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【小説】彼方に光る星屑たちよ 2

story

医療機器メーカーの製造現場で検査部門の係長をつとめている小坂省吾、省吾の下で働いている派遣社員の川嶋祐里、省吾の恋人の渡辺美玖、以前祐里と関係を持っていた林海人。この四人の若者たちが織り成す物語。

これといった野心も持たず、事なかれ主義を貫いて、日々何事も起きないことを第一として仕事に取り組んでいる小坂省吾が、部下の派遣社員の川嶋祐里が雇い止めになることをきっかけに、祐里と関わることで少しづつ変わっていく。

祐里の家庭の事情を知り、祐里が雇い止めにならずに済む方法を探す省吾。恋人の美玖の力を借りれば祐里の再雇用が決まると気付いてからも、まだ将来を決めてしまいたくない省吾は、美玖に借りを作ることがふたりの結婚の暗黙の了解に繋がることを恐れ、踏み出せない。

それでも「祐里を助けようと思えば助けることが出来た」という後悔をしたくないと感じた省吾は散々逡巡した結果、恋人の美玖の力を借りることにする。

美玖の父親の力で非正規社員ではあるけれど直接雇用になれた祐里。省吾はこれで美玖に借りを作ってしまったと複雑な気持ちになる。そして省吾との結婚を望む美玖は祐里の存在を意識するようになり次第に焦り始める。そして省吾と美玖の関係がぎくしゃくしていく。





 人事部主任の田畑は、蛍光灯の白っぽい光が反射するデスクの上で、ある応募者の履歴書のコピーをじっと見つめていた。

 履歴書に記載された名前は川嶋祐里。二十五歳。検査課所属の派遣社員の女性。派遣の雇い止めリストの対象者。そして、同時期に募集されたアルバイト職の求人に応募してきて採用が決まった応募者。

 何度見直しても、田畑にとって目を引くような経歴などひとつもない、なんの訴求力も持たない履歴書だった。

 とある地方の無名の公立高校を卒業して他県に移り、食材の卸会社に就職。一年でその会社を自己都合で退職してから、二年のアルバイト生活。それから派遣会社に登録し、この会社に派遣される。

 ふーんと、田畑はその履歴書のコピーを机の上に放り投げた。

 部長の柳瀬が言うには、正社員顔負けの優秀な検査課員らしい。そんな彼女が雇い止めになるにあたって、検査課の杉崎課長がかなり熱心に、この女性を直接雇用にして欲しいと掛け合ったらしい。

 杉崎があまりにも熱心に、柳瀬が太刀打ち出来ないくらいに正論でかかってきたから、断りきれなくてその場しのぎのつもりで杉崎の要望を呑んだと、いかにもうんざりした様子の柳瀬のぼやきを聞かされた。


 柳瀬がそう言い放った時点でこの女の命運は決まっていたのに、そこから考えもしなかったことが起きた。

 〈まさか兼重専務が介入してくるなんて〉

 アルバイト職なんていうのは、こんな言い方をしたら酷すぎるかも知れないが、能力なんて必要ない職務だと田畑は思っていた。

 いや、以前は違った。正社員のアシスタントとして、戦力となるに相応しい能力をもった人材を採用していた。それがいつからだろうか。総務部長だった兼重が専務になった頃から、アルバイト職はコネ採用のためにあると言っても言い過ぎではない枠になってしまった。

 有力な取引先、それから取引銀行、県会議員の後援者の知人など、そんな連中をきちんとしたプロセスでスキルをはからずに採用するようになってしまった。

 そんな経緯で採用されたアルバイト達とはいえ皆、真面目にきちんと働いている。でもいくらかはとんでもなく碌でもない人材が紛れ込んでいるのも事実だった。

 有給の枠をはるかに超えて海外旅行に出かけた女。会長と旧知の仲の県会議員の親戚だった。その女は業務を終わらせることも、引き継ぎもせずに旅行に出かけ、職場にもの凄い迷惑をかけた。

 社用車を勝手にプライベートで使い、人身事故を起こした男もいた。

 勿論そんな人間ばかりではない。ただ、百人のなかにそんな人間がたったの二人三人であっても混ざり込んでいたら、コネ入社やアルバイト職全体のイメージが悪くなるのも当然だろう。

 人事部長の柳瀬は、専務で総務部長でもある兼重には頭が上がらない。兼重は会長の甥で、社長の従弟。つまり創業家一族だ。柳瀬はそんな兼重の大学の後輩で、兼重の計らいで入社して、人事部長にまで引き立てられた男だ。柳瀬が兼重に頭が上がるはずがない。

 そもそもが兼重も噂を聞く限りでは、専務としても総務部長としてもその職責を果たしているとは到底考えられない。

 兼重は出張のたびに個人的な付き合いの若い女性を同伴させている、なんていう噂まであるらしいし、それがもし噂ではなく事実ならば、当然その経費はすべて会社が負担しているだろう。これは立派な背任横領だろう。

 創業者一族は会長や社長をはじめ、どちらかといえば物静かで、まじめな人が殆どなのに、その中でも兼重だけは異色だった。

 そんな兼重のせいで社長は無能なボンボン、総務や人事はコネ入社の無能の集まりだと陰で言われてることを田畑も知っていた。田畑はそれが歯がゆかった。



 田畑の家は母子家庭だ。父親を病気で亡くした後は母親が昼夜問わず一生懸命働いて、田畑と妹を必死に育てた。

 田畑はそんな母親の背中をみて育ったから、遊びたいのも我慢して必死に勉強して、高校は公立の進学校へ、大学も奨学金を借りて国立の大学に進学した。

 この会社に入社したのもコネなんかじゃない。厳しい就職活動をくぐり抜けて実力で入社したのに、そんな田畑が入社して知った現実は兼重や柳瀬のような人間が幹部で、縁故入社のたいして有能とはいえない連中が幅を利かせているという現実だった。

 馬鹿げてる。現実なんてこんなものかと、田畑は絶望に近い感情を味わった。

 こんな具合では俺もどれだけ頑張っても課長止まりか、下手すればどこかの営業所長だろう。

 だからスキルを磨いていつか転職しようと思わなくもなかったが、二年前に結婚して子供も産まれた田畑にしてみたら、それは今ではないという気持ちがあった。

 田畑は三十歳だった。国公立大を卒業して、東証一部の大手企業ではないにしろ、業界では有名な一流企業に在籍している。それにまだ三十歳と若い。転職市場では、そんな田畑にはまだまだ商品価値はあるだろう。



 一週間ほど前、田畑のもとに一本の電話がかかってきていた。二年前まで人事部で同僚として働いていた渡辺美玖からだった。

 「田畑さん、お久しぶりです。渡辺です」

 田畑は椅子の上で体を少し起こした。受話器から聞こえる美玖の声は、昔と変わらず柔らかかった。

 「おっ、渡辺? 久しぶりだな」

 「私のこと憶えてました? 嬉しいです」

 田畑はもちろん美玖を憶えている。美玖が入社してきたときのことも。


 そのとき田畑は入社三年目だった。もう新人の気分でいることは許されないけれど、一人前とはいえない。青臭い理想主義もまだ捨てきれていない。なんともいえないもどかしさや、やりきれなさを感じながらも、必死になって働いていたころだった。

 「春からうちの部署に配属される渡辺っていう子、見たか?」

 「見たよ。たしかに噂になるのも頷けるぐらい可愛い子だよな」

 先輩たちのあいだで交わされる、そんな他愛のない会話すらも、田畑にとっては下らなくて、不愉快だった。

 「コネ入社だろ。どうせたいしたことないよ。おまけに親父さんがハンパない大物なんだろ? そんな奴に来られたら却って面倒だよ」

 他愛のない会話を楽しむ連中から美玖の話題を振られたら、そう答えた。どうせ腰掛け気分のチャラチャラしたヤツなんだろうと決めつけていた。

 ふざけるな。俺は実力で入社して、必死になって実績を積み重ねようとしている。能力もないくせにコネで入社してきた奴になんて構いたくないし、そいつらに足を引っ張られたりしたら最悪だ。

 ルサンチマン。成功者や身分の高いものを妬む気持ち。

 それの何が悪い? 田畑はそう思っていた。成功者や上流階級を妬む感情がみっともない感情だなんて、これっぽっちも思わなかった。

 そして職場に配属され、皆の前で挨拶をした美玖と会った。

 美玖は、いかにも育ちの良さそうな、品のいいまっとうな女性だった。田畑には肩透かしだったし、拍子抜けする思いがした。



 他の新入社員たちと同じような地味なスーツを着て、髪の毛はまるでバレーボールの選手のような短いボブ。

 ナチュラルな薄めの化粧をした美玖は、見事なまでに他の同期の社員たちに溶け込んでいるどころか、そのなかでもより一層地味だった。そんなふうに無理やり個性を押し殺していても、美玖には品の良さと人を惹きつける魅力があった。

 美玖はいままで見てきた大物コネ入社の子たちとは随分違う。

 田畑にしてみたら随分と勝手が狂った。でも、まだ一緒に働いて美玖の仕事ぶりを見たわけではない。田畑の心のなかにある捻くれたルサンチマンは、美玖に対する警戒心を安易にほどいたりはしなかった。


 美玖は優秀だった。おまけに人懐っこい性格で、職場にもすぐに溶け込んだ。物覚えもよく理解するのも早く、仕事を覚えるのも早かった。

 一見すると優秀な新人社員にみえる美玖の欠点と云えば、仕事に受け身で、どちらかというと細かく指示をしなければ動こうとしないところだろうかと田畑は思った。でもそれだって、美玖は入社してから三か月にしかならないのだから、当然と云えば当然だった。


 このころはまだ課長だった柳瀬が田畑を呼んで告げた。『渡辺さんを不愉快にさせるようなことは絶対にするな』と。その言葉の理由なんて訊かなくても分かった。

 「田畑、渡辺さんは近畿西日本銀行の」

 「知ってますよ。話はそれだけですか」

 田畑はそれ以上何も言おうとしなくなった柳瀬の顔を見ながら、こいつは本当に下らない奴だと思った。

 美玖の父親がどんな人なのかぐらい、とっくに本人から知らされていた。それも、父が誰だろうと関係なく、手加減せずに指導して欲しいと美玖から頼まれたからだった。

 だから田畑は、あえて厳しく美玖に接するようにしていた。そうすることで、美玖は配慮されているお嬢様だと周りから思われないようにしてやろうという、田畑なりの思いやりでもあった。

 田畑のそんな姿勢が柳瀬にとっては、自身の保身のために余程心配なんだろう。

 そんな柳瀬は翌年の春の人事異動で地方の支店に移動になるのではないかという噂があった。人事部の皆もそう願っていた。そんな柳瀬が地方に異動どころか人事部長に昇進するなんて、このときの田畑はまさか夢にも思っていなかった。

 その後、美玖が退職するまでの三年間を、田畑は美玖に親身に接し、美玖も田畑を尊敬できる先輩だと慕っていた。美玖が退職してからは美玖の同僚を介して食事をしたことがあったが、プライベートでまで直接やりとりをしているほどの親しい関係というわけではない。


 そんな美玖が久しぶりに、それも唐突に俺に電話をしてくるなんて、いったいなんの用だろう。

 

 「田畑さん、お久しぶりです」

 田畑は小さく息を吐き、何気なく窓の方へ視線をやった。

 先ずは差し障りのない会話から始めて、美玖の用件が何なのかを慎重に訊きだそう。

 美玖は田畑の固い様子を電話ごしに感じたのか、実はお願いがあるんですと早々に切り出してきた。

 「お願い? 渡辺も分かってるだろうけど、俺はなんの力もないただの主任だぞ。大したことは出来ないよ」

 「いや、そんなに難しいことじゃないと思うんですけれど、出来れば直接会ってお願いしたいんです」

 「電話じゃあ都合が悪いってこと?」

 田畑は、直接会ってお伝えしたいという美玖の言葉に身構えた。


 「いや、こういうことはきちんとしたくて。それに田畑さんにも久しぶりにお会いしたいですし」



 田畑はその日の夜、会社の最寄り駅近くにあるカフェで美玖と待ち合わせた。

 外はすっかり暗くなり、街灯の橙色の光がアスファルトに長い影を落としている。待ち合わせ場所のカフェの扉を開けると、奥の席に座っている美玖と目が合った。

 美玖が手を振った。

 久しぶりに会った美玖は、随分とお洒落で華やかな女性に変わっていた。

 飾り気のない女子大生のようだった頃の面影は薄れ、まるでミスキャンパスにでも選ばれたかのような雰囲気に変貌している。

 〈そうか、渡辺はメディア関係の仕事に進むと言っていたっけ〉

 放送業界にいると自然にこういう華やかさを身につけるものなんだろうかと田畑はぼんやり思った。

 

 俺に聞いて欲しい頼みとは一体何なんだろう。電話で済まさず、わざわざ会いに来てまで話したい内容とはどんなものか。

 隣の席から漏れるカップの触れ合う小さな音が耳に残った。美玖の頼みならできる限り聞いてやりたい。でも、たかだか主任の自分に大したことはできない。でもそれぐらい美玖もわかっているはずだと田畑は思っている。

 もし手にあまる内容なら、思わせぶりな態度は取らずきっぱり断ろう。


 会ってから五分ほどは他愛のない近況報告を交わした後、美玖がようやく用件を切り出してきた。

 「今回のアルバイト社員の採用の件で、応募してきた人のなかに調べて欲しい人がいるんです」

 「調べるって、何を?」

 「その人の応募がきちんと受理されているか。ないがしろにされていないか、です」

 「ちなみに、どんな人?」

 「川嶋祐里さんっていう人です。今、派遣社員として検査課に在籍しています。検査課の杉崎課長が柳瀬部長に、川嶋さんを形だけの面接だけで採用させるようにと強くお願いしたらしいんです」

 田畑は生真面目な杉崎課長の顔を思い浮かべた。あの課長がそこまで推す派遣社員とは一体どんな人物なのか興味が湧いた。でも、柳瀬部長絡みの案件なら、自分には関係ないはずだとも思った。

 「じゃあ俺とは関係のない話だと思う。きっと柳瀬部長預かりの案件だろうから」

 ここで話を終わらせても良かったかもしれない。でも田畑はふと気になった。

 「その川嶋祐里さんって、どんな人なんだ?  なんで渡辺がその人と関係あるの?」

 「私の知人が検査課にいるんです。それで、川嶋さんは検査課にどうしても必要な人だから、辞められたら困ると……」

 「辞められたら困るって、どういうこと?」

 「すごく優秀なスタッフらしくて。誰にも見つけられなかった製品の不具合を彼女が見つけたおかげで、大量リコールを防いだこともあるそうです。でも派遣だから再来月で丸三年になって、雇い止めになるらしくて」

 「ああ、雇い止めか。それで?」

 そういう事情ならば、検査課はなんとしても川嶋さんを失いたくないのだろう。

 美玖が続けた。

 「それで、雇い止めは食い止められないとしても、何とか彼女を検査課に残せないかと杉崎課長が考えているらしいんです」

 「それで、その川嶋さんを直接雇用のアルバイト社員にしてくれと?」

 「そうです。それで杉崎課長が柳瀬部長に話をつけて、川嶋さんは杉崎課長の面接だけで採用すると言質を取ったんです。でも人事部に履歴書を送ってから何の音沙汰もないらしくて、検査課は不安に思っているらしくて」

 なるほど、と田畑はようやく合点がいった。

 雇い止めされた派遣社員を改めて直接雇用するというのは珍しいが、杉崎課長の言うことは決して無理難題ではないと田畑は思った。柳瀬の判断次第で何とかなるだろう。

 「川嶋さんのことは分かったけど、渡辺と杉崎課長の間にこんなことを頼めるパイプがあるのか?」

 「いえ、検査課の小坂係長から頼まれたんです」

 そうか。渡辺は小坂係長と付き合っていたんだった。

 田畑は不愛想な省吾とはほとんど会話をしたことがないが、美玖と省吾が付き合い始めたという話は、当時人事部内で格好のゴシップだった。

 今も付き合っているのか。あの実直そうな小坂係長が、こんな華やかなタイプに変わった美玖をどう思っているのだろう。

 くだらない邪推だとわかっていながら、田畑はつい想像してしまった。

 「うん、事情は分かった。でも川嶋さんがどうなるかは、柳瀬部長の腹ひとつだと思う。とにかく俺には何もできないよ」

 突き放す口調にならないよう、容易ではないというニュアンスをにじませながら田畑は言った。

 「いや、合格させて欲しいというわけじゃないんです」

 美玖がじっと田畑を見つめながら続けた。

 「じゃあ、俺にどうして欲しいんだ?」

 「はい。川嶋さんの履歴書がいまどういう状況なのか、ないがしろにされていないか。それだけ調べて貰えれば充分なんです」

 「川嶋さんの履歴書がいまどうなっているかを調べて欲しいと。それだけのことでいいのか?」

 田畑は拍子抜けした。てっきり美玖からはもう少し厄介な頼みごとをされるのではないかと思っていた。

 でも祐里の採用のために一肌脱いでほしい、というような頼みではないと知り安堵した。とはいえ、履歴書の扱いを調べるとなると、柳瀬部長に理由を詮索されるのも面倒だ。

 やり方は後で考えよう。とにかく、美玖の頼みはできるだけ聞いてやりたい。可愛がった後輩のためでもあるけれど、それ以上に父親が有力者の美玖に恩を売っておきたいという思いもあった。

 

 「分かった。やってみるよ。二日か三日、時間が欲しい」

 美玖が頷き、深く頭を下げた。



 田畑はさっそく翌日から調べ始めたが、すぐに答えは見つかった。

 柳瀬の机の上に、祐里の履歴書が入っているはずの封筒が、未開封のまま放置されているのを見つけたからだった。

「その履歴書か? 検査課の杉崎さんから頼まれたんだけどな。今回は無理だ」

 柳瀬はこともなげに、素っ気なく言った。

 「杉崎課長から頼まれたのなら、無下にはできないのでは?」

 面倒くさい奴だとでも言いたげに、柳瀬が田畑をじろりと見た。その顔は、醜い蛙のようで、田畑は虫唾が走る思いがした。

 「検査課の人員の補充はこちらで考える。いくら杉崎さんの推挙でも、この女の採用はない」

 「じゃあ、たとえ杉崎課長からの頼みでも、この人の採用はなしなんですね」

 田畑は念のため確認した。そして柳瀬の答えは予想通りだった。

 「雇い止めの代わりにアルバイトを採用してやるとは約束したよ。でもその川嶋っていう女の採用はない。杉崎さんがあまりにもしつこいからその場しのぎで『履歴書を持ってこい』と言っただけだ。最初から採る気なんてない。大体な、どこの馬の骨ともわからない人間を採って、俺に何の得がある?」

 そう言い捨てて柳瀬は未決書類の一番下に、面倒くさそうに封筒を押し込んだ。

 田畑は黙って柳瀬の言葉を聞いていた。柳瀬の言葉は予想通りだったが、その人間性の低さが際立ち、田畑は柳瀬を心底から軽蔑した。有能で誠実な杉崎を軽くあしらった柳瀬の傲慢さと愚かさに呆れ、同時に能力があるのに報われない祐里が気の毒になった。

 こんな無能が採用の合否を決めるなんて、やりきれない気分にもなった。

 でも美玖からの頼まれごとはこれで終わった。あとは結果を伝えるだけだ。

 ここから先は田畑には興味がない。美玖が小坂係長と相談して、次の一手を考えるのだろう。++



 柳瀬とのやり取りの後、田畑は美玖に電話して内容を伝えた。

 「そうなんですね。分かりました。田畑さん、ありがとうございました」

 それだけ告げると、美玖は淡々と電話を切った。

 予想に反して思いのほかドライな対応に、田畑は少し意外に思った。

 もっと残念がったり、憤ったりするのかと思っていたが、きっと美玖はこうなることを想定済みだったのだろう。あるいは、美玖自身に祐里への思い入れはないのか。

 美玖ならば父親に頼めば祐里を採用枠に押し込むこともできるはずなのにと田畑は考えたが、すぐに振り払った。とにかく美玖からの頼まれごとはこれで無事に終わった。

 これ以上余計な用件を抱え込まずに済み、田畑は安堵した。



 数日後、柳瀬が慌てた様子で田畑に声をかけてきた。

 「おい田畑、あのわけのわからん派遣の女の履歴書を知らないか?」

 狼狽する柳瀬を見て、田畑は心底うんざりした。

 「それが何か?」

 「兼重専務が急に、あの派遣の女の履歴書を持ってこいって言い出したんだよ」

 その履歴書なら机の上の未決書類の山に自分で押し込んでいたじゃないか、と田畑は呆れた。

 「知りませんよ。そんなこと、僕が知っているわけないでしょう」

 柳瀬を助ける気などさらさらない。勝手に困っていればいい、と田畑は冷めた目で右往左往する柳瀬を眺めた。

 〈兼重専務が動いた。きっと美玖が動いたんだろう〉

 小坂係長が美玖に「お父さんの力を借りたい」と頼んだのだろうか。それとも美玖がそう決めたのか。

 それがどういう経路で兼重専務に伝わったのかは分からない。でも田畑はそう直感した。


 そして、『祐里の採用はない』と美玖に伝えてから数日後、祐里の採用が決まった。近畿西日本銀行の役員である美玖の父親の力だ、と田畑は確信した。

 この会社のメインバンクである銀行の役員である美玖の父の顔を立てるのは、当然のことなんだろう。

 〈業績が悪化すれば銀行は冷たいが、今はまだ持ちつ持たれつだ〉

 そういえば、美玖がこんな生臭いコネ話に絡むのは初めてだ。


 川嶋さんは本当に有能で、周囲が助けずにはいられない何かを持っているのだろうか。それにしても、たかだか一派遣社員のために、これだけの人間が動いたことが、田畑は不思議でならなかった。



 昼休みが終わり皆がデスクに戻る頃、田畑はふと思いついて本社棟から検査課のある工場へ向かった。

 工場に田畑が足を運ぶことは滅多にない。検査室を探して右往左往した末にようやくたどり着くと、真剣な眼差しで部品の寸法を測定している祐里の横顔が見えた。

 〈あの人が川嶋さんか〉

 なんとなくだが、省吾たちが彼女を助けようとした理由がわかった気がした。

 仕事のスキルが高いだけではなく、彼女には『助けてやりたい』と思わせる何かがあるのだろう。

 その何かが、周囲の空気を違う色に変えているように田畑には見えた。


 片親育ちの苦労人らしい祐里の履歴書を思い出し、田畑にはその色の正体が少しだけ分かったような気がした。そして祐里がこの会社に残れたことに、ほんの少し安堵した。

 小坂さんたちも、俺と同じような気持ちなんだろうかと田畑は思った。


10


 祐里が直接雇用になったと知った林は、我がことのように喜んだ。

 散薬の小型分包機の製造フロアの隅にある事務スペースで、林はパソコンのデスクに肘をつき、ふと息を吐いた。

 祐里のこの仕事を失いたくないという気持ち、そして彼女の家庭の事情を知っているだけに、嬉しいというより、なによりも深い安堵が胸に広がった。それに、いままで通りこれからも毎日祐里に会える。それだけで、林にとっては十分な吉報だった。

