【小説】彼方に光る星屑たちよ 1
story
医療機器メーカーの製造現場で検査部門の係長をつとめている小坂省吾、省吾の下で働いている派遣社員の川嶋祐里、省吾の恋人の渡辺美玖、以前祐里と関係を持っていた林海斗。この四人の若者たちが織り成す物語。
これといった野心も持たず、事なかれ主義を貫いて、日々何事も起きないことを第一として仕事に取り組んでいる小坂省吾が、部下の派遣社員の川嶋祐里が雇い止めになることをきっかけに、祐里と関わることで少しづつ変わっていく。
「派遣社員が雇い止めにあうのは当然。努力しなかったなれの果てが派遣社員なんだから自己責任」そう言い切る省吾。そんな自己責任論者の省吾が自分でも何故だか分からないまま祐里に心を動かされて、彼女のために雇い止めを回避しようと奔走する。
面倒を背負い込むことを避けてきた省吾は自分の変化に戸惑いながらも、以前人事部に所属していた恋人の美玖まで巻き込んで祐里の雇い止めをくい止めようと奮闘するのだが……。
1
予鈴がなった。もうすぐ昼休みが終わる。
デスクでスマホを弄っていた省吾は椅子から立ち上がると、大きな背伸びをしてから背もたれにかけていた作業着の上着を羽織り、バインダーを片手にオフィスから検査室に向かった。
省吾にとって、たいして重要とも思えない昼礼のために、オフィスから離れた検査室に向かうのはいつも面倒で仕方がなかった。そして今日はいつにも増して、気が重かった。
薄いグリーンのリノリウムの床に蛍光灯の明かりが写りこんで、足元を寒々しい白色に染めていた。冷えた床から靴底を通して冷気が脚まで伝わってくるような気がして、検査室に向かう気持ちが余計に萎えていった。
あー、嫌だ。おもわず独り言が漏れた。
事務的に簡潔に済ませよう。そう自分に言い聞かせながら検査室の扉の前に立った。扉の横のガラス窓から中の様子を伺うと、ざっくばらんに談話をするスタッフ達の姿が見えた。そして祐里はその輪から少し離れた場所に立っていた。
省吾は大きく深呼吸をしてから扉を開けた。省吾に気づいたスタッフ達はぞろぞろと集まって横一列に並んだ。祐里は省吾から見て一番右端に立っていた。
「はい、じゃあいまから昼礼を始めます。今里係長、午前中の進捗状況、それから午後の計画台数をおしえてください」
この部屋の責任者である係長の今里が、少し早い口調で二言三言、省吾に対して進捗状況と見込みを報告した。今里の言葉を省吾はバインダーに視線を落としたまま聞いた。
それから顔を少しだけ上げて、ちらりと全員の顔を眺めた。不意に祐里と目があった。省吾の目をじっと見つめる祐里の視線にひるんだ省吾は、あわててバインダーに視線を落とした。
連絡事項をスタッフ達に伝えて、とくに変わりはないかと訊ね、なにも要望がないことを確認して昼礼は終わった。ここまでものの五分とかからなかった。
この五分のためにこの検査室まで来るのは無駄でしかないと省吾は思っていた。午前中の報告なんて今里から電話を受けるだけで済むと思っていたし、午後からの予定だってそのときに今里に伝えれば済む。
〈朝礼や昼礼でスタッフ全員の表情や顔色を見て、皆がどういうコンディションで仕事をしているか把握するのは、管理職には大切なことだぞ〉
今里からそう言われたことがあった。でも係長になったばかりの省吾にはその言葉の意味がまだ分からない。
〈現場の空気ぐらいは常日頃から肌で感じておかないと、何かが起きたときに対処の仕方が変わってくる〉
今里だけではない。課長の杉崎からも同じようなことを言われたことがある。よっぽど俺は現場を避けているように見られているのだろうか。そう思って、うんざりした。
少し離れたところに立っている祐里の姿が目に入った。
今日の一番大切な用事を思い出して、省吾はあらためて気が重くなった。でも、嫌なことはさっさと済ませるに限ると思い直した。
「川嶋さん、ちょっといいかな」
省吾は祐里を廊下まで呼び出すと、いまから祐里に告げなければならない言葉をあたまのなかで復唱した。
目の前に省吾よりも二十センチは背が低い祐里が立っている。祐里はまつ毛の長い茶色の目で、じっと省吾を見ていた。小柄な体つきと小さな顔の輪郭のせいで、あたまに被っている薄いグレーの制服のキャップが不釣り合いに大きく見え、まるで子供のように見える。
よし、と省吾は覚悟を決めた。
「川嶋さん、派遣の契約の件だけど、派遣会社さんのほうから何か聞いてる?」
祐里は無言のまま、表情を変えずに省吾を見つめていた。このまま返事をしそうにない祐里に、省吾がもう一度話しかけようとしたとき、祐里が口を開いた。
「まだ、なにも聞いていません」
図星だった。省吾は心の中でため息をついた。結局は俺から祐里に伝えないといけないのか。覚悟はしていたけれど、いざ実際にそうなってみると憂鬱な気分が幾分か重たさを増した。
「川嶋さんは、再来月の月末で契約が解除になります。近いうちに派遣会社さんのほうからも話があると思う」
そう伝えてから省吾は祐里の顔をみた。目元の表情は変わっていないように見えたけれど、下唇をぎゅっと噛んでいた。省吾はこのまま祐里との話を切り上げてさっさとオフィスに戻りたかった。
「契約期間よりも早く辞めてもらうことになるけど、賃金は本来の契約満了までの分がきちんと支払われます。川嶋さんから何もなければ、俺からはもう用はないけど」
言葉が冷たかったかもしれないと気づいて、省吾は祐里の様子をうかがった。祐里は相変わらず下唇を噛んだままでいたけれど、その唇をゆっくりと半開きにして、ようやく聞き取れるほどの小さな声で「分かりました」と言った。話がこじれたら面倒だと思っていた省吾は、祐里から「分かりました」という言葉を聞いて、ようやく胸をなでおろした。
「じゃあ、もういいね」と省吾は話を切り上げた。これでひと仕事終えたとオフィスに戻ろうと歩き出したそのときだった。
「あの、すみません」
祐里が省吾に声をかけた。
「なに? どうした?」
「あの……やっぱり困るんです」
〈ああ面倒くさい〉絞り出すようにして祐里の口から放たれた、困るんです、という言葉を聞いて、省吾は目を閉じてため息をついた。
「困るって、何が?」
もしかしたら祐里はごねる気だろうか。
ごねられても雇い止めは省吾が決めたわけではないし、今更どうにもできない。でも、できるだけ角が立たないように処理しなければならない。
とはいえ、いきなり再来月で辞めてくださいと言われたら誰だって困るだろう。
でも、そう言われても俺だって困るんだよ。だから省吾は戸惑った。
そもそもこんな役目は人事の仕事だろう。面倒な仕事ばかりを現場に押しつけやがってと、省吾は心の中で悪態をついた。それから祐里の顔をじっと見た。それが剣吞な視線だったのだろう。祐里はハッとした様子で省吾から目を逸らして少し俯いた。
そして祐里は省吾から目を逸らしたまま、それでも懸命に勇気を振り絞るかのようにしながら訴えた。
「いや、せっかくこの職場ではみんなからも受け入れられて、上手くいってますから、辞めたくないんです」
「うん、それで?」
その言い分は分からなくはない。でも祐里のそんな事情は省吾の関知するところではない。薄情だがそれは事実だった。
「家族のこととか色々あるので、辞めたくないんです」
「うん、川嶋さんのそういう事情は理解出来るけど、それは誰にでもあることだし、そういう理由だけで川嶋さんを特別扱いするわけにはいかないよ」
これで諦めてくれたらいいんだけど、と思いながら省吾はそう告げた。
もしかしたらごねることで何か補償を引き出そうとしているのだろうか、という猜疑心にかられた。もしそうだとしたら俺の手にあまる。でもそれならそれで課長に報告すれば済むかもしれないとも思った。それでこの件が課長の案件になってくれたら、むしろその方が俺は気楽でいいとさえ思った。
「こんどの更新で丸三年になるから、そのまえに辞めさせる、とかですか?」
祐里は相変わらず俯いたまま、省吾から視線を外していた。
祐里のその言葉は図星だった。
でも、いま祐里に告げた契約解除の件は、祐里の派遣契約が満三年を迎える前の雇い止めであることは絶対に認めるわけにはいかなかった。
「いやいや、そんな理由じゃなくて会社のこれからの方針です。契約を終了するのは川嶋さんだけじゃないんです。申し訳ないけど納得してほしい」
省吾はそう告げて祐里の顔を見つめた。俯いているせいで長いまつ毛が目についた。白い肌に真っ直ぐな鼻筋。やや丸い顔の輪郭とすこし厚めのくちびる。
目を惹くほどの美形では無いが、それでも充分に魅力的な顔立ちをしてることに今更ながら気がついて、そのことが省吾の胸をちいさく打った。
省吾には魅力的な恋人がいる。だから猶更一介の派遣社員に過ぎない祐里のことになんてまったく興味がなかったから、いままでそんなことに気付いていたはずもなかった。
祐里の唇がちいさく震えていた。いまにも祐里が泣きだすのではないかと省吾は焦った。
こんな廊下で、しかも検査課の皆から見られていたら具合が悪い。
「川嶋さん、話したいことがあるのは分かった。また改めて話そう。それでいいかな?」
祐里は少し間をおいてから頷いた。
『また改めて話そう』なんていう言葉は、省吾にとっては咄嗟に出たその場しのぎのたんなる時間稼ぎに過ぎない。
じゃあまた改めてね、と伝えながら、省吾はオフィスに戻ろうとした。すこし歩いてから振り返ると、見るからに落胆した様子の祐里がゆっくりとした足取りで検査室に入っていくのが見えた。
薄暗い廊下に検査室の明かりが差し込んでいた。その蛍光灯の白い明かりが、薄暗い廊下をよりいっそう寒々しく感じさせていた。弱々しく扉を開いて検査室に入っていく祐里の姿が、省吾の心にざらついた後味の悪さを残した。
契約が終わりますと告げるだけでも億劫だったのに、それを引き延ばされてしまった。わずかな時間だけ辛抱すれば済むと思っていた仕事が思い通りに済まずに、難しい案件になるかもしれない瀬戸際に立たされてしまった。
省吾は大きなため息をついた。
♫
省吾はオフィスの自分の机に戻ると、脱いだ上着を椅子の背もたれに掛けた。それから「あーっ」と大きな声を出したくなるのを堪えながら椅子に腰かけた。祐里の落胆した様子が、また頭をよぎった。
〈落ち込むのも分かるけど……〉
省吾にだって職を失う不安は分かる。でも、だったら何できちんと就職活動なりなんなり努力して正社員にならなかったんだよと、つい苛立った。
〈まるで俺が悪いことしているみたいじゃないか〉
派遣なんだからこういうことだって充分にあり得る。そんなことは簡単に予測できるだろう。
なぜこうも面倒なことになるんだ。『契約しません』『はい分かりました』本来ならこれだけで済むはずだろう。それが派遣社員というものだろうし、雇用側の企業にとっても、いや、お互いにとってもメリットなんじゃないのか。
省吾はもやもやする気持ちを一旦ととのえて、課長のデスクに向かった。
「派遣社員の川嶋さんの件ですが」
課長の杉崎が「ん?」といった具合に省吾を見上げた。
「川嶋さんが契約を更新してくれって言ってまして」
祐里は契約を更新して欲しいとは言っていない。契約を切られるのは困ると言っただけだ。でも祐里との話が拗れそうになった場合を想定して、省吾は杉崎に強めのニュアンスに変換して伝えた。
「それは無理だ。雇い止めのことは上から散々言われている。そこは派遣さんに泣いてもらうしかない」
杉崎の返事には有無を言わさぬ力があった。省吾は杉崎の厳しい目つきを見ながら、これ以上は祐里のことを伝えるのはむしろ逆効果かもしれないと思った。でも取り合えず祐里の状況は伝えた。いまはこれでいい。
「小坂」
デスクに戻ろうとした省吾に杉崎が声をかけた。
「お前もう一度川嶋さんと話し合うんだろ? それで駄目なら俺が話す」
思いがけず『それで駄目なら俺が話す』という言葉を杉崎から引き出すことが出来た。とりあえずこれ以上面倒なことになったとしても、そこから先には巻き込まれずに済む。省吾は安堵した。
そのとき省吾の携帯が鳴った。今里からだった。
♫
いそいで検査室に向かった省吾が扉を開けると、製造部の松坂係長と主任の林が、なにやら今里とやりあっているのが見えた。あまりいい雰囲気ではないことを省吾は察した。
「今里さん、何があったんですか?」
「あ、小坂か」と言いながら、今里が手のひら大のギアボックスを省吾に手渡した。
「これが?」
「検査基準には合格してるんだけど、変な音がするから気になるって川嶋さんが言うんだよ」
「検査基準に合格しているなら何の問題もないじゃないですか」
省吾は今里と祐里の顔を交互に見つめながら、今里は何を面倒なことを言っているんだろうと訝しんだ。検査して合格基準を満たしているならば何の問題もないだろう。
「いや、それがな、正直俺も怪しいと思ってる」
「何故ですか?」
祐里だけではなく、今里まで変だというなら話を聞く必要がある。省吾は手のひらに乗せたギアボックスを見つめた。
「前回のギアボックスのトラブルも気付いたのは川嶋さんだからな。彼女の耳は侮れないんだよ」
〈あのギアの噛み合わせの異常は川嶋さんが見つけたのか……〉
数か月前に、同じ装置のギアボックスに不良品があることが分かり、全部で十数台にもなる完製品の出荷を直前で慌てて止めたというトラブルがあった。
その異常に気づいたのが祐里だったということを、省吾はいまはじめて知った。
そのときは今里から、問題の部品と対策だけしか報告を受けていなかった。
まさかその異常を見つけたのが祐里だったなんて。
誰が不具合を見つけたのか、あの時にきちんと今里から訊いておくべきだったと省吾は後悔した。
もしギアボックスの異常に気付かぬまま十数台もの製品を出荷して、納品されたあとでトラブルが頻発していたら、会社が被った損害は数千万円どころでは済まないはずだった。おまけに信用まで失ったらそれは金銭で補完できるような問題ではない。つまりギアボックスの異常に気付いた祐里の功績はとても大きい。
「あのときも検査基準的には合格だったろ。だから今回も同じように怪しいんじゃないかと俺は睨んでる」
今里は自信ありげに言った。
「ただ、合格しているのに出荷できない、という判断を下すのは俺の裁量じゃない。小坂、お前が判断してくれ」
今里が言った。省吾は自信に満ちた今里の顔を見ていたら、その目に吸い込まれるような気になった。
今里の後ろには松坂と林が並んでいた。
