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感想『ふつうの子ども』今、思い出しても腹が立つ

正月休みに、娘と一緒に何か観られる映画はないかなと考え、去年話題になっていたものの、これまで観る機会がなかった、呉美保監督の『ふつうの子ども』を観ることにしました。

タイトルが、あえて「ふつう」と名乗っていることが、かえって不穏な感じがして、もしかすると『禁じられた遊び』や『白いリボン』、『さよなら、僕らの夏』のように、子どもたちの純粋さが失われていく、ダークな寓話的作品なのではないか――そんな想像もしたのですが、実際に観はじめてみると、カラッと晴れ上がった青空のイメージが印象的な、どこにでもありそうな「ふつうの日常」と、そこに紛れ込む少しだけ「ふつうではない非日常」を描いた映画でした。
 
以下、親子で観たこの映画の感想を書いてみたいと思います。


ーーーーここからネタバレーーーー








■10歳という年齢のリアリティと違和感

物語の中心にいるのは、10歳の小学4年生である唯士、心愛、陽斗の三人と、その親たちです。主人公の子どもたちが、まさに我が家の娘と同じ年齢・同学年だったこともあり、作品設定は非常に身近に感じられました。
 
一方で、「この年齢の子どもが、こんな行動をするだろうか?」という違和感もありました。たとえば、唯士が放課後に一人で自転車に乗って図書館へ行く場面。うちなら子供1人では行かせないだろうな、と思いますし、放課後に子どもだけで外遊びをすることも、ほとんどありません。
 
コロナ以降、子どもだけで他人様と会う習慣が失われてしまった気がします。ですので、夜中に子どもたちだけで集まって何かをする、という展開も、今の我が家の生活圏内ではなかなか考えにくい行動に感じました。
 
私の子ども時代ならあり得た展開ですが、今の娘たちの現実とはズレているように思えます。うちの「ふつうの子ども」の日常は、放課後、家でSwitchを立ち上げ、ボイスチャットをしながら友だちとマイクラやスプラトゥーンを遊ぶ、そんな光景が浮かびます。
 
劇中の小学校の造りや、授業の風景が妙に先進的だったりもして、このあたりのディティールは地域差もあるのだろうな……と、どうでもいいことですが少し気になりました。


■素晴らしかった親子の演技

そういう意味で、生活描写のリアリティは薄く感じたのですが、主役親子の演技には、強いリアリティがありました。
 
まず、唯士を演じた嶋田鉄太さんが素晴らしい。
ぼんやりとした佇まい、人と話すときの目線の泳ぎ方、気まずいとき、悪いことをしたときに何も言えず、黙ってうつむいてしまう感じ。どれもが非常に自然で、「本当にこういう子、いるよな~」と思わせる演技でした。
 
そして、その母親を演じた蒼井優さんが、また素晴らしい。
子どもを一人の人間として尊重しながら、同時にきちんと子どもとしてケアしている。その距離感がとても自然で、思い通りに動かない我が子に半ば呆れながらも、優しく見守り、支えようとする理想的な母親像を違和感なく演じられていました。
 
学校から帰って来た唯士に「作文どうだった?」「お母さんはいいと思ったけど」と声をかける感じ、「君のことちゃんと見てるよ」「君はイイ感じにやってるよ」と、しっかり子供に肯定のサインを送っていて、親として偏差値高いな、と関心する場面が何度もありました。
 
しかし、あまりにも自然なので、これが「ふつうの親」に見えてしまうのですが、実際の子育てはもっと修羅場の連続で……(以下割愛)。


■心愛というキャラクターの危うさ

三人組を引っ張る女の子、心愛は、活動家グレタ・トゥーンベリに影響を受けた女子として描かれます。正直、小学生でここまで理論整然と語れる子いる?と漫画的に見える瞬間もありましたが、瑠璃さん(子役)の演技が、そのキャラに実在感を与えていました。
 
彼女がグレタの言葉を引用し、「地球環境の汚染は、子供が悪いんですか?」と先生を言い負かす場面では、隣で観ていた娘も「完全に論破したで!」と、素直に楽しそうな反応を見せていました。
 
