Emology 4:誰も知らないわたし
☀️ 休日の昼下がり
秋の陽射しが街路樹の影をくっきりと落としていた。
テラス席から見上げる空は、どこまでも澄んでいる。
「菜子、大丈夫かな〜」
美月がテーブルに突っ伏すと、足元の柴犬サクラが心配そうに顔を覗き込んだ。
「おい、サクが心配してるぞ。サク、大丈夫だよ。おいで」
翔太が手のひらを差し出すと、サクラは尻尾を振りながら翔太の足元へ進み、顎を預けた。
大きな掌で撫でられるサクラは、とても気持ちよさそうだ。
乾燥した風が吹き抜け、落ち葉がカサリと音を立てる。
「なんであんた、会社でもう少し自然にしてないのよ」
美月がテーブルに置かれたカフェラテのストローをくわえながら言う。
「“新卒”っぽくていいっしょ」
翔太はイタズラを企む子どものような笑顔を美月に向けた。
二人の母は幼馴染で、美月と翔太は姉弟同然で育てられた。
2年遅れで生まれた翔太は、美月の後を追うように、同じ高校、大学へと進んだ。
大学院まで進むかと思いきや、偶然にも同じ会社の同期として入社することになった。
その事実がわかった日、二人は腹を抱えて笑った。
🚃 内定式の朝
満員電車に揺られていると、ふと、翔太が一点をじっと見つめていることに気づいた。
「翔太、どうした?」
美月は視線の先に目を向けるが、美月の視線からでは背の高い翔太の視線の先を捉えることはできない。
美月が翔太の腕を引っ張り、「ねぇ」と声をかけると、
「いやさ、ちょっと気になる子がいたんだよね」
「女の子?」
「うん」
「ふーん、珍しいね」
翔太はこれまで異性に興味を示したことがなく、いつしか美月という存在を異性からの盾として使うようになった。
「二人って、付き合ってるの?」
幾度となく聞かれてきたセリフ。
「美月は特別だから」
翔太は問いには答えず、甘い笑顔で煙に巻いた。
翔太のこの対応は美月にとっても都合が良く、“幼馴染のイケメン彼氏”を隠れ蓑に好き勝手行動していた。
周囲に何を言われようと、美月にとって翔太は弟以外の何者でもなかった。
「ねぇ、どんな子だったの?」
電車から降りて人の波に流されないように注意しながら、翔太に話しかける。
「いや、よくわかんないよ。俺もなんとなく目に入っただけだし」
「可愛かった?」
「……うん」
翔太が、“可愛い”というのは、柴犬のサクラくらいだった。
予想外の反応に、美月の胸の奥が、少しだけくすぐったくなった。
「ふふ。また会えるといいね〜」
軽い足取りで、二人は内定式へと向かった。
🌸 菜子との出会い
「あの…お隣いいですか?」
声の主に顔を向けた美月の前には、可愛らしい女の子が立っていた。
「はい、どうぞ」
美月が足元の荷物をさっと引くと、遠慮がちに美月の前を通る。
「ありがとうございました。私、橘といいます。よろしくお願いします」
そう言いながら、首からかけた社員証を美月に見せる。
そこには“橘菜子Nako Tachibana”と書かれていた。
「菜子ちゃん…可愛い名前だね」
思ったことがそのまま口に出てしまう美月の言葉に、
「ありがとう…相馬美月ちゃん?」
菜子は瞬時に美月の社員証を読み取り、少し照れたように笑った。
ーーそれが菜子との出会いだった。
菜子は翔太と同じ2つ下の学年だったが、とても頼もしい存在だった。
理解が早く、言葉が優しい。
人の感情に敏感で、誰も仲間を置き去りにしない。
導入研修担当の先輩たちも、次第に菜子へ信頼を寄せるようになった。
そんな菜子を支えるように、翔太が次第に表舞台に立ち始めた。
今まで目立つのを避けてきた翔太が、声を出してチームをまとめる。
“新卒らしいフレッシュな吉田くん”
そのように言われるようになったのはこの頃からだった。
普段の翔太を知っている美月は、翔太の豹変ぶりに驚いたが、
“電車の女の子”が菜子だったと知って納得した。
