小林秀雄と「女」の問題 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』など
一昨日、小林秀雄・河上徹太郎らと、青山二郎・白洲正子らのあいだには「溝」があり、それには小林の過去の「女」がからんでいる、と書いた。
それについて、私が考えていることを、手短にまとめておこう。
基本的に、白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』(1990、新潮社)を参考文献にしたい。

この本には、そのあたりを考える材料が詰まっている。
だが、白洲正子の話には、嘘がまじっていると思う。それについても触れたい。
「仲違い」の現場
小林秀雄と青山二郎は、お互い20代だった大正時代の終わりから、30年来の親友だった。
彼らを中心とした文学グループが、日本の「純文学」の基礎をつくった。
その小林秀雄と青山二郎が戦後、仲違いするきっかけになった「事件」が、白洲正子のこの本には書かれている。
正子は、その現場にいたのである。
運命的ともいえるこの二人の友情に、決定的な結末が到来したのは、昭和二十八年七月四日のことである。小林さんは、今日出海さんといっしょにヨーロッパを廻り、アメリカ経由で羽田に帰った時、青山さんが迎えに来ていた。
私もいっしょに行ったので、よく覚えているが、ジィちゃん(青山)はどこか別のところ、喫茶店で席をはずしていたのだろうか。とにかくジィちゃんのいないところで、ジィちゃんが迎えに来ていると聞き、小林さんは実にいやな顔をして、「過去はもう沢山だ!」と、吐いて捨てるようにいったのである。
その後この言葉は有名になって、誰でも知っているが、その場の雰囲気があまりに陰惨だったので、私はびっくりしてそこを飛び出してしまった。
(『いまなぜ』p137)
「過去はもう沢山だ!」
小林のこの言葉は、すぐに青山二郎の耳に入り、自分が切り捨てられたと感じた青山は傷ついた。
二人の友情は壊れた。
その後、二人が死ぬまでの20数年間、仕事などで会うことはあったが、それ以外で二人は会うこともなかったようだ。
それについては、以下の記事に書いている。
二人を仲直りさせようという動きは周囲にあり、その一つについて、白洲は書いている。
広島に私たちの信頼する友人たちがいて、「おとう」という愛称で呼ばれていた。そのおとうが、小林さんと青山さんのような稀有な人物が、いつまでも仲違いしているのはよろしくない、河上(徹太郎)さんが間に立って取りなすように提言されたという。
このことは和子ちゃん(青山の妻)からはじめて聞いた話で、場所は銀座裏の行きつけのバァに設定された。そこで三人が会うことになったが、何もかしこまって手打ちを行うわけではない、いつものように飲んでいる間に、しぜんその場の空気はほぐれて行った。
話題は必然的に、「過去はもう沢山だ」という小林さんの言に及んだが、
「俺、そんなこといったのかナ。ぜんぜん覚えていないんだヨ。もし、いったとすれば失礼なことだ。御免よ」
それだけのことであっけなく済んでしまった。
(『いまなぜ』p149)
だが、私も経験があるが、一度壊れた友情は、二度と戻ることはない。
仲介されて、会ったり飲んだりすることはあっても、昔のようにはいかない。この場合も、同じであっただろう。
二人の「過去の女」
この仲違いの背景、あるいは伏線として、小林の過去の女のことがからんでいる、と私は思っている。
小林は、「過去はもう沢山だ」と言ったが、その「過去」とは、青山本人のことだけとは限らない。「過去の女」のこともあったのではないか。
青山二郎は、小林秀雄にとって「過去」の象徴である二人の女と、いつまでも関係していた。
長谷川泰子と、坂本睦子である。
