空を見上げて 3
これまでのお話は
本屋を営む友人、タキの家で居候をするエマは、雨ばかり降る町に馴染めずにいた。
あてもなく、本を読むだけの日々の中で、彼は体調を崩してしまう。
何も進んでいないことに
驚きを隠せない作者
それから数日、エマの熱が下がらなかったものだから、何度か医者を呼ばれた。いつの時代だよ、と抗議したかったが、声の方も出ないままなので、うまくいかない。最初の日に、というかそれは熱が出た翌日のことなのだが、
『医者なんかいらない』
という趣旨のことを打ってタキに見せたのだが、効果はなかった。彼の言うには、あの医者は彼が子どものころからお世話になっている先生で、だから何も心配いらないという。
「そうだよな、エマは知らない人に会うの、苦手だもんな」
などと、余計な一言まで付け加えられた。そういうことじゃない。そういうことじゃない上に、なんでそんな、なんでも分かったふうな口を聞くんだ。自分がしゃべれないのをいいことに、好きなだけ好きなことを言ってくるタキのことが、だんだん憎たらしく感じてきた。
熱があるせいで、スマホの画面を長いことは見ていられない。寝たまま文字を打つのも億劫で、短い文章か、単語を打つのがやっとだ。さらにはそれも間違っているのだが、もう直す気にもなれない。
その間じゅう、タキは自分の見解を述べる。エマが文字を打ち終わるころには、タキは全く別のことをしゃべっていて、それにもエマは反論したいのだが、ひどい時間差が生じる。
こんなやつだっただろうか、とぼんやりと部屋にある天窓を眺めながらエマは考えていた。皮肉なことにエマが熱を出していた間の三分の二は晴れていて、珍しく青空が広がって、何か遠くで鳥が飛ぶのが見えた。今晴れていても、ちっともエマの心は晴れない。
よくよく思い返してみれば、最近、酔っ払っていないタキと言葉を交わした記憶がない。
彼が家で自主的に晩酌をすることは、ほぼない。あれは飲みに行って帰ってくると、さらに飲む、というだけなのだ。
店が閉まるとき、エマはその時読んでいた本を持って二階に戻る。戻ってまた本を読んでいるうちに、夕飯が並んで、食べるように言われて食べる。その後は、そのままリビングにいるか部屋に戻って本を読んでいる。その間、タキはたぶん、店の仕入れという名の趣味に走ったり、本を読んだりしている。
タキが異常にエマに絡んでくるのは、飲んで帰ってきた後で、そのときは、エマが口を挟む暇もないくらに好きなだけしゃべる。
酒のせいで脈絡もなくいい加減なことを話し続けるのだと思っていたが、違うのかもしれない。タキという人間は初めから、脈絡もなくいい加減なことを話し続ける上に、こちらの気持ちや考えを少しも察してはくれないやつなのかもしれない。
いや、察していると本人は思っている。察していると思っているからこそ、さらに厄介だ。
なんで、こんなやつと一緒に暮らしているんだろう。
何度も呼びつけられた医者によると、ウイルス性の流行病ではないだろうということだった。疲労が原因、などと医者は言っていたが、疲れることは何もしていない。
タキが、極めて深刻そうに、自分にしてやれることはないか、と医者に尋ね、医者の方はゆっくり休ませてあげなさい、などと言いながら、当人そっちのけで部屋から出て行って、後は何を話しているのか分からない。タキは信頼しているのかもしれないが、エマにとっては知らない人間だ。自分のことなのに何を話されているのか分からないのも、無性に腹立たしかった。
「行けそうなら、病院に来てくれって」
熱が引いて動けるようになると、タキがそう言った。無理やりに朝食を食べさせられていたときのことだ。
残念なことに、熱は下がったが声は出ないままだったので、エマはそれに対してさまざまに言いたいことが頭の中を駆け巡ったが、伝えることができなかった。話す速度に比べて、文字を打つのは非常に面倒くさい。熱があるかないかは、さほど関係なかった。しゃべれないことが不便すぎる。
「ホント、ごめんな、勝手に先生呼んで。でも、嫌かもしれないけど、とりあえず行ってみてほしんだよ」
な、とタキは小さい子どもを安心させるかのように、にっこり笑って言った。そのうちこいつ、自分の頭でも撫でてくるんじゃないだろうか。行かない、などと言ったら、それこそ駄々をこねる子どものようで、だからエマは憮然とした顔のまま、文字を打って送ってやった。
『場所』
またしてもそのとき手元に端末を持っていなかったタキが、どこかへ探しに行っている間に、エマは部屋に戻った。正直、病院になど行きたくはない。しかし、このまま行かないでいれば、タキはずっとそのことを心配してくるのだろうし、それもまた面倒だ。外出の支度をしようとして、あまりに久しく外へなど出ていないから、何を着ればいいのか分からない。
見上げると今日も空は曇天だった。
ずっと雨の多い土地だからと思っていたが、単にそういう季節なのかもしれない。
雨が降ると肌寒いだろうが、歩いていれば暑くなるかもしれない。とはいえ、自分の荷物の中にろくな夏服は入っていなかった。引っ張り出したTシャツはシワだらけでどうにも外へ着ていける風ではない。しばらく悩んだが、考えるのも面倒になってエマはそれを着た。春先に、ここへ来たころに着ていた長袖の薄手の上着を羽織る。ズボンは年中同じものを着ているから問題はない。