製造部の係長である松坂は省吾の二年先輩で、林は二年後輩だ。松坂も林も、省吾が検査課に移動する前、製造部にいたときに同じラインの先輩と後輩の関係だった。
「まいったな……」
省吾は思わずぼやいた。結果次第では先輩の、しかも短気な松坂に面と向かって修整を指示しなければならない。省吾にとってそれはとても切り出しにくい用件だった。
でも祐里の判断とはいえ今里が後押しするからには、それなりの根拠があるはずだ。それでも最悪の場合、製品の出荷を止めるとなるとそれも面倒なことになる。その不良個所の対策をすることで製造部の負担も増すし、おまけに納期に間に合わないと営業が怒鳴り込んできたら、その調整は課長の杉崎が受け持つとしても省吾だって無関係では済まない。
「松坂さん、出荷はいつなんですか?」
省吾は念のために訊いた。
「明日」
松坂が吐き捨てるようにして答えた。
あきらかに松坂は機嫌が悪い。当然だ。下手すれば出荷前の製品の不良箇所を明日の出荷までに全部取り換える羽目になる。報告書と改善案も書かなければならない。その負担を考えたら、機嫌が悪くなるのも理解できた。
「松坂さん、仮にこれが駄目だってなったら、対応は明日の出荷に間に合いますか?」
省吾がギアボックスを手にしながら訊いた途端、松坂が色をなして噛みついてきた。
「間に合うも間に合わないも、検査して合格ならそれでいいだろうがよ!ちょっと気になるから、なんていう理由で合格品を撥ねられたらこっちはたまんねえぞおい、省吾!」
松坂の怒声が検査室に響いた。省吾は思わず祐里を見た。祐里は今里の後ろに隠れ、すっかり委縮して俯いていた。
「だいたいこの子の耳がどうのって今里さんも言ってるけど、じゃあ検査基準って一体、な、ん、な、ん、だ、っていう話だぞ?」
「分かります。松坂さんの言う通りだと思います。でも違和感があるっていう数値化出来ない感覚的なものって、馬鹿にできないでしょう? そういうことは松坂さんだって分かるでしょ?」
イライラした様子の松坂も省吾の正論には反論が出来ない。
「この前のこともあります。あれも検査結果は合格でした」
松坂は不満げに『ふん』とでも言いたげな様子を見せてから、これ以上言っても仕方がないという様子で黙った。
省吾はもう一度祐里を見た。相変わらず怯えた様子で俯いている祐里を、この押し問答の矢面に立たせるわけにはいかないと腹をくくった。
「松坂さん、こいつをもう一回テストします。その音が聞こえるまで、聞こえてからもしばらく動かし続けて様子を見ます」
「ん」と松坂が無言のまま頷いた。
今日は朝から上手くいかないと、省吾は心のなかでぼやいた。
この件もそうだけれど、今日一日が上手くいかないのは祐里のせいだという気にすらなった。とはいえ、それはただの言いがかりで、祐里が悪いわけではないことは省吾にも分かっている。
ただ、祐里が契約打ち切りに素直に応じなかったことを省吾が勝手に負担に思っているだけで、祐里は全く悪くはない。でも余計なことを起こさずに一日の仕事を終える、それが信条の省吾にしてみれば、今日は充分についていない一日だったと言えた。
その時、ガチャッと音をたててギアボックスが壊れた。
破損したギアは回転するのをやめ、モーターだけが低い唸り声をあげながら空回りしつづけていた。
今里も省吾もお互いの顔を見合わせた。それから省吾は松坂を見た。松坂も困惑していた。
「念のため、もう一台やりましょう」
省吾がそう言うと、今度は松坂も黙ったまま何も言わなかった。
〈変な音なんて聴こえたか?〉
俺もモスキート音のような高い周波数の音が聴こえなくなる年齢になったのかもしれない。でもたぶん、そういう種類の音じゃない。
きっと、聴こえない音なんかじゃない。注意深く全神経を注げば聴こえる類の音なのかもしれないと省吾は思った。本当に耳の良い、勘の良い職人ならば気づく。そういう種類の音なんじゃないかと。
それが、川嶋祐里には気付くのか。聴こえるのか。
「あっ」
祐里がひと言漏らして、今里も松坂もはっとして耳をすませた。省吾も耳を澄ませたが、祐里が気づいた異音が何なのか誰も分からない。
「多分もう壊れます」
祐里がそう言うや否や、ガチャンと音を立ててギアが外れて止まった。
省吾はただ言葉を失って、ぼんやりと祐里を見つめた。
♫
省吾は松坂と林が引き上げていくのを見届けてから、持ち場に戻ろうとしていた祐里に声をかけた。祐里は自分が訴えたことが誤りではなかったことが証明されたからか、安堵した様子をみせていた。でも省吾から声をかけられると、再び緊張した面持ちに戻った。
「川嶋さん、いまの異音を教えて欲しんだけど、具体的にいうと、どこからどんな音がしたのか分かる?」
「いや、すみません。そこまでは、ちょっと分からないです」
祐里は首をかしげて、省吾に答えた。
ふーん、そうなのかと省吾は祐里の顔をもう一度みつめた。それにしても省吾には祐里にそんな耳があるなんて、それもベテランの今里でも分からない音を聴き分けるということがにわかに信じがたい。
「今里さん、もう一度だけ確かめさせてください」
祐里の耳をもう一度試したい。いま目の間で起きたことを信じない訳じゃない。そうは言っても一介の派遣社員にすぎない祐里がそんな高いスキルをもっているというのも素直に納得し難い。偶然じゃないのかという思いも捨てきれず、省吾はふたたびテストの準備をした。
「川嶋さん、音が聴こえたら教えて欲しい。そこでモーターを止めます」
省吾が電源のスイッチを入れた。省吾の隣で祐里が耳を澄ましている。今里が二人の後ろに立って、覗き見るようにしてその様子を見ていた。
合格基準は既にクリアしていた。ギアは順調にスムーズに回転している。本来ならば合格と判定して終わりだった。モーターと接続されたギアーの回転する低い唸り音が、静かな検査室に響いていた。
この個体は大丈夫なのかもしれないと思った瞬間、あっと祐里が声を出した。省吾は慌てて電源を止めた。
「今里さん、何か聴こえました?」
省吾は振り向くと、後ろに立っている今里に訊いた。
「いや、全く聴こえないね」
この道二十年のベテランの今里ですら首を捻っている。省吾はもう一度電源を入れ、電圧をゆっくりと上げていく。
「川嶋さん、どんな音がしてる?」
「言葉にするのは難しいんですが、何かが不自然に擦れているような、キーキーという嫌な音がします」
祐里がそう答えてからすぐに、こんどはハッキリと省吾にも聴こえる異音がしてシャフトが折れた。
「うん、分かった。川嶋さん、ありがとう。おかげで不良品を出荷せずに済んだ」
省吾は祐里に軽く頭を下げて労ったけれど、契約を解除すると祐里に伝えたときのことを意識してしまい、祐里の顔をまともに見ることができなかった。祐里も省吾に何か言いたげな様子を見せながら持ち場に戻った。
「小坂、ちょっといいか?」
その時今里が省吾を隣の部屋に呼んだ。
今里は隣の部屋に省吾を招き入れると、扉を閉めて、壁際の作業台の前に置かれた丸椅子に腰かけた。それを見て、省吾も今里と向き合う形で座った。
省吾には、今里に声をかけられた理由が、なんとなく分かっていた。
きっと祐里のことだろう。一体何を言われるのだろうかと身構えた。そんな省吾の気持ちを知ってか知らずか、今里が口をひらいた。
「川嶋さんを辞めさせるんだって?」
やっぱり。思っていた通りだった。
「はい。でもその件は人事と僕と杉崎課長しか知らないんです」
今里は黙りこんだままじっと省吾の顔を見ていた。省吾はその今里の険しい表情をみて、なんとも落ち着かない気分になった。
「あと三か月で三年になるからだろ?」
今里は険しい表情を崩すことなく省吾に言った。
はあ、たのむから目を逸らしてくれよ、と省吾は心の中で呟いた。
「はい、その通りです」
「また雇い止めか……」
今里はため息をつきながら、ウンザリだとでも言いたげな苦々しい表情をつくって、静かに不満を爆発させた。
「だったらこの機会に川嶋さんを直接雇用にしてやりゃあいいだろ。三年ルールで雇い止めです、だなんて馬鹿げたことを言って、とにかく直接雇用にするのを嫌がって、毎回それで派遣さんを三年未満で辞めさせるから、ちっとも人が育たないんだよ」
今里は怒りを押し殺すかのように厳しい言葉を静かな口調で続けた。
「技術畑はそれじゃ困るんだよ。人が育たないと、誰がこういった技術を習得して、後進に伝えていくんだよ。マニュアルじゃない、体で覚えることだってあるんだ。あなたは数字がとれませんでした、だからクビです、みたいな営業と技術屋は違うんだよ。技術屋を育てるのには時間がかかる。だから使い捨てには出来ないだろう」
「それは僕も承知してます。でもこの件は、」
省吾がそう言いかけても今里が畳みかけてくる。だから省吾もそれ以上は何も言えなくなった。
「せっかくやる気のある派遣さんだって腐る。そんなの当たり前だろう? どうせ三年未満で辞めさせられるなら、誰だって一生懸命仕事をおぼえて働こうだなんて思わんよ。なのに上の奴らは派遣さんにも朝礼で社訓を唱和させて、正社員と同じ気持ちで働けだなんて要求する有様だからな。いくら何でも虫が良すぎる」
そんなことは言われなくても分かってますから俺に吠えないでくださいよと、省吾は心の中で反発した。
「何がモノづくり大国日本だ。ふざけんな。そんな神話はもう終わりだよ」
このまま今里を放っておいたら日が暮れても話が終わりそうにない。
「とにかく川嶋さんを辞めさせるのだけは俺は反対だ。断固反対!」
「そこまで彼女に拘らなくてもいいじゃないですか」
何を面倒なことを、とでも言いたげな省吾の問いに、反対するのは当たり前だろうとでも言わんばかりに大袈裟な表情をしながら今里が答えた。
「だって今の川嶋さんの耳、見ただろう? あれは検査課の財産だぞ」
財産だなんて大袈裟だと思いながら、省吾は今里の言葉を聞いた。
「前に問題になったギアボックスの破損のときも川嶋さんが気づいたんだからな。それがなかったら不良品を大量に出荷して、市場に出回ってから『はい、リコールですから回収します』なんていう有様になって、それこそ大変なことになっていたんだぞ。それがどれだけまずいことなのか想像つくだろ?」
「いや、今里さんが言いたいことは僕だって重々承知してますよ。でも僕じゃ川嶋さんの件はどうにもできないんです」
省吾はそう弁明した。事実、一介の係長に過ぎない省吾に人事権なんてあるわけがない。
すると今里が返した。
「じゃあ俺が杉崎課長を説得すればいいのか? 分かった。お前の代わりに俺が言ってやる」
いや、ちょっと待ってくださいと省吾は慌てて今里を止めた。そもそもこの件はまだ省吾と杉崎の間でしか共有されていない話だから、今里が割り込んできたら困る。
「今里さんの言いたいことはもっともですし、僕も本当は川嶋さんには辞めてもらいたくないんです。それだけは分かってくださいよ」
そう言いつつも、省吾にとってこの件は既に厄介でしかなかった。
これで祐里が素直に辞めると言ってくれても、今里がこの通りごね始めたせいで、どちらに転んだとしてもスッと解決しそうにない。
〈川嶋祐里がごねたと思えば今度は今里さんまでごねるのかよ〉
省吾は背中を反らして天井をみた。天井についた大きな染みが、祐里の退職の件が上手くいかないことを暗示しているように思えた。
今里は情に厚い。だから部下のことは川嶋祐里に限らず全員を大切に思っているんだろう。そんな今里と比べたら俺は何て薄情なんだろうと省吾は自嘲した。
「とにかく俺は、川嶋さんを辞めさせることだけは絶対に反対だ」
今里が省吾に強い調子で念を押した。そんな今里の目つきが、いつもは穏やかな今里には似つかわしくない厳しい目だということに省吾も気付いていた。その目は、この件だけは一歩も引かないぞ、という強い意志を漲らせていた。
この様子では、今里もそう簡単には納得しないだろう。省吾はもう一度天井を見上げてため息をついた。
2
今里とのやり取りを終えて、省吾はオフィスに戻った。それからギアボックス破損の報告書を書くために自分のデスクに座り、ひとまず気持ちを落ち着かせてからパソコンに向かいキーを叩いた。
〈とにかく俺は、川嶋さんを辞めさせることだけは絶対に反対だ〉
今里の言葉が耳の奥で響く。まるで今里が隣に座っているような気がした。
普段は穏やかな今里が省吾に見せた厳しい目付き。
祐里の落ち込んだ姿がパソコンのディスプレイにチラリと映って見えたような気がした。
省吾はこれ以上、報告書をつくることに集中出来そうになかった。
しばらく逡巡したのち、省吾はゆっくりと立ち上がり杉崎のもとに向かった。
杉崎は省吾の報告を時折頷きながら黙って聞いた。
頭の回転が速く勘が鋭い杉崎ならば、省吾の報告はただ単にギアボックス不良についてだけではなく、祐里の功績を遠回しにアピールしつつも、派遣契約の更新を暗に要求するものだと気付くだろう。
祐里の契約の件で妥協点を探すのは絶対に駄目だと、杉崎ならばそう言うに違いない。今里の意見であろうと杉崎は撥ねつけるだろうと省吾は思っていたから、杉崎が頷きながら祐里の話に耳を傾けていることが意外だった。
杉崎は省吾の話を聞き終えると、うーんと唸ったきり黙り込んだ。
杉崎の右手の人さし指が机をトントンと叩いているのが、省吾を余計に緊張させた。
「前回のギアボックス破損も川嶋さんが見つけたんだな?」
「はい、確かに」
「それで、今日もか?」
「はい。ギアボックスが壊れるまでの一部始終を自分も見ていましたから、間違いないです」
省吾の言葉を聞くと、杉崎はまた黙り込んだ。
省吾はこの沈黙がたまらなく嫌だった。文句を言われるにしろ何にしろ、さっさと終わらせて欲しいと思った。
「うん、今里さんも呼ぼうか」
えっ? と省吾は驚いた。
杉崎が祐里の派遣契約の話に態度を軟化させることはまずあり得ないと思っていた。祐里の話がどこか違う方向に転がりだすなんて。省吾には全くの想定外だった。
省吾はすぐに今里に電話した。
暫くしてから今里が飛んで来た。
今里の顔には笑みが浮かんでいた。省吾はその様子を見て、今里には杉崎を説得する自信があるのだろうかと訝しんだ。
今里は杉崎に、祐里がいかに検査課にとって代わりが効かない人材なのか熱弁をふるった。省吾は今里の隣りに立ってその様子を眺めた。
そんな省吾の脳裏に再び、視線を床に落としたまま動かない祐里の姿が浮かんだ。
