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塵と十字架(3)


第一章 赤き死の影

二〇三六年、ニッポンは消失した。
 国土も人も何もかもが失われた。国連からその席が消え、あらゆる国際機関からもその名が無くなった。その名は過去のものであり、存在しない国名となったのだ。
 
 二十三年──歴史を遡ってみよう。
 
 折から始まった米国の対テロ戦争。二〇〇三年、日本政府は自衛隊を紛争地イラクに派遣する。隊員は水道を引いたり建物を建設したり、所謂、人道支援活動に地道に従事した。始めは猛反対していた内閣野党、マスコミも次第に反対の声を叫ばなくなっていく。
 他国と比べて、銃の引金を引く事に非常に制約の多い自衛隊であるが、その宿営地には連日のように攻撃が相次いだ。それは現地政権残党、武装勢力等によるロケット砲攻撃といった単調なものであり、人的被害の及ぶ所ではなかったわけだが、それでも困難な状況は日増しに重く、彼等に伸し掛かっていくのだ。
 しかし自衛隊撤退を謳いながらも、事実、撤退完了を各メディアに発表しながらも航空自衛隊を中心に派遣は続いていく。
 自国内での凄惨なテロ、国内事情、国民の反対運動、或いは金銭問題……。追い討ちをかけるようにイラク内での各国軍事拠点への攻撃、破壊活動。他国が次第にイラクから軍を撤退させていく中、必然的に日本に「警備」の比重が大きくなる。自衛隊はサマワ、バスラ、カルバラに拠点を置き、イラク南部に大規模に展開するようになっていった。
 変革は二〇一二年に訪れた。日本は国内四箇所、更にイラク内自衛隊軍事拠点に同時多発テロを受けたのだ。
 イスラム系の、過激派武装勢力による作戦である。但し、日本政府は直前にその情報を得ていた為テロリストは撃退され、更に本格的な掃討作戦に移行するに至った。僅か一週間の間に武装勢力指導者数名を殺害、或いは拘束。計画は完全に失敗に終わった。それは泥沼化した隊テロ戦線において、稀にみる痛快な勝利となったのだ。
 強調すべきは、それが米国との共同作戦ではなかったという点だ。日本単独の勝利であると各国メディアもその動向を注視した。
 これにより日本は中東における利権を確立し、軍事力の増大と共に次第に国際的影響力を増していく。それでも日米の蜜月関係は未だ続く。日本はアジア・太平洋地域における米軍の船舶や戦闘機等の精密部分の修理拠点として位置づけられ、それは企業への技術転移を伴って、この国は更なる技術大国へと成長していくのだった。無論、これはアメリカによる対中戦略の一環である。
 同年、中央アジアにおける軍事拠点争いから米中の対立が表面化した。更にパキスタンでは軍部の分裂、若手軍人による政権転覆等──世界情勢を鑑みれば二〇一二年は激動の年であったといえよう。
 この頃から日本は急速に軍事化を押し進めていった。国内でのテロへの対応策、海外における利権維持の為、自衛隊は本格的に米軍式の軍事態勢を整えるに至ったのだ。
 それから十年。荒れ狂う世界情勢。そこに大国が二国。
 国内が分裂し、行き詰った感の否めないかつての大国アメリカ。
 一方はかつての同盟国ロシアとの戦争に勝利したものの、先細りが見え始めた中国。
 共に専横外交がたたって世界から急速に孤立していく。両者は世界を握りたいと共に願っている。
 日本としては、対中路線を取る米国との結束が深まったように見えたが、既にこの時点でアメリカは見限られていたのだろう。
 二〇三一年、中国と極秘に軍事同盟を結び、ニッポンは遂に対米戦争に突入した。王者アメリカ潰しの戦いだ。
 二〇三三年の国会議事堂テロなど、大きな危機は多々あったが、ニッポンは優勢に戦いを進める。資源持久力の無さを、他国との外交でカバーする戦略が物を言ったか。
 そして二〇三六年、夏──核。
 中国によりニッポン全土に合計十発の核爆弾が落とされた。技術力を総結集して造られたその破壊能力著しく、威力は高性能通常爆弾(TNT)換算で一億トン。ニッポン国土はほぼ完全に消滅した。多くの人間は何が起こったかも分からないうちに蒸発したのである。
