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【小説】彼方に光る星屑たちよ 3

医療機器メーカーの製造現場で検査部門の係長をつとめている小坂省吾、省吾の下で働いている派遣社員の川嶋祐里、省吾の恋人の渡辺美玖、以前祐里と関係を持っていた林海人。この四人の若者たちが織り成す物語。

これといった野心も持たず、事なかれ主義を貫いて、日々何事も起きないことを第一として仕事に取り組んでいる小坂省吾が、部下の派遣社員の川嶋祐里が雇い止めになることをきっかけに、祐里と関わることで少しづつ変わっていく。

あらすじ

祐里の家庭の事情を知り、祐里が雇い止めにならずに済む方法を探す省吾。恋人の美玖の力を借りれば祐里の再雇用が決まると気付いてからも、まだ将来を決めてしまいたくない省吾は、美玖に借りを作ることがふたりの結婚の暗黙の了解に繋がることを恐れ、踏み出せない。それでも「祐里を助けようと思えば助けることが出来た」という後悔をしたくないと感じた省吾は散々逡巡した結果、恋人の美玖の力を借りることにする。

美玖の父親の力で非正規社員ではあるけれど直接雇用になれた祐里。省吾はこれで美玖に借りを作ってしまったと複雑な気持ちになる。そして省吾との結婚を望む美玖は祐里の存在を意識するようになり次第に焦り始める。そして省吾と美玖の関係がぎくしゃくしていく。




23


 省吾と会ってから、美玖の気持ちは少しだけ晴れた。祐里へのもやもやとした感情を正直に省吾に打ち明けてからは、省吾の背後に祐里の影を感じたり、その気配に心を揺らされることはもう無くなるはずだった。

 でも、もやもやとした感情が消えてなくなることはなかった。

 川嶋祐里とはいったいどんな人なのか。省吾と同じ職場で働いていて、省吾の視界の内側に存在する人。なにより、あの省吾が労を厭わずに、会ったこともないわたしの父を頼ってまで助けようとした人。

 美玖は祐里のことがどうしても引っかかってならなかった。美玖は祐里のことをなにも知らない。どんな姿なのか、性格なのか。そう、祐里のことを何ひとつ知らずにいる。

 祐里に会ってみたい。そんな誘惑が美玖の頭からどうしても離れない。祐里がどんな女性なのか分からない。分からないから邪推もするし、そのせいでしたくもない嫉妬心に囚われては苦しい思いをする。

 こんな風にいつまでも心を揺らしてばかりいて、そのたびに不安や恐怖にとらわれていたら、いつかそれが現実になる。弱い心が不安や恐怖を呼び寄せて、それを現実にしてしまう。願えばかなうのと同じことで、その逆だってある。

 祐里を放っておいてはいけない。美玖にはそう思えて仕方がない。なにしろ祐里は、どんな形であれ省吾の気持ちを揺さぶった女性だった。

 それが美玖の祐里への警戒心をより一層強くして、無視することが出来ない存在に育て上げていく。恋人の元カノの存在を気にする感情にも似て、美玖には祐里がどうしても気になって仕方がない。

 もし祐里が省吾に想いを抱いていたら。そんな可能性は全くないと言い切れるのか。

 省吾を信じることと、祐里を警戒する気持ちは全く別のことだと美玖は思っていた。だから、もし祐里が省吾を誘うようなことがあったら。

 美玖は祐里がだんだんと目障りに思えていた。

 『嫌なのよ。あなたが省吾の近くにいるだけでも嫌』祐里にそう言ってしまいたい。そうすれば少しでも気が晴れるのだろうか、なんて思う。


 つくづくわたしは馬鹿だ。美玖はそんな風に自嘲する。

 何も考えずにただ前を向いて歩いていれば、省吾と共に暮らす将来が待っているはずなのにと。それは分かりきったことなのに、と。

 それなのに、わたしが省吾の彼女だと祐里に見せつけたほうがいいのだろうかと考えている。それともわたしがあなたを助けてあげたんだよと釘を刺したほうがいいんだろうかと考えてしまう。

 そして美玖は気づいている。自分で不安になる種をさがして、それにせっせと水や栄養分をあたえるようにして、祐里への猜疑心を育て上げようとしている。不安の種をまいているのは祐里じゃない。紛れもなく自分なんだと美玖は気づいていた。

 祐里は影だから怯えるんだ。祐里と会えば、そして祐里のことを知れば、祐里は美玖を脅かす影ではなくなるかもしれない。

 それならば、祐里を日陰から日向に引きずり出してしまえばいい。

 わたしの存在を認識すれば、変な気を起こしたりはしないはず。

 そしていまの職場を辞めるように告げてもいい。いまよりもいい待遇の仕事を紹介するという交換条件を出せば、祐里だってそれに誘われるはずだろう。美玖はそう考えるようになっていた。



 祐里に会うと決意しても、どのようにして祐里に近づくのか、その手段が美玖には思い浮かばなかった。まさか省吾に祐里の電話番号を聞くわけにもいかない。そんなことをしたら訝られるだけじゃなく、きっと理由を訊ねられるだろう。

 祐里のことを父に紹介したわたしが、祐里のことを全く知らないのはおかしいと、そう伝えれば筋は通るかもしれない。だから祐里に会ってみたいと正直に伝えれば、それだけでいいのかもしれない。

 でもわたしは省吾には内緒で、祐里と二人だけで会うことを望んでいる。だから省吾に祐里の連絡先を訊ねるわけにはいかない。

 〈やっぱり田畑さんしかいない〉

 もう一度田畑を頼るしかないと美玖は思った。


 問題は田畑になんと伝えるかだった。

 田畑だって私が祐里の連絡先を知りたがる理由を訊くだろう。そのときに省吾に対するのと同じように、田畑を納得させることが出来るのか。

 それに何より、個人情報の中でも最も重要なもののひとつである住所や電話番号を、その情報を管理している人事部の田畑が第三者でしかない美玖に簡単に教えるわけがない。

 そんないろんなことを考え始めると、美玖には田畑を納得させる自信がなかった。いかにも取り繕ったかのような適当な理由ならば、田畑には嘘を見透かされてしまうに違いない。

 〈いっそ田畑さんには正直に言うしかない〉

 祐里に会うと決めたからには早くした方がいいと美玖は思った。気のすすまないことはさっさと済ませてしまいたい。自分が決めたことだとはいっても、よろこんで会いたい相手ではないし、おそらくは打ち解けて離せる雰囲気になんてならないだろう。



 緊張していたからか、電話を持っている右手が汗ばんで震えていた。

 呼び出し音を聞きながら、田畑がこのまま電話に出なくてもいいとさえ思った。それならばこの馬鹿げた企みを諦めることも出来るかもしれない。

 「はい、田畑です」

 やわらかい声だが、抑揚があまり感じ取れないせいか冷たげにも聞こえる声。そんな田畑の声を聞いて美玖はつい緊張した。

 冷静になってみれば、美玖が知る田畑と何一つ変わらない様子だった。不機嫌なわけでも何でもないと、そう思い直してみても、美玖の心にあるほんのりとした後ろめたさが、田畑の機嫌を必要以上に敏感に嗅ぎ取ろうとしているに違いなかった。

 そんな後ろめたい気持ちの理由を自覚していた美玖は、一呼吸おいてから挨拶をした。

 「川嶋さんのことで会って以来だな。渡辺、どうした?」

 何の用だと訊ねる田畑の声を聞いて、いつもと変わらない田畑の声だと思いつつも美玖は緊張した。無駄話は止してさっさと用件を伝えて、一刻も早くこの緊張から逃れよう。美玖はそう決めた。

 「田畑さん、このあいだ面倒を見て頂いた川嶋さん、その後の様子はどうですか?」

 「さあ、杉崎さん達からは何も聞いてない。ということは上手くやってるんじゃないか。そもそも前から検査課にいた人だし。馴染んでいたわけだから」

 その川嶋さんがどうした? と田畑から訊いてくれないだろうかと美玖は思った。この期に及んでも自分から祐里に関する要件を口に出すことに抵抗感があった。

 変に話を引き延ばしても、余計に言い出しにくくなるだけだ。美玖は思い切って田畑に伝えた。

 「川嶋さんに会いたいんです。だから連絡先が知りたくて」

 「何で? なんで川嶋さんに会いたいんだ?」

 受話器越しに聞く田畑の声に警戒の色が滲むのが分かった。

 「じつは川嶋さんに会ったことがないんです。会ったこともないのに田畑さんに彼女の履歴書を確かめて欲しいって頼んだのも変な話だと思われそうですけど」

 田畑は黙って美玖の話を聞いた。田畑のその沈黙が美玖には何かの圧のように思えて息苦しかった。

 「だから一度会っておきたいんです」

 そう口にしても、田畑の返事が気になった。それから少しの間を開けて、田畑が口を開いた。

 「川嶋さんの存在が不安になった、だろ?」

 

 田畑のその言葉は、美玖にはあまりにも図星だった。それでも素直に「はい」と認めるのも憚られる気がした。

 「不安、ですか?」

 「そう。恋人が特別に目をかけた女性がどんなひとなのか、確かめたくなったんだろ。違うか?」

 田畑はわたしの感情に気づいている。田畑の勘の良さに感心するよりも、わたしの言葉はそれほどにも見え透いていたのかと、バツの悪さを覚えた。

 「えー、まあ、そんな感じです」

 「相変わらず嘘の付けないやつだな」

 田畑が押し殺したように笑うのが電話口から聞こえた。

 「ふん、同じ課のスタッフとはいえ恋人が推す女。どんな女か気になるのが普通だろうな」

 田畑はそう言ってから、続けた。

 「会いたい気持ちは分からなくもないけど、止めとけ」

 「なんで止めとけ、なんですか?」

 「会ったところで何の意味がある? もしも疑心暗鬼になっていることがあるとするなら、小坂君とひざを突き合わせて話せばいいだろ」

 田畑の言葉は至極もっともであった。でもそれが出来るぐらいなら、こうして田畑に電話などしていない。

 「それはもう既に省吾さんにも伝えたんです。そして充分話し合って納得したんですけど、それだけじゃあ気持ちが晴れなくて。省吾さんのことは信用できても、川嶋さんがどんな人だか分からないから、そのせいで信用できないし、どうしても落ち着けないんです」

 田畑が黙った。美玖は続けた。

 「落ち着かない気持ちは川嶋さんのことを何も知らないからだと思うんです。一度だけでも会って話をすれば、それで気が収まると思うんです」

 田畑が「うーん」と唸っているのが微かに聴こえた。その響きから、田畑は自分の気持ちを理解しようとしてくれている、と美玖は思った。

 だからといって田畑が素直に祐里の連絡先を教えてくれるとは思えない。

 そもそもが祐里の個人情報を人事の田畑が、もう外部の人間である美玖に素直に教えるわけがない。そんなことは個人情報の漏洩でしかないし、そのことが原因で祐里に何かしらのトラブルが起きるようなことがあれば、田畑も会社も無傷では済まないだろう。でもそれを承知で美玖も田畑に頼んでいる。美玖はどうしてもなんとかしたい。

 田畑だって美玖に恩を売って損はないと思っているだろう。そう美玖は読んでいる。いざとなれば田畑との間に何かしらの取引をしてもかまわない。美玖はそういう心づもりで無理を承知で田畑に頼んでいる。

 「渡辺も分かってるだろう。個人情報を漏らすわけにはいかない」

 田畑の答えはやはり、当然すぎるぐらいに無情であった。

 「田畑さん、でも」

 「駄目だ渡辺。川嶋さんの情報は一切教えない。絶対にだ。だから個人情報を手に入れようとするのは諦めろ」

 さすがに美玖もこれ以上田畑に頼むのは無理だと悟った。そもそも職務に責任感の強い田畑が個人情報を簡単に漏らすわけがなかった。

 馬鹿なことをした。美玖は何とも言えない気まずさを感じた。

 「分かりました。仕方ないです。田畑さんの言う通りですから」

 受話器越しに田畑が咳払いをした。美玖は何かを予感した。

 「渡辺、その代わりに」

 その代わりにという言葉。何かしらの取引を持ちかけられるのだろうか。

 「川嶋さんと会えるように仲介することなら、出来るかもしれない」

 そうだ、その手があったんだと美玖の心が躍った。

 「そうしてくださると助かります」

 でも、と田畑が言いかけたのを聞いて、何か条件をつけられるのだろうかと美玖は身構えた。

 「でも、そうはいっても川嶋さんが拒んだら無理だ。無理やり渡辺と会わせるわけにはいかない。分かるよな? それから、」

 「それから?」

 「もし渡辺に変な企みがあるのなら俺は手を貸さない」

 「変な企み、ですか?」

 変な企みという言葉を聞いて、美玖の心が僅かに揺れた。祐里にこの職場から去るように告げる。それも充分変な企みになるのだろうか。

 「そうだよ。渡辺、まさか何か変なことを企んでいないだろうな。川嶋さんに圧を掛けるような、そういう類のことを」

 きっと田畑は何かを感づいている。でもそれは当然だろうと美玖も思った。いきなり電話をかけてきたと思ったら、川嶋さんに会わせろだなんて、何か企みがあると捉えられても不思議じゃない。

 〈川嶋さんと会って話せば、お互いの気持ちは通じ合うはず〉

 そう思いたかった。本当ならばきっと圧を掛ける必要なんてない。祐里だって、わたしと張り合おうだなんて思っていないはずだと美玖は思いたかった。

 その思いを確かなものにするためにわたしは祐里と会う。そう、祐里がどんな人なのかを知りたいだけ。この目で見て確かめたいだけ。わたしは彼女に怯えてなんかいない。それを確かめたいだけ。美玖はそうやって何度も自分に言い聞かせていた。

 省吾の傍からいなくなって欲しい。そんな頼みを口にするよりも、何も言わずに済むほうがいいに決まっている。

 「そういうことは一切考えてません。ただ会ってみたいんです」

 「ただ会いたい? それだけなんだな?」

 田畑が念を押した。

 「はい。小坂さんがわたしを頼ってまで父の力を貸りようとした人が、どんな人なのかを知りたいだけです。


 〈小坂さんのために父に頼んだ。思っていた通りだった〉

 祐里の履歴書を確かめて欲しいと美玖から頼まれて、面接も何もなく一週間ほどで祐里の採用が決まった。きっと美玖が父親に頼んだのだろうと予想はしたけれど、その通りだったんだとあらためて田畑は納得した。

 それで兼重専務が動いて、柳瀬が慌てたという訳だ。田畑は全て腑に落ちた。

 でも、そんないきさつがあったのなら尚更のこと、祐里に会いたいと省吾に頼めばいい。それを引き受ける条件にしても良かった筈だ。父に頼む前に川嶋さんに会わせて欲しいと言うのは簡単なことだ。それに何もおかしなことではない。むしろ当然だろう。

 それとも、小坂さんに、なにか変化が起きたのだろうか。

 検査室まで訪ねていったときに見かけた祐里の姿を思い出して、田畑は痛みにも似た感情を覚えた。

 「渡辺、川嶋さんに変なことをするなよ」

 田畑はもう一度念を押した。

 「もちろんです。そんな気持ちはありません」

 美玖がはっきりと答えた。田畑は美玖を信じることにした。


24


 祐里と会えるように田畑に仲介を頼んでから数日が経った。

 そんなある日、美玖の携帯が震えた。田畑からの着信だった。

 仕事中だったが美玖は電話に出た。電話ごしに聞く田畑の声は相変わらず感情の読みずらい、抑揚のない声だった。

 「川嶋さんの件だが、仕事が終わってからどこかで会うことにした。渡辺、こちらが指定する場所まで来れるか?」

 予想していたよりも早い田畑からの電話に美玖は驚いた。

 祐里に会いたいと田畑に電話で伝えてから一週間にもならないなのに、まさか休みを挟んで二三日で返事がもらえるとは思っていなかった。そして驚きが覚めてから、急に不安がこみ上げてきた。

 心の準備もまだできていない。田畑に電話すると決めたときに心の準備は済ませていた筈なのに、いざそれが目の前に迫ってきたら、胸の鼓動が速くなって、吐き気を覚えるほどに緊張した。

 「まさかこんなに早く返事がもらえるなんて思ってもみませんでした」

 電話の向こうで田畑が少し笑ったような気がした。

 「さっさと終わらせた方がいいだろう。どうせ渡辺もワクワクしているとか、そんな訳じゃないんだろう」

 「川嶋さんは、何て? 」

 美玖は祐里がどんな反応を見せたのか、今更ながら気になった。急にわたしから会いたいだなんて言われたら、その理由をいろいろと推測するだろう。緊張するだろうし不安にもなるだろう。結果的にわたしはもう既に祐里に圧を掛けていることになるのだろうか。

 「誤魔化しても仕方ないと思ったから、渡辺が会いたがってると正直に言った。渡辺の正体も。でも川嶋さんは渡辺のことを知ってるみたいだった。誰かから聞かされていたのかもな」

 「それで、どんな様子でしたか?」

 「驚いてた。もしかしたら怯えてるかもしれない」

 心理戦ならば、わたしは先手をとった。

 田畑の返答を聞いて美玖は自分でも予想しなかった冷酷な発想を持った。そしてそのことに驚いた。

 「怯えさせるようなことはないけど、無理しないでって伝えてください」

 そう言ってから美玖は、わたしは何を今更祐里に気を遣っているのかと自嘲した。祐里が緊張したとしても、気を遣う必要なんてない。それぐらいの強い気持ちでなければ、きっと祐里にのみ込まれるだろう。

 「ああ、嫌なら断わるようにって言ったよ。無理やり呼び出すのは可哀想だからな。でも会いたいって言ったよ。恩人だからきちんとお礼を伝えたいって」

 そして田畑が黙った。美玖は何かを言おうとしたけれど、田畑が何を言い出すのか待つことにした。ほんの僅かな、おそらく数秒間程の沈黙だったけれど、その沈黙が美玖にはたまらなく重たく感じられた。

 「なあ渡辺。お前は自覚していないかもしれないけど、お前がふいに体を動かしただけで、その風だけで川嶋さんは吹き飛ぶ。それぐらいの力の差というか、上下の関係がある」

 「いや、そんなことないです」

 田畑の言葉を否定しながらも、きっとその通りだろうと思った。

 「いや、あるんだよ実際には。だからそのことを自覚して話せよ」

 田畑が言った。お前がその気になれば、川嶋さんを潰すことぐらい容易いことだと。美玖はその言葉を黙って聴いた。



 田畑から告げられた祐里との待ち合わせ場所は、会社の最寄り駅から数駅離れたターミナル駅の近くにあるカフェだった。

 美玖は約束の時間よりも少し早くおとずれて、奥の席に座って祐里を待った。

 〈あの人に違いない〉

 カフェの入り口に立って店内を見廻している小柄な女性の姿に気づいた。

 祐里の服装や特徴は田畑から訊いていた。肩の辺りまでのストレートヘアで色白で小柄。

 大きめの白いTシャツに緩めの黒いワイドパンツを穿いてアディダスの白いスニーカーを履いた女性。そして肩から帆布の大きめのトートバッグをかけている。

 奥の席に座る美玖に、祐里はひと目で気付いたらしい。美玖の顔を見つめたまま早足で近寄ってきて、じっと美玖を見つめた。

 「渡辺美玖さんですか?」

 美玖が頷いた。それから祐里は立ったまま深く頭を下げた。

 周りの客やスタッフが見ている中で祐里からこんな風にされたら困ると美玖は戸惑った。そう美玖は思いつつも、祐里が頭を下げるところを見ているのはそれほど嫌な気分じゃなかった。

 「渡辺美玖さん、この度は私の就職の力になってくださって本当にありがとうございました」

 祐里は小さな声でそう言い終えてから顔を上げて、美玖の顔をじっと見つめた。

 美玖はつい、品定めをするかのように、祐里の姿を頭からつま先まで観察した。

 ファストファッションの見るからに安物のTシャツとパンツ。そして薄汚れた白いスニーカー。

 それから顔を観察した。型にはまった美人では無い。でも色白で、鼻の周囲にうっすら雀斑のような染みがある。個性的と言えば個性的な顔。

 キレイな鼻筋と唇。丸みのある輪郭。茶色の瞳に長いまつ毛。メイクはあまり上手ではなさそう。髪は綺麗だけど、もう数か月は切っていないようにも見える。

 そして翳り。憂いがちな目や表情。

 おどおどしている。わたしが何も言わずにじっと見ているからだろう。

 そんなに緊張しなくてもいいのに、というか、なんでこの子はこんなに緊張しているんだろう。わたしが恩人だとか、そんなに大げさなことじゃない。仕事を紹介したり、口利きをするくらいならそれほど難しいことじゃない。

 そう、わたしも省吾くんも、なにも特別なことをこの子にしてあげたわけじゃない。カフェでランチを奢ってあげたのと一緒。

 「ごめんね。いいよそんなに頭を下げなくても」

 いいから座りなよと祐里に声をかけた。すみませんと頭を下げてから、祐里はドリンクをオーダーしにカウンターに向かった。



 「川嶋さんに一度会ってみたかったんです」

 美玖がそう声をかけると、向かいに腰かけた祐里も頷いた。

 「お礼を言うのが遅くなってすみませんでした。自分が就職できた事情を最近まで知らなくて」

 祐里がそう弁解するのを聴きながら、美玖が首を横に振って答えた。

 「お礼とか恩人とか、そんな風に思ってもらわなくていいんです。本当にそんなこと要求する気は無いし、私はただ省吾くんがあなたのことで困っているのをほっておけなかっただけだから」

 そう言いながら美玖は祐里の表情の変化や仕草について子細に観察した。

 〈あなたのことで、省吾くんが困っているのが放っておけなかったから〉

 あたかも祐里が省吾に面倒事を持ち込んできたかのように、わざと言った。祐里の表情がわずかに変わったような気がした。そして美玖はそれを見逃さなかった。

 無口なのか、緊張しているのか、じっと黙ったままでいる祐里を見ながら、美玖はどうもやりづらさを感じはじめた。美玖は祐里に訊きたいことがたくさんある。省吾が言っていた祐里の家庭の事情というものについても訊いてみたい。でもさすがにそれには気が引けた。

 そして美玖が祐里にいちばん訊きたいのは、省吾のことをどう思っているのか。

 でも省吾の恋人である美玖に、祐里が省吾のことが好きだとしても、そんなことを正直に言える筈もないだろう。

 「小坂さんとはずいぶん長い付き合いなんですか?」

 祐里が口を開いた。

 「三年ぐらい、になるのかな」

 そうですか、と答えたまま祐里もそれきり何も言わない。

 でも何となく、美玖は悟った。祐里は省吾のことを何かしら意識しているのは間違いない。

 多くの男性にとっては、顔もスタイルもよく仕事もできるしファッションセンスもよく、雑誌の表紙を飾れるのではというような、自立出来ている強い美人型の女性よりも、どちらかというとカジュアルな雰囲気で自己主張をあまりしない、可愛らしいタイプの女性が好きだ。

 美玖はそう思っている。そして目の前にいる祐里を見て思う。この子はどうなんだろう。省吾がしきりに口にする「慎ましさ」という言葉。私と祐里とどちらが省吾が言うところの「慎ましさ」を体現しているだろう。

 いや、祐里は慎ましいというよりも弱々しいという風に思えた。

 「ねえ、川嶋さんってモテるでしょ?」

 美玖は訊いてみた。

 「いや、全然そんなこと無くて」

 「高校や大学の時とかモテたんじゃない? だって男子は絶対に川嶋さんみたいなタイプの可愛らしい子好きだよ」

 「いや、高校でもそんなに。大学も行ってないですし」

 そうか、祐里は大学には通っていないのか。美玖は思った。たしかにまともな大学を出ている人が派遣社員なんかでいるわけがないと、美玖の中に潜んでいる無自覚な傲慢さが顔をのぞかせた。

 「省吾くんがよく川嶋さんのことを話すの。凄く仕事が出来るとか、頼りがいがあるとかね、そういうことを」

 祐里が美玖の目を見つめていた。省吾の話題になると祐里の目に僅かに力が籠ることに美玖は気付いた。

 祐里は直接雇用になれたいきさつを知っている。ということは省吾が助けてくれたということも当然知っている。祐里がそんな省吾に惹かれたとしても不思議じゃない。美玖はそう思っている。そして目の前に座っている祐里の様子を見ているうちに、その想像がおそらく正しいということを、美玖は確信した。

 「省吾くんは多分、わたしよりも川嶋さんのような女性の方が好きなんだと思う。そうでなければ川嶋さんを助けようだなんて思わないだろうし」

 美玖の言葉には小さな棘があった。祐里がはっとしたような様子を見せて、美玖の言葉を懸命に否定した。

 「いや、絶対にそんなことありません。わたしなんかに小坂さんが気をかけてくれるなんて、そんなことあり得ないです」

 〈なあ渡辺。お前は自覚していないかもしれないけど、お前がふいに腕を動かしただけで、その風圧だけで川嶋さんは吹き飛ぶ。それぐらいの力の差というか、上下の関係がある〉

 美玖は田畑から言われた言葉を思い出していた。目の前の祐里の様子を見て、たしかに田畑の言う通りなんだろうと思った。

 祐里を吹き飛ばしてしまいたい。美玖はそう思った。

 このまま祐里をつついてみたい。そのうちに省吾のことをどう思っているのか、祐里もボロを出すかもしれない。

 「だって滅多にわたしに頼み事なんかしない省吾くんが、川嶋さんのことは助けたいって言ったんだから。わたしも驚いたよ」

 川嶋さんのことは助けたいと省吾が言ったと聞いて、祐里はどう思うだろう。

 「それは多分、同情してくれただけです。今回、もし仕事を無くしていたら大変なことになっていたんです」

 「大変なこと?」

 美玖は黙って聴いた。省吾が口にした祐里の事情のことなんだろうか。

 「父が腰を痛めてしまって働けないんです。転職しようにも年齢が年齢だし、難しくて。弟もまだ高校生でお金がかかるので。わたしが派遣を切られてもすぐに次の仕事が見つかるとは限らなくて。もしわたしが仕事を無くしたら、生活保護を受けることが出来たとしても、それでもしんどいんです」

 職種さえ選ばなければ転職ぐらい何とかなるだろうし、ましてや生活保護だなんてわたしなら絶対に嫌だと美玖は思う。

 「でも、もっと条件のよい仕事もあるでしょ? せっかくだからこれを機会にいい仕事を探そうとか思わなかったの?」

 「きちんとした資格もキャリアもないし、学歴も無いから転職も簡単じゃなくて…。それに、なによりいまの職場と仕事が好きなんです」

 高校しか出ていないのは別としても、行き当たりばったりな暮らししかしてこなかったからこんな状況に追い込まれたんじゃないのと、恵まれた暮らしの範疇でしか世間を知らない美玖は思う。

 「いまの職場が自分には向いていると思うんです。検査で必要な集中力とか、感覚を研ぎ澄ますというか、そういうところが向いてると思うし、好きなんです。それに今里さんとか社員さんやスタッフのみんなとも上手くやれてるから」

 転職したくないという祐里の言い分も、たしかに分からなくはなかった。

 「今がそうだから、わざわざゼロからやり直すのは難しい?」

 「はい」

 それにしても、と美玖は思う。そんなにいまの職場に愛着があるだなんて、他にも何か理由があるのだろうかと、どうしても美玖は邪推してしまう。もしその余程の理由に省吾が関わっているのだとしたら。そんなことは勝手な想像に過ぎない。そう分かっていても、祐里には省吾の近くにいて欲しくないと言う思いを、美玖は止めることが出来そうにない。

 「もしね、わたしが川嶋さんにもっといい条件の仕事を紹介すると言ったら、どう? お給料ももっと増えるし、福利厚生だってしっかりしている会社。なにより正社員になれるほうがいいでしょ?」

 絶対にわたしの提案に乗るほうがいいに決まっていると美玖は思う。そうしない方がおかしいとまで思う。それに祐里にあたらしい職場を提供するぐらいのことなら美玖には難しいことではない。

 「お父さんのこと、それから弟さんのこと。それらを考えたらいまの会社で非正規社員でいるよりも、正社員としてもっといい待遇で働く方がいいと思うけど」

 「有難い話だと思います。でもわたしはいまの職場が好きなんです。これからも今の仕事を続けていきたいんです」

 祐里が躊躇いがちに美玖に返した。美玖の申し出に、失礼にならないように一言ずつ確かめながら、たどたどしくも、それでも迷いのない言葉で答えた。

 「今の仕事と職場が合ってるし好きだからという理由はさっき聞いたけど、本当にそれだけなのかな?」

 祐里が怪訝そうな顔で美玖を見ていた。そんな祐里の様子に美玖はごく僅かな苛立ちを覚えた。

 「本当にそれだけ?」

 「はい。それだけです。あの職場が好きなんです」

 「もっと条件のいい職場を紹介してあげると言ってるのに、非正規雇用でもいまの仕事の方がいいの?」

 美玖にはきつく問い詰めるつもりはなくても、祐里が思い通りに頷いてくれないことへの苛立ちが言葉の裏に滲みだす。それは祐里にも伝わっていた。

 「じゃあ、もしわたしがあなたに、省吾くんの傍にいて欲しくないとはっきりと言っても駄目?」

 その言葉がたとえ穏やかな口調であったとしても、それが美玖から言われた言葉なら祐里には重い。強い風が吹きすさぶ中、いまにも風に飛ばされてしまいそうな小さな小屋のように祐里は頼りない。祐里は俯いて黙り込むしかなかった。

 「省吾くんはあなたのことには全く興味ないって言ってる。でも、わたしは嫌。あなたが省吾くんの近くにいるのが嫌」

 美玖も田畑から言われた言葉を忘れたわけではない。それでも弱い心が湧きあがってくるのを止められない。祐里が美玖の要求を断りずらい立場だと承知の上で、詰め寄り、追い込んでいく。美玖は次第に、祐里を恐れる弱い心に飲み込まれていく。

 「もしわたしがいなかったら、省吾くんだけの力では川嶋さんを直接雇用にすることは出来なかったんだよ。わたしのおかげでしょ?」

 美玖だって本当は祐里にこんな弱みを見せたくなんかない。でも祐里を省吾の近くに置いたまま放っておいてはいけない。そう思い込んでいるが故に、堂々と振舞うことができない。

 「そんなわたしがお願いしてるんだよ。雇用出来るように力を貸したわたしが、今度は辞めてほしいっていうのも変だけど、あなたが省吾くんの近くにいるのがどうしても嫌なの」

 祐里が顔を上げた。それから弱々しい声で美玖に告げた。

 「もし……」

 「もし? 何?」

 「小坂さんへのわたしの気持ちを疑ってらっしゃるなら、それだけは絶対にありえません。なんとも思っていません。だから渡辺さんを裏切るようなことは絶対にありません。本当に信じてください」


 「もうね、いい加減分からないかな!」

 

 つい美玖は苛立った。

 「あなたを信じるとか信じないとかじゃないの。嫌なの!」

 

 嫌なの。そう言われて祐里も何も答えられなくなった。美玖の言う通りに違う職場を紹介してもらい、正社員として働く方がいいのかもしれない。そう思わなくもなかった。美玖が省吾を想う気持ちも充分に理解したつもりだった。そして、美玖がわたしが省吾の近くにいることを許せずにいることも、充分に理解できた。