長いまつげと、いまにも泣き出しそうな震える口元。祐里が纏う儚けな雰囲気に気づいたときの、省吾の胸を打ったちいさな響きも思い出した。
〈川嶋祐里か……なんだか幸せそうには見えないんだよな〉
省吾の心に、つい罪悪感が湧いた。
祐里にどんな事情があるのかなんて知らないし、そのことに関知するつもりもない。会社の上の人間が決めたことに従うのが下っ端である俺の役目だと省吾はわきまえていた。
俺は今里さんのようにはなれない。いや、ならない。
だから今朝、祐里に契約を打ち切ると伝えたことは、何ひとつ間違ってなんかいない。俺の適当な判断で祐里を辞めさせるわけじゃない。
上が決めたことだ。仕方がないことだ。だから祐里から恨まれる筋合いはない。卑屈になる必要も全くない。省吾はもう一度自分に言い聞かせた。
省吾にとって、派遣社員が辞めていくのを見送ることなんてちっとも珍しいことじゃない。恨みがましい捨て台詞を吐かれたことだってあった。
でも省吾はそのたびに思った。派遣なんだから仕方がないだろうと。
長期で働きたければ、身分を保障してもらいたいなら、人並みの努力をして正社員になればいいんだと。川嶋祐里だってそうだ。大勢いるそんな派遣社員のなかのひとりに過ぎない。
〈小坂、誰もが努力を実らせることが出来るわけじゃないぞ。努力しようにも努力すらさせてもらえない状況の人だって世の中にはたくさんいるんだよ〉
言葉には出さなくても、人にはそれぞれ様々な事情がある。誰しもが望んだ人生を送れるわけじゃない。精一杯の努力が報われない人だっている。
省吾はそんな今里からの言葉を思い出した。
でも省吾には今里の言葉はまだピンとこない。省吾にとって、一般的な企業の正社員になる程度の目標であれば努力で超えられない壁などではない。
でも、社会の網目は決して細かくはない。その網目からこぼれ落ちてしまう人も少なからずいる。どれだけ努力しても正社員になることすら叶えることが出来ない人もいるということを、省吾は想像すら出来ない。
祐里の顔を思い出した後、省吾はぼんやりとした頭で恋人の美玖の顔を思い浮かべてみた。
きれいに手入れされた髪の毛に流行りのメイク。こめかみからあごの先まできれいな弧を描く顔の輪郭。くっきりとした大きな瞳。プロポーションのよい身体によく似合う、高級ブランドのブラウスとスカート。上質な革のパンプスにハイブランドのバッグ。
有名私立大学を卒業して、父親は大手銀行の幹部。
名もしれぬ中小企業の中間管理職の息子の省吾と比べたら、育った環境には雲泥の差がある。親から与えられたものの数だって省吾と美玖とでは比べ物にならないはずだ。それは物質面でも、精神的な面でも。
そしてなによりもコネで授かるチャンスの数。それこそが努力なんかじゃ超えられない高い壁だと省吾は思う。
杉崎と今里の話し合いはまだまだ終わりそうな気配を見せない。この問題は現場の中間管理職同士の話し合いで解決できるような簡単なことではない。省吾はそれを杉崎の厳しい表情をみて改めて感じた。
川嶋祐里の雇い止めの決定は会社としての判断であり、それを無暗に覆すわけにはいかない。それに自分にはその権限もないという立場を貫き通している杉崎。片や、どんな場面であろうとも最終的には正義や正論が通るべきだという前提で話をしている今里。
今里はかなり分が悪いと省吾の目には映った。
「なあ小坂。お前もそう思うよな?」
今里がいきなり省吾に尋ねた。省吾はボンヤリとしていたから不意を突かれた。
「そう思うよな、ですか?」
今里の話をきちんと聴いてなかった省吾は恐る恐る今里に問い返した。真剣な表情の今里に対して、ボンヤリしていて聴いていませんでした、なんて答えるわけにはいかない。
「川嶋さんは検査課に絶対に必要な人材だよな?」
今里が省吾に念を押すようにして問いかけた。
狡いのは承知している。でも省吾は杉崎の前で今里に同調する姿勢をはっきりさせたくない。
だから今里の問いには答えずに、今日見たこと、祐里に対して感じたことを正直に杉崎に伝えた。
「じゃあ小坂も、川嶋さんは残留させたほうがいいと思うんだな?」
杉崎が厳しい視線で省吾を見た。
この場面は何と答えるのが正解なんだろう。省吾は躊躇した。
「はい、そうです」と答えてしまえば今里側に立つことになる。課長には逆らいたくはない。だからと云って、今里の熱意に水を差すようなことを言うのも嫌だった。
どちら側にもつかず、のらりくらりとかわしてしまいたい。
でも省吾には、契約解除を告げたときの祐里の物悲し気な後ろ姿が忘れられそうになかった。
本当は検査課の責任者である杉崎の言うことには出来るだけ素直に従いたい。異を唱えるなんてしたくない。でもこの場で今里を見殺しにするわけにはいかない。そして祐里に対して後ろめたさを感じるようなことは減らしたかった。
ここで逃げることは出来ない。省吾はようやく覚悟をきめた。
「はい、僕も川嶋さんを辞めさせるのには反対です」
言ってしまった。なんで課長に異を唱えてまで祐里を庇うようなことをしなきゃいけないんだ。今日の俺はちょっとおかしい。
この期に及んでも省吾はそんな風に思った。でもここで背後から今里を撃つわけにはいかない。それで祐里を辞めさせたとしても後味が悪い。結局は自分が選んだ答えを飲み込むしかない。
「分かった。駄目元で人事に掛け合う」
省吾の言葉を聴いた杉崎が言った。その言葉を聞いて、省吾も今里も驚いた。
「だけど今里さん、期待はしないでください。僕にもこれ以上のことは出来ませんよ」
まさか杉崎がそんな答えを出すとは、心の奥底では省吾も今里も思っていなかった。
ありがとうございますと、今里が杉崎に頭を下げた。
いや、祐里を会社に残すならもっと確実なやり方がある。
省吾にあるアイデアが思い浮かんだ。派遣の継続にこだわる必要なんてなかった。
会社は派遣社員の三年ルールを護るだろう。そもそも派遣社員を同じ仕事に三年以上従事させるのは法で禁じられている。それに加えて会社にとって派遣社員は使い勝手のいいコマでしかない。
祐里の雇い止めをせずに三年満期まで働かせてからその後も派遣契約を継続して延長したとする。その場合、派遣社員に三年以上同じ仕事に従事させることは法で禁じられている。
だから再契約後は祐里を検査課から違う部署へ移動させなければならない。つまり検査課はどのみち祐里を失うことになる。
雇い止めを受け入れて退職してから法で定められた三か月後に派遣社員として再雇用する。その場合は再び検査課で受け入れることは可能だろう。でも祐里にはその間は無職というブランクが空くし、派遣会社と再び契約を交わす保証もない。
「杉崎課長」
省吾は杉崎に声をかけた。ん? という表情をして杉崎が省吾を見た。
「もし杉崎課長も川嶋祐里さんの雇用継続を前向きに考えてくださるなら提案があるのですが」
「相談? なんだ?」
省吾は一度深呼吸をした。杉崎に何かを上申するのは、いつも緊張した。
「川嶋さんには雇い止めを受け入れてもらって、アルバイト社員に応募してもらいましょう」
アルバイト社員なら直接雇用になるし欠員が生じれば募集できる。余程のことがなければ解雇にもならない。この職場で働き続けることが出来る。
それに派遣会社の中抜きが無い分だけ少しだけ時給が高い。年に二回は寸志が出る。正社員のボーナスとは違い三万円ほどだが、無いよりははるかにいいだろう。
「人事に対しては課長から欠員補充の申請をする。それで派遣止めにするのと引き換えに有利な応募条件で直接雇用してもらう。そんな交渉をするわけにはいきませんか?」
「有利な応募条件?」
「はい、たとえば履歴書を出すだけで自動的に採用決定にするとか」
杉崎が首を傾げながら省吾を見た。
「会社は派遣社員を三年間以上継続して満五年まで雇用するという前例をつくりたくない訳ですよね?」
会社は派遣社員を大切に扱うつもりなんてハナからない。使い捨てでいい。
「だったら欠員補充のアルバイト社員募集に応募してもらうほうが手っ取り早いと思うんです」
杉崎は黙って省吾の話を聞いた。今里も省吾の顔をじっと見た。
「それに派遣契約の延長の場合、再契約後は川嶋さんを検査課は手放さなければならない。だから川嶋さんの後任を採用しなければならない。ですが検査員をイチから育成するのは簡単なことじゃありません。ですから川嶋さんが残ってもらえるのであればそれが最善策です」
省吾の話を聞きながら杉崎が頷いた。
「なによりアルバイト社員のほうが派遣スタッフよりも待遇がいいです。川嶋さんにもその方がいいと思うんです」
「まあな。川嶋さんが残ってくれるならそれがいちばんいい。直接雇用のアルバイト社員なら川嶋さんに残ってもらえる。待遇も良くなる。欠員補充のアルバイト社員ならば俺が申請すれば募集出来る」
「ならば検査課で川嶋さんを直接雇用のアルバイト社員で採用しませんか? 人事と交渉して、雇い止めにする代わりに直接雇用のアルバイト社員にしてもらう。僕も川嶋さんを辞めさせることは惜しいと思っています。熟練の検査員は絶対に必要です」
「せっかく育ったと思ったらこんな風に辞められるのも、検査課にとっても会社にとっても、なんの得にもなりませんよ」
今里が言った。その言葉に省吾も頷いた。
「俺が人事部長を説得できるか。それ次第だな」
杉崎は腕を組んでじっと考え込んでいた。
オフィスには省吾たち以外にも数名の課員がパソコンに向かって作業をしていたけれど、奇妙なほどに静かな空気がオフィスを満たしていた。まるで誰もが息を潜めて、時計の秒針が落ちる音を待っているような静けさだった。
その中で空調のカタカタという音が普段よりも耳についた。その静けさが細い針で心を突くように、三人の間の緊張をいつもよりも余計に鋭く研ぎ澄ましていた。
「先日の製品不良の件も、見つけたのが川嶋さんだったとはな」
ふーぅと息を吐いてから杉崎が言った。それに今里が頷いた。
「つまり、それだけのスキルがある川嶋さんは、正社員の君たち二人よりも遥かに優秀っていうことだよな?」
そう言って杉崎が笑った。それを聞いて省吾も今里も苦笑いするほか無かった。
「そんな川嶋さんに派遣契約が丸三年になるからその前に辞めてくれというのは確かに筋が通らない。まあ、川嶋さんの件も今朝までとは意味合いが変わってくるだろう」
仕方ないとでも言わんばかりにもう一度ため息をついてから、杉崎が口を開いた。
「川嶋さんを直接雇用のアルバイト社員として再雇用するよう、人事部長と交渉するよ」
おおっ、という具合に今里の顔が緩んだ。
「でも当然ながら最終的に判断するのは俺ひとりじゃない。人事部長も俺に丸投げはしない。だからそれは忘れないでくれよ。それから、川嶋さんには期待をもたせるようなことは絶対に言うなよ」
俺には人事の権限なんて殆どないんだよ、という杉崎のぼやきに今里が頷いた。
省吾も課長に礼を言った。そして、これだけ手を尽くしたならば、祐里に契約を打ち切ると伝えることになったとしても、後ろめたさも少しは減るだろうと思った。
♫
その日の夜、省吾は恋人の美玖と、自宅近くの小さなイタリアンレストランを訪れた。白いクロスが掛けられたテーブルにつくと、美玖が真新しいショッピングバッグを持っていることに気がついた。
それもきっと、紙袋の上質さから察するにハイブランドのショッピングバッグだろう。美玖の表情もどことなく嬉しそうに、いつもよりも浮かれているように見えた。
美玖の金銭感覚についていけなくなることが省吾には度々あった。そのたびに省吾の気持ちは古い椅子に腰かけたときのように軋んで小さな音を立てた。
育ち方の違いとは言え、自分と美玖の金銭感覚の違いは、結婚や同居することを考えたら決して無視することは出来ない大切な問題だと省吾は思っている。いや、自分だけではなくて、世間一般の大半の人がそう考えているはずだと省吾は思っている。
それは天井から垂れ下がった蜘蛛の巣のように気にせず放っておくことも出来るかもしれない。でもいずれ我慢できなくなる。そういう類の苛立ちだった。
「ねえ、前から欲しかったロエベのバッグ、買っちゃった」
そう言いながら、美玖が身を乗り出すようにして、省吾の顔をじっと見つめた。
心の底から湧き上がってくる歓びを、濁らせること無く包み隠すこともなく、屈託のない笑顔にして魅せる。美玖からその笑みを見せられると省吾も、美玖にどうしても厳しいことを言えなくなってしまう。
「ロエベ?」省吾はこういったやり取りにも、女性のブランドの嗜好にも興味が全くない。でも訊かなければ訊かなかったで美玖はたちまち機嫌を悪くするのが目に見えている。世の一般の女性たちは皆似たようなものだ。省吾はそう自分に言い聞かせた。
省吾はひどく疲れていた。長い一日だった。祐里に派遣契約を解除すると告げてからものの数十分後に祐里の評価を見直さざるを得ない出来事がおきて、祐里のずば抜けたスキルの高さを知った。
そして最後は杉崎が祐里の残留を人事に掛け合いに行くことになったというふうに、数日間にわたって起こるような出来事が今日の午後に集中して立て続けに起きた。省吾が疲労困憊するのも無理は無かった。
課長は週明けの月曜日の午前中に会議があるから、それが終わってから人事部長に話をすると言っていた。
そのことを省吾は思い返しながら、ワインの入ったグラスを適当に揺らしていた。グラスの中のワインが揺れるたびにワインに当たる光も映る景色も揺れて動いた。
祐里の件はこれからどう進んでいくんだろう。
人事部長から二~三日は時間を寄こせと言われたとしても、来週末には答えが出るはずだ。さっさと済めばいいけれど、祐里もそれまでの間は気が気じゃないだろう。つい脳裏に、息を詰まらせたように立ち尽くした祐里の姿が思い浮かんだ。
「ねえ、わたしの話聴いてた?」
その言葉に驚いて省吾が顔を上げると、心配そうな表情の美玖が省吾の顔を見ていた。省吾は美玖の話を全く聴いていなかった。
「ごめん、全然聴いてなかった」
あわてた省吾は素直に謝った。
「いいけど、大丈夫? ひどく疲れてるように見えるよ」
美玖の言葉に省吾は首を振って、大丈夫とだけ伝えてから美玖のグラスにワインを注いだ。
〈本当は居酒屋の方が落ち着くんだよな〉
省吾はふと思う。自分の親父はごく普通のサラリーマンだと。
たいして有名でもない、というかおそらくほとんどの人は知らない機械工具の小さな商社に勤めていた。量販店で買った安いスーツを着て、踵がすり減って傷だらけになった安い靴を履いて、テカテカと安っぽく光るカバンを持ち、朝早くから夜遅くまで働いていた。