 政府は壊滅し、人口は二%に激減した。そしてニッポンという国家は地球上から消滅したのだ。
 西風の強い日にそれは落とされたので、死の灰は太平洋を隔てた北南米大陸にまで達したという。
 ニッポンの土地は消滅した。海に沈んだのでもなければ、焼け焦げたのでもない。文字通り消えてしまったのだ。
 しかしここに一つの街が。
 関東地方の折り重なる高層ビル群の狭間に埋もれるようにして存在していた故か、大地を灰に埋もれさせながらも辛うじて残っている場所があった。かつて両国と呼ばれていたその場所。面積にして僅か四平方キロメートルのその土だけがこの国の最後の名残だ。
 生き残った僅かなニッポン人は危険を冒して中国の埋立地に渡って生き延びたか、或いはリョウゴクで最悪の暮らしを始めた。消滅した国の人間には一切の保護がない。国連も国際機関も人権団体も一瞥だにしない土地。
 常に灰と放射線が舞い落ちる劣悪な環境。そこにはいつしか塵の町──《塵(ダスト)》と呼ばれるようになっていった。


 雪が降っていた。いや、違う。灰だ。暗い空を覆う汚れた色彩。死の灰。それは雪のように《塵》に降り積もる。
 この街の人口は約六四〇〇。戸籍もないので確かな数字ではない。実際はもっと多いのかもしれない。その人々が.狭い場所にひしめくようにして暮らしているのだ。
 街外れ。しかしここには見渡す限り人の影はない。荒れ果てた地に金網が張り巡らされてあり、その向こうに小さなコンクリートの建物が一つあるだけだ。核で残ったビルの一部をそのまま使っているような造りである。
 金網のあちら側──つまり街の方から爆音が近付いて来た。音が大きくなるにつれて地震のように地面も小刻みに響く。完全に死んだ土地だが、生物は居る。その車が通り過ぎる瞬間には、道端に寝ていた猫や小動物が慌てて脇に走り避けた。
 爆音の主は四駆高機動車両──RATTと呼ばれる車である。オフロードレース用の車両から開発され、アメリカ空軍特殊部隊で使用されていたジープの改良型車両だ。元々戦闘レスキュー・ミッション用の救急車として設計されているので、後部には担架を幾つか乗せる為の広いスペースが取られているのが特徴である。おかしな事に、現在そこに載せられているのは担架ではなくて木製の長方体。人間一人が入れる大きさのそれは……どう見ても棺桶であった。地面の粗さに伴ってがたがた跳ね上がる様子から、中身がない事は伺えよう。
 さして速度は出ていない。時速にして七十キロ程度であろうか。灰を巻き込み、砂塵を左右に散らして進む。そのドライバー席では黒ずくめの巨漢がハンドルを握っていた。灰色に近い黒髪を後頭部で束ねている。その短い束が荒れる風に揺れる度に、背後の棺桶がガタガタ音を立てた。それを背に感じるのか、男の頬がにやりと緩む。不健康を絵に描いたような顔色の悪い男だ。どこか不吉な雰囲気を漂わせている。しかし印象とは違い、よく見るとまだ若い事が分かるだろう。
 しばらく走ってから、金網の手前でゆっくりと車は止まる。男は大きな身体を縮めて網の破れから中に入った。
 車の音を聞きつけたのだろう。建物の中から人が顔を覗かせた。男は首だけを曲げて軽く頭を下げる。相手は大きく手を振ってみせた。裏へ回れという事だ。男の表情は変わらない。いつものコースである。鉄柵の付いた窓の下を通って、彼は慣れた足取りで建物をぐるりと回った。
 極小さな建物の裏手は、しかし随分と荒れ果てていた。壊れた機械やゴミ等々、要らない物全てをそこに放り出したという様相を見せている。据えたようなこの臭いは、決して核の土壌汚染の為ばかりではあるまい。
 男の鼻腔がくんくんと動き、一際強烈な独特の臭いの元へと足が急ぐ。裏口の扉のすぐ前、無造作に放り出され、捨てられたそれ(・・)を認めた瞬間、彼の表情が一変した。頬には朱が差し、至福の笑みが満面に広がる。
「あぁ……」
 吐息が漏れる。