 でも同時に、不思議に思った。

 なぜ祐里はこの会社に残ることができたのだろう。


 林は大学を卒業して以来、この会社に入社してから六年になる。六年にもなればこの会社がどんな体質なのか、ある程度は分かっている。省吾や今里が抱く不信感も、林も同じように感じているし、社内のよからぬ噂もいろいろと耳にすることもある。

 そんなこの会社で、ただの派遣社員に過ぎず後ろ盾のない祐里が、雇い止めの解雇を回避して直接雇用になり辞めずに済んだ。そのことが意外だった。

 祐里は杉崎課長、今里、省吾からも高く評価されている。検査課からのバックアップがある以上、コネのない普通の応募者より有利なのは間違いない。

 その甲斐あっての採用だろう。そう考えるのが普通だ。でも林には、何かが引っかかった。

 そんな正面からの正攻法で、杉崎課長が会社を動かせたのだろうか。

 林も知っている。この会社のアルバイト採用枠の大半は身内の関係者で埋まる。そしてスキルがあまり必要ない仕事に配置されることが多い。

 林の課の事務職員もコネと思われる女性だった。真面目で能力が低いわけではないが、課長は彼女に厳しい要求をしない。厳しい言葉を投げかけるのは係長の松坂くらいだ。

 そして祐里が能力の高さと検査課のバックアップだけで採用されるのは不思議なことではない。検査課のスタッフもみんなそう思っているはずだ。祐里の仕事への姿勢とスキルの高さは誰もが認めている。それでも腑に落ちない。

 つまりは杉崎課長に、人事部長と対等に渡り合える力があるのだろうか。そういう疑問だった。

 人事部長を丸め込む交渉スキルがあったとしても、それだけで人事部長が動くのだろうか。人事部長を動かすロジックは、正論ではなく、政治力ではないのか。祐里が優秀な派遣社員でも、リコール寸前のトラブルを防いだ功績があっても、人事部長にその重要さが理解できるのか。

 そもそも人事部長は検査課の仕事すら理解していないのではないか。出荷前に製造部で検査しろ、と言い出しそうな人だ。


 結局、林が腑に落ちないのは、省吾や今里と同じ感覚だからだ。この会社の上層部に道理は通らない。

 もちろんすべてがいい加減なわけではない。でも祐里には、有力なコネを持つ応募者を押しのけて採用されるような力はない。人事部長から見れば、「いったいコイツは誰だ」で済む一介の派遣社員だ。

 それとも祐里には特別なコネがあったのか?俺が知らないだけで、祐里には強い後ろ盾の友人がいるのだろうか。

 そんなことを考える必要はない。祐里が残ってくれたことを素直に喜べばいい。それだけでいい。なのに、何かが引っかかる。


 〈省吾さんが、どうしても祐里を残したくて、労を厭わず何かをしていたとしたら……〉


 つまり、林は省吾が気になって仕方がない。

 もし省吾の尽力で再雇用が決まったのだとしたら。それがこの引っかかりの正体だった。

 もし省吾の同期入社組に上層部との繋がりがある人がいたとして、省吾が祐里のためにその人の力を借りたというようなことは、あり得ない話ではないだろう。

 そして、自分のためにそこまでした省吾を、祐里はどう思うのだろう。

 『ありがとうございました』という感謝だけで終わるのか、それとも感謝が恋愛感情に変わることもあるのか。

 林の心が、ざわざわと疼いた。

 事務スペースの古い扇風機が、首を振るときにギギッという音を時折鳴らしていた。



 祐里の一件があってから、省吾は以前よりも検査室に顔を出すようになった。

 相変わらず無口で無愛想だが、そんな省吾なりに一言だけでもスタッフに話しかけるようになった。

 検査室のエアコンの低い唸りと、スタッフが作業中に立てる静かな音の中で、省吾の足音が近づくとスタッフたちの中には少し身を固くする者もいたが、みな次第に好意的に受け入れるようになった。


 省吾は祐里の雇用契約に深く関わったことで、自分の部署のことを何も知らなすぎたと反省した。

 数字は把握し、部署間の調整もそつなくこなし、協力会社の品質向上も怠らなかった。でも現場は今里に任せきりだった。事実、それで上手くいっていた。

 無愛想で相手を萎縮させることがありがちな自分が、現場に顔を出しすぎるのは逆効果だと考えていた。そんな姿勢が、リコール寸前のトラブルを祐里が解決したことを知らなかったことにつながった。

 いきさつを把握していれば、祐里を無慈悲に辞めさせようとはしなかっただろう。杉崎課長の態度だって違っていたかもしれない。

 「数字だけ管理して、現場は今里さんに任せとけばいいと思ってました。浅はかでした」

 省吾がぼやくように言った。今里は測定器を置いて、省吾の顔を見た。

 「俺に謝ることじゃない。でもスタッフの顔はきちんと見ないと駄目だぞ。コミュニケーションを取って、みんながどんなことを考えているのか最低限知っておかないと」

 こんな今里の言葉も、以前の省吾なら小言だとしか思わなかった。

 でも祐里の一件で、身に染みるものがあった。

 「小坂、お前、川嶋さんと林君が付き合ってたこと知ってたか?」

 「えっ、林が?  川嶋さんと?」

 省吾には初耳だったから、驚いて今里の顔を見た。

 「全然知りませんでした。みんな知ってたんですか?」

 「みんな知ってたぞ。そういうのって、近くにいれば空気で分かるだろ。製造部の連中がどう思ってたかは知らんけどな」

 今里が省吾の顔をじっと見た。

 「川嶋さんと林君が付き合ってるって知ってから、別れたって知るまでの間、俺は川嶋さんを林君のラインの仕事から外した。疑うわけじゃない。でも製造部の主任の恋人が検査課でチェックしてるなんて、みんなが知ったらどう思う」

 省吾はつい言い訳がしたくなった。

 「でも今里さん、スタッフのプライベートまでは、さすがに訊けないですよ」

 「違うよ。探らなくていいんだよ。でもお前みたいにオフィスに閉じこもってたら、永遠に気づかないだろ。わざわざ探らなくても、普通に話すだけでいい。そうすれば段々見えて、段々聞こえてくるんだよ」

 省吾は今里の言葉を黙って聞いた。

 「今日だって吉岡さんは腰が痛そうだったから、しばらく大型機の下には潜らせない。あの人は自己申告してこないからな。ちょっと痛いぐらいなら何とか我慢して頑張っちゃう。評価下げられたくないだろうし。でもそれで悪化して長く休まれたり辞められたりしたら大変だろ」

 省吾は今更ながらに思った。簡単に休む非正規社員もいる。でもみんながそんな訳ではない。真面目な人ほど非正規であれば体調不良を口にしにくいのかもしれない。

 「でも小坂は、そんなとき吉岡さんに『最近休みが多いですね、困ります』って事務的に言うだけだろ。『具合悪ければ無理しないで今里に相談してね』とか、言わないだろ?」

 省吾は何も言い返せない。

 「コミュニケーションっていうのは、お前が思ってるよりはるかに大切ってことだよ」

 省吾は神妙に頷いた。

 「正しいことだけ一方通行で上から言ってればいいわけじゃない。人を相手にするのはもっと複雑だ。最低でも一日に一度はここに来て誰かと話せ。朝礼後でも昼礼後でもいい。お前にも五分くらい時間はあるだろ」



 「川嶋さん、その後どう?」

 美玖がベッドに寝そべりながら、省吾に訊いた。

 部屋のスタンドライトが柔らかく灯り、光と影が美玖の身体の彫りを深く彩っていた。

 「元気そうに仕事してるよ」

 省吾は答えたが、祐里のことを美玖に話すのは少し息苦しかった。不用意にポンポン話すと、どう思われるかわからないという警戒心があった。


 〈省吾くんは、その川嶋祐里さんっていう子に、個人的な変な思い入れとか、ないよね〉

 

 〈勘よ。勘〉


 〈美玖は俺の様子に違和感を感じているのではないか〉今まで美玖が嫉妬めいた感情を漏らすことはなかったから、省吾は余計にそう感じた。

 でも省吾にしてみれば、祐里に対して特別な感情はない。美玖が不安に思うようなことは何もしていないと、自信を持って言えた。それでも、どこか後ろめたいのは事実だった。

 その正体は、祐里のために恋人に頼みごとをしたことかもしれない。よく知らない派遣社員の、それも若い女性の再就職のために、恋人の父親まで巻き込むのは普通のことではないだろう。


 「ふーん。なら良かった。私も誰かの役に立てたんだ」

 そう言って美玖が顔をほころばせた。

 でも、省吾の表情の僅かな変化すら見逃さないように、瞳がじっと省吾を見つめているのが省吾には分かる。そして省吾は、何とも言えない居心地の悪さを棄てきれない。


 「川嶋さんには、私のところに挨拶に来て礼を言えだなんて思ってないから気にしなくていいし、省吾くんも川嶋さんに私のことを言わなくていいよ」

 でも、と美玖が言った。

 美玖の『でも』という言葉に省吾は身構えた。

 「その川嶋さんっていう人に会ってみたい」

 「なんで?」

 美玖が数秒、省吾の顔を見つめた。

 省吾は美玖のその視線が息苦しくて、目を逸らしたくなった。

 「だって省吾くんを動かした女性って、どんな人なんだろうって気になるじゃん。きっと私が思うに……」

 「思う、に?」

 「余程の魅力があるんだろうなって、思うのよ」

 美玖は猜疑心を溜めているのか。それとも軽い冗談か。省吾は迷った。

 「言っておくけど俺には変な気は一切無いよ。美玖がいる。目移りする理由がない」

 自然に、弁明する気もなく答えた。

 「分かってるよ。でも、川嶋さんっていう人がどんな女性なのか気になるのよ。だって省吾くん、川嶋さんのことになると急にそっけなくなって、あまり話したがらないな、って思って」

 そうかな、と省吾は返事をしながら、疑われるような素振りをしていたのかもしれないとも思った。

 「いや、そんなのは当然だろ。関心がない話題だからだよ」

 美玖は省吾の言葉を黙って聞いた。

 そして少しの間をおいて、何かを決めたように一呼吸した。

 「省吾くん、実は私からもお願いがあるの」

 省吾は身構えた。美玖が「お願いがある」と言うとき、心当たりはひとつしかなかった。

 「お願いってなに?」

 「そろそろわたしの両親に会って欲しい」


 やはり、と省吾は思った。でも美玖の父親にはきちんと礼を言うべきだと思っていたので、勿論と頷いた。

 省吾の様子を見て何か察したのか、美玖が慌てて言った。

 「お父さんに礼を言ってほしいとか、そういうわけじゃないよ」

 「うん、でもきちんと礼をしたいとは思っていたんだ」

 美玖が口ごもった。

 数秒の重たい沈黙が、部屋に満ちた。それまで寝そべっていた美玖が、シーツで体を隠しながら起き上がり、座ったまま省吾を見つめた。

 スタンドライトの光が彼女の肩を優しく照らし、瞳には小さな光が揺れて映っていた。

 「省吾くんは、わたしのことどう思ってる?」


11


 美玖の口から出た「わたしのことどう思ってる?」という言葉が、省吾の胸を鋭く突いた。

 そんなことは、わざわざ説明しなくても分かっているはずなのに。

 美玖を想う気持ちはもう充分に伝わっているはずだと、省吾はそう思い込んでいるから、美玖からの問いが理解できなかった。

 美玖はシーツで体を隠しながら、省吾をじっと見つめていた。その視線には一切の揺らぎがなかった。でも同時に、ほんのわずかだが不安そうな色も帯びていて、その色が省吾をつい身構えさせた。

 きっと美玖は勇気を振り絞って訊いたんだろう。ここは間違ったことを言ってはいけない場面だと、省吾は感じ取った。

 「好きだよ。真剣に愛しているつもりだよ」

 「つもり?」

 「いや、違う。それは言葉のあやだよ。つもりなんかじゃなくて、本当に真剣だよ」

 恋人を相手にしているというのに、省吾は全身から汗が吹き出るほど緊張していた。

 美玖を前にしてこんな気持ちになるのは初めてだった。省吾は緊張のあまり、口の中が渇いていることにも気づかなかった。

 なぜ突然そんなことを自分に訊いてきたのかと尋ねようとした瞬間、真剣な表情をしていた美玖がふっと表情を崩した。

 「そんなに緊張しないでよ。変な意味はないから」

 美玖はいつものように微笑みながら省吾を見ていた。でも、省吾はその柔らかい唇がわずかに震えていることに気づいた。

 「省吾くんがわたしのこと、きちんと思ってくれてるって分かってる。でもね、たまに確かめたくなるじゃん」

 「不安にさせるようなこと、俺、してるのかな」

 つい省吾は咄嗟に訊いた。やはり自分が美玖を不安にさせているのだと悟った。

 でも、なぜ美玖がそこまで不安に囚われているのか。もし祐里のことを気にしているのだとしたら、自分は何度も否定してきたはずだ。

 俺はこれ以上どうすればいいのか。省吾には、美玖の気持ちが見えなくなっていた。

 「そんなことないよ。でもね、時々思うの」

 美玖がほんの少し俯き、次の言葉を探すように考える仕草を見せた。省吾は美玖の言葉を黙って待ったけれど、なぜか胸騒ぎがしてならなかった。

 「省吾くんって無口だし。いつも『好きだ』とか言葉にしてほしいわけじゃない。でもね、」

 「でもね?」

 美玖の唇が開きかけたまま、数秒が過ぎた。慎重に言葉を選んでいるのだろうと思いながらも、その数秒が省吾にはひどく長く感じられ、緊張がさらに高まった。

 「今回の川嶋さんのことも、わたしに頼みづらいのは分かるよ。でも、なんで他人行儀な頼み方をするんだろうって思った。省吾くんの立場になったら、そういう気持ちになるんだろうなって想像はできるけど」

 「そりゃ、いくら美玖が相手でも、簡単に頼めることじゃないよ」

 省吾には美玖の本心が計りかねていた。推し量ることしかできないが、やはり祐里のことが引っかかっているのだろうと思った。

 「川嶋さんのことが引っかかってるのかな?」

 美玖は静かに首を横に振った。

 「違う。でも正直、それもちょっとある。だって、省吾くんが誰かのために動くなんて珍しいのに、それをわたしに頼むなんて、初めてだったから。よっぽどのことなのかなって、少し驚いた」

 省吾は思わず言い訳めいた言葉を口にしそうになったが、ぐっと堪えた。

 「でもね、それはいいの。省吾くんは仕事に対してはドライだけど、困ってる人とか弱い人にすごく優しいのは知ってる。そんなこと、恋人として当たり前に知ってるし、わたしはその優しさが好きだから」

 美玖が微笑んだけれど、その笑みはどこか弱々しく見えた。

 「川嶋さんの個人情報を俺の口から詳しく言うことはできないけど、要は家庭にも問題があって、それを知ったら放っておけなかったんだ」

 美玖は頷くでもなく首を振るでもなく、ただ静かに聴いた。それからまた、やけに重たい数秒の沈黙が部屋を満たした。


 「もしかしたら、だけど。省吾くんが頼みごとを躊躇したのは、わたしが何かしらの交換条件を出してくると思ったから、じゃない?」


 弱いところを突かれ、省吾は言葉を失った。図星だったから、何も言い返せなくなった。

 「省吾くんは、わたしがお父さんに会ってほしいとか、わたしたちのこれからを担保するような何かを求められるのが怖かったんじゃない?  だから川嶋さんのことを父に頼むのに、あんなに躊躇したんじゃないの?」

 「いや、ない。それは絶対にない」

 美玖に自分の胸中を見透かされていたことに驚き、省吾は狼狽えた。

 これだけは何が何でも否定しなければと焦った。

 省吾は美玖を愛している。大切に思っている。でも『美玖が取引を持ち出してくるのではないか』と恐れた気持ちと、『美玖を大切に思う』気持ちは別物だと自分に言い聞かせていた。でも今は、何が何でも否定しなければ、この大切な恋人を失ってしまうような気がした。

 「そんなこと絶対にないよ。さっきも言ったけど、いくら美玖相手でもこんなこと気軽に頼めないから、そりゃ躊躇もするよ」

 そして、それは省吾が美玖についた、初めての嘘になった。


 美玖は省吾の顔を静かに見つめていたが、ふっと力が抜けたように緊張した表情を柔らかくして微笑んだ。ただ、その微笑みにはまだわずかな翳りが残っていた。

 「ごめん。変なこと言っちゃった。ただ、不安になっただけ」

 「いや、俺こそごめん。美玖にそんなふうに思わせたこと自体が悪い。俺が悪いんだ」

 俺が悪かったと言い訳すれば治まるような話ではない。この場を取り繕って終わりにするわけにはいかないだろうと省吾は思った。とにかく美玖の不安を根本から取り除かなければならないだろうと。

 嘘をついて誤魔化した後ろめたさと、美玖への愛情が本物であることを証明したい気持ちが混じり合い、混乱した。省吾は慎重に言葉を選びながら伝えた。

 「だからっていうわけじゃないけど、ご両親に挨拶する。挨拶させてほしい。今回のことがあったからじゃなくて、きちんとした気持ちで付き合ってるってことを、ご両親にも示したいと思ってる」

 美玖の顔が綻んだ。それから「嬉しい」と一言だけ呟いて、俯いた。

 省吾は美玖を抱きしめた。美玖の体温を感じながら、身体から伝わるいつもより少し速い心臓の鼓動も感じた。

 美玖に祐里の相談を持ちかけようか迷っていたとき、将来のことを担保にされたくないという思いから躊躇したことは紛れもない事実だった。

 美玖の両親に会う。成り行きのような形での約束になってしまったが、これでよかったのだと、省吾はゆっくりと噛みしめた。



 林はいつもの居酒屋に祐里を誘った。

 この前に会ったときは、祐里の契約更新のことで省吾たちが奔走していた頃だった。

 あの頃の祐里の表情はどこか薄暗かった。でも今、直接雇用が決まった祐里の顔は明るくなっていた。

 「ささやかながら、おめでとうの会」

 林が言うと、祐里がくすっと笑った。

 「ホッとした」

 「だよな。俺もホッとしたよ」

 祐里は林の顔を見て、また笑った。

 「おまえも明るくなってよかった」

 「うん、やっぱりホッとしたし、今里さんたちも喜んでくれたし、課長も声かけてくれたし」

 今里さんもきっと安心しているのだろう。人の良さそうな今里の顔が、林の脳裏に浮かんだ。

 「でも、俺はいままで通りに検査室におまえがいるのが、いちばん嬉しい。マジでそれがいちばん」

 祐里が恥ずかしげに俯いた。林はその横顔を見つめながら、祐里を自分だけのものにしたいと思った。それから林は、改めて不思議に思う。祐里は何故会社に残ることができたのかを。

 人事部長の柳瀬を動かすのは、政治力に尽きると林は考えている。その柳瀬を動かせる力が、杉崎課長にあるとは思えない。専務の兼重の腰巾着にすぎない柳瀬を動かしたのは、きっと兼重の一言だろう。

 だとすれば、兼重を動かせる人物は、相当な力を持つ人間ということになる。株主か、重要な取引先か。あるいは地元の有力財界人か。

 でも、いずれにせよ、祐里にそんな強力な後ろ盾があるわけがない。でも杉崎課長にそういうパイプがあるのだろうか。でも林には、杉崎がそういう政治的な動きを得意とするような人間には見えない。

 「杉崎課長に感謝してる。あと今里さんにも」

 祐里が小さな声で呟いた。林は黙って聞いた。

 「やっぱり杉崎課長が頑張ってくれたんだ?」

 「うん、小坂さんがそう言ってた」

 「省吾さんが?」

 祐里が頷き、ハイボールのグラスについた水滴をおしぼりで拭った。林はその手つきを見ながら、祐里の知らないところで省吾が奔走した可能性があるのかどうか知りたくなった。

 「最初はね、わたしが駄目元で小坂さんに『契約を切られたら困る』ってお願いしたの。更新してほしいって」

 林は黙って頷いた。

 「でも小坂さんは『俺が決めることじゃない』って。確かにそうだろうとは思ったけど、態度が冷たかったからもう駄目だと思った」

 確かに省吾ならそう言うだろうと、林も思った。

 「それで?  それからも諦めずに省吾さんに頼み込んだの?」

 「いや、今里さんに打ち明けたら『俺が小坂に掛け合ってやる』って言ってくれて」

 「なるほどな。そういうことか」

林はそう呟いて、ビールのグラスを口に当てた。それで省吾も動かざるを得なくなったのだろうかと、ようやく腑に落ちた。

 省吾だって今里には面と向かって逆らえない。それで今里から押される形で、杉崎課長に頼み込んだのだろうか。

 「じゃあ、祐里としたら今里さんと杉崎課長が恩人なんだ?」

 林の目を見ながら、祐里がうんと頷いた。

 「今里さんにはすごく感謝してる。いつも優しくしてくれるから、余計にね」

 「じゃあ、省吾さんは?」

 林はそう訊きながらも、祐里の答えを聴くのが怖くもあった。

 「小坂さんのことは……うん、よく分からない」

 「よく分からない?」

 たしかに祐里には、というよりも省吾と親しくない人間から見れば、省吾は分かりずらい。

 「最初は冷たかった。薄情というか。でも小坂さんの立場なら仕方ないって思った。だからわざと素っ気なくしてるのかなって」

 それはあるよなと林は黙って頷いた。

 「でも、それからは話を聴いてくれるようになって。もしかしたら今里さんから何か言われたのかもしれないけど」

 「それで?」

 「上手く言えないけど、小坂さんも本当は優しい人なんだって思う。最近は特に、わたしにも気を遣ってくれるというか、優しくなった」

 「最近は?  優しいって?」

 『最近は省吾が優しい』という言葉が林には引っかかった。服の裾が何かに引っかかって、反動でぐいっと身体を引き寄せられるような力強さで。

 「最近は、優しいのか……」

 そう言ったっきり黙り込んだ林のことが気になったのか、祐里が林をじっと見つめた。

 「いや、省吾さんは優しくなんかない。冷たい人だよ」

 林は祐里の顔を見ながら、思わずそう言った。

 思いがけず自分の口から出た言葉に、林は驚いた。

 いつもの林なら、「ああ見えても省吾さんは優しい人だよ」と祐里に語るところだった。そんな風に省吾への好意を素直に話すはずなのに、咄嗟に出たのは心にもない言葉だった。

 〈省吾さんには悪いけど、祐里には嫌われたままでいて欲しい〉

 林は、省吾の印象が祐里の中で良い方に変化していくのが怖かった。不愛想で冷たそうな人が、時折見せる優しさに女性が惹かれるのは珍しくない。

 「製造部にいた頃から、俺の上司だった頃から、省吾さんは冷たいって、派遣さんたちからも嫌われてた。松坂さんからも嫌われてた」

 「そうなの?」

 祐里が驚いた顔で訊いた。

 そんなことは嘘だった。煙たがられることはあっても、嫌われていたわけではない。松坂だって省吾の良き理解者だ。省吾の顔を見るたびに小言を言うのも、松坂なりの愛情表現だった。

