英語50年史|第21話 大陸横断、そして帰国へ ―― 矢沢永吉とビッグママとグアムのおっさん
大陸横断 ―― 矢沢永吉とビッグママ
言ったもん勝ち
Ameripassの期限が残り少なくなっていた。金も残り少なかった。もう少しアメリカにいようかとも思ったが、さすがに疲れも出てきた。どっちかといえば金の問題だ。結局、ロサンゼルスに戻って帰国することにした。
ただ帰る前に、一つ試してみたいことがあった。『地球の歩き方』にはAmeripassは延長できないと書いてあった。でもどうせダメかもしれないけど、一応聞いてみるか。そのくらいの気持ちでカウンターに行った。
「延長できますか」
「できるよ。何日?」
それだけだった。拍子抜けした。本に書いてあることが全てじゃない。アメリカは言ったもん勝ちだ。言わなければ損をする。この旅でそれを体で覚えた。
一週間延長した。帰国便の予約も電話で取った。アメリカで初めての電話だ。英語への怖さはもうなかった。ただ手続きが失敗したら帰れなくなる。そこだけが心配だった。でもこれもあっさり終わった。電話への怖さも、これで消えた。
帰る目処が立った。後の予定も大体決まった。気持ちに余裕が出てきた。そうなると、周りのことがよく見えてくる。バスステーションで現地の人の話す英語を聞いていると、ニューオーリンズのことを「ヌオリーン」みたいに発音している。南部訛りだ。こういうのが面白い。
地獄の1週間
この時はまだ、この後に待っている地獄を全く予想していなかった。
その後は持久戦だった。なんせアメリカ大陸横断だ。1週間かかった。
Ameripassなので途中下車は自由だ。しんどくなったらどこかで降りてホテルに泊まればいい。最初はそのくらいに思っていた。
でも現実はそうならなかった。乗り続けているうちに体がしんどくなってくる。するとバスを降りてホテルを探すという行動すら、もうできなくなってくる。しんどいから降りられない。降りられないからもっとしんどくなる。その繰り返しだった。
バスの中ではほとんど目をつぶっていた。寝ているわけでもない。ただ目をつぶって耐えている。座禅をしているみたいな境地だった。
一番きつかったのは膝だ。膝を曲げて前の席の背もたれに膝頭が触れ続ける。最初は気にならない。でも何時間も経つと、そこがハンマーで殴られたように痛くなってくる。バス停でトイレに降りると、膝に力が入らない。カクカクになって、まともに歩けない。それがまた延々と続く。エコノミー症候群になりかけていたのかもしれない。
そんな中、頭の中では矢沢永吉の「トラベリン・バス」が延々と流れていた。「ルイジアナ、テネシー、シカゴ、はるかロスアンゼルスまで」「きつい旅だぜ。お前にわかるかい?」まさに矢沢の世界だった。それで自分を鼓舞していたのか、ごまかしていたのか。たぶん両方だった。ただ、しんどいのに、妙に嬉しかった。自分が今、矢沢の世界の中にいる。本当にそう思えた。しんどさの中に、なぜか高揚感があった。それで乗り切れたのかもしれない。
おかげでこの間の記憶はほとんどない。
ビッグママ
バスというのは、隣に誰が座るかで天国にも地獄にもなる。その1週間で隣に誰が座っていたか、ほとんど記憶にない。それだけ消耗していたということだ。
でもビッグママだけは覚えている。
バスステーションで停車して、新しい客が乗り込んできた。その中に、とんでもない巨体の南部の黒人のおばさんがいた。日本では絶対に見ることのできない太り方だ。テレビや映画の中でしか見たことがない。アメリカの基準で見ても太っている、そのくらいの迫力だった。
乗り込んできた瞬間、私は青ざめた。こっちに来るな。心の中で必死に念じた。でもマーフィーの法則とはよく言ったもので、思えば思うほどおばさんはこちらに向かってくる。そして最後には、その巨体を私の隣の席にねじ込んできた。
人生詰んだ、と思った。
ただ、しばらくしてわかったことがある。おばさんも気にしているのだ。自分の巨体が隣の人間に迷惑をかけているのをわかっている。体を少しでも縮めようとしているのが伝わってくる。もちろん物理的にはどうしようもない。窮屈は窮屈だ。でも、その気持ちがわかったら、気分がかなり楽になった。
そんな状態で、何時間か、もしかしたら何日間か、耐えていた。見知らぬ人にも気軽に話しかけてくるアメリカ人なのに、おばさんは何も喋ってこない。私もしんどくて喋る気もない。二人ともずっと無言のままだった。その時ふと、比叡山の修行僧を思い出した。千日回峰行だ。あの極限の修行をしているお坊さんたちは、こういう感覚を味わっているんじゃないか。そんなことを考えていた。