まあ、男の側からは、元祖「メンヘラ」「地雷系」と言ってもいい女たちであった。しかし、女の側からは、べつの評価があるだろう。
小林が、長谷川泰子を中原中也から奪い、同居ののち、彼女から逃げるように別れたのは、1928年(昭和3年)、泰子が24歳、小林が26歳のときだった。
その3年後、小林は17歳だった坂本睦子に求婚し、いったんは承諾されたのだが、睦子が別の男と逃げて破談になった。のちに小林が「一生涯、忘れることの出来ない失恋」と呼んだこの出来事は、1931年(昭和6年)、小林が29歳のときだった。
小林はその後、1934年(昭和9年)、32歳で、喜代美(旧姓・森)と結婚している。
小林にとって、長谷川泰子と坂本睦子は、20代の苦い恋の記憶と結びついていた。
忘れたかったはずだ。
だが、忘れさせなかったのが、青山二郎だった。
長谷川泰子の件
長谷川泰子については、Wikipediaにこう書いてある。
長谷川 泰子(はせがわ やすこ、1904年〈明治37年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉4月11日)は、日本の女優。松竹時代の芸名は、陸礼子。複数の著名な文化人・文学者との恋愛や交遊関係があり、文学史に名を残す。中原中也、小林秀雄 (批評家)との"奇妙な三角関係"で知られる。泰子との恋と三角関係の苦悩が、中原中也を詩人にしたともいわれる。身長162cm。

長谷川泰子は、小林と別れた後、実業家と結婚して一時は羽振りがよかったが、戦後は零落していた。
そのうちに、「中原中也、小林秀雄と3角関係になった女」として、売り出すようになる。
白洲正子は以下のように書いている。
私たちの間では、お佐規(咲・泰子のペンネーム)とかお佐規さんと呼んでいたが、中原中也の恋人で、後に小林さんと同棲していた女性といえば、思い出す人は多いであろう。自伝も書いているし、最近テレビの映画にもなった。かつてはグレタ・ガルボに似ているとかいって、一風変わった美人であったらしいが、私が会った時は、ジィちゃん(青山二郎)の形容を借りていえば、「備前焼のビリケン様」に変貌していた。それでも、昔の夢は忘れられなかった(中略)
ひと口にいえば、彼女は過去に生きている女性で、現実のことは眼に見えない。(中略)
「仕事がない時は、友だちのところを托鉢して回るのよ」と話していたと聞くが、会ったとたんに私は托鉢の常連にされてしまい、大岡(昇平)さんや河上(徹太郎)さんのところを何軒か廻ったあとで、必ず家へ来るようになった。当時の金で五百円千円と集めて廻るのだが、誰も断る人はいなかった。
小林はこれをたいそう嫌がって、「お願いだから止めてくれよ、お佐規のためにならないから」と、再三再四いわれたが、お佐規の方がうわてだったのか、断ることはできなかった。(中略)
それにしても、ジィちゃんは、よくあきずに面倒を見ていたものだ。
(『いまなぜ』p86)
自分の過去の女が、自分との関係を売り物にして、自分の知人友人たちの間を「托鉢」して回っている。
小林秀雄が嫌がったのは当たり前だが、青山二郎はずっと、そんな長谷川泰子を庇護していた。
このことは、小林が「過去はもう沢山だ」と言った背景の一つであり、生涯、青山との確執になったことではなかろうか。
なお、長谷川泰子は、小林秀雄より10年長く生き、1993年に老人ホームで88歳で亡くなっている。
坂本睦子の件
もう一人の女、坂本睦子については、もう少し事情が複雑になる。
坂本睦子が、小林のグループの年少メンバーであった大岡昇平の愛人だったことは有名で、大岡が彼女の自殺を描いた小説「花影」(1961)は、1960年前後にモデル論争を起こしていた。
睦子の親友だった白洲正子は、睦子の死後すぐ「文藝春秋」に、「銀座に生き銀座に死す-昭和文学史の裏面に生きた女」という追悼文を書いた。