 「あの人は面倒ごとを嫌がる人だから、誰かのために協力するとか一切しない。自分のことにしか興味がないんだ。だから派遣さんが困っていてもほったらかしで、松坂さんからもよく叱られてた」

 祐里は困惑した様子を隠さずに、林の顔を見つめていた。

 林は祐里の感情を揺さぶろうとした。この機会に、省吾への疑念や不信感を植え付けなければならないと。そのためならどんな嘘でもつく。そう決めた。

 「だから、あの人が祐里のために何かをしたなんて、絶対にないよ。今だって何を考えてるかなんて分からないよ」

 「そうなんだ。なんか寂しい」

 祐里が困惑した様子をみせた。林は祐里が省吾に好意を持ち始めているのを感じ取り、焦燥感に駆られた。

 「省吾さんは、祐里に素直に辞めてもらいたかったはずだよ。査定にも響くだろうし。なにより面倒ごとを抱えたくない人だから。でも風向きが変わってからは、祐里に恩を売ったほうがいいって気づいたんだよ。だから急に優しくなったんだよ」

 省吾を貶すたびに、林はえも言われぬ高揚感を覚えた。

 〈俺は省吾さんが怖い。祐里があの人のことを好きになっても不思議じゃない〉

 林は省吾のことが好きだ。尊敬もしている。

 省吾には不思議な人間的魅力がある。ぼんやりしていて鈍く見えるのも大らかさの裏返しだし、大抵の粗相は笑って済ませるか見逃す。感情的になって大きな声を出して叱責したり、厳しく問い詰めたりするところを見たことがない。

 『省吾は器の大きな人だ』と林は思っている。だからこそ、祐里が省吾に惹かれる可能性があり得るからこそ、省吾が怖い。今のうちに、祐里の省吾への興味を潰さなければならないと、林は焦った。

 そのためには、省吾も触れられたくないだろうあのことを、祐里に教えたほうがいいのかもしれない。そう思ってしまうほどに俺は省吾さんに勝手に嫉妬してる。

 「そんなに嫌な人だとは思えないけど」

 「いや、あの人は嫌な人だよ」


 林の様子がいつもと違う。祐里はそんな気がした。普段は明るくて穏やかな林が、省吾の話題になると嬉しそうに話す林が、ここまで感情的に省吾を批判するのが意外で、俄かに信じられなかった。


 「あの人のせいで辞めた社員もいるんだよ」


 祐里は驚いた。いくら愛想の無い省吾でも、誰かを辞めさせるほど酷い人間には見えない。それともなにか余程の事情があったのか。それにしても林の言葉を素直には飲み込めない。

 「小坂さんのせいで辞めたってどういうこと?」

 林はその祐里の問いには答えずに、祐里の目をじっと見つめた。

 

 「なあ祐里、気をつけろ。あの人は本当に嫌な人だよ」


12


 省吾が美玖の両親に会う日取りが決まった。

 「両親が新歌舞伎座に舞台を観に行くの。その前に会えたらって。いきなり家に招くのも省吾さんが緊張するだろうからって」

 数日前、美玖からそう聞いたときは安堵した。美玖の実家を訪ねていつ終わるとも分からない張り詰めた時間を過ごさなければならないのは、想像しただけでも相当なプレッシャーだった。

 「時間は三十分ぐらいかな。省吾くんと会えることを父も母もすごく楽しみにしてる」

 美玖が嬉しそうに笑うのをみて、省吾は安堵した。

 「カジュアルな服装でいいからね。スーツなんて着てこなくていいから」

 美玖の口から出たそんな言葉を聞いて、省吾はふと、こういうときはどんな服を着ていくのが正解なんだろうと思った。

 「カジュアルっていってもなんでもいいっていう訳じゃないよね。どうしようかな」

 美玖が鼻と鼻が当たりそうになるほどに身を乗り出してきて、目を輝かせて言った。

 「じゃあ今度買いに行こうよ。わたしも一緒に選びたい」



 美玖と服を買いに出かけたのは、普段の省吾なら訪れることなど滅多にない百貨店だった。恋人の両親に初めて会うのに、その辺の量販店で揃えた服を着ているのも、気持ちのうえで僅かに負い目を感じたりするのだろうか。どちらにせよ、百貨店で買えば間違いはないだろうと、省吾は考えた。

 人間は中身だというけれど、そうはいかないことがある。そのぐらいのことなら省吾だってわきまえている。


 「ねえ、このリネンのジャケット素敵じゃない? きっと省吾くんに似合うと思うよ」

 美玖から受け取ったダークブラウンのジャケットは、見るからに上質なリネンだと分かる自然な皺と落ち着いた光沢を纏っていた。

 いいねと言いながらそのジャケットに付けられたプライスタグをみた瞬間、省吾は言葉を失った。

 〈おれの手取りとたいして変わらないじゃないか〉

 美玖は冗談のつもりでこれを渡したのだろうかと、省吾は美玖の顔をまじまじと見つめた。

 「ねえ、着てみて。そのジャケットを着た省吾くんがみたい」

 無邪気に笑う美玖を見て、彼女はふざけてなんかいないということに気づいた省吾は、あらためて美玖の実家が省吾の育った家庭とは比べものにならないくらいに裕福なんだと痛感した。

 〈都市銀行の役員の報酬って、いくらなんだろう〉

 省吾は生まれてこのかた一度もそんなことを想像したことはなかったし、想像する必要に迫られたこともなかった。たしかに美玖の金銭感覚は自分とは違うと感じていた。でもいちサラリーマンの省吾の給与が幾らなのかくらい、美玖にだって分かっているはずだった。

 「いや、いくらなんでもこれは買えない。身分不相応だし、ローンで服を買うなんて俺は嫌だよ」

 省吾はスタッフから離れたところで美玖に答えた。

 「なんで?今日は私が省吾くんに服を買ってあげるんだから、そんなこと気にしなくていいよ」


 美玖が口にした『服を買ってあげる』という言葉を聞いた省吾は唖然とした。

 そんなことを聴いた覚えはないと省吾は思った。そして微笑む美玖の顔を見つめた。それはやがて得体のしれない暗鬱な気分へと変わった。

 目の前の美玖がみせる善意には一点の混じり気もないんだろう。美玖はきっと心の底から無邪気に、俺にプレゼントをしたいと思っている。

 〈気持ちはありがたいけど、まいったな……〉

 嬉しそうに笑う美玖を責める気になんてなれない。でも、こんな高価なものをプレゼントしてあげるだなんてあっさりと言われても、どういうふうに受け止めたらいいのか省吾には分からなかった。

 そんなことをされて、素直によろこぶ男なんているのだろうか。省吾は心の奥底に湧いた暗鬱な気持ちの正体を確かめたくなったけれど、その正体を正視したらいけないような気もした。

 仕方がないと腹を決め、ふーっと息を吐いた。

 「分かったよ。じゃあお言葉に甘えさせていただきます。でも、パンツや靴は自分で買う。それはいいだろ?」

 美玖は少しだけ不服そうな様子を見せたけど、うんと頷いて元の笑顔に戻った。

 〈パンツや靴まで美玖に選ばせたら、とんでもない金額になる〉


 「私だっていつもこんな値段の服ばかり買っているわけじゃないよ」


 美玖がなにかを察したかのように、言い訳じみた様子で省吾に話しかけた。

 「私には今回のことは大切なイベントなの。省吾くんのことをお父さんとお母さんに自慢したいし祝福されたいの。みんなによろこんで欲しいのよ」

 それは分かってると省吾は答えながらも、複雑な気分を拭いきれなかった。

 〈俺のプライドの問題かな。だとしたら、俺の器が小さいのかな〉

 恋人から高価なものをプレゼントされるということに対する抵抗感もあった。もし、なにかにつけて金銭的なことで介入したがる義両親だったら、美玖とは一緒に暮らしたくないと思った。

 そしてはっとした。美玖とは一緒に暮らしたくないという気持ちが僅かにでも姿をあらわしてきたことに、省吾は狼狽えた。

 いままで一度だって、一瞬だって、そんな気持ちになったことはなかった。省吾は自分のこころのなかに、美玖にたいして何かしらの、いままでとは違う感情が芽生えてきているのを察した。そしてその感情が一時の気の迷いなんかではないのだとしたら、けっして喜ばしいものではないという予感がして、心がざわついた。



 その週末、省吾は新歌舞伎座の近くのホテルの喫茶店で、美玖から両親を紹介された。

 僅かな時間ではあったけれど、美玖の母親には気に入ってもらえたのではないかという気がした。でも父親からどう思われたのかは、自信がもてなかった。

 「小坂さん、今日は忙しなくて申しわけありません」

 迎えに呼んでいた車が遅れてしまってと、美玖の父親が省吾に詫びた。そのお詫びは形式上のものでは無く、おそらく本心からのものだろうということがむしろ省吾を恐縮させた。

 「小坂さん、またあらためてゆっくりと時間をとってお会いできたらとおもいます」

 美玖の両親とは当たり障りのない会話に終始したけれど、お互いの誠意を伝えあい、感じることは出来たと思えた。それでも省吾には気になることがあった。そしてそのことが省吾に、美玖の父親に対する恐縮と畏怖を覚えさせていたのかもしれない。


 それは祐里のことだった。祐里のことを美玖を通じて頼んできた人間が省吾だということに、目の前に座っている父親は気付いているのか。それとも気付いていないのか。

 父には省吾からたのまれたとは伝えていないと美玖は言った。でも、美玖の言うとおりだとしても、美玖にそんな頼みごとをしたのが俺だということに父親は気付いているのではないか。省吾にはそんな気がしてならなかった。

 娘がわざわざそんなことを父親に頼みにくるなんて、美玖の父からすれば珍しくもなんともない日常茶飯事なんだろうか。いや、そんな気がしなかった。きっと美玖は、そんなことを安請け合いするような人間じゃないと省吾は思った。そうだとすれば、知人からの頼まれごとだといいながら、美玖が父親に採用試験の便宜をはかるよう頼むなんていうことは、父親にとっては珍しいことだったはず。ならばきっと、美玖にとって特別なひとからの頼まれごとなんだろうと、父親は推測するはず。

 たぶん、目の前に座っていた美玖の父親は、俺のことを僅かにでも知っている。いや、娘にそういう頼みごとをした人間だという風に、俺をみている。そんなふうに省吾には思えてならなかった。そしてそんな推測が、省吾を息苦しくさせた。

 「小坂さん、私たちには固くならなくていいから。またあらためてお会いしましょう」

 父親が省吾に笑顔をみせた。省吾は『はい。ぜひ』といい、頭を下げた。複雑な気持ちにはそっと蓋をしておくことにした。



 最後、省吾と美玖は美玖の両親をホテルの玄関まで見送りに出た。両親と仲睦まじく話をしている美玖をみながら、美玖にもこんなふうに大切にしてくれる親がいるということをあらためて知って、省吾は美玖の屈託のない性格や育ちのよさの理由が分かった気がした。それから、この両親に大切に育てられた美玖をつまらないことで傷つけるようなことは出来ないと、当たり前のことをあらためて思った。

 そしてそのことが何故か、省吾には重圧に感じられた。

 愛する人と生涯を添い遂げたいと思うなら、美玖を大切にしなければいけないということに重圧なんて感じるのだろうか。

 美玖のことを一生涯を通じて大切にするという強い決意があれば、そんなことは重圧でもなんでもないはずだし、当たり前のことのはずだと思いながら、これからは美玖と自分の関係がいままでとは大きく変わっていくのだろうという予感がした。そのことが省吾にとっては靄がかかってうつろにしか見えない将来で、得体のしれない不安がつきまとう将来に思えてならなかった。



 省吾が両親に挨拶してから、美玖の様子が少しづつ変わりはじめた。省吾には美玖のそんな変化が、好ましいものなのかどうか測りかねて戸惑った。

 以前から美玖は陽気で気さくで、ひとにたいして高い壁をつくるような性格ではなかった。でも、出しゃばることのないよう気を遣っているのか、省吾のごくプライベートな領域に踏み込んでくることはなかったし、そんな素振りも見せなかった。でもここに来て、省吾の旧くからの友人とも仲良くなりたいと言い出したことには、すこし引っかかるものを感じた。

 いままでは俺の交友関係と関わることを遠慮して、適度に距離を置きたがっていたのに、両親公認になったいまは、自分は小坂省吾の恋人だと晴れて周囲に名乗り出たくなったのだろうかと、省吾は複雑な気持ちで思う。


「省吾くんはいつ私をご両親に紹介してくれるの」

 そろそろ美玖を両親に紹介しなければと、もうそういうタイミングだろうと省吾も思っていた。もちろん美玖を自分の両親に紹介するのが嫌なわけじゃない。美玖は自慢の恋人だし、美玖の人柄なら省吾の両親だってきっと気に入るだろう。それに美玖の両親のように裕福ではなくても、省吾にとって、真面目に慎ましく暮らしている自慢の両親だった。

 〈そろそろ美玖を両親に会わせようかな〉

 省吾は決めた。それならば早いほうがいいと思った。



 「ねえ、お義父さんとお義母さんに会うのに、私はどんな格好していけばいいかな」

 「いつものような服でいいと思うよ」

 そんなやりとりを交わしながらながら何故か、美玖が自分の両親のことをお義父さんお義母さんと呼ぶことに、やんわりとした違和感を感じた。

 〈俺だって、美玖さんのお父さんと呼んだ。べつに変じゃないはずだけど〉

 「ねえ、今度省吾くんの友達にも私のことを紹介してね」

 「うん、タイミングがいいときにな。そんなに急がなくてもいいだろ?」

 「そうだけどさ、いずれ私は省吾くんの奥さんになる人なんだから、みんなにも私のことを知ってもらわなくちゃ。それに省吾くんに変な虫がついたら嫌だし」

 〈奥さんになる人〉

 その言葉を真っ向から否定したりはしない。でもそんな約束もしていない。夫婦になると百パーセント確定した未来ではないはずだと省吾は思った。まだ美玖の両親に会っただけなのに。

 いや、両親と会ったんだからもう、ということなのか。

 そんなふうに戸惑いながらも、世間一般では結婚とはこんなふうに慌ただしく決まっていくものなのだろうかと、なにやら落ち着かない気持ちになった。いつの間にか、省吾も気づかなかったうちに、目の前にまっすぐなレールが敷かれていて、美玖がそのレールをはしる列車のハンドルを握っている。

 なぜ美玖は俺たちの将来のことを性急にするのだろうと気付いてから、省吾は一気に落ち着かなくなった。



 祐里は眠れずにいた。月明かりで満ちた、それでも薄暗い部屋で、隣に寝ている林の体温を感じながら、祐里は時々目を開けて黒い天井を見つめた。

 窓から差し込む月明かりが、林の寝顔を青白く染めていた。祐里は裸のまま起き上がると、キッチンの冷蔵庫から水を取り出して、ペットボトルの蓋を外して口をつけた。

 祐里は居酒屋での林の言葉が気になって仕方がなかった。

 〈省吾さんは嫌な人だよ〉

 祐里は林の言葉を何回も頭のなかで反芻した。いつになくそんなきつい言葉を放つ林の顔は、いつもの林からは想像できない、言葉にしづらい嫌な顔をしていた。

 なぜ林は急に省吾への態度を覆したんだろうかと、祐里は考えれば考えれるほど不思議で仕方がなかった。

 あれほど省吾さんが好きだ、あの人は尊敬できると語っていた林が見せた急な変化。

 〈省吾さんは無口で不愛想だけど頼りになるから、なにか困ったことがあったらまずは省吾さんに相談しろよ〉

 林がそうアドバイスしてくれたことがあったから、契約を切られると省吾から聞かされたときも、躊躇しながらも勇気を振り絞って省吾に声をかけた。それも林の言葉を信じていたからだったのに、そんな林が省吾のことについて今までとはまったく正反対なことを言い出したことが、祐里にはすぐには理解できなかったし、何よりもショックだった。


 愛を確かめ合った残り香のような、僅かに生臭い匂いが残っているようにも感じる湿度の高い部屋で、祐里は林の寝顔をじっと見つめた。林が省吾のことを急に悪く言い出したのは何故だろうと、祐里はすこし考えてからふと思った。

 〈もしかしたら、私の雇い止めのことで仲たがいをするような何かが、二人の間であったのかもしれない〉

 製造部で林の先輩として働いていたころの省吾のことを祐里はなにも知らない。

 省吾は、祐里の目には最初は冷たく映ったけれど、会話を重ねていくうちに、祐里の家庭の事情を打ち明けたあたりから、生身の人間らしく温かみのある反応に変わったように感じた。

 だから林が言ったように、省吾は困っている人がいても全く助けようとしなかったとか、無責任で皆から嫌われていたという話を俄には信じがたい気持ちがあった。

 

 省吾は不器用で無愛想。私の話を聞くのは面倒だっただろうけれど、きちんと聞いてくれた人。たぶん私が思っていたよりは、優しくて誠実な人なんだろうと思えるようになった。

 無口で愛想がないのは、自己主張を好まずにいるからなんだろう。私が面接を受けることができると決まったことを伝えに来てくれたときの省吾は、心なしか嬉しそうな様子だった。


 小坂さんってどんな人なんだろうと祐里は思う。わからない人だから、自ずと興味が湧く。

 以前の祐里は省吾のことが苦手だった。無愛想で無口で、何を考えているか分からない。係長なのに検査室にはたまにしか顔を出さず、そして今里との話しを済ませたら振り向きもせずに出ていってしまう。

 でも最近の省吾は以前とは変わった。検査室にも頻繁に顔を出すようになったし、朝礼や昼礼が終わったあとも、すぐに出て行かずに誰かと話すようになった。今里からからかわれて、不器用な反応をみせながら苦笑いするような場面を見るようにもなった。

 私にも話しかけてくれるようになったと、祐里は思っていた。相変わらず愛想は良くないが、私を見る省吾の目は優しい目をしているような気がすると、祐里は思っていた。


 〈いや、あの人は嫌なひとだよ〉


 〈だから、省吾さんが祐里のために何かしたなんてこと絶対に無いし、いまだってなに考えてるかなんて分からないよ〉


 でも、否応なしに林の言葉を思い出す。なぜ林は急に手のひらを返すようにして省吾を非難し始めたのか。

 祐里は林のことも信用している。省吾を兄のように慕っていた林の言葉と、祐里自身が感じていた省吾の印象。そして急に態度を変えた林の口から出た省吾への批判。

 〈小坂さんのせいで会社を辞めた人って、どういうことなんだろう〉

 だから祐里は余計に省吾のことが気になる。そして祐里自身も意識しないうちに、省吾のことをもっと知りたくなっていく。

 どうせ報われることのない林との関係。刹那的なセックス。腰痛が回復せずに働くことが出来ない父。これからますます学費が必要になる弟。祐里はきっと無理だろうと思いながらも、出来ることなら弟を大学に通わせてあげたいと願っている。余裕のない暮らし。そんな薄暗い生活に差し込んできた直接雇用という弱い光。

 祐里はベッドには戻らずに、下着を身に着けてからソファの上に畳んで置いていた服を着た。それから林が目を覚まさないよう、物音を建てないように気をつけながら、そっと林の家を出た。


 日付が変わってからの夜の街は、建物の灯も消えて黒い影になり、薄暗い闇に溶けこんで輪郭を失っている。

 昼間は太陽の熱を吸い込んで熱くなったアスファルトもすっかり冷えて、その上を空車のタクシーが走り去っていく。

 空を見上げると、群青色の夜空にいくつもの輝く星が見えた。

 強く明るい光を放つ星と、いまにも消えてしまいそうな、揺れて瞬く、弱々しい光を放つ小さな星たち。

 もしわたしが夜空に輝く星ならば、あの小さな星かもしれないと祐里は思った。そしてすぐに、自分はあの星ほどにも輝いていないということに気が付いた。

 それどころか星屑にすらなれそうにない自分。


 真夜中の街。すっかり寝静まった街を、祐里は夜の空気を吸いながらゆっくりとあるいた。耳を澄ましても自分の足音の他には何も聞こえない深夜の街角を、このまま歩けば二時間程で家にたどり着けるだろうと思いながら。

 タクシーが時折、ひとりで歩く祐里の様子を伺うようにして近づいてきては、乗車する見込みがないと気付いた途端に、大袈裟に加速しながら去っていった。寝静まった街にただひとつだけ灯るコンビニの明かりが、白く無機質に街角を照らしていた。


13


 昼休みも半分を過ぎていた。林は社員食堂の入り口から離れた一角の窓際の席で、昼食を済ませてからも席から立ち上がらずぼんやりとしていた。

 〈省吾さんは祐里のことをどう思っているのだろう〉

 祐里から聞かされた、最近は省吾が優しいという言葉が気になって仕方がない。いくつもの祐里への想いがぶつかりあい、混ざりあいながら、出口を見つけることが出来ないままに大きな渦となり、林の心を揺らしてはかき乱していた。

 ベットの上で林に抱かれながら、切なげに顔をゆがませる祐里の口から出た「好き」という言葉が忘れられない。憂いを帯びた表情も、ふとした隙に見せるはにかんだ笑顔も、ふたりきりになってリラックスしているときの屈託のない笑顔も、一糸纏わぬ姿になって、ベットの上で林に抱かれながら快感に身を委ねる淫らな姿も、そんな祐里にまつわるすべての記憶が、林を苦しめる。


 なぜこんなにも祐里に執着してしまうんだろう。

 俺ならばその気になれば、祐里よりももっといい女をみつけることだって簡単なことだと林は思った。そしてそれは自惚れなどでは無かった。


 故郷の地元では有名な旧家の次男に生まれ、周りからも御曹司として大切にされながら育った。母は地元では評判の美人で、ミス〇〇市に選ばれたこともある。林はそんな母の血を受け継いだせいなのか、思春期の頃には学校の廊下ですれ違う女子のほとんどが振り返って二度見するような美男子に成長した。

 勉強も出来た。高校は進学校に入学して、小学生から続けていたサッカーだって、推薦で大学に入れるくらいに強い選手になれた。試合のときには、相手校からも林に声を掛ける女子生徒がいたぐらい、林は目立つ高校生だった。

 大学生になって故郷を離れた。都会に出てきた当初はなにかと戸惑うことばかりだったけれど、夏休みに入る頃にはアルバイト先の年上の女性と付き合いはじめて、その女性とは社会人になってからもしばらくの間は交際を続けた。そんな具合に、林は女性に誠実だった。

 この会社で働きはじめた七年間でも、交際した女性は祐里だけじゃない。女性の方から関係を求められたことだってある。一晩だけの関係に終わった人もいた。はっきり言ってしまえば、祐里よりも可愛くて、世間体のよい仕事をしている人だっていた。