 ぐにゃりと手足を曲げてそこに転がるのは、どす黒い色をした人間であった。明らかに薬物中毒の皮膚の色をしている。通常ありえない角度で身体が曲げられており、生きたものでない事は明瞭であった。一応の手当ての跡はあるが外傷が著しく、辛うじてそれが生前は男であったという事が分かる程度だ。
「死後硬直もまだだ」腕に手を触れてその独特の冷たさに満足したように、男の笑みはますます深くなる。「新鮮な死体……」
 これが今回の棺桶の主となるのだ。さあ、車まで運んでやらなくてはならない。彼は死体の背に自らの腕を回して立ち上がりかけた。死人の冷たい腕が肌に触れる。気持ち良くてたまらない。
 その時だ。
 背後に殺気走った気配が。死体に夢中だった為、周囲に全く気を配っていなかったのだ。この物騒な街で、それは時として命取りになる。
「この死体フェチ(ヘンタイ)が。オキ、今度はちゃんと持って来たんだろうな」
 肩口を思い切り蹴られて、男は中腰の姿勢のままよろめく。大切な死体だけは落とさないように辛うじてバランスを取ってから、背後を振り返った。
 そこに立ち塞がり、見下ろすようにこちらを睨み付けるのはよく知った人物であった。
 中途半端な短さの髪がバサバサと風に暴れている。その毛先がいちいち刺さるのか、眼を細めていかにも凶悪そうに表情を歪めるのは若い男であった。よく知っている。彼の名はチカゲ。十九歳。麻薬中毒患者。彼にとっては一つ年上の幼馴染であった。
「チカゲ、死体のように顔色が悪い」
 感情のない無機質な声に、チカゲは更に顔を歪める。
「やめろ、そういう言い方は」
 いいからそれ……置いとけよ、と死体を顎で指す。当然だ。顔色も悪くなるだろう。
「それで、オキ……」
 チカゲの言を遮って、彼──オキは淡々と言葉を紡ぐ。視線は友人ではなく、じっと死体に注がれたままだ。
「最近死体が多く出る。あんたのせいじゃないのか? あまり見られた死体(もの)がないからな」
「僕が暴れてるとでも? そんなわけねぇだろ」
 肩越しに死体を覗き込んでチカゲは本当に青くなってその場に座り込んでしまった。
「そんなわけねぇだろ」もう一度、呟く。
「それより……」
 当然のように片手を差し出した。その手は微かに震えている。
「もうないのか」
 確か二日前に一カートン渡した筈だ、そう言いながら黒服のポケットを探る。マリファナ入りの煙草の箱を三つ、チカゲの手に乗せてやる。
「これだけかよ」
 悪態をつきながらも彼は早速封紙を破った。一本取り出してもどかしげに口にくわえると、ライターを取り出す。しかし折からの強風に、火はなかなか点かない。
 オキとしては早くこの死体を抱えて帰りたいようだ。傍目には分かりにくいが、そわそわし始めた。しかし漸く火を点じて薬を吸い込んだチカゲに腕をがっしりつかまれ、身動ぎ出来ない様子である。
「足りねぇな。これじゃ半日持たねぇよ。僕は施設(ここ)を動けねぇんだから、お前がちゃんと定期的に持って来い」
 偉そうに言って、マリファナの香りをゆっくりと吐き出す。オキは顔を背けた。せっかくの新鮮な死体の匂いが消されてしまうじゃないか。
「そんな訳にはいかん。俺は葬儀屋だ。死体が出なければ呼ばれない。第一、怪しまれたらもうここには来られなくなるんだぞ」
 それに……と小さな声で付け足す。麻薬更生施設(ここ)から出たければ麻薬を止めるのが一番手っ取り早いだろう。
 そもそも敷地内とはいえ収容者が簡単に部屋を抜け出て、こうやって薬をやれるというのはどういう事だろう。しかしチカゲは人の話を全く聞いてはいない。そう、昔から彼は気紛れな人間だった。
「今日は変な機械に放り込まれて。本国(アメリカ)から送られてきた軍の戦闘シュミレーション試験装置? 原発に入ったテロリストを殺していく体感ゲームみたいな。しかも途中でルール破ったとかで点数出なくて。ああもぅ、とにかく疲れたんだよ」
 至極機嫌が悪い。そのわりにペラペラ喋るのが友人の性格だ。