 祐里は揺れた。美玖の言う通りにしたほうがいろんな面でよいだろうということも、いまの職場への愛着も。その二つの間で揺れた。でも、あたらしい職場に移るたびに、自分の過去が知られてしまうリスクに直面してきた。それも嫌だった。

 そして、省吾のことが気になった。自分のために奔走してくれた省吾の顔が浮かんだ。


 「お願いですから……これからもいまの職場で働かせてください」

 やっとそれだけを美玖に伝えると、黙って頭を下げた。


 美玖はふと思った。もし万が一、わたしがこうして祐里に迫ったことを省吾が知ったら。そのことは祐里と会うと決めるまでに散々考えたことだった。きっと省吾はこのことをよく思わない。それにやっとの思いで今の職場に残ることが出来た祐里が急に辞めると言い出したら、それも不自然だと省吾だって思うだろう。

 美玖は頭を下げている祐里を見ながら、祐里から今の仕事を取り上げることは得策じゃないと思うしかなかった。

 「じゃあ約束して」

 顔を上げた祐里の両目に溜まっていた涙が、すっと頬を伝って顎から太ももにこぼれて落ちた。下唇を噛んで震えている祐里を見て、美玖はようやく冷静になった。

 

 「省吾くんには絶対に近づかないと約束して」

 祐里が黙って頷いた。

 美玖の目には祐里は猟師に追い詰められた野ウサギのような存在にしか見えなかった。もう怖れるような相手じゃない。美玖は思った。


25


 「田畑、ちょっと来てくれ」

 出勤してすぐ、随分と緊張した面持ちをした柳瀬が小声で田畑を呼んだ。

 「田畑、いま時間あるか?話がある」

 柳瀬に呼ばれて狭い会議室に入った田畑に、柳瀬が扉を閉めるように促した。随分と緊張感を漂わせている柳瀬の様子を怪訝に思いながらも、いつものようにくだらない用事でも押しつけられるのだろうかと思い、柳瀬の顔を見た。

 ホワイトボードを背にして座る柳瀬の向かいに腰かけると、田畑は柳瀬の前にある薄いグレーの封筒に気がついた。

 「田畑、大変なことが分かったぞ」

 先ずはこれを見ろと言って柳瀬が田畑の前にすっと書類を差しだした。田畑はその書類を見て、信用調査会社からの報告書だということに気付いた。

 「誰かが不正でも?」

 また偉いさんがスキャンダルを起こしたのかと田畑は想像した。たとえ些細なことでもライバルを窮地に追い込む手掛かりを見つけたら、こうして息がかかった部下を使い相手の弱みを探り出す。

 きっと柳瀬も兼重専務から誰かの私生活を探れとでも命じられたんだろう。こんな役員同士の足の引っ張り合いは珍しいことではない。素行調査からボロが出て失脚した役員だっている。

 今度は一体誰の不祥事なのか。でも田畑は気づいた。役員同士の足の引っ張り合いに俺は関係ないだろう。柳瀬からこうして呼ばれたことも今まで一度もない。

 何やら嫌な予感がした。まさか俺の身辺を調べられたなんていうことはないだろうかと、身に覚えなんて無いにも関わらず冷や汗が出る気分になる。

 「まあいいから、それを見てみろ」

 柳瀬から強く促されて、田畑は手に取った報告書の表紙をじっと見た。

 調査報告書の表紙に川嶋祐里の名前が書かれているのが田畑の目に入った。

 何故川嶋祐里が?田畑が驚いて柳瀬を見た。柳瀬は苦り切った表情で田畑をじっと見ていた。

 「川嶋っていう女に気になることがあってな、調べさせた」

 「何故ですか? 兼重専務から何か指示があったとか?」

 普段は冷静な田畑もこのときばかりはさすがに驚いた。なぜ柳瀬が祐里のことを調べなければならないのか、田畑にはさっぱり見当がつかなかった。

 「兼重専務が押し込んできたその川嶋っていう女な、とんでもない食わせもんだった」

 食わせ物とは聞き逃すわけにはいかない言葉だった。祐里が何か問題でも起こしたというのだろうか。

 「食わせもんは随分と穏やかじゃありませんね」

 柳瀬が不機嫌そうに鼻から息を吐いた。

 「そもそもが兼重専務がこの女を押し込んできた時に、妙に引っかかったんだよ」

 「引っかかった?何がですか?」

 「なぜ兼重専務とその女の関係だよ。不思議だろう。そこで専務に訊いてみたら専務は素性を全く知らないし、おまけに調べてもいないっていうから、心配になって調べさせたんだ」

 「でも兼重専務のコネっていうことは、それなりのしっかりした人からの紹介なんでしょう?それにそもそもがウチで働いていた派遣社員ですよ。怪しむも何も」

 「派遣会社なんてきちんとした身体検査なんかしてないだろ。運転免許証のコピーとか、何かしらの身分証があれば登録できるんだから。仮に前科者が紛れ込んでも分かりっこないさ」

 やれやれとでも言いたげな様子で、柳瀬がふうとため息をついた。

 「なあ田畑、前に兼重専務が採った男、ひき逃げ事件を起こした奴だよ。あいつだって商工会で繋がりがあった会社の社長の息子だっていうから信用して採ったんだ。そうしたら碌な奴じゃなかった。専務はそういうところが結構いい加減なんだよ。だから今回はきちんと調べることにしたんだ。そうしなけりゃあ、専務の弱みに付け込んでくる奴らがいるからな。巻き添えを食って俺まで足を引っ張られたらかなわん」

 柳瀬のことがいくら気に食わないとしても、柳瀬の言うことには一理あった。

 結局は柳瀬自身の保身のためかもしれないが、役員同士の足の引っ張り合いはともかくとして、厄介な人物を会社に招き入れてしまったら後々面倒なことになる。

 「な、田畑。川嶋っていう女、とんでもないぞ。どんな横槍が入って専務が動いたのかは知らないけどな、何とかしないと会社に迷惑をかける羽目になるぞ」

 田畑は封筒の中から。ファイルに閉じられ製本された報告書を取り出して、表紙をめくって中を見た。

 黒田祐里。黒田?川嶋じゃないのか。

 平成十二年東福岡市生まれ。十七歳の時にある事件が起きて高校中退。それ以降叔父夫妻の養女になり川嶋祐里になる、か…。

 ある事件で高校を中退。祐里が何か事件を起こしたということなのか。それから親戚の養女になって川嶋姓になったのか。何があったんだろう。

 「田畑、最後まで読め。驚くぞ」

 経歴の詐称。それだけなら稀にはある。ただ詐称した人物の普段の評価次第では温情措置が取られることの方が多い。それだけならば田畑としては、祐里自身には別に咎め立てする程のことは無いように思えた。そう思いながら次の頁に目を通した。

 次の頁に目を通して田畑は絶句した。

 田畑は柳瀬の顔を見た。苦虫を噛み潰したような顔の柳瀬が田畑の様子を見ていた。



 週末の夜、祐里と林は居酒屋にいた。油の匂いがする店内は随分賑やかで、空調の効きが良くないせいでわずかに蒸し暑かった。六月の蒸し暑い夜でも、きっと外の空気のほうが随分と心地よいだろうと祐里は思った。

 ふっと肩の力を抜いて、祐里は林の顔をじっと見つめた。

 海人さんは本当に綺麗な顔をしている。あらためて祐里は思った。

 実家は裕福で育ちも良く、見た目も良い林が、なぜこんな大して魅力的ともいえないわたしなんかのことを好いてくれるんだろうと、いつも不思議でならなかった。

 そして、こうして林と二人だけで会うのもこれが最後になる。そのことを先送りせずに今夜こそきちんと告げなければいけないと、祐里は林の胸元辺りを見つめながら決意した。

 「どうした? なんだか思いつめたような顔してる」

 林が心配そうに訊いたから、いま言ってしまおうと祐里は決めた。

 「海人さん、話がある」

 「なに?」

 林が笑顔で訊いた。でも祐里は、その笑顔とは裏腹に林の声はやや震えているような気がした。

 祐里は呼吸を整えようとして一度息を吸って、静かに吐き出した。それから、落ち着かなければいけないと自分に言い聞かせた。

 「海人さんとはもう、ふたりきりでは会わない。だからこうして二人で会うのも今夜が最後」

 林の顔から笑顔が消えた。

 「え?なんだよ唐突に。どうした? なんかあった?」

 それとも俺がなんか祐里を怒らせるようなことをした? と冗談めかして無理に笑いながら話そうとする林を見つめながら、心を揺らさずに冷静になって言うべきことを言おうと決めた。

 注文していた飲みものがテーブルに置かれた。ふたりともそれには手を伸ばそうとせず、無言のまま見つめ合った。

 店内は満席でやけに騒々しい。変に静かなところで話すよりもこれぐらい騒がしい方がいい。祐里はそう思いながら、テーブルの上のまだ手をつけられていないジョッキを林の前に差し出して、飲もうよと告げた。

 「もう会わないって、本気で言ってるのか?」

 林が重たい口を開いた。ジョッキには手を出そうとしなかった。

 「うん。今度こそ本気」

 祐里がじっと林を見つめた。林は祐里の強い視線から目を逸らして、手元にあるジョッキを見つめた。

 林はふーっと大きく息を吐き出してから、ジョッキのビールを半分ほど一気に飲んだ。

 「一応訊くけど、なんでもう会わないって決めた?」

 「先が無いから。このままずるずるとこんな関係を続けるわけにはいかないよ」

 「俺はこのままでもいい」

 すかさず林が言った。

 「それが駄目なの。三十歳にもなればこれから先はあっという間に年をとるんだよ? 海斗さんはしっかりした人と一緒になって欲しいの」

 これだけ言えば林ならわたしの言いたいことは分かるはずだと祐里は思っていた。きちんとした家庭の跡継ぎ息子は、きちんとした女性と一緒になるべきだと、林の両親だって望んでいるだろうから。

 ここから先の林の人生に、もうわたしの出番はない。

 「それに、わたしが嫌なの。海斗さんに甘えるようにして、海斗さんの好意を利用したくないの」

 「利用すればいい。いくらだって利用すればいい。いつもそう言ってるだろ?俺はそれでも全然構わない」

 いままでならここで折れた。そうやって林に甘え続けてきた。でもそれは今夜で最後にすると、祐里は決めていた。

 「結局ね、そういうことをしていると、惨めになってくるの。自分がだんだん卑しくなっていくのがわかるの。だからもう嫌なの」

 林が唐突に訊いた。

 「もう会わないって、それは祐里が言ってた事情のせいなのか?」

 林は突然何を言い出したんだろうかと、祐里は林の顔を見つめた。

 「お前と別れるとき、わたしには事情があるからこれ以上は一緒にいれない、って言ったよね?その事情のせいでこれ以上は俺とは一緒にいられないっていうこと?」

 「そう。それも大きいかな」

 「事情って、祐里の兄さんのことか?」

 兄さんのことか? という言葉を聞いて、祐里は目の前が真っ暗になった。



 ふたりの間に深い、色の無い沈黙が流れた。祐里の周りの空気だけが濃く重くなったような気がした。その中で祐里は身動きひとつせず、林を見つめていた。

 林は祐里が何かを言い出すのを待っていた。でも祐里は口を閉じたままただ林の顔を見つめていた。その強い視線に耐えられなくなった林が何かを言おうとしたそのとき、祐里が口を開いた。

 「わたしのこと、調べたの?」

 短くはない沈黙の後、それだけ言うと祐里は視線をテーブルの上におとした。祐里のそんな様子を見て、林は自分が調べた情報が単なる噂ではないことを知った。

 「エゴサするみたいな感じで、気軽に調べたんだ。インスタとかフェイスブックとかしてないかなって。好きな人のことは少しでも知りたいだろ? ストーカーみたいって思わないでくれよ? でもいろいろと検索していくうちに、祐里の兄さんのこと、そのことにまつわる祐里と家族のことが簡単に分かったんだ」

 簡単に分かったんだ……。そのことが祐里はショックだった。

 やっぱりまだ風化してないんだ。そんな事件のことは忘れた。知らないっていう人も沢山いるだろうけど、興味本位や正義感からわたしたち家族のことを追いかけている人たちも、今だにいる。

 「5ちゃんねるのまとめサイトとか、それから台湾のサーバーで作られた犯罪加害者の家族の情報を晒すサイトとか。最初はそこまで追いかけるつもりはなかったんだけど、ごめん。好奇心を止められなかった」

 祐里は林の言葉をうわの空で聞いた。

 「いつ知ったの?」

 「付き合ってすぐの頃。祐里のことを少しでも知りたくて。ごめん」

 仕方がない、林に悪気はなかったんだからと祐里は林の言葉を受け入れた。でも何も言えずに黙り込むことしかできなかった。

 祐里には店内の喧騒も聞こえていなかった。ただ真空の中に放り込まれた気分だった。不自然にも思える静謐に気づいた瞬間、大声で話す客の声が突然聞こえて、賑やかな場所に引き戻された。

 「そのことを知ってどう思った?」

 「嘘だろ? って思った。でも……」

 「……でも?」

 「……たぶん間違いないって思った。祐里のことを観ているうちに、何か隠しているというか、心を閉ざしているのを感じたから」

 「その時に別れようと思わなかったの?」

 「思わない。そんなことくらいで、好きになった人のことを嫌いになるとかあり得ない」

 「そんなこと? だって人殺しの妹だよ? 引くでしょ? 普通」

 祐里が口に出した「人殺しの妹」という言葉が林の心に刺さった。それと同時に、その言葉が周りの誰かに聞かれていないかと不安になった。

 「もう少しちいさな声で話そうよ。でも、人を殺したのは祐里じゃない。兄さんだろ? たしかに家族だし責任の一端はあるかもしれないけど、社会から抹殺されるほどに責められる筋合いはないだろ」

 祐里は濁った頭で考えていた。林の言葉が電波の不安定な電話のように不鮮明にしか聞こえなかった。

 家族は関係ない? 嘘。関係なくなんてない。

 海人さんはそう思ってくれても、世間からすれば家族だって同罪だ。海人さんの実家の人たちだって、人殺しの家族が親戚になるなんて受け入れるはずがない。祐里はそう思っている。そう思うのは祐里だけではないだろう。なんども考えたことだったけれど、導き出される答えはいつも同じだった。

 「海人さんはそう思ってくれるけど、海人さんの両親だって、お兄さんだって、わたしの家族と親戚になりたいなんて絶対に思わない。でしょ?」

 林は黙り込んだ。それを言われると、そんなことはないと言い切ることは出来なかった。

 地方の名家。周りからの目を気にする、せざるを得ない家柄。厳格な両親。それから両親が抱えている大きくもないけど小さくはない、地元では有名な老舗の企業。

 そんな環境に祐里の家族が加わるなんてあり得ない。兄にとっては祐里は義理の妹になる。その兄は殺人犯だなんて受け入れるわけがない。

 林がポツリと言った。

 「結婚しなければいい」

 「ずっとこのまま?」

 「俺が家を出たっていい。実家を棄てたっていい。それで祐里とふたりだけで暮らす」 

 祐里は林の顔を見つめて思った。これ以上どう言ったら分かってくれるだろう。

 林のことを考えたら、実家を棄てるなんて言う言葉を絶対に受け入れてはいけない。それにお坊ちゃん育ちでお人よしの林が、こんな訳ありのわたしと家族を抱えて生きていけるわけがない。

 世の中から隠れて生きるのは苦しくてつらい。隣人にすら気を許せない。買い物をしている時だって近くにいる誰かに噂されているような気になる。真っ暗で息をするのも憚られて、いつも湿った土の上で暮らすような日々。

 「海人さんが家を出るなんて無理。絶対に無理」

 「なんで? 無理なんかじゃない。俺はそれだけ祐里のことを愛してるし、祐里を守る覚悟だってある!」

 林の声がつい大きくなった。どんな言葉なら林の気持ちを変えることが出来るんだろう。祐里は俯くしかなかった。

 祐里は大きく息を吸って、吐き出した。そして林の顔を見つめた。

 「家を出たら海人さんはもうお金持ちじゃないでしょ?わたしはお金持ちのお坊ちゃんの海人さんが好きなの。だから」

 林の顔がこわばった。

 「だから、お金持ちじゃない海人さんには興味ない。好きにもならない」

 林を傷つけたかもしれない。でもこれでわたしのことは諦めて。そう願いながら祐里は林の顔を見つめた。林の顔が苦し気に歪んでいるのが祐里にも分かった。

 「本気か? いまの言葉は本気か?」

 「本気。海人さんが金持ちのボンボンって知ったから一緒にいたの」

 「嘘だ。見え透いた嘘だよ」

 林の声は冷静だったし、態度も落ち着いていた。

 「金持ちのボンボンの俺と一緒になりたいのならば、祐里から別れたいなんて言う必要はないはず。嘘をつき通してでも、俺から離れない筈」

 「そんなことはない。だって一緒になれないんだよ?」

 「なんとかなる」

 何とかなるって、どこまで本気でそう思っているんだろう。

 「ならない」

 「なんとかする」

 林は何故ここまでわたしに執着するのか。不思議に思う。
 
 以前、何故私のことを好きになったのかと訊いたことがあった。俺の実家のことに興味を持たなかったのは祐里が初めてだったからと、林は言った。

 それにしても何故ここまでわたしのことを好きだと言ってくれるのか。

 「なんで?」

 「何が?」

 「なんでそんなにわたしに執着するの? 海人さんのことが好きだっていう素敵な女の子はきっと沢山いるよ? なのに何故わたしみたいなそれほどでもない女に執着するの?」

 「俺の実家に興味ないだろ? つまり、祐里のそういう価値観とか、性格だよ。うんざりするんだよ、しつこく実家のことを聞かれたりするのは」

 祐里は黙って林を見つめていた。それから林が何か言いたげな様子で、ゆっくりと口をひらいた。

 「あと、弱ってるから、かな」

 林がポツリと漏らした。わたしが弱ってるから。

 「助けてあげたいと思う。力になりたい。幸せにしたいって思う。そんな気持ちがあるから余計に祐里のことが愛おしくてたまらない」

 「全然意味が分からない。それってつまり同情?」

 「同情とは違う。上手く説明は出来ないけど、愛よりも強い気持ちのような気がする」

 林がすっかり温くなったビールに口をつけた。ジョッキの水滴がテーブルの上を円く濡らしていた。

 「きっと海人さんは、惨めなわたしを可愛がることでいいことをしているような気持ちになってる」

 「違う!」

 林が大声を出した。隣のテーブルの客が驚いて林と祐里を見た。

 「雨に濡れた野良猫を拾って帰るのと一緒。可哀想だと思って、情が湧くのよ」

 林は何か言いたげの様子を見せたけれど、祐里の顔を見たまま黙った。

 「海人さんはどこまでわたしの秘密を調べたの?」

 「どこまで?って、これだけ知っていたら充分じゃないの?」

 「他にも秘密があるっていったら?」

 「他にも?」

 「わたしが犯罪者の家族だっていう、それ以外にも秘密があるっていうこと」

 黙り込んだ林の表情に、かすかに動揺が見て取れた。もしかしたら、何か察するものがあったのかもしれない。

 祐里はこの秘密を林に打ち明けることに躊躇った。絶対に言いたくないという気持ち。思い出したくないという気持ちもあった。一度でも愛情を感じた男性には伝えたくはない思い出だった。

 それをいまから林に告白する。そう考えただけで身体が重たくなって、床に貼りついてそのまま沈んでいくような気がした。

 「海人さん、聞いて」

 ビルから飛び降りるときもこんな感じなんだろうか。祐里はふと思った。

 「わたし、風俗で働いていた」


26


 「な、田畑。川嶋っていう女、とんでもないだろう女だろう。どんな横槍が入って専務が動いたのかは知らないけどな、何とかしないとこのままじゃあ会社に迷惑をかけるぞ、間違いなくな」

 柳瀬の言葉を真に受けるならば、確かに川嶋祐里はとんでもない女なのかもしれない。でも、これだけでは事情がもう一つ判明しない。

 「全国紙でも報道されている有名な事件だよ。いまでも風化していないはずだよ。俺もよく憶えてる。それだけ騒がれた事件だったからな。ネットには加害者家族のその後を追及しているサイトもある。そこには犯人の妹の黒田祐里と実名を晒されてたよ。親御さん名前と職業、それから彼女の卒業アルバムらしき写真数枚とな。苗字を変えて徳島県のどこかに潜んでいたがいまは消息不明。追加情報求むなんていう文言まであった」

 東福岡市で起きたあの事件か、と田畑も驚いた。もう八年前のことなのか。随分前のことのようにも思えるし、まだ最近のことのような気もする。そうだとしたら、たしかに風化はしていないと言えるだろう。

 川嶋祐里は犯罪加害者の家族なのか。祐里と家族への世論の風当たりは強いなんていうものじゃないだろう。それで住む場所を転々としてきたということか。田畑は祐里に付いてまわる翳りの正体が分かった気がした。

 「でもこの事件に関わったのは川嶋祐里の兄ですよね? 彼女と家族には責任は無いでしょう」

 田畑はそう言葉にはしたけれども、世間はそうは見ないということも勿論承知している。

 「関係ないことは無いだろう。兄貴が殺人犯だぞ。川嶋祐里は人殺しの妹だぞ?」

 柳瀬が目をむいて田畑を睨んだ。

 「親だって人殺しを生んで育てたんだよ。どんな育て方をしたら息子が殺人犯なんかになるんだよ。そんなもん碌な親じゃないし、碌な兄妹でもないだろう。親だって川嶋祐里だって彼女の弟だってな、家族にも責任はあるんだよ。こんな風に逃亡して隠れようったって許されるわけないだろう」

 誰かが罪を犯せば、所属している会社やグループにまで連帯責任を負わせようとする典型的な日本人の感覚だ。田畑はうんざりする思いで柳瀬の顔を見た。かといって柳瀬相手に一々反論するのも面倒だった。

 「被害者とその家族の気持ちを考えて見ろ。俺がその殺された被害者の親なら川嶋祐里だってぶん殴るだけじゃ気が済まないぞ。違うか?」

 たしかに被害者家族が加害者の家族にも厳しい処罰を願い、強く当たることは理解できる。田畑にしても、生まれたばかりの我が子にもしものことがあったら、決して危害を加えた者のことを許さないだけではなく、その家族にも憎しみを覚えるだろう。

 でも自分の家族を亡くしたわけでもない第三者が『川嶋祐里だってぶん殴るだけじゃ気が済まない』とはさすがに言い過ぎだろうと思うし、祐里を殴りたいとも思わない。

 「それだけじゃない。おまけに風俗で働いていた。なあ、どんな女だよ。救いようがないだろう」

 風俗。田畑の脳裏に検査室のガラス越しに見かけた祐里の姿が思い浮かんだ。俯いている祐里の白いうなじと、乱暴に揺すったら折れてしまいそうな細い肩を思い出してから、豊満とは呼べそうにない祐里の裸を思い浮かべた。

 〈余程困窮した生活に追い詰められたんだろう〉

 田畑は柳瀬に聞こえよがしに、あてつけるように大袈裟なため息をついた。

 「じゃあ川嶋祐里は人殺しの妹だから、おまけに身体を売る様なろくでなしだから解雇ということですか?」

 田畑は柳瀬の短絡的な思考を皮肉って問いを投げかけたつもりだったが、当の柳瀬には全く通じていない。

 「そうなるだろうな。先ずは経歴の詐称。学歴だけじゃない。一番最初に働いたという会社自体、履歴書に書かれている部署なんて存在しないんだよ。つまりは嘘を書いてるという訳だ。それ以降の経歴も信用できん」

 困ったことになったと田畑も考え込んだ。心情的には祐里の味方になってやりたい。でもたかだか一主任にすぎない自分に何が出来るというのか。それにこんな経験は初めてだし、どうするのが正解なのか皆目見当がつかない。

 この事実が世間に知られたりしたら、この会社にも苦情が殺到するのだろうか。旬な話題ではないから、たぶん苦情が殺到するようなことはないだろう。そうとはいえ、社内には祐里のことを白い目で見るものも出てくるだろう。

 でも祐里の素性など、会社的には知らぬ存ぜぬで押し切ることも出来る筈だ。同姓同名だが別人だと。それに何よりもこういったプライバシーに関する個人情報は絶対に守られなければならない。

 「社内には広まってないでしょうね」

 田畑はそれを恐れた。個人情報の漏洩だけは許されない。

 「おそらくな。俺だってそんな事軽々しく誰かに言えるわけないだろう」

 じゃあ幸い、まだ柳瀬のもとでくい止められているということか。

 祐里自身が起こした犯罪ではない。それを加害者の家族というだけで、学校や職場を追われ、進学や再就職もままならずに棲み処を転々としなければならないほどの仕打ちを受けなければならないものか。

 そして風俗。田畑は風俗という職業を蔑視したりはしない。でもこれほど偏見を持たれて理解を得にくい職業もないだろうとは思う。もしこのことだけでも社内に広まることがあったら、祐里は男性からは性的な好奇の目にさらされ、女性からは蔑視の対象にされるだろう。

 祐里から直接話を聴いてみたいと田畑は思った。

 「一度本人から事情を聞きますか? 先ずはそうした方が」

 「話なんか聞くまでもない。調査会社の報告を疑うのか? それに事情を聞いたところでどうせ川嶋本人は嘘をつく。信用できん」

 柳瀬がふてぶてしく言い放った。田畑は柳瀬の態度にうんざりしながらも、この局面を打開する策はないものかと考えた。

 「川嶋祐里なんていう社員は在籍していないと言い張ればいいじゃないですか。同姓同名だけれど別人だと。それに兼重専務には何て伝えるんですか? 調査にしろ処分にしろ、俺に黙って余計なことをしやがってと、下手したら逆に専務を怒らせるかもしれませんよ」

 田畑が兼重の名前を出した途端に柳瀬の舌鋒が鈍くなった。

 「そこなんだよ。専務に無断で解雇するわけにもいかない。この女を推したのがが誰なのかも分からないしな」

 祐里の後押しをしたのはメインバンクである近畿西日本銀行の渡辺取締役副頭取ですよと、田畑は柳瀬に教えてやりたくなった。でもそんな大切な情報を柳瀬ごときに教えるのも癪だった。

 「じゃあしばらくは兼重専務に報告することも出来ませんね」

 「そうなんだよ。だからお前にも知恵を借りたいんだよ。そのために今こうしてお前を呼んだんだ」

 最悪の場合、柳瀬は俺にも責任の一端を被せようという魂胆なんだろうと田畑は考えた。でも柳瀬が考えあぐねている間に省吾にこのことを伝えれば、もう一度渡辺の父親が動くとすれば局面を動かせるかもしれないとも思った。

 いや、それは認識が甘すぎる。渡辺の父親からすれば祐里にはもう関わりたくないだろうし、そうだとしたら省吾は無力だ。

 「それにな、田畑。兼重専務を引きずり下ろしたい役員だっているわけだよ。そんな輩がこの情報を手に入れたら、何を仕掛けてくるか分からん。そもそも俺がお前にだけこの情報を教えたのも、お前ならどの派閥にも属していないと踏んだからだよ。人事の中にも色んなやつがいる」

 成程な。それが一番重要なところだと田畑も納得した。敵が多い兼重にとって、この件は使い方次第では兼重専務に傷を負わせることもできるだろう。それが深手となって兼重専務が失脚するようなことになれば柳瀬は間違いなく地方へ左遷だろう。

 どうりで柳瀬が必死になるわけだと田畑は思った。

 「まあ、たしかにお前の言う通り、先ずはその女を呼んで事情聴取だな」

 腐っても柳瀬が人事部長である以上、祐里を解雇する権限は持っている。上手く自己都合の退職に誘導することだってできる筈だった。それを思えば、いくら柳瀬が愚か者だとはいえ、無視するわけにもいかなかった。



 「風俗?」

 そう呟いたきり、林は黙り込んだ。

 言ってしまった。激しい後悔が瞬時に祐里を襲った。

 胸の動悸が身体を揺らして、座っていても目眩がする。思い出したくない記憶がフラッシュバックして、入れ代わり立ち代わり頭の中に浮かんでは消えた。

 祐里は俯いたまま、黙り込んだ。すぐには気持ちを落ち着かせることなど出来そうになかった。やっとの思いで顔を上げて林の顔を見ると、さすがに風俗という言葉までは予想していなかったのか、林の顔はむしろ笑っているかのようにも見えた。

 「それでもわたしのことを好きだって言える?」

 「嘘だよ。そんな見え透いた嘘をつくなよ」

 困った顔を見せながら、さも冷静でいるかのような口調で林が言う。本当に信じていないのか、それとも狼狽えながらも必死に取り繕っているのか、祐里には分からない。

 「本当だよ。嘘でもこんなこと言わないでしょ? 普通なら」

 祐里は全く口をつけていないビールをとって口をつけた。温くなって苦みを増したビールが身体に浸みこんでいく。

 「男の人はさ、自分は風俗を利用したとしても、恋人が風俗で働くのは死ぬほど嫌でしょ? 勝手だよね」
 
 祐里が視線を下ろした。暫くの間、沈黙が流れた。

 「だから黙っていたし、死ぬまで隠し通すつもりだった。でも海人さんには正直に言う。それでもわたしと一緒になりたいって言えるのか、教えてよ」

 黙りこんだ林の目の前に、祐里はスマホを差し出した。

 「まだ信じられないならこれを見て」

 林は祐里がテーブルに置いたスマホを黙って見つめた。

 「わたしが働いていたデリヘルのサイト。掲示板にはアーカイブでわたしが在籍していた頃のことも残ってた」

 わたしは何故こんな秘密を平然と話してしまうのだろう。林だってこの秘密を誰にも言わないとは限らないのに。

 「その新人のゆりなちゃんがわたし。写真もね、まだ残ってるの」

 肌が透けて見えるランジェリーを着て、手のひらで顔の半分を隠した祐里の姿がそこにあった。

 「ね?海人さんなら分かるはずだよね。この身体と顔半分、間違いなくわたしでしょ?」

 林の身体から力が抜けた。背中を丸めて椅子にもたれた林の姿は普段よりも随分小さく見えた。

 ようやく観念したのか、声を振り絞るようにしながら林が呟いた。

 「なんで? なんでデリヘルなんかで働いたんだよ」

 林が睨むような目つきで祐里を見つめた。その林の様子から、自分に向けられていた林の感情が違う姿形に変わったことを、祐里はうっすらと感じ取った。

 「どうしてもお金が必要だったから。地道に働くだけじゃすぐには稼げないお金」

 「いくら?」

 乱暴な口調で林が訊いた。

 「五十万円ぐらい。お父さんが働けなくなって、弟にもお金が必要だったから。二か月だけ働いた」

 恥ずかしかった。デリヘルで働いたことを明かすだけではなく、それほどまでに困窮していた自分の家族のことを話すのも。思い出すのも嫌な過去を自分から明かしている。それから同時に自分の家族のことを侮辱しているような気持ちになった。