そんな“大人の無責任さ”に対する憤りから、「自分たちが行動しなければならない」と奮起する心愛は、唯士と陽斗を巻き込み、次第にエコテロリスト的とも言える行動へと踏み込んでいきます。

事態がエスカレートするにつれ、男の子二人は明らかに怯え、言動も態度も次第にトーンダウンしていきます。一方で、心愛だけは「計画通り」と言わんばかりの表情で、どこか満足そうにニヤリと笑う。

その姿には「末恐ろしい女感」が漂い、当初は彼女に共感していた娘でさえ、「こいつ、ちょっとヤバいで」と、次第に引き気味になっていました。


■子どもは、人をよく見ている

三人のエコテロ活動が過激化する展開の中で、
娘は心愛に対し「校長先生の話、入ってないで!」「全然反省してないやん!」と何度もツッコミを入れながら観ていました。

子どもは子どもなりに、人の態度や言動を驚くほど冷静に観察しているのだと、改めて実感させられます。
 
講堂で校長先生の話があったあと、男子二人は明らかに、止めたそうにしているのに、「今やめたら笑われるよ?」「本気で環境問題について考えてる?」と気迫に押され、牛の柵壊しにまでエスカレートしてしまう。

この流れには、社会正義運動が次第に過激化し、いつの間にかテロリズムへと変質していく過程の縮図を見るような、何とも言えない“ヤダ味”がありました。
 
この場面で娘は、「それ犯罪やで! イタズラで済まんで」「監視カメラに撮られるで」と、やや呆れた様子でした。
 
この展開については、正直なところ現実味に欠けるとも感じましたが、私は「映画の嘘」として受け入れることができました。

この作品で本当に重要なのは、出来事そのもののリアリティではなく、このあとに続く――それに対して大人たちがどう振る舞うのかという点にあるのだと感じたからです。


■クライマックスは「保護者の会」

子どもたちの行動をきっかけに、学校で保護者が集められる場面が、本作のクライマックスだと思います。ここで流れる空気が、とにかく居心地が悪い。

誰が悪いのか、主犯は誰なのかという方向へ話がどんどん先鋭化し、親同士の間に緊張が走ります。この「ピリピリ感」こそが、本作の核心だと感じました。

まず目につくのが、ひたすら「うちの子は悪くない」という姿勢を取り続ける陽斗の母親です。
泣き続ける陽斗を慰めながら、「陽斗は、言いたいことが言えない所があって」「違うなら、違うって言わないと。違うよね?」と繰り返す姿には、子どもを守りたい気持ちは理解できるものの、それ以上に自己防衛の強さが前面に出ていました。

「いつも弟の面倒を見てくれてるんだよね!」「お兄ちゃんだもんね!」といった言葉も、この場面では本質から外れていて、現実から目を逸らし、責任を外へ押し出そうとしているようにしか見えません。観ていて正直うんざりしますし、「この親にしてこの子あり」と思わされます。

対照的に、心愛の母親は、子どもの行動をすべて一方的な「決めつけ」で裁きます。

「心愛が言い出したんでしょ?」「自分がしたこと、わかってるの?」と、子どもの考えを聞こうともせず、自分の中で結論を決め、それを断定的に子どもへ押し付ける。その姿が、非常に危うく感じられました。

こうした親のもとでは、子どもは本心を隠して過剰に“いい子”になろうとしたり、あるいは反抗によって関係そのものが断絶してしまったりします。

心愛のグレタかぶれも、当初は親の影響かと思いましたが、母親はむしろ「気持ち悪い動画とか見るなって、言ったよね!」と、彼女が大切にしている価値観そのものを真正面から否定します。

グレタの口上を、壊れたテープレコーダーのように繰り返すその姿には、この親子の間に横たわる溝の深さが垣間見えて、見ていて本当に居たたまれませんでした。

この母親の言葉の中で、いちばんきつく感じたのが「昔は可愛かったのに」という一言です。
これには隣で観ていた娘も即座に反応し、
「それって、今は可愛くないってこと?」と怒りだしました。

