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感想『万事快調 オール・グリーンズ』「走る少女」に私たちはなぜ感動してしまうのか

会社帰りに映画館へ向かったものの、すでにほとんどの作品が最終上映に入っており、唯一観ることができたのが、当初まったく観る予定に入っていなかった『万事快調 オール・グリーンズ』でした。

結論から言うと、想像していた以上に攻めた作品で、思わぬ拾い物に出会ったような感覚がありました。

一見すると甘くポップなガーリームービー調のビジュアルですが、その中身は、日本社会が抱える問題をテンポよく、毒っ気たっぷりに描き出しています。どこか日本版『トレインスポッティング』を思わせる切れ味もあり、「日本の青春映画も、ここまで尖ったことができるのだな」と感心させられました。

一方で、個人的にはどうしても飲み込みづらい部分が残ったのも事実です。
以下では、本作の良かった点と、最後まで引っかかり続けた点を整理して書いてみたいと思います。

解説・あらすじ

ラッパーを夢見ながらも、学校にも家にも居場所を見いだせずにいる朴秀美。陸上部のエースで社交的、スクールカースト上位に属しながらも家庭に問題を抱える映画好きの矢口美流紅。大好きな漫画を自己形成の拠り所としている、斜に構えた毒舌キャラ・岩隈真子。未来の見えない田舎町で、欝々とした日々を送る3人の高校生は、自分たちの夢をかなえ、この町を抜け出すためには一獲千金を狙うしかないと考え、同好会「オール・グリーンズ」を結成。ある禁断の課外活動を始めるが……。

2026年製作/119分/PG12/日本
配給:カルチュア・パブリッシャーズ
劇場公開日:2026年1月16日

映画.comから引用

文庫本を思わせる装丁のパンフレット(中がちゃんとくり抜いてある)は拘りを感じる良品

ーーーーここからネタバレーーーー










■「積んでる人生」のリアリティ

閉塞感のある田舎、スクールカースト、女性差別、機能不全家族、DV、不登校、性的マイノリティ。

本作は、日本社会が抱える問題を数多く描いています。それにもかかわらず、語り口は湿っぽくなりすぎることなく、テンポよく、エンターテインメントとして軽快に描かれている点が、まず印象的でした。

舞台は茨城県東海村。工業高校に通う三人の女子高生が、「このままでは未来が見えない」と感じ、大麻栽培で一攫千金を狙い、この町からの脱出を図ります。

一見すると荒唐無稽でマンガのような設定ですが、評価したいのは舞台設定の強度です。原子力発電所を抱え、かつては国家プロジェクトの末端に組み込まれていた町。しかし現在は閉塞感だけが残り、若者が将来の夢を描けない場所として描かれています。

日本の青春映画の中で、「ここにいても先はない」という地方都市に住む女の子たちの絶望感を、ここまで露骨に描いた作品は、あまり記憶にありません。その点において、本作はとてもフレッシュで、誠実だと感じました。

主人公である朴秀美(南沙良)や矢口美流紅(出口夏希)たちは、いわゆる「イイ子」ではありません。
タバコを吸い、ストロング缶をあおり、駅前にたむろする、いわゆる「不良少女」として描かれています。しかし、こうした描写も単なる記号ではなく、壊れた家族関係の延長として自然に配置されており、地方の鬱屈と若さの行き場のなさが、実感を持ってに伝わってきました。


■『侍女の物語』が示すもの

本作が描こうとしているテーマは、かなり明確です。
主人公・朴秀美が読んでいた小説が『侍女の物語』であることが、その象徴だと思います。

すべての女性が国家によって自由と財産を奪われ、出産のためだけに生存を許される世界を描いたSF小説。
この描写が示しているのは、この作品が家父長制に押しつぶされ、土地に縛られ、生きながら死んでいく地方女性たちの「メーデー」、すなわち反抗の物語であるはずだ、ということです。

それ決定づけるのが、物語序盤の衝撃的な場面です。
主人公たち三人が出会う交差点で、DVから逃げてきた”赤ん坊を抱えた女性”が車にひき逃げされ、そのまま無残に亡くなってしまう。

それを目撃した秀美たちは「これは未来の自分だ」と直感し、この村からの脱出を決意する展開は、彼女たちの絶望の深さを強烈に突きつけてきます。

秀美の家庭は、父親がDV加害者で、弟は引きこもり。
父親の暴力は日常的で、母親は無力なまま、それを受け入れて生きています。そんな家庭に居場所のない秀美にとって、駅前で仲間とフリースタイルラップに興じている時間だけが、「生きている実感」を得られる瞬間でした。

しかし、尊敬していた先輩ラッパーから睡眠レイプされそうになるなど、その逃げ場ですら安全ではないことが示されます。

作中で秀美が語る将来像――
「イオンで働いて」「イオンで男と出会って」「イオン婚して」「子どもを産んで」「RV車を買って、休日は家族でイオンに行く」。
それしか人生の選択肢がないという夢のなさは、若者向けの青春映画としては異様なほど苦いものでした。この社会問題意識の鋭さは、評価したい点です。

三人が友情や夢といったキラキラした動機ではなく、きわめて打算的に「金」のために手を組む展開も印象的でした。
モラルに反した行為に手を染めることへの罪悪感のなさ、そしてその犯罪行為が生む被害者に対する、彼女らの想像力の欠如には、「自己責任」で切り捨てられてきた若者たちの、現実的な感覚が反映されているように感じられました。