 この米系人権団体施設内部で何が行われているかは定かではないが、収容者達を持て余しているのは確かなようだ。
 核から五年。ニッポン人の人権など完全に失われている。
「そう言えば……」
 オキの声の調子が変わった。普段は岩のように無口なのに、死体の側に居るとやけに浮き浮きして舌が回る。彼はごく僅かだが、興奮したように早口になった。
「《赤き死》、あんたの姉さんを見たぞ」
「え……」
 ポロリと煙草を落とす。心臓がどきりと鳴った。「熱ッ!」と慌てて立ち上がったものの、チカゲはその場に硬直してしまった。視線が震え、相当な動揺を表している。
「イズミを……?」
 そんな馬鹿な、馬鹿な。だって彼女は……。
「彼女は死んだ……」
 どこで何をしていたかは唯一の肉親である弟にも詳しく知らされてはいなかったが、自衛隊員として対米戦争に従軍していた姉はとっくに死んでいる。
「オキ、いい加減な事言うな。いくらお前でも殺……」
 チカゲの声が低くなった事に、葬儀屋は初めて危機感を覚えたようだ。
「ち、違う。実際に見たわけではない。テレビだ。今朝、テレビに映ったんだ。昔のニュースの映像だ」
 尤もすぐに電波が落ちてしまったのだが。
「……昔の? ああ、そうか……」
 チカゲが目に見えて肩を落とした。膝から力を失ったように地面に崩れ落ちる。
 かつて国民のほぼ全員が専用のテレビモニターを持っていた時代があるが、ニッポンの衛星が落ちた今となっては、それは当然の事ながら何も映さない。但し天気の良い日に西からの電波を拾うのか、中国の番組が映る事があった。音声もほとんどないし、画像も悪い。内容は多岐に渡っており、たまにニッポンの昔の番組をやるらしい。オキが見たのはそれであろう。
 国会議事堂でのテロの時、あんたの姉さんが爆弾を抱えたテロリストを捕まえただろう。その時のニュース映像だ。
「何故今頃そんなものが流れたかは知らんが、街中一斉に映ったようだ。二、三秒で消えたが……久々に見たな。あの赤い髪……」
 新たな一本に火を点けたチカゲが肩をわななかせている。ふぅ……と煙を吐いた瞬間、彼の手が葬儀屋の額を弾いた。黒い姿がのけぞる。
「紛らわしいんだよ。昔のならそう言え。僕はてっきり……」
 お前はいつも言葉が足りねぇんだ、と毒づく友人は今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。すまないと思いながらもオキの表情は変わらない。彼は黙って起き上がると頬を押さえながらも、すぐに死体の方へと這って行った。チカゲの仕打ちに対しては何も言わない。実際、言葉の足りない男であった。チカゲが施設に収容されてから五年。死体引取の仕事の度に黙って薬を届けてくる。時にありがたく、時に苛立つくらい無口な友人だ。その鬱憤をぶつけるようにチカゲは地面を蹴って苛立ちを表す。こちらもまた、短気な性格であった。
 しかし、何故──?
 姉は軍人だ。だから戦争で死ぬのは仕方のない事なのか? 否、たとえ戦争でも許せなかった。どこの誰が姉を殺した? 許せない。許せない。同じ事を姉自身が余所の国の他の誰かにしていたとしても、そんな事は関係ない。
 必ず見つけ出して殺してやる。チカゲは復讐を誓っていた。
 姉を失って数年……彼は気付く。自分は何も持っていない人間だった、という事を。薬と復讐心。それだけしかない空虚な人間。彼女が居なければ、時に孤独に押し潰されそうになる。
 しかし、何故──? 当初感じた疑問。
「何故、今頃イズミ……《赤き死》の映像が?」
 それも今朝になって突然?
 オキの言う事は不審な点だらけだった。チカゲの中の理性的な部分が疑惑を提唱する。しかしマリファナの煙に満たされた脳は考える事を拒絶した。
「気分悪ぃ。帰るよ……」
 片手に煙草の箱を握り締め、もう片手で裏口の扉横にある窓枠の鉄柵の捩子を弛めた。成程、こうやって自由に出入りしていたのか。そっと柵を地面に下ろして窓枠に足を掛ける。
 その瞬間、眺めるオキの前でチカゲの背がビクリと震えた。次いで大音響が。これは爆発音か?