 林の顔が引きつった。首を左右に振りながら、理解できないというような表情を大袈裟につくっていた。

 「五十万円?たったの五十万円ぽっちのためにデリヘルで働いたのか?」


 林が口にした「たったの五十万円」という言葉。

 その「たったの五十万円」のために必死で働いた過去。

 林が放った鑢のようにざらついた言葉が祐里の心を強く擦り、癒えない傷から滲みだした温い血が、祐里の身体の中にじわりじわりと満ちていった。

 祐里はついカッとなった。

 「たったの五十万?」

 祐里はつい大きな声を出しそうになったけれど何とか堪えた。でも身体の震えは堪えることができなかった。声が震えた。林の顔が揺れながら次第に滲んでいった。

 「たしかにたったの五十万円かもしれない。でもね、そのたったの五十万円すらも用意できなくて、わたしは泥濘のなかを這いずるようにして生きてきたの。そんなわたしの気持ちがあなたに分かる?」

 「ごめん、マジでごめん。言い過ぎた」

 「たしかに五十万円なんてさ、海人さんにはお年玉みたいなものなんだろうね。でもわたしには違うの。裸になって身体と心を擦り切らして働かなければ稼げないお金なの。そんなわたしの気持ち、海人さんには分からない。絶対に分かりっこない」

 祐里の頬を涙が伝ってこぼれ落ちた。涙が止まらなかった。父のこと。弟のこと。亡くなった母のこと。そんないろんな想いを胸の中に押し込んで、見ず知らずの男たちの前で服を脱ぎ裸を晒して、口に出すのも憚られるようなことをしてお金を稼いだ日々。

 「ね、もうわたしなんか無理でしょ? 想像してよ、わたしの唇と舌が何をしていたのかを……わたしの身体が全然知らない男たちからどんなふうにされていたのか、想像してよ……。そんなわたしとキスできる?」

 林は黙り込んだまま、ただうなだれた。

 「たったの五十万円だなんて、バカにしないでよ……」

 林は力なく、祐里の顔を見た。

 取り返しのつかない言葉を祐里に投げつけてしまった。そのことに気づいてももう遅かった。でも、そんな思いとは逆に、祐里に裏切られたという身勝手な気持ちもあった。すぐには飲み込めない。五十万円程度の金のために風俗で働く選択をした祐里のことが、認められない。そういう怒りにも似た気持ち。裸の祐里が見ず知らずの男の上に身体を重ねている様子をつい想像してしまう。胸を搔きむしられるような激しい痛みを覚え、正気ではいられなくなる。

 「結局ね、わたしとあなたとじゃ何もかも違うの」

 絞り出すようにして祐里が言った。

 「たしかに、俺たちを取り巻いていた環境は全く違う。祐里が苦労してきたのも分かる。でも、風俗で働いていた祐里のことを、今までと同じように好きでいられるかどうか、自信が無い………」

 林は飲みかけのビールをひと息で飲み干した。

 「ねえ、海人さん。お願いだからもうわたしのことは放っておいて。お願いだから」

 林はグラスについた水滴を指でなぞった。水滴が指と指の隙間からグラスから流れ落ちて、テーブルを濡らす。

 本当に祐里のことを愛しているのなら、祐里のことを忘れたほうがいいのか。でも、これだけ愛しているからこそ、祐里のことを諦めたくはないし、忘れたくない。そう思うことはいけないことなのか。

 林は目の前の祐里を見つめた。俯いて、両手で顔を隠したまま肩を震わせている祐里の姿を。

 祐里に辛い告白をさせてしまった。それは俺のせいだ。そういう仕事をしていた祐里を受け入れることが出来るのか。いまは無理でも、いや、いまは良くてもこの先冷静になれば、そのとき俺は祐里の身体をどう受け止めるのだろう。自信が揺らいだ。


 「分かった。もう祐里のことは忘れる」

 涙を拭いながら、祐里は林の言葉を聞いた。

 「それから今日聞いた話は誰にも言わない。約束する」

 祐里は両手の掌で顔を隠しながら、黙って頷いた。そして顔を隠したまま、肩を震わせて泣いた。

 「ごめんね海人さん。ごめん。ごめんなさい……」

 そんな祐里を見ながら、林は何も言えなかった。

 ふたりの間にただよう長い沈黙。店内の喧騒。祐里と林のふたりに関心を示す客など誰もいない。ただスタッフの女の子だけが、ふたりを見ながら何やらヒソヒソ話しをしていた。

 「祐里にそこまで辛い告白をさせたのは、諦めの悪い俺のせいなんだ。だから、謝らなければいけないのは俺のほうだよ」

 祐里は顔を隠したまま、林の言葉を聞いた。

 「だから、ごめんなさいなんて言うなよ。祐里、ありがとう。一緒にいれて楽しかった」

 

 虚勢。そんな言葉が相応しい林の態度だった。でもそれは、林が祐里に見せた最大限の誠意だった。そして故郷に帰る。そして両親に約束した通り、家業を継いだ兄貴を手伝う。

 それは前から決めていたことだった。そのときは祐里を連れて帰ることが出来たらと、そう望んでいた。その望みが叶うことはなかったけれど、こうなることは心の何処かで覚悟をしていたことだった。

 思い残すことなどひとつもない。そう言い切ってしまうのは今は難しいけれど、いずれそう思える日がくる。

 祐里はまだ肩を震わせながら泣いていた。そんな祐里にかける言葉を林は探したけれど、見つけることは出来なかった。


27


 何ひとつ代わり映えのしない、いつも通りの静かな月曜日だった。

 何かが起こりそうな予兆なんて、誰一人として感じなかったそんな日の午後、祐里は人事部から呼ばれて検査室を離れた。そしてその日、祐里は検査室に戻らずにそのまま帰宅した。

 省吾も祐里が人事部から呼ばれたことは聞かされていた。理由は直接雇用になってひと月目の面談だと。だから、省吾は祐里の姿が見えなくても何ひとつ不審に思うことは無かった。


 翌日の朝礼に祐里の姿が見えなかった。祐里が欠勤するとは聞かされていなかった省吾は祐里のことを今里に訊いた。今里も祐里の欠勤について何も知らなかった。

 「無断欠勤するような子じゃない。何かあったのかな。心配だな」

 「寝坊して今ごろ慌ててこっちに向かっているかもしれませんよ」

 今里は省吾の言葉を黙って聞いたまま、何も返さなかった。省吾は今里のその態度に、僅かながらも嫌な予感を覚えた。


 今里の電話が鳴った。今里はディスプレイをちらっと見てから電話に出た。

 杉崎からだった。

 杉崎と話す今里の口調にはいつもとは違う緊張感が滲み出ていた。

 今里は電話を切って、少しのあいだ考え込むようにしてから、省吾を見た。

 「課長が俺とお前に伝えたいことがあると。どうやら川嶋さんのことみたいだ」

 いつになく緊張した面持ちの今里を見て、省吾は胸騒ぎがした。


 杉崎に促されて省吾と今里はオフィスのミーティングルームに入った。薄暗い会議室に白い蛍光灯の明かりが灯った。無機質な冷たさを感じさせる白い光が省吾の心と身体を少しずつ冷やしていった。

 奥の椅子に腰かけた杉崎が、眉間にしわを寄せながら省吾と今里の顔を見た。省吾と今里も机を挟んで杉崎と向き合って椅子に腰掛けた。三人の間を冷やりとした沈黙が満たしていく。省吾の緊張は否が応でも高くなった。

 「川嶋さんはしばらくの間自宅待機になった。その件でさっき柳瀬部長と話してきた」

 省吾は唖然とした。一体何があったのか。

 「川嶋さんに何があったんです? 自宅待機とは穏やかじゃないですね」

 今里が杉崎に訊いた。省吾も同感だった。自宅待機とは要するに処分なわけだから穏やかではない。

 「どうやら履歴書の経歴に詐称があったらしい。柳瀬さんが言うには解雇になるかもしれないということだった」

 省吾は声を失った。何故祐里の履歴を調べたりしたのか。

 それにアルバイトの履歴書の詐称ぐらいで解雇になるなんて厳しすぎやしないか。

 高度な専門職で院卒が条件なのに嘘だった、というような場合ならば理解できる。でも祐里は非正規社員でアルバイトなのに、履歴がそれほど大切なのか、何故敢えて祐里の履歴を調べたりしたのか。省吾は腑に落ちなかった。

 一体何があったのだろう。解雇に相当する理由とはなんだろう。さすがに省吾も動揺した。

 「詐称って? 何が嘘だったんですか?」

 ふたりで飲みに行った先で祐里に職歴を訊ねたときに、ふいに祐里が見せた動揺とそれからのよそよそしい態度。祐里には経歴を訊かれたくない事情があったということなのか。

 「まあ、学歴と職歴だな。あとは個人情報だから、俺の口からは詳しくは言えない」

 「『あとは』って? 詐称だけじゃないんですか?」

 杉崎が口にした『あとは』とは一体何なのか。

 個人情報という言葉に引っかかるものを感じながら、省吾は今里の顔を見た。

 「今里さんは何か知ってるんですか?」

 「いや、分からん」

 苦虫を嚙み潰したような顔をしている今里の様子に、省吾は不安を搔き立てられた。

 〈本当は今里さんには何か心当りがあるんじゃないか〉

 もし今里にも心当たりがないことならば、祐里が信頼していた今里すら知らない事情って、一体何なのか。

 「自宅待機って、具体的にはいつまでとか分からないんですか?」

 省吾は杉崎に訊いてみた。まさか祐里が戻ってこないかもしれないとは思いたくなかった。

 「柳瀬部長が言うには、解雇するにしても兼重専務の裁可がいるらしい。なぜ兼重専務の裁可がいるのか、意味が分からんがな。とにかく俺はその辺りの事情は分からん。ただ、兼重専務にお伺いを立ててから決まる、という話だった」

 「じゃあ解雇にはならない可能性もあるんですね?」

 「いや、そこは何とも言えない。柳瀬さんは川嶋さんを辞めさせたいという態度だった。兼重専務がどう思うか次第だろう。俺は何とか食い止められないかと思ってる」

 杉崎は腕を組みじっと机の上を睨んだまま、それきり口をつぐんだ。


 祐里にあって事情を聞きたい。その上で何とか出来るものなら何とかしたい。ここにいる三人とも同じことを考えていると省吾は思いたかった。

 この職場で働き続けることをあれだけ願っていた祐里が辞めさせられることになったら。そうなれば省吾の努力も水の泡になる。でもこの際俺の努力なんてどうでもいい。

 省吾は祐里の姿を想像した。頼りなさげな、どこか影を感じさせる祐里の姿を。二人で飲みに行ったときに省吾に見せた陽気な一面を。職場のことを話すときの楽し気な口調や表情を。



 省吾と今里は無言のまま検査室の隣の部屋に入った。ドアを閉めるときに、緊張した面持ちのスタッフと目が合った。

 俺達が動揺していることをスタッフ全員に悟られるのはよくない。そうはいっても朝から祐里の姿が見えない上に、今だって省吾も今里も深刻な顔をしている。検査室には心なしか緊張した空気が張り詰めていた。

 省吾も今里も椅子に座ろうとしなかった。

 「今里さん、川嶋さんとは連絡取れませんか? 電話番号なら杉崎課長なら知っている筈ですし。僕がかけるよりも今里さんからの方が彼女も話しやすいでしょうから」

 今里は黙ったまま省吾の話を聞いた。

 「今里さん、本当に何も心当りないんですか? だって今里さんの方が僕よりも川嶋さんのこと色々と知っているでしょう?」

 今里は考え込むようにして俯いてから省吾の顔を見た。

 「思い当たることが無いわけじゃないんだ。ただな、俺の口からは言えん」

 「たしかに、それは分かりますけど」

 「とりあえず、俺から川嶋さんに電話してみる。それでもし会えるならどこかで会って話を聞こう」

 省吾は今里の言葉を黙って聞いた。いまは省吾に出来ることなんてひとつもなかった。


 「川嶋さんが会ってもいいと。仕事が終わってから行くか」

 祐里の家の住所は会社の最寄り駅からふたつ離れた駅の辺りだった。今里と省吾は社用車で向かうことにした。

 退勤時刻になるまでの間、省吾は落ち着かない気持ちで過ごした。仕事には集中しなければならない。でも合間に手を休めたときに、つい祐里のことを考えてしまう。

 いつの間にか省吾は、そんな自分に違和感を覚えることも無くなっていた。



 祐里の自宅は会社まで自転車でも通えない距離ではなかった。

 「川嶋さんなら自転車で通っていたはずだよ」

 助手席に座っている今里が外の景色を眺めながら言った。対向車線は渋滞していた。省吾たちが乗っている社用車の白いトヨタヤリスがやや混んでいる道路を時速30Kmでゆっくりと進んでいく。車線沿いには倉庫やガレージ、それから町工場が立ち並んでいる。夕暮れ時の景色の中に、灰色の街並みが溶け込んでいこうとしていた。

 「まさか交通費を不正受給していたとか、そういうことですかね?」

 ハンドルを右手だけで握り、正面を向いたまま省吾が今里に訊いた。自転車で通っていたのに電車賃を申請していたなら、処分もあり得るかもしれない。

 「さあ、そこまでは俺も知らん」

 外を眺めながら今里が答えた。仮にそうだとしても、酌量の余地はないのだろうか。省吾はもやもやした。

 「もうすぐ川嶋さんの家の近くだな。このあたりは道が狭いから、気をつけろ」


 やがて二人の乗った車は細い路地に入りこんだ。周囲には小さな一戸建てが密集していた。その少し離れたあたりに二階建ての木造アパートが数軒並んでいるのが見えた。

 省吾は細い路地の奥までは入らずに、広い道まで戻って近くのコインパーキングに車を停めた。

 「歩こうか。五分もあれば着くだろう」

 車から降りる前に今里が祐里に電話をかけた。二言三言だけ言葉を交わして電話を切った。

 「近くまで来たと伝えた。分かったって言ってた」


 駐車場から出て祐里の家に向おうとしたその時、今里が声をあげた。

 「おっ、あそこにある焼き鳥屋からいい匂いがするな」

 辺りの雰囲気に馴染んで溶け込んでいる古い店だった。入口の扉が明け放たれていて、客の笑い声が聞こえた。省吾は祐里とふたりで居酒屋を訪ねたときのことを思い出した。

 「小坂、俺はさっきから小腹が空いてるんだ。あそこでビール飲んで待ってるからお前ひとりで行ってこい」

 この人は急になにを言い出したのか。

 今里の言葉に省吾は呆れた。いまはそんな場合なのか。今里はニヤニヤした顔で省吾を見ていた。

 「そんなこと言ってる場合じゃないですよ。よくそんな気分になれますね。川嶋さんは今里さんを待ってるんですよ」

 省吾の言葉に今里が首を振った。

 「いや、小坂が行けばいい。あの子の雇用に力を借したのもお前だし、いま川嶋さんに必要なのはお前の言葉だ。俺じゃない」

 「そんなことありませんよ」

 何故今里はいきなりこんなわけの分からないことを言い出したのか。省吾は腑に落ちなかった。

 「なんでですか? 今里さんには行きたくない理由でもあるんですか?」

 省吾は出来れば祐里とは二人になりたくなかった。きっと重苦しい話になると、省吾は予感していた。そんな空気をひとりで受け止める気にはなれなかった。

 「いいからおまえひとりで行ってこい。俺はあの店で待ってる」

 仕方ない。省吾は観念した。

 「分かりました。あとで電話します」

 「川嶋さんが話したいのはお前だよ」

 俺は邪魔だよと今里が言った。今里が言いたいことが理解できずにもやもやしながらも、省吾は祐里の住むアパートに向かった。


 時計を見ると、針は十八時半を廻った辺りを指していた。

 夏だからまだ完全に日は落ちていない。西の空がうっすら青く、空の低い辺りは薄いオレンジ色に染まっていた。

 何処からか魚を焼いているような匂いが漂っていた。

 〈小学校の友だちが住んでいたのはこんな感じの街だった〉

 周りの情景に省吾は懐かしさを感じた。そして美玖が暮らしたがっていた山の手の住宅街のことを思い出した。


 祐里の暮らす古いアパートに着いた。所々に錆びが浮いた階段を、大きな音を立てないようにゆっくりと上がった。それから洗濯機が並んだ狭い廊下を進んだ。

 省吾は祐里の部屋の前に立った。表札はない。そっとベルを鳴らす。それでも祐里は出てこない。

 「小坂です。川嶋さん、いますか?」

 少しの間の後、僅かにドアが開いた。そのすき間からまるで臆病な小動物が姿を見せるようにして、祐里がそっと顔を覗かせた。

 「やっぱり違う場所で話しましょう。ここじゃちょっと」

 祐里が小声で言った。

 省吾はふと祐里の足元を見た。狭い玄関の三和土に祐里の古びたスニーカーと弟のものと思われるスニーカー。それから傷だらけの黒い安全靴だけが揃えられていた。

 「じゃあ下で待ってます」

 省吾は静かに階段を下りた。



 日が沈み、藍色の中に溶けようとしている街の中を、二人は無言のまま並んで歩いた。

 『思ってたよりも元気そうでよかった』だとか、そういう社交辞令のようなものを省吾も話そうかと思ったけれど、言葉が引っかかって出なかった。

 杉崎から聞いた『柳瀬さんから聞いたのはちょっと良くない話だった』という言葉が気になって仕方がなかった。でもどうやってそれを切り出そうか。今里さんがいてくれたらと省吾は祐里を見て思った。

 省吾はつい何度も祐里の横顔を見た。綺麗な横顔だと思った。肩の辺りまでの長さのボブが風にふわっと揺れた。

 省吾は不意に高校生の頃のことを思い出した。放課後の通学路を家に帰るときの記憶。そのころにはいなかったはずの祐里が何故か隣にいて、一緒に歩いているような、奇妙な気分になった。

 古い喫茶店が見えた。あそこに入ろうかと省吾は言った。祐里も黙って頷いた。


 二人は奥のテーブル席に座った。客はほとんどおらず、BGMの代わりにラジオのAM放送が小さな音で流れていた。

 祐里は省吾から目を逸らすようにして窓の外を眺めていた。外はだいぶ暗くなっていて、天井から吊り下げられたオレンジ色のやわらかい灯りが窓に映っていた。

 窓の外を眺めている祐里の姿から、きっと心の奥に何かを秘めているんだろうということを省吾は感じ取った。そのことが今回の処分の理由なんだろうか。そうだとしても、俺はどこまで踏み込んでもいいんだろうか。

 祐里の心の中を覗くのが少し怖いような気がした。でも知らなければいけない。祐里の雇用契約に携わった人間としては「はいさようなら」で済ませる訳にはいかなかった。

 「川嶋さんのことをみんな心配してる。川嶋さんについて人事部長から課長に話があって、それで俺も今里さんも課長から聞いて。川嶋さんに一体何があったんだろうと」

 「どこまで聞いたんですか?」

 祐里が唐突に省吾に訊いた。祐里は落ちついていた。おどおどした様子も見られなかった。

 「履歴に詐称があったと。それだけ」

 省吾がそう言うと、祐里が頷いた。

 「その通りです。嘘を書きました」

 やっぱり。二人で飲みに行ったときの、いままでの経験を訊いたときに見せた不自然な様子には理由があった。省吾は腑に落ちた。

 「でもなんで? 嘘を書かなければならない事情があったの?」

 省吾は祐里を問い詰めるでもなく、湧きあがった疑問をそのまま素直に伝えた。祐里は何も答えず、ただ俯いた。話せないのか、それとも話したくないのか。祐里が何を思っているのか省吾は知りたい。

 「川嶋さんが話したくないなら無理に聞き出そうとは思わない。でも俺も川嶋さんの再雇用には骨を折ったんだ。だから何でこうなったのかは知りたいんだ」

 省吾の言葉を聞いて、黙っていた祐里も顔を上げた。

 「小坂さんがわたしの再雇用に力になってくれたこと、今里さんから聞きました。わたしが直接雇用になれたのは小坂さんと彼女さんのおかげなんだって。だから言葉では伝えきれないくらい凄く感謝しています」

 「感謝とかは別にいいよ」

 そして祐里は省吾の顔を見つめた。そしてまた俯いた。省吾は祐里の沈黙をじっと待った。

 「嘘をつかないと採用されるのは無理だと思ったんです。正直には書けないって。高校も中退してるし、職も転々としてる。そういうことは不利になるって知っているし、そんな履歴しかない自分にも負い目があって」

 祐里は俯き加減のまま、テーブルの隅に置いてあるメニューの辺りに視線を投げていた。

 誰にだって事情がある。人には明かしたくないことのひとつやふたつ、誰にだってあるに違いない。

 「川嶋さん」

 祐里が省吾の顔を見た。

 「どんな事情があってそうしたのか深いところまでは分からないし、訊くのも気が引けるけど」

 省吾は一呼吸間を置いた。言葉を間違えるわけにはない。まずは落ち着こうと思った。

 「川嶋さんのことは何とかしたいと課長も今里さんも思ってる。課長は人事部長から聞かされたみたいで、川嶋さんの事情を知ってる。僕らには教えてくれなかったけど」

 祐里が省吾の目をじっと見ていた。省吾も祐里の目をじっと見つめた。

 「経歴の詐称の他にも何かあったみたいだね。そのせいで人事部長が川嶋さんを辞めさせたがってるみたいなんだ」

 祐里が黙った。どこまで踏み込んだらいいんだろうか。省吾も悩んだ。


 これ以上祐里を守る必要があるのだろうか。省吾はふと思った。
 
 あれだけ自分の心に負担をかけて、あげく美玖の父親の力まで借りて入社させた。それだけで充分過ぎるだろう。もう祐里から手を引いてもいいじゃないか。それでも省吾は祐里を助けたいと思う。そして、その気持ちの裏側にある感情の正体にもう気づいていた。


 俺は祐里が好きだ。


28


 そう。俺は祐里のことが好きなんだ。もうハッキリと分かっている。

 省吾はその気持ちをすっと飲み込んだ。

 いままではその気持ちに蓋をしようとしてきた。どこかに捨ててしまおうと思っていた。美玖のことだけを見て、美玖との将来に向けて走り出すと決めていた。祐里への興味関心が恋に変わりつつあることを忘れて、振り切ってしまえると思っていた。

 好きになった女性を助けたい。もうこれ以上祐里から目を逸らすことは出来ない。その思いから省吾はもう逃れられないと悟った。皆がどう考えているかなんて関係ない。祐里を助けたいという気持ちは最初はたんなる善意に過ぎなかったのかもしれない。途中からも、引くに引けなくなって仕方なく動いていたのかもしれない。

 でもそんなことはどうでもいい。いまの俺が考えていることは、なんとかしてこの子を苦境から救い出してあげること。

 そして、祐里の近くにいたい。もし同じ職場にいることが出来なくなったとしても、祐里と繋がっていたい。


 省吾はそんな気持ちで祐里を見つめた。こんな気持ちになったのはいつからなんだろう。美玖が懸念していたように、きっと祐里に対する同情心めいた感情がやがて興味に変わり、祐里の近くにいるうちに自然に恋心へと変わってしまったんだろう。

 これは、俺に力を貸してくれた美玖に対する裏切りなのか。きっと誰しもが裏切りだと思うだろう。省吾の心の中に何の屈託もなく笑っている美玖がいる。その美玖が砂でつくった像のようにさらさらと崩れて、形を失っていこうとしている。

 恋なんて所詮こんなものだろうと割り切ってしまうには、美玖との関係は浅くも無ければ軽くもない。もし飛行機に例えるならば、俺と美玖は離陸するために全力で滑走路を走り出している。何かに躊躇するかのようによろよろと飛び立ったらその後どうなるのだろう。きっと堕ちるだけだ。


 「川嶋さん」

 省吾が祐里に声をかけた。その声は以前のようなぶっきらぼうな口調ではなかった。その声に秘められた感情に、祐里が気付くことはあるのだろうか。

 「課長だけじゃない。今里さんも俺も川嶋さんを何とか助けられないかと思ってる。だけど川嶋さんが抱えている事情が分からないと、どうしたらいいのか分からない。俺たちに何かできるのか、それとも助けようがないのか。でも何とかしたいと思ってるから、出来たら聞かせて欲しい」

 省吾の言葉を聞いて、祐里がふーっと息を吐いた。

 「小坂さんにはぜんぶ話します」

 覚悟を決めたといった様子で祐里が省吾の顔を見た。

 「柳瀬部長から呼ばれたんです。引っかかるものを感じたから私のことを調べたと言われました。そして履歴書の経歴が事実ではないことが分かったと言われました」

 「それで?」

 「そのことに間違いはないか?と訊かれました」

 省吾は祐里の言葉を待った。

 「間違いありません、と答えました」

 何故祐里は経歴を偽らなければならなかったのか。

 たしかに嘘はよくない。それは間違いのない事実だ。でも高校中退でも、中途入社や非正規雇用の社員ならば履歴なんて大して重要でも無いように省吾には思えた。

 「川嶋さんごめん、なぜ履歴書に嘘を書かなければならないのか、俺にはよく分からないんだ。なんで川嶋さんがそんなことをしたのか、想像がつかない」

 「そうですね。多分みんなそう思いますよね」

 祐里が省吾の顔を見た。祐里は僅かに笑みを浮かべていた。省吾にはその微笑みがひどく弱々しく見えた。

 「嘘を書いたのには事情がありました」

 「事情?」

 「その事情のせいで、わたしは高校を中退しました。そしていままでの生活をすべて失いました。それからは住むところも仕事も転々としました。両親とも離れて暮らしていたんです」

 生活をすべて失っただなんて、随分と大袈裟にも聞こえる言葉だと省吾には思えなくもなかった。

 でも祐里は黙ったまま、テーブルを見つめて動かなかった。

 「そういう事情があって高校を中退した。でもそんな事情を履歴書に書くことはできない。だから嘘を書くことにしたということなのかな?」

 「はい。高校を中退したことも、住むところと仕事を転々とした理由を訊かれても正直に答えられないんです。だからいっそ嘘を書いた方がマシかもって思うようになったんです」

 「その理由はそんなに知られたらまずいことなのかな?余程のことでなければ正直に言っても問題ないような気がするけど」

 「知られたらまずいというか、特殊なんです。きっと理解してもらえない。そういう特殊な事情なんです」

 「特殊な事情?」

 「はい。わたしの兄は、殺人事件に関わって逮捕されました。それでいま刑務所にいます」



 『わたしの兄は殺人事件に関わって、いま刑務所にいます』

 省吾は、祐里が言ったその言葉に、胸を殴られたような鈍い衝撃を覚えた。

 それはあまりにもリアリティのない言葉に思えた。そのせいか、目の前にいる祐里の姿も、まるでその場に実在しないような、実体の伴わない何か違うものに変化したようにも見えた。

 祐里は省吾の顔を黙ったまま、静かに見つめていた。

 「殺人事件に関わって刑務所にいるって、一体何のことだか……」

 「はい。わたしの兄が、わたしが高校二年生のときに、殺人の共同正犯で捕まったんです」

 「殺人の共同正犯?」

 「はい。ある暴行殺人事件に加担したんです」

 省吾はやけに静かな店内を見回してから、もう一度祐里の顔を見た。

 「共同正犯って、何? 共犯者っていうこと?」

 「いや、共犯ではない、お前も主犯だ、みたいな感じです」

 「じゃあ、お兄さんだけじゃなくて他にも何人かいたということ?」

 「はい。兄の他にもう一人いました。そして、その人と兄の二人がやったことですけど、どちらも主犯だという判断です」


 共同正犯という言葉を省吾は初めて聞いた。最も罪が重い主犯がいた上での、まだ罪を軽くしてもらえる共犯者ではなく、二人とも同等の責任があるということか。

 「殺す気はなかったと言ってますけど、結果的にはそうなりました」

 「じゃあ傷害致死ってこと?」

 「はい。兄はやり過ぎはマズイと思って途中でやめたらしいんですが、共犯者が興奮してしまって歯止めが効かなくなって、死なせてしまった」

 「じゃあお兄さんは途中でやめた。なら主犯じゃないんじゃ」

 「いえ、致命傷を負わせたのが兄かもしれない。それにそんなことより、兄は仲間を無理にでも止めなかった。死ぬかもしれないと分かっていながら見ていた。それはただ居合わせただけの幇助では済まない重い罪なんです」

 祐里がアイスコーヒーのグラスを手に持ってストローを咥えた。グラスの表面についた水滴がテーブルの上にこぼれ落ちた。

 まさかこんな話になるなんて、数分前の省吾には想像出来るわけが無かった。



 省吾はグラスを持った祐里の指先を見つめた。

 短く切りそろえられたピンク色の爪。逆向けのある指が痛々しく見えた。そんな荒れた指先からも、祐里の境遇や生活を察することが出来た。

 「お兄さんはなんでそんな人になったの?」

 省吾が訊いた。それから祐里を見た。祐里は落ち着いた表情で省吾を見つめていた。

 「小学生の頃は勉強の成績も良くて優等生だったんですけれど、私立の中学に入ってからグレてしまったんです。そこは有名な進学校だったんです。でも色んなことが重なって勉強に挫折したんです。そんな兄を教師だった父も母も許しませんでした」

 小学生だったときの自分を省吾は振り返った。そして、勉強をしろとはやかましく言わなかった自分の両親のことを思った。

 「それで高校に内部進学出来なくて、公立高校に入ったんです。でもそこで小学生だったときの兄を知る生徒たちと会うのが嫌で、高校を一年生でやめてしまって。家にもほとんど寄り付かなくなってしまって、半グレ集団の幹部クラスの人が経営していた飲食店で働き始めたんです。住み込みみたいな感じで。その頃から兄と家族はすっかり疎遠になってしまいました。そして事件が起きたのは兄が二十歳になってすぐの時でした」

 きっと祐里の兄は勉強漬けの少年時代を送っていたんだろう。それには自分の意思なんて介在する余地も無かったのだろうか。そして私立の進学校で挫折したことで心に傷を負ったのか。公立高校に進んだ彼を笑う人達もきっといたんだろう。

 「兄の半グレ集団に逆らう飲食店の社長を襲う計画が持ち上がったんです。地元の繁華街にいくつかのキャバクラやガールズバーを経営している人で、北筑前の暴力団にみかじめ料を払っていて」

 「じゃあ、殺したのは一般人っていうこと?」

 祐里が頷いた。それから話し続けた。
 
 「その人の後ろにいる暴力団と揉めたんです。兄の半グレ集団は暴力団よりもモラルが無くて凶暴でしたから、暴力団の縄張りを奪おうとしたんです」

 暴力団と揉めごとを起こす。そんな発想自体が省吾にはない。そのせいか、祐里の話は小説や映画のようにしか聞こえなかった。

 「でも暴力団との揉めごとは解決したんですが、その飲食店の店長さんが兄たちを裏切るようなことをしたらしくて。だからその人を襲撃することになったんです。ところが脅し目的で襲うつもりがそれでは済まなくなってしまって」

 省吾の人生には全く縁の無い筈の話だった。そんな事件に巻きこまれた人が現実に目の前にいる。

 「最初は殺すつもりはなくて、脅しと見せしめのつもりで酷いケガをさせるだけの計画だったらしいんです。でも仲間が興奮してしまってやり過ぎてしまったんです。でも殺された人はヤクザじゃない。一般人ですから」

 