 でも祐里がいい。林は祐里のことをどうしても諦めきれない。


 ほっとけない。そう、放ったらかしにできない。

 目を離せない、そんな空気を祐里は纏っている。祐里の周囲の僅かな空間だけが、色が違って見える。祐里には自分が持っていないものがある。そこに惹かれる。

 護ってあげたい。そんな空気を纏った儚げな女性に惹かれる男は少なくない筈だと林は思う。

 俺がついていてやるからとカッコつけるわけでもなく、自然とそういう気持ちにさせるような女性。家族からだけではなく、いつも誰かから尊重されて、愛されて与えられることが多かった林が、はじめて自分が持っているものを与えたい、自分が守りたいと思った女性。

 祐里をいつまで続くか分からない苦しみから、過去の縛りから解放してやりたい。そしてそれが出来るのは自分だけだと林は思っていた。


14


 省吾は美玖を自分の両親に紹介した。日曜日の穏やかな晴れた午後だった。

 美玖から彼女の両親を紹介されたときとは違い、今回は省吾の実家に美玖を招き、一緒に過ごした時間は二時間を超えていた。

 「素敵なご両親だった。でも、想像していたのとはちょっと違って驚いた」

 美玖が笑顔で言った。その上機嫌な様子は、省吾にもはっきりと伝わってきた。

 「省吾くんは無口でぶっきらぼうなのに、お母さんもお父さんも明るい人だったから、びっくりしちゃった」

 「そんな省吾くんは一体誰に似たんだろうね」と楽しそうに話す美玖を見ながら、省吾は一旦、肩の荷が下りた気がした。

 しかし、まだ結婚すると告白したわけではない。省吾だって美玖と結婚したいと思っているし、そのつもりではいる。でも、両親への挨拶をしただけでは、まだ婚約とは別の次元の話だという気持ちが強かった。ようやくスタートラインに立ったばかりだと、省吾はそう感じていた。

 一方、美玖はもう婚約した気になっているように見えた。その心なしか浮かれた様子が、省吾には少し気掛かりだった。

 省吾はひとつずつ、きちんと順番を守りながら階段を一段ずつ登っていきたい。駆け足で一気に頂上を目指すのではなく、周囲の空気の変化や音、匂いを感じながら、地面をしっかりと踏みしめて山頂へと歩いていく。結婚も人生もそうありたいと思っている。だから、ふたりの生活に向けて全力で走り出したかのような美玖の勢いに、戸惑いを覚えずにはいられなかった。

 俺はのんびりし過ぎなんだろうか。きちんと一歩ずつ進むのが自分の主義とはいえ、周りから見ればぐずぐずしているように映るのかもしれない。

 省吾は美玖の誕生日にプロポーズするつもりでいた。それはまだ半年先のことだ。タイミングとして遅すぎるかどうかは分からないけれど、美玖の二十八歳の誕生日にプロポーズするのは、野暮なことではないはずだと省吾は思っていた。もう少し早めにプロポーズした方がいいのかもしれないと、そう思わないでもなかった。でもやはり美玖の誕生日にするのがいいと気持ちを固めた。

 二十八歳の誕生日にプロポーズされて、嫌がる美玖ではないだろう。

 ただ、気がかりなのは、美玖が最近、まるで既に省吾の妻であるかのように振る舞うようになったことだった。

 〈いずれは省吾くんの奥さんになるんだから〉

 美玖はそう言った。まるで自分の将来はそう決まっているかのように。そして以前より省吾の私生活に深く入ってきたがるようになっていた。

 省吾は戸惑っていた。美玖はもっと理性的なはずだと思っていた。たしかに情熱的な面も持っていた。しかし、そうした面はうまく制御し、隠してみせることの方が多かった。

 会話の中でも、美玖の家族の話題が次第に増えていった。まるで省吾が美玖の家族の中に入りやすいよう、事前にレクチャーされているような気分になった。

 それは別に嫌ではなかった。ただ、省吾は時折、美玖とその家族に囲い込まれようとしているような感覚を覚えるようになった。それは穿った見方なのかもしれない。でも、美玖の浮かれた様子を見るにつけ、心の奥底に小さな不安が溜まっていくのを感じ始めていた。

 〈きっといまは浮かれているんだろう。どうせすぐに落ち着く〉

 省吾はそう自分に言い聞かせ、不安を蓋で閉じた。



 「ねえ、そろそろ私たちも一緒に暮らさない?」

 美玖がそう切り出したのも、省吾にとっては当然の成り行きのように思えた。ただ、一抹の不安が頭をよぎるのも確かだった。いまの美玖ならばずるずると事実婚のような状況になってしまうんじゃないか。もう俺も三十一歳だ。若者らしい刹那的な感情で同棲するようにはいかない。省吾はそう思っていたのに、美玖の様子を見ていると不安が募った。

 美玖がジャケットをプレゼントしたときに見せた金銭感覚にも、省吾は不安を覚えていた。実家に美玖を招いたのは、慎ましい家族の中で育った自分を、暗に伝えたかったからでもあった。自分はこういう暮らしがしたいのだと、言葉ではなく実際に感じてほしかった。でも、それが美玖にちゃんと伝わっているのか、言葉で確かめるのも気が引けた。



 無口で他者との軋轢を避けたがる省吾も、以前からずっとそうだったわけではない。正直な気持ちを、言葉遣いに気を配りながらごまかさず、はっきりと伝えることが誠意だと信じていた省吾にとって、あいまいな言葉で核心を避け、本音を隠すのが美徳とされる社会のしきたりは、どうしても馴染まなかった。

 そしてある事件をきっかけに、省吾は誰に対しても距離を置くようになった。それ以来、後輩の面倒を積極的に見るのもやめ、困っている人を見かけても、助けてほしいと求められなければ放っておくことにした。

 仕事だけは今まで通り真面目にこなしたが、求められた以上のことはしなくなった。周りを巻き込むような情熱を仕事に注ぐこともやめた。そんなふうに、省吾は気の抜けた炭酸水のような、温くてぼんやりした水のような人間になろうとしてきた。もともと温和な性格の省吾にとって、それはそれほど難しいことではなく、むしろ望むところだったのかもしれない。

 美玖に言いたいことがあっても、言い方を間違えたり、意図せず非難しているように受け止められたりするのが面倒だった。たいしたことではないはずの話でも、美玖の機嫌を損ねたくなくて、つい及び腰になり、結局ほったらかしにしてしまう。



 省吾と美玖は不動産屋を訪ねた。しかし、同棲に対する一抹の不安は、まだ省吾の胸のどこかに引っかかったままだった。

 美玖が大学生の頃に仲の良かった先輩が勤めているというその不動産屋には、事前にアポイントを取っていたため、受け付けで名前を告げるとすぐに応対してくれた。

 「美玖からのリクエストを踏まえて、美玖が気に入りそうな物件を三つ選んでおいたよ」

 大西さんという、美玖の一つ先輩の女性だった。大学時代に美玖と仲が良かったというのも頷ける、さっぱりとした雰囲気の女性だった。省吾は、初めて美玖に会った頃のことをふと思い出した。

 「でもさ、美玖はずいぶん変わったよね」

 「そんなことないですよ。たいして変わってません」

 大して変わっていないだなんてよく言うよ、と大西が笑った。

 「だってずいぶん華やかになったよ。昔は体育会系の女子みたいだったじゃん。ショートカットで服装もカジュアルでラフだったのに」

 大西の言葉を聞きながら、省吾は確かに美玖はずいぶん変わったと思った。そして俺は今の美玖と以前の美玖、どちらが好きなんだろうか。でもその問い自体を省吾はすぐに打ち消した。

 「小坂さんはこういうタイプが好みなんですか?」

 大西の言葉の矛先が省吾に向いた。

 「いや、美玖に似合うならなんでもいいと思います」

 そう答えてお茶を濁した。いまの美玖も嫌いではない。でも昔の美玖を思いだすと、心が揺れる。

 「あっ、そうなんですか。学生の頃から美玖は乙女だったから、小坂さんの好みに合わせてるのかなって思って」

 「いや、僕にはそんなつもりはないです」と慌てて否定する省吾を見て、大西が笑った。

 「美玖は小坂さんのことがそれだけ好きなんですよ」

 省吾は大西の言葉を聞きながら、美玖の顔をちらりと見た。嬉しそうにはにかむ美玖の表情が目に映った。

 〈これでいいんだ。俺は何も間違えていない〉

 嬉しそうに微笑む美玖を見るたび、省吾は安心した。こんな風に美玖の反応を確かめながら、自分たちが歩む道を決めていくようになっていた。



 大西の車で現地へ向かうと、幹線道路から一本奥に入った途端、閉じていた窓を開け放ったかのように街の空気がふわっと変わったのが分かった。緩やかな勾配の川沿いの道路を登っていくと、やがて街灯がレトロでシックなデザインの瀟洒な住宅地に入っていった。

 道の両側には、門と高い塀に囲まれた広い庭を持つ大きな屋敷がゆったりと建ち並び、木々の緑が深く、都会の喧騒が嘘のように静かな街だった。そんないかにも高級住宅街らしい、品のある落ち着きがあたりを包んでいた。

 〈まさかこのあたりじゃないよな〉

 省吾が内心で呟いたそのとき、車は次の角を曲がり、すぐ脇のマンションの前に停まった。

 「着きましたよ」と言いながら車から降りようとする大西を、省吾は慌てて呼び止めた。

 「大西さん、まさかここじゃないですよね」

 省吾はてっきり車をここに停めて、近くまで歩くものだと思っていた。美玖を振り返ると、彼女は満面の笑みを浮かべて省吾を見つめていた。

 「小坂さん、まずここが最初の物件ですよ」

 築年数は経っていそうだが、白を基調としたモダンで洗練された外観のマンションだった。エントランス周りは清潔感があり、半地下のガレージには高級車や輸入車が並んでいる。

 省吾は思わず息を飲んだ。このあたりはこの地域でも有数の高級住宅街だろう、俺のような会社勤めの若造が手を出せる物件ではない。

 「ねえ、とりあえず部屋を見ようよ」

 美玖が嬉しそうに微笑みながら、省吾の腕を掴んで身体を寄せてきた。ガレージに並ぶ高級車を見ながら、省吾は部屋を見る必要などないと思った。

 この辺りの家賃は三十万円は下らないはずだ。

 〈俺の手取りなんて三十万円にも届かないのに〉

 美玖の給料だって、人気FM局とはいえ、テレビの全国ネットのキー局には遠く及ばないはずだ。しかも制作部門ではなく営業職。もしかしたら自分と大差ないかもしれない。そう考えれば、この家賃は到底払えない。

 省吾は戸惑いながら美玖の顔を見つめた。

 「ここなら駅にも歩いて行けるし、私の実家にも近いし。緑も多いし、街の雰囲気もいいし、新生活の門出には最高だと思うよ」

 部屋はマンションの五階にあった。美玖がベランダ側の窓を開けると、視界が一気に開けた。

 美玖が歓声を上げた。高台に位置するだけあって、高級住宅街の豊かな緑と遠くの街並みが広がり、陽光にきらめく景色が眼下に広がっていた。

 「ここなら長く住むにもいいと思います。間取りも3LDKですし」

 そう説明しようとした大西の言葉を遮って、省吾が訊ねた。

 「家賃はいくらですか?」

 「三十四万円ですね。あとは共益費がだいたい……」

 省吾の目の前が暗くなっていった。大西の笑顔が霞み、声が遠くから聞こえてくるように感じた。

 「省吾くんもベランダにおいでよ。景色を一緒に観ようよ」

 「大西さん、すみません。美玖、ちょっといいかな」

 省吾は大西から少し離れたところで美玖を連れていき、じっとその顔を見つめた。

 「美玖、ここの家賃知ってる?」

 美玖が頷いた。さも当然だと言わんばかりに。

 「美玖がいくら給料をもらってるか知らないけど、こんな家賃でふたりで生活できるのか?」

 できるだけ厳しい口調にならないよう、動揺させないよう気をつけたが、それでも美玖は驚いたように見えた。

 「たしかにふたりの給料じゃ厳しいかもしれないけど、このあたりでこんなに洒落たマンションでこの家賃なんて、他にないよ」

 俺はもっと慎ましい生活がしたいんだ。そう言おうとして、省吾は大西を待たせていることを思い出した。

 「大西さん、すみません。あとの二件もこんな感じですか?」

 大西は「うーん」とうなってから、こう答えた。

 「小坂さん、美玖の希望を聞いて選んだんですけど、ちょっと私も張り切りすぎちゃったみたい。小坂さんの希望に沿う物件も探せますから、なんでも言ってください」

 ふたりの間の空気を察したのか、大西が美玖に助け舟を出すように省吾に答えた。美玖が省吾に微笑みながら言った。

 「ねえ省吾くん、たしかに私たちの給料だけでは不安だって気持ちも分かるけど」

 「分かるけど?」

 「両親がね、もし私たちが結婚するなら、新居の頭金も用意してくれるって言ってるの」

 そういうことかと、省吾は暗鬱な気分になった。

 「だから、新居を買わないなら違う形で助けてほしいって、私はお願いしてるの」

 「分かった。この話の続きは帰ってからにしよう」

 結婚して家を買うときに親が頭金を出してくれたという話は聞いたことがある。かなり恵まれているケースだと思いつつも、頭金だけならそれほどおかしいことではないのかもしれないと、省吾にもそう思えた。しかし、省吾は自分と美玖の収入だけで成り立つ暮らしがしたい。それが美玖にはできるのか。

 いままで抱いていた懸念が、はっきりとした形を持って顔を覗かせ始めていた。いままでのように、単なる恋人同士であれば考えなくてよかったことが、巨大なダムのように目の前に立ちはだかっている気がした。


 その後も大西に連れられて他の物件を見学したが、最初に見た物件と似たような広さで同じぐらいの家賃の部屋を見ても、省吾にはもう熱が入らなかった。どの部屋も明るく清潔で、設備も充実していたが、心が追いついていかない。

 「大西さん、この辺りでもう少し現実的な家賃の物件はありませんか」

 大西との別れ際に省吾が訊ねると、大西は少し考えて答えた。

 「ありますよ。少し狭くはなりますけど」

 「狭いって、どれぐらいですか?」

 「そうですね、2LDKで50平米弱ぐらいですね」

 それでもふたりの生活には充分過ぎるだろうと省吾は思った。ただ、美玖がどう思うか。それだけが気になった。



 帰りの電車で、美玖はいつもより無口だった。車窓の外を流れる街並みが、夕暮れのオレンジ色に染まり始めていた。

 美玖は窓ガラスに額を軽く押しつけるようにして、外を見つめていた。いつもなら省吾の肩に寄りかかってきたり、手を握ってきたりするのに、今日は胸の前で腕を組んでいた。

 〈拗ねてるのかな〉

 省吾は元気のない美玖の様子が気になったが、原因は最初のマンションを断ったことだろうと察していた。

 「最初に見たマンションがよかった」

 案の定、窓の外を見ながら美玖がつぶやいた。声に少し尖った響きがあった。

 「でもいくらなんでも、俺たちの収入であのマンションに住むのは難しいよ」

 「そのことなら両親が助けてくれるって言ったじゃん!」

 

 美玖のいつになく感情的で激しい口調に省吾は驚いた。車内の乗客たちが一瞬こちらを見た気がして、省吾は声を低くした。

 「わたしと省吾くんとの生活の第一歩は、安い家賃のみすぼらしいところじゃ嫌なのよ」

 〈(みすぼらしいって、どんな意味だよ〉

 「あそこにこだわらなくても、次に大西さんが紹介してくれる物件を見てからでいいだろ。俺たちが住むんだから、俺だってみすぼらしいところには住みたくないよ。でもさ、もっと現実的な家賃でいい物件だってたくさんある。大西さんもそう言ってたし」

 美玖はどんな生活レベルを『みすぼらしい』と言っているのだろう。省吾はその言葉が気になって仕方なかった。もし自分や自分の両親の生活レベルをみすぼらしいと思われていたら、それはさすがに飲み込めない。

 「俺は俺たちだけの収入で暮らしたい。結婚してからも親に頼るのは嫌なんだよ。だってそれが普通だろう?」

 俺の気持ちが何故伝わらないんだろうと、省吾は苛々した。美玖は黙ったまま外を眺めていた。付き合い始めてからこんな険悪な雰囲気になったのは初めてで、省吾は言いようのないもやもやした気持ちになった。

 「俺が言う慎ましいって、そういう意味なんだよ」

 美玖は省吾の話をじっと聞いていた。それから、ゆっくりと顔を上げ、省吾の目を見つめた。その目つきは、省吾が思わず怯むほど厳しかった。


 「川嶋さんのためならお父さんにだって頼ろうとしたのに、私と住むマンションの家賃を私のためにお父さんに頼るのは嫌なの?」


 美玖の言葉が、省吾の胸を激しく突いた。

 〈川嶋さんのためならお父さんにだって頼ろうとしたのに〉

 その言葉には十分な説得力があった。省吾は戸惑い、胸を抉られた気がした。でもそれとこれとでは話が違う。

 「いや、それは全然違う話だろ」

 省吾の言葉にはわずかに怒気が籠っていた。

 美玖は何も答えず、ふたりの間には気まずい沈黙だけが漂った。

 電車の揺れとレールの継ぎ目を踏む音だけが、耳に響いた。


 その後、美玖は省吾の部屋には寄らずに帰った。駅の改札をくぐるとき、拗ねているように見えた美玖の横顔が、今にも泣き出しそうな表情だったことに、省吾は気づかなかった。


15


 〈川嶋さんのためならお父さんにだって頼ろうとしたのに、私と住むマンションの家賃を私のために頼るのは嫌なの?〉

 二人で暮らすためのマンションを見て廻った帰りの電車のなかで、美玖が省吾に放った言葉が省吾の頭から離れずにいた。

 〈なんであそこで川嶋さんを引き合いに出したんだろう〉

 それはきっと、美玖の心のなかに祐里のことが澱のように沈んでいるからだろう。

 そこまでは省吾にも想像できた。でも、省吾にすれば祐里との間にやましいことは一切ない。

 でもどうすればそのことを美玖に理解してもらえるんだろう。新居にたいする考えかたの違いだけではなく、そのことに加えて省吾はさらに難しい問題を背負わされた気になった。

 まるでパンクした自転車を漕いでいるような、力いっぱいペダルを踏んでいるのに物事がなかなか前に進んでくれないような徒労感を覚えて、やるせない思いがした。

 〈お互いの両親にも挨拶を済ませて、いい感じの流れになった矢先なのに〉

 いい雰囲気の流れから、急に最悪なところまで落ち込んだふたりの関係に省吾は頭を抱えた。

 新居の件で揉めたのはお互いの価値観の相違が直接の原因だろう。このことは省吾も以前から予想していたことだったから驚きはそれほどはない。でも美玖があんなに感情的になって省吾に不満をぶつけたのは、付き合い始めてからの二年ほどの間ではじめてのことだったから、そのことに驚いた。

 でもそれも掘り下げていけばきっと、祐里のことが根底にあるんだろうと省吾は感じていた。

 『祐里のことなら私にもお父さんにも頭を下げたのに、私たちの新生活の舞台選びには私の願いを全く聞いてくれない』そして親には頼りたくないなんて言って、両親の好意を袖にした。そんな省吾の態度が美玖をイライラさせたんだろう。

 美玖がそういう気持ちになるのも当然だろう。じゃあ新居ぐらいは美玖の言う通りに決めたほうがいいのだろうか。でも美玖の言う通りに義両親の力を借りてまで、自分たちには身分不相応なマンションを借りるというのも省吾には受け入れることが出来そうにない。

 気まずい別れ方をしたその日の夜に、美玖からごめんなさいと詫びるLINEが届いた。省吾は、気にしていないし僕も悪かったと返事をしたが、その日から、美玖の様子は浮かれた調子からは一転して、連絡も途絶えがちになった。



 「省吾、ここに座るぞ」

 省吾がどうにも冴えない気分で社員食堂の隅の席で昼食をとっていると、隣に松坂がどっかりと腰を下ろした。窓から差し込む午後の陽光が水の入ったコップに反射し、食堂の喧騒が少しずつ遠のき始めていた。

 省吾はコップに水を注ぎながら、松坂の顔をしげしげと見つめた。そして松坂が今年の春に結婚したばかりだということを、ふと思い出した。

 松坂ならば、自分が今抱えている逡巡を分かってくれるかもしれない。

 そう思いながらも、小言が返ってきたら面倒くさい。冗談めかして笑われたとしても不愉快だ、という思いが頭をよぎった。



 「お前は相変わらず我が強いな。頭がカチカチだな」

 松坂が省吾の顔を見て、うんざりしたような様子で言った。フォークが皿に当たる音が、食堂の騒めきの中でやけに大きく響く。

 省吾は箸を止めて、松坂の言葉を黙って聴いた。

 自分でも『我が強い」』『頭が固い』という指摘はもっともだと思った。

 そう、俺は我が強くて頭が固い。そんな開き直りに近い気持ちが胸の奥で渦巻いた。

 「でも松坂さん、自分たちの給料ではとても住めないようなマンションに住みたいって言われて、それは無理だって答えたら、親が助けてくれるって言いだして。そうか分かった、ありがとうって、恋人に素直に言えますか?」

 「えっ? お前本気でそう思ってるのか?」

 松坂はカツカレーを口に運びかけたスプーンを止めて、唖然とした顔で省吾をまじまじと見た。窓際の席だからか、午後の光が松坂の顔を横から強く照らし、驚きの表情がくっきりと浮かび上がった。

 「俺だったら大喜びでその話に乗るよ。そして中古マンションなんかじゃなくて新築の戸建てを買うよ。新居の頭金を出してくれるなんて最高じゃないか。お前の彼女の親御さん、いい親御さんだよ」

 「いや、でも、」

 プライドが、と言いかけて省吾は口を閉ざした。そんな言葉を出したら、松坂から笑われるか叱られるか、きっとそのどちらかしかないだろうと、何年も松坂の下で働いていた経験が教えてくれていた。

 「いや、でも、って言いかけたけど、何だよ? 言えよ」

 松坂がフォークを皿に置いて、省吾の顔をじっと見つめた。

 省吾は正直に答えることを一瞬ためらった。正直に言葉にしたら、『お前のそういうところが悪い』と指摘されるような気がしたし、きっとその通りになるだろう。でもいまの省吾はそんな言葉は聞きたくなかった。

 「でも、慎ましく暮らしたいんです。地味だって笑われるかもしれないけど、そんな暮らしがしたくて」

 省吾の言葉に、松坂は小さく鼻を鳴らした。心なしか、口元が笑ったようにも見えた。窓の外では、工場の排気ダクトから白い蒸気がゆっくりと上がっているのが見える。昼休みも残りわずかになっていた。

 「じゃあなんであの子を選んだんだよ。人事にいた渡辺さんだろ? 金持ちのお嬢だろ。付き合う時からあの子の性分は分かってたんじゃないのかよ」

 いやそれは、と弁解しようとしたが、松坂の言いたいことも分かる。

 慎ましい暮らしがしたいと言いつつ、付き合っている恋人はお嬢様育ちで金銭感覚も自分とは全く違う女性だというのは、松坂じゃなくても誰だって矛盾していると思うだろう。

 でも、と省吾は思った。

 出会った頃、付き合いだした頃の美玖はもっと素朴な感じがした。いまのような華やかさは微塵もなかった。FM局に転職して、業界のいろんな人たちと会ったことで、段々と変わっていったのか。

