ジプシー歌手としての「ユル・ブリンナー」に感動 「日本人」だった過去も
昨日、YouTubeのおすすめをボーッと見てたら、「ユル・ブリンナー」という人が歌うジプシー歌曲(「ツーギターズ」)が流れてきました。
Yul Brynner "Two Guitars" on the Ed Sullivan Show

「え? ユル・ブリンナー? 似たような名前の俳優がいたが・・そういえば風貌もなんとなく似ているが・・同姓同名の別人?」
と最初は思った。
何より、その演奏のカッコよさにノックアウトされた。2分足らずの演奏だが、何度も聴いてしまった。
ユル・ブリンナーがジプシー歌手だとは知りませんでした。
知ってる人は知ってるのでしょうが、日本語のwikiにはそれについて記述がありません。
しかし彼は、ジプシー歌手として、アルバムも出しています。

ユル・ブリンナーといえば、映画「王様と私」(1956)でアカデミー主演男優賞を取ったハリウッドのビッグスターです。

それ以前に、ロジャース&ハマースタインのブロードウェイミュージカル「王様と私」(1951)の「王様」役で、いきなりスターになった人。
だから、歌えることは知っている。
でも、「王様」と「ジプシー」では、ずいぶんイメージが違う。
ユル・ブリンナーとは何者か?
そういえば、オレはあまり知らないな、と思いました。
彼の全盛期は「王様と私」の1950年代です。
私が物心ついた1960年代後半にも、もちろんビッグスターではありましたが、ちょっと過去のスターという感じでした。
「七人の侍」のハリウッド版である「荒野の七人」(1960)で知られていましたが(この映画はアメリカではあまりヒットせずアメリカ以外でヒットした)、それもすでに古い話でした。
われわれの世代には、むしろ「ウエストワールド」(1973)のサイボーグのガンマンで知られていた。これは、どちらかというカルトSFでしょう。
ユル・ブリンナーは、「王様と私」があまりにハマり役だったため、イメージが固定し、俳優としてはその後苦労した感があります。
彼も、映画俳優としての限界を悟ったのか、晩年はミュージカルに復帰し、「王様と私」の再演に情熱を傾けたようです。
彼は1985年に、肺がんのため65歳で亡くなりました。
亡くなった時、生前に撮影していた「タバコをやめなさい」という禁煙CMが流れて話題になったのは覚えています。
でも、当時私はヘビースモーカーで、それを見て辞める気にはならなかった。
まあ、ユル・ブリンナーに関しては、以上のことくらいしか知らなかった。
彼の全盛期を知っている日本人は、70代後半以上でしょう。
今の若い人は、もう彼についてほとんど知らないかもしれない。
日本とのかかわり
ジプシー歌手としての過去を調べるうちに、彼と日本とのかかわりに興味を持ちました。
彼は、ロシア語と、フランス語と、ロマ(ジプシー)語と、英語と、日本語が話せたといいます。
英語は、彼が習得した最後の言語でした。
日本語がどの程度話せたのか、情報が見つかりませんでしたが、英語版wikiには、確かに日本語が話せたと書いてあります。
彼の祖父が日本で働いていたことは、日本語版wikiにも書いてあります。
ブリンナーの祖父は長崎で商社員として働き、長崎通詞も務めた。日本人女性との間に子をもうけ、今も子孫がいる。
このブリンナーの祖父、ジュリ・ブリンナーについては、以下の情報もネットにありました。
このウラジオストク出身で有名な人物(ユル・ブリンナー)の祖父は、ジュリ・ブリンナーといいます。彼はスイスに生まれました。16歳で家を出て船で上海に渡り、そこから日本の横浜に辿りつきます。
彼は、あるイギリスの会社の仕事をみつけ、そこで数年働きました。雇い主が亡くなった後、会社はジュリが所有することになりました。
彼は日本人女性と結婚し、子どもが生まれます。しかしジュリは、突然日本の家族を捨てウラジオストクへと渡って行ってしまったのでした。
しかし、日本とのかかわりは、祖父限りではありませんでした。
ユル・ブリンナーは1920年、ロシアのウラジオストクで生まれました。
それを聞いて、ピンとくる人はピンとくると思います。
1920年のウラジオストクは、日本が実効支配していました。
いわゆる「シベリア出兵」です。
このことは、日本版wikiにも、上のロシアの記事にも書かれていませんが、英語版wikiでは触れられています。
ユル・ブリンナーは1920年7月11日、ウラジオストク市でユリイ・ボリソヴィチ・ブリンナーとして生まれました。彼はスイス系ドイツ人、ロシア人、そしてブリヤート人(モンゴル系)の血を引いていました。ロマ(ジプシー)の血を引いているとも主張していましたが、それを裏付ける証拠は見つかっていません。(中略)
ブリンナー家は、その4階建ての邸宅で豊かな暮らしを送っていました。彼が生まれた当時、ウラジオストクは日本軍の占領下にありましたが、その地域自体は、ロシアの共産主義緩衝国である極東共和国の統治下にありました。
ウラジオストクは当時、日本で「浦塩」と呼ばれていました。
彼が日本統治下の「浦塩生まれ」であるのは確かです。
「日本人」とまでは言えませんが。
以前、棟田博の『兵隊日本史』の紹介の時に触れたように、「シベリア出兵」は日本人にあまりに不人気なので、ほとんどドラマや映画になることもなく、忘れ去られているような感じですが、その最中に、ユル・ブリンナーという将来のハリウッドスターが生まれたことは記憶されていいでしょう。
彼が2歳になった1922年には、日本が撤兵し、それを待っていたように赤軍がウラジオストクに押し寄せました。
同年にソビエト連邦が設立され、ブリンナーの家族もソビエト市民になります。
その後、ブリンナーの父は女を作り、離婚して、中国・満州のハルビンに行き、そこでまた日本と関係ができます。
ウラジオストクに妻子を残した後、ボリス・ブリナーはカテリーナ・イヴァノヴナ・コルナコワと共に一時モスクワで暮らしましたが、やがて満州のハルビンへと移住しました。当時、満州は日本の統治下にありました。ブリナーはそこで国際貿易の事業を立ち上げました。
(英語版wiki)
ジプシー歌手としての青春
その後、ユル・ブリンナーも、母とともにハルビンに行き、少年時代(10歳前後)の彼は、ハルピンでギターを覚え、演劇などの芸術に親しんだようです。
しかし、1933年に、中国と日本が戦争を始めそうだとなって、母とユル・ブリンナーたちは、満州からフランスのパリに移住しました。
1935年、そのパリのキャバレーで、14歳のユル・ブリンナーは、「ジプシー歌手」としてデビューしたのでした。
彼は、ジプシーの血が自分に流れていると信じていました(が、息子の歴史学者ロック・ブリンナーは、上記のwikiの記述にもあるとおり、その事実はないと否定しています)。
このパリでナイトクラブを回り、ジプシー歌手として歌っていた頃が彼の青春で、いちばん楽しかった時期でもあったのではないでしょうか。
まさに文化都市パリの絶頂期です。
この頃、ユル・ブリンナーはアヘンを吸うことを覚え、同好の士だったジャン・コクトーと知り合い、そのつながりで若きピカソやダリとも交友しました。