■燃やされた金と、燃やされた希望

主人公の1人、矢口美流紅(やぐちみるく)のエピソードは、その構造を最も残酷な形で示しています。
苦労して稼いだ金を、母親にコンロで燃やされてしまう。
自分の人生を変えるはずだった資金が、家族という名のシステムによって否定され、焼却される。その慟哭は、本作でもっとも痛切な瞬間でした。

ここでは女性が経済的にも精神的にも自立することの難しさは、はっきりと描かれています。

一方で、彼女達が「地方の主婦」として生き続けるかのような、フェイクエピローグを否定する美流紅の叫びは、最低限の希望を観客に残してくれます。後味が極端に悪くならない「エンタメ」としての良心でしょう。


■誰のための物語なのか

ここからは、私の本作に対する違和感です。

私は、女の子が主人公の映画を観ると、たいていその姿を自分の娘を重ねて見てしまいます。そして、多少危なっかしくても、「幸せでいてほしい」「応援したい」という感情が、自然と湧いてくるものです。

しかし本作では、その感情がほとんど湧きませんでした。
なぜなら、彼女たちの内面が、あまりにも自分と同じ――つまり、おっさんの価値観に感じられたからです。

作中の女子高生たちはサブカル趣味を持ち、『太陽を盗んだ男』や『ザ・オールド・イズ・マイン』、ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』を愛読し、しかもこの年頃なのに、恋愛感情がほとんど描かれません。
正直に言えば、「この少女たちの中身、町山智浩では?」という感覚が拭えませんでした。

彼女たちの内面は、リアルな地方女子高生というよりも、「おっさんが安心して感情移入できる人格」に寄せられているように見えます。
見た目は美少女、中身は映画秘宝系おじさんという印象。

ここで素直に疑問に思ったのは、この映画を作り手が、誰に届けたいと思って作ったのか、という点です。

主人公たちが男性であれば、ここまでの居心地の悪さは感じなかったかもしれません。しかし女子高生という設定にすることで、「おじさんの欲望や価値観を若い女性の身体に仮託している」ようにも見えてしまいます。

とりわけ、同性愛の先輩カップルの描かれ方には強い違和感を覚えました。
彼らはどうしても「笑い者」として配置されているように見え、ここまで現代的な問題を取り上げておきながら、令和の今にあの描写はないのではないかと、作り手のホモソーシャル的な倫理観を疑ってしまいました。


■この物語は、誰の希望になりうるのか

そして、終盤では、ビニールハウスに火が放たれ、秀美が決定的な殺人に至ったかのように見せた直後、ラッパー先輩がドリフのコントのように顔を真っ黒にしてよろめき出てくる場面が描かれます。
また、卒業式に大麻の煙が流れ込み、一転してトリップ・パーティーになるシーン、そしてラストで秀美が「走る」ことで物語を突き抜けていく構図も印象的です。

そこには、細田守や新海誠作品にも通じる、「走っている少女を観る快感」としてのカタルシスが用意されています。
前半で描かれてきた深刻な現実が、ここまで軽やかに、ポップなお笑いに、処理されていることに戸惑いを覚えつつも、やはり感じたのは、これもまた

「安全圏から、おっさんが気持ちよくなるための接待演出」

ではないか、という疑念でした。

『万事快調 オール・グリーンズ』は面白い作品でした。
ただ、この作品を素直に「良い映画」だと肯定してよいのか、あるいは深刻な女性の問題を、結果的に中高年男性の快感のために消費してしまっている映画として批判すべきなのか、最後まで悩みました。


■「走る少女」に、なぜ感動してしまうのか

「少女が走る」というイメージは、観る側にとって分かりやすい「突破」の象徴です。閉塞した状況、言葉にならない苦しさ、逃げ場のなさ――それらを、理屈ではなく身体の動きで振り切っていく。その姿を見ている私たちは、知らず知らずのうちに、彼女の疾走を自分自身のものとして“代理体験”しているのではないかと考えてしまいました。

とりわけ中高年の男性観客にとって、その疾走は、自分がかつて走れなかった時間、自分が飲み込んできた諦めや妥協を、代わりに引き受けてくれる行為にも見えます。
少女はまだ折れていない。まだ走れる。だからこそ、観ている側は「救われた」ような感覚を覚える。その救済は、彼女自身というより、むしろ観客の側に強く作用しているようにも思えるのです。

さらに言えば、少女の疾走は「守るべき存在」「未来の象徴」としてのイメージを強く喚起します。
無意識のうちに、観客は自分を“応援する側”“理解している側”“善い位置”に置くことができる。その自己肯定感まで含めて、このラストの気持ちよさは成立しているのではないでしょうか。

だからこそ、私はこのカタルシスに、どこか居心地の悪さを覚えました。
この走りで、いちばん救われているのは誰なのか。
少女本人なのか、それとも彼女の走りを見て胸を熱くしている私たち観客なのか。

もしこの疾走が、現実に地方で燻り続けている少女たちの視界を、ほんの少しでも開くものになっているなら、そこには確かな意味があると思います。

しかし一方で、この走りが、観る側――とりわけ「もう走らなくていい立場」にいる大人たちが、気持ちよく感動するための出口として機能しているだけだとしたら、その感動はあまりにも一方的です。

「気持ちいい」という感情が湧くこと自体は自然です。
ただ、その気持ちよさが、誰のために用意されたものなのか。
その問いを引き受けずに、このラストを無邪気に称賛することは、私にはできませんでした。

実際に地方で行き場を見つけられず、秀美や美流紅のように燻りながら日々を過ごしている少女たちは、この物語をどのように受け止めるのでしょう。

彼女の疾走は、どこにたどり着くのでしょう…


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