 その理由を美玖に訊いたことなんて一度もなかった。環境が変われば価値観だって変わるだろうし、いまの美玖の年齢を考えたらそれほど華美に過ぎるとも言えないような気がした。それに自惚れかもしれないが「省吾くんのために私は頑張ってる」なんて言われても困るという気持ちもあった。



 省吾が美玖と初めて言葉を交わしたのは会社の夏祭りだった。

 省吾がいた製造ラインは焼きそばを売ることになっていた。人事部は女子社員がビールの売り子をすることになっていたのが、当日になって人手が不足してしまい、急遽省吾が人事部の応援に駆り出された。

 省吾と美玖は生ビールの重たいサーバーを背中に担いで、日が暮れてからもまだまだ蒸し暑い八月の夜、工場の広場に設営された会場をせっせと歩きまわった。それは身体に堪える大変な役目だったけれど、そのあいだ美玖はずっと笑顔を絶やさず、一度も弱音を吐かなかった。

 可愛らしいだけじゃなくて性格もいい。夏祭りがきっかけで言葉を交わすようになった美玖に、省吾が惹かれていくのは時間の問題だった。

 あの頃の美玖といまの美玖との間に違いは無い。いまでも美玖は真面目でひたむきな努力家で、誰かのことを悪く言ったりもせず、いつも明るく振舞っている。高級ブランドを身につけるようになり出したことだとか、省吾とは桁がひとつ違う金銭感覚に違和感を感じるようになったのはいつからなんだろう。省吾は思い返そうとしたけれど、すぐには思い出せなかった。


 「お前、頑固もいいけどほどほどにしろよ」

 松坂の声が少し低くなった。

 「つつましく暮らしたいっていう信念自体は良いことだと思うよ。俺もそういう価値観は嫌いじゃない」

 松坂はそこで一度言葉を切り、省吾の目を見た。松阪の声に熱がこもっていた。

 「でもな、今のお前にはそれが短所にしかなってない。むしろ毒だ」

 「毒?」

 それは随分厳しい言葉だった。思わず省吾は反発しそうになった。

 「そうだ。お前は自分の信念を守ることばかり考えてる。彼女の気持ちをちゃんと受け止めてやろうとなんてしてないだろ?」

 松坂の言葉は容赦がなかった。

 「新居の話にしてもそうだろ。慎ましく暮らしたいっていう自分の価値観を押しつけて、彼女の『ふたりで新生活を始めるんだから、少し夢を見たい』っていう気持ちを聞いてやろうとしない」

 お前は自分の信念を守ることばかり考えているという松坂の言葉が刺さった。

 「親の援助を頼るのが嫌だって、お前のプライドの問題なんだろ? それをお前は『こうあるべきだ』にすり替えてるだけだ」

 省吾は返す言葉が見つからず、うなだれた。そんな省吾を見ても容赦せず、松坂はさらに続けた。

 「信念を大事にするのは立派だよ。でもな、結婚っていうのはお前一人で生きていくんじゃねえんだぞ。相手の価値観や夢も、同じくらい大事にしないと駄目なんだよ。お前は今、彼女の気持ちより自分の信念とやらを優先してるだろ。そんなことじゃあ、そのうち彼女から『私のこと本当に大切に思ってるの?』って言われるぞ」

 松坂はそこで少し間を置いて、省吾をじっと見た。

 「そんなことじゃあ仕事でも、また同じ失敗をやらかすぞ」

 その一言で、省吾の胸に鋭い痛みが走った。

 「お前はそれでいいのか?」

 松阪がコップの水を飲み干して、自分で水を注いだ。それから省吾を見つめた。省吾は何も言い返せなかった。

 「もし結婚する気でいるなら、いまのうちに色々きちんと話し合っておいたほうがいい」

 松阪のその言葉は充分過ぎるほど分かっているのに、省吾にとっては簡単ではない。

 「彼女にとってもたぶん一生に一度のことなんだから、彼女の願い事ぐらい、出来ないことじゃないのなら聞いてあげてもいいんじゃないのって思うけどな」

 一生に一度のこと。たしかにその通りだと、松坂の言葉が省吾に響いた。

 「まあ、お前らしいっちゃらしいけどな。でも今のままじゃ、彼女さんとの関係も危うくなるぞ。歩み寄りができないなら、結婚なんてお前には無理だ」

 『結婚なんてお前には無理だ』という松坂の言葉が、省吾の胸を重く突いた。

 「相手の気持ちをちゃんと受け止められないまま結婚したって、絶対に上手くいかねえよ。お前はまだそこまで覚悟ができてねえだろ?」


〈俺は我を通し過ぎなんだろうか〉

 省吾にも松坂の言う通りだと思う気持ちはある。美玖に対して自分の価値観を押しつけようとしているだけなのかもしれない。もしそうならば、そんな俺をみたら美玖の両親は、そして俺の両親はどう思うだろうと、省吾は自分の拘りに自信を無くしかけた。

 「彼女の本心、ちゃんと分かってやろうとしてるのか?」という松坂の言葉に、省吾は反論できなかった。

 〈美玖ときちんと話さないと……〉

 でもどこから話せばいいのか省吾には見当もつかなかった。もしかしたら、美玖が抱えているいろんな思いは、省吾が想像するよりも相当深いのかもしれないと思うと、省吾は暗鬱な気分になった。

 でも省吾は、自分と美玖の間のことだけではなく、美玖が祐里に対して持っている何かしらの負の感情の出処についても知りたかった。知る必要があった。それを取り除くことができなければ、美玖との関係は終わるかもしれない。


 「そういえば川嶋さんは元気にしているのか?」

 松阪の質問に省吾は頷いた。そういえば最近松坂は検査室に来ていなかった。

 「そうか。彼女にも最近会ってないから、よろしく伝えてくれよ」

 「自分で言ったらいいじゃないですか」

 省吾が笑いながら返すと、松坂が苦笑いをした。

 「嫌だよ。俺あの子苦手なんだわ」

 苦手という言葉に省吾は引っかかった。

 「苦手って、真面目で検査に厳しいからですか?」

 「まあそうだな。それもある。融通が利かねえってイラッとくるわ。でもそれだけじゃないな。なんとなくな」

 省吾は松坂の含みのある答えが気になった。でも省吾には、松坂の言った、祐里のことがなんとなく苦手という言葉の意味が少し分かるような気がした。

 「松坂さんの川嶋さんに対する苦手意識ってなんなんでしょうね」

 省吾の問いに、うーん、とひと呼吸おいてから、松坂が答えた。

 「あの子は真面目で一生懸命だよな。ひたむきというか。それで俺が苛ついてキツいことを言ったら泣きそうになるくせに一歩も退かない。気が弱いくせに踏ん張って負けない。だからかな、そういう一生懸命で健気なところがだんだん気になってくるんだよ」

 松阪の『だんだん気になってくるんだよ』という言葉が省吾の気を惹いた。

 「そう、だんだんと気になりだすんだよ。それがだんだん興味に変わるんだよ。そんなふうに、だんだん興味を持ち始めるっていう感情の変化って、やばい方向に転がることがあるんだよ」


 〈へぇ、松坂さんでも祐里をそういうふうに見たりするのか〉

 省吾は松坂の言葉が意外だった。たしかに祐里のような女性のことを健気だと感じて守りたいと思い、その感情がやがて愛情に変わる、なんていうことも充分にあり得るだろう。

 俺もあの子の健気なひたむきさに打たれたんだ。契約の打ち切りを伝えたときに祐里が見せた悲しげな表情と、採用される可能性は半々しかなくても面接を受けさせて下さいと省吾と今里に訴えたときの、あの祐里の真っ直ぐさとひた向きさに打たれたことを省吾は思い返した。

 省吾はそんな祐里に強さを感じながらも、それ以上に祐里はどこか物悲し気で、儚げに思えていた。

 省吾は同時に美玖のことを思った。周りも明るくするような笑顔と陽気な性格。前向きでひたむき。ネガティブなことがあって落ち込んでも翌日には立ち直ってみせる強さ。思いやりのできる優しさや育ちのよさ。

 美玖のそういったおおらかさは余裕からくるのかな、と省吾は思う。でも、そんな美玖の印象もいまとなっては真実なのかどうか心もとない。

 美玖と祐里は正反対にみえる。ふたりとも前向きでひたむきなところは似ているのだろう。そう考えると、祐里の寂しげにも映るあの雰囲気は美玖が感じさせる余裕ではなく、ゆとりの無さのせいなんだろうか。

 父親が働けずにいる。母親はいない。まだ高校生の弟がいて、祐里の家族は祐里の収入で暮らしている。そんな祐里の事情は詳しくは分からないけれど、きっと美玖と祐里の生活環境は天と地ほどの違いがあるんだろう。

 そんな祐里を、もし出来るなら助けてあげたいと思うのは普通のことだろう。そんな同情心にも似た気持ちが、松坂の言うような恋愛感情が伴う感情に変わることがあるのだとしたら、自分はどうなんだろう。

 そうだ。祐里のことをいま以上に意識するなんてあり得ない。祐里への同情はたんなる同情に過ぎないし、それ以上でも以下でもないと省吾は心のなかで叫んでみる。でも得体のしれない感情が忍び寄るのも感じる。その不安にに抗うことができるのか。省吾は急に不安になった。

 そして省吾はハッと気づいた。

 美玖は、祐里を助けようとした俺の気持ちが祐里への恋愛感情に変わっていくかもしれない、きっと変わっていくだろうと予感している。もしそうだとしたら……

 「ボンヤリしてるんじゃねえぞ」

 松坂が立ち上がり省吾の背中を強く叩いて去った。


 〈美玖の願いも聞いてやれ、か……〉

 そして、祐里を助けようとした俺の気持ちが、祐里への恋愛感情に変わっていくかもしれないなんて、美玖が本当に思っていたら。

 とにかく美玖ときちんと話し合おう。そして答えは決まっている。俺には美玖が大切なんだ。きっと俺は、美玖がどう思っているのかについてなにも知らない。だからきちんと美玖と話し合おうと、省吾は決めた。


16


 昼過ぎから始まった協力会社との長い打ち合わせが終わり、省吾が時計を見ると時計の針は十六時を指すころだった。そろそろ検査室の様子を見に行こうかと思ったその時、省吾の携帯が震えた。今里からだった。 

 携帯のディスプレイに表示されている今里の名前を見ながら、省吾は胸騒ぎをおぼえた。こんな時間に今里が省吾に電話をかけてくるときは、大抵の場合は喜ばしい用件ではない。

 〈何か問題でもあったのかな〉

 省吾は電話に出ることを一瞬だけためらった。それから携帯を耳に当てた。 

 「小坂、厄介なことになった。検査室に来れるか」

 いつものような明るい口調ではない、緊張を含んだ今里の様子に嫌な予感がした。何があったんだろう。さまざまな状況が頭のなかをよぎった。少しの不安を抱えながら省吾は急いで上着を羽織ると検査室に向かった。


 今里が緊張感を隠そうとせずに電話をしてくるのは余程のことだった。

 実際にはそれほど大したことじゃなくて、その場ですぐに解決する程度のことならいいんだけど、と楽観的に思いたい。でもきっとそんな簡単なことではないだろうという嫌な予感が勝った。

 検査室の扉の前に立って深呼吸をしてから、あえてゆっくりと検査室の扉を開いた。緊張した面持ちの今里と、俯いた姿の祐里が立っていた。

 僅かだが眉間にしわを寄せながら、今里が省吾を見つめた。

 「小坂、昨日検査した今日出荷予定の新型のオートクレーブな、間違えて改定前の基準で検査していたと分かった」

 いつもは多少のことなら動じない省吾も、それには驚いてつい声が大きくなった。

 「まずいですよ、それ今日の十九時に出荷ですよ」

 「ああ、分かってる。でも梱包を済ませた個体をもう一度検査しないと駄目だ」

 起きてしまったことを今更とやかく言っても仕方がないし、焦るあまり省吾まで感情的になったらスタッフ全員が萎縮してしまう。落ち着きを失くしたら駄目だと省吾は自分に言い聞かせた。

 「検査のやり直しにはどれくらいの時間が必要ですか?」

 今里が祐里を見た。祐里が俯いたまま消え入りそうな声で答えた。

 「一台が十分ぐらいです」

 「ということは、七台だから一時間半は見たほうがいいな。いや、二人ならその半分でやれる」

 いまが十六時をすこし過ぎたところだから十七時過ぎには終わらせよう。それでも出荷まで残り時間は二時間しかない。もし再検査で不良箇所が見つかったら、そこからは製造部が対処することになる。当然その対処には時間がかかる。だから一分でも早く終わらせて、製造部に連絡しなければならない。

 それから省吾は今里の隣で縮こまって俯いたままの祐里の様子を見た。その祐里の様子から、この件は祐里のミスなんだと察した。

 省吾は祐里のことも今里のことも責める気は毛頭ない。誰だってミスはするし、同じミスを繰り返さなければいい。そのために改善提案書もあるしヒヤリハットの報告書もある。

 省吾はすっかり恐縮して、顔を赤くして俯いたままの祐里の様子をみて、さすがに気の毒になった。

 「もしかして川嶋さんのミス?」

 トラブルの起きた状況だけは知っておかなければならない。だから省吾は祐里に声をかけた。祐里をあまり萎縮させないように用心して話しかけたつもりだった。でも祐里は一瞬だけ省吾の顔をみてから、はいと返事をしてまた俯いた。

 「すみません。私が悪いんです。うっかり以前の基準で使う検査治具を使ってしまって」

 ああ、なるほどと、省吾は納得した。確かにそれはあり得るかもしれないことだった。でもそんなことが起きないように対処していたはずでもあった。

 「なんで? 回収してなかったっけ? 旧いのをそのまま同じところに置いていたとか?」

 「はい。すみません」

 まいったな。思わず省吾は口に出しそうになってじっと堪えた。

 急いで検査をやり直せば集荷には間に合うだろう。でもこの件は杉崎にも報告しなければならない。最悪の場合出荷が遅れるようなことがあれば後の処理を杉崎が担うことになる。それに、このことを松坂にも伝えなければならない。検査のやり直しよりも杉崎と松坂に報告することが憂鬱だった。

 松坂のことだから顔を真っ赤にして怒るだろう。省吾は胃が痛むような気分になって、いかにもうんざりしたという様子でハァと大きくため息をついた。

 「本当にすみませんでした。私のせいで」

 祐里がいまにも泣き出しそうな様子で省吾に詫びた。省吾はいま自分がついたため息が祐里には当てつけだと取られたのだろうと悟って、慌てて首をふった。

 「違う違う、いまのため息は松坂さん怒るだろうなって思ったからで、べつに川嶋さんのミスにため息をついたわけじゃないから。だからそんなに恐縮しなくていいから」

 ふたりの様子を見ていた今里が口を挟んだ。

 「小坂すまん。俺もきちんと確認するべきだった」

 今里までが省吾に頭を下げる事態になったことでさすがに省吾もバツが悪くなった。

 「いや今里さん、僕も誰が悪いとか追及して責める気は全然ないです。だから気にしないで下さい。ただ、杉崎課長には正直に検査ミスがあったと報告しなければいけませんけど」

 「小坂、そのことですまんがな」

 今里が省吾に近づいて、小声で言った。

 「小坂、杉崎さんには全部オレのミスだと伝えてくれ。そうすれば杉崎さんもキツいことは言えん」

 今里が何が言いたいのか、省吾にも分かった。祐里は直接雇用になったばかりだった。それで早々に大きなミスをしたとなると、杉崎の祐里への評価に、それから祐里に対する信頼に影をおとすかもしれない。杉崎課長はそんな器のちいさな人じゃないけど、いまは間が悪い。今里さんが思う気持ちも分かる。


 それにしても今里は余程祐里のことが可愛いのだろうか。それにはなにか理由があるのだろうか。省吾はそれを時々不思議に思っていた。今里は祐里の深いところまで知っているのかもしれない。それが何なのか、省吾には分からない。でもふたりの間には相当な信頼関係があることだけは確かだろうと思った。

 それからふと祐里を見ると、そこにいたのは、わずかに憂いを帯びた、魅力的なひとりの女性だった。

 いつもならそんなふうに同僚のことを見たりなんてしない省吾が、祐里の姿を見て、そんなふうに思った。

 いや、いまはそれどころじゃないと、省吾は頭を切り替えて松坂のもとに向かった。足元から身体が冷えていくような気がした。



 松坂に報告を済ませた省吾が検査室に戻ると、祐里の姿が見えなかった。

 「再検査する製品を出荷場まで取りにいってる」

 今里の言葉を聞きながら省吾はふと、今里がやけに祐里を大切にしていることが気になりだした。それを訊くなら祐里がいない今だろう。

 

 「川嶋さんのことなら、たしかに贔屓してるよ」

 贔屓しているとあっけなく今里が答えたから、省吾は拍子抜けした。

 「なぜですか?あの高いスキルをですか?」

 でもそれだけじゃないはずだと省吾は思った。今里の祐里に向ける眼差しは、もっと情がこもっているように思えてならなかった。

 省吾は今里の様子に何やら意味深なものを感じた気がした。まさか男女の関係だなんていうことは無いだろうと思いつつも、意味深なものの正体が気になって仕方なかった。

 「まさか、川嶋さんのことを狙ってるんですか?」

 「バカ。いくらなんでもそれは無い」

 今里が笑って答えた。既婚者で愛妻家の今里のことだから、さすがにそれは無いだろうと省吾も思っている。でも、まさかということもある。そう思うと省吾は訊かずにいられなかった。

 「気になるなら川嶋さんに訊いてみろ。あの子に関することを俺から喋るわけにはいかん」

 祐里には今里に相談したくなるような事情がある。お父さんのことを始めとして家族のこと。経済的なことや現状への不満や不安。そんな諸々の心配事を今里に聞いてもらっていると、雇い止めの面談をしたときに祐里本人から聞いた。他人には中々言えないけれど、隠しておくのも息苦しくてたまらない。そんな物事は誰にでもあるだろう。もちろん省吾にもあったし、今里にもあるに違いない。

 たしかに今里は相談しやすい。親しみやすく、面倒見がいい。軽々しく誰かの話題を口にしたりもしない。仕事ぶりも真面目。人として誠実で信用できる。

 祐里には今里が大切にしたくなるだけの事情があるということか。

 そういえば林はそんな祐里の特別な事情についてなにか知っているのだろうか。

 なぜ俺は祐里の事情について思いを巡らせるんだろう。同僚の個人的な事情になんて興味を持つ必要はないだろう。省吾はそれに気づいてなんとも落ち着かない気分になった。


 そのとき今里が口をひらいた。

 「小坂、すまんがな、今夜は残業出来ないんだ」

 「えっ? そうなんですか?」

 省吾は驚き、まさかと思った。今里と祐里のふたりで検査をやり直す前提で時間を読んで、やり直しには一時間半もかからないつもりでいたからだった。

 「今夜な、福田さんのお通夜なんだよ」

 ああ、そうだったと省吾は思い出した。福田さんは杉崎の前任の課長だった人で、省吾は面識が無いが、今里にとっては恩師だった人だ。

 「回覧見ました。今夜だったんですね」

 「そうなんだ。こんな日にな、間が悪くてすまん」

 そんな事情なら、まさか残業してくれだなんてとてもじゃないけれど頼むことは出来ない。でも省吾には不安があった。

 「新型のオートクレーブの検査、やったことないんです」

 頼りなさげに省吾が言うと、今里が厳しい顔になった。

 「川嶋さんに教えてもらいながらやれ。お前なら簡単だ。それにな小坂、たしかにこの部屋の責任者は俺だけど、同じ検査課の係長のお前が肝心の検査ができないなんて、スタッフの皆から見たら変だぞ」

 その通りだった。さすがに省吾も言い返せなかった。

 「定時以降は小坂と川嶋さんの二人しかいなくなるけれど、すまん。頼む」

 定時になり今里や他のスタッフが退勤したその後の時間は、省吾は祐里と二人きりになるのか。そう思うと、無口な自分と祐里の二人ではこの部屋もさぞ気詰まりになるに違いないと想像した。それはそれで省吾にとっては憂鬱だった。

 〈美玖がこのことを知ったら邪推するだろうか〉

 思わずそんな考えが頭をよぎった。そういうことを考えるようになってしまったこと自体が、省吾の胸を苦しくさせた。

 ふたりでマンションを観に行ってから二週間が経とうとしていた。あの帰りの電車のなかの二人の会話を、美玖の言葉を省吾は忘れていない。

 省吾だって松坂から言われるまでもなく、美玖とはきちんと話さなければいけないと思っている。美玖が今の二人の関係を、これから先のことをどう思っているのか。それから祐里のことを、どう思っているのか。言わなくても分かってくれるとばかりに説明を避けてきたこともあったし、はっきりした答えを聞くのが怖くて、訊かずにいたこともあった。

 思えば付き合いだしてから今まで、そんなことばかりだったのかもしれない。

 美玖は本当は俺のことをどう思っているんだろうと、省吾はやや不安な気持ちになった。祐里のことを頼んだ俺に嫌な顔ひとつせず、頼みを聞いてくれた。美玖の父親にはさすがに頼みずらいという俺の気持ちを察して、先回りして言ってくれた。そのことにたいして恩着せがましいことを何ひとつ言わず、ただ住むところだけは自分の希望する場所に住みたいと言っただけだ。

 松坂さんがいうとおり、俺のちいさなこだわりを美玖に押し付けているだけなのかもしれない。自分が美玖の気持ちに応えているのかどうか、省吾は自信が無くなっていた。


17


 検査のやり直しは今里が退勤するまでに半分を終えた。残りの半分の再検査は省吾が祐里を手伝うことになった。

 省吾は新型のオートクレーブの検査をするのは初めてだった。そもそもが検査課に異動になってから、検査室で製品の検査をする機会はほとんど無かった。

 検査課の係長なんていう肩書がついているのに現場のことをほとんど知らない。省吾はさすがにそんな自分のことが恥ずかしくなった。しかも祐里の手前だ。その祐里はつい最近、省吾から雇い止めの通告をされたところだったから、省吾が感じるバツの悪さといったらない。



 祐里の検査は順調に進んだ。一方で省吾の検査は不慣れで要領が悪いせいかなかなか進まない。祐里が残された台数の半分を済ませたときに、省吾はまだ一台しか終わらせることが出来ずにいた。

 「うーん、電圧の調整がうまく定まってくれない」と、省吾が独り言を漏らしながらうんうんと唸っているのを祐里はそっと見ていた。

 祐里は省吾の代わりに残りの検査を全て自分が引き受けるつもりでいた。でもそれが切り出せずにいた。

 つい最近までは省吾のことが苦手で仕方がなかった。

 そんな苦手な上司だった省吾は、もしかしたら思いやりのある優しい人なのかもしれないと、最近はそう思うようになった。雇い止めにあった自分を助けてくれた今里と杉崎。そのふたりにはとても感謝しているし恩義すらも感じている。でも省吾はどうなんだろう。