 祐里がため息を吐いた。そのため息は、店内に満ちた静けさの中に吸い込まれて消えた。

 「すぐに警察が動きました。誰がその人を襲ったのかなんて、普段から警察は警戒していましたからすぐに分かったんです。仲間が逮捕されて、逃亡した兄は警察から指名手配されました。そして挙げ句にお金がなくなってどうすることも出来なくなって、民家に押し入ってその家に住んでいた夫婦に怪我をさせたんです。それでようやく逮捕されました」


 祐里の兄は一体どんな思いで逃げていたんだろう。省吾はその気持ちを想像してみた。祐里や家族のことを一度でも考えたのだろうか、それとも何も考えなかったのだろうか。

 「殺人の共同正犯と逃走中に民家に押し入ったことで強盗致傷です。この頃、警察は北筑前市の暴力団の壊滅作戦に取り組んでいたんです。兄の事件はその成果が出始めた頃でした。だから暴力団との抗争の末に一般人を襲った兄たちのことを警察は徹底的により厳しく取り締まりました。もちろん兄にはかなり厳しい判決が下りました。懲役十八年の実刑です」

 祐里には悪いが、人を殺して懲役十八年とは、刑が随分軽いような気もすると省吾は思う。それに強盗までしているなんて。目の前にいる大人しくて真面目な祐里からは全く想像も出来ない。省吾は次第に気持ちが沈んでいった。ただただ、もう耳を塞ぎたくなるような話だった。

 でも祐里は兄妹としてその罪を背負っている。向き合わざるを得ない状況にいる。省吾はそんな祐里の心の中を僅かにでも覗いてしまった。そこから吹いてくる風は冷たいだけではなく、血生臭い風だった。

 「ところが兄は控訴したんです。馬鹿でしょ? 兄もその弁護人も。信じられない。何が不服なんですか。争う余地なんてあるもんですか。それが棄却されて刑が確定して、いま熊本の刑務所で服役中です」

 祐里の口元が震えて歪んでいた。祐里の話の重たさと息苦しさに、省吾の気持ちも押しつぶされてしまいそうになっていた。 

 「その何年か前から北筑前市では、暴力団との揉めごとで一般市民が襲撃される事件が増えていたんです。みかじめ料を払うことを断った店のホステスさんが襲われたり、揉め事をおこした病院の看護師さんが襲われたり。それで警察も死に物狂いで取り締まって、おかげで暴力団は弱くなったんです。でも暴力団が弱くなったそんな中に半グレが入り込んだので余計に荒れたんです。だから兄の事件もテレビでも週刊誌でも散々報道されました。兄は二十歳でしたから実名報道されました。顔写真も公開されました。住所こそ公開されませんけれど、でも何県の何市に住む、ぐらいの個人情報は報道されます。」

 「思い出した。俺もニュースを観たよ」

 でも正直言って、その事件に省吾には関心がなかった。離れたところで起きた反社がらみの事件。自分の人生にも生活にも全く関わりの無い、他人事でしかない事件。

 祐里が省吾の顔を見た。祐里の口元が震えていた。顔色も悪い。このまま話し続けたら祐里は具合を悪くするんじゃないか。省吾は心配になった。

 「もうそれ以上話さなくてもいいよ。川嶋さんの事情は充分に分かったから」

 「いや、最後まで話させてください」

 声は震えていたけれど、祐里がはっきりとした口調で言った。

 

 「それからわたしの家族は地獄に落ちたんです」


29


 地獄に堕ちたと祐里が言った。ほんの一瞬、店内が静まり返ったような気がした。

 そして省吾はいつの間にか手を強く握りしめていたことに気がついた。手のひらは汗ばんで赤くなっていた。


 「うちは父も母も教諭でした。物静かな両親でしたが、勉強やしつけには厳しかった。そんな家庭でした。兄は中学生になってからおかしくなって……拘置されて面会に行った父と母に、俺がこうなったのはお前らのせいだと罵倒したんです。母は事件だけじゃなくてそのこともショックで寝込むぐらいになって」

 省吾は、犯罪者に身を落とした息子に罵倒された祐里の両親の胸中を想った。息子がとんでもない事件を起こして服役している。それだけでもいったいどれだけショックだっただろうと。

 「地元の暴力団が一般市民を相手に起こした一連の事件に、世の中の関心が高かったんです。あの街は手榴弾が飛び交ってるなんて揶揄されたりして。そこに兄たちの半グレまでが加わって」

 修羅の国なんて揶揄する人もいることを省吾も思い出していた。捜索された暴力団の組事務所から手榴弾だとか対戦車砲が出てきたなんていう、漫画の世界のような話まで飛び交っていたけれど、全て事実だった。

 「当然家にもマスコミの取材が激しくて、近所の家のインターフォンまて鳴らしまくって。だからご近所さんからは徹底的に避けられるようになりました。高校を辞めてからは兄の評判もあまり良くなかったから尚更で。それから両親の職場も、わたしと弟の通っていた学校もSNSや2ちゃんねるで特定されてしまったんです。住んでいたところにはもう住めなくなりました。誹謗や嫌がらせ。父と母の職場の電話は鳴りやまなくなって。中には家の前で張り込む人もいたし、壁に落書きされたり。表札を壊されたり」

 祐里がアイスコーヒーに口をつけた。

 「わたしも弟も学校に通えなくなりました。家から出るのが怖くて。同級生の父兄からもいろいろ言われてるのが伝わってくるんです。それで結局高校をやめました。それから弟と他県の親せきの家に逃げたんです。父と母も違う親せきを頼って引っ越しました。もちろん職は失いました」

 「そんなに簡単に特定されるんだ」

 「はい。私のことを知っている中学の時の同級生とか、そういう人達がわたしのことも書きこむんです。写真とかも」

 そんな風にして平気で同級生を売るのか。そう呟いて省吾はテーブルの上に視線を落とした。

 「晒されるんです。台湾のサーバーを使ったそういうサイトがあって」

 「晒すって、個人情報とかいろんなことを?」

 はい、と祐里が頷いた。

 「個人情報の保護を訴えても駄目なのかな」

 「日本の法律も適用されるんですが、台湾のサーバーだから管理人の所在を追跡するのが難しくて、ほぼ野放しなんです」

 悪知恵が働く奴もいるもんだ。省吾はため息をついた。

 「そしてわたしと弟は父方の伯父夫婦の養子になったんです。そのときに苗字が黒田から川嶋になりました。あたらしい高校にも通い始めたんですけど、そこでも何故だかバレて。その高校もやめました。それきり高校には通ってません」

 「高校を転校するのって珍しいから、かな?」

 「それもあったかもしれませんけれど、時期も時期だったし興味本位で調べる人がいたのかもしれません。わたしの名前も顔写真も晒されていたから、気付いた人もいたのかもしれない」

 省吾の脳裏には祐里に訊きたいことが次々と浮かび上がっていた。でも先ずは祐里に話したいように話させようと思った。

 「父と母は教師を辞めましたし、もうどこの教育委員会にも復職するのは無理でした。それから父は塾の講師になったんです。でもすぐに保護者にバレて。保護者たちが父を辞めさせろと大騒ぎして。それからも父は仕事を転々としてようやくトラックドライバーの仕事につけたんです。職場が互いのことをあまり詮索したりしない空気だったので、初めて何も問題も起きずに二年も続けることが出来た。それで父から呼ばれたんです。また一緒に暮らそうって。わたしたち兄弟は伯父夫妻からあまり良く思われていなくて、居心地も悪くて。それでわたしと弟はこの街にきました。でも何故か母がいなかった」

 もしかしたら祐里と伯父の間に何かあったのか。でも省吾もそれだけは無いと思いたかった。もし仮にそんな虐待があったら、いくら何でも祐里が気の毒過ぎる。そして祐里と弟がこの街についたときにはもう母はいなかった。その意味は省吾も察することが出来た。

 「母は兄の事件から二年が経ったころに自殺していました」


 自殺という言葉を聞いて、省吾の胸に言葉に出来ないやるせない思いと怒りが湧いた。母親が自殺した理由は何となく予想がついた。そしてきっとそれが正解だろう。

 「母は精神がおかしくなっちゃったんです。でも父はわたしと弟には心配かけたくないからって黙っていたんです。事件が起きたときは弟はまだ小学生だったんです。だから父は母が死んだなんて言いたくなかったんだと思います。そんな弟があまりにも可哀想で」

 ランドセルを背負っているようなまだ小さな少年には過酷すぎる境遇だろうと省吾も思った。

 「兄がしたことはとんでもないことです。決して許されないことです。わたしたち家族も一緒に罪を背負うのも当然なんだと思います。でも、弟はまだ九歳だったんです。転校して、また転校して、転校した先ではイジメられて。弟までこんな思いをしなければならないのかって。わたしと父と母はともかく、弟はまだ九歳だったのに」

 祐里の口調が少しずつどもったり、たどたどしくなっていた。

 「川嶋さん、大丈夫?もう話さなくていい。大体の事情は分かったから」

 「いや、話したいんです」

 消え入りそうな声で祐里がポツリと言った。

 「そんな悲しみの中でも、これでやっと少しは落ち着けそうだって思ったんです。そんな矢先に父が腰を痛めてしまって、足が痺れるようになってしまって。ずっと高校の教諭だったのに、四十代になって初めて体を使う仕事をして。たくさんの重たい荷物を積んだり降ろしたり、手で運んだり。ずっと無理をしていたんです。父が働けなくなる。わたしの収入だけではとても生活するのは無理。もう駄目だって思いました。貯金なんかする余裕も無いからとりあえずの生活費すらない。家賃も払えない。頼る親戚もいない。ただでさえ親戚に迷惑をかけていたんです」

 「生活保護は駄目なのかな?」

 「相談に行きました。でもわたしは若いからまだまだ働ける、ダブルワークでもっと稼げるはずだって言われて。結局とり合ってもらえないんです」

 生活保護なんて簡単に受給できる人だっているのに。若くて大人しい祐里は市役所の窓口で言いくるめられてしまったんだろう。結局は声の大きな人が得をする。

 「もう駄目だって思いました。あとはもう、家族のためにわたしに出来ることはひとつしかありませんでした」

 祐里の口から出た「わたしに出来ることはひとつしかない」という言葉を聞いて、省吾は嫌な予感がした。


 「風俗で働いたんです。二か月だけですけど。もうどうしようもなかったんです」

 祐里は窓の外をぼんやりと見ていた。窓の外には暗闇しか見えず、祐里の顔と天井から吊り下げられた照明の明かりが窓ガラスに映っていた。見えない何かを見つめているかのような祐里の視線の先を、省吾もじっと見つめた。

 省吾は風俗で働いている女性を卑しいとは思っていない。どうしたって性欲を処理できずに持て余す男だってたくさんいる。もちろん省吾の周りにも。でも風俗を意にそぐわない仕事として、それでも仕方なく向き合っている女性に対しては、残酷な仕事だと思っていた。

 祐里は、推し活のようなある意味で身勝手とも聞こえる理由で働いたわけじゃない。もっと切迫した事情で身体を使ってお金を稼ぐ。そんな女の子がいま目の前にいる。省吾の胸の奥がざわついた。

 なにも風俗じゃなくても、キャバクラとか、そういう類の水商売では駄目だったのかと訊こうとして止めた。そんなことを訊いたところでどうなると思ったし、目の前にいる祐里を見ていたら、キャバクラやガールズバーのような接客業が務まるようには思えなかった。

 「だから高校を中退したことも、そのあと地方を、職を転々としたことも、正直には書けませんでした。風俗で働いたことだけでも隠したかったし。そうしなければたぶん仕事には就けないと思って」

 祐里が俯いたままで言った。省吾は天井を見上げた。

 暫くの間ふたりはそのまま黙っていた。静謐だと思っていた店内にはBGM代わりのAMラジオの音や、いつの間にか客が増えていたようで、客同士の会話や物音で騒めいていた。

 息苦しい。省吾は無性に外の空気が吸いたくなった。

 「外に出よう」

 祐里が頷いた。



 ふたりは並んで歩いた。もうすぐ本格的な夏になる。でも日が沈んだあとは、まだそれほど蒸し暑くはない。

 薄暗い路地裏に時折風が吹いた。そよぐような弱い風だったけれど、幾分か涼しく感じられた。家々の窓から漏れる灯と、夕食の匂いが省吾の胸中に懐かしい感覚を思い起こさせた。

 祐里のいまの暮らしぶりを全て見たわけでもないし、知っているわけではない。聞いた話から想像するしかないけれど、穏やかな、慎まし気な幸せに満ちているというわけではなさそうだということぐらい、想像できた。


 風がそよいで、祐里の髪が僅かに揺れた。祐里の髪から嗅いだことがあるような、懐かしくもあるシャンプーの香りがした。

 「柳瀬部長が知ったのは、お兄さんのことや、言えない仕事のことなんだね」

 「はい。そう言われました。そんな訳アリの人に、この会社に残ってもらうわけにはいかないと」

 いったい何が問題だというのだろう。柳瀬の言い分が省吾は全く理解ができなかった。もし祐里のことが再び晒されるようなことがあったとして、うちの会社の名前が出たら世間体が悪いとでも言いたいのだろうか。弊社の従業員とは関係ありませんと云えば済むことじゃないのか。


 でもこのままでは省吾にはなす術もない。

 もう一度美玖を頼る。いや、それは絶対に出来ない。これ以上美玖に頼むわけにはいかない。祐里に対する気持ちを悟っている今、さすがに省吾にもそんな図々しい気持ちにはなれない。美玖にだってこれ以上なにかできるのか。俺が美玖ならばもういい加減にしてくれと思う。俺のことも許せないだろう。省吾はそう思う。

 省吾は空を見上げた。都会の明かりに照らされた、薄く濁った夜空だった。それでも薄い闇の奥にいくつかの星が瞬いているのが見えた。

 ここからは小さな光の粒にしか見えない夜空の星たち。そんな無数の小さな星たちにも、大きくて強い光を放つ星もあれば、いまにも消えてしまいそうな儚げな星たちもいる。それでも懸命に輝いている。わたしはここにいると、見つけて欲しいと一生懸命に力の限り輝いている。

 省吾は隣にいる祐里を見つめた。懸命に輝こうとしながらも、いまにも燃え尽きてしまいそうな弱々しい星屑のような女性がそこにいた。

 祐里が足を止めた。それから省吾を見上げた。

 「恩を仇で返すようなことをして、本当に申しわけありませんでした」

 無理に笑おうとしているせいで口元が歪んだ顔で微笑んでいた。

 「小坂さんが頑張ってくれたことが凄く嬉しかったんです。兄のことがあってから、こんなにも誰かから助けてもらえたのははじめてだったから」

 省吾は祐里の言葉を黙って聴いた。

 「今里さんや、みんなからも受け入れてもらえて。ずっとこのままこの職場で働きたいってはじめて思った。なのに、こんなことになってすみません」

 俯いた祐里の声が震えていた。雨に打たれている傘から雫が落ちるように涙が地面にこぼれて落ちた。


 祐里が顔をあげて省吾を見つめた。瞳に涙を溜めて、それでも笑顔をつくろうとして震えていた。


 「やっと上手くいくかなって思ったのに、どうしてこうなるんだろう。これから先もずっとこうなのかな……」

 祐里が省吾を見つめながら、震える声で言った。

 「堕ちたらもう這い上がるのなんて無理ですね。もう疲れちゃいました……」

 

 そんなことないとか、大丈夫だからとか、省吾は言えなかった。

 そんな事情を抱えていても、きっと何かしら生きていくことは出来るに違いないけれど、それと祐里の幸せはまた別のことだろうと思えたし、今回のことは祐里にとってはようやく掴みかけた小さな希望だった。それが失われてしまう。祐里には小さくはない挫折だろう。

 「川嶋さん」

 祐里が頬の涙を拭いながら省吾の顔を見つめた。

 思わず省吾は祐里を抱きしめた。何かの衝動に突き動かされて。そして省吾はその衝動に身を任せた。


 祐里のこめかみのあたりに頬を押しつけながら、祐里の吐く息の熱さを首の辺りで感じていた。省吾は祐里の胸や背中から、祐里の華奢な体つきを、軟らかさや体温を感じた。

 「川嶋さん、俺は君の力になりたい。でも、俺に出来ることはもう何も無いかもしれない」

 祐里は省吾の腕の中でじっとしたまま動こうとしなかった。

 「それでもなんとかしたい。何とかしてあげたいと思う」

 省吾にだって祐里を苦境から救い出す自信なんて無い。でも一緒にいれば挽回する機会だっていずれは訪れるかもしれない。

 「それでもいいのなら、俺は川嶋さんの傍にいる。見捨てたりはしない」

 祐里は省吾に抱きしめられたまま動こうとしなかった。省吾の顔を見上げようともしなかった。ただ、下げたままでいた腕を省吾の背中にまわして、省吾に強く抱きついた。


 これが俺の望んでいたことなのか。


 認めるもなにも、答えは出た。美玖のことも、それから先のことも、いまは考えたくなかった。


30


 省吾は今里の待つ居酒屋に向かって歩きながら、今夜の祐里のことを思い返していた。

 思ってもみなかった祐里の身の上話に驚かされ、それでも祐里を突き放すどころか、なんとかこの苦境から助け出せる術はないのかと思案している自分自身のことを、以前のように意外とも思わなかったし、戸惑いもしない。

 祐里を助けたいと言った。護ってあげたいと。それは自分の思いを伝えただけではなく、省吾にとっては恋愛感情を持っているということを告白したも同然だった。

 でも、愛しているとは言っていない。好きです、とも。

 省吾は自分の両手を見た。腕の中に、それから胸に、祐里の身体のぬくもりや感触がまだ残っていた。祐里の肌の匂いも、髪の毛の匂いも、はっきりと思い出すことができた。

 俺は一線を越えた。美玖のことを思えばきっと、裏切りの領域に足を踏み入れた。省吾はそう、はっきりと自覚した。

 たしかに愛の言葉を口にしたわけではない。祐里が俺の言葉を、咄嗟に抱きしめたことをどう思ったのかなんて関係ない。それに省吾には分かっていた。咄嗟に取った行動だったのかもしれないけれど、あれは間違いようのない、愛の告白のつもりだったんだと。



 今里が待つ焼き鳥屋が見えた。薄暗い路地を店内から漏れる明かりが照らしている。その温もりを感じる店の明かりと、客の騒ぎ声のせいだろう。死んだように静かな街角で、まるでそこにだけ命が宿っているかのように見えた。

 長身を屈め、省吾はのれんをくぐった。カウンター席に座る今里と目が合った。

 「どうだった?」

 今里が隣に座った省吾に訊いた。

 「ぜんぶ聞きました」

 「そうか」

 今里もそれっきり何も言わなかった。省吾もその方が有難かった。

 ついさっきまで祐里から聞かされた、すぐには消化でき無さそうな話と、それから思いきり抱き締めたら折れてしまいそうな、小柄で華奢な祐里の身体。祐里を抱きしめたときに感じた、どこか懐かしさを覚えるような洗剤とシャンプーの香り。

 そんな記憶と、もう少し浮ついていたかった。

 

 「もしかして今里さんは、川嶋さんのことを全部知っていたんですか?」

 カウンターの上を見つめたまま、省吾が口を開いた。

 「うん」

 今里が頷いた。それからビールを一口飲んだ。

 「川嶋さんのお兄さんの事件のこととか、それだけじゃなくて、もっと深い秘密というか、そういうことを全部?」

 もっと深い秘密と言おうとしたとき、省吾の胸の奥が痛んだ。

 「うん、彼女から全部聞いたよ。そういうのを心の中に、ずっと誰にも言えずに秘めておくのもつらいんだろうな」

 今里はじっと前を見たまま省吾の問いにポツリと答えた。

 「打ち明けてしまいたかったんでしょうね」

 「かもな」


 祐里も今里ならば、聞いてくれると思ったんだろう。秘密を守ってくれると信じたんだろう。誰にも言えずにひとりで抱えていくには、あの秘密は重すぎるかもしれない。そしてほんの僅かにでも、祐里の気持ちは軽くなったのだろうか。それに、分かったと言って欲しかったんだろうか。誰かに、せめて自分の苦しみだけでも、分かったよと言ってもらいたかったのだろうか。

 許して欲しいとは言わない。ただ、君が人には言えない重たい秘密を抱えながら生きている、そのことは分かったよと。それだけでも、きっと祐里にはほんの僅かな救いになったのだろうか。

 

 「だから川嶋さんを贔屓していたんですね」

 「贔屓?」

 何のことだとでも言わんばかりの表情をして今里が省吾の顔を見た。

 「前に川嶋さんのことを贔屓してるって開きなおったじゃないですか」

 省吾の言葉を思い出したのか、今里がにやりと笑った。

 「ああ、言った言った。贔屓してるって。うん、贔屓というか、目にかけてたよ」

 「それは川嶋さんのことを気の毒だと思っていたからですか?」

 今里も自分と同じように祐里の事情を知って同情したのだろうか。それとも自分と同じように、同情よりも深いところまで彼女の存在が入り込んでいたのか。

 もし今里が祐里に何かしらの特別な想いを抱いているとすれば、自分はどうすればいい。既婚者の今里が祐里に心を揺らしているとしたら。倫理? それとも道徳? そんな正論を持ちだして今里に講釈を垂れるのか。この俺ごときが。


 「気の毒か。たしかに気の毒だとは思った。でもそういうことではない」

 「それは川嶋さんを恋愛感情をかき立てる女性として見ていたとか、じゃないですよね?」

 省吾の問いかけを聞いて今里が手を振りながら笑い飛ばした。

 「ないない。俺は愛妻家だぜ。カミさんを愛してるんだから」

 そう言うと今里がふうと息を吐いた。

 「俺にもお袋がいなかった。そして姉貴に育てられたも同然なんだ」


 そういえば今里が自分の話をしているのを見たこともないし、聞いたことも無かったと、省吾は今更気がついた。

 省吾は今里の昔話を聞いたことがない。そんなことはもしかしたら当たり前のことなのかもしれないけれど、出身地が何処なのかぐらいは知っていても不思議じゃない。でもそれすら知らなかった。


 祐里の身の上話を聞き、そして今はこうして今里の身の上話を聞いている。きっと後になってから、今日のこの日を思い出すことがあるかもしれない。そんな日になりそうな、夜だった。

 「俺の親父は碌でもない父親でな。朝から酒飲んでばかりいる、ちっとも働かない親父だった。気が向いたら日雇いというか、知り合いの現場に行くんだ。それで僅かな金を稼いで、それを酒やパチンコに使っちまう」

 今里が手酌でビールを注ぎながら話した。

 「ある日、お袋が突然いなくなった。親父に嫌気がさして出ていったんだ。いまはお袋の気持ちも分かるけど、捨てられたと気付いたときはショックだった」

 辛い話だった。でも今里はそれを悟られないようになのか、淡々と。飄々と話した。それに省吾は救われた。

 「俺には五歳年上の姉貴がいたんだよ。その姉貴が高校をやめて働いたんだ。それで俺は高校を卒業することが出来て、この会社に入ることが出来た」

 「立派なお姉さんですね」

 一人っ子の省吾には、自分を犠牲にして弟や妹を助けるという感覚が分からない。でもそれが如何に大変なことか、でもどれだけ尊いことなのか、それぐらいは分かる。

 「川嶋さんが、そんな俺の姉貴に重なったんだ。事情は違えどもな、家族のために一生懸命働いている川嶋さんが、なあ? ほっとけないだろ」

 今里は祐里を自分の姉に重ねていたのか。

 今里の目が少し潤んでいるように見えた。でもそれは酔ったせいなのか、それとも違う理由なのか、省吾は詮索しようとは思わなかった。

 「姉貴はいい人と結婚出来て、いまは凄く幸せそうだよ。だから川嶋さんにも報われて欲しいんだよ」

 報われて欲しい。墜ちたら這い上がることも許されないのか。祐里の言葉が重く、胸の奥に沈んだ。



 省吾は家に帰ると乱雑に服を脱ぎ棄て、ベッドの上に両足を投げ出して座り、背中を壁にもたれてベッドサイドのランプの柔らかい橙色の光をぼんやりと眺めた。

 疲れ切っていた。着替えもせず、シャワーも浴びずにしばらくそのままの恰好でぼんやりとしていた。肩や背中に重たい何かを担がされているような気分だった。

 身体に貼りついている疲労を洗い流してしまおうと、シャワーを浴びた。シャワーを終えて部屋に戻り、冷蔵庫から冷えた発泡酒を出して、蓋を開けて喉に流し込んだ。


〈堕ちたらもう這い上がるのなんて無理ですね。もう疲れちゃいました〉


 祐里の言葉を思い返した。弱り切っているのに違いないのに、無理して笑おうとした祐里の顔も、抱きしめたときの感触も、思い返した。

 いや、まだ頑張れば這い上がるチャンスはあるから、なんて言えるわけがない。例え励ますつもりだったとしても、そんな無責任なことを言えるわけがない。平気でそんなことを言える奴がいたら、そいつのことを心底から軽蔑する。省吾は祐里の顔を思い出しながら、そんなことを考えた。

 やるせない気持ちがこみ上げてきて、省吾は飲み干した発泡酒の缶を握りつぶして、キッチンのほうに投げた。シンクの中に落ちたのか、金属のぶつかり合う音が響いて、闇に吸い込まれるようにして消えた。


 耳鳴りしか聞こえないような静寂だった。時折冷蔵庫から唸るような音が聞こえて、すぐに止んだ。

 省吾は二本目の発泡酒を開けて、口に流し込んだ。それからベッドに横になって、ボンヤリと天井を見つめた。

 祐里の再雇用に尽力してくれた美玖には、祐里のことを伝えておいた方がいいだろう。省吾はそう思いながらも、寝そべったまま動く気になれなかった。

 黙っていても、きっと美玖の耳には入らないだろう。だからわざわざ教えなくてもいいのかもしれない。でも何が起きたのかをきちんと伝えるほうが誠実だろう。でもそれだけなら憂鬱な気持ちになって、美玖に電話することを躊躇ったりなんてしない。

 俺は祐里に心を動かされていると、いや、もう俺は祐里に心を奪われていると、美玖にいつかは伝えなければならない。

 それとも黙っているか。黙っていて、何事もなかったように振舞うか。


 俺は祐里に愛を告げたわけじゃない。祐里は俺の気持ちをどう受け止めたのか分からないけれど、守りたいと、近くに居させて欲しいという言葉は愛の告白なんかじゃないと、抱きしめたのはあの時の雰囲気で、流れでそうなっただけだと、そう祐里には適当に誤魔化すことだってできる。

 最低だ。俺は最低だ。

 省吾は三本目の発泡酒を空けて、口をつけた。

 祐里がどう思っていようが知らないし、そんなことぐらい誤魔化せばいいだって?

