イェッセ・ミュルダーさんとの思い出 その1
プロローグ
どちらかと言うと、僕は友だちは多い方だとは思うが、それでも「親友」と呼べる人は多分、片手で充分に数え切れると思う。そんな僕にとっての親友の一人が、これから話そうと思うオランダの哲学博士イェッセ・ミュルダーさんだ。
と言うのも今年の秋、イェッセさんは通算で四度目の来日をすることになるのだが、これまで僕は彼との個人的な関係について公に語ることは殆ど無かった。それは彼を「竹下哲生の友人」ではなく一人の哲学者として、また一人の思想家として日本に紹介したかったからだ。しかし、今回の来日は僕が「講師」として彼を招聘したものではなく、彼の方から「プライベートで日本に行きたい」と言い始めたことに端を発する。こういった背景から僕は、これを良い機会に忘れかけていた彼との記憶を思い起こして、ここに整理して残しておこうと思った。
出会いと共通点
僕が初めてイェッセに会ったのは今からもう二十年以上も前のこと、それは僕がドイツのプリースターゼミナールに入学した2002年春のことだった。彼との最初の会話を、僕は全く憶えていない。ただ僕たちの間には多くの共通点があり、仲良くなるまでに然程、時間はかからなかったと思う。
第一に僕たちは音楽が好きで、僕は当時、ピアノを弾いていて、彼はヴァイオリンを弾いていた。また彼の部屋に行くと、もれなく爆音でヘヴィ・メタルが流れていた(かく言う僕も高校生の頃には、がっつりジャーマン・メタルにはまっていたりもした)。
さて僕の学年は大所帯で、同級生が20人くらい居たが、その殆どがヴァルドルフ学校の卒業生だったので、誰もが楽器を演奏した。その内でヴァイオリンを弾けるのは五人くらいだったと記憶しているが、その中でイェッセの演奏は群を抜いていた。僕たちは毎月の様に食堂でパーティーをしていたのだが、その時に同級生のラウレンツがピアノを弾き、ひとつ学年が上のパトリックがギターとヴォーカルを担当し、そしてイェッセがヴァイオリンを弾いた。彼らはコード進行のみが書かれたメモを楽譜に、無限に演奏を続けてパーティーを盛り上げた。イェッセの音は常に確信に満ちていて、それでいて他の音を邪魔しなかった。にも拘らず、演奏が終わった後に誰もが持った印象は、今回も「主役」はヴォーカルのパトリックではなくイェッセだということだった。
そういえば、こんなことも有った。それは確かヤロスラヴァとベンの結婚式の時だったと思う。挙式の後、参列者が中庭に出てダンスを踊ることになったので、そこで司祭であるラウレンツのお父さんがヴァイオリンを弾き始めた。
それで暫くの間は、みな楽しそうに踊っていたのだが突然、そこでイェッセがラウレンツのお父さんのヴァイオリンを取り上げて弾き始めたのだ。その時、僕は遠巻きに見ていたので、イェッセがラウレンツの父さんと、どんな「交渉」をしたのかは今でも分からない。しかし前後の音の違いを比べると、「僕の方が上手いから代わって」と言ったとしか考えられない。無論イェッセは、そんな無礼なことをする人間ではないのを、僕は重々知っているのだが。
その時にイェッセは、フォークダンスには似つかわしく無いくらいのシャープな音を出した。お陰で、それまでは酔っ払いの千鳥足の様だったダンスは突然、キビキビとしたものに変わった。この、結婚式で浮き足立っていた参列者の動きが、急に機敏になった情景を思い出すと、僕は今でも笑いが込み上げて来る。
イェッセの話によると、彼はプリースターゼミナールに来る前に、既にオランダの音楽大学の入学を許可されていたらしい。しかし指導教官の余りにも細かい指示に嫌悪感を覚えて、早々に辞めてしまったそうだ。しかしユトレヒト大学で教鞭を取る今でも、彼はアマチュアのオーケストラで、時々ヴァイオリンを弾いている。