大岡昇平は、41歳だった1950年くらいから、睦子が自殺する1958年まで、睦子を愛人にしていた。睦子35歳から、44歳(享年)までである。
睦子については、以前「年譜」をつくったので、参照していただきたい。
白洲正子は、大岡昇平は「武蔵野夫人」(1950)から坂本睦子を不当にモデルにしていると問題に感じていたらしく、「花影」(1961)では、さらに青山二郎もふくめて矮小化して描いていると怒りを感じていた。
『いまなぜ青山二郎なのか』が出たのは、大岡昇平が死んだ(1988)後だった。
だから、正子は「死んだ人間にはよけい気を遣いたくなる」などと書きながらも、大岡への不満と怒りをストレートに書いている。
(花影は)小説の出来不出来にとは別に、むうちゃんを知るほどの人々は、みな不満に感じていた。モデルが現実の人間に似ている必要はないとはいうものの、魔性のものと呼びたくなるほどの魅力を備えていた女性が、そこではただの平凡な女にひきずりおろされ、人生に疲れはてて自殺する。これではむうちゃんは浮かばれまいと、誰しもそう思うのであった。
(『いまなぜ』p101)
では、白洲正子は、大岡との関係に先立つ、河上や小林と坂本睦子の関係を、どう思っていたのだろうか。
睦子と親しかった白洲正子が、河上・小林と坂本睦子の関係を、知らなかったはずはない。睦子本人からも、青山からも、聞いているはずである。
だが、『いまなぜ青山二郎なのか』の中で、正子はそのことに触れていない。
それだけでなく、小林と睦子の関係については、あえて知らないフリをしている。それが不可解だ。
古美術店「壷中居」の廣田熙が、小林秀雄全集の月報で、小林秀雄が骨董を始めたきっかけを書いている。
「これはごく最近、すし春で御会いした時、伺った話ですが、<君の処で初めて陶器を買った数ヶ月前に一生涯、忘れることの出来ない失恋をしてね……>と言って居られました」
大失恋が、小林が骨董を始めたきっかけだというのだ。
それを引用しつつ、正子はこう書いている。
けっこう訳知りのようなことをいっているが、その失恋の相手が誰であったか私は知らない。
(p131)
この「誰であったか知らない」は嘘である。
そう断定できる根拠は、正子の本『いまなぜ』の1年前に出た野々上慶一『高級な友情』(1989、小沢書店)の中で、それが誰か、書かれているからだ。
野々上は、白洲正子が引用したのと同じ廣田熙の文章を引用し、こう書いている。
小林秀雄のこの失恋云々は、私にも心当りがなくもない。相手はM・Sであろう。Mは、青山二郎や永井龍男の書いたもののなかにも出てくるし、この女性をモデルにしたとおぼしき小説もいくつかある。
(『高級な友情』p40)
この「M・S」が坂本睦子であることは、関係者には明白だ。
そして、白洲正子は『いまなぜ青山二郎なのか』の冒頭で、『高級な友情』を読んでいることを明かしており、その中から引用もしている。
だから、「誰であったか知らない」というのは、二重にあり得ない。
そもそも白洲正子は、1958年、坂本睦子の自殺直後に「文藝春秋」に書いた「銀座に生き銀座に死す」で、小林と坂本に関係があったことを書いている。
肉体に刻まれた男の系列は彼女の成長の跡を物語るかのようだ。
曰く、直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎、大岡昇平etc 。彼女が辿った道は、さながら昭和の文学史の観を呈する。
(白洲正子『行雲抄』1999、世界文化社 p40)
このように、白洲正子が、睦子の男遍歴を正確に把握していたことがわかる。
ちなみに、ここに「成長の跡」と書いているとおり、「銀座に生き銀座に死す」では、正子は睦子の文士遍歴を否定的にはとらえていない。
