誤用とする人は多くはありませんが、「「正鵠を射る」であって得るではない」(村石利夫『日本語の誤典』、1977年)式の説を唱える人は今でもいます。また「不失正鵠」にインスパイアされて明治期の日本で「正鵠を得る」といわれるようになったとの俗説も明らかな誤りで、中国から伝来した表現です。
 日本での古い用例としては、18世紀中葉に漢文で書かれた『不能語荒田随筆』(指月慧印)および『往生論註正義叙説』(雲洞撰)に「得正鵠」が見え、明治以降の文献では枚挙にいとまがありません。
 一方「正鵠を射る」の古い用例としては “Information for the People” を翻訳したうちの一冊『百科全書 百工応用化学篇』(牧山耕平訳、1873年)に「毫毛モ燼ヲ残サス是ヲ以テ再度ヒ正鵠ヲ射ルニ障害ナシ」が見えますが、戦前での用例は非常に少なく、目に見えて増えてくるのは1960年代以降。「「正鵠を射る」と言う人が増えたのは、「的を射る」と考え合わせると、面白い現象だが、これは新しい言い方」(『日本語の勘どころ』、1978年)という大野透の実感は当たっています。

 この表現の生まれ故郷中国での用例はどうでしょうか。古いものは朱有燉(1379~1439年)の『元宮詞百章牋注』に「王師儒所謂行在之義、最得正鵠」(王師儒による「行在」の解釈は最も正確である)が、だいぶ下って清代には厳復(1854~1921)の「譬彼射者得正鵠、稍嫌力薄愁官笴」(的を射抜いたにもかかかわらず、力の弱い官製の弓を心配する射手のようだ)があり、現代でも

前現代幾千年間、人們対良善社会的探索未得正鵠(「向善而行為何如此艱難?」張緒山、2016年)[現代までの数千年にわたる、人々による善き社会の探究は、まだその目的を達成していません]

旧解較為勉強、未得正鵠(『文字・文献・文明』所収「“葉書”与“諜記”」陳侃理、2019年)[この古い解釈は、どちらかといえば無理があり、正しい意味を欠いています]

可以得出無数貌似合理的解答、但難得正鵠(『精華大学科学史系2024年年鑑』)[一見理にかなっているような答えは無数にありますが、核心を突いた物はなかなかありません]

※和文は拙訳

などが、ちょっと調べただけで見つかります。しかし「射正鵠」の用例は見当たらず「中正鵠」ならばある。どうしても「射」を使いたければ、白楽天の「射中正鵠賦」(射テ正鵠ニアツルノ賦)のように連動文(日本語の複文)にするしかないようです。
 この「射中正鵠」を根拠に「正鵠は射るものだ」と主張する人もいますが、それはあまりに的外れです。これは(中国では)射ただけでは命中を意味しないことを示すものです。
 また「得正鵠」は日本語からの逆輸入だとする説を何年か前から目にするようになりました。何を根拠に言っているのか知りませんが、的外れの説だと断言していいでしょう。

 ついでに「正鵠を得る」と似た意味の「肯綮にあたる」についても調べてみました。料理人ほうていが魏王文恵君の前で牛を解体した際、肯(骨についた肉)と綮(筋と肉とを結ぶ箇所)を正確に見極めて解体した故事から「急所を衝く。物事の要点や核心、本質を正しく把握する」を意味する言葉で出典は『荘子:養生主』。成語としては「中肯綮」ですが、「得」を使用する例はあるのでしょうか。

程鵬起氾海求援、固属説夢、即于公譏詆、亦未得肯綮。(沈徳符 編『万暦野獲編』、1606年)[程鵬が助けを求めて海を渡ったという話は単なる空想に過ぎず、彼の告発にも十分な裏付けはなかった]

得肯綮、故必此輩以賛相之、然后可従而羅織也、(陳子龍ほか 編『皇明経世文編』、1638年)[まだ肝腎な証拠は見つかっていません。だからこそ、彼らの協力を得て初めて、彼らを捕らえることができるのです]

用事患不得肯綮得肯綮則一篇之中八句皆用、一句之中二事串用、亦何不可。(胡震亨 撰『唐音癸簽』、明代、成立年未詳)[心配なのは、要点が定まらないことです。要点さえ定まれば、一つの文章に八句のすべてが使えます。一つの文に二つのことを入れても問題ありません]