 一瞬だけだとしてもそんなことを考えた自分に省吾は嫌気が差した。いつから俺はそんな風に物事を誤魔化そうとするようになったんだろう。


 ともかく美玖には祐里が解雇になるかもしれないことをきちんと伝えよう。そして美玖の尽力が無駄になりそうなことを、祐里の代わりに詫びる。そう決めた。

 省吾は携帯をとった。ディスプレイに写る美玖の笑顔を見つめた。

 美玖に電話するのは明日でもいいだろう。いや、明後日でも、何も今じゃなくてもいいだろう。

 暫くの間ぐだぐだと逡巡した。そうしてから、やっぱりいまじゃなければ駄目だと思った。

 ようやく美玖の電話番号に指で触れた。省吾は携帯を握る手に、じっとりと汗がにじむのを感じていた。部屋の空気が重かった。息をするのも少し苦しい気がした。


31


 「どうしたの? こんな時間に」

 電話の向こうから聞こえてきた美玖の声は、いつもの明るい声だった。でも気のせいか、僅かに警戒しているようにも思えた。でもそれは自分が気にし過ぎているからかもしれないと、省吾は思い直した。

 「こんな時間にごめん。美玖に伝えておいた方がいいかもしれないことがあって」

 「何? どうしたの? もしかして深刻なこと?」

 「いや、深刻というのとはちょっと違うんだけど」

 省吾はほんの少しの間、祐里の話をどう切り出そうかと迷った。そのせいで言葉が引っかかってすぐに出てこなかった。

 「川嶋祐里さん、もしかしたら解雇されるかもしれない」

 自分の言葉とはいえ、解雇という言葉を口にしたときに、省吾の胸に鈍い痛みが走った。

 二人のあいだに僅かな間が生じた。美玖が息をのむ音が聴こえたような気がした。

 「どうして?」

 「詳しくは言えない。個人情報だから。でも人事部長がそう判断したんだ。川嶋さんのことでは美玖にはさんざん手間を取らせたから、済まないって思ってる」

 たったこれだけのことを話すだけなのに、省吾は随分疲れたような気がした。気のせいだと分かっているのに、美玖の声には祐里へのざらついた感情が混ざり合って聞こえるような気がした。いつもの省吾には気にならない筈の見落としてしまう程度の感情が、電話を伝わって自分の耳に直接刺さった。

 「何があったの? 個人情報だからというのも分かるけど、わたしだってあれだけ関わったんだから、知る権利はあると思うよ」

 その通りだと省吾も思う。それでも美玖の言葉に何となく責められているような気がして、喉がからからに乾いた。窓の外では、街灯がぼんやりと灯っている。

 部屋の中は静かで、冷蔵庫の低い唸り音がやけに聞こえる。それ以外は省吾自身が時折立てる物音や、呼吸の音しか聞こえない。

 省吾はゆっくりと息を吐き、気持ちを整えた。そして真実には触れずに、事実だけを伝えることにした。

 「経歴に詐称があったって。彼女は高校を中退してたんだ。履歴書は高卒だったけど。それに彼女が働いていた会社も嘘だった」

 「なぜそんな嘘をつかなければならなかったの?省吾くんは知ってる?」

 「家庭の事情としか言えない。でも彼女は悪くないというか、責任は無い。家族の問題なんだ」

 美玖の息が、再び一瞬止まった。

 「高校ぐらいなら誰でも卒業できるのに、余程のことがあった、ということなの?」

 高校ですら通えない子もいるんだよ。省吾は内心でそう思った。

 美玖の言葉には無邪気な世間知らずさが滲みだしていて、省吾の胸に冷たい風が吹き抜けた。美玖が陽気で屈託がない分、そんな言葉が余計に冷たく聞こえて、部屋の空気が、急に肌寒く感じられた。


 でも、俺だってつい最近まではそう思っていた。派遣社員は努力を怠った人間のなれの果てだと決めつけて、祐里が雇い止めになることだって、自己責任だと思って、話を聴く必要なんてないと思い込んでいた。


 「そんなわけで、美玖にも世話になったのに申し訳なかったと思ってる。それからお父さんにも」

 お父さんにも。そう言いながら省吾の頭の中には美玖の父親の様子が思い浮かんだ。一度しか会ったことがないけれど、柔らかい物腰の、穏やかそうに見える紳士だった。それでも従業員数七千人を超える銀行のナンバー2なのだから、あの日省吾に見せた柔和な顔とは違う厳しい顔だって、当然あるだろう。

 「それは仕方ないから謝らなくてもいいよ。でも」

 「でも?」

 美玖の声が、少しだけ低くなった。心に秘めたものがゆっくりと浮かび上がろうとしているように、省吾は感じとった。

 「川嶋さんが辞めてくれることになったら、わたしは嬉しい」


 〈だよな。きっと、俺が美玖ならそう思う〉

 省吾は美玖の言葉をのみ込んだ。でも省吾の胸の奥で、何かが静かに沈んでいくような、波のうねりを感じたような気がした。省吾が身体を動かすとベッドが僅かにきしんだ。部屋の照明が普段よりも薄暗く感じられた。

 電話ごしに省吾の様子を察したのか、美玖が続けた。

 「ごめん、嬉しいって言ったら言い過ぎだよね。でも、わたしは川嶋さんには省吾くんの近くにはいて欲しくないと思ってる」

 さすがに言い過ぎだと思ったんだろう。美玖はそう取り繕うとしたけれど、そんな気持ちを隠す必要なんて今更ないだろうにと、省吾は少し皮肉めいた気持ちを抱いた。

 「俺が川嶋さんのことを好きになるかもって?」

 「そう。だから不安」

 きっとどれだけ時間をかけて言葉を尽くして説明しても、美玖の不安が消え去ることは無かっただろうし、それは美玖の問題ではなくて、普通はそういうものなんだろうと省吾は思っていた。

 でも、結果として美玖の不安は的中した。

 美玖は今どう思っているんだろう。祐里がいなくなるかもしれないと知って、やはり嬉しいんだろうか。でも俺の前で正直に喜ぶわけにもいかないだろうから、感情を抑え込もうとしているのだろうか。

 でも美玖の懸念通り、俺は祐里に惹かれてしまっている。それを知ったら美玖はどう思うんだろう。

 「省吾くんは川嶋さんを辞めさせたくないの?」

 不意に美玖が訊いた。

 「まあね。前から言ってるけど検査課にとっては痛手だよ。優秀な戦力だからさ。今里さんも落ち込んでいる」

 「検査課とは別に、省吾くんは? 川嶋さんを引き止めたいの?」

 『祐里を引き止めたいの?』か。いっそこのままの流れで、俺は祐里を引き留めたいし、祐里が辞めることも嬉しくなんかないと言ってしまおうか。そんな投げやりな気持ちが一瞬だけ浮かんで消えた。

 

 「いや。べつにもういい。仕方がない」

 事実、そうだった。省吾にも手が打てない以上、祐里を引き止めたいも何も、もう何も出来ない。でも、どうしても祐里の顔が頭の片隅に浮かんで仕方がなかった。あの儚げな横顔、面接を受けさせてほしいと必死に訴えた瞳、夜の街を並んで歩いたあの日の小さな背中。

 

 〈わたしは川嶋さんには省吾くんの近くにはいて欲しくないと思ってる〉


 そんな美玖の気持ちを傷つけることになるのは分かっている。でも俺は祐里を助けたい。省吾にはもう分かっている。祐里に対する思いは哀れみでも同情でもない。恋なんだと。



 電話ごしに、美玖が大きく息を吸う音が聞こえた。今から思い切って何かを言おうと、決意したかのような呼吸に聞こえた。

 「ねえ省吾くん、本当のことを言って。川嶋さんのこと、本当はどう思ってるの?」

 美玖の声は冷静だった。省吾の肌を焼くような熱は帯びていない、いたって冷静な声だった。

 省吾の身体に知らず知らずのうちに力がこもっていた。美玖の冷静な声が静かに、でも確実に省吾の身体から熱を奪っていく。美玖のその問いかけは穏やかだったけれど、省吾には鋭く尖っていた。

 きっと美玖のその言葉の奥には、抑えきれない猜疑心が渦巻いている。省吾にはそれが痛いほど感じられた。

 「うん。辞められたら惜しいよ」

 「惜しいとかそういうことじゃない。省吾くん、本当に川嶋さんのこと、何とも思ってないの?」

 美玖の声が少しだけ鋭くなった。抑えきれない感情が言葉の端々に滲み出ているのが省吾にも分かった。省吾の胸が激しく痛んだ。その痛みは誰に対しての痛みなのか。美玖を傷つけることへの呵責なのか、ただの自己保身なのか、どちらも正解のように省吾は思った


 祐里の兄が殺人犯だろうと、彼女自身は何も悪いことをしていない。ただ、家族の罪を背負わされて、毎日を必死に生きているだけだ。

 省吾にはもう、そんな祐里を突き放すことは出来ない。それを美玖の前で誤魔化すわけにもいかないと思った。

 「行き場所がないんだ。川嶋さんにはもう。これ以上、この会社を辞めたらもう行く場所がないんだ」

 「なにそれ?どういう意味?」

 「あの子の家族は訳アリなんだ。もう追い詰められてる。だから川嶋さんが会社を辞めさせられたら、あの家族はどうなるのか分からない」

 「それじゃあわたしも意味が分からない。ねえ、省吾くん、川嶋さんって一体何者なのよ」

 美玖には祐里が何者なのかを伝えるべきなんだろう。それは分かっていても、それでも省吾は躊躇した。

 「教えて。わたしは知る権利があると思う」

 省吾は覚悟を決めた。

 「あの子のお兄さんは犯罪者で、いま服役してる」



 電話の向こうで、美玖の息が止まったのが分かった。今までとは違う種類の沈黙が流れていると、省吾も感じた。そんな粘度の高い、重たい沈黙だった。

 省吾は目を閉じた。息苦しくなって、自分でも気付かないうちに呼吸を止めていたことに気付いた。部屋の空気が急に冷たくて重たくなった。スタンドライトの光がまるで蝋燭の灯のように、テーブルの上で揺れ動いているような気がした。

 美玖の反応は無かったけれど、省吾は続きを話すことにした。

 「それで彼女と家族は生まれ育った住んでところに住めなくなって、それからは転々としているんだ。仕事を探すこともままならないんだ。そんな中、ようやくうちの会社で働き続けられそうな希望が見えたんだ。だから、それを取り上げるようなことをしたくない」

 「服役してる、って、どんな罪なの?」

 それは軽い罪では無いだけに、省吾は口にするのを躊躇った。

 「傷害致死。それで懲役十八年だって」

 美玖の口調が、冷ややかで強いものに変化したのが省吾にも分かった。

 「省吾くん、川嶋さんがそんな人だって知っていたの?」

 「いや、最近知った」

 美玖がため息をついた。

 「でもね省吾くん、川嶋さんがそんな人だと知らなかったとしても、紹介した以上はお父さんが恥をかくんだよ?わかる?」

 「うん、そうなるよね」

 「そうなるよねじゃないの。そうなるのよ。それなのにまだ川嶋さんのことを気に懸けてるの?」

 省吾は何も答えられなかった。

 二人の間に、長くて重い沈黙が落ちてきた。電話の向こうで、美玖はどんな顔をしているのだろう。部屋の時計の秒針が静かに、しかし確実に進む音だけが静かな部屋に響いていた。

 美玖の声が、徐々に感情的になってきたことが分かった。美玖が心の中に抑えていたものが、ゆっくりと溢れ始めていた。

 「ねえ、傷害致死っていうことは殺人犯なんだよ? 川嶋さんはそんな人の妹なの。普通じゃないよ……あの人のお兄さんに殺された人にだって家族や大切な人がいたんでしょ?」

 祐里は普通じゃない人。美玖の言葉は正論なんだろう。世間が聞けば、ほとんどの人が頷くような、正しい言葉なんだろう。

 「ねえ考えてみて。川嶋さんのお兄さんが殺したのがわたしだったらどう思う?もし殺されたのが省吾くんだったらわたしは絶対に許さないよ」

 そんな極端な例えを持ちだされたら、否定することなんて出来やしない。

 「それでも川嶋さんを助けるって言えるの?ねえ?おかしいよ。省吾くんが理解できない」

 省吾は携帯を握ったまま、唇を噛んだ。

 美玖の言っていることも分かる。感情論だけど、人間としてそう思うことは間違いとは言い切れない。殺された側の家族の痛み、残された人たちの悲しみ。それらを思えば、祐里の家族を助けることなど反発されるに決まっているだろうし、日本社会では到底許されることではないんだろう。でも、心の奥底では、別の声が響いていた。

 祐里は悪くない。祐里はただ兄の罪を背負って生きているだけだ。

 高校を中退して嘘の経歴で働き場所を転々と変えながらも、弟の学費を稼ぎ、父親の治療費を払い、男の前で裸を晒したりしながらも、そんなふうに必死になって生活を支えている。そんな祐里を、ここで突き放したら、彼女は本当にどこにも行けなくなる。

 

 正論ではどうにもならない、祐里を助けてやりたいと思う気持ち。でもその気持ちは、やはり美玖の気持ちとは相容れない。

 

 省吾はようやく、掠れた声で言った。


 「人を殺したのは彼女の兄であって、川嶋さんじゃない。家族だから同罪だなんていうのはおかしい」

 電話の向こうが、静まり返った。次の瞬間、美玖の感情が爆発した。


 「同罪じゃないって、何言ってるの!?」

 美玖の声は、これまで聞いたことがないほど鋭くて、感情的だった。二人で暮らす家を見に行った後に見せた怒りとはまた違う種類の、燃え盛るような、激しい怒りだった。

 美玖が懸命に抑えていたものが、一気に溢れ出した。

 「たしかに同罪じゃないかもしれない。それでもね、殺人犯の家族なんだよ? 血の繋がった家族なんだよ? 兄が人殺しをしたのに、妹には関係ありませんなんて通用するわけないでしょ? 世間はそうは見ないよ、『あいつら一家揃ってろくでもない』って思われるに決まってるでしょ」

 美玖は大声で怒鳴り散らしているわけではない、抑制しようとしているのについ暴れ出す、言葉と言葉の隙間から漏れだす冷たい風が、電話ごしに省吾の心を冷やしていった。

 「ねえ、お父さんのことも分かってる? 省吾くんは本当に分かってるの? お父さんがどれだけ気を遣って、どれだけ省吾くんの顔を立ててくれたと思ってるの? そんな人の家族に一時的にでも関わったと知られたら、手を貸したってことがバレたら、お父さんの立場はどうなるの? 銀行の役員として、取引先や上層部からどう見られると思ってるの?」

 美玖の声が震えていた。

 「殺された人にだって家族がいるんだよ? その人たちの痛みはどうなるの? もしその人たちが、省吾くんやお父さんが加害者の妹を助けたって知ったら、どんな気持ちになると思う? わたしは嫌。もし川嶋さんが省吾くんを殺した犯人の妹だったら許せないよ。絶対に許せない」

 美玖の声に、疑念と怒りがはっきりと混じっていた。抑えきれなくなった感情が、言葉の端々に溢れ出しているように聞こえた。

 「それに、省吾くんは、なんでそんなに川嶋さんに拘るの?」

 美玖の言葉がさらに一段、低くなったように思えた。

 「わたしに頼むなんていうやりたくないことをしてまで助けようとして、お父さんにまで頼もうとして。その上に、まだ川嶋さんのこと見捨てられないって言うの? 理解できるかどうかは別にして川嶋さんの事情は分かったよ? でもね、なぜ省吾くんが川嶋さんにそこまでこだわるの?」

 なぜ? と美玖が省吾に訊いた。

 祐里のことが好きだから、助けてあげたいんだ。でも、それを言うとしても今じゃない。

 「ねえ、正直に言ってよ。本当は川嶋さんのことが好きなんじゃないの?わたしよりもあの人の方が大事なんじゃないの?」

 本当の気持ちを言うのはきっと今じゃない。でも、もういい。省吾は決めた。


 「ごめん、美玖。川嶋さんのことが好きだ」


32


 俺は祐里のことが好きだと、美玖に告げた。

 神父に罪を告白するのは、こんな気持ちなのか。それとも刑事に罪を自白するときも、こんな気持ちなのか。

 いや、美玖という恋人がいるのに祐里を好きになったことは罪なのか。罪なんだとしたら、どんな罪なんだろう。美玖の愛を裏切った罪。いや、俺は美玖を裏切ったのか。人を好きになってしまうことは、裏切りなのか。

 祐里の兄は罪を犯した。傷害致死という、れっきとした罪を。

 じゃあ、俺も罪の重さの軽重の違いはあるにしろ、罪を犯したという意味では祐里の兄と同類になるのか。

 「美玖、ごめん」

 それ以上何も言えなかった。沈黙の裏には、いったいどんな美玖の気持ちが潜んでいるのか、省吾は想像した。


 「省吾くんは川嶋さんのことを好きになったんじゃない。それは恋じゃない。同情と恋を履き違えているだけ」

 美玖が口を開いた。省吾は美玖の言葉を静かに聴いた。

 美玖の言葉にはそれなりの説得力があった。恋と同情を勘違いする。それはありがちな感情なんだろうと、省吾も思う。

 〈やっぱりそうかな? そうだよな? ごめん、俺の勘違いだったよ〉

 そう言ってしまえたら、楽になれるのだろうか。

 「ねえ省吾くん。川嶋さんの状況は理解できる。だから省吾くんが川嶋さんに同情するのも分かる。でもそれは恋なんかじゃない」

 美玖、違うんだよと省吾は思う。俺は川嶋さんの隣にいたいだけじゃない。川嶋さんのすべてを引き受けたいし、彼女の心が休まる場所になりたい。

 「美玖、俺も散々悩んだんだ。それに考えたよ。美玖を大切にしたい、幸せにしたいって思っている。でも、それ以上に川嶋さんのすべてを引き受けたい。彼女の止まり木になりたいし、もっと単純に、ドキドキするんだよ。彼女のことばかり考えてしまって、苦しいんだ」

 沈黙。硬くて重い、肌を押すような沈黙だった。

 「だから、ごめん。俺はもう美玖とは一緒にいれない」

 「わたしのことはもう嫌い?」

 美玖が訊いた。男女の別れ際によく聞く、縋るような口調ではなく、普段通りの淡々とした口調で。

 「嫌いになった訳じゃない。だから、俺も辛い」

 だから俺も辛いだなんて、随分身勝手な言い分だなと、ふと自虐的に思った。

 美玖は黙っている。まるで闇のような沈黙の向こうに球を投げるようにして、省吾は言葉を継いだ。

 「それでも、川嶋さんを選ぶことにした」

 そう答えてから省吾は、こういう場合は嘘だろうと事実だろうと、美玖のことはもう好きじゃないんだと、はっきりと言ってしまう方がいいのかもしれないとも思った。

 「川嶋さんをいつから好きになったの?」

 いつからなんだろう。最初から好きだったなんて言うことは、きっと無い。でも雇い止めを伝えたあの日、何かを感じたことは間違いじゃない。

 省吾は考えた。いまこうして美玖から問われる前に、いままで何度も自分に問いかけてきたことだった。

 「きっと、彼女の雇用が決まってからだよ。それから川嶋さんと関わる機会が増えたから、きっとそのせいだよ」

 「ねえ、川嶋さんのことが好きだったから、わたしに頼んだんじゃないの?」

 「それはないよ。絶対にない。それだけは無いから、信じて欲しい」

 美玖が黙り込んだ。いまの問いは、美玖にとっては一番大事な問いなのかもしれないと省吾は思った。祐里のことが好きだから美玖に祐里を助けて欲しいと頼んだなんていうことは、美玖にたいしてあまりにも不誠実でしかない。

 「じゃあ、わたしは川嶋さんのために利用されたんじゃない。それだけは信じていいのね?」

 「誓うよ。それだけは信じて欲しい」

 再びの長い沈黙だった。鋼のように重くて硬い、そして冷たい沈黙。


 祐里が好きだ。間違いなく省吾は思っている。でも省吾が誰を好きなのかということよりも、美玖にとって大切なのは、自分は利用されたのか、されていないのかというプライドの問題なんだろうか。

 ふと、省吾はそんな風に思った。


 「省吾くんは川嶋さんを助けることを勘違いしてる」

 美玖からの予想しなかった言葉に省吾は戸惑った。

 「勘違い?」

 「省吾くんは川嶋さんを助けることを罪滅ぼしだと勘違いしてる。小林くんを潰してしまったことを、川嶋さんを助けることで帳消しにしようとしてる」


 美玖から告げられた言葉が省吾の胸を刺した。

 小林。俺のせいで会社を辞めた後輩。体育会系らしい明朗さの裏に、見かけによらない精細さを隠していた男。省吾自身には覚えは無かったにしろ、熱心な指導が行き過ぎて休職に追い込んだこと。そして半年後、小林は退職した。


 小林のことは省吾には苦い思い出だった。省吾は十日間の停職処分を受け、翌年の春に検査課に異動になった。

 罪の意識。その意識から逃げていたのかもしれないと省吾は思った。熱意を逆手に取られるならば、必要以上にやる気など見せなくてもいい。同僚とはつかず離れずで、人間関係にも深入りする必要なんてない。ただ、与えられた任務だけを粛々とこなす。そんな省吾の選択は、逃げだった。

 それでも抜けずに抱えていた罪の意識。それを祐里を助けることで、罪滅ぼしにしようとしていたのだろうか。自分は優しさも持っている、まともな人間なんですと、自分でも確かめたかったのだろうか。

 「省吾くんは小林くんを退職させるまでパワハラで追い込んで、それからは人が変わったように大人しくなった。でもずっと引っかかっていたのよ、自分はマトモな人間だっていうことを、証明したかったのよ」

 「なんだよそれ? いくらなんでも」

 「いや、言わせて。わたしはずっと感じてた。省吾くんが停職処分になったときも、検査課に異動させられたときも、ずっと小林くんのことで人目を気にしていたんだって。だから汚名を挽回したかったのよ、自分自身にも、今里さんや松坂さんにも、俺はマトモな人間です、悪いのは弱かった小林ですって、ぼんやりとしてるふりをしながら、ずっと挽回する機会を探してたのよ」

 美玖は何故小林の名前を出してきたんだろう。咄嗟に出てくる名前じゃないはず。でもそう思っていたのは俺だけなのか。

 俺はマトモな人間ですと、挽回したいなんて思っていない。いや、それは自分がそんな気持ちに蓋をしていただけなのか。心の奥にはそんな思いが潜んでいたのだろうか。

 省吾は美久の言葉に揺れた。

 「いくら美玖でもいい加減なこと言うなよ。小林のことは関係ない」

 「省吾くんは川嶋さんを助けることで、自分は優しさも忘れていない、マトモな人間ですって、思いたいのよ。思わせたいのよ」

 「いい加減にしろよ、今更小林のことなんて関係ないだろ」

 「小林のことなんて、ってそんな風に言えるの?彼は鬱になったんだよ」

 省吾だって分かっている。小林なんて、という言い方で処理してしまえることではない。自分がしたことが、ひとりの若者の人生をゆがませた。

 「そうよ、省吾くんも罪人なのよ。川嶋さんのことは贖罪なのよ」

 美玖の言った「省吾くんも罪人」という言葉。頭から冷水を浴びせかけられたかのように、省吾の身体を濡らして、冷やしていった。

 そうだ、祐里の兄の話を聞いたときに祐里にたいして感じた想いは、贖罪という言葉に近いのかもしれないと、省吾は思った。

 でも、祐里にたいして感じた想いは、もっとシンプルな想いだった。省吾はあらためて考える必要もないくらい、祐里に恋をしている。祐里のすべてを知りたい。心のなかも、身体の隅々までも、何もかも。

 「美玖、言いたいことは分かったよ。たしかにそういう、贖罪めいた気持ちはあるのかもしれない。でも、」


 「いや、もういい」


 美玖の言葉には、一切の柔らかみも、湿度も無かった。そんな研ぎ澄ました冷たい鋼のような言葉が、省吾の首にストンと落ちた。


 「言わなくていい。もう終わり。わたしたちは終わり。わたしにはもう無理。省吾くんと一緒にいるのはもう無理」

 そんなことはないとか、ちょっと待ってくれとか、そういう言葉を言う必要は、もうない。それでも、まだ握りしめていた手綱をドスンと断たれた。その反動が、手綱を握り締めていた手首を捻るように、省吾の心を捩じり、痛めた。

 「ごめん」

 絞り出すようにして出した言葉も、届いていないような気がした。

 「省吾くんの好きなようにして。わたしはもう省吾くんとは関係ないひとだから」

 もう省吾くんとは関係ないひと。

 たしかにそうだけれど、美玖とこんな風に終わりたくなかった。そう思ってしまうのも、自分勝手なんだろうか。

 美玖のため息が聞こえた。

 「じゃあね、省吾くん。さようなら」



 美玖に電話をしようと決めたときは、こんな展開になるなんて、思ってもみなかった。

 あっけなく切れた電話から、沈黙だけが聞こえてきた。でもその沈黙こそが、いま省吾と美玖の間に起きたことをなによりも物語っていた。

 省吾は携帯を耳から離して、ベッドの上の足元に放り投げた。

 部屋の中は、まるで時間が止まったように静かで、重たく張り詰めている空気に身体を押しつぶされるような気がした。省吾はそんな重たい空気に耐えきれなくなって、部屋の窓を開けた。

 外の空気もぬるくて、凪いでいた。外灯の白い明かりがぼんやりと暗闇に浮かび、夜空を見上げても星なんて見えやしなかった。


 美玖は泣き言を一切言わなかった。考えなおしてとか、私ともう一度やり直そうとか、そういう類の言葉も一切言わずに俺の隣から消えた。

 美玖を悲しませるかもしれないとか、傷つけるかもしれないなんて思うことは杞憂だったのか、省吾はそう思った。それから、そんなことを考えていた俺は自惚ていたんだろうかとも思った。美玖は甘ったれた弱い女なんかじゃないと、いつの間にか忘れていたんだろう。

 美玖が拘っていたのは、俺と川嶋さんから利用されたかもしれないというプライドの問題だったんだろうか。それもひとつはあるだろうと省吾は思った。

 いつの間にか俺は美玖を弱い、守らなければならない存在だという風に勘違いしていたんだろうと、省吾はそう思った。だから別れ話になったら、美玖は弱い面をさらけ出して、泣くんだろうと思っていたのかもしれない。

 そうならなかったことを、省吾は安堵していた。それとも、電話を切ったいまは、身体を丸くして泣いているのだろうか、とも思った。

 

 (私は省吾くんのことが大好きなの。だから省吾くんのことを絶対に失いたくないの)

 公園で話した日、美玖は俺にそう言った。

 そんな美玖の俺への想いも、祐里の兄さんのことで帳消しになったのだろうか。祐里を許そうというのはそんなに罪深いことなのか。それに俺と美玖の三年間はこんなにも脆く、あっけなく倒れてしまう程度のものだったのか。

 きっと美玖には美学めいたものがあって、その通りに振舞って見せた。そして気高いまま去ったんだ。

 省吾は美玖のことを想った。でも、これでよかったんだと思った。不思議と後悔はなかった。


 後悔はなくても、心は痛んだ。


33


 美玖と決別して以来、省吾は何もする気になれなかった。目の前に積まれている仕事だけは、機械的にこなしていた。でも、それすらも手を抜いて雑にこなしているような気がした。そしてパソコンのモニターを見ていることにも疲れて、目を閉じると両掌で両目を覆った。手のひらの熱が心地よかった。

 省吾は目を閉じたまま、ここ数日の間に起きたことを思い返した。

 自宅待機処分の祐里のもとを訪ね、祐里の過去を全て知った。たとえその過去が細くて長い、足元が湿ったトンネルの中を手探りで歩くような過去だったとしても、省吾の気持ちに影が差すことは無かった。そんな祐里への思いが堰を切ったかのようにあふれ出て、省吾は祐里を抱きしめた。

 祐里のことが好きだと、そうはっきりと自覚した夜、美玖と別れた。美玖は弱みを晒すこともなく、気高く去った。美玖からの別れの言葉はあっさりしたものだった。結婚を間近に思い描いていた、そんな熱を帯びた二人の関係もすべてが無かったことだったかのように、あっけなく終わった。

 俺たちの関係は、繊細なガラスの器のような物だったのかもしれない、と省吾は思った。見た目は美しく整えられていた筈だし、大切に扱えば壊れることなんてなかった。でもその上に色んなものが入り過ぎて、重たくなってひっくり返って地面に落ちた。もし軽いままだったら、落ちても割れずに済んだのだろうか。

 そんなことを考えて何になる。美玖はもう戻ってはこないし、それは俺が望んだことだ。省吾はそう思いながら、祐里のことを想った。

 そんな祐里のもとを訪ねてから三日が経った。そして人事からはまだ何の音沙汰もない。

 

 「柳瀬部長も動けずにいるらしい」

 杉崎が今里に言った。杉崎もやきもきしているのが省吾にも分かった。

 〈課長だって落ち着かないだろうし、困ってるんだろうな〉

 「動けないというのは、川嶋さんの処遇を決めれずにいるということですかね?」

 「柳瀬部長が言うには、兼重専務から何の音沙汰もないらしいんだ」

 兼重専務に諮らずに独断で祐里を解雇する、そんな権限が柳瀬部長に無いというのも変な話だ。省吾は二人の会話を聴きながら思った。


 〈お父さんに恥をかかせたんだよ〉

 美玖はそう言った。たしかにその通りだろう。省吾でもそのぐらいは理解は出来た。美玖の父が脛に傷を持つ人を紹介したことを、兼重専務がどう捉えるのか。『渡辺さん、こりゃあとんでもないことをやらかしてくれたね』とでも思うんだろうか。

 それにしても祐里は不安だろう。いや、不安には思っていないかもしれないと省吾は思った。もしかしたら、もうこの会社を去る覚悟を決めて、どこかに歩きだそうとしているかもしれない。そしてもう一度風俗で働こうと考えていたとしたら。

 省吾の胸が痛んだ。そしてつい不安になって、祐里の様子を見に行こうかと悩んだ。いまからでも俺は祐里に会いにいきたいと、そう思った。そして、その気持ちに気付いて、省吾は更に落ち着かない気分になった。

 祐里は俺のことをどう思っているんだろう。省吾はそれを気にしていた。

 俺が祐里を抱きしめたとき、祐里は拒もうとしなかった。俺の背中に腕を回そうとしていた。でも、それだけじゃあ何も分からない。祐里は俺のことが好きだろうなんて、省吾にはとても自惚れるような余裕はない。

 祐里が好きだとも言っていない。もちろん祐里からも好きだとは言われていない。抱きしめたときに拒もうとしなかったのも、あの時は拒むとかそんな状況じゃなかったからだろうと省吾は思った。

 祐里には俺を突き飛ばす余裕なんて無かったはず。目の前の人が泣き崩れそうだったら、肩を抱いたりするのも不自然じゃないはず。でも抱きしめるのは、どうなんだろう。

 俺の片思いかもしれない。でも、それでもいい。省吾は椅子の背もたれに上半身を預けて、天井をぼんやりと眺めた。

 〈仕事を終えたら、祐里の顔を見にいこう〉

 そのとき、携帯が胸のポケットの中で震えた。

 ディスプレイには見知らぬ番号だけが表示されていた。登録していない番号ならば、出る必要はない。でも、何か予感がした。きっとこの電話には出たほうがいい。


 省吾は緑色の受信の表示に触れた。携帯から聞こえてきた声は、一瞬誰だか分からなかったけれど、聞き覚えのある声だと気付くのにはそれほど時間はかからなかった。

 あの人だ。省吾は声の主が誰なのかに気付いた。

 「はい、小坂です」

 省吾は緊張した。口の中が干からびたかのように乾いて、声を出しずらくなった。

 「小坂さんですか? 仕事中ですよね? 申し訳ない。渡辺です」


 渡辺さん。美玖の父の、尚久さん。

 〈お父さんに謝って〉

 省吾に迫った美玖の声が聞こえたような気がした。身体が重くなり、顔から血の気が引いていくような気分になった。

 それにしても尚久さんは何故この電話番号を知っているんだろう。美玖から聞いたのだろうか。

 「美玖の父の渡辺です。お久しぶりです。小坂さん申し訳ない。ちょっとだけ、いいですか?」

 「はい、構いません」

 声が掠れた。

 「前にお会いしたときに、今度ゆっくり小坂さんと会ってみたいと言いました。憶えておいでですか? それでね、よかったら、近々食事でもどうですか?」

 美玖と別れた直後の、何故このタイミングなんだろう。渡辺さんは何か狙いでもあるのだろうか。どうしても省吾には不安になる要素しか思い浮かばなかった。

 「小難しい、面倒な話をしようという訳じゃありません。緊張せずに、どうですか?」

 以前会ったときと変わらない、穏やかだがどこかに威厳を感じさせる、落ち着いた口調だった。

 どんなつもりがあって尚久さんは俺を誘っているのか、そんなことは今ここでぐずぐずと考えてみても分からないだろう。それに尚久さんはやくざ者のような因縁をつけてくるような人ではない。それでもなお、もし川嶋さんのことで詫びろなんて言われたら、黙って土下座でも何でもすればいいじゃないか。

 「はい。是非よろしくお願いいたします」

 もうどうにでもなれ。省吾は腹を括った



 電話を受けた翌日の夜、省吾は美玖の父である尚久が待つ店へ向かった。仕事を終えた省吾が尚久から言われたように本社棟の正面の車寄せに向かうと、その端の方に尚久が使う社用車の黒いクラウンが停まっていた。

 〈運転手付きの黒塗りに乗るなんて、まさかこんな機会が俺の人生にあろうとは〉

 省吾は運転手に促され、白いレースのカバーがかけられた後席に座った。運転手がドアをバスンと閉めた。その様子を通りがかった社員たちが怪訝そうな顔で眺めているのが見えた。


 黒塗りの後部座席から、省吾は窓の外を流れていく夕暮れ時の町の景色を眺めた。省吾が暮らして働く街から、高層ビルが立ち並ぶ都市部まで、車は僅かな振動を床から絨毯に伝えるだけで、静かに音もたてずに走っていく。

 俺はとんでもない人のお嬢様と付き合っていたんだ。

 本来なら出会うことも無ければ、もちろん交際するなんていうことも有り得なかっただろう省吾と美玖。

 信号で停まると隣に並んだタクシーの乗客と目が合った。その年配の男は怪訝そうな目で省吾を見ていたが、すぐに視線を逸らした。

 『違うんです。僕はこの立派な車の主ではありません。だからそんな目で僕を見ないでください』省吾は心の中でそう呟いた。それからどうしようもない収まりの悪さを感じて、窓の白いカーテンを閉めた。信号が青になって車が動いた。こんな車に乗っているだけで、俺は成功者だと勘違いされているんだとしたら、世間の目とは一体何なんだ。

 何てバカバカしいんだろう。そう、額縁だ。額縁さえ立派にすれば、肝心の絵が俺のような三流の絵画でも、世間の皆は俺を一流の絵画だと思い込む。

 所詮世間なんてそんなもんだ。みんな何も見てやしない。よく観れば俺がこの車にはそぐわない、安物のスーツに安物のネクタイをしているどこかの若造だと分かるだろう。でもみんなそんなところまで見たりはしない。額縁が立派ならばそれは名画なんだ。

 祐里は何なんだろう。棄てられても仕方がない薄汚れたポストカードだとでも思われているのか。

 どこかで拾ってきたような、まあ立派に見えなくもない額縁に入れたら祐里の人生も随分と変わるんだろう。そう考えたら、省吾はなんだかうんざりした。そして、もし俺が祐里の額縁になったらと考えようとして、止めた。