第二の共通点として挙げられるのは多分、言語に対する興味だと思う。僕たちの通っていた学校は、新約聖書を読むために、最初にコイネー・ギリシア語を教えられる。でも僕とイェッセは学校のギリシア語の授業が余りにも退屈だったので、独学で文法書を終わらせることにした(これで授業をサボれる)。その頃、僕は個人的な興味から韓国語とフランス語の勉強を夜な夜なしていたので、ここにギリシア語が加わることになった。
それに対してイェッセは、既に独学で身に付けていたロシア語に加えて、この頃から日本語の勉強を始めていた。
彼の話によると日本語の習得には漢字の勉強をすることは遠回りの様で近道らしい。例えばケンコウ、カンコウ、シンコウ、サンコウと言われても、ヒップ・ホップの歌詞にしか聞こえない。これを漢字にすると健康、観光、進行、参考となって、二文字目の「コウ」の漢字が全て違うことが分かる。この様に言語音が同じなのに意味が異なる、いわゆる同音異義語は印欧語には殆ど無い。
これに対して日本語の熟語における音読みは同音異義語ばかりなので、単語を覚える前に漢字を覚えた方が効率が良いという訳だ。
英語を学ぶ場合は、これとは反対のことが起きる。何故なら英語は「カンザス」と「アーカンソー」の様に、スペルが同じなのに全く異なる発音をする場合が有るからだ。よって英語の学習では、スペルに加えて、発音記号を知る必要が有るのだ(言ってみれば、これは「英語の漢字」にあたる)。
話を元に戻して、先に述べた四つの内でカンコウは「刊行」、シンコウは「信仰」や「新興」の可能性だって有る。また頻度は低いものの「肩甲」や「山行」といった言葉もある。だからイェッセは、この頃からコツコツと地道に漢字を覚えていって、今では「各駅停車」も「一方通行」も読める。それに比べて僕のオランダ語は、未だにイタリア語と同じくらいのレベルに留まっているのは恥ずかしい限りだ。
第三に考えられることは、二人ともシュタイナーの本をたくさん読んでいたことだ。と言っても、それは大した量ではない。当時、僕は未だドイツ語でシュタイナーの本を読むことは出来なかったので、とりあえず日本語に翻訳されていたもので手に入るものは殆ど全部読んでいたと思う。とは言え、それは未だネットが普及していなかった、2000年代初頭のことなので多分、せいぜい三十冊程度だったと記憶している。シュタイナー全集が350巻であることを考えると、これは決して「多い」とは言えない。
ところが同級生で、僕と同じ程度にシュタイナーの本を読んでいたのはイェッセだけだった。これは多分、「日本人留学生あるある」なんじゃないかと思う。詰まり「本場」に憧れて海外に行ってみたものの、現地の人のレベルはそんなに高く無いのだ。言うまでもなく日本人の誰もがお琴を弾ける訳ではないし、ポーランド人の誰もがショパンのエチュードを弾ける訳ではない。同様にシュタイナーの勉強をしにドイツまで行っても、誰もが高いモチベーションで彼の思想を学ぼうとしている訳ではないのだ。
さて、ここまでツラツラと書いてきて、少しずつ思い出して来たのだが、僕とイェッセさんの最初の会話は矢張りシュタイナーの講演録に関するものだった気がする。それが廊下での立ち話で、長くなりそうだったので、僕は彼を自分の部屋に招いた。そして、そこで黄道十二宮のサインを紙に描いて渡した様な気がする。
そういえば、或る日イェッセが「テツオ、ボーアの原子模型の電子配列を記憶しているか?」と唐突に訊いて来たことも有った。そこで僕は「原理原則は理解しているから、カルシウムまでは復元可能だが、遷移元素になると全く手に負えない」と答えた覚えがある。こんな感じで、当時は未だスマホが無かったので僕たちは、ふと思い付いた疑問を気軽にお互いにぶつけていた。
いつも一緒だったな⁈留学時代は、
そんなこんなで、僕はイェッセといつも一緒に居た。いや、もう少し正確に言うと、ずっと後になってから僕は同級生に「テツオとイェッセは、いつも一緒に居た」と聞かされたが、そんな意識は本人には全く無かった。