でも、休日は釣りに連れていってくれたし、サッカーの練習にも付き合ってくれた。
そういえば小学生のときに、どうしても欲しいと駄々をこねたけれど母が許してくれなかったラジコンを買ってきてくれたこともあったと、美玖の左腕に輝いているシルバーのバングルをぼんやりと見つめながら、省吾は父との思い出を振り返った。
〈家族で通った中華料理店も、もう無くなったもんな〉
「ねえ、ずっとぼんやりしてるけど大丈夫? やっぱりどこか具合が悪いんじゃない? 今日は早く帰ろう。省吾くんいつもと様子が違うよ」
美玖が心配そうに言った。
省吾は疲れていたけれど、今夜はどうしても美玖を抱きたかった。美玖とのセックスでストレスや鬱憤を晴らしたかった。
焦げ茶色の薄いニットの上からでもはっきりと分かる、形のいい胸を揉みたかった。しつこいぐらいに互いのくちびるを貪りあうようなキスをしたくて堪らなかった。
省吾は美玖の、上品なレースのショーツが包み隠している白い尻を、うつ伏せになった美玖のその尻に手を添えて、美玖の身体を激しく揺らしてやりたいと思った。
省吾はワインを一息で飲み干した。今夜は祐里のことも、課長の顔も、すべてきっぱりと忘れてしまおうと思った。
3
林は昼休みの残りのわずかな時間を、風に当たりながらぼんやりと過ごしたくなった。
天気は気持ちよく晴れていて、日陰は涼しくて過ごしやすかった。すぐに持ち場に戻る気分にもなれず、少し先にある藤棚の下のベンチでぼんやりと時間をつぶしてから持ち場に戻ろうと思った。
藤棚の近くまで来ると、祐里がベンチに座っているのが見えた。
祐里がこんなところで休んでいるのは珍しかった。林は足を止めて祐里の姿を見つめた。
製造部の林は省吾の二年後輩で、元々は製造部に所属していた省吾と同僚として一緒に働いていた。
そして祐里が検査をする製品は、林がサブリーダーを務める製造ラインの製品だったから、祐里と林のあいだには日頃から密なコミュニケーションがあった。
林はベンチに座っている祐里の前に立って、しばらく黙ったまま祐里を見つめた。藤棚の影が祐里の膝と足元に映って揺れていた。
祐里はうつむきながらぼんやりしていて、林にはまったく気づいていない。
「祐里、元気か?」
そう声をかけて、林は祐里の隣に腰かけた。ふわっと、祐里からシャンプーの匂いがした。
林は祐里の顔を見つめて、祐里の表情に影があることに気がついた。
「祐里の耳、さすがだな。あのままギアボックスの不良に気付かずに出荷していたら、きっと大変なことになってた」
祐里が林の顔を見つめて微笑んだ。
「あのことなら変に気を遣うなよ。松坂さんは短気だから、すぐにキツイことを言うけどさ」
「うん、大丈夫。松坂さんはああいう人だって知ってるから。気にしてないし」
祐里はそう答えたけれど、やっぱり元気がない。
林は祐里になにかあったのかと思いを巡らせてから、不意に気がついた。
〈祐里はたしか、派遣契約がもうすぐ三年になるはず〉
祐里に元気がないのは雇い止めになるせいかもしれないと林は感づいた。でもそれをズバリと口に出すのは少し憚られた。もしそうだとしても、たかだか主任の林に出来ることなんてなにひとつない。
「なあ、何か悩みでもあるのか?口に出すだけでも楽になるなら、聴くぞ」
林は祐里の横顔を見つめた。
祐里はうーん、と首を傾げる素振りを見せたあと、ぶらぶらとさせていた足で地面を蹴った。
「今里さんから、なにか叱られたりでもしたのか」
温厚な今里が祐里を叱ることは考えづらいけれど、とりあえず、という体で祐里に訊ねた。
「違う。そんなんじゃないよ」
祐里が林の顔を見つめながら静かに答えた。
祐里の表情には、林が最初に見かけたときよりも、僅かではあるけれど生気が戻っていた。そんな祐里の顔を見て、林の心の中で何かが転がり小さな音を立てた。
〈もしかしたら祐里は俺に会いたくてここで待っていたのかもしれない〉
そしてきっと祐里は俺に聴いて欲しいことがある。林はそう思った。
「じゃあ、省吾さんとなにかあったとか?」
祐里が足をぶらぶらさせるのを止めて黙り込んだ。
やっぱり派遣契約の件だろうと林は察した。
「違うよ。小坂さんも関係ないしな」
祐里がちらりと林の顔を見た。林は祐里の長いまつ毛と、少し厚めの唇をみて、ふと祐里の肌の匂いと手触りを感じたような気がした。
そんな祐里の髪を、頬をつい撫でたくなった。
「なあ、久しぶりに飲みに行くか?」
林はつとめて明るくしようと思い、祐里に声をかけた。
祐里は林をみながら、黙って頷いた。
丁度そのとき、昼休みの終わりが近いことを知らせるサイレンがなった。祐里は黙ったまま立ち上がって、林に小さく手を振った。その手のひらは儚げに風に揺れる薄い紙片のように見えた。
祐里は検査課のある棟の扉を開き、振り返らずにその中に消えた。
♫
祐里は林と、職場の最寄り駅から少し離れたところにある古い居酒屋のカウンターに並んで座った。
油と湯気が霧のように立ち込める狭い厨房のすぐ正面の、油のせいでほんの少しべとついている年季の入ったカウンターに肘をつきながら、林は祐里から雇い止めの顛末を聴いた。
「小坂さんが話を聴いてくれたの。一応だけど、って。課長に伝えるだけ伝えてみてくれるって」
「えっ、省吾さんが?」
祐里の言葉を聴いた林は驚いた。
「自分にはどうにも出来ないけど、わたしの事情や気持ちは課長に伝えますって言ってくれた」
『アイツはことなかれ主義者だから』などと陰で言われるくらい、余計な仕事とは距離を置いて、面倒ごとは一切抱え込まない主義の省吾。
そんな省吾が祐里のためにわざわざ、雇い止めを考え直して欲しいと杉崎課長や会社側に掛け合おうとするつもりなのだろうか。
「雇い止めになる祐里の話を省吾さんがわざわざ聴くなんてさ、意外だから驚いたよ」
林は祐里の顔を見ながらジョッキのビールを飲んだ。
「でも省吾さんはいい人だって海人さんがいつも言ってるから。最初は冷たかったけど、やっぱり聴いてくれる人なんだって思った」
祐里がハイボールの入ったグラスを口につけた。それから、ふぅ、と息を吐いて林の顔をじっと見つめた。
そうかと林は頷いて、祐里の顔を見た。
「今里さんには頼らないのか? 省吾さんよりも普段から世話になってるんだろ?」
「小坂さんから雇い止めを言われてすぐに今里さんに相談したけど」
「今里さんは何て?」
「小坂さんにかけあってやるって」
〈今里さんはずいぶんと祐里を可愛がっているんだな〉
今里が面倒見のいい人だということは林も知っている。省吾よりもむしろ今里のほうが検査課のスタッフをまとめる役に相応しいと林も思っていた。
「今里さんはいい人だよな」
林は独り言のように呟いて、ビールを口にした。
「うん。たまにね、検査課のスタッフを飲みに連れて行ってくれるの」
それも今里なりの気配りなのか、それとも気配りとは無縁の省吾と、意識しながらバランスをとっているのか。
どちらにしろなかなか出来ることじゃないと林は思った。
「じゃあ今里さんには相談しやすいよな。省吾さんよりも遥かに」
「うん。色々ね、聞いてくれる。重い話も、しょうもない愚痴も全部」
「祐里も今里さんは随分信頼してるんだ」
「うん。言いづらいことなんかも色々聞いてもらった」
祐里はグラスを手に、伏し目がちにカウンターの上を見つめた。
「お父さんが腰を痛めて働いていないこととかね、いろいろ」
祐里がグラスに口をつけた。林は祐里の湿った唇を見つめた。
「なかなか言えない胸の内をさ、親身になって聞いてくれるだけでも嬉しいじゃん」
たしかに、と林は思う。
「分かってくれるの。今里さんは。聞いてくれるの。それだけでも嬉しいよ」
祐里の口から今里の話を聞きながら、林は省吾のことを思った。
〈初めてあったころの省吾さんは、今とは違った〉
省吾は気真面目過ぎると林は思う。
そんな省吾は誰かから相談されても、それが本当に答えを求めている相談なのか、答えなんて求めていないただの愚痴なのかもよく分からないぐらい、生真面目で融通がきかないんだろう。
大事なこともつまらないこともすべてをまともに受け止めようとして、そのたびに心をすり減らしてしまったんだろう。
そして、省吾は自分が正しいと思うことならば、誠意をこめて熱心に説得すれば理解してもらえると思っている。
でも、なかにはそんな省吾を疎ましく思う人間もいたし、省吾の誠意が真っ直ぐに届かない相手だって、もちろんいた。
そんな省吾さんは独善的でもあった。だから躓いた。そして挫けた。それからは人が変わったかのように、熱を失った。
林は省吾のことが好きだ。省吾は愛想も悪いし不器用だが、人としてとても誠実だと思っている。
そんな省吾が、祐里のことに真摯に向き合おうとしていることが、林には引っかかった。
いまの省吾は興味があることと無いこと、する必要があることと無いことをきちんと分ける。それも時として冷淡なほどに。
だから林が知っている省吾は、祐里の雇い止めを上司に掛け合ってまで何とかしようとするような人では無い。『無理です。出来ません』それで終わりにしていたはずなのにと思う。
省吾は祐里に対して、何かを感じたのだろうか。
もしも、仮に省吾が祐里から何かを感じていたとしても、省吾は仕事と私情はきちんと切り分けるはず。じゃあ何故だろう。
省吾も以前より性格が丸くなって情にほだされるようになったんだろうか。
林は考えれば考えるほど、省吾が何をどう考えているのか分からなくなった。
もし省吾が祐里になにかしら普通じゃない感情をおぼえてそれに惹かれているんだとしたら。
考えられなくはない。祐里と同じ部署にいるならば関わる機会も当然多いだろう。でも省吾には恋人がいることを林は思い出した。
〈人事部にいた目立つ美人。そう、渡辺美玖さんだ〉
省吾は美玖と上手くいっているのか、いないのか。林はそれが気になった。
林は祐里の横顔を見つめた。
林は祐里の横顔が好きだった。長いまつ毛といい、真っ直ぐな鼻筋といい、そしてめくれたような唇から顎にかけての線が、とても好きだった。
〈あの検査室にいる人たちは誰も、祐里の美しさに気づいていない〉
林はそんな祐里の裸を、いつもはショーツの下に隠してある秘密の場所を、林に抱かれているときに見せる切なげな表情を、こらえきれずに洩れる喘ぎ声を、そんな誰も知らない祐里を知っているという、不思議な優越感に浸る。
それにしても省吾は祐里のことをどう思っているんだろう。そしてもしもこれから先、祐里のことを恋愛対象として意識しだしたとしたら。
いや、省吾が祐里を好きになるなんてあり得ない。
林は自分に言い聞かせる。でもそう言い切れるのか。
林は省吾とは五年間を同じ部署の先輩後輩として共に過ごしてきた。そして省吾を尊敬しているし慕ってもいる。でもたとえそんな省吾が相手でも、祐里だけは獲られたくない。
林は以前付き合っていた祐里をまだ諦めていない。祐里から一方的に別れを告げられてからもこうして頻繁に会って、ときには夜を共にしている。
きっと祐里にだって、俺に対する恋愛感情はまだ残っているはず。
祐里と一緒になれたらどれだけ幸せだろう。祐里を連れて故郷に帰る。林は時々そんな夢をみる。
林は時計を見た。もう二十二時を過ぎていた。
「出ようか」
林が祐里に声をかけた。祐里が頷いた。
店を出て、少し歩いたところにある高架の陰で、ふたりはキスをした。
軽く唇をかさねただけのキスだったけれど、祐里のくちびるがもう一度キスをせがむように、僅かにひらいた。
ふたりはもう一度くちびるを重ねた。こんどは、お互いのくちびるの感触を、舌の感触を確かめ合うような、身体が火照って背中が汗ばむようなキスだった。
「ウチに来るか?」
林が祐里に訊いた。
祐里は林の目を見つめたまま、黙って頷いた。
それから二人はもう一度長い、長いキスをした。
月の明かりも差し込まないような繁華街のはずれの物陰を、わざわざ覗き込む通行人なんて、誰一人いなかった。
♫
服を脱いで裸になった林と祐理は、林の部屋のベッドの上で身体を重ねた。
半分だけ開いた窓のレースのカーテンが僅かに揺れるたびに、ふたりを包む薄い明かりと影も、ふたりの身体の上で僅かに揺れて動いた。
夜の闇が部屋に満ちて、窓から射し込む月の明かりがふたりを青白く染めていた。
きつく抱き合って、お互いの身体の隅から隅までを丁寧にたしかめるように撫で合いながら、激しいキスを交わした。
林は祐里が穿いているショーツを右手でまさぐりながら膝までずらした。祐理が仰向けで寝そべったままベッドから腰を浮かせて、ショーツがするりと祐理の太ももから脚へと滑っていった。
ふたりは以前付き合っていた。でも祐里のほうから別れを告げた。なのにいまでもふたりは時々こうして身体を重ねあっていた。
いまでも林は祐理が好きだ。祐里から別れを告げられて、どんな説得にも応じようとしない祐里のかたくなさに折れて別れを飲み込んだ。
それでも祐里の想いを仕方なく受け入れてから今に至るまで、ずっと祐理のことを諦めていない。心の底から変わらずに愛している。
こうして繋がりさえ保っていれば、いつか祐里と必ず一緒になれる。
林は祐理のまつ毛の長い薄茶色の目を見つめながら、祐理の唇を指でなぞり、唇の柔らかさを確かめた。そして湧き上がってくる祐理への断ち切ることが出来ない熱情に激しく揺さぶられた。
林の実家は地元ではよく知られた旧家で、医療機器や消耗品を扱う商社を営んでいる。後継者は兄で、林もいずれその会社を手伝う身だ。
林ももう二十九歳。両親はいつまでも自由にさせておく気はない。
もちろん結婚もその一つだ。相手が誰になるかは、両親にとって無視できない問題だった。婚約者を無理やり押しつけられることはないにしても、両親だって林の交際相手に無関心ではいられない。
祐里も林の気持ちを知っていた。林がどれだけ自分を愛してくれているかも知っていたし、林の愛に応えたいと思っていた。何度も応えようと思った。でも、それは出来なかった。どうしても出来ない理由があった。
祐理には誰にも知られたくない秘密があった。
もしこのまま林と交際を続けて、わたしと添い遂げたいという気持ちが林の中に湧いたら。その気持ちを林が両親に漏らしたとしたら、地方の旧家でもある林の両親は林家の嫁になるわたしのことをきっと調べるはずだ。祐里はそう思っていた。
どこの馬の骨とも分からない女。
