見出し画像

【読書感想文】野々上慶一『高級な友情』あなたの親友は、あなたに褒められたい

野々上慶一『高級な友情』(小沢書店、1989 *講談社文芸文庫版もあります)


青山二郎(1901ー1979)という人は、今では語られることが少なくなりましたが、昭和文学史上、重要な人です。

wikipedia「青山二郎」では、「日本の装丁家・美術評論家・数寄者」という肩書になっていました。

数寄者(すきもの)とは、風流人ということですね。それだけでは、何のことかわかりません。

一般には、陶器、焼き物の目利きとして知られました。焼き物の天才と言われました。小林秀雄は「青山は、焼き物に凝って、中学も出なかった」という風に書いていますが、いちおう「日大中退」となっています。


彼は、昭和5年(1930年)ごろ、銀座にできた文学グループの中心人物でした。

当時の銀座から有楽町にかけては、主要新聞社や出版社、広告会社が集まった、マスコミの中心地です。

そのグループには、小林秀雄、中原中也、河上徹太郎、永井龍男、三好達治、大岡昇平などがいました。のちの昭和文学の大物たちです。

その核のように存在したのが、青山二郎でした。彼はまだ本格的な小説を書いていませんが、「いずれノーベル賞級の小説を書く」と豪語し、それを、こうした面々に信じさせるほどのカリスマ性がありました。

まだ若い彼らは、銀座で酒を飲みながら、文学や芸術について語り合っていました。いつも座を支配していたのは青山だったので、この中で年下だった大岡昇平(1909ー1988)は、グループを「青山学院」と呼びました。


とくに青山二郎と親しかったのが小林秀雄(1902ー1983)です。

本書は、青山二郎と小林秀雄の友情と別れをつづった本です。

小林秀雄と河上徹太郎は、今につづく雑誌「文学界」を創刊し、主宰していました。著者の野々上(ののがみ)慶一は、初代「文学界」の出版者(文圃堂)です(現在は文藝春秋発行)。


青山二郎は、東京の麻生から青山にかけての地主の一家で、億万長者でしたが、野々上慶一も名家の生まれで金持ちだったらしい。

宇野千代の『青山二郎の話』(中央公論、1980)に、以下のように書かれています。


野々上さんという人は、広島の、大臣にもなったことのある有名な人の弟で、何でも野々上さんだけがお母さんの実家のあとを継いだとかで、野々上という名前なのだそうであったが、お父さんが世にも聞こえた金持で、広島でも瀬戸内海の島を幾つも持っていたり、また、別府にも別荘があったりした。地獄とか言う名前のある温泉場も、お父さんの持ち物であったとか。
(『青山二郎の話』p81 なお、野々上の父親の姓は「松本」)


青山と小林の「友情」の部分は、よく知られた話で、本人たちもそれぞれ書いていますから、目新しい話ではありません。

有名なのは、昭和6年ごろ、小林秀雄が「一生涯、忘れることの出来ない失恋」をして、傷心を癒すために、青山を師匠にして骨董に凝り始めたことです。

小林の失恋の相手は、この本では「M・S」としか出てきませんが(p40)、坂本睦子です。

坂本睦子については、以前noteに書きました。

文学については、小林が青山の師匠のようでしたが、骨董においては、青山が小林の師匠でした。

そのように二人は、互いに尊敬し合う関係だったようです。


しかし、二人の20年以上の友情は、戦後、昭和28年(1953年)ごろに壊れます。

その後、二人とも20年以上生きていますが、ほとんど会うこともなかったようです。

それについて、書いている本や資料はあまりありません。

本人たちも、はっきり書いていません。

何が起こったのか。

その原因を考察しているのが、本書の興味深い点です。


野々上が発端のように書いているのが、昭和28年、小林が長い欧米旅行をして、帰ってきた時の話です。

羽田に小林を迎えに行った青山たちに対して、小林は、

「過去はもうたくさんだ」

と言ったそうです。

この言葉は非常に印象的だったらしく、大岡昇平含めて複数の人が触れ、その意味を詮索しています。

青山二郎は、その言葉は、自分に向けられたと思ったようですね。

青山は、この言葉に傷つきました。


おそらくその頃のこととして、文藝春秋の式場俊三から聞いた話を、野々上は書いています。


銀座のバーで、青山ジイちゃんとひょっこり顔を合せたところ、「小林がオレを裏切った。小林がオレを見捨てやがった・・」と涙ぐみながら、珍しくグイグイ飲んでいたという。ワケなどきくのも憚られて、自分はそっと店を出た、というのである。
(『高級な友情』p75 青山二郎は「ジイちゃん」の愛称で呼ばれていた)


