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「新橋発、パリ行き」の切符があった頃 ユル・ブリンナーが戦禍を逃れたルート

2日前に、往年のハリウッドスター、ユル・ブリンナーのことを書きましたが。

彼のことを調べていると、アメリカに定住するまで、


日本(横浜、神戸など)ーロシア(ウラジオストク)ー満州(ハルビン)ーヨーロッパ(パリなど)


というルートでの移動が多いのに気づきます。


ユル・ブリンナーは、1920年、「シベリア出兵」で日本が統治中だったウラジオストクで生まれました。

1922年、ソビエト連邦成立にともない、いったんはソ連市民になりますが、家族は満州・ハルピンに移住します。

しかし、1933年、満州事変にともない、フランスのパリに移住します。

1935年、14歳のとき、ユル・ブリンナーは、パリのキャバレーで「ジプシー歌手」としてデビューしました。

しかし、1940年、フランスがナチスドイツに占領されたので、ハルピン経由で日本に渡り、神戸から船でアメリカへと逃れます。

そして、1951年のブロードウェイミュージカル「王様と私」で、一躍スターになりました。


つまり、ロシア革命を逃れて満州に渡り、日本と中国の戦争(満州事変)を逃れてパリに渡り、第二次大戦のドイツの侵攻を逃れて、日本経由でアメリカへ渡ったのでした。


大きく言えば、ユル・ブリンナーも、ロシア革命が原因で亡命した「白系ロシア人」の一人でした。

知られるとおり、革命を逃れて、日本本土に移住した白系ロシア人も、たくさんいます。


ユル・ブリンナーより4歳年上(1916年生まれ)の、ヴィクトル・スタルヒンもその一人です。

彼は1925年、9歳の時に、ロシアから、ハルビン経由で日本に亡命しました。学生野球のエースから、できたばかりの巨人軍のエースとなり、死後「野球殿堂」が創設されると、最初の表彰者となりました。


これらの移動を支えたのが、戦前・戦中にあったシベリア鉄道&東清鉄道(1935年以降は満鉄)を使った、以下のルートでした。

飛行機や車が一般的でない時代、このルートが、日本とロシア、そしてヨーロッパを結んでいました。満州の重要性がよくわかるルートでもあります。


産経新聞2016/7/24より


明治末以降、日本とロシア(ソ連)、ヨーロッパ諸国が結んだ協定によって「1枚の切符」による国境を越えた国際連絡輸送はベルリン、パリ、ロンドンへと繋がってゆく。

これによって日本-パリ・ロンドンは、約2週間の行程で結ばれた。太平洋航路-北米横断鉄道-大西洋航路ルート(1カ月弱)や、スエズ運河経由の海路(約1カ月半)に比べて大幅に短縮。ヨーロッパはぐっと近くなった。

大正2(1913)年には世界一周、東半球一周の周遊券も発売を開始。満州は「欧亜をつなぐ十字路」「世界への玄関口」としてエキゾチックな文化を花開かせるのである。

(喜多由浩 産経新聞 2016/7/24)


敦賀港は明治32(1899)年に貿易港として政府から開港場に指定され、明治35(1902)年にはウラジオストクとの間に定期航路が開設された。

飛行機便がまだない時代に、敦賀はロシアを通じて欧州との玄関口になった。

日露戦争(明治37−38年:1904−1905年)が終わると、シベリア鉄道がウラジオストクからヨーロッパまで全線開通する。

明治45(1912)年6月には新橋発敦賀行きの列車が設定された。この列車は敦賀からウラジオストク行きの定期船と連絡しており、その先はシベリア鉄道と通じていた。このため欧亜国際連絡列車と呼ばれた。

このルートは、第一次世界大戦とロシア革命によってしばらく不通となったが、1925年になって日ソ連の国交が回復すると、新橋発ベルリンやロンドン、パリ行きの欧亜国際連絡列車が復活する。

同年「ジャパン・ツーリスト・ビューロー(交通公社、略称:JTB)」が設立され、新橋発ベルリン行きは一枚の切符になった。

(板谷敏彦 日興フロッギー 2021/12/24)


2日前には、ユル・ブリンナーが、アメリカのTV(エド・サリヴァン・ショー)で、ジプシー歌曲を披露する動画を紹介しました。


Yul Brynner "Two Guitars" on the Ed Sullivan Show


ここでブリンナーと共演している、アリョーシャ・ディミトリエヴィチ(Alexis<Aliosha> Dimitreivich)は、1930年代のパリでのジプシー歌手仲間で、1960年代のジプシー歌手の代表の一人、「最後のジプシー歌手」とも呼ばれました。