林の両親から見たら、祐里はそういう種類の女だと思われるに違いない。
そして祐里の秘密を林の両親だけではなく、最悪の場合には他の誰かに知られてしまうようなことになったら、ようやく手に入れたいまの落ち着いた暮らしを失ってしまうだろう。
わたしはなんてずるい女だろう、酷い女だろうって、祐理は自分でも分かっていた。
林が祐里を想う気持ちを知っていて、林がどんなに苦しい思いをしているのかも分かっていながら、林の気持ちを自分に都合よく利用している。そんな林の気持ちを知っているなら、分かっているなら、突き放したほうがいいことぐらい祐里にも分かっている。
でも林はいまの関係のままでもいいという。どんな形でもいいから、祐理と繋がっていたいと言う。祐理は俺に甘えてくれていいと、俺を利用してくれたらいいと林は言う。
でもそんな林だって、わたしが隠し持っている秘密のことは知らない。
もし林がわたしの秘密を知ったら、いまはこんなにも優しくしてくれている林だって、もしかしたら手の平を返すかもしれない。
わたしに隠さなければならない秘密なんていうものが無かったならば……。
だから、本気になってはいけない。
いまはこんな風に寂しさを埋めあう関係に堕ちていても、いつか林がわたしに飽きてくれたならそれが一番いい。
祐里はせめて今だけでもそんな想いを忘れようとする。ベッドの軋む音を聞きながら、林の身体の重さと熱を、濡れた身体の奥まで受け入れて、刹那の快楽に身を委ねていた。
4
そろそろ杉崎と人事部長の打ち合わせも終わった頃だろうか。
省吾は気になって壁の時計をみた。時計の針は真上を指そうとしていたが、杉崎はまだデスクに戻っていなかった。
今里と省吾が杉崎に祐里の派遣契約の延長を上申して、あらたに省吾が出した直接雇用のプランを杉崎が了承した。その案をいま杉崎は人事部長の柳瀬と話し合っているはずだった。
祐里の件は省吾が焦ったところでどうにもならない。前に進めるためには時間が必要だろう。そんなことは省吾も承知している。でも少しでも早く結果が知りたかった。それは祐里のためではなく、省吾自身がどうにも落ち着かなくてたまらないからだった。
省吾を知る誰からも、事なかれ主義者だと思われている省吾。
それが祐里の契約のことでは、たしかに今里からしつこくつつかれたということはあったけれども、祐里の再雇用を主張する今里の肩を持っただけではなく、杉崎に代案まで提示してみせた。
そうやって省吾は自ら進んで面倒ごとに踏み込んでいった。そして、そんな自分の行動がどうしても腑に落ちない。だから落ち着かない。
祐里のことならあの話し合いのタイミングで、杉崎と今里に放り投げることだって出来たはずだった。それなのに、アルバイトで直接雇用に出来ないか、なんていう提案までしてみせた。
なぜこんな余計な真似をしたんだろう。
つくづく馬鹿な真似をしたと後悔する気持ちも無いわけではなかった。でも自分から祐里の件に関わってしまった以上、今更ぐずぐずと悩んだところでどうしようもないということも理解していた。
省吾が製造部から検査課に移動してきたのは一年半ほど前だった。
意にそぐわない、不本意な異動だった。でも受け入れる他に道はなかった。
製造部にいた頃と比べて、仕事へのモチベーションはだいぶ下がっていた。そのせいだろうか、検査課に移動してきた時期には祐里はとっくに在籍していたはずなのに、省吾はそのころの祐里の印象が殆ど無い。一対一で話したことなんて無いに違いなかった。
祐里とはそれぐらい接点がなかった。省吾にとってはどうでもいいような存在だったんだろう。省吾は我ながら自分の熱意の無さや薄情さに呆れた。
たしかに、大人しい祐里は存在感が薄くなりがちだった。でもそれにしても、派遣社員とはいえ自分の課の部下なのに、ほとんど関心も持たずに一年半近く仕事をしていたことを思うと、つくづく省吾はそんな自分を無責任だったと思う。
今回のように祐里から泣きつかれ、今里からも突き上げられ、課長からは叱咤されるなんていうことは、もともと人付き合いだけではなく仕事上の交渉や折衝までもが好きではない省吾にとっては罰ゲームに等しかった。 いまの省吾には製造部にいた若かったころのような、いくら嫌な仕事でもやると決めたからには一生懸命やる、という熱は無い。
林が言ったように、昔の省吾は今とは違っていた。それでも省吾は、そんなかつての自分のことを懐かしく振り返ったりはしないし、目を逸らすようにしていた。
事務作業がひと段落ついたら、検査室を覗きに行こうと省吾は思いついた。そこに杉崎が戻ってきた。
省吾と杉崎の目が合った。それから杉崎が省吾を手招きした。省吾は急いで杉崎のデスクに向かった。
「小坂、川嶋さんの件、人事が呑んだ」
えっ、と省吾は杉崎の言葉に驚いた。
あのアイデアが通るとしてもそれは万が一のことだと思っていたし、検討してもらえるとなっても、来週中に回答が出れば早いほうだと思っていた。
「課長、それは本当ですか?」
そんな具合に慌てて落ち着きを無くした省吾の様子を見て杉崎が笑った。
「おまえ俺の言うことが信じられないのか? まあ、そうだよな。俺もまさか人事があのアイデアを呑むとは思ってもみなかったよ」
省吾はひとまず安堵した。
次に祐里に会う時に、やはり駄目でしたとは流石に言いづらかったし、言いたくなかった。それを思えば僅かではあるけれども、肩の荷が下りてすっきりした気分になった。
「近いうちに欠員補充のアルバイト職員の募集が始まる。川嶋さんにはそれに応募してもらうことになった。面接も形だけだから、履歴書を出してもらうだけで川嶋さんの採用は決まりだ」
「わかりました。川嶋さんと今里さんに早速伝えてきます」
上着を羽織りながら検査室に向かおうとする省吾に、杉崎が声をかけた。
「小坂、面接官は俺とお前だ。心配するなと伝えてくれ」
省吾は杉崎に礼をつたえた。いつもは不愛想な省吾にしては珍しく、笑みがこぼれていた。
♫
オフィスから急いで出た省吾は、自分が駆け足で検査室に向かっていることに気付いた。
〈落ち着け、慌てるな俺〉
省吾はそう自分に言い聞かせた。それから大きく深呼吸をしてからゆっくりと歩き出した。
検査室の窓からちらりと中を覗いてみると、祐里は検査治具を使って測定をしている最中だった。机に向かって少し俯くような姿勢で測定をしている祐里の横顔と白いうなじが目に入った。華奢に見える首と肩は、掴んで揺すったら砕けてしまいそうなほどに、か弱く見えた。
そんな祐里の姿がいかにも儚げに見えてならなかった。早く祐里を安心させてやりたい。省吾は急いでここまで来たことはやはり正解だったと思った。
省吾が窓越しに祐里を見つめていると、祐里の近くにいた今里と目が合った。今里は少し緊張した面持ちになったが、立ち上がって省吾のもとに来た。
「どうした?」
今里が省吾に訊いた。
「川嶋さんの直接雇用の件、僕のアイデアが通ったんです」
「本当か!」
驚いた今里が大きな声を出したから、省吾は慌てて今里を落ち着かせた。
「はい。詳しくは中で話します」
省吾と今里は検査室の中に入り、検査スペースの隣の部屋に移って静かにドアを閉めた。そんなふたりの様子を、祐里が怪訝そうな面持ちで見つめていた。
「川嶋さんを直接雇用のアルバイト社員に転籍させようという案が、杉崎課長と人事部長の話し合いで通ったんです。ただ……」
今里は省吾の話をじっと聞いていた。
「……さすがに無条件というわけにはいかなくて」
「それはどういうことだ?」
今里が怪訝そうな顔をして省吾に訊ねた。
「川嶋さんには面接を受けてもらってからの直接雇用になります」
まあそれは仕方ない、とでも言わんばかりに今里が頷いた。
「じゃあ川嶋さんにはすぐに辞めてもらうのか?」
「いや、欠員補充の募集はすぐに始まります。だから近いうちに済ませます」
省吾は息を吸って、軽く呼吸を整えた。そうしなければ今里の勢いに押され、落ち着いて説明が出来そうになかった。
今里が怪訝そうな顔をして見せた。省吾は今里が見せた態度の変化が気になった。
「結局面接だけはするということは、そこで川嶋さんを体よく刎ねる口実にするつもりかも知れんな」
省吾は今里の言葉の意味が今一つ飲み込めなかった。
「アルバイトの雇用なんて偉いさんのコネ枠みたいなもんだからな。川嶋さんは大丈夫だろうか」
たしかに今里の言うとおりだった。
この会社の直接雇用のアルバイト社員は、幹部社員や主要取引先の重要人物などといった、有力者の身内や知人を採用するための制度になってしまっているのが実態だった。
コネが横行するなんて、今どきのご時世に随分と古い体質の会社だと省吾も思っていた。それでもこの会社は、少なくない競合他社とトップシェアを競うあう、業界では有名企業だった。そうであったとしても創業者一族の同族経営の非上場企業であるからにはこういう側面もあるのだろうと省吾も思っていた。それに、だからといって省吾に何か出来るのかと云えば、出来ることなんて何もない。
省吾も今里が感じている懸念を理解した。でも杉崎課長のことは充分信用できる。
「でも川嶋さんの採用はほぼ決まったも同然だと、面接も形だけだと杉崎課長がそう言いましたから、杉崎課長のことは信用できるかなと」
杉崎は信用できる。真面目で誠実な人柄はみな知っている。軽はずみなことも言わない。
「いや、課長はいい。問題は人事の連中だよ」
たしかに人事にとって、川嶋祐里が優秀な契約社員なのかどうかなんていうことはたいした関心事ではないだろう。祐里が検査課にとって、どうしても必要な人材だと訴えても、それがどこまで伝わるのかは疑問だった。
もし幹部社員のコネがある応募者が数名でもいたならば、祐里にとってはかなり分が悪い競争になるだろう。そもそも人事部長にしても、粘り強く交渉する杉崎の相手をするのが面倒になって、杉崎にその場しのぎの空手形を渡した可能性もある。
もしそうだった場合には、もう省吾たちには成す術がない。
「杉崎課長は信用できるさ。だがな、人事がどこまで真剣に話を聞いてくれているのかだよ」
「でも今里さん、面接官は杉崎課長と僕なんです。だからなんとかします」
ふむ、と今里が頷いた。
「まあ、それを人事部長が杉崎課長にきちんと約束したなら、俺の心配が杞憂ならばいいけどな」
今里が言う心配事が杞憂であることを今は祈るほかにない。一抹の不安は残したままでも、とりあえずは一歩前進した。省吾はそう思って前を向くことにした。
「まあ、とりあえず川嶋さんに伝えよう」
今里が祐里を呼びに部屋を出た。省吾は背伸びをしながら机の上に置いてある検査器材を眺めた。
今里がやけに不安がるのも無理はない。残念ながら総務も人事もそれだけ評判が悪いし下からは信用されていない。それが事実だった。
とにかく今の段階では祐里に変に期待を持たせないほうがいい。省吾は気を引き締めた。
♫
今里が祐里を連れて戻ってきた。省吾は余計なことは言わずに、単刀直入に伝えようと思った。
「川嶋さん、直接雇用を前提に話が進んでます」
省吾の言葉を聴いて祐里の表情が変わった。祐里の目に力が宿ったように省吾には見えた。
祐里が省吾の顔をじっと見つめた。
「ただ、無条件に、というわけにはいかなくて、他の応募者と同じように履歴書や職務経歴書を出してもらってから、面接を受けてもらわなければならないんです」
履歴書や職務経歴書を出さなければならないと聞いた祐里の表情が、少し硬くなるのが分かった。
祐里の表情の変化を省吾は見逃さなかった。でも履歴書や職務経歴書が必要なのは当然のことだろう。派遣社員で働いた実績があるにせよ、直接雇用に切り替わる以上は仕方がないことだと省吾も思う。
〈学歴や経歴に引け目があるのか?でも正社員になるわけじゃない。祐里が学歴や職歴を気にする必要はない〉
とにかく省吾は慎重に言葉を選びながら、不安げな祐里の顔を見つめた。
「だから、可能性の扉が開いただけなんです。その扉から中に入れるかどうかはいまは一切分からない。つまり、川嶋さんを必ず雇用できるかというと、確約は出来ないんです。それでも川嶋さんが、」
「構いません。面接を受けさせてください」
省吾の話を遮るように祐里が口を開いたので、祐里のその勢いに省吾も今里も驚いた。
「川嶋さん、いま小坂が言ったとおり、川嶋さんを採用出来るかどうかは約束できないぞ」
今里が祐里に言った。省吾も頷いた。
「それは分かってます。無条件で入れてもらえるなんて思ってないですし……」
祐里は今里と省吾の顔を交互に見ながら、膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。
「どうせ契約を切られるんです。それならまだ少しでも可能性があるほうがいいです。受けさせてください。お願いします」
祐里が力を込めて言い切った。契約を打ち切ると伝えてからの弱々しい様子とは打って変わって、まっすぐに省吾の目を見据えて話す祐里の様子に、省吾は驚いて気圧された。
そんな祐里の目を見て省吾の心も動いた。
祐里には家庭の事情がある。でもそれだけではない。祐里はこの仕事が好きだからとも言った。そして向き不向きで云えば、祐里はこの仕事に向いているし、上司として見ても祐里のことは充分以上に評価できる。
誰だって事情がある。何かしらの問題や課題を抱えて、悩み苦しみながら生きている。それは目の前に座っている祐里だけじゃない。この世に生きる誰しもがそうだろう。
でも省吾は、今は目の前に座っている祐里を応援してやりたいと思った。
いままでだって、派遣の契約が更新されずに辞めていく人を何人も見送ってきた。でも別に何とも思わなかった。なかには辞められたら勿体ないという人だっていた。だけど引き留めようと思ったことは一度もなかった。それが会社の決めたルールなら仕方がないことだし、それは省吾にどうこう出来る問題ではないと思っていた。
何より派遣社員なんだから、こういうリスクがあることは承知の上だろう。『こんなことになるなんて思っていませんでした』なんてぼやいたりするのはおかしいと、省吾はずっとそう思っていた。
こんなふうに、辞めたくないという派遣社員にほだされて、出来る限りは助けてあげたいと思ったのは川嶋祐里が初めてだった。それが何故なのか、省吾にもよく分からないままでいる。
目の前で雨に濡れている人がいて、傘を持っていたら貸してあげるだろう。一緒に入りますか? と訊くんじゃないのか?
