イェッセ・ミュルダーさんとの思い出 その5

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第四の共通点

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ドイツ留学を終えた後の数年間は、間違いなく僕に取っての「暗黒」の時代ではあったが、それでも僕は確か2005年の秋あたりから既に今の様な仕事を始めていたし、通訳の仕事もパラパラと入り始めていた。転機となったのは矢張り2007年の四国アントロポゾフィークライスの設立で、これで僕の司祭になる夢は完全に断たれたと言える(詰まり僕は「教会」ではなく「協会」を選んだのだ)。こう言うと悲劇的に聞こえてしまうかも知れないが、僕が司祭になれないことはプリースターゼミナールの第五ゼメスターで体調を崩した時点で、とっくに分かっていた。自分のバイオグラフィーを振り返ってみると、こういう「予感」していたことが「現実」になるまでに、何年かのタイムラグが有る、というのはよくあることだ。
そして僕の人生で次の転機は、矢張り2011年に、父が株式会社を立ち上げたことだろう。そもそも、僕の父である竹下和男は香川県の公立学校の教員だったが、自身が校長だった2001年に「子どもが作る弁当の日」という教育運動を始め、それ以来、現職ながら日本各地を講演で廻っていた。そして退職後もしばらくは個人事業主として頑張っていたが、さすがに一人では経理処理が追いつかなくなって僕と母が正式に手伝う様になったというのが「株式会社オフィス弁当の日の創立秘話」だ。そして僕は共同経営者として、それから今に至るまでずっと同法人から給料を貰っている。
さて第三回でも簡単に書いたが、イェッセさんは2008年にベッチュラーを取得している。これが日本で言うところの「四大」の卒業に当たるのだが、この後も「博士」になるまでの六年間、彼は身分としてはずっと「学生」だったことになる。これが中々に腹立たしいことで、オランダで一緒にバスに乗ると、彼の乗車賃は学生証のお陰で僕の半額だった。
そういえばスッカリ言い忘れていたが、イェッセさんは僕の一歳年下で、向こうの学年では二つ下に当たる。よって彼は三十二歳までずっと「学生さん」だったことになる。但し、それは飽くまでも「書類上」の話で有って、彼はマスターとドクターの論文を書きながら、学部生に授業をしていた。詰まり「学生」と言いつつも、彼は他の大学教員の半分か三分の一くらいの収入を、既に大学から得ていたのである。そしてバス代の話を見ても明らかな様に、学生証を見せることで、生活費の一部は割引きになる。
これは多分、ヨーロッパの典型的な人生設計と呼んで良いと思う。詰まり「一人前の社会人」として満額の給料を受け取るずっと以前から、とっくに「食べていける状況」にはなっているのである。実際イェッセさんは2011年に結婚し、12年には長女のローニャちゃんを、14年には次女のモモちゃんを授かっている。
そして博士論文が受理されて、大学に教員として採用された時も、彼はさほど嬉しそうではなかった。いわゆる「社会人」になることで、もう「学割」は使えないし、給料を満額貰えても、その分だけ取られる税金も増える。確かに増えた収入から増えた支出を差し引きすると、僅かにプラスにはなる。しかし、それは微々たるものなので、経済的な状況だけに着目するならば、学生であることと大学教員であることは殆ど変わらない、というのが彼の見解だった。
例えて言うならば、新卒採用から十年働いて課長に昇進したので、給料が少し上がったのは嬉しいが、家族が増えて支出が大きくなったので、お小遣いは寧ろ減った、みたいなところだろうか。この辺りの心情は、僕が雇われた経験が無いので勝手に想像するしかない。

さて以上の話で明らかだと思うが、プリースターゼミナールを中退した後の僕とイェッセさんのバイオグラフィーは、なんとなく似ている。二人とも、わりとスグに新天地を見つけて、2010年代で、およそ「今の状況」が出来上がるのだ。

オランダの都市について 前編

さてイェッセさんは2004年にユトレヒト大学の哲学科に入学してから現在に至るまで一貫して同大学で働いているので、彼は人生におけるちょうど半分の時間を、このユトレヒトという都市で過ごしたことになる。そして僕にとっての「オランダ訪問」とは即ちイェッセの訪問であるから、彼との思い出を語る上でユトレヒトという街について言及しないわけにはいかない。