それどころか、処女を奪った「ある有名文士」のおかげで、彼女が出世したような書きぶりである。
もし某氏が、ふとした出来心を起こさなかったら、その一生はまったく違ったかも知れない。女は男につくられる。(中略)彼が文士であったことが、彼女の方向を決定した。はじめは単なる流行っ児だったがかも知れない。が、その他大勢に文壇人から、れっきとした名前が現れる頃にはむうちゃんも存在し始める。
(同上)
ここでの白洲正子が、どのような気持ちでこれを書いたか、正確にはわからない。他ならぬ「文藝春秋」に書いたということで、これは皮肉ととらえておきたい。
ともかく、それから31年たって、『いまなぜ青山二郎』では、なぜ白洲正子は睦子と小林の関係に言及しなかったのか。なぜ「知らない」などと嘘を書いているのだろうか。
今度は野々上慶一が、『いまなぜ青山二郎なのか』を読んだからだろうか。
野々上は、1994年に出した『ある回想』(新潮社)の中で、「M・S」などとイニシャルでごまかさず、はっきりと睦子と河上・小林との関係を書いている。
以下、少し長くなるが、その話を「坂本睦子の生涯(年譜)」から引用しておこう。この件に関する、唯一の当事者の証言だからだ。
昭和12(1937)年、睦子22歳の時の話である。
野々上、小林、河上、そしてピアニストの伊集院清三で飲んだ夜、いつの間にか河上と伊集院は消え、野々上と小林だけが深夜まで飲んだ。
(注:この伊集院清三は河上の親友。大久保利通の孫で吉田健一の親戚。昭和天皇と同級生。戦後は斎藤秀雄を助けて桐朋学園の事務長を務めたーー野々上慶一『高級な友情』、p120)
夜明け近くになり、他に行くところがなくなった2人は、目黒の伊集院の家に行った。
「玄関の戸をたたくと、ややして伊集院が出てきたが、ひどく困惑した顔をしているように思われた。(中略)小林さんが、何を思ったか、ふとしたように隣りとの境の襖をすっと開けた。部屋は暗かったが、こちらの電燈の光りが射し、見ると蒲団のなかに男女が寝ていた。同衾しているのは、なんと河上徹太郎と坂本睦子ではないかーー。小林さんが、サッと襖をしめた。そして倒れるようにして、すっと寝床にもぐり込んでしまった」(「ある回想」p25)
翌日、小林は、野々上と2人になった時、野々上にこう言った。
「知っての通り、僕には女房も小さな児もいる。それでもムー公のこと忘れられない。好きなんだ。しかし僕は、キッパリと諦める。僕にはムー公より、河上の方が大事なんだ。おぼえておいてくれ」(「ある回想」p26)
小林秀雄が付き合い、求婚して振られた女性、坂本睦子を、小林の盟友・河上徹太郎は、小林に隠れて愛人にしていた。
小林はショックを受けたが、河上との友情を優先して、河上を許した。
この話が、1994年の野々上の本で初めて世に出たとすれば、この「3角関係」の機微については、白洲正子が知らなかった可能性はある。
しかし、小林・河上が睦子と付き合っていたこと自体は知っていたはずだ。
坂本睦子はどういう女性だったか。
それを如実に表すエピソードを宇野千代は書いており、白洲正子もそれを引用している。
彼女が自殺する二三年前に、私は青山二郎のところで、しばしば彼女と顔を見合わせたものである。色の白い、小柄な女で、瞳の吃驚するほど大きなことを除いては、どこと言って、人の印象に残らないような顔をしているのに、一ぺん会ったら、忘れられない、一種言い難い魅力のある女であった。そのとき彼女は酒に酔っていた。「宇野さん、あたし、あなたがこの爪を剥がせと言えば、すぐ剥がすわよ。ほれ、この通り、」と言って、きれいな形のその手の指を片手で持って、「止めて、」ととめなければ、いまにも剥がしそうにする。そう言う衝動的な彼女も動作は、決して芝居とは思われない。この女は、私がとめなければこんな危ないことをする、と言う、或るさし迫った気持を相手に抱かせる。