アリョーシャ・ディミトリエヴィチ(1913ー1986)


このアリョーシャ・ディミトリエヴィチも、ユル・ブリンナーと同じような逃避行をしています。

彼は、19世紀から音楽活動をしていたジプシー(ロマ)の一族です。ユル・ブリンナーより7歳年上ですが、ユル・ブリンナーが生まれた1920年には、ロシアにいました。

しかし、ブリンナー家と同様、革命を嫌ってウラジオストクからハルビンへ逃れ、そこで一家で「ジプシーショー」の興行をしていました。

彼らの一座はハルビンを拠点に、北京、南京、上海、香港などで活動した後、1925年に日本に渡りました。もしかしたら、その頃の日本の新聞を漁れば、彼らのことが出ているかもしれません。

その後、東南アジア(フィリピン、インドネシア)、インド、中東、エジプトと回り、1930年にフランスに到達します。

そこで、10代のユル・ブリンナーと知り合うことになります。

その後、1940年のドイツの侵攻とともに、ディミトリエヴィチ一家はブラジル、次にアルゼンチンに逃れ、戦後はまたパリに戻りました。


アメリカで成功したユル・ブリンナーは、パリで世話になったディミトリエヴィチ一座への恩を忘れず、その後も彼らを支援していました。

1967年、エド・サリヴァン・ショーで共演し、その後彼らはレコードを作っていますが、それはユル・ブリンナーの、彼らへの恩返しでした。


話が逸れましたが、この時代のシベリア鉄道を使ったルートは、ヨーロッパとアジアを、ある意味で今以上に、緊密に結びつけていたのがわかります。

1940年、リトアニア駐在の外交官、杉原千畝が発行した「命のビザ」によって、ユダヤ人を救ったのも、このルートでした。彼らは、このルートでユダヤ人を敦賀、横浜に届け、そこからアメリカなどに旅立たせました。


なお、映画評論家・水野晴郎が晩年に撮ったカルト映画「シベリア超特急」(1996)は、日米開戦の前夜、1940年に、山下奉文が、このルートでヨーロッパから満州に戻るという設定でした。


行く先々で戦火が上がる、当時の人たちの苦労は想像を絶しますが、現在このルートが使えなくなって、むしろ国境は、昔よりも越えがたくなった面があります。

ウラジオストクから、モスクワ経由でヨーロッパに渡る鉄道ルートも、現在の世界情勢により、運休しているようです。


パリのロシア人


ユル・ブリンナーら、亡命ロシア人が多かった時代のパリのことは、最近ちょっと脚光を浴びています。

イギリスの作家ヘレン・ラパポートが、2022年に『ロマノフ家の後で:ベル・エポックから革命、そして戦争の時代におけるパリのロシア人亡命者たち After the Romanovs: Russian Exiles in Paris from the Belle Epoque Through Revolution and War』を出版し、英語圏で話題になりました。


その書評などから、内容を少し紹介します。


ラパポートによれば、パリでのロシア人の活動は、ロシア革命のはるか前、19世紀末からのいわゆる「ベル・エポック」時代から、盛んでした。

その代表は、ロシア皇帝ニコライ2世の叔父にあたる、ウラジーミル大公の活躍です。

彼は、パリで、セルゲイ・ディアギレフを支援し、彼の「ロシア・バレエ団」による1910年のストラヴィンスキー「火の鳥」の公演が、センセーションを巻き起こすことになります。


当時のパリには、革命派も反革命派もいました。

1905年の革命で敗れたレーニンも、パリにいました(1909〜1912年)。

しかし、パリのロシアの貴族やその関係者は、1914年の第一次世界大戦勃発で、ロシアに帰ることになります。


すぐに1917年のロシア革命が起こり、今度は以前より貧しいロシア人の亡命者がパリに押し寄せました。

しかし、1924年にフランスがソ連を承認したことで、パリの白系ロシア人たちは失望します。

そして、1929年の世界恐慌で、彼らはさらに職を失い、追い込まれていました。

1930年代、パリでジプシー音楽が流行ったのは、そうしたロシア人たちの、失った故郷への憧憬と嘆きが、強かったからでしょう。


1930年代のパリといえば、藤田嗣治や岡本太郎がいた頃でもあります。彼らは、ユル・ブリンナーらがキャバレーでジプシー歌曲を歌っているのを聴いた可能性があります。


現在は、パリに限らず、ジプシー音楽を聞かせるようなキャバレーやクラブは、ほとんど消滅したようです。

ジプシー歌曲を歌う、ユル・ブリンナーの歌声には、その時代の人々の嘆きと悲しみと、同時に溢れるような生や自由への情熱がにじんでいます。


<参考>


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