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困難は「教師」ではなく、ただの「災害」私が松下幸之助の言葉に抱く決定的な違和感

自分の半生を振り返ったとき、浮かび上がる言葉があります。

それは「3K」

高年収、高身長、高学歴ではありません(笑)

3KのKは「苦難、苦労、苦悩」のKです。

人が何と言おうと、しんどさのレベルは他人と比較するものではないと思ってます。

誰がどう評価しようが、私にとってこれまでの半生は、控えめに言っても地獄でした。

私は世間でいう「氷河期世代」で、当時のそんな状況の中で、あまりうまく立ち回れなかった側の人間です。

あの頃を例えるなら、本当に「登山口」すら用意されていない状況でした。

ようやくここから登れるのかもしれない

そう思って一歩を踏み出した途端、目前にアイガー北壁級の断崖絶壁がそり立っているのを見せつけられたような感覚です。

アイガー北壁
画像出典:Wikipedia Commons

スイス・ベルン州のアルプスにある「アイガー北壁」は、高さ1,800mの切り立った岩壁です。落石や雪崩、急激な天候悪化が多発するため「死の壁(殺人の壁)」と恐れられており、2008年には映画化もされています。

当時の自分は「レベル1」

まともな登山装備など何一つ与えられないまま、素手で絶壁を登らされる感覚です。

指は最初から血だらけです

30代以降が特に過酷だったと思います。

あまりにも苦しい日々を送っていると、人間、どうしても「心の杖」となるものが欲しくなります。だから私も、色々な本を読んでみました。

たとえば「経営の神様」と称される松下幸之助氏の本は、多くの人が一度は手に取る代表格です。

私も例外ではなく、何冊か読んでみました。

でも読んでいると、どうにもしんどいんですよね。

うまく言葉にならないのですが、読めば読むほど、その教えと自分の心の距離が遠くなっていくような感覚でした。

一方で、似たような「極限の困難」を扱いながらも、ヴィクトール・フランクルが『夜と霧』で語る「困難」には驚くほど感銘を受けたんです。

この違いは、どこから来るのでしょうか。

私は長年、世間一般で美徳とされる「苦労礼賛」の価値観や、松下幸之助的な世界観に対して、どうしても拭えない強烈な違和感を持ち続けてきました。

その違和感の正体や、地獄のような日々を経て私の中に形作られた「価値観」や「残留物」について書いてみたいと思います。



「試練」という言葉への違和感。困難は教師ではなく「災害」である


私が松下幸之助氏の言葉に抱く違和感を突き詰めていくと、まず「試練」という言葉にたどり着きます。

松下幸之助氏
画像出典:Wikipedia Commons

幸之助氏は「苦労には人を育てる価値があり、それは自らを成長させるために通るべきプロセスなのだ」と説きます。

苦労を尊いもの、ありがたいものとして肯定する思想の根底には、困難を「自分を鍛えるために与えられた試練」として捉える視点があるはずです。

でも私はこの「試練」という言葉の持つニュアンスに、どうしても乗ることができません。

世間ではよく「これは神があなたに与えた試練だ」「神は乗り越えられる人にしか試練を与えない」といった言葉が使われます。

私はこの言葉に強い違和感を持っています。

なぜなら「試練」という言葉は、どこかに「出題者」がいることを前提としているからです。

個人の能力や状況に合わせて、神のような存在が「ちょうどいい課題」を調整して出してくれている、という物語がそこにはあります。

でも私が見てきた現実は全く違います。

もし本当に、その人に合わせて試練が調整されるのだとしたら、アウシュヴィッツで亡くなった人々はどう説明するのでしょうか。

津波で一瞬にして流された人々や、鬱を患って人生を奪われた人たちはどうなるのでしょうか。

現実には、乗り越えられなかった人がいます。

潰れてしまった人も、命を落とした人も確実に存在するんです。

だからこそ、私は「その人に合わせた試練」という都合の良い物語を信じることができません。

私は人生に降りかかる困難を、何かを教えてくれる「教師」のようなものだとは思いません。

むしろ困難とはただの「災害」であり「自然現象」に近いものとして捉えています。

実際に台風や地震は人も場所も選びません。

被災建物(トルコ・ハタイ県)
画像出典:Wikipedia Commons

カテゴリー5のハリケーンが街を襲うとき、自然はその街の住民の精神力など考慮しません。