世界史が得意な人にとって、「ユトレヒト」という街の名前を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは恐らく「ユトレヒト条約」であろう。これは一般に、その後に著しく繁栄する大英帝国拡大の第一歩と解釈されている(実際、この条約でイギリスはスペインからジブラルタルとミノルカ島を獲得している)。しかし僕が注目して欲しいのは、この「条約」から遡ること100年以上も前の、「ユトレヒト同盟」なのである。周知の様にオランダは十六世紀の初頭からスペインの支配下にあったが、1579年にネーデルラント北部7州がユトレヒト同盟に調印し、スペインの支配に抵抗することを決意した。そして、これがそのままウェストファリアにつながるので、ユトレヒトは「近代オランダ発祥の地」と呼んで差し支えない。
またユトレヒトは地理的に言って、国土の中心に位置しており、ユトレヒト中央駅はオランダの鉄道網のハブになっている。そして同市は八世紀からオランダの宗教の中心地であり、だからこそ「文化の中心地」でもあるとも言える。その象徴として、イェッセの働いているユトレヒト大学はオランダ最大の大学である、ということを挙げておこう。
簡単に振り返ると、ユトレヒトの歴史はローマ時代にまで遡り、ゲルマン人の侵入によって一時的に衰退するが、中世を通じてユトレヒトは、北ネーデルランドで最重要の都市。であり続けた。しかし「黄金の世紀」と呼ばれる十七世紀にオランダは、世界史上でも特筆すべき発展を遂げ、それに伴って「オランダ第一の都市」の座はアムステルダムに奪われることになる。
因みにアムステルダムは言わずと知れたオランダの首都であり、第二の都市はエラスムスの出身地ロッテルダム。そして第三の都市デン・ハーグは日本では余り有名ではないが、この都市にはオランダ議会と首相官邸、また王室の宮殿や中央官庁、更には各国の大使館などもある。詰まり「首都機能」の大部分は、このハーグにあり、ここはオランダ国内政治の中心地なのである。
思い返せば、つい数年前までテレビを点けると韓国との「竹島問題」が報じられていた(あれは今、どうなったのだろう)。そして武力によらずに、この「竹島問題」を完全に解決したいならば、国際司法裁判所で白黒つけてもらうしかない、という話が有ったかと思う。そして、この国際司法裁判所が有るのもまたハーグなのである。

ハーグ


国際司法裁判所

さてハーグの観光案内において欠かせないのは矢張りスケベニンゲンだろう。これはハーグの中心地から北西に6kmくらいいったところに有るリゾート地のことで、何より日本では「すけべ人間」と聞こえる特徴的な名前として有名である(Wikipediaより)。
しかし、これは多分に誤解が含まれていて、そもそも「Scheveningen」をオランダ語では、凡そ「スヘーフェニンヘン」と発音する。だから、この綴りを「スケベニンゲン」と読むのは恐らく、オランダ語を学び始めたばかりのスペイン人くらいだろうと思う。まあスヘーフェニンヘンはヌーディストビーチでも有名でもあるので、そこに裸目当てで集まる「スケベ人間」も何人かは居るのかもしれないが。

ハーグには当時、ヨーロッパでも有数の大きさを誇ったオイリュトミー学校が有り、プリスターゼミナール時代の同級生であるタラに会いに、僕はイェッセと一緒にこの街を訪問した。そして国際司法裁判所の前で写真を撮った後に、スヘーフェニンヘンにある、北海に面した長い砂浜を、彼と一緒に歩いた。すごく良い天気だったが、ちょっと風が強くてクラクラしたのを覚えている。
ハーグに居ると、話題は自然とオランダ女王になる。オランダには日本の天皇誕生日と同様の「女王の日」という祝日が有ったが、このベアトリクスの女王時代は何故だか先代のユリアナの誕生日である4月30日としていた。日本では昭和天皇の誕生日が4月29日で、この日付は時代が平成に移っても「みどりの日」そして「昭和の日」として国民の祝日であり続けたことに似ている。
因みにベアトリクスの誕生日は1月31日であり、これは平成時代の「天皇誕生日」とひと月違いだ。この一年で一番寒い時期は、屋外で行われるオランダ王妃の祝賀行事に不向きである、というのが先代の女王の誕生を継承した表向きの理由だが、「冬では寒くてバカンスに行けない」というのが本当の理由だ、というのがオランダ人の間では専らの噂である。
更に補足情報として、現在のオランダ国王はアレクサンダーという男性になっており、4月27日が「キングスデー」として祝日である。ベアトリクス女王からアレクサンダーへの代替わりが2013年であることを考えると、僕がタラやイェッセと話をしていたのが、随分と昔であることが推測されると思う。また念のために言っておくと、王宮はアムステルダムにも有る。しかし王の居住期間がハーグの方が長いので、前者は事実上の「離宮」なのである。

さて、ここでようやくオランダ第四の都市である「我らが」ユトレヒトに戻って来たいのだが、長くなってしまったのでこの辺りで一旦、筆を置こうと思う。

その6へつづく。。。

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