 ほとんど反射的と言っても良い。オキが身を屈めたその一瞬の事。建物の中から炎と熱風が吹き出たのだ。その力を全身に喰らったチカゲの身体は宙を飛び、背中から地面に叩きつけられる。
「ゴフッ!」
 喉を喉を鳴らして咳き込む友人だが、オキは駆け寄ってやる事も出来なかった。彼の目は、そして倒れてもんどりうつチカゲの視線すらも一点に釘付けになっていたのだ。
 正にチカゲが入ろうとしていたその窓。今の爆発で強化硝子は割れ、窓枠もぐにゃりと変形したその場所。
「なに……?」
 掠れた声はチカゲのものだったろうか。
 ──あれは、何だ。
 小柄な、人間で言うと少年といって良い体格のモノが窓の枠に片足を乗せ、腰を落としたままの体勢で今しもこちらに飛び出さんと首を擡げている。その動物的身体バランスもさることながら、衝撃を与えたのは何よりもその姿。
 腕も、足も、身体も、形は人間そのもの。しかし全身を灰色の体毛が覆い、異様なまでに筋肉が隆起し、蠢いている。ぎらついた双眸はそこにチカゲとオキの姿を認め、殺意にきらめいた。ギラリと覗く牙、ナイフのような爪。それは二足で立ち上がると、跳躍した。
 狼でも虎でもない。何の動物か判別出来ない。敢えて言うならば獣人とでも表現すれば良いだろうか。
「な、何だ。アレはっ!」
 最初の驚愕から早くも立ち直ったチカゲだが、奥歯はカタカタと鳴り続けていた。その生物の敵意向き出しの視線に、恐怖を覚えぬ人間など居はしない。それでも腰を落として未知の生物に対しての臨戦態勢を取ったのは、身に染み付いた防衛本能でしかない。
 こいつは一体何者だ? この建物の中から飛び出してきやがった。こんなもの、いつの間に? どこから入って来たんだ? それとも施設で飼っていたとでも?
 考えが纏まらないうちに獣人は窓枠からその身を躍らせた。咄嗟に身構えた細い方ではなく、狙いは大きな荷物を抱えた黒い方である。
 空気を裂くような「ギャッ!」という叫びを上げて翻る腕。鋭い爪が薄い陽光に輝いた。黒い男は動かない。否、動けないのだ。迫り来る刃のような爪をただ、見詰めるだけ。それが顔面を抉る直前、横腹を押し退けられるようにしてオキはその場に倒れた。
「何ぼけっとしてるんだ!」
 怒声が飛ぶ。咄嗟に友人を庇ったのはチカゲであった。初手の攻撃が躱された怒りからか、獣人は低く唸りをあげて二人の周囲をぐるぐると回り始める。ようやく我に返ったオキが地に落としてしまった死体を抱え上げると、更にチカゲに怒鳴られた。
「そんなもん放っとけ!」
 そ、そうはいかん。オキは震える声で反論する。
 そんな二人の様子を伺いながら、攻撃の絶妙な機会を計っているのだろう。獣人の足が更に速まった。
「来るぞ!」
 チカゲが叫んだその時だ。裏口の扉が勢い良く開いて、中から数人の白衣の者が飛び出してきた。チカゲにとってはよく見知った施設の看護員である。全員が米国人である事は見た目からも、慌しげに交わされる言葉からも瞭然であった。
「刺激が強すぎた。装置の中で獣人化」
「突然暴れだして、機械を壊したんだ」
「神経薬は打った。だがもう効かない」
「もう耐性が出来てしまっているんだ」
 ──何言ってやがる? まさか……。
 早口の英語を理解したのは、この場ではチカゲだけであった。
 まさかこのごろ、頻繁に葬儀屋(オキ)が仕事に来るのは獣人(コイツ)が原因では?