※和文は拙訳

 ありました。実は『漢語大詞典』で「得」を引くと20以上も並んだ語義の中に「中。撃中。」(当たる。正しい標的に命中する。)とあるので何の不思議もありません。したがって吉田松陰が「凡そ書は肯綮を得るを貴ぶ。肯綮を得ずして雑博なれば、本意益々暗む者なり」(『講孟箚記』、1855年)と書いているからといって「故事成語も知らんのか」と馬鹿にするのはお門違いなのです。
 中(当)→得と変化した例は日本語にもあり、「その上今の相国は時に当たる職に達し、世に聞こえたる才幹なり」(『太平記』)の「時に当たる」と同じ意味のことを現代では「時を得る」と言い、昔は「意に中る」と言っていたことを今では「わが意を得る」などと言います。
 どうでしょうか。(的ニ)中ル→(的ヲ)得ル→(的ヲ)射ル、の順に派生または変化したのではないかという思いつきは、そんなに的を外していない気がしてきませんか。
 おそらく「的を得る」が誤用とされるようになったのは、人々から漢学の素養が失われたため、というのが正鵠に近いのです。

 それでは「的を射る」「正鵠を射る」こそが誤用なのかというと、そうではありません。すでに定着し普遍化している言葉を誤用とするのは保守的と言うより反動的ですし、日本語の「射る」には、それだけで「射て当てる」の意味もあることは那須与一の時代から常識です。つまり、どちらでもお好み次第でよい。通じないということは、まずないのですから。
 個人のナイーブな語感のみに基づいて正誤を決めつけるのは、ましてその誤用説を、もっぱら気に入らない言説や個人を攻撃するために振り舞わすのは、正に正鵠を失していると言うべきです。

 ところで「正鵠」を「誠実さや高潔な性格、道徳的な性格」といった意味で使う慣用表現が中国にはあります。孔子が弟子の子路から君子の道について尋ねられた際に「君子之道、正鵠而已矣」(君子の道は正鵠のみ――「正」は正しく清廉なこと、「鵠」は白鳥で高貴さの象徴)と答えた故事に由来しますが、この表現が日本で定着しなかったのは少々残念なことです。「あなたは正鵠な人ですね」などと言ってみたい人生だった。そんな相手もないけれど。

【追記】
本論から外れるので引用しませんでしたが、「的を射る」の用例を探しているときに、文覚上人から源頼家への書簡(1200年)を見つけました。

(略)またく人のするとがにてはなし、我身のおさまらぬ故にと、ふかくおぼしめせ。武家のまつりごとの道は如何いかさまにと物しりて候ひし人に問ひ候しかば、世にやすしとて、ただ一口にこたへしは、的を射るに似たりと申候也。これを御心得候へ。(中略)物しりたる人の本文を引て申し候しを承れば、君のため世のため(下略)

とあり、「人のする科にてはなし、我身のおさまらぬ故」は「失諸正鵠、反求諸其身」、「的を射るに似たり」は「射有似乎君子」、そして「物しりたる人」とは孔子、つまり『中庸』を踏まえていることがわかります。

【註】
中文に付した拙訳では複数の中国語辞書やツールを援用しましたが誤りもありましょう、あくまでも参考として。

【参考】

「的を得る」という言い方も慣用的に使われるようになっていますが、「的を射る」が本来の言い方です。放送では「的を射る」を使っています。(豊島秀雄)

「的」は「射る」?「得る」?
(NHK放送文化研究所「放送現場の疑問・視聴者の疑問」、2003.06.01)

「的を得る」は「正鵠を得る」から生じた言い方で、「正鵠」は的の中心なのだから、その部分が「的」に変わってもあながち間違いとは言い切れない気がする。(神永 曉)

的を射てはいないかもしれない「的を得る」の話
「日本語、どうでしょう?」第8回、2010.05.21)

「◆的を得る」は「的を射る」の誤り、と従来書いていたけれど、撤回し、おわび申し上げます。(飯間浩明)

@IIMA_Hiroaki (『三省堂国語辞典』編纂者・飯間浩明氏のツイート、2013.12.15)

TBSでは「的を得る」も認める方向だそうですが、全体的には、
×「的を得る」→○「的を射る」
の流れは変わらないようです。(道浦俊彦)

「『的を得る』か?『的を射る』か?」
(道浦俊彦TIME「新・ことば事情」2018年2月16日)

本来の正しい表現は「的を射る」です。「弓で放った矢が的に命中する」というのが元になっているので「射る」なのです。(高橋亜理香)

「的を得る」?「的を射る」?
日本語教師が教える!教養のための「要注意」表現3選
(YAHOO!ニュース、2024.07.28)

ビジネス文書や公式の場面では「的を射る」のほうが伝統的・正統的とみなされることが少なくありません。

「的を得る」と「的を射る」正しいのは?
正しい使い方と類義語・言い換え表現を徹底解説
(「Forbes JAPAN Tips」2025.03.15)

「正鵠を得た」は、「的を得た」と同様、あり得ない表現。(後藤秋正)

現代言葉遣い小考 (三):国語を教える者の自戒のために
(『札幌国語研究』第3号所載、1998年)

「正鵠を得る」については、長い間誤用とされていましたが、最近ではどちらも正しい用法だと認識されています。

「正鵠」の使い方や意味、例文や類義語を徹底解説!
(言葉の手帳「よく間違えて使われる言葉」2021.06.06)

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