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小春ちゃんは、本を薦めるのが少し苦手 #7

小さな書店併設カフェ「かーでぃ書店」には、今日も何かを探す人がやってきます。本を通して、誰かの気持ちが少しだけ動く。これは、そんなやさしい物語です。

登場人物
小春
:高校生アルバイト。やさしくて少し天然。
木村誠:店長。寡黙で誠実。本とコーヒーが好き。

前の話

第七話 「はい」と答える、その前に

雨上がりの午後だった。

かーでぃ書店の窓には、まだ細かな水滴が残っていた。
通りを走る路面電車の音が、少し濡れた空気の中をゆっくりと響いていく。

小春は、窓際の棚に並んだ本の背表紙を整えていた。
指先で一冊ずつ、そっと位置をそろえる。

そのとき、入口のベルが小さく鳴った。

「いらっしゃいませ」

入ってきたのは、スーツ姿の男性だった。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。少し疲れた表情をしていて、片手にはクリアファイルを持っている。

男性は店内を見回したあと、少しためらうように小春の方へ歩いてきた。

「あの……仕事で使えそうな本を探していて」

「はい。どんな本をお探しですか?」

小春は、少し背筋を伸ばした。

男性はクリアファイルから数枚の紙を取り出した。
そこには、表のようなものが印刷されていた。

「取引先から、セキュリティ対策の確認が来たんです」

「セキュリティ対策、ですか?」

「はい。ウイルス対策ソフトは入っていますか、とか。バックアップは取っていますか、とか。退職者のアカウントは削除していますか、とか」

男性は、紙に並んだ項目を見つめながら、困ったように笑った。

「どれも、たぶんやっているとは思うんです。でも……」

言葉がそこで止まった。

小春は、男性の顔を見た。
困っている、というより、何から困ればいいのか分からない。そんな表情だった。

「でも?」

「“はい”って書くのは簡単なんです。でも、その“はい”の理由を説明できますかって言われたら……たぶん、止まります」

男性は、小さく息を吐いた。

「バックアップも、取っているはずなんです。でも、最後に戻せるか確認したのがいつかは分からない。退職者のアカウントも、メールは消していると思うんですけど、クラウドとかチャットツールまで全部確認できているかと言われると……」

紙の上には、「はい」「いいえ」「備考」の列が並んでいる。

小春は、その列を見て、少しだけ眉を寄せた。

「答える欄はあるのに、答えるための準備が見つからない感じですね」

男性は、驚いたように顔を上げた。

「そうです。まさに、それです」

店の奥から、コーヒーの香りがふわりと流れてきた。
カウンターの中では、木村が静かに湯を注いでいる。細い湯気が、午後の光に溶けていた。

小春は、本棚の前へ移動した。

セキュリティ。
バックアップ。
クラウド。
アカウント管理。

いくつかの背表紙を目で追いながら、小春は考えた。
専門的すぎる本では、きっと今の男性には重い。
でも、簡単すぎる本では、この紙に向き合う助けにはならない。

指先が、一冊の背表紙で止まった。

『「セキュリティ対策、できてますか?」に答える本』

小春は、その本をそっと棚から抜き出した。

「こちらは、どうでしょうか」

男性は表紙を見た。

「……タイトルが、今の自分に刺さりますね」

「少し、刺さり方が直球ですね」

小春がそう言うと、男性は初めて少し笑った。

小春は本を開き、目次に視線を落とした。
そして、小さく「あ」と声をこぼした。

「この本、最初のほうにショートストーリーが掲載されています」

「ショートストーリー?」

「はい。取引先からセキュリティ対策状況の確認メールが届いて、チェックシートを前に手が止まってしまうお話です」

小春は、開いたページを男性に向けた。

「“たぶん、やっている……はず”とは思っても、会社として説明できる資料がすぐに出てこない。そういう場面から始まっています」

男性は、本のページをのぞき込んだ。
しばらく文字を追ってから、ぽつりと言った。

「……これ、ほとんど今の自分ですね」

小春は、男性の手元にあるチェックシートを見た。

「今のお客さまと、ほとんど同じところから始まる本だと思います」

男性は、ページをめくった。

「SCS評価制度……」

「会社のセキュリティ対策を、共通のものさしで見えるようにする仕組み、みたいです」

小春は、少しだけ言葉を選んだ。

「星を取るためだけではなくて、自分の会社が今どこにいるのかを知って、取引先と同じ目線で話すためのもの、と書かれています」

男性は、紙のチェックシートと本を見比べた。

「同じ目線で話す……」

「はい」

小春はうなずいた。

「“できています”って答えるための本というより、“どこまで説明できるか”を一緒に確認してくれる本だと思います」

男性は、ページをめくる手を止めた。

そこには、PCやスマホ、サーバ、クラウドの棚卸し。
アカウント管理と退職者対応。
パスワードと多要素認証。
メールと不審メール対応。
クラウド共有設定。
バックアップと復元確認。
事故が起きたときの連絡先。