「仕方がないだろ。もう射殺するしか」
「どうせ本国からは無視されてるんだ」
「いや、駄目だ。何とかして捕獲しろ」
 看護員達の乱入のおかげで、獣人の注意が散漫になっていた。チカゲはじっと動かずそれを見る。或いは生物としての本能か。今動いて、奴の注意を引くのは危険だと。
 麻酔銃、神経剤を入れた注射器、それから殺傷力のある片手銃(ハンドガン)。看護員達がそれぞれの手に様々な武器を握り締めた。ステンレス製の銃のきらめきに反応したのか、獣人の体は完全にそちらに向いている。
 今のうちだ。
 そっとオキに目配せすると、彼も固い表情で小刻みな頷きを返した。
 二人が走り出そうと足を踏み出した瞬間。獣人が飛び、銃口が火を噴く。しかし悲鳴をあげたのは、こちらに居るオキであった。肩に担いだ死体に弾丸が掠めたのだ。反射的にそれを放り出した彼だが、もしも死体を持っていなかったら弾丸は彼の首を撃ち抜いていたに違いない。恐怖が全身を襲い、ペタリとその場に腰を落とす。
 その様を横目に、チカゲが舌打ちする。二人で逃げるのは無理だ。まさかあの背の高い男を担いで走るわけにはいかない。そうする間にも看護員の銃はあらぬ方向目掛けて弾丸を弾き飛ばしている。
「……ヘタクソが!」
 チカゲの身体が方向転換する。看護員達の方に向かって、である。
 近付いては爪の攻撃を加え、瞬く間に身を引く。獣人のその攻撃に対して、特別な訓練を受けていない麻薬更生施設看護員が応戦するのは土台、無理な話だ。米国人達は数秒毎に傷を増やし、倒れていった。死んではいないようだが、確実に戦闘不能状態である。悲鳴は今や建物中を覆っている。中に居る患者や他の看護員が窓から様子を伺っては右往左往しているのだ。
 その激戦の直中へ、チカゲは身を滑らせた。獣人の爪を掻い潜る。狙いは倒れた看護員の手にあるハンドガンだけだ。それを奪い取って身を引くと、彼は至近距離から獣人目掛けてぶっ放した。
 素早く弾丸を避ける動きを見せたそれだが、こめかみ近くを弾が掠めたのか、ぐらりと上体を揺らす。ドン。音立ててその場に倒れ込んだ。
「し、死んだか?」
 駆け寄ってきたオキに、チカゲは噛み付く。
「こんなもん、持って帰るなんて言うなよ!」
 それに死んじゃいないだろ。弾が掠って脳震盪を起こしただけだ。
「それより……」
 肩で息をしながら、チカゲは周囲を見る。施設の中は大混乱に陥っていた。獣人を恐れて、誰も裏口には出て来ない。患者(チカゲ)がこんな所に居る事すら、誰も気付いてはいないようだった。そしてこの手には銃がある。今をおいて、他にない。
「オキ、逃げよう!」
 五年間、閉じ込められていたこの場所から、今こそ自由に。
 しかしオキは彼の声など聞いてはいなかった。
「お、おい、チカゲ。これ……」
 その視線は足元に。無残な死体をも見慣れ、しかもそれを愛してやまないという彼が声を詰まらせている。
「何だよ、人の話を……」
 顔を顰めてその視線を転じたチカゲも、友人の驚愕と同じ反応を。
「これは……?」
 意識を失った獣の身体から体毛が消え、つやつやした人間の肌に変じていたのだ。殺意にぎらついたその顔も、穏やかな少年のそれに変わる。凶器の爪は細い指に、牙もすっかり消えている。
 僅か三十秒後には、そこにはどこから見ても普通の人間の少年が横たわっていた。短い茶色の髪。年の頃は十五、六に見えようか。二人は目を見開き、その変化に見入るだけ。
「と、とにかく逃げるぞ」
 しかしオキは動かない。それどころか、少年の側に屈み込んで震える手で触ろうとしている。その目の輝きは既に恐怖よりも好奇心が勝っている証だ。
「オキ!」
 何度呼んでも返事をしない友人に、チカゲは嫌な予感を覚える。案の定、彼は少年を抱え上げた。
「面白い。連れて行く」
 何言ってやがる。面白いだと? この馬鹿!