 車はオフィス街の外れにある物静かな一角に入り、年季の入った日本家屋の前に停まった。路地を少し入ったところにひっそりと佇む、控えめな看板が出ているだけのこじんまりとした天ぷら屋だった。

 暖簾をくぐると、カウンターが八席、それから座敷のテーブル席が三つしかない小さな空間だった。漆喰の塗り壁でしつらえられた店内には調度品も僅かしか飾られてなく、落ち着いた中にも温もりのある雰囲気で、上質そうな油の香りと、天ぷらの揚がる心地よい音だけが響いている。

 尚久はすでにカウンターの奥に座っていた。白髪の混じった髪をきっちりと整え、仕立ての良さそうな品の良いスーツを着こなした姿は、大手銀行の重役らしい威厳があった。しかし、その目には人を射るような冷たい鋭さはなく、穏やかで人間らしい柔らかさがあった。

 「おっ、小坂さん。呼び立ててしまって申し訳ない。今日は忙しかったですか?」

 尚久は省吾に気がつくと、満面の笑みを浮かべて隣の椅子を引いた。

 「お待たせして申し訳ありません。捗らない仕事があったものですから」

 尚久の物腰の低さに省吾は恐縮して何度も頭を下げた。尚久のような人がこんな小僧の自分を立ててくれようとしていると省吾は気付いて、胸の中に凝り固まっていた緊張が少し和らいだ。

 尚久の声は穏やかだった。省吾は深く頭を下げて、尚久の隣に座った。

 「飲みものはどうされますか?」

 「じゃあ、ビールをお願いします」


 省吾はすぐ隣に座る尚久の方に身体を向けて、頭を下げた。まず、祐里のことを詫びるほうがいいと思った。そんな省吾の様子に気づいた尚久は、黙って様子を見ている、そんな風だった。

 「渡辺さん、実は先日」

 省吾がそこまで言いかけると、尚久が手を振った。

 「いや、小坂さん、美玖から聞きました。たぶん、そのことで頭を下げてらっしゃるんでしょう?」

 省吾は頭を下げたまま、尚久の言葉を待った。

 「小坂さん、そんな事気にしなくていい。美玖に何か言われたのかもしれませんが、川嶋さんという方の事情は私は全く気にしていませんし、それに、」 

 省吾は恐る恐る顔を上げて尚久を見た。尚久はいつも通りの微笑みのままで、省吾を見ていた。

 「それに、小坂さんと美玖のことにしても、アイツだってもう大人なんだから、私も一々口を出したりしませんよ」

 もういいから、気にしなさんな。そう言いながら尚久は省吾の腰を軽く叩いた。安堵したせいか、省吾は力が抜けて、身体ごと椅子にのめり込んでいくような気がした。

 省吾は尚久に心を掴まれた。目の前に座っている尚久は、身体はそれほど大柄ではないが、身体の内側には巨大な何かを秘めている、そんな気がした。それが何なのか、その正体は省吾には分からないが、怖ろしくもあり、慈悲深いものにも感じられた。

 「まあ、今夜は楽しくやりましょう」

 「はい」

 省吾は、尚久のことを信じていた。出会ってすぐに心を許すことは、省吾には珍しいことだった。


♫ 


 省吾は背筋を伸ばし、言葉を選びながら尚久と話した。最初は軽めの世間の話題から経済の話、それから僅かに政治の話などをしながら、合間合間に省吾に「小坂さんはどう思う?」と訊ねてくる、そんなやりとりを交わした。

 省吾は相槌を打ちながら時折質問のような問いかけをしつつ、出来るだけ正直に、自然に答えようと努めた。

 〈そう。今更この人の前でいい恰好を見せたって仕方がない〉

 開き直るとか、そのせいで雑に対応するわけではなく、ごく普通の小坂省吾として誠実に尚久に向き合うと決めた。当然、下心など一切持つ気は無い。


 時間が経つにつれ、尚久の話し方は少しずつ柔らかくなった。

 天ぷらの季節の素材や、職人の技について語り始めると、尚久の表情が楽し気に緩み、生き生きとしてきた。

 「今日は軽いのがいいな。キス、もらおうか」

 尚久がカウンターの向こうの大将に伝えた。油の音が少しだけ高くなった。

 「こういう店、初めてです。だからどうしたらいいのかもよく分からなくて」

 省吾は正直に言った。尚久の表情が緩んだ。

 「最初はみんなそうですよ。難しくなんて考えなくてもいいんです」

 省吾は尚久の言葉に耳を傾けた。

 「物事を最初から上手くできる人なんて、そう居ませんから。だから、分からないことは分からない、知らないことは知らない、そう正直に言って教えを請えばいいんです」

 尚久が箸を止めて、衣の色を見た。

 「今の時期はね、軽いのが旨いんです。それには余計なことをしないほうがいい」

 「余計なこと、ですか?」

 「そうです。うん」

 尚久が頷いた。

 「物事を知らないうちはね、ついつい足したくなるんです」

 皿に置かれたキスの衣が、音もなくサクッと割れた。

 「でもね」

 ひと口食べてから、尚久は続けて言った。

 「足さない勇気のほうがね、後で効いてくるんです」

 省吾には尚久の言葉の意味が分からなかった。

 「難しいです。僕はつい黙ってしまう。話し過ぎても碌なことにならなくて」

 美玖の顔が、それから辞めていった小林の顔が浮かんだ。

 「分からなくていい、今はね」

 尚久が手酌で日本酒をお猪口に注ごうとしているのに気付いて、省吾は慌てて手を出した。

 「冬になったら、また来たいですね。白子が出る。あれは火の入りで全部変わる」

 「はい」

 尚久は箸で天ぷらを一つ摘み、ゆっくりと口に運んだ。


 カウンターの向こうで職人が静かに天ぷらを揚げる音が、心地よいリズムを刻んで、店内に満ちている。客層が上品だから、大声で話すような客もいない。省吾には縁の無かった世界だったけれど、心地よさが静かに心を満たしていた。

 尚久は自分のグラスを軽く回しながら、ふっと微笑んだ。

 「日本酒は好きですか?」

 日本酒はあまり飲んだことが無い。省吾は首を横に振った。

 「あまり詳しくは。普段はビールや焼酎を飲むことが多いです」

 あ、ほとんど発泡酒ですと付け足すと、尚久が笑った。

 「そうか。じゃあ少しだけ語らして下さい」

 相変わらず尚久の声は穏やかで、言葉も姿勢も、酔っても崩れることが無い。

 「純米大吟醸という酒があります。最高級の日本酒です。コメを磨き上げてね、半分ぐらいの大きさまで削るんです。すると雑味が減る。それからは温度を管理しながら発酵させる。すると、香りの華やかなスッキリした味わいの酒になる。フルーツのような香りがするんです。バナナやリンゴのような。これが旨い」

 尚久が手酌でお猪口に注いだ。それを省吾はうっかり見過ごしていた。

 「そんな手間隙かけた純米大吟醸も確かに美しい。華やかで、香りが立ち、口当たりが滑らかです。特別な席にふさわしい酒です。でもね、料理によっては合わないんです。香りやね、華やかさが料理と喧嘩することがあるんだな」

 省吾は黙って尚久の話を聴いた。

 「僕は、素朴な純米酒の方が好きなんだ。高級じゃない。派手さもない。磨きも控えめで、だから米の旨味と酸味が出ている。癖があるものもある。でも飲み進めていくと深い。素朴だけどね、風味が強いんです。冷やさなくても、ぬるくても旨い。体に染み込むような、静かな力強さがある」

 尚久はお猪口の酒をぐっと飲み切ると、目を細めた。

 「人間も同じだと思いませんか。華やかで完璧に見える人間は、確かに魅力的です。でも、本当に信頼出来るのは、派手さはないけれど、芯があって、苦労を重ねてきた人だったりします。僕自身も、若い頃は大吟醸のような華やかな人間になりたかった。でもね、人が嫌がる仕事を必死にこなしてきた。何度も心が折れそうになりながら、必死に生き延びてきた今はね、純米酒のような人間の方が尊いと思うようになった」

 省吾は尚久の言葉を、静かに聞いた。

 日本酒の香りが、鼻腔をくすぐる。カウンターの向こうで、天ぷらが揚がる静かな音が、心地よいBGMのように響いていた。

 尚久はお猪口を置いて、穏やかな目で省吾を見た。

 「小坂さん、あなたはは債権回収という仕事がどんな仕事だか知っていますか?」

 省吾は少し身を乗り出して首を横に振った。

 「いや、詳しくは知りません。銀行が企業から債権を回収する仕事だと、ざっくりとしか」

 

 尚久はじっと省吾の目をみつめた。


34


 〈債権回収という仕事を知っていますか〉

 尚久からの問いはなにやら唐突のような気もした。でも、もしかしたら今夜、尚久が一番伝えたいことは、今から話すことなのかもしれない。省吾はそう感じた。

 「そう、ざっくりと言えばその通りです。ただ、実際はもっと厳しい。倒産寸前、あるいはすでに倒産した企業の残った資産を、可能な限り回収する。ようは、取り立てです」

 省吾は頷いた。気軽に聴ける話じゃないと、予感した。

 「毎日毎日、融資先からは泣きつかれる。上司からは厳しく叱責される。こんな仕事はもう辞めよう、今日こそ辞めようと思いながら、辞表をカバンに入れて働いてました。融資先の社長が泣きながら土下座する夢を何度も見ました。従業員の生活、家族の未来を背負った人間が、必死に頭を下げて『もう少し待ってくれ』と懇願する。僕はそれを、冷たく突き放さなければならなかった」

 尚久の声は変わらず穏やかだったが、そこからは何やら重たい物が擦れて軋む音が聞こえてくるように思えた。

 「親しくさせていた融資先があってね、そこから契約を獲ったのは僕だったんです。それが、二年ほどしたら、そこが危ないっていうことが分かった。黒字なのに連鎖倒産するかもしれないと。それを知って慌てて駆け付けました。社長と話すとね、お願いだから三か月待ってくださいと。あたらしい取引先が見つかれば大丈夫なんだと。でもね、待てませんでした」

 「そこにはね、私立の中学に通う娘さんが二人いたんです。見かけるとね、いつもぺこりと挨拶してくれる。可愛らしいお嬢さんだった。それが、社長と奥さんに返済してくれと伝えている時に、奥から心配そうな顔をして僕をじっと見てるんです」

 「それで、どうなったんですか?」

 尚久が省吾のグラスにビールを注いだ。それからお猪口を手にして、ぐっと酒を飲みほした。

 「規定通りにやりました。一日たりともね、延ばしませんでした。全部、きれいに終わらせました」

 尚久はぼんやりとした眼差しで物思いに耽っているように見えた。省吾は何も言えなかった。

 「でもね、あのとき三か月待てなかったのかと、たまに思う」

 ぽつりと尚久が漏らした。でも、時は巻き戻せない。尚久の言葉が、省吾の心に沁みた。


 場の空気を変えようとしたのか、尚久が笑顔で省吾に訊いた。

 「美玖が幼い頃の話をして良いかな?いや、良くないかぁ」

 尚久は心地よく酔っているように見えた。最初から比べると、姿勢も言葉も柔らかくなっていた。

 「いや、全然大丈夫ですよ。むしろ聴きたいぐらいです」

 むしろ聴きたいぐらい、なんていうことはなかったけれど、省吾は尚久が話したいことを遠慮せずに話して欲しかった。

 尚久は少し考える様子を見せてから、ゆっくりと口を開いた。


 「美玖はね、早産だったんです」

 省吾は少し驚いて顔を上げた。

 「美玖が、早産だったんですか?」

 初めて聞く話だった。そういえば美玖自身も、幼い頃のことはほとんど話さなかった。省吾は急に、美玖の小さな頃の姿を想像して、胸の奥が騒いだ。

 尚久は静かに頷くと、少し遠い記憶をたどるような目つきで、カウンターの奥を見ていた。

 「美玖は早産だったんですよ。予定より二ヶ月も早く生まれたんです。生まれたときは本当に小さくて、保育器に三ヶ月も入っていました。でもね、あの頃の僕は、債権回収の部署で毎日心が折れそうだった」

 省吾は息を詰めて尚久の言葉を聴いた。

 〈あの明るくて元気な美玖がそんなに小さかったなんて〉

 尚久の声が、少し低くなった。

 「ある夜、病院から緊急の連絡が来たんです。美玖の容態が急変したというね。僕は遅い時間まで残業していましたからね、急いで病院に駆けつけたんですよ。保育器の中の美玖は、まるで今にも消えてしまいそうな、ちっぽけな命だった。それでも懸命に生きようとしていました。あの美玖を見た瞬間、僕は誓ったんですよ。この娘を守る。この子のためになら、俺は鬼になると」

 尚久の目が、少し湿っているように見えた。

 「それから僕は変わった。もう泣きごとは言わないと。彼らには守らなければならない家族や従業員、会社がある。でも僕にも守らなければならない家族がいる。腹を括ったんです。それからは容赦なく債権を回収するようになりました。町工場を倒産に追い込み、その家族を路頭に迷わせたこともある。付き合いの深かった社長一家が、夜逃げで姿を消したこともあった。その家にはね、中学生と高校生ぐらいの姉妹がいたんです。僕を睨みつけていたその子の形相を、今でも時々思い出します」


 尚久はそこで一度言葉を切り、省吾の顔をじっと見た。

 「小坂さん、率直に聞かせて欲しい。どうしても川嶋さんを助けたいのですか?」

 唐突な問いだった。省吾は驚いたし、戸惑った。

 尚久のその問いは静かだったが、重かった。そして、尚久の視線は省吾から逃げ場を奪うかのように真っ直ぐだった。


 省吾は一瞬、言葉に詰まった。胸の奥で、さまざまな思いが激しくぶつかり合った。

 どうしても祐里を助けたいのか?きっと正論では美玖の言う通り、祐里は人殺しの妹で、世間からの理解は得られないだろう。

 犯罪加害者の家族を助けることが、世間的には禁忌とされていて、尚久さんや美玖にも迷惑をかけるかもしれない。省吾はそれも分かっている。それでも祐里の儚げな横顔、必死に生きようとする姿、思わず抱きしめたときの泣き顔も、華奢な身体も、省吾の頭から離れない。

 正論しか通らない逆風の中で、助けを求めている人間がいる。俺は、祐里を助けたい。


 省吾はゆっくりと息を吐き、掠れた声で答えた。

 「はい。何とかして、助けたいと思っています」

 尚久は静かに頷いた。

 「小坂さん、もう一度教えて欲しい。何故川嶋さんなんですか? 世間には川嶋さんのように困っている人はたくさんいる。小坂さん、今助けようとしている人が仮に、川嶋さんではなかったら、それでも小坂さんは助けようとするんですか?」

 尚久の声には、父親としての優しさと、厳しい世界を生き抜いてきた人間の強さが同居していた。

 「はい。助けたいと思っています」

 尚久は頷いた。その表情は厳しくも、優しかった。

 「目の前に傘をもたずに雨に濡れている人がいるならば、傘を貸すのに理由は要らないと思ったんです」

 尚久は省吾の言葉を黙って聴いた。

 「たしかに、川嶋さんは親しい同僚です。でもそれとは関係なく、川嶋さんは僕の目の前で雨に打たれて濡れている人でした」

 省吾は尚久の顔を見た。尚久が頷いた。

 「川嶋さんのことは美玖から聞きました。苦労されてるんだな、とね。それも彼女自身のせいじゃない。たしかに世間の目は厳しいだろう。でも懸命に生きている人を助けたいというのなら、その気持ちを僕は否定しません」

 省吾は頷いた。尚久からこの言葉を聴けただけでも、この時間は無駄な時間ではない。これでもう充分かもしれない。省吾はこれで納得しようと思った。

 尚久がふたたび語った。

 「小坂さん、銀行はね、晴れの日に傘を貸して、雨が降り出したらその傘を取り上げる、そういう奴らだって言われるんです。たしかにそうかもしれない」

 尚久はじっと省吾を見つめていた。その目はどことなく、美玖に似ていると思った。

 「僕は随分多くの人たちから傘を取り上げてきた。もちろん感謝されたことだって沢山ある。でも、土砂降りの中、ひったくるようにして傘を取り上げたこともあった。夜逃げしたあの姉妹は今、どうしているんだろうと思いだすこともある」

 非情な話だった。尚久が背負うものの重さを、省吾は想像できなかった。

 「まあ、僕は地獄に落ちるでしょう」

 そう言って尚久は笑った。そんな尚久を見て、省吾は笑う気にはなれなかったけれど、尚久が心に宿す業を見たような気がした。


 「小坂さん、兼重さんとは面識はありますか?」

 尚久が唐突に訊いた。

 「いや、全くありません」

 兼重という名前を聞いて、省吾は戸惑った。

 「小坂さん、あなたと兼重さんを繋ぎましょう」

 省吾はハッとした。ようやく尚久が言わんとしていることが分かった。

 「兼重さんには、小坂さんの話を聞いてやってくれと伝えます。だから……」

 省吾は息をのんだ。思わず前のめりになった。

 「……だから、いいですか?そこから先は小坂さん、あなた自身の力でやりなさい。いいですか、川嶋さんのことは、あなたがやる。いいですね?」

 僕に出来るのはここまでだよと言って、尚久は微笑んだ。

 省吾は礼を言おうとして、言葉に詰まった。ただ、精一杯の気持ちを込めて頭を下げた。

 「ありがとうございます。本当に、申し訳ありません」

 尚久は静かに笑った。省吾は深く頷いた。胸の奥が熱くなり、同時に責任を感じて重くなった。

 「小坂さん、僕はあなたが美玖の恋人だったから、こうして席を一緒にしている訳じゃない。それに、それだけのことで助けようとかはね、思いませんよ」

 少し意外とも思える尚久の言葉だった。省吾は黙って尚久の言葉を聴いた。

 「僕は銀行マンです。お金を貸してくれという、相当たくさんの人とね、今まで数えきれないくらいに会ってきました。いろんな人がいましたよ。だから僕にはそれなりに人を見る目はあるはずです。だからね、投資に見合わないという人とは取引はしない。いいですか、小坂さん。僕は君を見込んだんだよ。だから自信を持ってください」

 「ありがとうございます。本当に、何と言えばいいのか」


 省吾は頷いた。胸が熱くなった。言い表せない感動が、省吾の心を揺らした。



 帰りのタクシーの中で、省吾は窓の外をぼんやりと眺めた。都会の明かりが、煌めきながら流れてゆく。

 尚久の言葉を、頭の中で何度も噛みしめていた。

 これまで自分は、尚久のような人間を自分とは違う、ある意味特殊な人間なんだと思っていた。どこか得体のしれない、怖ろしい人間だと決めつけていた。もちろん現実には、富や権力に取りつかれた、そういう人間の方が多いだろう。

 大手銀行の副頭取という肩書きの尚久のことも、畏怖のような気持ちで見ていた。恋人の父親でもあったから、そういう緊張もあった。でも今夜、省吾の目の前にいたのは、そんな冷たくて得体のしれない権力者ではなかった。

 ただの一人の男だった。それと同時に娘を心から愛する父親だった。美玖という小さな命を守るために「仕事の鬼」になると誓った男がそこにいた。債権回収の現場で毎日心が折れそうになりながらも、地獄の釜の淵を必死に歩いてきた、家族のために戦ってきた男。

 〈まあ、僕は地獄に落ちるでしょう〉

 そう呟いた尚久は冗談めかして笑ったけれど、眼差しには影が差していた。そんな過去の悔いを抱えながらも、今なお自分に任された責務を果たし、家族を守る男。その姿を目の当たりにして、省吾は自分の未熟さを痛いほど思い知った。

 俺はまだ何も守れていない。守ろうともしてこなかった。美玖を幸せにしたいと思いながら、中途半端な振る舞いを続けた結果、彼女を傷つけた。祐里を助けたいと思いながら、自分の力では何ひとつ出来やしない。信念に固執してきたつもりだったのに、そのせいで後輩を潰した。結局それはただの偏狭な頑固さでしかなかった。


 タクシーの窓ガラスに、自分の顔が映っていた。

 省吾の目から、涙がこぼれた。

 何故涙がこぼれたのか、省吾にも分からなかった。静かに音もなく頰を伝う涙を、手のひらで擦った。街の明かりが霞んだ。

 俺は何にも分かっていなかったし、分かろうともしていなかった。ただ、小林を辞めさせたことを自分のせいにはしたくなくて、拗ねて逃げた。何事にも深くかかわらないようにして、弱い自分を誤魔化そうとしてきた。

 だから美玖にも中途半端な接し方しかできなかった。美玖の気持ちを考えているつもりでも、結局は覚悟も座っていなくて腰が引けていた。どんなに傷つけていたかも知らずに、そうして安穏となにも気付かずにぼんやりと生きてきたんだ。

 尚久さんは、闘った。そして、勝ち抜いてきた。拳からを血を流しながら、尚久さんなりの覚悟で闘った。そして、こんなにも駄目な俺のことを助けようとしてくれる。


 何度手の甲で拭っても、省吾の目から、涙がこぼれた。

 かならず祐里を助けると決めた。見返りなんていらない。別に、祐里と結ばれなくたっていい。

 

 タクシーは夜の街を、静かに走り続けていた。


35


 省吾はいつものように定時で仕事を終えると、自宅とは反対方向に向かう電車に乗った。

 車窓から見える景色は知らない景色ではないけれど、こんな夕暮れ時の、建物に西日が当たってオレンジ色に輝く様子を見るのは初めてだった。違う街に引っ越した最初の頃に感じるような、入学したばかりで校舎や教室にまだ馴染んでいない時のような、新鮮さや懐かしさが入り混じったような、そんな不思議な気分に浸った。

 電車に乗ってからふた駅目で降りた。知っている駅だけど、片手で数えるほどしか使ったことが無い駅だった。駅の周りの景色も知らない訳じゃない。でも省吾が見ている景色は、今までとは違う意味を持った、非日常的な風景で、特別な場所のような気がした。

 ほんのしばらくホームから周辺の景色を眺めてから、階段を下りて地下の改札口に向かった。改札口のすぐ向こうに、祐里が立っていた。

 「呼び出してごめん」

 省吾が声をかけると、祐里が首を横に振った。

 「元気かなって気になって。どうしてるかなとか」

 祐里は無言のまま、微笑んだ。

 省吾は、何となく気恥ずかしく思った。素っ気ないわけじゃなく、ただ無言でいる祐里の態度も、省吾を少し緊張させた。

 「お腹空いてる?」

 「はい」

 「じゃあ、どこかで夕飯食べようか」

 祐里が黙って頷いた。省吾も無言のままで、ふたりは駅の外へと歩き出した。


 階段を上って外に出ると、すぐ目の前に商店街があった。省吾はこの商店街の中なら、ファミレスやファストフードでも、とりあえず何かあるだろうと見当をつけて歩いた。

 省吾は隣を歩く祐里を見た。改札口で会ったときに気付いていたけれど、祐里は先日会ったときのようなスウェットのフーディにデニムパンツといったラフな格好ではなくて、半袖のワンピースを着ていた。白いオックスフォード生地の、サックスブルーのキャンディストライプのワンピース。靴もいつものアディダスのスニーカーではなくて、紺色のニューバランスのスニーカー。

 祐里には青が似合うと省吾は思った。ワンピースも祐里によく似合っていた。美玖とはぜんぜん違うスタイルだけど、安っぽいとも思わないし、地味だとも思わない。

 林と会う時は、こういう服を着ていたんだろうかと、省吾は思った。林に色々買ってもらったりしていたのだろうか。そんなことも考えて、複雑な気分になった。

 そういえば林とは今はどういう関係なんだろうと、ふと省吾は思った。以前付き合っていたと聞いたけれど、そのことを省吾はぜんぜん知らなかったし、その後の二人がどういう関係でいるのかも知らない。片思いなのかどうなのか以前に、省吾は祐里のことを何も知らない。過去の話は聞いたけれど、今の祐里がどんな風に、何を想いながら暮らしているのか、交友関係や何もかもを、全く知らない。

 家族の話や祐里の経歴を訊いただけで、祐里のことを知っている気になっていたことに気付いて、省吾は自分に呆れた。でも、だから何だとも思った。今日だって、祐里に会いたくて来た。それが悪いのかと、開き直るしか気持ちの納めようがなかった。

 商店街をしばらく歩いていると、中華料理店があった。こじんまりとした、いかにも古くから営業している様子の店構えを見て、省吾は子供の頃に家族でよく食べにいった中華料理店を思い出して懐かしくなった。

 「あの店、どう?」

 「はい」

 祐里が頷いた。笑顔だったけれど、省吾とは目を合わせず、すぐに俯き加減になった。

 〈元気が無いのかな。やっぱり不安だろうな〉

 省吾も祐里の処分がどうなるのか、全く見当がつかない。省吾どころか杉崎ですら、人事部長である柳瀬ですらも、祐里の処遇について何も知らない。

 これは異常事態だと省吾は思った。そして、尚久が省吾に約束した、兼重専務と繋いでやるという言葉を頭の中で反芻した。きっと、それが祐里の命運の分かれ道になるのだろう。そうなると祐里の命運は省吾の肩にかかっている。

 重いなあと、省吾は思う。でも、自分の関知しないところで、いつの間にか物事が決まってしまうよりも、その方がはるかに良いと思う。そしてそんな機会を与えてくれた尚久に心の底から感謝した。


 省吾は扉の横にあるガラスケースの中に陳列してある食品サンプルを眺めながら、引き戸を引いて暖簾をくぐった。店内に充満している食用油の匂いと、かすれたような朱色のテーブルが懐かしかった。

 ふたりは空いていた入り口近くの席に座った。省吾は瓶ビールを頼んで、コップをふたつ貰い、祐里のコップにビールを注いだ。

 「やっぱり心配だよね?」

 省吾が訊くと、祐里は「はい」と小さな声で答えた。

 「わたしは今、どうなってるんですか?」

 祐里が訊いたから、省吾はどう答えようかと悩んだ。

 「兼重専務っていう総務部長が川嶋さんの処遇を決めるらしいんだ。でも人事の柳瀬部長さえ、兼重専務がどう考えているのか分からないらしくて」

 そうなんですか、と呟くような小さな声で、祐里は答えた。


 省吾は尚久から、兼重専務と話す機会をもらえることを祐里に話そうかどうか、悩んだ。今それを伝えれば、祐里も少しは安心するかもしれない。

 でも省吾には、兼重との話し合いがどういう結果になるのか、皆目見当がつかない。そんな状況で、祐里に期待を持たせるようなことを言ってもいいのか。ぬか喜びになる可能性もある。むしろ、その可能性の方が高いのかもしれないとさえ省吾は思った。

 例え気休めにしかならなくても、祐里を少しでも安心させよう。残念な結果になったとしても、そのときはその時だ。そんなことは後で考えればいいと省吾は考えなおした。

 「川嶋さん、実は、いつになるのかはまだ分からないんだけど、兼重専務に会うんだ。詳しい事情は言えないけども」

 祐里が黙って頷いた。省吾は祐里の様子を見た。落ち着いているように見えた。

 「そこで川嶋さんがこの会社に残れるようにお願いする、っていうか、交渉するんだけど、まだそういう可能性は残ってる。だからもうしばらく待って欲しい。まだ諦めたりせずに、もう少し時間が欲しい」

 「なんでそこまでわたしのためにしてくれるんですか?」

 唐突に祐里が省吾に訊いた。省吾は戸惑った。

 「なんで?」

 「はい。だって、わたしのことなんてもう見捨てたっていいじゃないですか。なのに」

 「目の前で大変な目にあっている人をみたら、ほっとけなかった」

 祐里が頷いた。どちらかといえば、喜んで頷いているというよりも、躊躇いがちな様子で。

 「小坂さんのこと、最初は冷たいなって思いました。だから、なんで急にわたしのことを気にかけてくれるようになったんだろうって、気になって。そしていまもこうして、切れそうな糸を何とかしようとしてくれるのは、なんでだろうって」

 なんでだろうね、とその想いを省吾も噛みしめた。それにはいろんな理由があるけれど、その中で一番響いた理由がなにか、いまの省吾には分かっていた。


 「この前、ずっとわたしの近くにいてくれるって言ってくださいましたけど、それは同情ですか?」

 省吾は祐里の言葉を聞きながら、うんと頷いて、祐里のコップにビールを注いだ。

 あの言葉、届いていたのか。

 省吾は祐里を見つめた。祐里も省吾を見つめていた。祐里は目を逸らさなかった。

 「同情もあった。気の毒だなって思った。何とかしてあげたいけど、俺に出来ることなんて何も無い」

 祐里は頷きながら省吾の話を聞いた。


 「でも、だんだんと分かってきた。自分の気持ちが」

 そう言って、コップのビールを飲み干した。

 祐里が視線をテーブルの上に落とした。その様子は期待している言葉を待っているというより、失望しないよう、自分を庇っているように見えた。

 「好きなんだ。川嶋さんのことが」

 祐里は省吾から視線を外したまま、静かに省吾の言葉を聞いていた。

 「きっと、最初から川嶋さんが気になっていたんだ。それがだんだんと形になって、みたいな」

 省吾はそう言って、手酌でビールを注いだ。

 「彼女さんは?」

 祐里にとっては、訊くのが怖い問いでもあった。

 「別れた」

 省吾の言葉を聞いて、祐里の表情が変わった。喜びの表情ではなくて、驚きと戸惑い。そして何かを言おうとしているかのような様子で省吾を見ていた。

 「別れたなんて、びっくりしました」

 省吾は頷いた。そしてビールを口に含んだ。

 「まあ、そういうこと」


 俺が美玖と別れたと知って、祐里はどう思ったんだろう。そして、俺の告白を祐里はどう感じているんだろう。

 こんな古くて小さい町中華で、しかも会話の流れでビールを飲みながらの、ロマンティックの欠片もない告白。今日は言わないほうがいいと思っていたのに、祐里の問いに素直に乗ってしまった。それでも省吾に後悔はない。


 祐里が省吾を見つめながら訊いた。

 「この前、わたしのいろんなことを伝えました。それでも、ですか?」

 「うん。驚いたけど、変わらない」

 驚いたけれど、変わらなかった。省吾は本心からそう思った。

 「他人には言いづらい仕事をしていたのは驚いたけど、だからといって、うん。気持ちは変わらなかった」

 もし祐里がそのことを気にしているとしたら、なんとも思わないと伝えたかった。

 「それでも川嶋さんが好きなんだ。見返りとか下心とかじゃなくて、うん」

 省吾は瓶をとって、祐里のコップにビールを注いだ。そして自分のコップのビールを飲み干した。

 酒を注ぎながら、問われるがままに告白している。

 「川嶋さん、ごめんね。こんな場所で、こんなタイミングで、酒を吞みながらさ……」

 祐里が首を横に振った。

 「嬉しいです。でも……」

 「でも?」

 「自信がないんです。自分にも、自分がしてきたことにも、渡辺さんと比べても」

 渡辺さんと比べても。どういう意味の言葉なのか。省吾は混乱した。

 「美玖のことを知ってるの?」

 少し間を置いてから、はいと祐里が頷いた。

 「じつは、会いました」

 「どういうこと?」

 祐里と美玖の間にどんな繋がりがあるのか、省吾には皆目見当がつかなかった。

 「渡辺さんから、会いたいと人事の人を介して連絡があったんです。川嶋祐里がどんな人なのかも知らないし、紹介した以上は知っておきたいって言われて。わたしもお礼を言いたくて会ったんです」