 「省吾さんは絶対に人助けなんかしない」

 祐里の前でそう言いきった林。

 あんなに省吾を慕っていた林が手のひらを返すようにして、省吾のことを非難した。いや、非難というよりも誹謗した。そんな激しい言葉で誰かを批判することなんて無かった林が、ましてや非難の対象が省吾だということに祐里は動揺した。

 あれからも祐里は林の言葉を真に受けることが出来ずにいた。

 林があんなふうに、いままで実の兄のように慕っていた省吾のことを、手のひらを返すようにして悪く言いはじめたのは何が原因なんだろう。それはきっと余程のことなんだろうと、そしてもしかしたらわたしに原因があるのだろうかと、思っていた。

 祐里は静かに省吾の背中を見つめた。作業台に乗せられた、電子レンジよりもひと回りほどの大きさの、けっして大きな機材とはいえないオートクレーブと向き合いながら、不器用そうに必死になって、不慣れな作業に取り組んでいる省吾の大きな背中を見つめた。

 いまの場面ならば『あとは君一人でも出来るよね。任せたよ』と言い捨ててどこかに消えてしまっても不思議じゃない。いま省吾が取りかかっている製品の残りを自分が引き受けて、残りのもう一台もわたしがやったとしても、あと十五分もあれば終わるに違いないと、祐里は思った。

 祐里は壁の時計をみた。省吾がタイムリミットにしていた時刻までまだ三十分はあった。でも省吾はいま取りかかっている製品の検査をそれまでに終わらせることが出来るのだろうか。普通なら余裕で出来る筈だけれど、きっと省吾には無理だろう。

 「小坂さん、大丈夫ですか?」

 祐里は思いきって省吾に訊いた。

 「ん、たぶん大丈夫」

 省吾は祐里に背中を向けたまま、もぞもぞと手を動かしながら答えた。

 省吾は基盤に取り付けられているボリュームスイッチを精密ドライバーで慎重に回しながら、電圧の調整に手間どっている様子だった。

 「小坂さん、もしかして電圧が合わないんですか?」 

 「うん、全然合わないんだ。もしかしたらこの基盤かそれとも温度センサーが駄目なのかもしれない」

 だとしたら松坂さんに交換してもらわないと。そんな意味のことを省吾が呟いているのを聞きながら、祐里は省吾の手元を覗いてみた。そして省吾が手間取っている原因がすぐに分かった。

 そのことを省吾に恥をかかせないように伝えるにはどうしたらいいんだろうか。でも悩んでいる時間はなかった。きっとこのままでは省吾は夜が明けるまでこの調整に悪戦苦闘する羽目になるだろう。

 真面目というか、不器用な人なのかと、祐里は省吾の背中を見ながら思った。

 『川嶋さん代わりにやってよ』そうひとこと言うだけでいいのにと祐里は思う。

 なんでそのひとことが言えないんだろう。いや、言わないんだろう。わたしと同じように奥手で不器用なんだろうか。それとも、自分でやると決めたら何が何でも自分でやらなければ気が済まないのか。そうだとしたら、きっとこの人は、この作業をわたしと代わって欲しいとは自分からは言えない人なんだろう。

 わたしだってほんの数年前まではこんな引っ込み思案な性格では無かった。もっと明るくて、無邪気で、普通の高校生だった。

 それを思うと、胸が潰れそうになるぐらい辛くなった。

 「小坂さん、それやるのに何分かかってるんですか?」

 祐里の言葉は、まるで上司が部下を問い詰めるときの口調のようだった。祐里はそれに気がついて、落ち着かない気持ちになった。

 「ごめん、もう十分ぐらいやってるんだけど、なかなか設定が合わなくて」

 本当にごめんと言いながら省吾が不意に顔を上げた。そして祐里と目が合った。その瞬間、祐里はおもわず目を逸らしてしまった。

 「川嶋さん本当にごめん。この製品だけは俺がやるから、残りの一台を頼む」


 省吾が申し訳ないという気持ちを滲ませながらそう答えたのをきいて、祐里の胸のうちが揺れた。

 〈そもそも、こんな時間まで検査のやり直しをしているのはわたしのせいなのに〉

 お前のミスのせいだと、お前が自分で責任を取れと叱られても仕方がなかった。そんなわたしを叱りもせず、一生懸命慣れない仕事と格闘している省吾をみて、祐里の心が揺れた。そして胸の奥が震えたよう気がした。

 「小坂さん、そこにぶら下がってるアース線を繋げないと駄目です」

 省吾が『えっ?』という表情で祐里を見あげた。

 「そのアース線を筐体に繋いでからじゃないと電圧が安定しないんです」

 省吾ならその程度のことは分かっているはずだった。祐里は省吾のその抜けたところが面白かった。

 「マジかよ、本当だ。ごめん気がつかなかった」

 省吾が苦笑いしながらアース線をつないでいるのを見て、祐里は可笑しくなった。そしてつい「ふふっ」と笑った。

 「小坂さん、本当は何も知らないんでしょう?」

 省吾の顔が赤くなったのが祐里にも分かった。省吾は首筋の汗を手のひらで拭いながら祐里の顔を見つめて、バツが悪そうに笑った。

 「これでも俺は七年間製造部にいたんだけど、オートクレーブはやったことなくって」

 苦笑いをしながら言い訳をする省吾を見ながら、祐里は省吾にどんな経緯で自分を会社が直接雇用にしてくれたのかを、訊きたくなった。でもどうやって切り出せばいいのか、祐里には分かっていたとしてもそれが出来そうにない。


 ふと、高校の文化祭、放課後の教室で日が暮れてからもポスターを作ったり、飾りつけをしたときのことを思い出した。気になる男子と並んで作業をしながら、日が暮れてからもいつもの教室でみんなと一緒に過ごした、あのときの水彩画のように淡い感情を思い出した。


 ある日突然断ち切られた平穏な日常。あんな無邪気だった日々にはもう二度と戻ることは出来ない。


 もう少しだけ、この感覚に浸っていたい。


 省吾のツーブロックの短く刈り込まれた襟足と、広い背中。それから細くて長い指を、祐里はじっと見つめた。

 〈小坂さん、この仕事が終わったら、ご飯を食べて帰りませんか?〉

 誘ったってきっと断られるだろう。そもそもわたしなんかに誘われたって迷惑だろう。自分の直接雇用に省吾が関わっていたのかどうかを知りたい。でもそんなことはどうでもいいような気もする。今里と杉崎の尽力があったと聞いた。それが事実なんだろう、ならばそれで充分じゃないか。何故わたしは省吾に拘るのだろうと思う。知らなくたって別に構わないといえば、多分そうだろう。

 そう思った瞬間、不意に言葉がこぼれ落ちた。

 「小坂さんもわたしの再雇用を助けてくれたんですか?」

 思いがけず、言葉が漏れた。切り出せそうにないと思っていた言葉だったのに、自然にすっと出てしまった。

 「何?なんか言った?」

 省吾が振り向いて祐里に訊いた。

 「いや、何でもないです」


 省吾が「ふう」と息を吐きながら椅子から立ち上がった。

 「川嶋さん、残りの一台は俺がやるから帰っていいよ」

 省吾が祐里に言った。いつものような不愛想な表情ではなく、穏やかな顔だった。

 「いや、小坂さんが心配だから残ります」

 「なんだよそれ」といって省吾が笑った。祐里は省吾の笑顔を初めて見た。こんなに楽しそうに笑う人だったなんて、知らなかった。その笑顔を見て、祐里はこのまま帰りたくないと思った。自分でもまだ分からない。省吾に惹かれつつあるのか、それとも興味があるだけなのか。

 小坂さんもわたしの再雇用を助けてくれたんですか?

 ただそれが知りたいだけなのか。

 「小坂さん」

 「ん?」

 「この仕事が終わったら、ご飯を食べて帰りませんか?」

 

 笑顔だった省吾が真剣な顔になって、僅かに戸惑いを見せた。

 変なこと口にするんじゃなかったと、祐里は後悔した。

 「うん、行こうか」

 数秒の間の後、省吾が笑顔で答えた。


18


 省吾は祐里を連れて、職場の最寄り駅近くの商店街からすこし奥に入ったところにある居酒屋に向かって歩いた。

 換気口から漂う焼き鳥や煮魚の匂いに鼻腔をくすぐられ、せまくて薄暗くて細い路地を祐里と並んで歩いた。仕事を終えて暗くなってから祐里と二人でこの路地裏を歩くなんて、春に祐里に派遣契約の終わりを告げたときの省吾には想像もできなかった。

 そんなことを振り返ってみて省吾は、明日のことなんて誰にも分からないということの意味が腑に落ちた気がした。

 そうだ、あのころは美玖とも険悪な関係に陥るなんて夢にも思っていなかった。そんな美玖のことを思うと、祐里と並んで歩いていることに何ともいえない居心地の悪さを感じなくもなかった。


 祐里の誘いを断ろうと思えば断わることも出来た筈だった。それなのに断らなかった。

 俺は祐里への興味や関心を捨てきれずにいる。

 (いったい俺は何がしたいんだ。どうなりたいんだ)

 省吾はそんな自分自身に自問自答した。そして祐里が自分を誘った意味を想像した。

 なんで祐里は俺を誘ったんだろう。きっとそれには深い理由なんてない。ただの『お疲れ様でした』の乾杯のつもりなんだろう。でも仕事終わりに異性と二人きりで飲みにいくなんて、祐里にとってはそれほど珍しいことじゃないのか。こんな風に気軽に今里さんや仲間と一緒に飲みに行っているのだろうか。

 きっとそうなんだろうと、こういうことに俺が不慣れなだけなんだろうと省吾は結論づけることにした。省吾の価値観では気軽に異性を誘って二人きりになったりはしないし、ましてや夜に二人きりになるなんて考えることは滅多になかったから、こんな風に二人だけで飲みにいくということについ特別な意味を持たせてしまいそうになる。

 そんな省吾にとって、祐里の存在は無視してしまえるほどに小さくて軽い存在ではなくなっているのだろう。だから尚更意識してしまうのだろう。そんな自分を戒めるように、省吾は出来るだけ祐里を見ないようにしながら歩いた。

 「きちんとお礼が言いたかったんです。直接雇用にしてもらったことを」

 はにかみながら省吾に告げる祐里の様子を見ながら、そんなことは気にしなくていいと省吾は返した。でも今日こうして二人で残業をしたことも何かの縁なのだろうか。

 我ながら祐里のことを意識し過ぎだと、考え過ぎだと思わなくもない。でも女性の同僚と二人きりで飲みに行くのは少し軽はずみだったかもしれないと、省吾はふと不安になった。

 何かあったらセクハラで問題になったりすることだってあり得る。もちろんなにも起こらないことぐらい省吾は百も承知でいる。でも、もしも祐里を不快にさせることが偶発的にでも起きてしまったら、その時はどうなるのだろう。祐里が会社に訴え出ることになったりしたら、今回は祐里から誘われたとはいえ、そんな弁明が通るはずもない。

 いや、祐里のことは信用してもいいだろうと省吾は思う。いくら何でも穿ち過ぎだろうと、省吾は自嘲した。


 そうとはいえ、美玖のことが気になった。

 例えばいま祐里と二人だけで一緒にいると、このまま二人だけで飲みに行くと美玖に伝えることができるのか。後ろめたい気持ちはないといい切れるのか。

 伝えることなんて出来っこないと、省吾は思う。後ろめたさもあった。

 じゃあ何でこんな状況になることを許容したのか。そう良識なるものから問われたとしたら、反論できないだろう。祐里の誘いを断らず、いざ祐里と二人になれば保身めいた気持ちで美玖のことを考えている。そんな自分の煮え切らなさが、狡さが省吾の心に沁みた。

 

 〈川嶋さんのためならお父さんにだって頼ろうとしたのに、私と住むマンションの家賃を私のためにお父さんに頼るのは嫌なの?〉

 美玖が放った言葉がふと頭をよぎる。その美玖の言葉は、美玖が祐里に何らかの意識をもっていることの証でもあった。

 〈なるようになれだ。一杯か二杯飲んだら切り上げたらいい〉

 覚悟が定まらずふらふらしている自分に喝を入れるように、省吾はいつもの店の暖簾を祐里と二人で潜った。



 無口な省吾と、無口ではないにしろ奥手で人見知りをしがちな祐里の二人だったけれど、気まずい沈黙に陥ることもなく、他愛のない話題や仕事のことなどを話しているうちに、あっという間に一時間以上が過ぎた。

 省吾がふと腕時計をみたとき、腕時計のデジタル表示はもう九時になろうとしていた。省吾は空いている自分のグラスを見ながら、もう一杯だけ注文しようか、それともここで切り上げたほうがいいのかと迷った。そんな時、祐里が口を開いた。

 「小坂さんはもう飲まないんですか」

 祐里はまだ飲む気なのか、どうなんだろう。

 「いや、どうしようかな。もう帰ったほうがいいのかなとか、考えてた」

 省吾は祐里の手元にある、ハイボールがまだ半分くらい入ったままのグラスを見た。

 「川嶋さんがそれを飲んだら帰ろうか」

 祐里が省吾の顔を正面から見つめていた。少し酔っているせいか祐里の顔はうっすらと赤くなり、目も潤んでいるように見えたから、省吾は不意を打たれた。

 〈ビール二杯だけしか飲んでいないのに、いつもよりも酔っているかもしれない〉

 祐里が女性として魅力的に見えた。そうなってしまう前に帰るべきだった。

 省吾には祐里と変なことには絶対にならない自信はあった。でもそれも怪しい。

 祐里が省吾をじっと見ていた。それに気づいた省吾は、祐里と視線を合わさないようにした。

 「小坂さんには付き合っている彼女さんがいるんですよね」

 俺に彼女がいることを祐里は誰から聞いたんだろう。

 「うん、いる。もう三年付き合ってる」

 元々は人事部にいた人なんだと、訊かれてもいないことまで話しそうになって、踏みとどまった。

 〈川嶋さんの再雇用はその彼女に助けてもらったんだって言ってしまいそうになる〉

 祐里にそんなことまで教える必要はないと省吾は思っている。ましてや美玖に会って直接お礼を言ったほうがいいだとか、そんなことを言うつもりも更々ない。

 今里や杉崎たちが頑張ってくれたんだと伝えておけばいい。

 再雇用の経緯について、関わってくれた誰かに感謝したいと祐里が思っていても、それは杉崎と今里に感謝してもらうだけでいい。敢えてそれ以上のことを伝えて祐里に気を使わせる必要はない。再雇用は祐里に周囲を納得させる力があったからだと、省吾はそう思っていた。


 ♫


 「三年付き合ってるってことは、そろそろ結婚とかですか」

 祐里は省吾のプライベートに踏み込みすぎたかもしれないと思い、咄嗟に失敗を悟って後悔した。もし自分が省吾のプライベートに関心を持ちはじめているのだとしたら、それはよくない。省吾に関心など持たず、いままでと同じように職場の上司と部下の関係でいたほうがいい。祐里はそう思っていた。

 〈省吾さんは嫌な人だ。気をつけろ、利用されるだけだ〉

 何かしらの悪意がこもっているとしか感じられない、あの日の林の言葉が引っかかって消えようとしなかった。今夜だってそうだ。林のあの言葉を、省吾と一緒にいる今でさえもふとした途端に思い出す。

 でも、今夜こうして省吾と一緒に過ごして、省吾から嫌な感じを受けたことなんて一瞬たりともない。むしろこうして仕事の話やプライベートについての他愛もない昔話などを聴くうちに、省吾の人柄は林が吐き捨てたような嫌な人なんかではないと、祐里の勘が囁き始めていた。

 そう。わたしは小坂さんのことを少しでも知りたくて誘ったんだと、祐里は思い返す。省吾は本当に嫌な人なのか。林の言葉が事実なのか知りたい。

 祐里には純粋に省吾への好奇心があって、だからこうして一緒にいる。省吾に関心など持たないほうがいい。でも自分を助けてくれようとした省吾に、時間が経つにつれ生じてきた好意。

 でもそれは恋なんかではない、ただの好意だと信じている。


 「うん。もう結婚するつもりでさ、いろいろと準備をしてるんだけど、まあ……」

 「だけど、まあ?」

 「いや、いろいろと大変なんだよ」

 恋なんかではないただの好感。なのに、省吾の口から出た結婚ということばを聞いて、祐里の胸は少し痛んだ。

 〈誰かの幸せが妬ましい。ただそれだけ〉

 そんな妬ましさとは違う、もしかしたら省吾の人生の隣にいる、会ったこともない人に対する嫉妬という感情なのか。もし仮にそうだとしたら、その感情からは目を逸らなければいけない。

 省吾の恋人が羨ましいだけ。きっとそう。

 いまの自分の境遇に比べたら、会ったこともない省吾の恋人は何て恵まれた立場にいるんだろうと思って、祐里は羨ましいと思うと同時に寂しくなった。


 「川嶋さんはいままでも製造業の仕事をしたことがあるんだよね」

 省吾が訊いた言葉が祐里には唐突に響いて、動揺した。

 省吾にどう答えようかと戸惑った。製造業の経験はほんの僅かしかない。でも履歴書には数年間は経験があると書いた。きっと省吾は私のその経験に香味があるに違いないと、そう予感した。

 製造業は未経験だと選考に不利だと思って、履歴書には膨らませて書きこんだその経験。省吾に深掘りされてもうまく答えられないだろう。

 うまく話を逸らすか、適当に誤魔化すか。それとも未経験に等しいと正直に答えるのがいいのか迷った。

 「川嶋さんの検査のスキルの高さもだけど、モチベーションの持ち方みたいなところに興味があるんだ」

 「モチベーション、ですか?」

 「うーん、注意深くしていれば、触覚も聴覚も慣れてくるとか、そうなるとこの仕事が楽しくなってくるだとか、言ってたよね」

 たしかに、省吾にそう言った覚えはあった。ギアボックスの故障を見つけたとき、そして派遣契約の打ち切りを伝えられたときに省吾からそう訊かれたことを思い出した。

 その会話を省吾は憶えていたのかと祐里は思った。それは自分との会話を憶えていてくれて嬉しいというようなときめく気持ちではなく、適当な嘘をついて誤魔化そうとしても、記憶力の良いこの人には見破られてしまうかもしれない、という警戒心のようなものだった。

 「検査の経験はないんです。ただちょっとだけ、ラインの仕事をしたことがあったんです」

 それは嘘じゃなかった。でも、辞めざるをえなくなって、三か月の契約期間の更新の際に辞めた。祐里の意思で辞めたというよりも、なんとなく辞めるように促されているような気がしたからだった。

 省吾は頷きながら何かを言いたそうな風に見えた。言いたそうというか訊きたそうというか、そういう気配を感じた。

 きっと省吾は私に興味を持っていると祐里は思った。でもその興味は異性に対して抱くものではなく、検査員としての自分のスキルに対する興味なんだろうということぐらい祐里にも分かった。それが順番どおりに自分の過去の職歴についての興味に変わってきたんだろうか。

 もし自分の経歴への核心を突いてきたような質問をされてしまったら、咄嗟に上手く嘘で凌げるだろうか。誤魔化しきれずについ不自然な態度をとれば、省吾はきっとその違和感に気づく。


 今夜はもう少し省吾と過ごしたいとも思っていた。皆が退勤した後の普段とは違う検査室の雰囲気に、十代の頃の懐かしい思い出が重なってしまったせいかもしれない。

 でも切り上げたほうがいい。もともと今夜は省吾と遅い時間まで一緒にいるつもりはなかった。省吾の自分に対する過去の職歴だけではなく、私自身についての関心が高まる前に帰ろう。そして、自分も省吾にこれ以上関心を持たない。省吾に近づき過ぎるのはやめよう。


 「川嶋さん、そろそろ帰ろうか」

 「はい」

 きっと省吾と二人きりで会うのはこれが最後だろう。そう思ったら何故か、寂しくなった。


19


 省吾は祐里のいままでの経歴に触れた途端に、それまでの打ち解けた様子とは打って変わって祐里がたどたどしく、よそよそしい態度に変わったことが気になった。

 もしかしたら祐里のプライベートな領域に踏み込みすぎたんだろうか。

 それとも、せっかく打ち解けつつあったいい雰囲気を台無しにするような、デリカシーのないことを口にしてしまったのだろうか。

 たしかに省吾はいつもよりも酔っていた。でも自制心を失うほどには酔ってはいない、祐里に対しては不愉快にさせるような失敗はしていないと言い切れる自信もある。でもハラスメントに厳しい時代だから、若い女性の同僚と二人きりで飲みに行くなんていうことは、それだけでも誤解を招きかねない行為だったと、軽率だったと反省した。

 でも誘ってきたのは祐里のほうからだ。そんな彼女が俺を陥れるなんてことはないと信じたい。でも、もし俺の意図せぬ些細なひと言が彼女を不愉快な思いにさせていたら、どうなっていただろう。

 〈やっぱり二人きりで飲みに行ったのは失敗だった〉

 なぜこんな軽はずみとも思えることをしたんだろう。省吾は考えた。そして導き出された答えはたったひとつしかなかった。

 それは祐里と連れ立って店に向かう間にも散々逡巡したことだった。でもどうにでもなれと腹を括って暖簾をくぐった。それなのに今こうして悩んだところで仕方がないだろう。

 (俺は祐里に興味がある)

 そう、俺は祐里に興味をもっていると省吾は素直に認めた。それも今日からじゃない。きっと、もっと前からだと。祐里の再雇用に力を貸そうと決めたあのころから、俺は祐里に興味を持っている。だから今夜は祐里からの誘いを断らなかった。

 祐里のことを少しでも知れたらと思った。省吾はそんなことをぼんやりと考えながら改札口を通り抜けた。


♫ 


 分からない。まさかここに来て省吾は自分の気持ちが分からなくなった。

 美玖にたいする想いは相変わらず揺らいでなんかいないと言い切れる自信があった。美玖とならば多少の困難ぐらいは二人で乗り越えられる。簡単に諦めたり、別れるなんていう選択肢はとらない。でも、いまのふたりの状況はどうなんだろうと、省吾はふと考える。

 いまの俺と美玖の恋人同士としての関係はまさに困難の最中なんだろう。

 付き合って三年、そのあいだ多少の喧嘩や言い争いならばあった。でもそんなことは付き合っている男女の間では当たり前のことだし、いままで付き合ってきた女の子たちの間で起きた諍いに比べたら、美玖との些細な喧嘩なんて全然たいしたことなんかじゃなかった。そんな些細な喧嘩の理由なんていつも、放っといても時間が経てばお互いにどうでもよくなってしまう程度のことでしかなかった。でもいまは違う。いまの二人の間に流れている不穏な空気は、いままでの些細な喧嘩のような、放っといても時間が経てばどうでもよくなってしまう類の軽いものではない。

