小春ちゃんは、本を薦めるのが少し苦手 #6
小さな書店併設カフェ「かーでぃ書店」には、今日も何かを探す人がやってきます。本を通して、誰かの気持ちが少しだけ動く。これは、そんなやさしい物語です。
登場人物
小春:高校生アルバイト。やさしくて少し天然。
木村誠:店長。寡黙で誠実。本とコーヒーが好き。
前の話
第六話 五分だけ、前に出る勇気
豊橋の駅前大通りにある、小さな書店併設カフェ「かーでぃ書店」。
休日の午後。窓の外では、路面電車がゆっくりと通り過ぎていった。雨上がりの線路は少しだけ光っていて、店内に差し込む春の光を、細く反射している。
小春は、窓際の席を片づけながら、その音に耳を澄ませていた。
カタン、カタン。
店の中には、コーヒーの香りと、ページをめくる音が静かに混ざっている。休日のかーでぃ書店は、にぎやかではないけれど、誰かが何かを考えるにはちょうどいい空気をしていた。
入口のベルが、小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
小春が顔を上げると、三十代くらいの男性が、少し迷うように店内を見回していた。スーツではなく、ラフなジャケット姿。仕事の日ではなさそうなのに、どこか肩に力が入っている。
男性は軽く会釈をして、本棚のほうへ歩いていった。
小春は無理に声をかけず、カウンターのそばに戻った。初めて来たお客さんは、だいたい最初に店の空気を確かめる。どこに何の本があるのか。座ってもいいのか。声をかけられるのか、放っておいてもらえるのか。
そういう時間を邪魔しないことも、接客なのだと、店長の木村から教わっていた。
男性は、仕事術の棚の前で立ち止まった。
棚に並ぶ本の背表紙を眺めているけれど、手には取らない。少し視線を動かしては、また同じ場所に戻る。
小春は、その様子が気になった。
「あの……何かお探しですか?」

声をかけると、男性は少し驚いたように振り向いた。
「あ、すみません。探しているというか……探しているものが、自分でもよくわからなくて」
その言い方が、どこか申し訳なさそうで、小春は小さく首を振った。
「大丈夫です。そういう時に来てもらうお店なので」
男性は、少しだけ笑った。けれど、その笑いはすぐに困った表情に戻ってしまった。
「会社の勉強会で、ちょっとしたプレゼンを頼まれてしまって」
「プレゼン、ですか」
「はい。五分だけ話せばいいって言われたんです。でも、その五分が、やけに長く感じて」
男性は、本棚に目を向けたまま続けた。
「人前に立つの、苦手なんです。会議で少し意見を言うだけでも緊張するのに、前に出て、みんなの方を向いて話すなんて……考えただけで胃が痛くなります」
小春は、男性の言葉を静かに聞いていた。
「それに、何を話したらいいのかも、わからなくて。すごい成果があるわけでもないし、特別な技術を持っているわけでもない。自分が話しても、誰の役に立つんだろうって」
その言葉に、小春は少しだけ目を伏せた。
わかる気がした。
小春も、本を薦める時、よく同じようなことを考える。
この本で本当に合っているのかな。
自分が言ったことで、相手を困らせないかな。
もっと詳しい人が薦めたほうがいいんじゃないかな。
自信のなさは、形を変えて、いろいろな場面に現れる。
小春は、棚の前に立ち、本の背表紙をそっと指先でなぞった。
仕事術、話し方、プレゼン、コミュニケーション。何冊か目に入る。けれど、男性に必要なのは、堂々と話すための技術だけではない気がした。
うまく話す方法。
スライドの作り方。
聞き手を惹きつけるテクニック。
もちろん、それも大切だ。
けれど、この人が今つまずいているのは、そこよりも前の場所のように思えた。
小春は、一冊の本を棚から取り出した。
「こちらは、どうでしょう」

男性は表紙を見る。
「ライトニングトーク……?」
「短い時間で、自分の経験や気づきを話す発表のことです。五分くらいで話すことも多いみたいです」
「五分……」
男性は、その言葉に反応した。
「まさに、それくらいです」
小春はうなずいた。
「この本は、うまく話すためだけの本というより、自分の経験を、誰かのヒントに変えるための本だと思います」
「自分の経験を……」
男性は、まだ少し不安そうに本を見つめていた。
「でも、僕の経験なんて、そんな大したものじゃないですよ」
小春は少し考えてから、ゆっくりと言った。
「大したことじゃない、と思っていることほど、誰かにとっては助かることがあります」
男性が顔を上げた。
「たとえば、仕事で少し困ったことを、どうやって乗り越えたか。失敗したけど、次からこうしたら楽になったとか。最初は全然わからなかったけど、ここだけわかると進めたとか」
小春は、自分で話しながら、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
偉そうなことを言っていないだろうか。
でも、男性の表情がほんの少しやわらいだのを見て、言葉を続けた。
「聞いている人全員を感動させなくてもいいと思うんです。たった一人が、『あ、それなら自分にもできそう』って思えたら、それだけでも意味があるのかなって」
カウンターの奥で、木村がコーヒーを淹れていた。
ポットから細く湯が落ち、粉が静かに膨らんでいく。
木村は二人の会話を聞いていたのか、ぽつりと言った。
「話すのが得意な人だけが、前に立つわけじゃありませんからね」
男性と小春が、同時にカウンターのほうを見た。
木村は手元のドリッパーを見たまま、続けた。
「得意な人の話は、もちろん聞きやすいです。でも、不安なまま準備して、少しだけ勇気を出して話す人の言葉にも、その人にしか出せない温度があります」
「温度……ですか」
男性がつぶやいた。
木村は、カップにコーヒーを注ぎながらうなずいた。

