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Emology 7: 強い閉塞感の中では、人は“見たいものだけ”を見る

横目でスマホを確認しながら、目元の隈にコンシーラーを馴染ませた。
コーラル系のチークを入れて、唇にシャネルのルージュココフラッシュをのせる。

「うん、完璧」

鏡の中の“村田杏奈”を確認して、にっこりを微笑む。
昨夜の残業の疲れは、静かに化粧の下に押し込めた。

Apple Watchの振動が、自宅を出る時間を告げる。
玄関に向かうために洗面台に背を向けると、散らかった部屋が視界に入りゲンナリとした。

ピアスをつけながら、寝室に声をかける。
「ごめん、私もう行くから。ゴミ出しお願いね!」

「…」
返事はない。

「リョウちゃん!!!今日、ゴミ出し!!聞いてる!?」
出世祝いに買ったルブタンのパンプスに足を入れながら声を張り上げると、
寝室からくぐもった声が返ってきた。

「んー……」
「ゴミ出し、お願いね!」

乱暴にドアを閉め、鍵をかけていると色褪せた過去の記憶が脳裏をよぎる。

眠たげに目をこすりながら、玄関まで見送りにくるリョウ。
「杏奈、今日もお仕事がんばってね」
ダイアナのパンプスを履き終えると、杏奈は振り返り、リョウの腰に手を回した。
「うん、頑張るね。夕ご飯何食べたい?」
「ハンバーグが食べたい」
「ふふ、子供みたい。わかった。6時には帰るから」
リョウの胸元に顔を埋め深く息を吸う。
杏奈の家の柔軟剤とリョウの匂いの混ざった香りを嗅ぐと、
心が甘い満足感で満たされる。
「行ってらっしゃい」
「いってきます」
リョウの唇にかるく触れるようなキスをする。

時間を惜しむように手を握っていると、
「杏奈、早く行かないと会社遅れちゃうよ」
リョウが困ったような笑みを浮かべて杏奈を促す。
「うん、わかった」
杏奈が体を反転させて、玄関のドアに手をかける。
「いってきます」
繋いでいた左手が別れを惜しむように指先から解けた。


ーーいつからこんな風になっちゃったんだろう…

そんな思いを振り払うように、杏奈はヒールを鳴らしながら駅へと向かった。


🏢 オフィス

周囲が和やかに雑談を交わす中、杏奈は手元のPCと睨めっこをしていた。
今週中に提出しなければならない資料の作成が終わらない。
その間にもチャットが入ってきていたが、杏奈にはチャットに目を通す余裕さえなかった。

「あの…村田さん、今大丈夫ですか?」
チームの新人の橘菜子が控えめに声をかける。

「ごめん、後にしてもらえる?」
PCから目を離さずに答えると、菜子は小さく頭を下げて戻った。


「村田さん、ミーティング始まってますよ」
同僚の稲葉から声がかかり、はっとする。
「すいません、ありがとうございます!」
急いでミーティングに接続すると、会議はすでに本題のど真ん中だった。

かつての杏奈なら、こんなリーダーを見て内心毒づいていた。
ーー私ならもっと上手くやるのに。

そう信じていた。

リーダーに抜擢された時も、“当然”だと思った。
やっと実力が発揮できる、と。

初めての管理職だから、優秀なメンバーを配置したとも言われた。

ーーそんなの、いらない

どんな曲者でも、“上手くやれる”自信があった。

リーダーになって1ヶ月ーーー
現実は、想像の10%も上手くいかなかった。

ふと、先ほどのやりとりを思い出す。
ーーまずい、忘れてた!
急いで菜子の姿を探す。

「橘さん、さっきはごめんね」
焦っていることが悟られないよう、穏やかに声をかける。

私の声に気づいた菜子は、恐縮しながら作成中の資料を見せてくる。
ひと目みた瞬間、杏奈は固まった。

ーー全然ダメじゃん。

スライドの構成、視線誘導、ロジック…
直す箇所が多すぎて、頭が痛くなる。

前任・瀬川の言葉が脳裏によぎる。
『橘は繊細だから、気づきを促してあげてね』

瀬川の柔らかい声を思い出すたび、胸の奥がざわつく。
“気づきを促す?”
そんな余裕、どこの現場に落ちてるっていうの。

仕事は積み上がるし、期限は迫ってくるし、
人の感情まで見てたら何も終わらない。

ーーまた綺麗ごと。

そう決めつける方が、今の私には楽だった。

瀬川は、相手のテンポに合わせて、静かに状況を見極める人だった。
それは確かに“優しさ”なのかもしれない。
けれど杏奈には、どうしても回りくどくて甘いだけに見える。

(胸の奥で何かがかすかに動いた。でも、気づかないふりをした。)

弱さなんて、考えたらキリがない。

「OK。レイアウトだけ整えてシェアポに格納しておいて」

杏奈の言葉に、菜子はほっと息をつく。
その表情を見た瞬間、杏奈は胸がかすかにチクリとした。

理由は、自分でもわからなかった。


🌙 帰宅

23時過ぎ。
玄関のドアを開けると、朝のままの散らかった部屋がそこにあった。

足元に何かが当たり、杏奈は顔をしかめる。

ーー今朝リョウ頼んだはずのゴミ袋だ。

「ふざけんなよ」
思わず声が漏れたが、怒っている暇はない。

明日の会議が待っている。

杏奈は足でゴミ袋を端へと押しやり、
ダイニングテーブルに腰掛け、早速PCを起動した。

資料を開いた瞬間、胸に渦を巻く感情があった。

ーーーこんなはずじゃなかったのに…

冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
プロタブにかけた指にキラキラと輝くネイルが、ふと視界に入る。

「最年少リーダーなんて素敵すぎます!
完璧な杏奈さんに似合うネイルにしますね!」

ネイリストの言葉が蘇る。

ーーそうだ、頑張らないと。
ビールを一口含む。

今日も、“村田杏奈”の1日が終わっていく。


🫧次回予告:Emologic7:認知の歪み(Cognitive Distortion)

ーー杏奈が感じていた“閉塞感”の正体は、実は彼女だけのものではなかった

次回のEmologicでは、物語に隠れていた3つの認知の歪みを取り上げながら、
私たち自身の中にある「見たいものしか見ない心のクセ」を解説します。

何が本質で、何が“思い込み”なのか。
杏奈の視点の奥にあるズレを、一緒に紐解いていきます。

🗒️ 2025年12月23日 19:30更新予定


🔗 物語の動線

🪞 前回の物語
https://note.com/kinari_tokieda/n/n33d220b2b62c

📖 続きの物語
https://note.com/kinari_tokieda/n/n497d7c8adc07

🧠 対応する心理ロジックパート(Emologic)
https://note.com/kinari_tokieda/n/n1260ed52a4e0

🌐 English Versions
https://note.com/kinari_tokieda/n/n367f4fd957ef


第一話から読む(杏奈編)
https://note.com/kinari_tokieda/n/nbe56107681d0

第一話から読む(菜子編)
https://note.com/kinari_tokieda/n/n308295f38ca1


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