(「青山二郎の話」p93)
まさに「地雷系」と言うべきではなかろうか。
この坂本睦子と生涯親しく、睦子が最も信頼していたと言える人物が、青山二郎だった。
坂本睦子と知り合った文士の多くは、睦子と肉体関係を持つことが多かったが、青山二郎だけは睦子の体に触れず、身寄りのない睦子の親代わりのような役割を果たしていた。
正子によれば、青山二郎は、将来は年をとった睦子を引き取って一緒に暮らそうとも思っていたらしい。
このように、いつまでも坂本睦子と親しくしている青山二郎や白洲正子と、河上・小林が距離をとっても、不思議ではないのではなかろうか。
長谷川泰子の場合と同じである。
青山二郎の女性との付き合い方は、たしかに独特だった。
坂本睦子の体に触れなかった、という話から、私は最初、彼は同性愛者ではないかと思った。
しかし、そうではなく、普通にスケベで、4度も結婚している。
しかも、最後の妻は、3度目の妻の姪で、12歳の時から付き合っていた。ペド寄りのどスケベではないかい。
一方、青山二郎には、宇野千代や白洲正子など、女性の信奉者、ファンが多かった。
宇野も白洲も、著書で青山二郎の性格や生活を絶賛しているが、いくら「いまなぜ青山二郎なのか」と力説されても、正直私には、その魅力がわからない。
彼が一般に人に親切で、ものにこだわらず、自由に生きていられたのは、ただ彼が億万長者だったからだ、としか思わない。
ただ、青山二郎の、長谷川泰子や坂本睦子との付き合い方から、見えてくることがある。
骨董品としての女
作家にとっての、若き日の「運命の女」たちは、彼らの心の中で、あるいは彼らのファンの中で、若き日の姿のまま保存されている。
しかし、現実には、女は年をとる。
長谷川泰子は「備前焼のビリケン様」となり、坂本睦子も、「愛人」という身分から脱出できないまま、40代を迎えていた。
一方、男たちは、出世し、年をとるほどに、社会の中でちやほやされる。
名士であれば、若い、新しい愛人を持つことができる。
そんな男たちにとって、過去の女たちの現実の姿は、すでにウザいものになっている。
ひどい話でも、男にとってはそれが普通かもしれないが、青山二郎は、一味違っていた。
語弊があるかもしれないが、骨董の天才であった彼は、女性たちも、「骨董品」として愛でることができたのだと思う。
骨董の趣味こそが、青山二郎と小林秀雄とを結びつけていた。
しかし、二人が仲違いした後は、骨董の考え方についても意見が対立していた。
青山二郎は、「時代をつける」と言って、焼き物に着色し、あえて古く見せるようなことをしていた。
小林秀雄は、それを邪道だとして非難していた。
一見、小林の言い分が正論に思えるが、白洲正子は、『なぜいま』の中で、青山の考え方を弁護している。
どちらが正しいか、私には判断つきかねるが、その部分を読んで、装丁家の菊地信義さんが、60代くらいから骨董品に凝っていたことを思い出した。
ある時、彼は、こんなことを言っていた。
「年をとると、自分の顔にシミができるだろう。シミだらけの顔を鏡で毎日見ているうちに、骨董のよさがわかってくるんだ」
専門的なことはまったくわからないが、骨董とはそういうもの、「加齢」を肯定して、初めて楽しめるものなのだろう。
年をとった長谷川泰子や、坂本睦子への青山の優しさには、そういう骨董を鑑賞するような感性があったんじゃないか、と思う。
青山の文章は、私には晦渋で意味がわからないことが多いが、坂本睦子のことを以下のように評したのは、なるほどと思わせる。
「(睦子は)自分がいつか虎のような姿に変わっていったのを当人は気づいていません。彼女はいつまでも自分が美人だと(人に)思わされています。自分の首に綱をつけた悲しい虎が、その手綱をくわえて……本来の女性に立ち返りたがってさまようありさまを、彼女の底に見ることができます」