「完璧な発表より、『自分も同じところで悩んだ』とわかる話のほうが、届くこともあります」
店内に、ふわりとコーヒーの香りが広がった。
男性は、本を開いた。
ページをめくる指先は、来店した時よりも少し落ち着いているように見えた。
「自分が話せること……ですか」
「はい」
小春はうなずいた。
「すごい話じゃなくてもいいと思います。むしろ、ちょっとした話のほうが、聞いている人が持ち帰りやすいこともあります」
男性はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「実は、最近、社内の申請書のテンプレートを少し直したんです」
「テンプレートですか?」
「はい。みんな毎回同じところで迷っていたので、記入例を入れて、選択肢を少し整理しました。大きな改善ではないんですけど、問い合わせが少し減って」
男性は、照れたように頭をかいた。
「そういう話でも、いいんですかね」
小春は、少し身を乗り出した。
「それ、すごくいいと思います」
思わず声が明るくなった。
「同じように、社内の小さな困りごとをどうにかしたい人が聞いたら、きっと参考になります」
男性は目を丸くした後、ほっとしたように息を吐いた。
「そうか……そういうのでいいのか」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
木村が、カウンターにコーヒーを置いた。
「よろしければ、読みながらどうぞ」
男性は礼を言って、窓際の席に座った。
外では、また路面電車が通り過ぎていく。午後の光が、カップの縁に小さく反射していた。

男性は本を読みながら、時々スマートフォンに何かを打ち込んでいた。
たぶん、発表のメモだ。
小春はカウンターのそばで、その様子をそっと見守った。
五分だけ話す。
文字にすると短い。けれど、人前に立つ人にとって、その五分はとても長い。
でも、その五分は、誰かにとってのきっかけになるかもしれない。
自分の小さな経験が、誰かの明日を少し軽くするかもしれない。
しばらくして、男性が本を持ってレジへ来た。
「これ、買っていきます」
「ありがとうございます」
小春が会計をすると、男性は本を鞄にしまいながら、少し迷ったように言った。
「まだ緊張はします。でも、何を話せばいいかは、少し見えてきました」
「よかったです」
「五分だけ、前に出てみます」
その言葉に、小春は自然と笑顔になった。
「はい。きっと、大丈夫です」
男性は店を出ていった。
入口のベルが鳴り、外の光が一瞬だけ店内に差し込む。
小春は、閉まったドアを見つめながら、小さく息を吐いた。
カウンターの奥で、木村が静かに言った。
「いい接客でしたね」
小春は驚いて振り向いた。
「そ、そうでしょうか」
「ええ。ちゃんと、その人の前にある一歩を見ていました」
小春は少し照れて、棚のほうへ視線をそらした。
本の背表紙が、午後の光の中で静かに並んでいる。
誰かの悩みに、ぴったりの答えを出すことは難しい。
けれど、一冊の本が、その人の背中を少しだけ押すことはある。
五分だけ、前に出る勇気。
その勇気は、きっと本棚のどこかにも、誰かの胸の中にも、そっと眠っている。
小春は次に来る誰かのために、本棚の乱れをそっと整えた。
それから二週間ほど経った、休日の午後。
かーでぃ書店の入口のベルが鳴り、小春が顔を上げると、あの男性が立っていた。前に来た時よりも、表情が少し明るい。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。あの、プレゼン……」
小春がそこまで言うと、男性は少し照れたように笑った。
「なんとか、終わりました」
「どうでしたか?」
「めちゃくちゃ緊張しました。最初、声が少し震えましたし、スライドを一枚飛ばしました」
男性はそう言ってから、でも、と続けた。
「終わった後に、後輩が来てくれたんです。『自分も申請書で困っていたので、テンプレート見直してみます』って」
小春は、ぱっと表情を明るくした。
「届いたんですね」
「はい。全員に響いたかはわかりません。でも、一人には届いたみたいです」
男性は、店内の本棚を見回した。
「五分って、長いと思ってました。でも、終わってみたら、誰かに渡せるものがある時間だったんですね」
カウンターの奥で、木村が静かにコーヒーを淹れている。
男性は、少し照れくさそうに言った。
「次は、自分から話してみてもいいかなって、少しだけ思いました」
小春はうなずいた。
「その時は、また作戦会議ですね」
男性は笑った。
窓の外を、路面電車がゆっくりと通り過ぎていく。
五分だけ前に出た勇気は、男性の中で、次の一歩に変わりはじめていた。
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