九界十年色地獄②~吉原の女郎の生活を描く江戸のマンガ絵本
今年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、これまでテレビではあまり描かれなかった吉原の女郎の苦しい生活を描いているが、本作品では、笑いの中に現実の女郎の生活をにじませている。
見習いの禿から女郎になってどうなるか。
ちなみに禿あるいは禿の漢字は禿と書く。遊郭に勤める幼女は、髪を切ったり剃ったりしていたので「禿」の字を使ってあらわした。
黄表紙「九界十年色地獄」は、山東京伝(1761~1816)作、鳥居清長(1752~1815)画、寛政三年1791年、鶴屋喜右衛門版の三巻三冊。
その現代語訳を三回に分けて紹介する二回目。
中巻
六

さて、女郎の初体験である水揚げもすみ、店へ出ても、はじめの一年ほどは、自分の部屋もなく、店の世話になり、自分の自由にはならないけれど、そろそろ自由にしてみたくなり、番頭女郎の目を盗み、六道の辻に迷い苦しむ女郎少なからず。
「これから待たせているなじみ客のいる名代道へ行こうか、いやいや、座敷にいる初めての客もいい男だし、茶屋で待たせている客の方へ行こうか」と、浮気に気が多いので、廊下を行ったり来たりする、これを六道の辻に迷うともうすなり。
女郎「ばからしい。今夜みたいに客が重なった晩はねえ。いっそ気が迷うよ。おお、肌寒い」
七

初めての客と会う初会では、いろいろうまそうなものが出ても、見るだけで食うことはならず。
「ああ、それを食ったらさぞうまかろう。あれを食べたらおいしかろう」
と思えども、目の前にありながら食われぬので、食いしん坊の女郎には、食い物から火が燃えるように見えている。また、客のほうも、みえっぱりなので、食いたくても食わず、たがいににらみつけている。これ、餓鬼道の苦しみなり。
客「里蝶よ、ちっとなんぞ食わっせえ」
客「おいらは、まだ腹が減っていねえ。まあ、おまえが食わっせえ」
女郎「なに、ねぎまがおいしいよ」
女郎「そうでおす。庶民的なとうもろこしもようすよ」
新造「もし、おいらん、竹村のまんじゅうもまんざらではないねえ」
店の男「ちと、なんぞめしあがりませ」
作者曰く、
「食い物からは火が燃える、客は火が燃えるじゃあなくて、気がもめるだろう」
八

畜生道の苦しみは、まだ若い振袖新造の身の上にあり。座敷では普通の客に見えても、布団の中に入ると、馬のような逸物の客にたびたび出会う。そんな客にも辛抱して会わねばならず、その苦しみは筆舌に尽くしがたし。
店の男「あの客は、義理のある人だ。辛抱しなせえ」
新造「ばからしい。座敷では人のようだが、床の中では馬だものを、どうして会われるものか」
客「また、ことわられるのか、馬馬しい、いまいましい」
男「客は馬、おめえはアシカ、アシカと同じようによく居眠りばかりしている。ここの二階は動物園のようだ」
九

また、ずるがしこい新造には、遣手婆が、腿へ小刀針を立てて責める。三味線をひく「づるひき」の若い女郎なので、これを、剣の山ならぬ「づるきの山」という。
遣手「あんまりだ。こうしなければ聞かないだろう」
新造「待ちなんし。流しへ指輪を落としんした。取ってきてから責められましょう」
と、新造は平気なようすなり。
十

なかでも道楽ものの女郎は、色と酒と食い物にこだわって、自分で支払いをして休みを取ったり、借金が積もり積もって、どうにもならなくなり、呉服屋、小間物屋、レンタルの損料屋、料理屋までに責められて、いくら寒い日でも素っ裸でいる。これを八寒地獄という。
呉服屋「平気でいるにもほどがあるものだ。ひいきの引き倒しじゃなくて、平気の引き倒しだ。おごる平家じゃなくて、おごる平気もひさしからずとは、おめえのことだ」
小間物屋「わたしがほんの水牛(酔狂)で、おまえに貸したが、鼈甲(一向)かたがつきませぬ。象牙(どうせ)そんなこちゃらな」
料理屋「だんだん貸した銭の数の子、菜漬のしょうゆのからいことを言っても、そっちのままには座禅豆(させん)、ごまめ、煮豆のいいわけもおひたしいもので、浅漬(あさって)のことはおけ、煮染(みじめ)をみぬうち払った払った」
女郎「見てのとおり、わっちは下帯ばかりだから、取るものがなければ首でも持っていきなんし。ばからしい。なにさ。こんな姿も、体中が顔だと思えば平気さ。おまんまのかわりに風邪薬を飲んでれば、裸でも風邪はひきんせん」
十一

この色地獄では、世間でまだ涼しい服を着ている八月八朔の日(一日)に、白無垢の重ね着をさせる。残暑の厳しいときは、その暑さにたえられず、その苦しさ、たとえるものなし。また、この日の準備のための金の工面をしくじった女郎は、顔から火が出る。いわゆる焦熱地獄の苦しみ、これなり。汗が氷柱のごとくに流れる。
十二

本当の地獄では、ウソをついた者は、閻魔王から舌を抜かれる。この色地獄では、こっちからウソをついて、相手の舌のような小判を抜きたがる。しかしこれも、抜かれるほうよりも、抜くほうが苦しみなり。これを抜舌地獄という。
客「祝儀の金も、舌を三枚抜かれれば、ああ、痛いこと痛いこと、たいてえ苦しいこっちゃねえ」
女郎「この舌を三枚おくんなんしても、そのうち茶屋へ一分渡し、使いの者にお駄賃が二朱(金一分の半分)と銭四百文の一本よ。祝儀袋で二十四文。差し引き二両二分なにがしとなりんす。客のほうは、今時は二枚舌が多いので、舌を二枚使いなんすから大丈夫さ」
十三

金ヅルの客が、別の女郎となじみ、その女郎が客の名の彫物をしたと聞けば、こちらも、遣手や番頭女郎立ち会いで、誠を示すために指を切らせる。女郎どうしの真剣勝負の客争い、これ、修羅道の苦しみなり。
番頭女郎「指を切る場面の絵で、一人で切っているのは、あれはウソでおすねえ。お銚子で包丁をたたくのも久しい場面だ」
遣手「ばけのとさん、うまいぐあいに切っておくれよ」
女郎「切ったついでに、この血を使って、他のお客への血文字の手紙を二三枚書いておきやしょう。ねえ、血止めや痛み止めは準備していんすかえ」
現実の女郎の生活も示しながら、次回につづく、
前回紹介した黄表紙の中にもあるが、江戸人の常識、地獄を描いた京伝の作品はこちらも、
昔の人は、おちゃらけながらも地獄の存在を意識していたので、「悪いことをすれば地獄へ行く」という思いが、犯罪を犯すときの歯止めとなっていたのだろう。それにつけても現代の、歯止めもなにもない犯罪の多いこと。日本は、人類は本当にだいじょうぶなのだろうか。