善人か悪人かも関係ないし、

その人のフィジカルが強いか弱いかも関係ない。

乗り越えられるレベルかどうかも関係なく、

そこにいる人達に容赦なく降りかかります。

自然災害自体に一切の配慮はありません。

神が試練を配っているんじゃない。

自然現象と同じように、ただ偶然とタイミングによって困難が降ってくるだけです。

人生は決して、私たちのレベルに合わせた問題を出してくれる優しい教室じゃないんですよね。


松下幸之助の世界観が描かない「苦労の負の側面」


私は困難を「教師」ではなく「災害」だと思っています。

だから「苦労はありがたい」「苦労には意味がある」といった言説に触れるたびに、どうしても強い反感を持ってしまうんです。

松下幸之助氏の著作や、PHPなどの自己啓発系の記事を読んでいると、基本的に苦労の持つ「負の側面」にほとんど言及していないことに気づかされます。

「苦労は辛いものである」という事実は認めつつも、最終的な着地点はほとんどの場合、「成功談」に回収されていくように見えます。

「苦労 → 鍛錬 → 成長 → 人間が深まる」

つまり「苦労は買ってでもしなさい」「苦労を経て真人間になる」「筋金入りの人間になる」という方向で語られていることが多い。

松下幸之助氏の世界観は、常に「苦労によって何が育つか」というプラスの側面を見ています。

一方で、私が見ているのは「苦労によって何が失われたか」「残留物として残ってしまったもの」というマイナスの側面です。

彼の言葉が間違っているとは思いません。

ただ、そこには苦労によって「得たもの」は書かれていても、

苦労によって失ったものの「重さ」については、ほぼ触れられていないように感じます。

多くの苦労話には、「困難に遭遇し、悩み、考え、工夫する中で心が鍛えられる」という強い前提があります。

確かに、結果として鍛えられた部分は私にもあります。

でも、だからといって「傷ついたこと」「失ったこと」まで帳消しにされてたまるかと思うんです。

世間に溢れる苦労話は、いつも「人はこうして鍛えられる」という綺麗事ばかりを語ります。

でも、そこで語られない部分、つまり「苦労によって失ってしまった部分は一体どこへ行くのか」という疑問は、私の中に常に残り続けています。

苦労の良い面だけを語る人たちを見るたびに、私は苦労によって失ったものの存在を考えてしまうんです。

そもそも私は人生に真っ向から立ち向かい、果敢に戦うことに向いている人間ではありません。

進んで困難を受け入れたわけでも、自分を鍛えるために荒波に飛び込んだわけでもないんです。

ただ生きるために、否応なしに戦わざるを得なかっただけです。


苦労の残留物、それは「放射性廃棄物」みたいなもん


苦労や困難の先には何が残るのか。

苦労によって確かに人は成長するし、人を見る目が養われたり、物事をより深く考える力が備わったりするんだろうと思います。

でも、どれだけ成長できたとしても、苦労によって負った傷が消えるわけじゃありません。

世間の苦労美化論者は、困難を乗り越えた人間を見て、それによって得たものばかりを語ります。

でも、地獄を通り抜けた人間の内側に残されたものって、そんな綺麗なもんじゃありません。

世間には「自分磨き」という言葉がありますが、

どこか明るく軽快な響きの「自分磨き」という表現には

「元々素晴らしい原石が、丁寧にヤスリで磨けばさらに光り輝く」という、優雅なニュアンスが含まれているように感じます。

でも磨かれるってのは、ヤスリみたいな生やさしいものに丁寧に磨かれるというより、荒いものに「削り取られた」という感覚に近いと思います。

そして削り取られた結果、人間が磨かれたとしても「削られて失われたもの」が「毒性の高い残留物」として消えることなく足元に積もってるんです。

この残留物って、例えるとプルトニウムみたいな毒性の強い「放射性廃棄物」に似ています。

放射性廃棄物は半減期が数万年という途方もない歳月を要しますが、

そんな放射性廃棄物のような、一生消えない猛毒の残留物を心の中に抱えながら生きていかなければならないんですよね。

だから、困難や苦労がもたらす「負債」の側面に一切触れることなく、ただ「成長できて良かった」と美談で片付ける姿勢には、強い違和感があります。

成長と引き換えに負った傷は、一生かかっても無毒化できません。

「そんなのあっさり捨てて忘れたらいいじゃん。前を向こうよ」と思うかもしれませんが、心や魂に刻み込まれてしまったものを、簡単にゼロにできるんでしょうか?