そして戦時となり、いろいろあって、1940年に彼はアメリカに移住し(そのさいも彼はハルビン経由で神戸から出港しています)、演技の勉強を本格的に始めます。
戦後、「王様と私」のオーディションを受ける前には、テレビのディレクターとして地位を築いていました。
それでも、彼はロシア語とロマ語でジプシー歌曲を歌うことを終生好み、「王様と私」のオーディションの時も、ジプシーの歌の弾き語りで合格しました。
このように、ユル・ブリンナーという人の生涯は実に興味深いし、彼にとってジプシー音楽とはなんだったのか、それ自体が面白いテーマになると思います。
そもそもジプシー音楽とは何か、というのももちろん大きなテーマです。
ジプシー音楽も、私にとって、好きなものと嫌いなものが分かれます。
ユル・ブリンナーの歌うそれは、間違いなく魅力的ですが、洗練されたジプシージャズのようなものになると、それほど好きでない。
クラシック音楽への影響、というのも別のテーマとしてあります。
たとえばシフラの弾くリストのハンガリー狂詩曲が別格なのは、やはりジプシー音楽を知ってるからではないか、と思ったり。
私としては、大きな趣味の鉱脈を見つけた気持ちです。
<参照動画>
ユル・ブリンナー――伝説と事実
<参考>