物を落として気付かずに歩いていってしまった人が目の前にいたら、拾ってあとを追いかけるだろう。
そのことにいちいち、人助けの意味や理由を探したりなんてしないだろう。
祐里を助けたいと思う気持ちの正体なんて、今は分からなくてもいい。いちいちそんな理由を探したりなんてしなくてもいいと、省吾は思った。
5
省吾はパソコンのキーボードを叩く手を止めて、机の上に置いてあるカレンダーに書き込まれた赤い丸印をじっと見つめた。祐里から預かった履歴書を杉崎に渡してからもうすぐ二週間になろうとしていた。
もうとっくに面接が済んでいてもおかしくはないはずだった。祐里の採用がほぼ決まっているという前提があるならば、他の応募者との兼ね合いも何も関係なく、さっさと祐里の面接だけを済ませてしまえばいいだけの話だろう。それなのに何故これほどにも時間がかかっているのか。
省吾は杉崎のデスクをちらっと見た。杉崎に限って、祐里の履歴書を預かったまま人事に送っていないなんていうことは考えづらい。そんな杜撰な真似を杉崎がすることは絶対にないだろう。
杉崎はこの状況をどのように認識しているのだろうか。念のためと前置きしてから杉崎に確認した方がいいのだろうかと省吾は気を揉んだ。でも杉崎に訊くのも何となく気が憚られた。
省吾が気にし過ぎているのか。それとも実際に何か事情があるのか。
その事情とは今里が懸念しているようなことなのか。そうだとしたら、省吾には嫌な予感しか思い浮かばなかった。
♫
省吾は検査室を訪ねて、今里を隣の部屋に連れ出した。心なしか今里の表情も曇っているように思えた。
「川嶋さんの履歴書を杉崎課長に渡して二週間になります。でもなしのつぶてなんです」
今里が厳しい表情でゆっくりと首を捻った。
省吾は今里を見て、胸の奥で嫌な予感が重くゆっくりと広がっていくのを感じた。省吾の嫌な予感は次第に影を濃くして、心を暗く塗りつぶしていった。
「今里さん、前に話したときにしきりに川嶋さんの採用は大丈夫かなと心配されてましたよね。なにか思い当たることでもあるんですか?」
「あるよ。あり過ぎるぐらいにな」
省吾がそう訊ねると、今里の表情が険しくなった。
「この会社の総務と人事はコネ入社だらけだろ? 勿論小坂も知ってるよな?」
勿論そのことは省吾も知っている。省吾も、ではなくて全社員が知っているだろう。
「あいつらはきちんと能力を測られて入社した人材じゃない。よろしく、と頼まれて、はいどうぞ、っていう塩梅だ。だからおしなべて無能だ」
コネ入社の奴らはおしなべて無能とは随分と厳しいことを言うと今里に呆れつつも、その言葉には省吾も概ね同意だった。
「ところがたちが悪いことに、縁故入社組は上からの覚えめでたくスイスイと出世しやがる」
その通りだった。営業のトップと総務のトップは社長の一族だ。でも、ただそれだけの人だという評価で、非常に評判が悪い。
「人事部長が来賓の駐車スペースに勝手に自家用車を停めていた件、知ってるだろ? そのせいで上得意の車が停められなくて、上得意さまを離れた駐車場から歩かせたんだぜ? それも雨の中をスーツの肩と裾をびしょ濡れにさせてな」
その話は有名だった。だがもちろん人事部長はお咎めなしだ。
「こんなこと言ったらマズいがな、社長もボンヤリしてるだろ」
さすがにその言葉には省吾も同意するのをためらった。
「無能なトップは自己保身のために、身の回りも無能で固めるんだよ。分かるだろ? 自分が無能なことを気づかれたくないからだよ。自分の立場を脅かされても困るしな。うちの会社の上層部はそんな奴らばかりだぞ」
今里はそこまで言って、ため息をついた。
「そんな連中だからな、あいつらは川嶋さんのことなんか、検査課のことなんかどうだっていいと思ってるよ。自分たちの利権を守るほうが大事なんだよ。もしかしたら川嶋さんの枠に誰かの知り合いを平気でぶち込むぞ」
それはあり得ることなのだろうか。でも、もし今里の言う通りになったとしたら。そんなことを省吾は想像して暗澹たる気分にとらわれた。
でもそうならば、今すぐ杉崎課長に祐里の履歴書がどうなっているのかを調べてもらった方がいいのかもしれない。
「課長に調べてもらいましょう。課長だって怪しんでいるかもしれない」
すると今里が首を振った。今里のその反応に省吾は戸惑った。
「課長には訊かない方がいい。あの人も頼りにはなるし信頼できる人だけど、結局は組織の中で動かざるを得ない立場の人だからな」
「そりゃあ組織人なのは僕も同じですけど、課長は信用できますよ」
「ああ、杉崎さんは信用できる人だよ。でもな、もしも人事が川嶋さんは弾きますという判断になったら課長だって何も出来ないよ。それに課長にはそこで足掻くほどの動機はない。だから課長に調べてもらおうとするだけ無駄だよ」
確かにそうかもしれないが、何もせずに手をこまねいているだけでいいのかと省吾は思う。
「じゃあ今里さんに何かいい知恵はありますか?」
「無い。無いね」
今里はあっさりと白旗をあげた。それから省吾をじっと見つめた。
「小坂、お前には人事や総務に同期や仲のいい奴はいないのか?」
祐里の履歴書がどうなっているのかを調べるだけでいい。この程度のことを頼もうにも、残念ながら省吾には、総務や人事には友人も知人もいない。
あっ、と省吾は気づいた。
「ん、どうした小坂」
まさしく灯台下暗しだった。
〈美玖が人事にいたことをすっかり忘れていた〉
美玖は二年前まで人事部に勤めていたじゃないか。そのことを省吾はすっかり失念していた。
「そうだった。なぜうっかりしていたんだろう……」
思わず省吾の口から独り言が漏れた。今里が怪訝そうな顔をした。
美玖の父親はこの会社の取引銀行の役員だった。それが何かしらの手がかりにもなるかもしれない。
「一人、知り合いに人事のOGがいます」
「その人は頼れるのか?」
今里が喰いついてきた。省吾はすぐに答えることに躊躇した。
祐里の履歴書がどうなっているのかを人事部の誰かに訊ねてもらう。
美玖にとっては人事の誰かに、祐里の履歴書がどうなっているのかを調べてもらうことぐらい、簡単なことだろう。でも美玖は退職してからニ年が経っている。古巣に嫌な思い出だってあるかもしれない。いまさら人事部の誰かと話すのも気まずさを感じることもあるかもしれない。そうだとしたら、こんなことを頼まれた美玖はどう思うだろう。
美玖は面倒に思うだろう。もし美玖が嫌な顔をしたら、省吾だって無理強いする気にはなれないし、恋人の美玖に頭を下げてまでそんなことを頼むのも嫌だった。
でもきっと、美玖ならば省吾の頼みなら余程のことでなければ、多少の面倒ならば無理をしてでも聞いてくれるだろう。でもそれが余計に省吾には負担だった。
省吾は逡巡することを止められない。
それから今里の顔をみた。今里の期待に応えてあげたい。
そして祐里の希望も、出来ることなら叶えてあげたい。
でも、美玖にとって祐里は会ったことすらない赤の他人だ。祐里に義理なんてこれっぽっちもない。面倒で乗り気になれなくても省吾に頼まれたから仕方なくやる。もしそんなことになったら、恋人にそんな負担を強いるのも、省吾は気が進まない。
俺はどうすればいい。
省吾は、今里が着ている薄いグレーの制服の胸の辺りの、赤い糸で刺繍された社名と菱形の社章を見ながらじっと考えた。
省吾は揺れた。いまここでモヤモヤと悩んでいても仕方がない。それは省吾にも分かっていた。じゃあこの期に及んでまでも一体何をグズグズと思案しているのか。
美玖に借りをつくりたくない。それが省吾の本音だった。
もし、祐里のことを頼んだら、美玖は何かを引き換えに望んでくるのではないか。それが俺達ふたりの将来について、遠回しに約束をせまるようなことだったら。
その代わりに両親と会って欲しいと言われたら。
もちろん美玖と添い遂げることができるなら、それが不満なわけがない。
でも結婚だとか将来のことを、省吾はまだ考えたくなかった。
そもそも恋人同士の関係で貸しとか借りだとか、そんな考えは必要ない筈だろう。そんなことを気にする方がおかしいのかもしれない。でも省吾にとっては恋人である美玖に何かを頼むというのは決して気軽に出来ることではなかった。
それにこの件は何かのついでに出来るようなことではない。それなりの時間と手間をとらせることだ。だから祐里のことで人事に探りを入れてもらう程度のことでも、省吾にとっては軽い話ではなかったし、そのことで省吾が引き受ける心理的な重圧は、省吾にとっては好ましくない重たさのものだった。
でも、いま美玖に頼まなければ、ここで祐里を見捨てたりしたら、俺は絶対に後悔する。
後になってから祐里の寂しげな顔を思い出すのは嫌だった。出来うる限りの手助けをしようと思えば出来たのに、恋人に頭を下げたくないなんていう理由で祐里を突き放したら、絶対に後悔する気がした。
だからこうしてぐずぐずと逡巡している。
派遣止めの通告をしたときに祐里が見せた、嘆きや悲しみを押し殺したかのような寂しげな背中。
少しでもチャンスがあるならばそれに賭けたい。そう必死に省吾にせがんだ祐里。そんな言葉を口にしたときに省吾に向けた揺るぎない視線。
よし。祐里の力になろう。
省吾はようやく覚悟を決めた。
「なあ小坂、その人は頼れるのか?どうなんだ?」
省吾は今里の目を見て頷いた。
「はい、頼れます。頭を下げてみます」
省吾はもう一度今里の目を見て、しっかり頷いた。
♫
その週末、省吾は美玖と会った。
〈祐里のことをどう切り出したらいいだろう〉
省吾はついそのことばかりを考えた。そのせいで美玖の顔を見るたびに落ち着けない気持ちになって、ふわふわと浮ついた足元が揺れているような気がした。
昭和の頃の空気感がまだ残る商店街や下町をふたりでゆっくりと探索した。興味をひくものを見つけるたびに楽しそうに省吾に話しかける美玖の声が、ぼんやりとした輪郭のまま省吾の耳に入ってから、空に吸い込まれるようにしてそのまま消えていった。
日が暮れてからはいつものイタリアンレストランを訪れた。
手ごろな価格のハウスワインをカラフェでたのんで、サラダとピッツァと二人分のパスタを注文した。
ピッツァが焼き上がるまでの間、省吾はワインを少しずつ口に含みながら、美玖の様子をうかがった。
〈祐里の件、切り出すなら早いほうがいい〉
そして、回りくどくならないよう、はっきりと言おうと決めた。
省吾が美玖に声を掛けようとしたその瞬間、美玖はグラスを口から離すと、省吾に訊いた。
「省吾くんが言っていた相談って何?」
美玖に先手を取られてしまい、省吾は慌てた。
きちんと頭の中で整理してから切り出そうと思っていたから、美玖のほうから切り出されて受け手に回ってしまい、バツが悪い思いがした。
ぐずぐずするんじゃなかった。省吾は後悔しながらも、落ち着こうとして深呼吸をした。それから美玖の顔をまっすぐに見つめた。
「実は、検査課の派遣のスタッフさんが再来月で雇い止めになるんだけど、優秀な人だから辞めてもらいたくないんだ」
美玖が省吾の顔を見つめながらうんうんと頷いた。まるで、分かる分かるとでも言わんとしているかのように。
「それで課長も今里さんも、なんとかならないかって気を揉んでる」
省吾の言葉に美玖が答えた。
「省吾くんが言いたいことは分かった。でもその人の派遣契約を更新するのは、あの会社じゃ無理だよ」
そう言ってから美玖がグラスを口に当てた。うん、と頷きながら省吾は言葉を続けた。
「それでさ、派遣契約を雇い止めされるのは仕方がないから受け入れることにして、その代わりに直接雇用のアルバイト社員で雇用できないかなって、杉崎課長と相談したんだ」
美玖は黙って省吾の言葉を聞いていた。
「会社が嫌がってるのは、契約期間が満三年になる派遣社員を継続して雇用することだろ? 会社がその前例を作りたくないんだったら、雇い止めは受け入れるからそれと引き換えに直接雇用のアルバイトで採用、ならば、理屈では出来る筈なんだよ」
「その人、どんな人?」
若い女性だと正直に答えたら、ありもしない下心だかなんだかを勘ぐられるような気がした。だから省吾は慎重に言葉を選んだ。
「川嶋祐里さんという派遣社員の女性なんだ。その人がいなくなってしまうと検査課の業務に差し障りが出るぐらい有能なスタッフなんだ。だからいままでの派遣社員さん達のように、契約が終わるからはい、さようなら、という訳にはいかないんだ」
その人が女性だと聞いた瞬間、美玖の顔が強張ったような気がした。
美玖の表情が強張ったように見えたのは、省吾が美玖に対して後ろめたい気持ちがあるからだろう。でも俺の考えすぎだとさっと流した。
「それで俺も今里係長も、川嶋さんの雇い止めだけは勘弁して欲しいって困ってる。それで杉崎課長に直訴したんだけど、課長にも人事権は無いからさ」
祐里が若い女性だから特別な感情を持って、俺が普段はしないような配慮をしてるんじゃないか。
そう美玖から思われるのだけは嫌だった。
ただ、祐里が重要なスタッフなのは揺るぎない事実だったし、それだけは美玖に理解してもらわなければ、いまから美玖に頼むことに筋が通らない。
「それでも杉崎課長が人事の柳瀬部長に粘ってくれて、川嶋さんの面接をすることになったんだ。そうすれば川嶋さんの合否は面接官の杉崎課長が決めることが出来る。それで川嶋さんの履歴書は人事に出した。でもその後はなしのつぶてなんだ。だから、人事は川嶋さんの採用について真面目に考えているのか、検査課のみんなが疑心暗鬼になってる」
省吾はグラスのワインをぐっと飲みほした。それから美玖の顔をみつめた。美玖の顔が少し紅潮していた。
「だから美玖に頼みたいのは、その川嶋さんの応募書類がきちんと処理されているのか、つまり、門前払いされていないかどうかを確かめて欲しい。それだけのことなんだ」
省吾の顔をじっと見つめながら話を聞いていた美玖が、ゆっくりと頷いた。
「事情はわかったよ。うん、まかせて」
そういって美玖はグラスに口をつけてから、ふふっと微笑んだ。
「その川嶋祐里さんっていう人のことを、人事のときに仲がよかった先輩に訊いてみる。あとはわたしに任せて」
美玖が嬉しそうに微笑んだ。
「こんな風に省吾くんに頼られたことがね、すごく嬉しい」
心配しないでわたしに任せてよと、そういって美玖は嬉しそうに笑った。
違う。俺は恋人の美玖に甘えるわけじゃない。検査課の小坂省吾として元人事部の渡辺美玖に頼んでいる。
省吾は、美玖がこの依頼に応えてくれることを、恋人同士の馴れ合いにはしたくなかった。そんなことは甘い考えだと承知の上で、それでもビジネスライクに済ませてしまいたかった。
恋人に簡単に済まないかもしれない頼みごとをする。それは省吾にとっては軽くは無かった。だからこそ、そこに出来るだけ情を交えたくはなかった。
「お礼はきちんとする」
省吾は美玖の顔を見ながら言った。そんな必要はないとでも言いたげに美玖は頭を横に振りながら、省吾に訊いた。
「でも省吾くんがこんな風に仕事絡みのことで頑張るのって珍しいよね」
「うん、まあたしかに」
「自分の職責を超えてまでさ、こんな風に誰かに頼んでまで何かしようとしたことなんてあった?」
「無いわけじゃないよ。でも、たしかに珍しいと思う」
省吾はそう答えてからグラスにワインを注いだ。そして美玖の問いには慎重に答えようと思った。
「わたしも人事だったし、お父さんがああいう人だから頼まれごとを引き受けたりすることも有ったけど、誰の頼みだろうと聞くっていうわけじゃないよ」
「うん、分かってる。本当にありがとう」
「いや違うの、恩着せがましいこと言ってるなんて思わないで。それだけわたしは省吾くんからの頼み事は嬉しいし、特別なんだよっていうことが言いたいの」
省吾は美玖の言葉を聞きながら、やっぱり今回の頼み事はモノを右から左に動かすだけというように簡単には行かなかったと痛感した。
「その川嶋さんっていう女性は、省吾くんから見ても可愛いの?」
省吾は美玖の言葉の裏に、僅かに不穏なものを感じた。
「いや、川嶋さんのことはそういう風にみたこと無いし、そもそも俺は川嶋さんのことは今回の件で初めて存在を知ったような感じなんだ」
省吾は慎重に言葉を選んだ。美玖は微笑みを浮かべながらも、省吾には美玖の瞳の奥の様子までは伺い知れない。
「省吾くんが川嶋さんを今までずっと見てきて、それで優秀だって評価していたんじゃないの?」
まいったなと省吾は思った。
祐里に対して変な下心が無くても、答えようによっては変な下心があるようにもとられかなねい、そういう類の会話になりつつあるように思えた。