ひどい怪我をしたときに、傷は塞がっても跡が残ることがありますよね。あれと同じです。もうどうやっても取れないんですよ。

外側はまともな服を着て、普通の大人として社会に馴染んで暮らしていても、内側は傷だらけのままです。

苦労をしても、得るものより失うものの方が大きい。収支があわなさすぎるんです。


苦労と成長、その収支の合わなさ


「成長」という言葉を使うと、そこにはいつも「苦労 → 成長 → 良かった」という、過去を無理やり肯定させるような空気が漂います。

実際、苦労によって得たものと失ったものは、必ずしも釣り合うわけではありません。

ここに、圧倒的に収支の合わない困難を経験した人物がいます。

それが、有名な王妃「マリー・アントワネット」です。

私がシュテファン・ツヴァイクの小説、「マリー・アントワネット」を繰り返し読むのは、

彼女が私と同じように本来は戦いとは無縁の、ごく平凡な性質の持ち主だからです。

ヴェルサイユ宮殿にいた頃の彼女は、まだ人生によって試されたことのない、完成されていない存在でした。

マリー・アントワネットの肖像画
画像出典:Wikipedia Commons

そしてフランス革命が起き、王妃の座を奪われ、家族と引き裂かれ、死がすぐそこに迫る過酷な環境の中で、

ツヴァイクの言うように「苦悩に洗われた」彼女は、王冠を失って初めて真の王妃らしく、自分自身を超えて圧倒的な真価を現したのです。

でも、たとえその苦難によって完成された人格に辿り着いたとしても、彼女の行き着く先が「断頭台」であるなら、「苦労して立派になれて良かったですね!」などと言えるはずがありません。

マリー・アントワネットの処刑の様子
画像出典:Wikipedia Commons

マリー・アントワネットが「困難によって成長した」それは事実だと思います。

でも、王妃としての成長と断頭台では、圧倒的に収支が釣り合いません。

王妃として成長したとしても、代償があまりにも大きすぎます。

この「収支の合わなさ」こそ、多くの苦労話から抜け落ちているものだと思います。


『夜と霧』が投げかける「苦難の意味」


世間に溢れる、苦労を美化する話にどうしても馴染めなかった私が唯一、素直に頷くことができた本があります。

圧倒的に収支の合わない困難を経験したオーストリア出身の精神科医、心理学者、ホロコースト生還者であるヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』です。