 言いたい事は山ほどあった。しかし気を失っていた看護員が呻き声をあげ、手をピクリと動かしたのを視野に捉えたチカゲはもう走り出していた。とにかくここから逃げるんだ。
 背後からややこしい物を抱えた友人が駆けて来る足音を聞きながら、チカゲの心は五年振りの街へと、懐かしい我家へと早くも飛んでいた。
 
     ※
 
 灰が降り注ぐ。
 あと一月程でクリスマスだ。
 ヒイラギの実が生るのは今頃なんだろうな。寒さに震えるチカゲの唇が笑みを形造っていた。
 今はクリスマスというものが何を示すのか知っている。但し、祝いの方法は具体的には分からない。昔から姉のイズミが防衛学校に、或いは長じてからは軍の仕事に出る事が多く、家族全員が揃う機会がなかったせいか、年中行事とは縁がなかったのが原因かもしれない。
 今となってはもう──。チカゲの微笑が凍り付く。
 イズミのヒイラギはもう死んでしまった。
 
 左手に握り締めたままの銃に視線を転じる。施設の職員が携帯していただけあって、重さも一キロ弱。全長も二十センチ程度のお守りのようなハンドガンである。
 べレッタM92FS。アイノックスと識別されるステンレス製の銃身を備えた銃だ。実際、これは優秀な銃であった。一九八五年、米軍が正式採用して以来世界中の軍、警察機関で愛用されている。二〇三一年現在でも主要な装備の一つとなっているのだから、その有益性は他と比ぶべきもない。非常に精密なので誰にでも扱えて、誰が撃っても良く当たる。小銃だから発射時の反動も少なく、片手で扱う事も可能だ。女性の愛用者も多いという。
 それは姉から武器弾薬、大型重火器、全ての扱いを叩き込まれたチカゲとしては軽すぎる相棒であったが。
「無いよりましか」呟いて彼はぶるっと身を縮めた。「クソッ、寒ぃな」
 施設で与えられたシャツ一枚では凍えてしまう。ちらりと隣りを見ると、オキは暖かそうな黒いコートを着込んでいた。文句を言ってそれを剥いでやろうと口を開きかけた時だ。友人が口を開く。ぽつりと一言。
「《塵》だ」
 車は街の中心部へと近付いていた。
 懐かしい故郷はすっかり様変わりしていた。色彩のない灰色の崩れ果てた人工の街。それでも地面が残っているだけましだろう。ニッポンの他の場所は全て消えてしまったのだから。
 かつて両国と呼ばれたその街は世界で一番華のある場所であった。国技館を中心として古い町並み、隅田川、それから新しいビルやホテルが入り混じって立ち並ぶ、そのくせその全てが違和感なく調和する都市であった。相撲が開催される間は世界中のあらゆる人種がここに集まったものだ。
 しかし今は……。
 ニッポンで唯一残った幸運な街とはいえ、核の影響が皆無だったわけではない。立ち並ぶビルの中、上層部は全て飛んでしまい、剥き出しの鉄骨が突風に揺れる光景が寒々しさを演出する。
 オキの運転するRATT改良型車両は軍用ジープとして造られた物だ。つまりそれには屋根がない。運転席、助手席、荷台の全てが吹き晒しだ。座席脇や荷台には早くも雪のように灰が積もっている。しかもその荷台には今や──。
「オキ、寒い……」
 隣りで唇まで紫にして震える友人の姿に、ようやく葬儀屋も気付いたようだ。しかし言葉の足りない男は軽く頷いたのみで、何の行動もくれなかった。チカゲの事より余程気になるのだろう、ちらちらと背後に目をやる様子が見て取れる。
「この科学おたくの死体フェチが」チカゲが舌打ちする。
 荷台に乗せた少年──獣人の体の仕組みが気になって仕方がないのだろう。
「気持ち悪ぃんだよ」
 隣りの変態も、後ろの怪物もだ。ぶるぶる震えながら、尚も悪態をつかんとするチカゲだが、背後で鳴った物音に息を飲む。更なる震えに襲われた。
「うぅ……ん、あれ?」
 大きな欠伸の声。続いて背後からごそごそと。物音は少しずつこちら側に寄ってくるようだ。チカゲはべレッタを握り締める。振り向いて、ぶっ放す。オキが何と言おうと、こんなモノは殺すしかないんだ。
 しかし先を越されてしまった。オキがいつにない喚声をあげて、体ごと後ろを振り返ったのだ。ハンドルから手が離れ、必然的に車は左右に揺らぎ始めた。
「クソッ!」
 馬鹿とかクソとか怒鳴りながらも、チカゲは助手席から体を寄せてハンドルを握った。道路が整備されていないくせに、意外と車両は多い。運転を誤れば即大事故に繋がる。背後を振り向く余裕などなかった。
「寒い! 何これ、何処ここ? え?」
 オレ、裸だよ?
 そう叫んだうるさい声は、まさかあの獣人──少年か?