「話すと長くなるんだけど、川嶋さんのことを一番高く評価しているのは今里さんで、今里さんから川嶋さんは凄いって聞かされたのは最近なんだ。それで確かめたら川嶋さんのスキルは本当に凄かったんだ。びっくりするぐらいにさ」
ふーんと美玖が頷いた。
「美玖には上手く説明できないし、分かってもらうのは難しいかもしれないけれど、川嶋さんは本当に優秀なんだよ。俺や今里さんには聞き取れない異常なノイズを聞き分けるんだ。いままで彼女のことを知らずにいたのが、管理職としての怠慢だったって反省を迫られたぐらい、スキルが高いんだ」
「そうなんだ」といいながら美玖が省吾の顔をじっとみていた。
「だから川嶋さんが可愛いかとか、そういうことは意識したこと無いから分からないよ」
省吾はそう言いながら、冷めてしまったかピッツァのひと切れをつまんで口の中に放り込んだ。
川嶋さんに変な意識はないけれど、彼女にはなにか人を惹きつけるものがあるような気がしてならないことが、たしかにある。だから祐里に関心を惹かれ、彼女のために人事の様子を探ってくれだなんて恋人の美玖に頼んでいる。
でもそれは、きっと同情なんだろう。その程度のことだろう。
でも俺の言動に、川嶋さんに特別な感情があると思わせるような、なにか不審なところでもあるのだろうかと、省吾は不安になってきた。
「だって、省吾くんがめずらしく気に懸ける人がどんな人なのか、興味が湧くのが自然でしょ」
「まあそうかもね」
「それにその人が女性なら、尚更興味がわくじゃん」
サラダの皿に残った野菜を突きながら、美玖が言った。
「きっと、その川嶋さんていう人は可愛い人なんだろうな、って思うの。ただの勘だけどね」
「勘?」
「そう。勘」
6
省吾はずっとかかり切りだった煩雑な作業に一区切りつけて、パソコンのモニターから目を離して背伸びをしながら壁の時計を見た。あと十分ほどで定時だった。
省吾は今日は残業をしないと決めて、やりかけのデスクワークを区切りの良いところで終わらせると、さっさと身の回りを整頓して定時で会社を出た。
〈はぁ、疲れた〉省吾は大きく息を吐いた。
歩みは遅く、つい俯きがちになった。頭の回転は鈍く、身体も重い。やりかけの仕事も明日の打ち合わせのことも、今日はもう何も考えないことにした。早く家に帰って風呂に入って横になりたい。
省吾はこの頃ひどく疲れていた。その直接の原因は省吾自身にも心当たりがなかったけれど、祐里の雇用の話が動き始めてからはどうにも落ち着かない気持ちで過ごしていたのは確かだったし、そのせいもあって寝つきが悪い日もあった。
空には雨雲が立ち込めていた。今夜は雨が降るのだろうか。湿気を含んだ重たい風が駅へ向かう足元を冷やして、そのせいかただ歩くだけでもだるく感じて、疲れた身体には余計に堪えた。
上着の内ポケットに入れていた携帯電話が震えたのは、商店街から駅へと続く横断歩道で信号待ちをしていたときだった。
画面には「美玖」と表示されていた。
〈きっと川嶋祐里の件だろう〉
そう思いながらも、すぐに出る気にはなれなかった。
「美玖」と表示されていたディスプレイを見つめながら、スマホを持つ手が少しだけ躊躇っていた。いいニュースなのか、それとも悪いニュースなのか。それを聞くのが何だか怖いような気がした。
僅かの間、手のひらで振動を感じてから、省吾は覚悟を決めて電話に出た。
電話の向こうの美玖の声は、いつもよりもやや緊張しているように聞こえた。
「ねえ、省吾くん。いま話せるかな?」
「ああ、大丈夫。今ちょうど駅に向かってるところだから」
大丈夫だと言いつつも、この先美玖からどんな言葉が出てくるのか。そう思うと省吾は緊張して、身構えた。
ひと呼吸分ほどの間の後、沈んだ声で美玖が言った。
「川嶋祐里さんの履歴書、人事部長のデスクで棚ざらしになってるらしいよ。開封すらされてないみたいなの」
美玖の言葉が省吾の胸を揺さぶって、省吾の目を覚ました。
やはり予想していた通りだった。予想通りの結果だったとはいえ、省吾はやるせなさのあまり歯ぎしりをした。
電話ごしに美玖の声を聞きながら、今里と人事部長に関する噂話のやり取りをしたことを思い出して苛立ちがこみ上げてきた。
「人事部の田畑主任って知ってる? わたしが一番仲のよかった先輩なんだけど、その田畑さんがいうには、人事としては川嶋さんを採用する気は多分無いって」
省吾が激情に突き動かされることなど滅多にない。でも無能だと噂に聞く柳瀬人事部長の仕業だと思うと怒りがこみ上げてきた。つまり杉崎課長も柳瀬から体よくあしらわれていた、ということだった。
省吾は怒りに震えた。なんの取り柄もないどころか会社に迷惑をかけることすらある人事部長の柳瀬。
〈コネで入社した無能のくせに検査課を舐めやがって〉
「ねえ省吾くん、聞いてる?」
うん。聞いてると、そう美玖に返した言葉は少し乱暴に響いたかもしれない。
「あのね、省吾くん」
省吾はなんとか冷静を保ちながら、美玖が次に口にする言葉を待った。
それからふと思った。
美玖は何て言おうとしているんだろう。
省吾は美玖につい期待をしてしまった。省吾からは口にしたくない、美玖に頼みたくない言葉を美玖から切り出してくれないだろうかと。
「どうしてもその川嶋さんっていう人に、残ってほしいの?」
少し間を置いてからの美玖の問いは省吾がひそかに期待したものではなかった。でもその美玖からの問いを省吾は黙って聞いた。
「俺が、っていうよりも検査課の皆がそう思ってるんだ。とくに今里さんがね」
検査課の皆が、という省吾の答えに美玖は黙りこんだ。省吾の胸を強く押すような、息苦しさを感じさせる沈黙だった。
「省吾くんは、その川嶋祐里さんっていう人に、個人的な変な思い入れとか、ないよね?」
その美玖からの問いかけが省吾の胸を鋭く刺した。
その問いかけは、もしかしたら訊かれることもあるかもしれないと、省吾も心のどこかで覚悟をしていた問いかけだった。でも、いつかはと予想していたとはいえ、咄嗟のことになると言葉が上手く出てきてくれそうにない。
変に取り繕ったりせずに、正直に答えるだけでいい。
あとは言葉を慎重に丁寧に選びながら、落ち着いて話すだけでいい。
省吾はそう自分に言い聞かせても、掌が汗で湿るのを感じた。
「あるわけないよ。この前も言った通り、もの凄く優秀な人だから辞めて欲しくないって俺も課長も今里さんも、つまり検査課の管理職がみんなそう思ってるんだ。そういう事情なんだから、川嶋さんに俺自身の思い入れなんてないよ」
しばらく沈黙が流れた。省吾にとっては、何とも居心地の悪い、ざらざらとした沈黙だった。
「ごめん。変なこと訊いた。許して。省吾くんを疑ってるわけじゃないのよ」
電話ごしに聞く今日の美玖の声は、いつもよりも沈んで聞こえた。この天気のせいなんだろうか。そのせいで俺の気持ちも沈んでいて、そんな感じに聞こえるんだろうか。
「いや、美玖が謝ることじゃないから。でも疑われる様なことは無いよ。絶対にない」
省吾はそう答えながら、電話の向こうの美玖はどんな表情をしているのかと気になって仕方がなかった。
「いや、省吾くんがこんなこと、誰かのために踏んばるみたいなさ、初めてじゃん。それも女性にでしょ?だからちょっと気になったの。ごめんね」
美玖がそういう懸念を持つのもたしかに無理はない。でも、滅多にしないことをしているのは、祐里に対して特別な感情を抱いているからという訳じゃない。そして、それが何故だかは省吾自身にも分かっていない。
きっと美玖にとって気乗りのしないことをさせてしまったのだろうと、省吾の心に美玖への罪悪感が湧いた。美玖が余計な思いを抱えて苦しんだりするのなら、祐里のことはもうここで打ち切ってもいい。
もう充分やった。ここまでやって駄目だったならもう仕方ない。今里さんも納得してくれるだろう。美玖に礼を伝えて、もう終わりにしよう。
省吾が美玖にそう伝えようとしたときだった。
「省吾くん、お父さんに頼もうか?」
本当はその言葉を、省吾は心の奥で待っていた。
自分からは言いだせず、美玖のほうから言って欲しかった言葉。
俺はずるい。
でもそう思っていたとしても、とても自分から言い出すことの出来なかった言葉。だから心の奥にしまい込んで、もう使うことは無いと思っていた。
それが実際に美玖がそう言ってくれるのを聞いたら、省吾の心は乱れた。
「いや、さすがにそれはできないよ」
そう。美玖の好意とは言えふたつ返事で受け入れる気にはさすがに省吾もなれない。
「それに、美玖のお父さんに何て言えばいいか。少なくとも俺からはこんなことは頼めないよ」
ありがとう。頼むと本当は言ってしまいたい。
省吾も駆け引きで遠慮をしている訳じゃない。こうして遠慮するポーズを見せながら美玖を自分の有利な場所まで引っ張り込もうなんて思っていない。いくら美玖が父に頼むと言ってくれても、そんなに小さな話ではないし、簡単に頼める話でもない。
「いいよ。気にしないで。お父さんならわたしの頼み事なら聞いてくれると思うし、お父さんにとっては大したことじゃないの。それに省吾くんのことは言わないから」
もうとっくに祐里の力になってやろうと決めていた筈だった。そして今里には、何とかしますと見栄をきっていた。
ならば、何も余計なことを考えたりせずに美玖に素直に「お父さんに頼んで欲しい」と頼めばいい。
省吾はこういうときに煮え切らない、潔くなれない自分の性格を恨んだ。
でも、どちらにしろ、いますぐここで美玖に頼むとは言わない方がいいような気がした。少しだけ考えさせて欲しいと、ワンクッションを置くのが正解だろうと思った。
しばらくの間、沈黙が続いた。
「一晩だけ考えさせてもらえるかな。出来るだけ早くに返事をするから」
省吾はようやくそれだけを口にした。
「分かった。今夜でもいいし、決めたら遠慮せずに言ってね」
美玖はいつもの明るい口調に戻っていた。ありがとうと礼を言って省吾は通話を切った。
踏切が鳴って、駅のホームに電車が滑り込んでくる音が遠くで聞こえていた。
♫
すっかり夜の闇に包まれた街は、駅に向かって歩いている人達の群れも美玖からの電話をとったときよりもずいぶん増えていて、街の喧騒も増していた。
美玖に対する想いが、胸の中で渦巻いている感情が、言葉に変わることを拒んでいるかのようにどこにも流れていこうとせず、ただぐるぐると省吾の心の中で波を立てていた。
『父さんに頼もうか?』と、立場的に言い出しにくい省吾の気持ちを察して、先回りして言ってくれた美玖。そして美玖から伝わってくる自分への想い。
そういった諸々のことを、きちんと真っ直ぐに受け止めなければいけないのに、何かを避けるようにして、貸し借りなんていう言葉を使って曖昧にしようとする自分。
本当に言いたかったことを言えずに、でも心の奧では美玖から切り出してくれないだろうかと待っていた自分。
省吾はそんな自分につくづく嫌気が差した。そして駅へと歩いた。
省吾は電車に乗り、ぼんやりと目の前のガラス窓を眺めながら、流れていく街の明かりと、ガラスに映った自分の顔を見つめた。
冴えない顔をした男だなと、省吾は自分の顔を見て思った。そして窓に映るこの顔が俺じゃなくてどこかの他人の顔ならば、「冴えない顔した奴だ。どうせ大したことのない奴に違いない」と舐めてかかるだろう。
省吾はさっきの美玖との電話のやり取りを思い返しながら、美玖と自分の将来はどこに向かっていくんだろうと思った。
いや、違う。どこに向かっていくんだろう、なんていう人ごとで済ませるようなことじゃない。
そんな時期はもう過ぎた。いまの俺はあそこに向かおうと美玖に言えなければいけないんだと、省吾はあわてて思い直した。
俺はあそこに向かうつもりだけれど美玖はどうする?一緒に行こうよと言わなければいけないんだと、何を今さらと他人から言われるようなことを出来ずにいる。省吾はそんな自分に気付いて、誰かに叱られたような気分になって情けなくなる。
これから先の将来を美玖と二人で歩いていくと決めているならば、貸し借りなどという考えをふたりの間に持ち込まずに、多少の甘えや迷惑をシェアし合える関係のほうが理想的に違いない。
そうだ。俺は美玖にリスクを負わせたくないと言いながら、それが自分に帰ってきたときに引き受けるのが嫌なだけなんだ。
ただ自分勝手なだけじゃないか。窓に映る自分の顔を見て、省吾はつい自嘲した。
♫
帰宅して、部屋に入ってソファに倒れこむようにして横になった。
壁にかかっている時計をぼんやりと見た。時計盤の上に円を描くように、秒針がゆっくりと時を刻んでいた。省吾の頭の中には、電話での美玖の声がまだ残っていた。
〈省吾君、父さんに頼もうか?〉という問いかけだけではない、もうひとつの問いかけ。
〈省吾君は、その川嶋祐里さんっていう人に、個人的な変な思い入れとか、ないよね〉
美玖の口から出たもう一つの問いかけが、忘れられずに頭の中にこびりついていた。
俺は祐里に対して特別な思いなんてないと、本当に言い切れるのか。
その思いを否定しきれないような気がしてきた。
派遣止めについては何もお答えできませんと突っぱねることも出来たし、杉崎に投げることも出来た。でもそうしなかった。
彼女の検査員としてのスキルの高さに驚かされたから、それが一番大きな理由だった。それに今里の粘りに負けた。そして祐里の口から彼女の家の事情を聞いて、同情心が湧いたのも事実だった。でもそれもこれも、祐里の検査員としてのスキルの高さがあったからこその話だった。
省吾が派遣契約の打ち切りを伝えたときの、俯いた祐里の寂しげな顔にも、後ろ姿にも心が揺れた。でも、面接を受けたいと、チャンスが欲しいと省吾に訴えたときの祐里の、目から、口から伝えられた気持ちの強さにいちばん揺れた。
もしかしたら、これも恋なんだろうか。
でも、これが恋だというのなら、あまりにも熱情がなくてあっけなさすぎる。同情して、それでなんとかしてやりたいと思って、いまこうして苦労を背負い込んでいるのは祐里に恋をしているからだというのか。
馬鹿馬鹿しい。省吾は天井を眺めた。
じゃあなんで会ったことのない恋人の父親の力を借りようとしてまで、祐里のことを助けようとするだろうか。
車椅子の人が目の前の坂道を登るのに苦労していたら、後ろから押してあげるのが当たり前だろう。
祐里の窮状を知ってしまった。だから力になれることならなってあげたいと思うのが普通だろう。
でも本当にそれだけなのか。仕事上でそんな風に誰かから心を揺さぶられたことなんて無かった省吾には、どうしても分からない。
それとも俺は祐里を助けることで、自分を肯定したいだけなのか。
〈省吾くんは、その川嶋祐里さんっていう人に、個人的な変な思い入れとか、ないよね〉
美玖はいま、一体どんな気持ちでいるんだろう。
美玖は何かを感づいている。それは間違いないと省吾は思っている。省吾の心の中にある、省吾自身にも理解できない祐里に対する奇妙な感情を、美玖としては見逃せない違和感として感知しているのだろう。
勘、と美玖は言った。もし美玖の中に省吾にたいする違和感が生じつつあるとして、その違和感はこれからどんなふうに姿を変えていくのだろう。何か得体のしれないものに姿を変えていくのか。すっと忘れることが出来る程度のものなのか、日に日に膨らんでいくような類のものなのか。
省吾はそんなことを考えながら、冷蔵庫から発泡酒を出すとコップに注いで飲み干した。
〈凄く能力が高い子だから、辞められたら困るんだよ〉
省吾が美玖にそう答えたことは、嘘でもないし間違いでもなかった。だからこそ、美玖の力を借りてでもどんどん進めたい。そういう積極的な気持ちと、いざとなると美玖に頼むことを尻込みしてしまう自分の性分。矛盾した性格の狭間で、省吾は悩んでいる。
美玖の父親は大手都市銀行の役員だ。きっと何人もの人生を左右してきた立場の人間だろう。銀行の融資ひとつで人を生かしも殺しもする。そんな、ある意味では社会の絶対的な強者に、娘のたかだか恋人にすぎない俺が個人的なお願いをすることになる。
〈一派遣社員のために恋人に、恋人の父親にまで頭を下げる。そんなこと普通はするか?〉
このことが俺の人生に、とんでもない結果を引き起こす伏線になりはしないだろうか。省吾はもう一本冷蔵庫から発泡酒を取り出して、プルトップの蓋を開けてそのまま口をつけて飲んだ。
でも、これから先、今里さんとの会話でふと祐里の話題が出ることもあるだろう。その度に俺はお父さんに頼んで欲しいと言えたはずなのにと、砂を噛むような思いにとらわれるだろう。