そのうちおばさんが、座席をリクライニングしようとしてガチャガチャやり始めた。しかしどうもうまくいかないようだ。身振り手振りで、椅子を倒したいと伝えてくる。でも言葉では何も言ってこない。その時は体がしんどくてそこまで気にしなかったが、今思えば不思議だ。普通のアメリカ人なら言葉でもっとはっきり言うはずだ。もしかしたら、おばさんは言葉が話せなかったのかもしれない。
レバーを押さえて倒してやった。おばさんは嬉しそうだった。感謝しているのが伝わってくる。でもサンキューとも何も言わない。代わりにカバンの中からごそごそと何かを取り出して、渡してくれた。手作りのドーナツみたいなものだった。私も無言で受け取った。結局、二人の間で一言も言葉は交わさなかった。
今にして思えば、言葉がなかったからこそ、良かったのかもしれない。言葉がなくても、気持ちは全部伝わっていた。あのドーナツに心がこもっているように感じた。
みんなただの人間だ
この旅を通じて、人間の見方が変わった。
日本にいると、白人や黒人に対してなんとなくぼんやりしたイメージがある。テレビや映画から作られたイメージだ。白人はこう、黒人はこう、みたいな。意識しているわけじゃないけど、そういうイメージが頭の中にある。
でもアメリカで実際に接してみると、そのイメージが一人一人の生身の人間に置き換わっていく。
ニューヨークで出会った黒人の兄ちゃん達は、憎めなくて面白い奴らだった。Ameripassの延長を聞いたカウンターの黒人も、すごく気さくで温かかった。そしてこのビッグママも、言葉は一言も交わさなかったけれど、人間臭くて温かかった。
ダラス、デンバー、そして西へ
バスはそのまま大陸を西へ向かった。ダラスに入った。もっと暑いイメージを持っていたが、そんなに暑くはなかった。ただ、なんとなく生温かい感じがした。
デンバーはよかった。標高が高いせいか、涼しくて湿気がない。バス停で外に出ると、空気が美味しかった。膝がカクカクになりながら外に出る。それでも、あの空気を吸えた瞬間は天国みたいだった。
サンフランシスコ〜ロサンゼルス ―― 消化試合
サンフランシスコに着いた。飛行機の予約まで1日余っていたので、一泊することにした。
といっても、もう金もなければ気力もない。サンフランシスコはこの旅で最初に観光した街だ。3日かけて歩き回った。それに坂が多い。体が疲れ果てていたので、もう一度歩き回る気力もなかった。
ホテルにチェックインして、まずシャワーを浴びた。近くのドラッグストアで使い捨てのヒゲ剃りを買ってきて、ずっと剃っていなかったヒゲを剃った。さっぱりした。久しぶりに人間に戻った気がした。この一泊はリフレッシュのためだけだった。
翌日、飛行機でロサンゼルスへ向かった。ここでも1日時間があった。疲れていたが、回れる範囲だけ回った。
まずチャイニーズ・シアター。映画好きとして外せない場所だ。ハリウッドスターの手形や足形がずらりと並んでいるが、コンクリートが膨張するせいか小さかった。まるで子供の手みたいだった。
サンタモニカにも行った。映画にあまりにもよく出てくる場所だ。実際に来てみると、景色が気に入った。こんな場所が家の近くにあったらいいのに、と思った。
歩いていると、吉野家があった。アメリカにも吉野家があるのかと思って、好奇心で入ってみた。メニューには「ビーフボウル」と書いてある。牛丼の直訳だ。直訳として通じているのか、それとも一般名詞として定着しているのか、どちらかわからない。でもまあ、通じているんだから、それでいいんだろう。食べてみると、ほとんど日本の牛丼と同じ味だった。ただかなり甘かった。アメリカ人は砂糖が好きなんだとつくづく思った。
夜はホテルから一歩も出なかった。この頃、ロサンゼルスはニューヨーク以上に危ないという話をよく聞いていた。昼間でも場所によっては危ない。夜は完全に部屋に籠もった。
帰国便 ―― グアムのおっさん
翌朝、LAXから飛行機に乗った。
帰りの飛行機。当時はタバコが吸えた。するとどこかからアメリカ人のおっさんがやってきて、隣に座っていいかと言う。どうやら彼もタバコが吸いたかったらしい。自分の席で吸うと嫁はんに怒られると言っていた。
ビールを奢ってくれて、話が始まった。ロビン・ウィリアムスみたいな、いかにも気の良さそうなおっさんだった。話好きで、インタビュアーの才能があった。次々と質問してきて、こちらをどんどん喋らせる。気がついたら30分くらい話していた。グアムに帰るところだと言っていた。
今から思えば、かなり普通に会話していた。英語が上達したというより、英語で話すことが当たり前になっていた。この旅で英語を話した最後の相手が、このおっさんだった。