 美玖はなんで俺に黙っていたのか。もしかしたら美玖は、俺に近づくなと祐里に釘をさそうとしたのだろうか。そうだとしたら、祐里に会ったとか会いたいとか、美玖からは後ろめたくて言えないだろう。

 美玖のその行動を知って、省吾はもやもやした。

 「すごく素敵な人だったから、びっくりしました」

 そう言って祐里は笑った。

 「渡辺さんと比べたらわたしなんか全然です。絶対に小坂さんは後悔します」

 「後悔だって恋愛のうちだよ」

 省吾は祐里を見つめた。祐里の白い肌と茶色い目を見ていたら、頬や髪の毛に触れてみたいと、首筋に口づけてみたいと、ふと思った。

 「恋愛なんて、怒りも悲しみも後悔も込みだよ。そんな嫌なことだって、恋したら、のみ込まないといけないことなんだよ」

 だからそんなことは気にしてないと、省吾は自分に語りかけるように、小さな声で言った。

 祐里が微笑んでから、省吾の視線から避けるように俯いた。

 「嬉しかったです」

 祐里が俯いたままそう言った。省吾は祐里の細くて小さな肩を見つめた。

 「会いに来てくれて。この前も、今日も」

 祐里は相変わらず俯いたままだったけれど、俯くというよりも顔を隠すようにしているように省吾からは見えた。

 「抱きしめてくれたときも、嬉しかったです」

 祐里が顔を上げた。頬が、耳が、赤く染まっていた。

 「私も小坂さんが好きです」



 省吾は祐里を家まで送った。祐里と並んで歩きながら、尚久はどういう風に俺のことを兼重に伝えるのだろうかと、気になった。

 尚久は俺を兼重に繋ぐと約束してくれた。尚久がその約束を反故にすることは絶対にないと省吾は思った。だから兼重に会えるかどうかは、兼重の腹ひとつということなんだろうか。

 実は省吾は一度だけ兼重に会ったことがあった。ただ、会話と呼べるほど言葉を交わしたわけではない。省吾のパワハラ処分の査問の席で、そこに兼重も総務部長として臨席していた。でも省吾のことなんてきっと憶えてはいないだろう。

 隣りを歩いている祐里が、省吾を見上げて訊いた。

 「小坂さん、言いづらいことかもしれないけれど、訊いてもいいですか」

 「何?」

 祐里の顔に一瞬だけ躊躇う様子が見えたけれど、祐里が口を開いた。

 「小坂さんのせいで辞めた社員さんがいるっていうことです」

 その話題に触れられたのは久しぶりだったし、ちょうど兼重のことを考えていたところだったから驚いた。

 「誰から訊いたの?」

 「林さんです。気になったから、今里さんに訊いたんですけど、本人に訊けって言われて」

 俺のせいで辞めた社員がいると聞けば、気になるのも当然だろう。

 「うん。俺のせいで、後輩が辞めた。鬱になって」

 さらっと答えた。含みを持たさず、あっさりと言ったほうがいいと思った。

 「真面目で熱心で、体育会系出身で元気で明るくて。そんなやつだったから、そいつの人柄に甘えた。俺も野球部だったから、それでそいつのことを知った気になって、見誤った」

 祐里はじっと省吾の話に耳を傾けた。

 「本当は繊細なやつだったんだ。よく観察すれば気付いたはずだったんだ。でも元気にしていたから、少しぐらい厳しくしてもいいだろうって思っちゃった」

 省吾がふぅーっと息を吐いた。そして呼吸を整えてから、ゆっくりと口を開いた。

 「もっと、注意深くなるべきだった」

 悔いの籠った、省吾の言葉だった。

 「でも、そういうひとなら小坂さんみたいに思っても仕方ないんじゃ……」

 祐里が言いかけた言葉を省吾は遮って、前を向いたまま話し始めた。

 「いや、松坂さんは分かってたんだ。だから松坂さんからは注意された。やり過ぎだって。でも、松坂さんは甘いって思った」

 祐里には厳しい松阪。でもそんな松阪も瞳の奥に優しさが隠されていることを、祐里は知っている。省吾は祐里の方を向くこともなく、ただ正面を向いて、そこに立っているはずの誰かを見つめるように話していた。



 「彼には苦手なことがあったんだ。川嶋さんなら分かるかな。小型分包機の、散薬を落とすスライダーの隙間」

 「あれ、難しいですよね」

 分包機の正面に備え付けられているアルミの細長い板が開閉すると、その上に載せていた散薬が機器の中に回収されて、均等に分包される仕組みがあった。その板の開閉する部分の重ね合わせの隙間の調整がとても難しい。それは祐里も知っていた。

 「彼はあの寸法出しが苦手だった。それを嫌がって逃げてるように見えた」

 「開きすぎていても、狭すぎても駄目。0.3mmにしなければならない。難しいですよね」

 祐里は若い頃の省吾を想像した。今より、もっと尖っていただろう省吾のことを。

 時折二人の靴が砂利を踏む音が聞こえる。他には何の音も聞こえない、静かな夜だった。そんな夜の中を、ふたりは並んで歩いている。この二人でいる時間が終わらずに、朝までこのまま歩いていたいと祐里は思う。

 「だから何時までかかってもいいから、十回続けて基準値よりもコンマ2ミリ出せるようになれって。俺も付き合ってやるからって。でも十時過ぎまでかかっても出来なかった。それで今日は仕方ないけど、明日もやるぞって言った」

 林や今里が口にした、昔の省吾は今とは違っていたという言葉が、祐里の胸の奥で揺れた。

 「次の日、アイツは休んだ。それきりもう二度と来なかった」

 辞めた人の気持ちも分からなくもない。でも、省吾の気持ちも分からなくはない。祐里は足元の地面に並んで伸びる、自分の影と省吾の影を眺めた。

 「オマエ小林に何をした?! ってさ、松坂さんからは詰められた。でもそれだけじゃ済まなかった。人事から呼びだされた。彼の親御さんから告発されたんだ。俺がしたことはパワハラだって。昼から夕方まで事情聴取されて、処分された。十日。十日の停職処分と三か月の減給」

 「停職処分ですか」

 祐里が省吾に訊くでもなく、ポツリと漏らした。

 「そう、停職処分。それでその後に検査課に異動になったんだ」

 そのことが無ければ、祐里は省吾と会うことはなかったのかもしれない。そうだとしたら、祐里は雇い止めを回避できたかどうか、分からなかっただろう。そんな運命のめぐり合わせを祐里はぼんやりと思った。

 「俺の何が悪かったんだろうって思った。ただ彼のことを思って指導しただけなのにって。厳しかったかもしれない。でも出来ないんだからそれぐらい努力しないと駄目だろうって。甘えてるし、弱すぎるって思った」

 省吾は淡々と話した。省吾にとっては整理できた過去なのかと、祐里は省吾の横顔を見上げながら思った。

 「いま思えば俺は間違っていた。でもあのころは俺は悪くないって、本気でそう思っていた。なんだってやれば出来る筈だし、出来ないのは努力が足りないだけで、じゃあもっと死ぬ気でやってみろって、そう思ってた」

 でも、と言って、省吾が祐里の方を向いた。

 「どんだけ頑張っても無理なことはある。そんな短所も互いにカバーし合いながら、ある程度は許容しながら仕事をすれば、それで充分問題なかったのに。俺は信念みたいなものを勘違いしてたんだ」

 そう。どれだけ頑張っても無理なことはある。そのことを祐里は骨身に沁みて、知っている。

 「それに気づいたのは最近。情けないけど、ずっと俺は悪くない、周りが悪いって。だから本気出しても損だって。誰かと真剣に向き合うのも自分が損するだけでバカバカしいって。仕事なんて受け身で言われたことにだけ反応すればいいって思うことにしてた」

 それがあの不愛想な、近寄りがたい省吾の正体だったのかと、祐里は知った。

 祐里は省吾の輪郭がだんだんと見えてきたような気がした。そして、祐里が感じていたその変化は、決して嫌な変化ではなく、省吾と少しずつ親密になっていると感じることが出来る、そんな変化だった。

 微笑みを浮かべながら、省吾が祐里を見た。

 「最初は川嶋さんのことを気にかけるつもりなんてこれっぽっちもなかった。悪いけど、面倒だとさえ思った。でも、揺れたんだ。心の奥で、何かが揺れた。それが収まらずにだんだんと大きなうねりになった。水をかき回したときみたいに。中の水が大きな渦になって、そのうねりのせいで水槽がバタバタと暴れ出すみたいに」

 省吾が立ち止まったまま、祐里を見つめながら言った。

 「川嶋さんを孤立させない。隣にいる。だからこれからは、川嶋さんが辛い仕事を無理してすることが無いようにする。信じて欲しい」

 祐里は頷いた。深夜の住宅地の片隅で、省吾の声が暗闇に吸いこまれて消えた。でも祐里の心には消えずに、浸みこむようにして、跡になった。


36


 省吾が検査室で今里と話しているときだった。省吾の携帯が着信音とともに胸ポケットの中で震えた。

 「小坂係長ですか? 秘書課の秋元です」

 全く聞き覚えの無い声だったけれど、秘書課という言葉を聞いて、省吾はこの電話の意味を察した。

 「いまお時間よろしいですか」

 「はい。大丈夫です」

 省吾の携帯を握る手が汗で湿った。兼重の姿が電話の向こうにはっきりと見える気がした。

 「兼重専務が時間をとって欲しいと仰ってます。急ですが今日の午後は、お時間ありますか?」

 大丈夫ですと省吾は答えた。兼重からの電話はいつかいつかと待ち続けるのも、会う前日の夜に緊張のあまり眠れなくなるのも嫌だった。だから今から会おうと言われて、だいぶ安堵した。

 「では十五時で。本社棟の三階までお越しください」


 電話を切ってから、省吾は今里を見た。今里には兼重と会うことを教えてもいいだろうと思った。

 「今里さん、もしかしたら今日、それとも週明け早々には川嶋さんの件、答えが出そうです」

 「何かあったのか?」

 今里が怪訝な顔をして訊いた。

 「はい。いまは言えません。でも何があったのかは今里さんには必ず伝えます」

 分かったといった風に今里が頷いた。

 「何があったのかは知らないけど、いい報告になることを祈ってるよ」

 省吾は今里の目を見て頷いた。今里もニヤリと笑いながら頷いた。

 

♫ 


 「検査課の小坂です」

 省吾は本社棟を訪ねた。役員や社長の部屋が並ぶこの階に足を踏み入れることがあるなんて省吾は考えたことすらなかったから、どうしても物珍しさが先に立って、ついきょろきょろとしてしまう。でも、そのせいなのか、たいして緊張せずに済んだ。

 「兼重専務が部屋まで来てほしいと。突き当たりの社長室の向かいです」

 省吾は秋元に会釈して、廊下を奥まで進んだ。


 省吾たちが働く工場棟とは違い、廊下には固いリノリウムの代わりにこげ茶色の絨毯が敷かれていた。その上を省吾は靴音を立てずに歩いた。

 兼重の部屋はすぐに分かった。扉の前に立ち、大きく深呼吸をした。どんな話をするのか、どんな話になるのか、省吾も色々と考えてはいた。でもここに立った瞬間、それも全部棄てることにした。いっそ流れに任せてしまおう。そのほうが上手くいくような気がした。

 いまから会う人は俺が敵う相手じゃない。だったら余計な色気は出さずに、正直でいよう。そう考えて、ドアを叩いた。

 「どうぞ」

 兼重の声が聞こえた。いざとなると、やはりどうしても緊張する。口の中が渇き、声がかすれそうだった。


 「なんだ、君か」

 兼重が省吾を見るなり言った。俺の顔を覚えていたのかと、省吾は意外に思った。

 「私のことを憶えてらしたんですか?」

 省吾が訊いた。兼重は笑いながら省吾の顔をまじまじと見つめた。

 「憶えてるよ。パワハラの査問で会ってるだろ。ふてぶてしくて生意気なヤツだと思ったんだ。それを思い出したよ」

 まあ座れと言いながら兼重がソファに腰かけた。省吾も兼重の正面に腰かけた。

 一年半ほど前に会ったときから兼重の印象はそれほど変わらない。でも今回は真正面に相対しているだけに、兼重の姿はより大きく見えた。

 省吾はすっかり気圧されていた。目の前に座る兼重には有無を言わさない迫力があった。年齢の割に豊かで黒々とした髪の毛を、左寄りで分けたオールバックに整えて、日焼けして精悍な顔つきは一回りは若いはずの杉崎よりも、さらに若々しく見えた。

 (尚久さんとは違う迫力だ)

 思い返してみれば、尚久は銀行の幹部という立場もあるのだろう。野心的な雰囲気はできる限り表には出さないように努めている、という気配があった。でも兼重は違う。野心を包み隠そうとせず、対峙するものを威圧するかのように、剥き出しにしている。

 「まあ、そう緊張するな。それよりも呼び出して済まなかったな」

 「いえ、こちらこそ恐縮です」 

 「単刀直入にいこう。俺は社交辞令も無駄話も好きじゃない。渡辺さんから話は聞いた。事情も大体分かった。川嶋さんという方のことも、最初に渡辺さんから頼まれた経緯も憶えてる」

 省吾は兼重の顔を見つめた。部屋に入ったときよりも、幾分か畏れも退いてきたのか、兼重の表情を落ち着いて見ることが出来るようになっていた。

 「柳瀬からも聞いた。まあ、彼女も大変な苦労をされたんだなと思ったよ」

 うんうん、と頷いてから兼重が口を開いた。

 「柳瀬には俺が言うまでは動くなと言ってある。だから、まあ川嶋さんがどうなるかは君との今日の話次第だな」

 そう言ってから、兼重が省吾の顔をじっと見つめた。

 「今日の話次第とは言ったけれど、本当は君が何と言おうと答えは出てる」

 答えは出ているという言葉を聞いて、省吾は緊張した。その物言いからは、どうしても嫌な予感の方が先に立ってしまう。

 「川嶋さんならクビにはしない。雇用は保証する。それでいいな?」


 省吾は一瞬、言葉に詰まった。嫌な予感に囚われていたせいなのか、雇用は保証する、という言葉がすんなりと入ってこなかった。

 「じゃあ、川嶋さんは辞めずに済む、ということですか?」

 「いま言っただろう。クビにはしない。そういうことだ」

 兼重が頷いてから答えた。

 「そもそもふた月前か、俺は渡辺さんから『川嶋さんを頼む』と言われたんだよ。要は、そのときに渡辺さんから託されたわけだ。そして俺は『分かった』と答えて引き受けた。渡辺さんからの頼みならば事情やら素性なんかもいちいち確かめたりなんかしない。分かるか?」

 「はい」

 「それが渡辺さんにたいする俺の敬意だよ。いうなれば仁義だ。渡辺さんから託された。それで川嶋さんを引き受けた。渡辺さんにいちいち『その人はどんな人か?大丈夫なのか?』なんて訊かない。それは長年の付き合いからの信頼だよ。渡辺さんから頼まれたら黙って引き受ける。それで失敗したって仕方がない。結果は俺が全部引き受ける。だから、あらためて渡辺さんから言われない限りは俺が川嶋さんをクビにすることはないし、彼女のことならちゃんと守る」

 兼重はそう言いきってから、ソファのひじ掛けをポンと叩いた。

 「だから安心しろ。以上!」


 省吾の全身なら力が抜けた。なんてあっけないんだろう。いままで身体をきつく締め付けていた緊張が、一気に解けていった。そして、祐里が安堵する様子を思い浮かべた。

 でも、『言いたいことがまだある。これで終わりじゃないぞ』とでも云うように、兼重が省吾の顔をじっと見つめていた。

 「小坂君、このことは知っておけ。川嶋さんの件はな、渡辺さんはわざわざここまで来たんだ。渡辺さんと俺の関係なら、誰かの就職の頼みを聞くぐらいのことなら電話で済む。でも渡辺さんはわざわざここまで来て、『娘の大切な人からの頼みごとだから、お願いします』と言って俺に頭を下げた」

 兼重の言葉が省吾の身体を震わせた。祐里の雇用のことなんて電話ひとつで簡単に済ませたんだろうと決めつけていた。

 浅はかだった。省吾は、尚久がしてくれていたことを軽く見ていた自分を恥じた。

 「小坂君、渡辺さんはそういう人だ。古武士みたいな人だよ。そもそもあの人が個人的な頼みごとをすることなんて滅多にない。その渡辺さんが、そこまでして君の顔を立てた。そのことは忘れるな」

 省吾は黙って頷いた。

 「小坂君、つまり川嶋さんの雇用がかなったのも、残れたのも渡辺さんの力だ。君のためじゃない。渡辺さんだから俺は応えた」

 省吾は頷いた。いまの省吾には頷く以外、他に出来ることなんてひとつもなかった。

 「つまり、言い方を変えれば、君は何も出来なかった、ということだ」

 緊張とは違う種類の重たさが省吾の身体に入り込んで、内側から身体を押しつぶそうとするかのように、ゆっくりと膨らんでいった。

 「別に君のことを見くびって言うんじゃない。ただ、『きちんとわきまえろよ、君の力で川嶋さんを助けてやっただなんて思ったら大間違いだぞ』っていうことだ」

 もちろん省吾に驕る気なんて全くない。でも、兼重が言った「ようは、渡辺さんの力だ」という言葉が、胸に重く響いた。

 「でも気にするな。君には何の力もない。そんなことは当たり前のことだ。そうだろ? まだ若くて係長にすぎない。社内に人脈を築いているわけでもない。そんな君が渡辺さん抜きで俺に会いたいと言う。なんの用だと秘書が訊く。君はある派遣社員の女性の雇い止めを撤回してほしいという。杉崎君に言えと俺は答える。それで君が出来ることはおしまいだ。川嶋さんもそれでおしまい」

 その通りだ。いまの省吾に出来ることといえば、杉崎を頼るぐらいしかない。

 「でも、だからといって、僕には何の力もありません、なんて卑下する必要はない。渡辺さんと知り合えてラッキー、俺と会えてラッキー、そう思えばいい。幸運も実力のうち。そして君はそのチャンスを掴んで離さなかった。それは君の力だ」

 そう言いながら兼重は笑った。その笑顔はどこか愛嬌があって、省吾もつい引き込まれた。そして兼重が身を乗り出してきて、省吾に訊いた。

 「渡辺さんとはどんなきっかけで知り合ったんだ?」

 「はい、じつは渡辺さんのお嬢さんとお付き合いさせて頂いてました。それがきっかけです」

 「人事にいたあの子か? 君は彼女と付き合っていたのか。それは思った以上に、君は運があるな」

 なるほどな、幸運の女神を捕まえていたのかと、頷きながら兼重は省吾を見つめていた。美玖の話題になったせいか、省吾はどうにも落ち着かない気分になった。

 「渡辺さんが君を気に入ってる。その理由が知りたくて君に会おうと思った。川嶋さんのことなら何も君に会わなくても、柳瀬に伝えればそれで済むだろう?」

 「渡辺さんが、ですか?」

 「ああ。随分気に入られたみたいだな。あの人は滅多なことじゃ人を飯になんか誘わないぞ」

 省吾は戸惑った。省吾は尚久を尊敬している。先日天ぷら屋で夕食をご馳走になった日から、尚久は省吾の人生の中で、尊敬できる先輩のひとりになった。その尚久が、自分のどこをそれほど気にいってくれたのかが、省吾には全く想像つかない。

 そして、『お父さんが省吾くんのことを随分気に入ったみたい』という美玖の言葉を思い出した。

 「渡辺さんが自分のことをそんなに気に入ってくださる理由が、全く分かりません。見当もつきません」

 省吾が頼りなさげな声で応えると、兼重がニヤリと笑った。

 「いやあ、俺も分からん。なぜ渡辺さんが君のことを気に入っているのか、その理由が知りたくて君に会ってみたけど、今のところ渡辺さんの気持ちは全く分からん」

 兼重が冗談めかして言ったせいで、省吾もつい笑顔になった。

 「小坂君、ただ、川嶋さんには処分は受けてもらう。それは詐称の件だ。だから今週いっぱい五日間の出勤停止。それだけはけじめだ。呑め。いいな」

 「はい。承知しました」

 「君からは何かあるか? この際だ。なんでもいいから訊け」

 兼重の言葉を聞いて、省吾は知りたいことがあった。尚久と兼重は深い関係だということは分かった。どういうきっかけで知り合ったのか、訊きたかった。

 「専務と渡辺さんはどういった関係なんですか?」

 「渡辺さんとは三十年弱かな、それぐらいの付き合いだよ」

 煙草吸ってもいいか?と兼重が訊いた。そう訊く前に兼重はもう煙草に火をつけていた。


 ちょっと昔話になるがな、と言って兼重が煙草の煙をふっと吐いた。

 「二十何年か前、会長が分包機をやりたいと言い出した。その頃のウチはまだ町工場みたいなもんだった。小さい工場と事務所しかない。工場の前に車を二台も並べて停めたら自転車を停める隙間もない。そんな町工場だよ」

 今の会社の規模からは想像できない、慎ましいと言うよりもみすぼらしいという方が正解のような、そんな小さな町工場だった。

 「そのアイデアを聞いて、俺も社長も凄いって思った。でも、そんなことがウチみたいなちっぽけな会社に出来るのかって、疑問に思った。無理だろうって思ったよ。でも会長は頑なになって、絶対にやるんだと。それから社長が中心になって毎日毎日深夜までかかって、試作機を壊してはつくり、また壊しては、の繰り返しだった」

 人の良さそうなお爺さん。そしておとなしそうで、線が細い印象のある社長。それが省吾が会長と社長に抱いている印象だった。

 「そのうち金がなくなるのが目に見えていた。ちっぽけな町工場に潤沢な開発資金があるわけない。夜中まで頑張ってもみんな無給だよ。ボランティアっていうか、情熱だな。それだけしかない」

 兼重の言葉に力がこもる。省吾も引き込まれていく。

 「で、とうとう金が尽きた。借金しなければならない。幸いウチには負債は無かった。だから工場や土地を担保にしたら融資を受けることが出来ると思ったが、そんなに甘く無かった」

 「甘くはない、ですか」

 「ああ。甘くないよ。まず付き合いのあった近畿西日本銀行にいった。話を聞いてくれた。よし、借りれると思った。結果はアウトだよ。ウチに出来るわけがないと思われたんだよ」

 メインバンクですら融資を断った。銀行とは非情なものだと省吾は思った。兼重の話は博打だとでも思われたのか。

 「そこから何軒も回ったよ。信用金庫まで全部、本当に全部の金融機関を回った。でもなかなか融資にたどり着けない。なかにはウチでは貸せないけれど、他所の金貸しなら内緒で紹介するなんていうところもあった。最悪なら高い金利を払ってもそこで借りようか、なんて思ったりもした」

 兼重がひと息ついた。灰皿に置かれていた煙草は半分が灰になっていた。

 「万策尽きた。分包機は無理だ、諦めようという空気になった。でもこれから先、大手の孫請けで安い仕事をちまちまもらっても先はないと、会長もみんなも思ってた。だから俺は諦めたくなかったんだよ。それになんとかして会長と社長を助けたかった。それはな、会長は俺のお袋の兄さんだ。つまり伯父だ。だから社長は俺の従兄弟になる。でな、俺の家は貧乏だった。とはいっても貧乏なのはウチだけじゃない。そのころは貧乏な家庭なんて、珍しくはなかった。この会社だって貧乏な町工場だった。会長だって貧乏だった。だから俺は中卒で働くつもりだった。ところが会長が俺に、高校に行け、大学を出ろって言って金を出してくれた。だから会長には恩がある。どうしても会長のために何とかしたい。それで最後にもう一度、近畿西日本銀行に頼みに行った」

 恩。けっして軽くはない言葉。省吾には尚久への恩、そして美玖にも恩があった。そのことを思ったら、鋭い痛みが省吾の胸を刺した。自分は恩知らずなことをしたんだろうか。

 「駄目もとだよ。藁をもすがる気持ちとはこういうものなんだと、そのとき知った。そして訪ねたら、融資の担当が代わっていた。それで出てきたのが渡辺さんだった。必死に渡辺さんを説得したよ。そうしたら渡辺さんが黙り込んでしまった。やはり駄目かと思った。そうしたら、面白そうですね、と言ってくれた」

 家族と僅かな従業員だけで経営していた小さな工場を、三千人の従業員が働く会社に育て上げた男が、目の前にいる。

 「とりあえず工場を見せてくれと、分包機の試作機も見たいと言ってくれた。ここまで踏み込んでくれたのは渡辺さんが初めてだったから、会長も社長も俺も興奮した。渡辺さんが来る前の日は徹夜で工場のガラクタを片付けたよ。工場と試作機と、それからみんなの働きぶりを見てくれた。それで融資が決まった。この会社は首の皮一枚で繋がったんだ。あのときの渡辺さんのおかげで、いまのウチがある。だから渡辺さんには感謝してもしきれないぐらい感謝している。でもその代わりウチも渡辺さんに儲けさせた。あの人が副頭取まで出世したのも、半分はウチの力。だからウィンウィン」

 兼重が遠い目をして窓の外をみていた。

 尚久が別れ際に言った『僕も銀行マンですから無駄な投資はしない』という言葉が、ふと思い返された。

 「そして、いまの俺がいる。大学まで行かせてくれた会長には感謝しかない。だから俺は会長と社長を助ける。そのためなら危ない橋を渡らなければならなくなったら、社長の代わりに俺が刑務所に入ってもいい。社内に蔓延する幹部連中のスキャンダルも、コネ連中の不祥事も、そんな一切のくだらない噂も、全部俺が被る。会社に損害をもたらしそうな役員は弱みを探し出して潰す。そうして会長がつくったこの会社を、俺が泥をかぶって守る。それが俺の使命だよ」

 ふう、と兼重が息をついて、天井を見つめた。あの夜の尚久がそうだったように、兼重も記憶の中の、まるで鮮明な写真のような思い出を、懐かし気に見つめているのだろうか。

 「まあ、君も今は何も出来ないだろうけれど、君もいずれは家族を持つかもしれない。親になるかもしれない。部下も、いまよりも増えるかもしれない。そうなったら、守るものがどんどん増えていく。そのときに何が出来るか。そのときに渡辺さんのような人がいたら助けてくれるかもしれない。いや、自分でやれと突き放されるかもしれない。いつまでもいまみたいに自分のことだけ考えていればいいというわけにはいかなくなる。じゃあ、どうする?」

 「まだ、分かりません」

 「そうだろう。まだ分からなくてもいい。俺も分からなかった。ただただがむしゃらにやる。それだけだったよ。でも小坂君、いまから考えろ。そのことを忘れるな。必死で考え続けろ。いいな」

 「渡辺さんの昔の話も聴かせていただいたんです。美玖さんが生まれてからは鬼になったと。家族を守るために」

 「渡辺さんはそうだな。でも時代もある。俺がしてきたことが今の世の中に合うかどうかは別の話だ。だから君は君の生き方を考えればいい」

 尚久と会ってから、省吾の心にわずかに芽生えた感情があった。正体の分からない、名付けようのないその感情。その正体が、いま分かった。

 「たくさんの人に会いたいんです。専務や渡辺さんのような人だけじゃなく、いろんな人に会いたいんです」

 「何故だ?」

 兼重が訊いた。省吾は恐れもせず、緊張もせずに、はっきりとした言葉で答えた。

 「僕は大学も理系でした。人付き合いは苦手でしたし、理系ならその必要もあまりなかったんです。社会に出てからも営業のような、人と関わる経験もありません。だからたぶん、同い年のやつらよりも、世間のことを全く知らないんです」

 兼重は省吾の言葉に頷くでもなく、首を横に振るでもなく、黙って聴いた。

 「もし叶うなら、いろんな人と関われる仕事をしてみたい。そして多くの人たちと会って、いろんな事を学んで、誰かを助けることができる小坂省吾になりたい」

 兼重の目が鋭い光を帯びたように見えた。それでも省吾は怯まなかった。どうせ失うものなんて何もない。間違ったことも言っていない。兼重の怒りをかってクビになったとしても、なんとかなる。祐里のために、何をしてでも生き抜いてやる。そんな覚悟が省吾の心に宿っていた。

 「自分が、なぜ渡辺さんに気に入られているのかを、自分も知りたい。確かめたい。そして専務にも、それを分かっていただけるようになりたい。そう思っています」

 兼重が頷いた。そして強い口調で言った。

 「何でもやるか?」

 兼重の言葉は強くて重かった。部屋の空気をまるごと揺らすような兼重の言葉を、省吾は全身で受け止めた。

 「はい。そのためなら」

 よし、と言って、兼重が頷いた。


37

 

 省吾の周りにも以前のような穏やかな日々が戻ってきた。祐里も謹慎が解けて、職場に復帰した。祐里が謹慎していた理由を詮索したがるような人間は検査課にはひとりもいなかったし、社内に広まるようなこともなかった。


 〈何でもやるか?〉

 兼重の言葉が胸に響く。部屋中の空気が揺れるような、重たい声だった。

 〈はい。そのためなら〉

 省吾は兼重の問いかけにそう答えた。省吾の言葉に嘘はない。自分を取り繕うとも、守ろうとも思わない。

 省吾は兼重を信じた。いちいち理由を並べ立てなくても、省吾はこの人は信用できると思ったし、感じた。そして、その勘を疑ったりしない。

 〈渡辺さんや、兼重さんのように大きな力じゃなくてもいい。せめて大切な人を守ることが出来る力が欲しい〉

 「綺麗ごとばかりじゃないぞ。保身を優先することが大事なときもある。そのために大切な人を切り捨てなければならないときもある。毒だと知っていても食わなきゃならないときもある」

 兼重は大袈裟な物言いではなく、むしろ淡々とした口調で省吾に語った。

 「そして、後ろ指をさされたり、嫌われものにならなきゃならないときもある。泥水をすすりながら、這いつくばって生きなきゃならないときもある」

 兼重の目が言葉よりも多くのものを語りかけてくるように省吾は感じた。

 「それに、そこまでしなくても生きていける。自分の幸せを優先しながら大切なものを守れたら、それで上出来だろう。小坂君ひとりで重荷を背負わずとも、夫婦なら力を合わせたっていい。そもそも結婚なんかしなくたっていい」

 そこまでしなくても、と兼重は言った。でも、それだけでも大変なことだろうと省吾は思った。自分を律して慎ましく生きることを目標にしてきた自分の父にしても、生きていくことは決して楽なことではなかったはずだし、会ったことはないけれど、祐里の父親だって歯を食いしばりながら祐里や弟のことを思って、きつい肉体労働に耐えてきたんだろう。


 生きるってなんだろうと、省吾は考える。

 でも答えは出ない。だから懸命に日々を過ごす。いまの自分に出来ること、しなければならないことを、手を抜かずにこつこつとこなして、積み重ねていく。

 「そうやって生きるだけでも大変だ。そして尊い。楽して一発当てようだとか、流行りに乗って泡銭を稼いて、派手な生活をしてそれを見せつけるかのようにしてSNSで自慢する。そんなことをしなくたって、充分に尊い」

