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感想「遠い山なみの光」戦後80年経っても「変われない」私たちに捧ぐ

「遠い山なみの光」を観てきました。
この映画を観終えた直後、隣席のご婦人二人が開口一番こう話していました。

「謎がいっぱい残ったわ!」
「最後に人が変わってたけどアレなに?」
「原作読んだらわかるんかな?」

本作は『過去の自分を思い出しながら語る』という形式をとっているため、「語られる内容」と「現実」との間に食い違いが生じます。所謂、「信頼できない語り手」系の叙述形式に類する作品で、観客は本編で「語られる内容」の隙間を埋め、解釈を試みる必要がある映画なのです。

だからこそ、「実はこうでした」と明示されない以上、理解しきれない観客が出るのも無理はありません。

そこで本感想では、展開の解釈には深入りせず、私が強く印象に残ったシーンと、そこから私が受け取ったメッセージに絞って書きたいと思います。

────以下ネタバレ────
























原爆被害を描いた映画として「広島」を舞台にした作品は多いものの、「長崎」を舞台にした作品は少ない。本作はその稀少な映画の一本です。

広瀬すず演じる主人公・悦子が、自分の教え子たちを原爆で失った記憶をフラッシュバックし『私が救えなかったんです!』と繰り返し、号泣する場面は圧巻でした。一見平穏を取り戻しているかに見える彼女の内面に、戦後5年を経てもなお消えぬ戦争の爪痕が刻まれていることを観客に突きつけてきます。

悦子の夫・二郎の父、誠二(三浦友和)は一見温厚な人物ですが、かつての教え子から戦中の軍国教育を否定されると『私たちの努力は認めないのか!』と逆上。自らの過ちを直視できず、保身に必死になる姿は哀れで、戦時中の教育者像を浮かび上がらせます。

三浦友和の演技には、令和の今なお過去の加害性に向き合えない「普通の日本人」の姿が重なりました。

また、悦子の友人・佐知子(二階堂ふみ)が、子どもが可愛がっていた子猫を川に沈める場面は、彼女の狂気に戦慄しました。
常に「娘のため」と言いながら虐待に近い行為を正当化する彼女の行動原理を端的に表しているシーンたと思います。

しかし同時に彼女は折り合いの悪い親類との同居を拒み、川辺の掘っ立て小屋に娘を連れて生活しています。佐知子の家族感は「火垂るの墓」の清太のあり方とも重なる、戦前の「血族主義」と戦後の「個人主義」との相克が現れていたと思います。

そして物語の中で『私たちも変わらないと』という言葉がシチュエーションを変えて2度繰り返されます。

それは他者への呼びかけというより、自分に言い聞かせるような響きでした。過去の自分を否定し、新しい価値観を受け入れることは痛みを伴う──しかし、言い聞かせ続けなければ人は古い考えに絡め取られてしまう。
その苦しみと希望を同時に抱いた言葉に、作者の強いメッセージを感じました。

「差別」「戦争観」「家父長主義」「ジェンダー感」…。変化に抵抗する動きが再び活発化している今だからこそ、「遠い山なみの光」は単なる「戦後劇」ではなく、現代を生きる私たちに「変化の痛みをどう受け入れるのか」を迫る作品になっていたと私は思います。


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