 それは周りから見たら、結婚をきっかけにして唐突に現れたありがちな不協和音のように聞こえるかもしれないけれど、いままでの間に少しずつ積み重なってきたものが、コップに注がれる最後の一滴が溢れ出したかのように、問題の根本は、きっと気付きながらも目を逸らしていた問題に違いない。

 そしてその問題は、決して軽いものではないのだろうと省吾は思った。でも、そのコップに注がれ続けていた不満めいたものの正体に、正面から向き合うことをためらう気持ちがあった。

 放っておけるならば、そうしたい。

 互いに触れずに目を逸らすことで済むのならそうしたい。互いに全てを理解し合えるのならばそれに越したことはないけれど、全てがそんなふうに上手くいくはずもない。曖昧な領域。そんな領域が俺と美玖のあいだにあったとしても、それでいいじゃないか。

 もしかしたらそれが正解なのかもしれない。そんなふうに緩衝地帯のようなものを二人の間に設けて、お互いにやり過ごす。そうして問題を上手く消化するのも、結婚を目前に控えた男女に与えられた条件のひとつなのかもしれない。

 でもその不穏な空気の原因が、目を逸らすことで済むものではないのなら。

 美玖と、それからその問題の重さを天秤にかけて確かめるまでもなく、省吾は美玖が大切だと言い切れる。そして結局は、その問題を二人で納得するまで話し合って、地道に解決するしかないんだろうか。


 それから省吾はふと思う。もし祐里のことが美玖にとってはいちばんの懸念だったらどうすればいいんだろうと。祐里のことはなんとも思っていないと何度も繰り返し伝えるだけで、そんな言葉だけで美玖は納得してくれるんだろうか。

 省吾の想いはこうして同じところをぐるぐると廻っていた。

 やはり、これ以上祐里に興味を持つのはやめよう。

 でも、いままでの経歴に触れたとたんに様子が変わった祐里。そのことが省吾は気になった。どんな経歴だって、尋ねられて困るような事があったとしても、さらりと誤魔化したりうやむやにしようとすればできるだろうに、祐里にはそれができないのか。

 祐里はきっと何かを隠そうと、誤魔化そうとしている。そんな気がした。

 そういえば、再雇用の面接の前に履歴書を出してくれと伝えたときも、祐里は戸惑っていた。それが気のせいではないのなら。もしかしたら学歴や経歴を詐称しているのかもしれない。

 じゃあなぜそんなことをする必要があるのか。省吾は、祐里のそれだけが気になった。



 〈川嶋さんのためならお父さんにだって頼ろうとしたのに、私と住むマンションの家賃を私のためにお父さんに頼るのは嫌なの?〉

 あんなことを省吾に言うべきではなかった。祐里を引き合いに出してしまったのはまずかった。美玖は感情まかせに放ってしまった言葉を後悔した。

 放ってしまった言葉は、もう元に戻すことは出来ない。そんなことは勿論分かっていた。でもつい感情的になって、衝動的に口にしてしまった言葉を省吾はどう受け取ったのだろうかと、美玖は不安だった。


 何であんなにも感情的になってしまったのだろう。そう美玖は何度も思い返してみた。自分が気に入ったマンションを省吾が否定したから。自分の親からの援助の申し出を省吾が嫌がったから。それもある筈だった。

 それから美玖は思った。省吾ならそういうことを嫌がるだろうと、私は知っていたはずなのにと。私は省吾のプライドを傷つけないように、もっと気を付けるべきだった。そんなことを美玖がまとまらない頭で考えながら、省吾の人の良さそうな両親のことを思った。ドラマで描かれるようなごくごく普通の暮らしぶり。

 暮らしのなかに身分不相応な高級品が混ざり込むこともなく、ガレージに高級車が停められているわけでもない。でも無駄なく清潔に整えられた、過不足のない暮らし。それが省吾の望む暮らしだと、美玖は理解していたつもりだった。そんな省吾が家賃の高いマンションでの生活を望む自分に反発したのも、少しでも考えていたら理解できた筈だったと美玖は思った。

 浮かれていたのか。そうかも知れないと美玖は思った。それとも、焦っていたのか。

 焦っているとしたら、なぜ焦る必要があるのか。一刻も早く省吾との間に、既成事実めいた証のようなものを築いてしまいたい。そんな気持ちがあった。

 焦り。それは怖れなのかもしれない。何となく省吾の後ろに影が見えるような気がしてならない。その影がいずれ実体となって私に目の前に現れてきたらという怖れ。



 美玖が生まれたときに両親が暮らしていた家は古くて狭い社宅だった。こじんまりした団地のような社宅。そんな環境で美玖は幼稚園に入るまで育った。

 美玖の父親は銀行員だったから、転勤が多かった。幼稚園に入って最初の夏。ようやく友達ができたころに違う街に転居した。小学校も二回変わった。中学校も途中で転校した。

 小学校では転校するたびにいじめにあった。精神を病むほどのいじめではなかったけれど、方言が違うからとか、持っているものが違うからといった理由でからかわれたり、意地悪をされたりした。

 雨の日、体育の授業を体育館ですることになったとき、雨が降っているけれど授業は体育館ではなくいつも通りにグラウンドでやるという同級生のついた嘘を真に受けて、雨に濡れながらみんなが現れるのを待ったこともあった。

 子供の頃の美玖は喘息持ちだった。夜中に発作を起こすこともあった。そんなときは母や父が寝ずに背中を撫でてくれた。

 小学生のときに水泳を習いはじめて、中学校で陸上部に入るころにはだいぶ症状も改善して、発作が起きることもなくなった。でも美玖はいまでも思い出すことがある。咳き込みながら、苦しさに耐えながら天井からぶら下がった常夜灯の小さな灯りを眺めていた長い夜の記憶を。薄いオレンジ色の灯りが弱々しく照らす部屋に忍び込んでくる孤独の影を。死の匂いを。



 省吾に謝りたい。それもきちんと会って、ごめんなさいと伝えたい。でも省吾とLINEのやりとりを重ねるたびに、省吾の後ろに祐里の影を感じることが増えていた。祐里の影を感じる必要なんてないのに、なんでそんなことを感じるのだろうと、美玖は自分でも不思議に思った。

 省吾の気持ちは伝わっていたし、その気持ちを信じてもいた。省吾の誠実な人柄も信じている。いまのまま時間が過ぎていけば、省吾の口からふたりの未来について、共に歩むと約束してくれる言葉を聞くことも出来る筈。

 そう。何も不安はない。何も焦る必要はないし、恐れる必要もない。ただ落ちついて、省吾の隣にいればいい。そう分かっている。なのに、なんでこんなに不安なんだろう。

 美玖は気付いていた。そう、不安なんだと。美玖は自分の心の底から湧き上がる嫌な気持ちが不安であることに気づいている。そして気づくたびにその感情に蓋をかぶせる。不安なんて知らない。不安なんて感じていないし、感じる必要もない。

 省吾はわたしのことを本当はどう思っているのだろうと、ときどき思うことがある。きっと自分のことを愛してくれていると、大切に思ってくれていると、そう理解しているし信じているのに、省吾は本当の気持ちを隠しているのではないかと勘ぐりたくなる衝動にとらわれることがある。

 美玖は無口であまり感情をおもてに出さない省吾の、理性的で落ち着いたところが好きだ。それから外には現れにくい優しさを感じさせるところも。でもこんなときは省吾の寡黙さが美玖の不安をかきたてる。

 わたしは省吾くんの気持ちをどれだけ理解しているのだろう。そう美玖は自分に問いかけてみる。省吾が言葉にしない、言葉の裏にある省吾の真意をどれだけきちんと知っているのだろう。相手のことを完璧に理解するなんて、そんなことは無理だということも美玖は理解している。でも男性経験が省吾も含んでふたりしかいない美玖には、男性の心の内がいまひとつ理解できないし、想像するにも弱い。そのせいなのか美玖は、男性のすべて知りたいと、知らなければいけないという気持ちが強かった。

 省吾の心の底を覗いてみたい。でも、覗きこんだ省吾の心の深淵から、祐里がわたしを見上げていたらどうしようと考えて、恐怖心に囚われる。それ以上は考えられなくなる。


 祐里の存在が気になる。


 美玖は認めたくない自分の本心と向き合わざるを得なくなる。でもそこから逃げ出すことは出来ないのかと思う。省吾に確かめたい。でもこういうことは確かめないほうがいいのかもしれない。それを我慢できるのか、それとも我慢できなくなるのか。

 祐里のためなら躊躇しながらも、最後はお父さんに協力してもらうことを選んだ省吾。

 「川嶋さんのためならお父さんにだって頼ろうとしたのに、私と住むマンションの家賃を私のためにお父さんに頼るのは嫌なの?」そう口走ってしまったのは、結局は祐里への不安を我慢できなくなったからに違いないと、それぐらいのことは美玖も分かっていた。


 本当は、省吾は祐里のことをどう思っているんだろう。

 信頼できる同僚。そしていろんな事情を抱えた、思わず気に懸けてしまう人。

 わたしの川嶋さんに対して抱く気持ちに、省吾はどのくらい気づいているのだろう。わたしのなかに潜む孤独や不安を。祐里にたいして抱いている複雑な感情を。


20


 省吾は電車に揺られて三十分ほどのところにある広い公園に美玖を誘った。日が沈んだあとに食事をしながら酒を飲みながら話すよりも、青空の下で解放的な空間をぶらぶらと歩きたかった。公園のベンチに腰かけて、のんびりした雰囲気をつくってから話すほうが、深刻になりすぎず本音も話しやすいような気がしたからだった。

 カップルや家族連れが各々のやりかたで寛いでいる公園を、いまのようにぎくしゃくとした雰囲気になる前と変わらない様子の美玖と歩きながら、少し深刻に考えすぎたのかもしれないと省吾は思った。それでも時間が経つにつれ、やはり以前よりも二人の間には距離があるような気もした。美玖の表情にも僅かに陰りがあるようにも思えた。

 日向を歩くと汗ばむような、心地よいとはいえない初夏の一日だった。こんな季節に外で会ったのは失敗だったかもしれないと、背中が汗ばんで肌着が湿るのを感じながら、省吾は美玖の顔を見つめた。

 日陰のベンチに座ろうとして空いているベンチを探した。たいして日差しを凌げそうにない場所のベンチしか空いてなかったけど、それでもマシだと思いながら二人はベンチに腰かけた。

 「たまにはさ、こんなふうに過ごすのも気持ちいいよね」

 美玖が明るい声で、でも違う方を向いたまま省吾に話しかけた。

 「うん、俺はそう思っているんだけど、暑くないか? 大丈夫?」

 省吾の言葉に笑顔で返した美玖をみて、省吾はほっとした。でもやっぱり美玖は以前よりも俺に気を遣っているのかなとも感じなくもなかった。


 美玖が突然口をひらいた。

 「省吾くん、いろいろごめんなさい」

 省吾の顔を見ずに正面を向いたままの美玖を見て、省吾は美玖の横顔に僅かな翳りを感じた。

 「この前からずっと、省吾くんにいろいろ負担をかけてたんだなって反省してた」

 美玖の口から出たごめんなさいという言葉を聞いて、省吾も隠し立てすることなく想いを正直に打ち明けようと思った。

 「それほどは負担だなんて思ってなかったけと、正直に言うとちょっと戸惑った。でもそれほど気にし過ぎなくていいよ。それに俺も色んなことをハッキリとさせなかったから、こっちこそごめん」

 美玖が微笑みながら省吾の顔を見つめた。

 「俺も、自分の主義を押し付けようとしてたって気がついた。もっと素直になって、まずは美久のやりたいことを聴こうとするべきだったって」

 「それはわたしも同じなの。だから省吾くんだけが悪いだなんてちっとも思ってない」

 「いや、本当のことを言うとさ、戸惑ってたんだ」

 そう、戸惑っていた。省吾は美玖から感じた結婚への圧のようなものを受け止める準備がまだ出来ていなかったと、戸惑いという言葉を使って正直に伝えようと思った。

 美玖は省吾を見つめて、省吾が次になんていうのかを待っていた。

 「まだプロポーズだってきちんとしてないのにって思ってたんだ。なのに美玖はすごい勢いで走り出したような気がして、戸惑ったし、不安にもなった。だって、こういうことってきちんと一段ずつ登っていかないといけないって思ってた。足元がしっかり見えていないと不安なんだ。いまもそう思ってる」

 美玖が少し俯き加減になりながら口を開いた。

 「たしかにそうだよね。ごめんなさい。マンションのこともごめんなさい」

 「マンションのことは、俺ももう少し美玖の話を聴けばよかったと思ってる。それでも無理だって結局は言うことになったとしても、美玖の話を聴いてから言えばよかった」

 美玖が微笑んだ。そして自嘲気味に小さくため息をついた。

 「そのときは省吾くんがいう慎ましい暮らしのことを、きちんと受け止めてなかったし、父がお金を助けてくれるって言ったのも悪かった。川嶋さんのことを引き合いに出したのも、本当にごめんなさい」

 美玖は一旦言葉を止めてから、何かを言おうとして口を開きかけたまま、少しの間黙った。

 省吾も美玖の言葉を黙って待った。

 「ごめんね、本当のことを言うよ」

 本当のことを言うよと美玖が口にしたのを聞いて、省吾は緊張した。暑さのせいだけじゃなく、省吾の手のひらはじっとりと湿っていた。

 「川嶋祐里さんのことが気になって仕方しかたないの。省吾くんが少しずつ川嶋さんに惹かれていくような気がして仕方がないの」

 省吾が思っていた通りだった。だからそれほどの驚きは感じなかった。その代わり、祐里のことで美玖を追い込んでいたのがはっきりと分かって、そのことが省吾を心苦しくさせた。

 言い訳をしたかった。でも美玖に出来るだけ気持ちを吐き出させようと思って踏みとどまった。美玖は微笑んでいたけれど、それは、この場は微笑んでいたほうがいいからそうしている、というような微笑みに思えた。

 「省吾くんのことを信じていないわけじゃないよ。でも、恥ずかしいけどね、わたしはきちんと付き合った男の人って省吾くんが初めてなの。これは前にも言ったことあったよね。そう、省吾くんの前はひとりいたけれど、遊ばれてただけみたいな感じだったからさ。元カレともいえない人なの」

 少しだけ風が吹いた。地面に映る木の影が揺れていた。

 「別にそんなの恥ずかしいことなんかじゃないよ。むしろ美玖に初めてまともにできた彼氏が俺だなんて光栄だよ」

 省吾にとっては本心からの言葉だった。元カレの数は数えきれなくて分からないと言われるよりも遥かに嬉しいと、省吾は思った。

 美玖がさっきまでよりも屈託のない笑顔を見せた。

 「だから男の人の気持ちが分からないの。男の人の前ではどうするのが正解なのかも、分からないの。省吾くんが川嶋さんのことを言い出してから、不安で仕方なかった。省吾くんがそんな風にわたしを頼ってくるなんて初めてだったし、川嶋さんのことを助けたいだなんて言ったことも、その感情がどういう感情に変わっていくんだろうって不安でしかたなくなったの」

 その感情がどういう感情に変わっていくんだろうという言葉は、省吾が思っていた、その通りだった。

 やっぱり美玖はそう思っていたのか。そう思わせても仕方がないことを俺はしていたんだと、改めて省吾の心が痛んだ。

 「ごめん。でも川嶋さんには本当になんの感情もない。ましてや美玖と別れて川嶋さんと付き合うとかあり得ない」

 『ましてや美玖と別れて川嶋さんと付き合うとかあり得ない』この言葉は紛れもない省吾の本心だった。

 でも『川嶋さんには本当になんの感情もない』という言葉は、自分に言い聞かせるようにして、わざと強い言葉にした。

 「不安で仕方なくなったの。省吾くんの川嶋さんへの気持ちがきっと恋に変わるに違いないって。だから、一日でも早く、言い方は悪いけど、省吾くんを逃げられないようにしないと駄目だって思った」

 逃げたりなんかしないと言いかけて、何故かその言葉が出なかった。

 省吾はひと呼吸おいた。話が祐里のことになると、知らず知らずの内に心が乱れ始めるような気がした。

 「じゃあそんなことしなくても大丈夫だから。俺は美玖から逃げるとか、川嶋さんのことを好きになるとかあり得ないから」

 美玖が迷いのない瞳で省吾を見つめた。心の内を全て見透かしてしまうかのようなその瞳に、思わず省吾は怯みかけた。

 「わたしはね、省吾くんが大好きなのよ。本当に大好きなの。だから絶対絶対省吾くんを失いたくないの」

 そう言ってから「わたしって重いでしょ」と美玖が自嘲気味に微笑んだ。そんな美玖をみながら、なんでそこまで俺のことを好きなんだよと、省吾は反対に美玖の気持ちが分からなくなった。

 「俺は美玖みたいないい子にそこまで惚れられるような男じゃない」

 そんなことは無いと言いたげに、美玖が首を振った。

 「わたしの周りにいた男の人たちはみんな、わたしの後ろにいるお父さんを意識していて、出来ることなら利用したいと思っているような人ばかりだったから……」

 「うん、まあたしかにそういう男は大勢いるだろうね」

 省吾が言うと、美玖がため息をついた。

 「就職が有利になるんじゃないかとか、起業するのに人脈が拡がるんじゃないかとか、それからくだらないイベントだとかの企画をするような人たちがスポンサー欲しさに声をかけてきたりだとか」

 そんな男達にはウンザリなのよと美玖が呟いた。

 「でもそんな奴らばかりじゃないだろ。いい奴だっていただろう」

 「勿論まともな人だっていたよ。でも異性としてその人に惹かれれるかは別でしょ」

 たしかにその通りだと、省吾も頷くしかなかった。

 「でも省吾くんは違うでしょ?わたしには分かったの。省吾くんは違うって。そういうことには全く関心なく生きてる人だって。でもそんな省吾くんが川嶋さんのことでお父さんの力を借りたいって言ったのは、本当は不本意なことだった筈でしょ?だから省吾くんにとって川嶋さんは余程特別な人なんだって思った」

 いつの間にか、このベンチに腰掛けたときよりも日影が薄くなっていることに省吾は気がついた。日差しもだいぶ和らいでいた。

 それから省吾は美玖の顔をじっと見た。あらためて綺麗な子だと思った。見た目だけじゃなくて性格もいい。そんな美玖がここまで自分を大切に思ってくれている。そのことが省吾には何故か素直に飲み込めなかった。そして戸惑った。

 「だから本当はお父さんに川嶋さんのことを頼むのは、複雑な気持ちだった。省吾くんから頼られたのは本当に嬉しかったし力になりたいって思ったから。でも川嶋さんは知らない女性。何も知らないし、もしかしたらこれがきっかけになって省吾くんを獲られるかもしれない」

 「そんなことないのに」

 思わず省吾は口を挟んでしまった。美玖が首を振った。

 「だからお父さんに頼んだふりだけして、やっぱり駄目だったっていうことにするつもりだった」

 美玖はそう言うと自嘲気味に口元を歪めて俯いた。そんな美玖の言葉を聞いて省吾の胸がチクリと痛んだ。

 「でも省吾くんにそんなことはできないって思った」

 省吾は美玖のことばを黙って聞いた。

 俺は美玖の気持ちに無神経過ぎた。

 複雑な思いを抱いて、俯き加減の美玖の顔を見つめた。

 「でもね、やっぱり後悔してる」

 美玖が省吾を見つめていた。でも、美玖の視線は弱々しくて、儚げに見えた。

 「川嶋さんのことをお父さんに頼んだこと、もの凄く後悔してる。こんな気持ちになるのなら、わたしに任せてだなんて言わなければよかったって」

 ごめんね省吾くん、と言いながら弱々しく微笑んで見せた美玖の顔を見つめながら、省吾の額を汗がつたって落ちた。その汗は暑さのせいだけじゃないと、省吾は思った。

 「それでね、それだけじゃないの」

 その言葉を聞いて、省吾はみぞおちを殴られたような、えずきたくなるような重たい気分になった。

 「それだけじゃないって、何?怖いな。怖すぎるよ」

 省吾はそう言って、誤魔化すように笑ったけれど、そんなことで不安な気持ちが消し飛ぶはずもなかった。

 「前にも言ったじゃん、わたしのことどう思ってるのって。省吾くんのことが、たまに分からなくなるの。無口だからとか、それだけじゃなくて、」

 「それだけじゃなくて?」

 「省吾くんがわたしのことを大切に思ってくれてるのも分かってる。でもね、育った環境の違いだとか、わたしのいろんな振る舞いを、省吾くんは認めきれていないと思う。そういうことをはっきりと言わずに、溜め込んでるんだろうなって、思うことがある。それでこれから先、上手くやっていけるのかなって考えたら、きっと省吾くんもわたしも我慢できなくなる」

 「それは俺も同じことをかんがえることがあるけど、でもそれは大したことじゃないと思う」

 そう。大したことじゃないと、松坂の顔を思い出しながら省吾は思った。

 「わたしは省吾くんの価値観が好き。この前ご両親と会ったときも、そう思った。こういう暮らし方もいいなって。それに、わたしの家もたぶん省吾くんが想像しているほど贅沢なんかじゃない。小さい頃は社宅の団地暮らしだったし」

 「そうなんだ。子供の頃から豪邸に暮らしてたのかなって、お手伝いさんがいたりして」

 省吾がそう言うと美玖が笑った。

 「そんなわけないよ。銀行員なんて言ったってサラリーマンなんだから、うちが裕福になったのもわたしが高校生になった頃からだよ。お父さんが執行役員になってから」

 「でもいまじゃ頭取になっても不思議じゃないところに立ってる」

 「そんなお父さんのこと、怖いと思ってる?」

 

 省吾は正直なところ、そんな美玖の父親のことが怖い。社会的にみたら絶対的な強者であり、勝者だ。いままで省吾の周りにはいなかった種類の人間だった。そんな美玖の父親に対する畏敬の念が省吾にはあるし、畏敬というよりもそれは、未知の人に対して抱く恐怖に近いのかもしれない。

 「だからね、結局はお父さんもサラリーマンなの。わたしも、そんなに子供の頃から浪費を許されていた訳じゃない。いまのわたしって、ふわふわしてるように見えるでしょ?」

 「うん、まあ」

 「省吾くんに嫌われない、飽きられない、いい女になりたいのよ。でもね、どうすればいいのか分からなかったの。だから港区で生きてますみたいな、女子アナになりたいっていう人の真似をしてるの。もう、最高にカッコ悪いよね」