私が日本人だというと、グアムで日本語学校の先生の仕事があるから紹介すると言う。飛行機を降りたらどこそこで待っていると言うので、一応行ってみた。でも結局、おっさんはいなかった。
たぶん嫁はんに引っ張られていったんだろう。話し方を見ていても、嫁はんが怖そうな感じがした。適当なことを言っていたというより、嫁はんには勝てなかったんだと思う。典型的なアメリカの気のいいおっさんだった。
ソウル経由、帰国 ―― 経済を肌で感じた
帰りもソウル経由だった。また金浦空港で降りた。行きとは大違いで、この時の空港は本当に穏やかだった。兵隊もいないし、私服警官もいない。ソウルオリンピックの時は、本当に厳戒態勢だったんだろう。
ここでのトランシットは4時間くらいあった。係員が、ついでだからソウル観光でもしたらどうですかと言う。ソウル観光なんか全く予定に入っていなかったんだけど、こういうハプニングこそが旅の醍醐味だ。
外に出てみた。いきなり知らないおっさんが近寄ってきて、「私、タクシーの運転手。タイカクセイか?」と聞いてくる。たぶん大学生かと聞いているのだろう。なるほど、韓国語の発音では濁音が消えるのかと思った。
「いい女の子紹介するよ」と言ってくる。トロントで出会った奴の言う通りだった。
バスに乗ろうと思ったんだけど、行き先が全くわからない。ハングルしか書いていない。アルファベットで書いてあればまだわかるんだけど、さっぱりわからない。下手なバスに乗って飛行機に間に合わなくなったら大変なので、周辺を歩くだけにした。
面白かったのは、経済状況を肌で感じられたことだ。ニュースや記事では、韓国経済が絶好調で、もうすぐ日本を追い越しそうだ、みたいな話だった。
実際にこの金浦空港は、もちろん空港自体はものすごく近代的で、成田やロサンゼルスに負けないくらい立派なんだけど、一歩外に出て、空港から少し離れると道が舗装されていない。周りにはビルもほとんどなくて、小さな家がちょこちょこと並んでいる程度だった。
腹が減ったので何か食べようと思ったが、ハングルは読めない。どれを頼めばいいのかわからない。仕方がないので、店の前に日本式のショーケースがある店を見つけた。
店の人を呼んできた。英語なんか通じない。もちろんジェスチャーゲーム。こういう時は、日本語でいい。そして、ジェスチャーすれば、通じる。
その中で唯一理解できそうな料理を指して頼んだ。鍋焼きうどんだ。味は日本の味そのままだった。
ほんのちょっとだけだったけど、一応ソウルにも滞在して、日本に帰った。最終的には2か月ちょっとの旅だった。こうして私の海外初挑戦は終わった。
この旅が教えてくれたこと
この旅で、英語に対する考え方が変わった。
アメリカに来る前、英語はツールだと思っていた。公式や数式のようなもの。正しく使えば通じる、間違えれば通じない。そういう感覚だった。
でも実際に人間相手に話してみると、英語は言葉なんだと気づいた。上手い下手ではなく、人間として通じ合えるものがある。その感覚は、日本にいる時には想像もできなかったものだった。
もう一つ。英語を話すことへの抵抗が、ほぼなくなった。
元々、文法が間違っていることを恥ずかしいとは思っていなかった。でも2か月を通じて、さらにその感覚が強くなった。文法より大事なことがある。自分の口から英語を出して、相手に伝えること。それだけでいい。
ネイティブ相手でも、中学生レベルの単語と簡単な文法で構わない。相手の言っていることがこちらに伝わり、こちらの言っていることが相手に伝わる。それが全てだ。
2か月間、話し続けた。それが教えてくれたことだ。
もう一つある。言ったもん勝ちだ。言わなければ損をする。Ameripassの延長も、帰国便の電話予約も、全部そうだった。黙っていたら何も始まらない。自分から口を開いて、相手に伝える。それが英語という言語の前提にある。日本語とは根本的に違う。
そしてフランス人との2日間も、また別の発見だった。ノンネイティブ同士でも、細かい感情や考えまで全部伝わる。ただしこれは、対面で話すからこそだと思う。文章だけではここまで伝わらないだろう。人間対人間で、顔を見て話す。その前提があってこそだ。
通じることはわかった。十分やっていけることもわかった。でもそれで満足するどころか、逆に欲が出てきた。もっと伝えたい。もっと細かいことが言いたい。もっと上手に表現したい。
この旅が、そのスタートラインだった。
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