「分かった」
 それを受けて、狭い所でオキが自分のコートを脱ぎ始める。図体のでかい男が動く度にチカゲの顔や肩に肘が激突する。文句を言う気力も失せた。
「ごめんね、ありがとう」
 実に気楽な調子で言うと、少年はコートを受け取って荷台の上で着込んだようだった。確かに獣人の時は気にならなかったが、それがそのまま人間の姿に変じた以上、衣服なし
という姿はいただけない。
 それで……?
 先を促すようにオキが言った。
 それで、おまえは一体……何なんだ?
 しかし少年は答えない。彼なりに現状把握に必死なようだった。
「ここは? 街に帰ってきたの? 施設は? ああ、そうだった。オレ、変な戦闘シュミレーション装置に入れられて、それで気分が悪くなって……。それから後は例のごとく記憶がない」
 参ったな、と呟く。
「……オレ、また獣化したの?」
 少年のテンポに付いていけず、オキはポカンと口を開けている。それを横目に見ながら、チカゲはげんなりと溜め息をついた。何が例の如く記憶がない、だ。馬鹿にしやがって! とは言え、この少年から差し迫った危険は感じられない事に一応は安堵する。
 少年は明るいというよりは自分勝手にペラペラ喋り始めた。オキを押し退けて前に顔を出す。
「チカゲだね。五年間同じ施設にいたけど、一回も喋ったことないよね。あそこからオレを連れ出してくれたのはチカゲなの?」
「は?」
 それどころではない。運転席に腰を下ろしながら後ろを向いているオキ、そこに身を寄せてハンドルを握る自分、更に少年までもが近寄って来たのだ。狭苦しいったらない。
「知らねぇな」
 冷たく吐き捨てると、馴れ馴れしく肩を叩かれた。ベレッタを握る片手に、反射的に力が入る。
「チカゲは外ばっか見てたもんね。オレのことなんて気付いちゃいなかった。オレも獣化しちゃ、しょっ中隔離されてたし」
「だ、だから獣化って……」取り残された状態のオキが無理矢理話に割って入る。「獣化って何だ。何であんな姿に? おまえは一体……」
 質問が支離滅裂だ。珍しい。余程興奮しているらしい。ああ、これ以上ややこしくしないでくれと首を振るチカゲなどには目もくれない。少年は少し考え込んだ様子だ。
「オレのことが知りたい……て言うよりはオレのこの状態? 知らないよ。むしろオレが知りたい。でもオレは普通の人間だよ」
「普通の人間だって?」
 そんなわけねぇだろ。第一何だ、その喋り方。異形の獣人のくせに軽すぎるんだ。胸糞悪ぃな。吐き気を覚えたのは、斜めに倒れたまま運転している為ばかりではあるまい。
「それでオキ、どうするんだよ、これ」
 まさか連れて行く気じゃねぇだろうな。いいから施設に返してこいよ。
 友人に目をやるが、好奇心から満面の笑みを浮かべた葬儀屋にこちらの思惑は届いていない。
「これ? ああ、オレ?」少年は肩を竦める。「オレは……ずっとビーストって呼ばれてたよ」
 獣(ビースト)かよ。そのまんまんだな、と思わず苦笑を覚える。
 多分、本名じゃないけどね。困ったように言って、少年は初めて目を伏せた。チカゲは肩を竦める。事情を聞く気はない。捨て犬じゃないんだ。万一、こんな奴に同情でも覚えてみろ。面白くない事態に陥るのは目に見えている。オキの足を叩いてブレーキを踏ませると、車はその場に急停車した。
 爆風に崩れたビルの前だ。
「着いたぞ」
 チカゲは一人でさっさと車を降りる。このビルの半地下の一室──そこが彼と姉の家だった。上層部は吹き飛んでいるが、幸いな事に彼らの部屋と小さな庭は無事なようだ。不本意ながら施設に入っていた五年間、一度もここには戻ってきてない。しかし見たところ、変わりはなさそうだ。玄関に回るより庭から部屋に入った方が早い。チカゲは庭に積もる瓦礫の上を器用に渡り始めた。
 そして、足を止める。
 彼の目は大きく見開かれ、一点に釘付けになっていた。
 そこには、冷たい色をした緑が。
「イズミ……」
 焼け焦げた姉のヒイラギから、新しい緑が芽吹いていたのだ。
 
 


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