言い忘れていたが、僕の通っていたプリースターゼミナールは全寮制の学校で、ひとつの建物の中に講義のための教室と礼拝堂と学生寮と食堂が入っていた。だからベッドから起き上がって、30秒後には教室に入って席に着くことが出来た。朝食さえ食べなければ朝の講義ギリギリまで寝ていることが出来たし、授業と授業の合間の時間にシャワーを浴びることも出来た。だからプリースターゼミナールは、集中して勉強するためには何もかもが理想的な環境だったと思う。
さて、この頃、僕の「学び」にとって最も大切だったのは週末だった。何故なら学校の授業に退屈していた僕は、土曜の午後と日曜の全部を自主的な研究に宛てていたからだ。しかし部屋に篭って数時間もするとイェッセが僕の部屋をノックして「テツオ、お昼だ」と言う。
しかたなくキッチンに行ってパスタを茹で、昼食を食べ終わる頃にはスッカリ話が弾んでいて、お茶請けにケーキでも焼こうかという話になる。それから長いティータイムが始まって、気がついたら「そろそろ夕食の時間だね」ということになる。そして夕食の後にも、また長い長いティータイムが待っていることは言うまでも無い。
結局、こんなカンジで僕の週末は殆どイェッセに潰された。ただ、今になって思うと僕は、彼のお陰でヒキコモリにならずに済んだ気がする。これも典型的な「留学あるある」なんじゃないかと思う。詰まり、わざわざ海外に出て留学をするのは「自分の能力を上げる」為なのか、或いは「友だちを増やす」為なのかということが、後から振り返ってみると良く分からなくなる、ということである。
言うまでもなく、留学の目的は前者であるのだが、後者の意味は「留学の副産物」と呼ぶには余りにも価値が有る。実際、僕が留学中の四年間にドイツで学んだことの大部分は、文献を通して日本で学ぶことも出来た。しかしドイツで出逢った学友は、現地に行かなければ知り合うことは無かったのだ。そういった意味では、僕の留学時代で最も大切だったのは、ひとり部屋に篭って孤独に文献を読み耽っていた時間ではなく、学友とお笑い劇場のコントの練習をしている時間だったのかも知れない。
よって究極的には「能力を高めること」と「人脈を広げること」の、どちらが重要であるとは言えない。いや両者の価値は直交しているので、互いに干渉しないと言うことも出来るだろう。しかし留学していられる期間は限られているので、この「縦」の要素のために使う時間と、「横」の要素のために使う時間を、どのくらいの割合にするのかは意識的にマネージしなければならない。
幸いなことに、イェッセはわりと早くに床に就いていたので、夜は僕にとってのゴールデンタイムだった。イェッセが寝ると僕はシュタイナーの本を開き、十二時を回ると純粋な趣味として語学の勉強を始めた。これが明け方まで続いて、睡眠時間が数時間だということはザラに有った。
そんな生活をしていて二年、僕は或る日著しく体調を崩すのだが、多くの学友からは、その原因は睡眠不足ではないかと疑われた。僕の体調不良は、そう単純なものではないと思うのだが、その一方で今では心配してくれていた学友の気持ちが良く分かる。確かに当時の僕は、若さに任せてかなりの「無茶」をしていた。これは全くの事実だ。
その2へつづく…

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申し訳ございません…
この動画は8月18日現在、残念ながら原因不明の視聴不可になっております。サイトオーナーのStichting Rudolf Steiner Vertalingenさんが問題解決中です。
画像は、ご本人からいただきました
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【 リアルイベント 】人類の精神的指導におけるミカエル(10/5)申し込み:
イェッセ・ミュルダーさんについては、こちらにも載せています