男性が困っていた項目が、ひとつずつ並んでいた。

「これ、全部いきなりやるのは大変そうですね」

「そうですね」

小春は正直に答えた。

「でも、全部を今日中に完璧にする本ではないと思います」

男性が顔を上げる。

小春は、本の後半にあるページを開いた。

「平日五日でできる最初の一歩、というところがあります。月曜日は使っているPCやクラウドを書き出す。火曜日はアカウントを見直す。水曜日は共有設定とバックアップを見る……という感じで」

「五日で?」

「はい。完璧な台帳を作るのではなく、まずは見えるようにする、という感じです」

男性は、少しだけ肩の力を抜いた。

「それなら、できるかもしれません」

木村が、カウンターから静かに声をかけた。

「よろしければ、コーヒーをどうぞ」

男性の前に、湯気の立つカップが置かれた。
男性は軽く頭を下げ、窓際の席に座った。

外では、雲の切れ間から少しだけ光が差し込んでいた。
濡れた道路を、路面電車がゆっくりと通り過ぎていく。

男性は本を開き、最初のショートストーリーを読み始めた。
ときどき、自分のチェックシートに視線を戻す。
そして、スマートフォンのメモアプリを開いた。

小春は、少し離れたところからその様子を見ていた。

男性の指が、画面に文字を打ち込んでいく。

「うちの会社で確認すること」

その下に、いくつかの項目が並んだ。

・使っているクラウドサービス
・退職者アカウント
・バックアップの復元確認
・不審メールを受け取ったときの連絡先
・取引先へ説明できること、まだ曖昧なこと

男性は、入力したメモを見つめていた。
チェックシートの回答欄は、まだ空白のままだった。

けれど、さっきまでの表情とは少し違っていた。

「すぐに“はい”って書く前に、まず確認することがありそうです」

男性は、ぽつりと言った。

小春は、静かにうなずいた。

「はい。答える前に、知るところから……ですね」

男性は本を閉じず、そのままもう一度ページをめくった。

「この本、買っていきます」

「ありがとうございます」

小春は、レジで本を受け取った。
カバーをかけながら、少し考えてから言った。

「きっと、全部を一度に整えなくても大丈夫だと思います」

男性が小春を見る。

「でも、分からないことが見えたら、それはもう一歩進んでいるんだと思います」

男性は、少し驚いたあと、ゆっくり笑った。

「いいですね、それ。会社でそのまま言いたいです」

「えっ」

小春は少し慌てた。

「い、いえ、そんな立派なことでは……」

カウンターの奥で、木村が少しだけ笑ったように見えた。

男性は本を鞄に入れ、チェックシートをクリアファイルに戻した。

「まずは、退職者アカウントとバックアップから確認してみます。あと、不審メールを受け取ったときの連絡先も」

「はい」

「“たぶんやっています”じゃなくて、“ここまで確認しました”って言えるように」

小春は、その言葉に少しだけ表情を明るくした。

「それなら、取引先の方とも安心して話せそうですね」

男性はうなずき、店を出ていった。

ドアのベルが、からん、と鳴る。
雨上がりの空気が、ほんの少しだけ店内に入ってきた。

小春は、男性が座っていた窓際の席を見た。
カップの横には、チェックシートの跡のように、紙の角でついた小さな跡が残っていた。

答えることは、ただ欄を埋めることではない。
自分たちが何をしていて、何がまだ曖昧なのかを知ること。

小春は、棚に戻る前に、同じ本の背表紙をそっと指先でなぞった。

「“はい”って答える前に、知るところから」

小さな声でそうつぶやくと、また路面電車の音が聞こえた。

午後のかーでぃ書店は、少しだけ明るくなっていた。


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