 「ああ、もう、恥ずかしいな」といいながら両手で顔を隠す美玖が、ようやく分かったような気がした。

 「カッコなんてつけるなよ。美玖の人柄はわかってる。自分の好きなようにすればいいじゃん」

 「うん、ありがと。でも今の仕事を考えたら、ある程度はね、こんな感じでいないと。クリエイト部門ならまだしもさ、営業が上下ジャージってわけにはいかないよ」

 省吾はようやく美玖と通じ合えたような気がした。そしてここまで来るのに三年も掛かったのは、やはりこの踏み込もうとしない自分の性格のせいなんだろうと反省した。

 「もう一度最初からやり直そうよ。結婚するにしても、焦らずに、階段を一つずつ登っていきたいんだ。だから、信じて待って欲しい」

 美玖が頷くのを見て、省吾はもう大丈夫だと思った。

 ゆっくりと、一段ずつ確実に登っていけばいい。そして必要以上に美玖の父親を恐れるのもやめようと思った。

 「お父さんがね、省吾くんにもう一度会いたいんだって。なんでだろうね、省吾くんのことずいぶん気に入ったみたいなの」

 うん、俺もゆっくり会ってみたいと、省吾は思った。


21


 林との関係を清算しよう。祐里はようやく決心した。

 もう二度と林と一夜を共にしたりはしない。

 先の見えない不安や孤独に押しつぶされそうになる夜は林と刹那的なセックスをして、その後は疲れ果てて朝まで眠った。

 でもそんな歪な愛にこれ以上縋るわけにはいかないと悟った。

 いつまでもわたしに囚われて、前を向くことが出来ずにいる林。そんな彼のこれから先のことを想うなら突き放した方がいいに決まっている。そしてそれは前から分かっていた。でも、そんなことを考えている自分自身の身勝手さも、祐里はよく分かっていた。いままで祐里自身が散々林の好意を利用してきた。自分でも何をいまさらという気になって、つい自嘲する。

 そんな祐里でも構わないから俺の傍にいてくれとせがんだ林。彼の気持ちを考えたら、離れるに離れられない気持ちもあった。

 それに祐里自身が今でも林のことに無関心になれずにいた。林の育ちの良さからくる素直さが、見返りを求めない優しさが好きだった。そんな林と朝まで過ごす夜はいつもより深く眠ることが出来た。

 でも林には私とは違い周囲からの期待もある。恋なんていくらでも出来る。だからこそ林との関係は今度こそ終わりにしようと思った。


 祐里は工場の中庭にある藤棚の下のベンチに腰かけて、林が通りかかるのを待った。

 いつからだろう。以前のような林への想いは引き潮のように、いろんな思いを巻きこみ拐って、もともとの潮位へと静かに退いていった。お坊ちゃん育ちで人柄もよく、誰とでも上手に付き合うことが出来る林が放つ明るさに惹かれることはあっても、胸を焦がすことはもうない。


 話したいことがある。近いうちにどこかで会おう。林が来たらそう伝えよう。

 藤棚の影が祐里の太ももや足元に模様を描いていた。蒸し暑い、湿った空気が祐里の肌に纏わりついた。

 ふと、はやく夏にならないかなと思った。砂浜を歩きながら、蒼い水平線から湧き立つような、空の蒼さに鮮やかに映える真っ白な入道雲を眺めたいと思った。

 そのときに隣には誰かいるのだろう。誰にいてほしいんだろうか。


 暫くして食堂の方から林が歩いてくるのが見えた。そして目が合った。

 林が手をあげてこちらに近づいてくるのを見て、祐里はいままで林に対して抱いたことのない不安な気持ちが、薄っすらとした警戒心が芽生えていることに気づいて戸惑った。

 〈省吾さんは嫌な人だよ〉

 林が口にしたひと言が、省吾に対してではなく、林に対する疑念に変わろうとしていた。


 「元気か?祐里」

 いつものように屈託のない林の笑顔。

 その笑顔から祐里が感じたのは親しみのこもった愛情ではなくて、素直に別れを受け入れてくれるだろうかという不安だった。祐里は時々、林が自分に向ける執着心が怖かった。でもそれを助長させるような態度をとっているのは自分だということも分かっていた。

 「なあ海人さん、近いうちに夜ご飯たべにいかない?」

 重たくならないようにさらりと言った。

 「いいね」と林は答えて祐里の隣に座った。祐里は無意識のうちに林から身体を離した。

 林に近付くのを身体が拒んでいるのか。いままでそんなことがあっただろうか。祐里には記憶がない。でも林は今の私の態度を感じ取ったのだろうか、それとも気づいていないのか、どっちなんだろう。

 「じゃあ週末あたりかな」

 林が前を向いたまま答えた。

 分かったと祐里は答えた。それから林の顔を見つめた。林が嬉しそうに微笑んだ。

 そんな林の微笑みを見ても、祐里がいままでのように胸の高まりを覚えることはもう無かった。



 祐里にはどうしても知りたいことがあった。

 『省吾さんは嫌な人だ』と林が言った。

 省吾のことが好きだし尊敬していると言っていた林。そんな林が急にいままでの態度を覆して正反対なことを言いだした。

 『省吾さんのせいで辞めた社員もいる』

  この言葉はいったいどんな意味なんだろう。それを省吾本人に訊けるわけがない。林も知っている誰かと仲違いでもあったのか。省吾が辞めさせたのか。それともその人が自分から辞めていったのか。

 林のことを疑いたいわけではない。でもいまの祐里には、林が口にしたその言葉が真実だとは思えない。もし林の言葉が嘘で、省吾を貶めるために口にした言葉なら、林は何故そんなことを言ったんだろう。

 省吾は本当はどんな人なんだろう。

 そんなことを知ってどうするつもりなのと、祐里は自分に問いかけてみる。

 省吾に興味を持つのをやめようと決心してからまだ間もないのに、わたしの心はなぜ省吾のことが知りたがるのか。省吾に興味を惹かれるのを止められないのか。

 祐里は省吾のことを殆んど知らない。知らなければ興味だって湧く。一度だけ二人でわずかな時間を共にした。酒を飲みながら私生活についても、僅かに触れた。

 そんな省吾には、結婚を意識している恋人がいた。


 省吾は不愛想で冷たそうな感じの人だと思っていた。省吾が検査室に入ってくると嫌な気分になることもあったし、たいていの場合は緊張した。でも、再雇用にいたるまでの間に、そんな省吾の人間味が少しずつ垣間見えてきたような気がした。

 そしていまは、省吾が無口なのも不愛想に見えるのもただ不器用なだけで、本当はもっと優しくて暖かみのある人なんじゃないか、というふうに思っている。そんないくつかの欠片が省吾に興味を惹かれる理由だとしても、それだけでは説明しきれない何かが、祐里の心の奥底に潜んでいる。

 省吾にまつわるいくつかの欠片繫げてみたら、どんな形になるのだろう。祐里自身には気づかなくても、祐里の話を聴けば誰もが気づく、名前を付けやすい感情なんだろうか。

 省吾の姿を見かけたらつい目で追ってしまう。そして省吾が検査室に入ってきたらそわそわする。そんな省吾は祐里には目もくれずに真っ直ぐ今里のところに向かい、今里と二言三言話して、隣の部屋に消えてしまう。聞き耳を立てるわけにはいかないけれど、省吾が今里とどんな話をしているのか、つい気になってしまう。


 祐里は今里にならば気軽に話しかけることが出来た。今里もそんな祐里を拒んだりはしない。今里は口が堅い。今里には誰にも言えない相談を、弱みを明かしたこともある。そんな今里と祐里の関係には恋愛感情も身体の結びつきも、当たり前だけれどもない。何しろ今里は既婚者だし子供もいる。

 二人だけで飲みに行ったこともある。でも今里が祐里にたいして変な感情を、下心を覗かせてきたことは、いままで一度もない。

 今里さんはジェントルマンだと祐里は思っている。面白くて優しいし包容力もある。仕事もできるし、頼りになる。そう、無口で不愛想な省吾よりも、よほど今里の方がリーダーに向いている。今里が課長でもおかしくないのに、係長のままでとどまっているのは、今里自身がそう望んでいるからなんだということも、祐里は知っていた。


 省吾のことを今里に訊く。変に勘繰られないようにさりげなく訊こうと祐里は決めた。あとはタイミングだった。




 退勤時刻の少し前、検査室の空気が少し緩むころに今里が隣室に入っていった。いまが今里に声をかけるチャンスかもしれない。祐里は扉の向こうに消えていく今里の姿を目で追った。でも、なんて切り出せばいいのか、分からない。いきなり小坂さんのことをいろいろと教えてください、なんて切り出すわけにもいかない。

 ぐずぐずと迷いながら扉の陰から今里の姿をみながら迷っていたら、今里と目が合った。もう小細工なしに訊くと決めた。


 「小坂さんは嫌な人だって林さんから聞いたんです。本当なんですか?」

 直球で攻め過ぎたかもしれない。でも口に出してしまったからには引き下がることは出来ない。「やっぱりいいです」なんて言って引き下がろうとしたら却って怪しまれるに違いない。

 それに一体他にどんな訊き方があるというのか、祐里には見当がつかなかったのだから仕方がない。
 
 今里は祐里から急にそんなことを言われて驚いた様子を見せた。

 何を急に、とでも言いたげな顔で祐里を見ていた。そして我に返ったように「どうしたいきなり?」と答えた。

 いきなりこんなことを訊かれたら今里じゃなくても戸惑うだろう。それは祐里にも分かっていたから今里の困惑は理解できたけれど、ここで話を終わらせるつもりもなかった。

 「林さんが、小坂さんは嫌な人だから気をつけろって言うんです。私の直接雇用の件でも小坂さんは何もしていないって。小坂さんに利用されないように気をつけろって言われたんです」

 今里は眉間にしわを寄せながら、怪訝そうな様子を顔に浮かべて祐里の話を聞いていた。

 「林さんの話は本当ですか? 今里さんなら正直に教えてくれると思って」

 今里は祐里の表情に僅かながらも困惑の色が滲んでいることに気がついていた。
 
 「林が? 川嶋さんに小坂のことをそんな風に言ったのか」

 「はい。製造部にいた頃は嫌われ者だったって。だから気をつけたほうがいいって言われたんです」

 今里は「ふうん、解せんな」と呟いた。

 「林は小坂を慕っている筈なのに、なあ、川嶋さんもそのことは知ってるだろ」

 今里が独り言のように口にするのを聞きながら、今里にも心当たりが無いのなら林の真意はどうやって測ればいいのか、祐里にも分からない。

 「だから理解できないんです。急にそんなことを言いだして、どうしたんだろうって」

 今里がいつものように穏やかな顔に戻って祐里を見た。

 「林がどんなつもりで、何を川嶋さんに言ったのかは知らないけれど、小坂はいいやつだよ」

 今里の答えを聞いて、祐里はホッとした気持ちになった。今里がそう言うならばそれで間違いないはず。いまの祐里は林の言葉よりも今里の言葉の方が信用できる気がした。


 でも、祐里にはまだ気掛かりがある。林が口にした、省吾が辞めさせた社員がいるという言葉の意味。それは一体どういうことなのか。

 「でも、小坂さんが辞めさせた社員さんがいるって聞きました。それはどういうことなんですか?」

 「それも林が言ったのか?」

 今里の顔が険しくなった。この件はこれ以上訊かないほうがいいのだろうかと祐里が感じたぐらい、それまでは穏やかだった今里の様子が変わった。

 「詳しくは俺からは言えない。小坂本人に訊いた方がいいんだけどな」

 「いいんだけど、ですか?」

 少し落ち着きを取り戻したのか、今里の表情が僅かに柔らかくなった。

 「別に個人情報だから秘密っていう訳じゃないんだ。正社員なら誰でも知っていることなんだ。ただ小坂が製造部にいたときのことだし、ほじくり返すような話でも無いから、今は誰も口にしない」

 知らないほうがいいことなんだろうか。祐里の心が騒めいた。

 何も言うことが出来ずに黙り込んだ祐里に今里が言った。

 「小坂のせいで後輩社員が辞めたのは本当の話だよ。でも小坂だけが悪いわけじゃない」

 今里が制服の上着のジッパーを少し下げて、下に来ているシャツのネクタイを緩めた。それから小さなため息をついた。

 「それからだな。小坂が昼行燈みたいになったのは」

 昔の省吾は今とは違ったということなのか。祐里は残業の時に省吾が見せた、陽気に笑う姿を思い出した。

 「これ以上は言えないな。もし知りたいなら小坂に直接訊くしかない」

 省吾にいったいどんな過去があったのか。

 「誰にだって失敗はある。他人には言いずらい過去だってあるかもしれない。な? 川嶋さんも分かるだろ?」

 今里が祐里の顔を見ながら微笑んだ。

 他人には言いずらい過去だってある。言いずらいどころか 絶対に口に出来ない過去だってある。祐里にはそれが分かっている。それなら省吾の過去を知りたくても、知らないほうがいい。


 もやもやした様子のまま黙り込んでいる祐里を見て、今里が苦笑いをしながら口を開いた。

 「まあ小坂はなあ、不愛想だろ、口数も少ないし、怒ってるように見えることもある。でも実際にはそんなことはなくて、ああいう顔をしてるだけだから。あれがあいつの素顔だから。それに意外と人見知り屋なんだよ」

 今里が笑いながら省吾について語った。それを聞きながら祐里も少し安心した。

 「あいつはいい奴だよ。それは俺だけじゃない。松阪だって杉崎さんだって認めてる」

 じゃあなぜ林は省吾を貶めるようなことを言ったんだろう。祐里はそれが不思議に思えた。

 「もしかしたら、省吾に妬いてるのかもな。本当ならば自分がやりたかったことを省吾にされたからって、僻んでるのかもな」

 〈本当ならば自分がやりたかったことを省吾にされたからって、僻んでる〉とは一体どういう意味なのか。

 今里は考え込むような素振りを少しだけ見せてから、多分な、と前置きしてから祐里に答えた。
 

 「林は君と付き合っていただろう。だから君を窮地から救うのは俺だって、思ってたんじゃないのかな」

 今里は少しだけ真面目に、少し笑顔をにじませながらそう言った。

 「川嶋さんが直接雇用になれたのは、小坂が頑張ったからだよ」

 「小坂さんが、ですか?」

 今里が頷いた。

 今里の言葉が祐里の胸の奥にすっと落ちて、波紋を広げていった。その波紋が心の中の、ちいさな想いを揺らしていく。そして省吾について祐里が知っていること、そのほんの僅かな欠片が少しずつ穏やかな色を帯びながら、繋がってひとつの像に形を変えていこうとしていた。


22


 「本当のことを教えてしまうと川嶋さんが委縮するというか、小坂に対して変に頭が上がらなくなるのも困ると思ったし、小坂からも黙っていてくれって頼まれたんだ」

 「小坂さんが頑張ったからって、どんなことをしてくれたんですか?」

 祐里は今里の、焦らすような口ぶりが気になって、つい食い気味に訊いた。


 「なあ、これは誰にも、小坂にも俺から聞いたとは絶対に言うなよ」

 今里が念押しした。今から一体どんな話を聞かされるんだろう。祐里は今里の言葉をじっと待った。

 「川嶋さんは、本当ならば採用にはならなかったんだよ。人事部長は君の履歴書を見ようともしなかった。多分、君を採用したところで自分には何の益もないと思ったんだろうな」

 それは想定内だった。だから祐里はその言葉を聞いても落ち込んだり傷ついたりはしない。多分そうなるだろうと思っていたから、やはりその通りだったんだと思っただけだった。

 「本当ならばそれでお終いだったんだ。杉崎さんがどれだけ粘ろうが、あの人には人事に介入する力なんて無いし、もちろん俺にだってなんの力もない。だから、」

 「だから?」

 そこから何が起きたのか、早く知りたい。祐里はつい前のめりになった。

 「本当ならばそこで終わりだったんだ。ゲームオーバー」

 今里が静かに息を吸い込んで、吐いた。そうして一旦呼吸を整えた。きっと慎重に言葉を選んでいるのだろう。


 少しの間が空いた。今里は右手のボールペンを回しながら、何も置かれていない机の上をじっと見ていた。祐里の採用の裏で起きていたこと。それを祐里に伝えるか。それとも伝えないほうがいいのか。そんな風に悩んでいるのだろう。

 やはりわたしには言いにくいことでもあるのだろうか。慎重に言葉を選ぼうとしている今里の様子を見ながら、今里はわたしに気を遣っているのだろうと祐里は思った。省吾には絶対に言うなという今里の念押しや、祐里には黙っていてくれと省吾から頼まれていたこと。それはあまりいい予感ではないような気がして、祐里の胸が騒ぎ始めた

 離れた場所をじっと見つめるようにしていた今里が祐里の顔を見た。それからようやく覚悟を決めたというような様子で口を開いた。

 「小坂があいつの彼女に頼んで、彼女の親父さんに動いてもらったんだ」

 省吾の恋人の父親が動いたとは、一体どういうことなのか。

 「小坂さんの彼女さんが、何で関係あるんですか?」

 今里が言った言葉の意味を祐里は全く理解できなかった。

 「あいつの彼女の親父さんは近畿西日本銀行の役員さんなんだよ。超偉いさんだよ。うちの会社の人事部長なんて、歯が立たない人さ」

 今里の言葉を聞いて祐里は驚いて言葉を失くした。省吾が結婚を視野に入れて付き合っている恋人が、まさかそんなに社会的地位の高い人のお嬢さんで、自分の採用に協力していたなんて。

 「小坂さんの彼女さんって、そんな人なんですか?」

 「そうだよ。俺もそれを聞いたときは驚いてさ、この椅子から落ちそうになった」

 今里がおどけて笑って見せたけれど、祐里には笑う余裕なんてなかった。

 「じゃあ小坂さんと小坂さんの彼女さんは、わたしの恩人なんですか?」

 恩人という祐里の言葉を聞いた今里の顔が、少しだけ険しくなった。

 「川嶋さんがそんなことを気にする必要はない。恩人だなんて重たく感じずに、いままでどおり小坂に接すればいい」

 「でも、彼女さんにお礼をいうとか、そうしないと気が済まないです」

 祐里の剣幕に押されたように、今里があわてて首を横に振った。

 「駄目駄目。小坂も彼女もそんなこと望んでいないんだよ。川嶋さんには気にして欲しくないからって、だから俺も君に教えるのをためらったんだから。とにかくお礼とかそんなこと、絶対に思わなくていい。小坂の前でも知らんぷりしてなきゃ駄目だぞ」

 今里が強く念を押した。それでも祐里の心の中には正体の分からない靄がかかっていた。

 祐里はふと気になった。

 「林さんはそのことを知っているんですか?」

 今里が首を傾げながら答えた。

 「小坂が自分から言わない限りは、絶対に知らない筈だよ」


 〈そうだったのか〉

 省吾が祐里の恩人だった。そのことを知って祐里は、あたたかい毛布のような心地の良いものに包まれているような気がした。省吾が私の願いを汲んで、そのために力を尽くしてくれたということが嬉しかった。

 でも、省吾の彼女が自分の最大の恩人だと知って、祐里の心に大きな影が差した。

 「いいか?小坂や小坂の恋人が恩人だなんて思って気を遣うなよ?萎縮したりしたら駄目だ。小坂だって、それが嫌で俺に口止めしていたんだからな」

 祐里はぼんやりしながら今里の言葉を聞いた。

 〈小坂さんの彼女さんにはもう敵わない〉

 どのみち祐里には逆立ちしたって叶わない。林と一緒になることも叶わなかった祐里は、同じように省吾とも結ばれることはない。省吾にたいして感じていたもやもやした気持ちの正体が仮に恋だったとしても、もうその気持ちが叶うことは無い。それに人並みの恋愛が出来るのかだって分からないのに、自分は何を勘違いしていたんだろう。

 祐里は本当のことを知って、余計に寂しくなった。



 これからは出来るだけ省吾とは距離を置く。祐里はそう決めた。

 これ以上省吾に興味を持ってはいけない。もしこれから先、省吾に抱いている感情の正体に気付いてしまったとしても、自分にはどうすることも出来ないし、きっと今よりもずっとつらくなるだけだろう。

 そして今里の話を聞いてからは、省吾の姿を見かけただけでも心の中で何かが揺れるようになった。その揺れるものの正体が何なのかを祐里はもう知っていた。知っていても、分かっていたとしても、自分自身に知らないふりを、気付かないふりをしなければならないということも、祐里は分かっていた。

 心の中のその何かを揺らさないように、息をひそめるようにして毎日を過ごす。省吾とは目を合わさないように、言葉を交わさないように。


 自分がこの会社に残ることは、どう考えても強力なコネでもない限りは難しい。今里に相談したときに自分でもそう思っていたし、実際に強力なコネが自分の採用を後押ししていた。それも自分の知らないところで、省吾がそのように取り計らってくれていた。

 そんな省吾への関心が特別な想いに変わりつつある。いや、きっともう変わっているのだろう。そのことに気づいてしまった以上は、もう省吾には近づくわけにはいかない。

 省吾の恋人の美玖という人はどんな人なんだろうと祐里は想像してみた。会ったことのない人だけれど、父親が大手銀行の役員だということは恵まれた生活をしているのだろうか。そしてわたしなんかとは比べ物にならないくらいに素敵な人なんだろう。そんな風に祐里は会ったこともない美玖のことを想像してみる。それから余裕のない暮らしをしている自分のことを思う。そんな自分と美玖を比べたところで、お互いの置かれている環境が違い過ぎて比較にならない。そして感じるのは羨望、それから惨めな思い。

 とにかく美玖のことは絶対に裏切ることは出来ない。祐里はそのことだけは忘れたらいけないと自分自身に言い聞かせた。



 省吾も、祐里が自分に距離を置くようになったことに気付いていた。

 自分が祐里を不愉快にさせるようなことを何か言ったんだろうか。それともそういう振る舞いをしたのだろうのか。でも、祐里本人に訊く他に確かめる術は無さそうに思えたから、どうしたらいいのかと悩む外に省吾には術は無かった。

 本当ならば、自分にたいする祐里の態度なんて気にしなければいい。今までがそうだった。誰に対しても、自分がどう思われようが気にしないという風に仕事をしてきた。そんな省吾がここにきて、祐里の行動に気を煩わせては、祐里の気持ちを確かめる術をさがしている。省吾はそんな自分が滑稽に思えたし、また、うんざりもした。

 そもそも今までだって祐里とのあいだにコミュニケーションがあったわけでは無い。だから今さら祐里の態度がよそよそしいからといっても気にする必要なんてない。でもあの夜の祐里の、何かを隠しているような態度が省吾の心に引っかかっていた。職歴を訊ねた途端に、急によそよそしい態度を見せるようになった祐里の態度を。

 そんなものはするりと流してしまえばいい。きっと些細な態度の変化にすぎないし、ただ引っかかるからというあいまいな理由で気にしているだけだった。それに誰にだって事情はある。自分の通ってきた道をすべて隠さずに赤裸々に話すことが出来る人間なんていない。祐里にだって聞かれたくない経験がひとつぐらいはあるのかもしれない。省吾はそうも思う。

 それにしてもなぜ祐里のことになると些細なことまでいちいち気にしてしまうのだろう。一緒に飲んでいた時に祐里が見せた些細な変化。気付かない人だっているかもしれないそんな些細な変化に省吾は気がついて、そのことに引っかかっている。

 でも省吾はそんな感情にも慣れつつあった。

 きっと、その感情が行きつく先のことになんて興味を持たないほうがいい。だからその感情に蓋をして、早くどこかに捨ててしまおうと、省吾は思っていた。


 (第二部 了)



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