 省吾もそう思う。普通に生きていくのだって大変なんだ。当たり前のことではないんだと、省吾も充分に理解している。

 「それでも、僕は知ってしまったんです。専務や渡辺さんのような人がいることを。そしてお二人と出会って話を聴けた。きっと、それには何か意味があるはずなんです。これからの僕の人生に何かを示唆しているんです。だからこれからは、その意味を知りたい。学びたいんです」



 もう夏がきていた。朝、蝉の声で目が覚める季節が、すぐ目の前まで来ていた。初夏の日差しが建物を熱して、アスファルトを焼いた。

 「川嶋さん、海に行かない?」

 祐里が驚いたような顔で、省吾を見た。それから、喜びが自然と滲み出してきたかのような、そんな微笑みを省吾に返した。

 「なんだか、夏らしいことがしたい気分なんだ」

 恋人と、と付け加えようとしたけれど恥ずかしくなって、言わずに呑み込んだ。

 「レンタカー借りて、早起きしてさ」

 「行きたいです。何年ぶりだろう」

 七年ぶりですと、満面の笑顔で返した祐里を見ながら、祐里のこの数年間を想った。

 そして美玖のことを思い返した。


 八月の蒸し暑い夜。会社のグラウンドで行なわれた夏祭り。重たいビールサーバーを背負いながら、笑顔を絶やさずに駆け回っていた美玖。ショートボブの前髪が汗で額に張り付いて、化粧が崩れても髪が乱れていても気にせず笑顔を振りまいていた美玖の姿。

 チクリと胸が痛んだ。美玖との思い出を忘れてしまいたくはないけれど、いつかきっと痛みだけでもやわらぐのだろうか。でもそんな願いは虫が良すぎるんだろうか。そもそも美玖はもう俺のことなんてなんとも思っていないかもしれないのに。

 美玖のことを忘れたくても、きっと忘れずにいるだろう。でもこれからは、心の奥の、小さな引き出しのなかにそっとしまって、鍵をかけよう。

 こういう俺は情けないのだろうか。でも男はみんなこうじゃないのか。男は過去の恋愛を、フォルダごとに名前をつけて保存する。でも女の恋は上書き保存だと。誰かがそう言ってた。たしかにそうかも知れない。そうならば美玖はきっと俺のことなんて忘れるんだろう。

 省吾は前を向いた。そして、それにしても上手い例えを思いつくやつがいるもんだなと感心しながら、すぐには治まりそうにないもやもやを、その言葉のなかに無理やり押しこんだ。



 秋の人事異動が発令された。

 省吾が札幌支店の営業部に異動になると知った皆が驚いた。

 パワハラ騒動の影響が未だにあとを引いているのだろうかと勘ぐるものもいたし、メインバンクの幹部のお嬢様である美玖とのあいだに何かあったのではないかと噂する人間もいた。

 くだらない噂話なんか放っておけばいいと省吾も思っていたけれど、美玖をくだらない噂に巻き込むのは申し訳ない気がした。

 「お前たちは有名なカップルだったからな、噂話としては最高の素材だよな」

 今里がからかうように笑った。

 そうですね、と答えてから、別に気にしなくてもいいと思うことにした。



 林の退職も社内公表された。省吾は祐里が林の退職をどう受け止めるのか、少しだけ気になった。でもすぐに、そんな自分を情けなく思った。

 公表のひと月ほど前に林が省吾に挨拶にきていた。林はいずれ家業を継ぐつもりでいたことを省吾も知っていたから、そのときが来たんだとしか思わなかった。

 そのときに省吾は祐里と付き合い始めたことを林に伝えた。黙っていても良かったけれど、林にはきちんと伝えておきたいと思った。あとでどこからか林の耳に省吾と祐里のことが伝わったときに、ネガティブな受け止められかたをするのは嫌だった。

 ああ、やっぱりなと言って、林が省吾をみながらニヤニヤとした。

 「省吾さんがなんで祐里のことにあんなに必死になるのか、不思議でしたもん」

 だから、「やっぱりな」としか思わないと、林は省吾をみて微笑んでいた。

 「省吾さん、いまだから訊くんですけど、雇い止めが決まったときから再雇用まで、そのあいだ祐里のことをどう思っていたんですか?」

 とくに他意もなさそうな様子で、林が訊いた。

 「今思えば、だけど、最初からざわついていたんだと思う」

 「最初からですか?」

 「うん、川嶋さんから辞めたくないと言われたときに、こころを揺さぶられたんだと思う」

 省吾が淡々と答えた。今となっては、そんな事はどうでもいいとでも言いたげな様子で。

 「やっぱり同情ですか? 同情からの勘違いだったかもしれないじゃないですか」

 「同情はあったけど、それだけじゃない予感はあったんだ。早い話がさ、川嶋さんのことを女性としても魅力的だって思ったんだよ」

 今の省吾は素直に認める。祐里は異性として魅力的だったと。儚げな様子だけではなく、まつ毛の長い茶色い瞳も、真っ直ぐな鼻筋も、ふっくらとした唇も、丸めの輪郭も、透き通るような白い肌も、鼻の周りのそばかすも、華奢な身体も、そんな祐里のすべて。

 省吾が林の顔をじっと見た。林は省吾の顔つきがなんとなく穏やかになったような気がした。

 「省吾さん、祐里は人一倍寂しがりやなんで、大変ですよ」

 林がおどけて、省吾を揶揄うようにしていった。

 「じゃあ遠距離で付き合うのは無理だな」

 心なしか省吾がしょんぼりしたように見えた。林はそんな省吾がもどかしくて、すこし苛々した。

 「祐里を連れていけばいいじゃないですか。札幌に来いって、俺についてきてほしいって、言えばいいじゃないですか」

 「そう簡単にはいかないんだ」

 「なんでですか?」

 省吾が林を見た。省吾の顔は、すこし綻んでいた。

 「川嶋さん、来年の春に正社員になるかもしれない。だから、連れて行かない。ここで頑張れって言うよ」

 林は驚いた。正社員になるかもしれないなんて、祐里にとっては夢のような話だ。職を転々としてきた祐里の過去の苦労を知っているだけに、林は我がことのように嬉しかった。でも、ふと疑問が湧いた。

 「でも、正社員に登用される規定はクリアしてるんですか?直接雇用から三年以上が経過していることが条件だったと思いますけど」

 「うん。派遣の在籍期間も上乗せしてもらえることになった。それにスキルも勤務態度も全く問題ない。自宅待機処分は影響しない。杉崎課長が推してる。兼重専務も納得してる。柳瀬部長にも手出しは出来ない。もう大丈夫」

 省吾の言葉で林は安堵した。こうして少しづつでも祐里の暮らしがよくなって欲しい。林は本気でそう思っている。

 「まだ内緒というか、決まっていないけど、杉崎さんが兼重専務に交渉してくれたらしいんだ。小坂が抜けるのは困るって。その代わりに即戦力の社員が欲しいって」

 「それが祐里ですか?」

 「そういうことらしいんだ。即戦力の検査課員なんていないだろ? 製造部から移動させるのも困るって。だから、もうひとり非正規の人を採用して……」

 「春に祐里を正社員にする」

 「そう。そういうこと。それが、俺を営業に引き抜かれる代償として杉崎さんが引き出した条件なんだ」

 杉崎課長にそんな交渉術があっただなんて。林は驚きつつも、全てが上手く回り始めたような気がして、これから順調に物事が運んでくれたらいい。そうなってほしいと願った。

 〈結局、省吾さんには最後の最後まで敵わなかった〉

 たとえ相手が省吾だったとしても祐里を奪われたくないと林は思っていたし、その嫉妬心のせいで省吾に敵愾心を燃やしたこともあった。でもそんな感情はもうとっくに棄てた。いまは以前のように、省吾のことを慕い、尊敬している。

 「省吾さん、新潟まで来てください。約束ですよ」

 省吾は頷いた。何の屈託もない笑顔を見せて、林に手を振った。


38


 「ねえ、札幌に行くって本当?」

 会社からは少し離れたターミナル駅の構内のカフェで、省吾は美玖と向き合って座っていた。駅の構内もカフェの中も、帰宅途中の会社員と思われる人達で賑わっていた。

 札幌に異動になることを、省吾は美玖に伝えた。だから久しぶりに会いたいと美玖に言った。それは札幌に行くからその前に会っておきたいというだけではなくて、省吾はあの最後の電話のときの険悪な空気のまま、美玖との関係を終わらせたくなかった。

 傍から見る分には俺と美玖はごく普通のカップルにみえるだろうか。省吾がそんなことを考えるぐらい、別れてから久しぶりにあったいま、二人のあいだにはまるで何事もなかったかのように、親密な距離感に戻っているような気がした。


 そんな呑気なことを考えている省吾に、美玖が怪訝そうな表情で訊いた。

 「札幌でしょ? しかも営業って聞いたら、余程のことがあったんだろうかって思うよ、普通」

 「まあ、たしかにそう思われても仕方ないと思うけど、営業をやりたい、遠くに行きたいって、俺が希望を出したんだ」

 省吾の答えを聴いてもまだ釈然としない様子で美玖がこぼした。

 「でも省吾くんの希望って言ったって……」

 そう言ったきり美玖が黙り込んだ。それから短い沈黙の後、美玖が口を開いた。

 「ねぇ、懲罰的な左遷じゃないよね?」

 「それだったら嬉しいだろ?」

 「馬鹿なこと言わないで。省吾くんのことを恨んだりはしてないから」

 省吾の自虐とも皮肉ともとれる冗談に、美玖は本気でイライラしている様子を見せた。

 そんな美玖の様子を見て省吾の頬が緩んだ。それからテーブルの上に置かれている美玖の指をみて、そこにあったはずの指輪が無いことに気がついた。そのことに驚いたりはしないけれど、分かっていても寂しくなった。

 「でも、いまは本当に、美玖には済まなかったと思ってる。お父さんとお会いして、兼重専務とも会って、川嶋さんのことでお父さんがどれだけ俺を立ててくれようとしたのか分かったし、そういう気遣いを知ろうともしてなかったから、そんな自分が恥ずかしくなった」

 『いい歳してさ、そんなことすらも気付こうとしていなかった』そんな省吾の独り言を聴きながら、美玖は目の前のアイスカプチーノのカップを意味もなくかき回していた。

 「そう思ってくれただけでも、お父さんは嬉しいと思う。それに特別苦労させたわけじゃないよ。省吾くんうんぬんよりも、わたしが頼んだから、お父さんは動いた。でしょ?」

 たしかにその通りだと省吾も思う。美玖が頼んでくれたからこそ、尚久さんは動いてくれたんだと。

 美玖が省吾の顔を見詰めたまま訊いた。

 「ねえ、本当に左遷じゃないの? わたしのことだったり、川嶋さんのことだったりで、省吾くんがケチをつけられたとかじゃ、ないよね?」

 「だから違うって。そんなこと絶対にないし。じゃあもしそうだったとして、俺が美玖に助けてくれって言ったら、助けてくれる?」

 「いやよ。助けないよそんなの」

 「冷たいな」

 冗談交じりで訊いたつもりが、美玖の返事は省吾が想像していた以上に厳しかった。

 「そういう人助けにはもう懲りた。それにもう省吾くんはわたしの特別な人じゃないから」

 もう懲りたという言葉が省吾の胸に沁みた。美玖に懲りたと思わせるようなことをした。省吾はそのことは忘れずにいようと思っているし、きっと忘れないだろう。

 「営業がやりたいって、それでもし叶うなら、出来るだけ遠いところに行きたいって兼重専務に頼んだんだ。誰も知り合いのいないところで、ひとりで始めてみたかったんだ」

 美玖は省吾の言葉を黙って聴いた。省吾の言葉を聴きながら、随分と前向きな言葉を口にするようになった省吾を、眩しくも感じた。

 「だから、左遷とか懲罰なんかじゃなくて、俺の希望。君のお父さんと会って、兼重専務とも会って、自分の器の小ささを思い知らされたし、なにしろ俺の社会は小さくて狭い。もっとお父さんや兼重専務のような人を知りたいし、会いたくなった」

 美玖がうんうんと頷いた。それから興味ありげに訊いた。

 「兼重専務って、どんな人だった?」

 「どんな人?って、会ったことないの? お父さんとは昵懇なのに?」

 美玖が頷いて答えた。

 「会ったことはあるよ。でも話したことはないの。総務部長って言っても仕事で関わることなんてなかったし。入社するときも挨拶なんてしなくていいからって」

 兼重に会った省吾なら何となく分かる様な気がした。きっと兼重は尚久の娘だから特別扱いする気なんて、微塵もなかったんだろう。

 美玖は尚久や兼重の気持ちを知ってか知らずか、興味深げに省吾に訊いた。

 「それにいろんな良くない噂もあるでしょ? だからどんな人なのかなって」

 「良くない噂はさ、根も葉もないただの噂だと思う。会ってみて分かったけれど、つまらないことをするような人じゃないと思った。予想していたよりもはるかにまともで、凄い人だった」

 美玖は「ふーん」と声を漏らしながら、省吾の言葉を聴いた。

 「じゃあ、兼重専務に会って、それで営業を意識したんだ」

 「そう。でも決め手はお父さんと会ってからだよ。お父さんの若い頃の話だとか、まあ、いろいろ。社会を知っているし、人間も知ってる。だから、そう思えるようになったのは美玖のおかげだし、お父さんのおかげだよ。感謝してる。言葉では言い表せないぐらい感謝してる」


 美玖がじっと省吾を見つめていた。

 「待っててあげてもいいよ」

 「何を?」

 「省吾くんが大阪に帰ってくるのを、待っててあげてもいいよ」

 「駄目だよ、そんなの」

 省吾は美玖の言葉にうろたえながら必死に否定した。そんな省吾の様子を見て美玖がさも可笑しそうに笑った。

 「バーカ。嘘に決まってるでしょ。もしかして本気にしたの? 相変わらず駄目だね、省吾くんは。そんなにお人よしじゃあ営業なんてできないよ? なんでこんなことを本気にするかな」

 「なんだよ、手厳しいな」

 省吾はついバツが悪くなって、美玖の顔を恨めし気に見てから背伸びをするように身体を反らせて天井を見た。

 「怒らないでよ」

 美玖が拗ねたように言ってから、微笑んだ。

 「髪切ったんだね」

 「そう。出会った頃みたいでしょ?」

 「この方が似合ってる。服も。いまの方が似合ってると思う」

 肩の下あたりまであった美玖の髪はバッサリと切り落とされて、顎の辺りまでの長さのショートボブになっていた。そのせいか、美玖は何歳か若くなったように見えた。そんな美玖を見ていると、付き合いはじめた頃の美玖を思い出して、省吾は切ない気持ちになった。

 「吹っ切れたから。なんかね、気付いたのよ。わたし随分と省吾くんに依存して、無理してたりして、本当にやりたいことも忘れてた。それを思い出した」

 美玖がアイスカプチーノのカップに視線を落として、カップの中の氷をストローでかき回した。

 「そうそう、わたしの企画が通ったの。それに今度提案する企画がもし採用されたら、クリエイティブ部門に異動できるかもしれないの」

 「凄いな。将来は自分の番組を持つっていう夢がかなうかもしれないな」

 「だから当分はね、死ぬほど仕事を頑張ろうかなって思ってる。恋なんか後回しだよ」

 美玖も凄く成長していると省吾は思った。離れたからそう気づくのかもしれないと思いつつも、付き合っていた頃は美玖の仕事にあまり興味をもっていなかった。そんなことも含めて美玖のことをどれほど知ろうとしていたんだろうと、あらためて省吾は自分が嫌になった。

 美玖は省吾の顔を見ながら、生き生きとした表情で話した。まるで省吾のことなんてもう全く気にしていないかのように。でも、それが省吾の望んでいたことだった。省吾も美玖の気持ちを受け止めるかのように、美玖の顔をじっと見つめた。

 「わたしもね、お父さんに甘えてた。営業もお父さんの名前を出せば上の人に会えたりだとか、スポンサーも探しやすかったりだとか」

 「それは美玖が持ってる武器なんだから、どんどん使えばいい。それはみっともないことじゃないだろ」

 「うん、だけどね、ついそこに甘えちゃうのよ。それは駄目だって。省吾くんといろいろあって、でも分かったこともあって、良かったと思ってる」

 美玖の言葉を聴いて省吾はため息をついた。後悔や失望からではなく、気持ちがふと緩んだような、本音がこぼれる前触れのような、小さなため息。

 「多分美玖とはもう一生会えないと思ってた。怒らせただろうし、嫌われても仕方ないし、『もうあなたは私の人生には一切関係のない人です』って言われたし。だから電話を切った後、せいせいしてるんだろうなって。あたらしい恋人だって、もういるだろうしって思ってた」

 省吾の言葉を聴いて美玖もため息をついた。でも美玖のため息は省吾の言葉にがっかりしたと言いたそうな、そういうため息だった。

 「せいせいしただなんて思ったわけないでしょ。あの電話の後だって朝までずっと泣いてたんだよ。それからだって何日間もずっと泣いてたんだからね。だから気分を変えようとして髪の毛も切ったんだから」

 「ごめん」

 すこし間をおいてから、美玖が口を開いた。

 「省吾くん、実はね、ずっと黙ってたんだけど、わたし川嶋さんと会ったことがあるの」

 「いつ?」

 「彼女が処分された少し前ぐらい。省吾くんが気にしている人ってどんな人なんだろうって、気になり過ぎたのよ。それでね、人事の知り合いに仲介してもらったの」

 省吾にとって、美玖と会ったことは祐里から聞いていたから驚きはない。でも美玖が自分から口にしてくれたことは嬉しかった。

 「彼女と会って、どう思った?」

 「うん、この人は間違いなく男性からモテるタイプだって思ったよ。きっと省吾くんもその気になるに違いないって。ね、その通りになったでしょ」

 「うん、まあ」

 「それで、他にもっといい職場を紹介するから省吾くんの傍から離れて欲しいって頼んだんだ。それをきつい言葉で言っちゃった。でも、出来ませんってキッパリと断られた。だから、きっと省吾くんに気があるんだろうなって思った」

 分かっていたこととはいえ、美玖の自分への気持ちを改めて知ると、省吾はどうしても辛くなった。いつ別れても不思議じゃないギクシャクした空気もあった。結果的には祐里を選んだけれど、祐里のことが無ければ今頃は美玖と同棲していたかもしれない。そう思うと、何とも言えない気持ちになった。

 「川嶋さんには悪いことしたって、今は反省してるし後悔してる。ごめんなさいって、伝えて欲しい」

 「うん、伝える」

 でも、美玖は祐里に謝る必要はないと省吾は思う。祐里を傷つけることが目的で口にしたわけじゃない。美玖は自分を護ろうとしただけだ。それは恋人として当然の気持ちだろうとも思う。省吾はそう言おうとしたけれど、自分が言うことではないと気付いて、黙った。

 美玖がふいに訊いた。

 「それで、川嶋さんとはもう付き合ってるの?」

 「うん。でも移動になったから、これから先のことは分からない」

 「分からないって、なんで? 駄目だよ、それじゃあ。もう、学んでないなあ。来いとか、待ってろとか言ってあげないと」

 美玖が口をとがらせながら言った。省吾はつい言い訳をしたくなった。

 「でも、彼女には彼女の考えもあるだろうから、気安く来いとかいえないだろ」

 美玖が首を左右に振った。省吾は、どんなに言い訳を重ねても美玖には敵わないと悟った。

 「だからきちんと話し合いなさいよ、って言ってるの。それで来いとか待ってろとか言わなきゃ駄目でしょ。嫌ですって言われたら、そのときはそのときでしょ」

 省吾は頷いた。美玖に言われなくてもそれぐらいは分かっていると思いながらも、それをしていないなら分かっていないことと同じだという自覚もあった。

 つい黙り込んでしまった省吾を見かねたのか、美玖が話しかけた。

 「札幌まで遊びに行こうかな、川嶋さんがいない時を狙って、部屋に忍び込んで待ち伏せしようかな」

 省吾は咄嗟に言葉が出てこなかった。美玖の顔を見つめて、ただ微笑んだ。

 「遊びにおいでよ。いろんな場所を調べておくからさ」

 「うん。いずれね」

 省吾をみながら美玖が微笑んでいた。でも省吾には、美玖の目が潤んでいるように見えた。

 「省吾くんと一緒にいれて、いろんな事を知って、教えてもらった。感謝してる」

 「感謝とか、そんなこと言うなよ」

 ふふっと美玖が笑った。美玖の目から涙が一粒こぼれた。

 「札幌でも、元気でね」

 省吾はうんと頷いた。これで美玖とは本当に終わったんだと思ったら、省吾の心に言いようのない寂しさがこみ上げてきた。

 「また会えるよな?」

 美玖にもう二度と会えなくなるような気がした。そして、その予感は当たるだろうと思えて仕方がなかった。もう恋人同士ではない。でもお互いの消息を確かめ合うぐらいの関係でもいいから、これからも繋がっていたい。

 そう思うのは、図々しいのかな。

 「なあ、また会えるよな?」

 美玖の瞳から涙が一粒、頬を伝ってこぼれ落ちた。美玖は微笑んだまま、省吾の問いには答えなかった。




 定時で仕事を終えて、小雨が降る中を省吾は駅まで歩いた。それから自宅とは反対方面に向かう列車に乗った。そして扉の横に立って、壁にもたれかかるようにして雨に濡れている窓の外をみた。

 あと数日で九月も終わる。そして札幌での新生活が始まる。職種も職場も何もかもが新しい仕事。どうなるんだろうと想像してみる。

 でもどうなるのかなんて分からない。やるしかないと省吾は自分に言い聞かせる。そして、不安よりも期待の方が大きいことを確かめてから、よしと安心する。

 電車を降りて、ホームから階段を降りて地下の改札口に向かう。そしていつものように、改札口の向こうに祐里が立っているのが見える。

 祐里が微笑んで、省吾もぎこちなく微笑み返す。そしてふたりは並んで階段を上って、商店街へと入っていく。

 相変わらず口数の少ない二人だったけれど、二人を囲む親密な空気が、恋人同士だということを周囲に伝えている。そして、並んで歩く二人の距離も以前よりも近い。

 そして二人は前にも訪れた中華料理店の暖簾をくぐる。そしてささやかな夕食を共にする。

 省吾と祐里のこんな生活もあと数日で終わる。来月の今頃、省吾は先輩社員の後をついて、必死に駆けずり回っていることだろう。憶えなければならないことはたくさんある。そのなかにはきっと、思ってもいないお世辞だとか、つくり笑顔もあるんだろう。

 そういうことを、俺は嘘が嫌いだからしないと、貫き通せるのだろうか。そう思ってから兼重から言われた言葉を思い出す。

 〈綺麗ごとだけじゃあ済まないぞ。毒だと分かっていても食え、か……〉

 『出来るかどうかじゃない。やるんだよ』

 兼重の声が聞こえたような気がした。


 店を出て、祐里を家まで送った。雨はもうだいぶ弱くなっていて、省吾は傘をささずに歩いた。日中はまだ暑いけれど、日陰に入れば涼しい風が吹く日もあったし、こうして日が落ちてしまえば、かなり過ごしやすい気候になった。そして今夜は雨が降っているせいでいつもよりも冷えた。

 省吾はメンズシャツのようなボタンダウンシャツ姿の祐里を見詰めた。

 「寒くない? 大丈夫?」

 「はい。大丈夫です」

 春先に祐里に派遣止めを告げたときよりも、祐里の髪は肩の下まで、十センチ以上は伸びていた。そのせいか祐里は、そのころよりもやや大人っぽく落ち着いて見える気がした。

 時折、祐里の髪や体から石鹸やシャンプーの匂いがした。省吾にはほっとするような、懐かしさを覚えるような匂いだった。

 「俺はね、祐里に感謝してる」

 唐突に省吾が言ったから、祐里は驚いて省吾を見上げた。

 「前にも言ったと思うけど、祐里から最初に雇い止めの相談をされたときは、本当に面倒だった。今里さんからも突かれてさ、本当に厄介なことになったって思った」

 「ですよね。わたしが省吾さんでもそう思います」

 「だって派遣だろって。派遣ならこういうことになるって分かってただろって、祐里にもそう思ったよ。だから何で素直に辞めてくれないんだろうって思った。イライラした日もあった」

 祐里は省吾を見上げながら、頷いた。

 「しだいに祐里の事情を知るにつれて、気の毒だなって思ったし、祐里の落ち込んだ姿が、罪悪感をかき立てたんだ。俺は悪いことをしているのかな、いや、俺が悪いんじゃない。こんなことを俺にさせている会社が悪いって、気持ちはその間を行ったり来たり」

 「でも、助けてくれた」

 祐里が省吾に語りかけた。省吾は頷いた。

 「祐里と関わるまで、俺は自分のことしか考えようとしてこなかったし、本当に近くにいる人たちのことしか知らなかったからさ、大学を出ているのは当たり前だとか、まあ、それは無いにしても高校を卒業しているのは当たり前だぐらいには思ってた。俺の中ではさ、高校中退なんてだらしがない奴らが辿る道だって思っていたし、そういう連中の行く先が派遣だとか日雇いだとか、そういう人生だって思ってたんだ」

 祐里は前を向いていた。省吾は大きく息を吸った。

 「人にはいろんな事情があって、誰だって望んだ場所に立てている訳じゃない。努力しても無理なことだってある。努力したら何でもできる、みたいな考えって言うのは結局、努力で超えることが出来る高さの壁だったんだって思った。挑戦することさえ、そんな機会さえ与えてもらえない人だってたくさんいる。そんな当たり前のことに気付くことが出来たのは祐里と関わったからなんだ」

 バカみたいだろ?と省吾がこぼすのを聞いて、祐里は思った。

 「気付かない人もいるし、わたしが省吾さんの立場なら、気付かなかったかもしれません。実際、兄のことがあるまではわたしもごく普通の高校生でしたから。このまま大学か短大か、いずれにしろ進学するのがあたりまえだって思い込んでたし」

 祐里が息を吸って、ふーっと吐いた。

 「結局、そうなってしまわないと分からないことってたくさんあると思うんです。だからせめて本を読んだり、新聞をよんだりして、世の中のことを想像できるようにはなりたいって、いまはそう思ってるんです」

 「想像力だよな、それから思いやり」

 祐里が頷いた。省吾は思った。

 「俺だって明日事故に遭って車椅子生活になるかもしれない。じゃあそういう身になった自分を想像したらさ、生活も変わるよね。何でもかんでも俺が最優先とはならないはずなんだけどね」

 省吾が祐里の顔を見て、微笑んだ。

 「だから、感謝してるってこと。祐里と関わって、いろんな人に会えて、営業をやりたいっていう俺が現れ出てきた」

 「でも」

 「でも、何?」

 「そのせいで省吾さんは札幌に行ってしまうんですよね」

 「うん。なんだかごめん」

 省吾が謝るのを聞いて、祐里は首を横に振った。

 「謝る必要なんてないです。省吾さんには省吾さんの人生があるし、やりたいように生きるべきだと思います」

 そうだよね、とは省吾は言いずらい気がした。一緒に札幌に行こうと言えたらどれだけいいか。祐里がハイというか、いいえというかは別にして。

 「いっそ、仕事辞めて札幌で働こうかな、なんて思ったりもしたんですけど、さすがにそれは出来ないって。あれだけ皆さんが力を貸してくださっていまこうして働けていることを想えば、省吾さんのあとをついていきたいだなんて、言えないですよね」

 「うん」

 祐里の言う通りだと省吾は思う。その通りなんだけれど、それでも寂しさは残る。

 「帰ってくるよ。出来るだけ。時々は本社で会議だとか、こっちに来ることもあるらしいし、それ以外でも、連休だとか、帰ってくるよ」

 「わたしも行きます。北海道には行ったことないし。そうそう、行ってみたかったんです。いい機会になるかも」

 「なあ祐里……」

 省吾の呼びかけに反応した祐里が省吾をみつめた。

 「俺が戻ってくるまで待ってて欲しい。それがいつになるか、分からないけど、でもそれまで待ってて欲しい。祐里に好きな人が出来たら仕方がないとか、そうなったら俺のことなんて忘れてくれていいからとか、そんなこと言いたくないんだよ。俺はそんな理解のあるふりは出来ない。もしかしたら祐里は今頃他の誰かと、とかさ、そんな想像もしたくないんだ。だから、安心して仕事が出来るように、約束して欲しい。待ってるって」

 「はい」

 祐里は頷きながら、じっと省吾の目を見つめていた。

 「格好悪いと思うけど、それぐらい祐里のことが好きだ」

 省吾は祐里にそう伝えてから、赤くなった顔を隠すように上を向いた。

 「省吾さん、そういってくれて嬉しいです。でも、省吾さんだって札幌には素敵な女性がたくさんいるんですよ。それでも我慢が出来るんですか?」

 「出来るよ。出来る。約束するよ」

 むきになった省吾をみて祐里が笑った。そんな祐里の様子をみて省吾はさすがにバツが悪くなったのか、苦笑いをして誤魔化した。

 「わたしも不安なんです。やっぱり自分のしてきたことにも、置かれている状況にも自信が無いから。でも、そんな自分を省吾さんは受け入れてくれたから、省吾さんの前では自然でいれる。でも、他の男性にはもう心を容易には開けないと思うし、だから、私の方こそ、省吾さんに迎えに来て欲しい。待っていたいんです」

 祐里の笑顔を見ていたら、省吾の心の中の不安は少しだけでも軽くなった。

 そうそう、と祐里が言った。

 「今里さん、ずっとボヤいてるんです。省吾さんがいなくなったら仕事が増えるって」

 省吾は思わず笑ってしまった。その今里のぼやきが聞こえてくるような気がした。

 「今里さんとさ、二人だけで飲みに行ったりするの、これからはもうやめてくれよな」

 「はい。分かってます」

 そういえばいつの間にか雨は止んでいた。道路は濡れていたけれど、水溜まりに映る街灯の灯りが揺れることはなかった。

 

 静かな夜だった。雨が降っていたからか、人の気配も全くなかった。この広い街に、いったいどのぐらいの数の人生があるんだろうと省吾は思った。

 そして、その一つ一つの人生を想った。喜びも、悲しみも、いま生まれてくる命も、終わろうとしている命も、上手くいっていることも、絶望の淵に立つようなことも、そんないろいろな人生。数えきれないたくさんの色が描く模様。

 「祐里、もう傘を閉じても大丈夫だよ」

 祐里が傘を畳んだ。それから空を見上げた。


 冷たい夜風が頰を撫でた。そして雨の匂いを連れて遠ざかっていった。

 灰色の雨雲の隙間から、真っ黒な夜空が見えた。雨が降り終わったあとの、きれいな空気の、きれいな夜空だった。

 目を凝らしてみると、真っ暗な夜空の彼方に、いくつもの星が見えた。そして、星たちは、ずっとそこにあったのだと、祐里は気づいた。雨雲に隠れていただけで、消えてなんていなかったんだと。


 その星のひとつが、ほんの一瞬、ひときわ強く瞬いた気がした。


 (了)



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