(『いまなぜ』p111 表記は現代風に改めた)
青山は、いつまでも若い美人のままだと人に思わされている睦子が、いつの日か「虎」になった自分を自覚して、解放される日を夢見ていた。
それは、いわば骨董品に「時代がついて」、価値が生まれるようなことだったのではないか。
こういう青山の女性の見方、普通の男にはない女性観や価値観こそが、白洲正子や宇野千代を惹きつけたのではなかろうか。
その点では、小林秀雄も河上徹太郎も、普通の男であった。
どこまで意図的だったかはわからないが、青山のそうした女性観と、それにもとづく長谷川泰子や坂本睦子の庇護は、小林や河上にとって、当てつけがましく感じられたかもしれない。
白洲正子の限界
ともあれ、白洲正子の『いまなぜ』には、坂本睦子のことを通じて、「普通の男」たちへの彼女の怒りが充満している。
白洲が青山二郎を、持ち上げれば持ち上げるほど、それ以外の男たちへの非難が聞こえてくるのである。
次の一節は、1958年に坂本睦子が自殺した時から30年以上、彼女が感じていた怒りの発露であり、『いまなぜ』は結局、この一節の告発を書くための本だったのではないかと、私には感じられた。
昔の文春ビルは、現在の第一ホテルのあたりにあり、地下にレインボウという喫茶店があった。むうちゃんは、十六、七の頃、そこへ勤めに出て、その日にある著名な文士に処女を奪われたという。そのショックのためか、あるいは生まれつきのせいか、彼女は不感症であった。「男と寝ることはなんでもないわ」と常々いっていたのは、そのためでなかったかも知れないが、彼女の一種放心的な表情も、投げやりな生活も、『花影』の葉子が「自分を汚すことによろこびを見つけるようになった」自虐的な性格も、ひいては自殺にまで追いこまれて行った原因も、すべてはそこにあると私は思っている。
(『いまなぜ』p109)
「ある著名な文士」とは、直木三十五だが、白洲正子はこの時点でも、その実名を書くことはできなかった。
しかし、直木への怒りは、睦子を「たらい回し」にした男たち、青山二郎をまれな例外とする男たち全体にも広がっていっただろう。
大岡昇平はもちろんとして、小林秀雄や河上徹太郎も、その対象ではなかっただろうか。
河上や小林がしたことは、大岡昇平とは、また、もちろん直木三十五とは違っていたとしても、大岡の作品を評価・擁護し、結果として直木の蛮行をフォローし、睦子を歴史の裏面に追いやっていた文壇の権威者は、小林や河上であった。
これが、それぞれの後半生で、「青山・白洲」側と、「小林・河上」側のあいだに「溝」ができた、と私が想像する理由である。
ところが、ここで、「どんでん返し」がある。
いや、種明かしというべきか。
知っている人は知っていると思うが、白洲次郎・正子の次男・兼正は、小林秀雄の娘・明子と結婚している。
つまり、この『いまなぜ』の時点で、白洲正子にとっては、小林秀雄は息子の義理の父親だった。
兼正と明子の息子で、正子の孫である白洲信哉氏(作家)も、すでに二十歳を超えていた。
小林秀雄とは、ガッツリ姻戚関係なのである。
だから、小林秀雄について思うところがあっても、正子は書けなかった。小林秀雄本人は亡くなっていても、書けなかった。
小林について書けなければ、その盟友である河上徹太郎のことも書けなかった。
青山二郎と小林秀雄の対立を青山側に立って書きながら、坂本睦子の悲劇的人生を書きながら、大岡昇平については厳しく書きながら、小林秀雄に対して概して甘く、部分的には知らないフリまでしなければならなかったのは、そのためだろう。
小林との姻戚関係を、正子が『いまなぜ』の中で書いていないのは、読者に対してアンフェアに思える。
そして、つくづく、特権階級の人たちの考えることはわからない、と私は思うのである。
<参考>