この一言に、大人の何気ない言葉が、いかに鋭く子どもの心を傷つけるかが凝縮されていました。

この母親の頭の中には「あるべき子どもの姿」があり、そこから外れた行動はすべて許せないのでしょう。正直、今こうして思い出しながら書いていても、腹が立ってきます。


■本心を打ち明けてくれる関係性

そこで、壊れていく心愛の心に助け舟を出すように、唯士がありのままの本心を口にする場面があります。あれは、子育てをしている親の目で観ると、本当にものすごいことだと思います。

子どもが本気で自分の過ちを反省し、恥ずかしい思いも飲み込んだうえで、親や先生の前で本心を語り、謝罪する。これは、現実の子育ての中では、そう簡単に起きることではありません。

子どもは、親から「悪い子」だと評価されることを、何よりも恐れています。それでもなお、親に愛され、受け入れられ、抱きしめてもらえる存在でありたいと願っている。

そんな子どもが、自分の「ダメなところ」をさらけ出すには、どれほどの勇気が必要でしょうか。

その「ダメなところ」を打ち明けることができたという事実が、唯士と母親との間に、どれほど深い信頼関係が築かれていたかを、何より雄弁に物語っていたように思います。

私自身も、「なんて立派で、優しい子に育ったんだろう……」と、思わず目頭が熱くなりました。

物語の帰結としては、蒼井優さん演じる唯士の母だけが、我が子の本心を引き出すことができた。つまり、彼女が“理想的な母親像”として配置されていた、ということなのだと思います。

そのために、他の親たちの身勝手さがより際立つ。かなり極端な対比ではありますが、意図的な演出だったのでしょう。

その直後、唯士の発言を茶化す心愛の母親の態度は、やはり最悪でした。
けれど、その言葉を受けて、唯士の話に初めて耳を傾ける心愛の姿には、かすかな希望も感じられました。

親がどうであれ、友だちとの関係の中で、子どもは変わり得るのかもしれない。私は、そんなふうにこの場面を受け取りました。


■「ふつうの親」「ふつうの子ども」への問い

本作は、「親が変だと、子どもも変になる」という、身も蓋もない事実を、かなりストレートに描いています。冷静に考えれば当たり前の話ですが、それをそのまま言葉にすれば、どうしても角が立ちます。

この映画は、それを直接断罪するのではなく、ドラマのかたちで差し出しながら、
「あなたの子は“ふつうの子ども”ですか? そして、あなたは“ふつうの親”ですか?」
と、問いかけてくるように感じられました。

『ふつうの子ども』は、子どもの映画であると同時に、大人に向けられた、意地の悪い鏡でもあります。

その鏡に映る自分の姿を、きちんと直視できるかどうか――
それを観客一人ひとりに委ねてくる作品だったと思います。


映画を観終えたあと、娘に「この三人の中なら、誰と友だちになりたい?」と聞いてみました。
少し考えた娘は、こちらを見て「おとうさん!」と言いながら、ぎゅっと抱きついてきました。

「いや、それ、回答になってないやろ……」と思いつつ、同時に、うまく転がされているな、とも感じてしまって。

そんなやり取りも含めて、娘と一緒にこの映画を観られて、本当によかったと思います。


■追記:気になった「父親」の不在

最後に一点だけ、個人的に考えさせられたのは、学校に呼び出される保護者が、ほぼ全員母親だったことです。

今の日本の「ふつう」を反映している描写なのだとは思います。

ただ、我が家の場合、妻は仕事中にスマートフォンを持てない職場環境のため、学校からの連絡は基本的に私が受け、そのまま対応することも少なくありません。そうした立場から観ると、この場に父親が現れても良いのではないか、と感じる部分もありました。

もっとも、本作は母親三人の対比を軸に描かれている映画です。そこに父親が一人入り込めば、物語の重心や演出意図が変わってしまう。そのため、あえて父親を排した構成にも、はっきりとした狙いがあったのだと思います。

とはいえ、もし『ふつうの子ども』に“父親編”があるとしたら――
それはそれで、ぜひ観てみたい気がします。



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