〈ぐずぐず悩むのはもうよせ。川嶋祐里を助けると決めたんだから、素直に美玖の力を借りろ。それで父親に頼んでもらうしかない〉
このまま美玖の父親の力を借りることなく祐里を退職させてしまったら後悔するに決まっている。そして、俺は後悔したくない。
よし!省吾はようやく決心してから時計を見た。あと少しで二十三時になるところだった。
明日まで待って欲しいとは言ったけれど、決めたからには早くしたほうがいい。今日中に電話するなら今しかない。そう決心してからスマホを手に取って、画面をスクロールする。そして美玖のアイコンを見つめた。
数回の呼び出し音のあと、少し眠たそうな声で、美玖が電話に出た。
「美玖、ごめん。お父さんに頼んでみてもらえるかな。でも……」
「……でも?」
「無理しないでほしいんだ。君のお父さんにゴリゴリと無理押しするのは避けたいんだ。なんていうか、上手く言うのが難しいんだけど、会ったこともない君のお父さんに、本当はこんなことを図々しく頼みたくはないんだ」
美玖がくすくすと笑っているらしいことが、電話越しに省吾までなんとなく伝わってきた。
「会ったこともない恋人のお父さんに頼みごとをするなんて、嫌だろ? 普通はしないだろ?だから、そこだけは美玖にも分かって欲しいんだ」
美玖が省吾をやさしく諭すように、それから甘えるようにして語りかけた。
「ねえ省吾くん。わたしはね、省吾くんがこうしてわたしに頼みごとをしてくれただけでも、すごく嬉しいんだよ。だからそんなことは気にしないで」
美玖の言葉が雫のように省吾の胸のなかに落ちて、小さなベルのようなささやかな音を鳴らした。
「ありがとう。今度ご馳走する」
精一杯そう言って省吾は電話を切った。それからスマホを絨毯の上に放り投げてソファに横になって天井を見つめた。
お父さんに頼んで欲しいと、ついに言ってしまった。美玖は内心では俺の祐里への気持ちをどう思っているんだろう。でも、肩の荷が下りたのだろうか、そのままソファの上で寝てしまった。省吾にとって、それは数日ぶりの深い眠りだった。
7
美玖に祐里のことを頼んだ夜、省吾は久しぶりに深い眠りに落ちた。
身体の奥に溜まっていた重さが、ゆっくりとベッドから床へ沈んでいくような眠りだった。
祐里のことでこの数日間さんざん逡巡した。そのせいで疲れていた。普段の省吾は、仕事の余計な荷物を背負わないよう、波風を立てぬよう、ただ流れに身を任せて生きてきた。そんな生き方を選んできた省吾にとって、この程度の余計な荷物ですらも胸を締め付けて息苦しくさせていた。
目的地が定まってからも、自分が向かう場所はそこでいいのかと散々悩んだ。でも決心した。そして肩に食い込んでいた重い荷物をようやく下ろすことが出来た。
祐里の件はこれで区切りをつけた。省吾はもう祐里のことで悩むのは止そうと決めた。これ以上はもう自分の力ではどうしようもない。省吾は祐里のためにそう言い切れるところまでやった。祐里への後ろめたい気持ちも、何もしなかったよりかは幾分か減るだろうに違いなかった。
雨に濡れて寒さに震えている人に傘を貸した。手元に傘が無かったからわざわざ恋人に頼んで傘を買ってもらった。そこまでする必要なんてないと自分では思っていたし、そう思う人だって少なくはないだろう。でも、理屈じゃないと省吾は思った。
出社したら省吾は、祐里の件は美玖に頼んだと今里に伝えることにした。美玖に協力してもらうと今里に打ち明けてから、今里も落ち着かない気持ちでいる筈だった。事実として、人事部長は祐里の面接をはなからするつもりがなかったわけで、今里の懸念が的中していたわけだ。それだけに今里も現状を気にしてやきもきしているに違いなかった。
♫
「小坂、川嶋さんの採用が決まった」
省吾が杉崎からそう告げられたのは、お父さんに頼んで欲しいと省吾が美玖に電話してから数日後のことだった。
遂に祐里のアルバイト社員としての採用が決まった。
「面接は無しですか?」
「さっき柳瀬さんから電話があった。面接は必要ないと。俺に任せると言って切られたよ」
杉崎も呆れたのだろう。苦笑いをしながら、それでも安堵したのかやわらかい表情で省吾を見た。
あっけないものだった。結局は面接をすることもなく、人事部長の柳瀬から杉崎に祐里の採用が決まったとの電話が入り、それで終わりだった。
「柳瀬さんは面接は俺達に任せると最初は言っていたけどな。たぶん丁寧なプロセスを踏むのが面倒になったんじゃないか。どうせいい加減な部長だからな」
腕を組み背もたれに上半身をもたれさせながら杉崎は省吾を見た。
「そもそも川嶋さんはここで働いているんだ。面接なんて必要ないだろう」
杉崎の言葉が静かにオフィスの空気に馴染んで消えた。省吾は黙って頷くと、窓の外に目をやった。曇り空の下に中庭の木が風に揺れているのが見えた。
それにしても、美玖に頼んだらこんなにも簡単に頓挫しかけた物事が解決するなんて。
思わず省吾も苦笑いをしたが、非正規社員の採用はなんといい加減なのかと呆れた。
「とりあえず小坂、川嶋さんにはおめでとうと伝えてやってくれよ」
省吾は杉崎に礼を伝えて検査室に向かった。
〈いろんな意味で大丈夫なのか、この会社は〉
省吾は検査室に向かいながら、なんともいえない気持ちになった。こんなにも縁故採用とは簡単に決まってしまうのか。
ただ、祐里は実務経験者だから、いまから仕事を教え込まなければならない素人とは違う。そういった判断もあったのかも知れないし、杉崎課長が推している社員なんだから大丈夫だろうという判断もあったのだろう。
〈それにしても、いったい美玖の父親は何をしたんだろう〉
いったい何をしたのか。いや、大したことはしていないだろう。
きっと愛娘から頼まれた翌日か翌々日かにでも人事部長なり総務部長なりに電話を入れた。きっとそれだけに違いない。ゴマをするようなことも言わなければ、今度手土産を持って挨拶に伺いますとも言わないだろう。ただ電話をして、済まないがよろしく頼みますと言っただけなのかもしれない。
省吾は美玖の父親の力を、そしてそれは美玖の力ともいえるのかもしれない、そんな力をまざまざと見せつけられて震える思いがした。美玖の父親がその気になれば、省吾だって机の上のゴミを手で払うようにして始末されてしまうのではないか。
さすがにそれほど簡単にはいかないだろう。それでも省吾は、驚きと恐れが混ざったような複雑な気分になった。そう思わせるだけの説得力があったし、世の中の不条理を目の辺りにした。進まない物事が力で簡単に動くところを省吾はこんなに間近で見たことがなかったから、震えるような、背中に汗がじわりと滲むような気持ちにもなった。
省吾はまず今里に祐里の直接雇用が決まったことを伝え、それから祐里に伝えた。祐里を隣室に呼び、椅子に向かい合わせに座らせた。祐里は不安を覚えているのだろう、少しおどおどしている。省吾はそんな様子の祐里に微笑んだ。この微笑で自分が呼ばれた意味が分かるはずだと。
「川嶋さん、おめでとう」
祐里が跳び上がりそうな様子をみせたから、省吾は驚いて、となりに座っていた今里は大げさに反応して笑った。
「非正規雇用ですが、会社とは直接契約になります。契約上は一年ごとの更新になりますが、余程の問題を起こさない限りは一年限りで退職ということにはならないし、実質的にはほぼ終身雇用に等しいです。派遣社員でいるよりは給与も僅かに増えます。有休もつきます。そしてほんの僅かだけど年二回の賞与もあります」
そんな省吾からの説明を、祐里は少し緊張した面持ちで聴いた。まだ信じられないというふうに。
「それに正社員に登用される道も開けます。どうですか? やり甲斐も増えたでしょ?」
祐里にとっては、派遣社員だったころと比べれば、随分と待遇は良くなったはずだった。
祐里のスキルと生真面目な性格なら、きっと正社員になれるはずだと省吾は思っていた。そして今里も杉崎もその考えには同意してくれるだろう。
省吾もここに至るまで散々ぐずぐずと悩んだ。保身めいた気持ちと億劫な気持ち。そして祐里の力になってやりたいと思う気持ちの狭間で随分揺れた。
ゆっくりと静かに、それでも強い圧で流れる大河を手漕ぎのボートでひたすら上流にある目的地に向かう気分だったし、くたくたに疲れ果てていっそ流されてしまおうかと何度も思った。
〈でも川嶋さんも喜んでくれた〉
今まで見たことが無い祐里の明るい表情を見て、省吾も安堵しただけではなく、喜びを感じていた。
♫
今里に呼ばれ隣室に入るやいなや「おい小坂」と今里が声をかけた。
「持てる者の力の大きさを思い知らされたな」
今里が笑いながら言った。
省吾も思わず苦笑いしながら今里の顔を見た。
「俺達が逆立ちしたってどうにもならないことが、どこかの偉いさんがいとも容易く片付けちまうんだから、あまりの力の差に泣けてくるよな、おい」
本当にその通りだった。今里の言葉通りだと省吾はあらためて思った。
省吾がしたことといえば、美玖に頼んだだけだ。それすらも、何度も頭を下げたわけでは無い。美玖の父親に呼び出されて、美玖との関係を問いただされることもなく、祐里を直接雇用にしたい理由を長々と説明させられることもなく、祐里の採用が決まってしまった。
だから逆に考えたら美玖のお父さんなら俺をクビにするのも簡単だ、ということなんだろう。
ある日突然人事部から呼び出され、思いも寄らなかったことを冷徹に告げられる。そんな光景を思い出した。
そんな記憶を思い出しながら、省吾は祐里の姿をぼんやりと見つめた。
「だから今里さん、僕には今里さんをクビに出来るチカラがあるんですよ」
省吾がニヤッと笑いながら、今里の顔を見た。そんな省吾にしては珍しい冗談を聞いて今里は驚いた。
「小坂、お前がそういう冗談を言うのも珍しいな」
そう言ってから大きく口を開けて今里は笑った。
楽しそうに笑う今里を見て省吾も愉快な気持ちになった。仕事中にこんなに笑うのは、すぐには思い出せないぐらいに久しぶりだった。
それは祐里の歓びに満ちた様子を、省吾の顔を見たときの祐里の眩しそうな表情を見たせいなのか。それとも、今里と冗談を交わすこの場の雰囲気が楽しいのか。
そんな今里も少し落ち着いたのか、「なあ小坂」と省吾を呼んだ。
「小坂、おまえは韓国のドラマをみたことがあるか?」
「え?何故ですか?」
唐突に今里の口から出た韓国ドラマという言葉。省吾は今里の質問の意図が測り兼りかねたから、真顔に戻って訊ねた。
「カミさんが韓国のドラマが好きでな、俺も一緒に観るようになったんだ。ラブコメとか時代劇とかいろいろあるんだけど、社会派ドラマみたいなヒューマンドラマもあってな」
それが何か?とでも言いたげな顔で省吾は今里の顔を見た。
「そんな韓国のドラマでもな、貧乏な派遣社員のヒロインとお坊ちゃんの男性の恋みたいな、階級だとかコネ社会だとか、そういうテーマがお約束なんだよ」
「いや、僕は川嶋さんのことをそんな風には思ってないですよ」
今里の言葉に驚いた省吾は不自然なほどに必死で弁明した。いや、お前と川嶋さんのことじゃないよと、そういうつもりじゃないと今里が首を振りながら答えた。
「いや、俺が言いたいのは、持ってる奴らはおっかない、ってことだよ
「どんな風にですか?」
「思い通りにいかないことは決して許さないってことだよ」
♫
「力を持っている連中っていうのはな、自分の思い通りに行かないことは絶対に認めないし、許さないんだよ」
今里の口から発せられたその言葉が、省吾の胸をゆらゆらと押した。
省吾は美玖と、まだ顔も知らぬ美玖の父親のことを想像して、緊張した。
「これはドラマの中だけのお話っていうわけじゃないぞ」とも今里は言った。
省吾の脳裏に浮かんだのは、無邪気そうに笑う美玖の笑顔と、まだ会ったことの無い、声も顔も知らない美玖の父親のことだった。
今里の言葉を穿った解釈で捉えれば、もし美玖も美玖の父親も、省吾の頼みを叶えることと引き換えに何かを望んでいるのならば、その何かを何としてでも手に入れようとする、ということなのだろうか。
その願いとは、何なのか。もちろんカネなんかじゃない。
ならば省吾と美玖の共に歩む未来だろうか。それが前提の上での、美玖への頼みごとだと思われたりしていたら、どうなるんだろうか。
じゃあ、その願いを拒んだりしたら、どうなる。
〈俺は祐里のために美玖を利用した、ということになるのだろうか〉
いや、頼みごとの理由や主旨はきちんと説明しているし、その上でたのんで、聞いてもらっている。交換条件を求められてもいなければ、匂わせてもいない。省吾はそう自分に言い聞かせる。
でも、もし仮に、美玖のことを、それから美玖の父親のことを利用したなんていう風に捉えられたら、そのときはどうなるんだろう。
きっとなにも起こらないだろう。何故ならば、美玖の父親からすれば、俺なんてあまりにも小物だからだ。俺なんてきっと蟻のような、ほっといてもなんていうことの無い存在だろうと。でも、確かに省吾は社会的にみれば何の力も持たない小物なのかもしれないが、美玖の父親からすれば、ただの小物だと言い切れる存在ではないのではないかもしれないとも思った。何しろ、省吾は娘の恋人なのだ。
美玖は俺のことをどんなふうに父に伝えているのだろうと省吾は想像した。
きっと美玖は、俺のことを両親にも伝えているはずだろう。だから、いつか両親に会って欲しいなんていう言葉が出てくるのではないのか。
娘の恋人が娘を通して俺に頼みごとをしてきたから、そいつの頼みごとを娘のために叶えてやった。美玖の父は省吾のことをそんなふうに思っているのだろうか。
省吾にはやましい点はない。でも、会ったことのない美玖の父親の影が脳裏にちらついてしまう。いったい何を恐れるのか、そんな必要はまったくないのに気が重くなる。
まずは美玖のことをきちんとしようと省吾は考えた。それは以前から考えていたことでもあったけれど、今回の美玖とのいろいろな関わりがその気持ちを強くして、美玖にはけじめをつけなければならないと省吾は感じていた。
まるで完成するのを拒むかのように、残り僅かなピースを埋めるだけとなったパズルをバラバラにしてしまう。そんな省吾の、自分でも気付いている決断したがらない性格。でも、自分はともかく美玖のことは不幸にしたくないと思っている。
美玖が望んでくれているのならば、自分が美玖の生涯の伴侶になりたい。
美玖にも、美玖の両親にもきちんと挨拶することに決めた。いい加減な気持ちで付き合っているわけではないと、美玖にも両親にも行動で伝えたかった。
「小坂、今夜は打ち上げだな」
今里が省吾に声を掛けた。
省吾は祐里と何でもいいから話してみたくなった。
ふと横を向くと、検査器具とにらめっこをしている祐里の姿が目に入った。その横顔を見ながら省吾はもう少し祐里のことを知りたいと思った。
〈俺はいままで自分の部署のことを何も知らなさ過ぎた〉
あまりにも今里に現場のことを任せっきりだった。それで上手くいっていたし、自分のような無愛想で、下手をすると相手を萎縮させるような人間が、上の立場で現場に顔を出しすぎるのもスタッフを萎縮させてしまいよくないのではないかと思っていたせいでもあった。
そんな自分のスタンスが、リコールになりかねない大きなトラブルを解決したのが祐里だったと知らずにいたことにも繋がった。そして、その一連のことをきちんと把握していたら、祐里のことを無慈悲な形で辞めさせようとしたりはしなかっただろうし、そもそも杉崎にきちんと報告していたら、杉崎の態度だって違ったものになっていた可能性もあった。
省吾は祐里に興味を惹かれつつあった。皆には聴き取ることが出来ない微小なノイズをどのようにして聴き取ることが出来るようになったのか、どんな意識をもって仕事をしているのか、祐里ともっと話してみたくなった。
仕事上では他人のすることに興味をもたないように心掛けていた省吾は、誰かに強く関心を持ったことがなかったし、持たないように心掛けてもいた。そんな省吾は、誰かに対する興味や関心がその先まで進んだときにどうなるのか、そんなことには興味がなかった。知りもしなかったし、考えもしなかった。
でも、省吾は祐里と関わり始めてから気づいた、得体の知れない心のざわつきという感覚を、本能的に感じ取ろうとしていた。そして、その得体の知れない感覚に戸惑ってもいた。
〈それはきっとただの同情だろう。特別な感情なんかじゃない〉
祐里の頬に検査器具の照明が当たっていた。まるで日が差しているかのように、祐里の透き通るような白い頬がほんの僅かに赤く染まっていた。
(第一部・了)