ヴィクトール・フランクル
画像出典:Wikipedia Commons

ナチスの強制収容所という、極限状態を生き抜いた精神科医の心理記録であるこの本の中に、次のような一節があります。

「著しく困難な外的状況こそ、人間を内面的に自らを超えて成長する機会を与えるものだ」

ヴィクトール・フランクル「夜と霧」旧版

この一文だけを切り取ると、松下幸之助氏の語る「苦労は人を育てる」という思想と大きく違わないように見えます。

でも、私が受け取った印象は全く違いました。

なぜなら、フランクルは安全な場所から苦労を語る人ではないからです。

フランクルが語っているのは、アウシュヴィッツという極限状況の中で見た現実です。

そこには希望があったわけではありません。

むしろ絶望しかない世界です。

明日生きている保証もない。

飢えと寒さがあり、死が日常にあり、人間の尊厳が踏みにじられる世界です。

『夜と霧』には、苦難のただ中で揺れ続ける人間の姿が描かれています。

収容所の中で見た夕日に心を動かされる人。

死を前にして、窓の外の一本の木に語りかける女性。

泣くことは恥ではないということ。

そこにあるのは「苦労して良かった」という綺麗な物語ではありません。

どうしようもない現実の中で、それでも人間であり続けようとする姿です。

フランクルは苦難そのものを肯定していないし、アウシュヴィッツを「必要な試練だった」とも言っていません。

むしろ理不尽は理不尽として存在することを認めた上で、その中で人はどう生きるのかを問い続けています。

苦しみに意味を見出さなくていい。

無理に感謝しなくていい。

現実を美化しなくていい。

失ったものは戻らないし、受けた傷が帳消しになるわけでもありません。

それでもなお人間は考え、生きようとすることができる。

私が『夜と霧』に希望を感じるのは「苦労には意味がある」と教えてくれるからではありません。

収支が合わない現実を認めた上で、それでも生きることはできると教えてくれるからです。


地獄の中で人を支えるもの


苦労や不幸に意味を見出そうとすると、神仏や運命のようなものに答えを求めたくなる時があります。

本当に追い詰められた時は「何か見えない力が助けてくれないだろうか」と願ったこともあります。

でも、現実は違います。

苦難の最中に神や先祖が救ってくれるわけではありません。

もし本当に神がいるのなら、ユダヤの神は何故アウシュヴィッツのユダヤ人を救わなかったんでしょうか。

アウシュヴィッツの被収容者
画像出典:Wikipedia Commons

私も、それこそ「もう無理だ」と思ったとき、心から神や仏、先祖に縋(すが)ったことはあったけど、現実は苦しいままで、何一つ変わりませんでした。

本当に苦しい時、私を救ってくれたのは、神仏の奇跡や先祖の霊といった見えない力ではありません。

実際に手を差し伸べてくれた友人、同僚、親兄弟、現実を動かすためのお金、医療、食べ物、そして私自身を動かす身体と環境といった「実体」のあるものばかりでした。

もし、目に見えない神聖なものばかりに意識を向けているなら、目の前にあるこれらの有り難さに気づけなくなってしまいます。

人間を生かしているのは何かしらの奇跡の意思ではなく、肉体、物質、環境といった、極めて物理的な実体です。

とても冷たい見方に思えるかもしれません。

でも、不確かな物語に逃げないからこそ、地獄の中で自分を救ってくれた、目の前にある「実体」の有り難さに、真っ直ぐ向き合うことができるんだと思います。


「あの苦労があってよかった」とは思えない


困難という災害は、傷跡が残るだけでなく人間そのものを変えてしまいます。

だからこそ、私は世間に溢れる「苦労はありがたい」という言葉に、どうしても強い反感を持ってしまいます。

そもそも、現実の自然災害に遭った人に対して、周囲が「今回のことで成長できて良かったですね」などとは絶対に言わないはずです。

もちろん被災した後に何かを学び、価値観が変わる人はいるでしょう。

だからといって「災害に遭って良かった」ということには決してなりません。

台風の後に、以前よりも風雨に強い家を建て直したとしても、その台風に感謝するわけがないのです。

私は苦労も同じだと思っています。

苦労によって何かを得ることはある。

でも、それは苦労そのものを肯定する理由にはならないのです。


ただ普通に楽しく幸せに生きたかっただけ


多くの成功本が語る「苦労は人を育てる」という思想は、苦労の先にある成長や成熟を見つめているように映ります。

それに対してフランクルの『夜と霧』が描くのは、苦難のただ中で「揺れ続ける人間の姿」です。

私が必要としていたのは、苦労を乗り越えた人の成功談でも偉人の教訓でもなく、地獄の最中にいる人間の、そのままの言葉だったのです。

まあ、自分の状況と読むべき本がズレていた、っていうひと言で片付けられる話ではありますが。

私は困難によって変化した自分や、その結果として得たものを否定するつもりはありません。

若い頃よりは人を見る目が養われたかもしれないし、深く思考する力もついたかもしれません。

でも、あの苦労や苦しみが必要だったとは思わないし、苦労に感謝しようとも思いません。

苦労と成長の収支は、最後まで合わないままでしょう。

それでも、自分が生き延びてきたことだけは認めてやりたいと思います。


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