25新卒のリーダー翔太と、精神的支柱の菜子、ムードメーカーの美月は自然と一緒にいるようになった。
「ねぇ、なんで菜子ってあんなに自分に自信がないのかな?」
グラスの水滴がひとつ、テーブルに落ちる。
翔太はサクラを撫でる手を止め、真剣な表情で美月を見つめた。
「美月から見て、橘はどう映ってる?」
「うーん…とにかく完璧だよね。優しいし、頭いいし、可愛いし。杏奈さんみたい」
「そうか…」
「翔太にはどう見えてるの?」
「………」
少しの沈黙。
「内定式の日、電車で橘みたって言ったの、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
「あの時さ、橘、体調悪そうな人に席を譲ってたんだよね。お年寄りでも妊婦さんでもなくてさ」
「え?」
「誰も気づいていなかったのに、橘だけが気付いて声をかけてた。放っておけなかったんだと思う」
「うん、菜子らしいね」
「橘は責任感が強いんだよな」
「うん」
「…あの責任感の強さって、どこから来るんだろうな」
翔太の一言に、夏の匂いが蘇る。
🎐 記憶の中の菜子
「美月はいいな、たくさんの人から愛されて」
導入研修の最終日。
私たちは同期の輪から離れたところで手持ち花火をしていた。
菜子の言葉に驚き、美月は手元から菜子の顔へと視線を映す。
菜子の瞳に映る火花は、次々に色を変えている。
「何言ってんの?菜子の方がいろんな人から頼りにされてるじゃん」
「…頼りにされることと、愛されることは違うから」
菜子は小さな声で呟いた。
「私は菜子のこと大好きだよ〜」
美月が菜子の肩に身を寄せると、菜子は目を細めて笑った。
ーあの時も菜子は同じ表情をしていた。
「ねぇ、菜子。このままうちんち泊まりにおいでよ。心配だから」
「美月のパパやママにも迷惑かけちゃうから」
「迷惑なんてことないよ。友達じゃん、力になりたいの」
菜子は泣き腫らした目を細めると、「…ありがとう」弱々しく微笑んだ。
「………甘えられなかった?」
美月の呟きから何かを感じ取ったサクラが、翔太の元を離れ美月の足元にピッタリと身を寄せた。
誰も知らない。
菜子がどれほどの優しさを、
どれほどの孤独の上に築いていたかを。
カフェの午後、陽射しが少し傾き始める。
目の前の翔太と足元のサクラの温もりが、美月が“独りではないこと”を伝えていた。
次回予告:Emologic4:他者の目に映る「わたし」ー認知のズレが生まれる理由
美月や翔太が見ていた“菜子”と、菜子自身が感じていた“菜子”は、
同じ存在のはずなのにまるで別人だった。
どうして、人は他人から見た自分を正確に理解できないのか?
そして、なぜ“理解されない痛み”が私たちを孤独にするのか?
次回のEmologicでは、「自己認知」と「他者認知」のズレを心理学的に分解し、
“誤解されるわたし”をどう扱えばいいのかを解説します。
“見え方の違い”は、断絶ではなく共感の入口。
その構造を知ることが、やさしさの第一歩になる。
🗓️11月18日(火) 19:30 更新予定
🔗 物語の動線
🪞 前回の物語
https://note.com/kinari_tokieda/n/n5b6ed47cb31a
📖 続きの物語
https://note.com/kinari_tokieda/n/nc1d38c187672
🧠 対応する心理ロジックパート
https://note.com/kinari_tokieda/n/ndf415ee4a13d
🌐 English Version
https://note.com/kinari_tokieda/n/n2a2820c6f64d
第一話から読む(菜子編)
https://note.com/kinari_tokieda/n/n308295f38ca1
第一話から読む(杏奈編)
https://note.com/kinari_tokieda/n/nbe56107681d0