野々上は、金銭面でのトラブルや、骨董についての意見の相違など、決別の原因となったと思われる他の点にも触れていますが、決定打には思えません。

昭和54年(1979年)に青山二郎が死んだあと、野々上は、用があって青山宅を訪れました。

その時、未亡人から青山が書いたものを見せられて、野々上は驚きます。


四百字詰原稿用紙にして、三、四枚ほどのなかに、小林秀雄についていろいろ書いてあるのであるが、その人物評はあまり次元の高いものではなく、いささか誤解を含んだ多分に感情的なもので、下世話にいえばイヤ味、悪口に近いものである。また羽田での小林の発言や、先に憶測した金銭問題にも触れていて、これは改めて確認する格好だった。そしてまた人間小林秀雄に対する決別の辞のようなところがあり、小林に対する思い入れが深かった心情が、よくうかがえるのである。また大げさに言えば、芸術放棄の気配さえ感じられることが書かれている。醒めたなかに、なにか痛切な響きさえ聞えるのである。文末に、一九五六・八・二〇と、書いた日附がある。
(同上 p86)


しかし、未亡人がこの文章を発表することを許さなかった、と野々上は書いています。だから、それ以上の詳しいことはわからない。

でも、野々上は、自分の結論のように、以下のように書いています。


青山二郎が死去した時、さまざまなことが言われた。(中略)世間一般は、青山二郎は、ついに世間的な意味での職に就かず、「都会の隠者」らしく、骨董三昧、気随気儘な生涯を終えた、と見なしたようだ。

しかし、青山二郎の本音の胸中を、知っていたひとが、果してあっただろうか。青山は、小林秀雄を忘れられる筈がない。そして、子供っぽい言い方をすれば、心の底で、青山は小林にホメられたかった。小林もまた青山に。ーー
(同上 p87)


青山は小林にホメられたかった。小林もまた青山にーー。


青山二郎も、小林秀雄も、毒舌の人として知られました。

その毒舌は、お互いの間でも交わされていたようです。

大岡昇平は、「再会」という小説で、二人の会話と思われるものを描いていて、それを野々上は引用しています。


私のほかみんな酔って来た。

Y先生がX先生にからみ出した。

「お前さんには才能がないね」

「えっ」

とX先生はどきっとしたような声を出した。先生は十数年来、日本の批評の最高の道を歩いたといわれている人である。その人に「才能がない」というのを聞いて、私はびっくりしてしまった。

(同上 p77)


X先生は小林秀雄であり、Y先生は青山二郎でしょう。

これは、羽田の出来事があった昭和28年より前(昭和26年)に発表された小説です。

でも、この頃から、二人が傷つけ合っていたことがわかります。

ここでは青山が小林にからんでいるわけですが、逆のこともあったろうと思います。

親しい間だからこそ、こうした毒舌を吐き合うことはあります。

近しいからこそ、嫉妬心や競争心が働くこともあります。

その場では、冗談のように許容していても、実はボディブローのように効いている。


逆に、親しい間であればなおさら、お互いに褒め合うことは滅多にない。

白々しく聞こえるから。

でも、本当は褒められたい。

褒められたいのに褒められない。

その不満や怒りが溜まっていく。

そんな関係が長く続くと、ふとしたきっかけで、決定的な亀裂につながることを、この二人のエピソードは教えていると思います。


青山を苦しめたのが、「かつての友人に切り捨てられた」という思いだとすれば、私も人生でそういう思いを人に与えてきたでしょうし、私自身、そういう思いを人から味わわされました。


こういう友情や人情の機微は、年をとるほどによくわかります。

しかし、わかった時には、もう取り返しがつかないことが多いんですね。


野々上によれば、小林秀雄は青山二郎の葬式の時、こう言ったそうです。

「ジイ公(青山)との関係かい、僕は、あれしかなかったんだよ。あれでよかったんだよ。あれでよかったと思うんだ」
(同p88)


小林は、その4年後に亡くなりました。



<参考>


いいなと思ったら応援しよう!