一度部屋を出ようとして、よく考えれば財布や保険証のようなものがいるのではないかと机の前に引き返す。引き返しながら、タキなら、もっとまともな服を持っているだろうなと考えて、それだけで全身が重くなった。このまま、部屋から出ないでやろうか。そう思ったが、今度はそのせいでタキが扉を叩いて、大丈夫かと心配げに尋ねるところがありありと浮かんで、仕方なくエマは体を動かした。
部屋を出てみると、タキはすでに家にいなかった。階下の店は開いていて、すでに客が入っている。今日が何日なのか何曜日なのか全く確かめずに降りてきたが、いつもより多い気がするから休日なのかもしれない。
店が狭いものだから、店主が座る机も狭い。小学校の机でももう少し広いと思う。レジカウンターになっているわけでもなく、それ以前に「レジ」なんてものはないし、電卓しか置いていないのだが、机の前には書棚がある。後ろにもあるから、地震があればタキは本に埋まるんじゃないかと思う。
それを言うなら、この家のどこにいてもそうなのだろうし、指摘したところでそれは本望だなどと言いそうだ。考えてみれば、店の客にも自分自身にも同じことが言えるが、その全ての人間が本に埋もれる末路を厭いはしないだろう。
机の上にはタキの右と左に本が積まれていて、思うに彼は値札をつけていたのだと思うのだが、残念なことに彼の前にある本が読みかけだった。気持ちは分かるが、仕事をしているのか遊んでいるのか分からない。
「ほら、地図」
そんなタキに渡されたのは、手描きの地図だった。
裏には何かの書籍名がいくつか走り書きされて、線で消されたり丸で囲われたりしている。
場所、というのは住所のことだ。住所でなくてもあの医者の名前なり病院の名前なりを教えてくれればいい。そうすれば自分で地図アプリに打ち込めるだろう。今どき、みんなそうしてるんじゃないか? なのになんで紙に描いてくるんだ。
というのも、エマには抗議できない。
どころか、彼の描いた地図は、期待を裏切らないタキぶりを発揮していた。
彼の祖父が書道をやっていたかなんかで、タキの字は「流暢」だ。文字が流暢だというのは変かもしれないが、察してほしい。まさに流れるように綺麗な字を書くが、それは教科書の硬筆にあるような字体ではない。流れるようなので確かに美しくはあるのだが、何が書いてあるのか普通の人間には解読が難しい。
地図に芸術性は求められていない。
さらに「地図」という意味では、筆舌尽くし難い。まず、どこが現在地なのか。
「ごめんな、店があるから行けないけど、迷ったら電話しろよ」
聞きたいが聞けないまま、地図を呆然と眺めているエマに、申し訳なさそうな声がかかった。いや、住所さえ書いてくれれば迷わないと思う。
諦めて頷いて歩き出すと、タキがついてくる気配がした。
「大丈夫か? よく考えたらお前、外に出て平気か? 歩けんのか?」
客がいるというのに、タキは気にもせず尋ねる。それは熱があって寝込んでいたから、以外の意味も多分に含まれていそうで、エマは振り返って彼を睨んだ。久しぶりにお互いに立った位置で顔を見ると、思ったよりもタキの顔が高い場所にあって、それも腹立たしい。
エマは立ち止まってスマホに文字を打ち込んで送った。が、効果はなかった。
「どうせ、うるさいって送ったんだろ? なんで怒ってんだよ」
さらに腹立たしい。
「靴、そこにちゃんとあんのか?」
玄関までたどり着くと、もっともなことを言われた。うるさいやつだ。なんなんだ、母親なのか。少しだけ、もしかしたら靴も探さなければならないかもしれない、という事実に怯んだエマだったが、靴は靴箱の端にちゃんとあった。くたびれているし、放ってあったから埃だらけになっているかもしれないが、ちゃんと自分の靴だ。
タキの靴は例によっていくつも置いてあって、よくわからない色や形のものもある。ただし、これを貸される心配はない。サイズが合わないからだ。タキは確かにエマよりも背が高いが、にしても無駄に手も足も大きい。それもなんだか腹立たしい。
「調子悪くなったら、電話しろよ」
そう言ってエマは店から送り出された。さっきから普通に聞き流していたが、よく考えたら電話はできない。自分でもうっかりかけてしまいそうで怖いが、声が出ないのだから、電話ではないだろう。
しかも、と彼は地図が示しているであろうと思われる方向に歩き出してから、今更ながら思い至った。せめて口頭で説明させればよかった。それもまた、いらない情報が挟まれてやかましいかもしれないが、声が出ないのは自分であってタキではない。
世界は生ぬるかった。
曇った空からは、今にも雨粒が落ちてきそうだ。なぜ、タキは傘の携行については指摘してくれなかったのだろう。それとも、この町の人々は雨が降ることがそこまで気にならないのだろうか。雨に濡れるままに歩くのが、文化なのか。それとも、あまりに雨が降るから、その辺りに自由に使える傘、というのが置いてあるのかもしれない。例えば商店の軒先なんかに。
そこまで考えて、それなら自分が居候をしている家も商店であることを思い出した。だとしたら、タキの悪趣味な傘がここぞとばかりに陳列されていそうなものだが、そういうことはない。ということは、この町の人々は、雨に濡れるのが好みなのかもしれない。
タキの地図の意味は分からなかったが、迷うほどのこともなかった。反対に、地図アプリでは辿り着けないのかもしれない。
タキの本屋は町外れにあって、道はぐねぐねと山裾の緩い斜面に沿って曲がっている。周りは彼の家が所有する、いや今は彼が所有する農地の成れの果てで、開けていて見通しはいい。
どちらへ向かうのかといえば、山の方ではなく、集落がある方で、それは坂を下った方にある。興味が持てなくて、家の窓から町を真面目に眺めたことがなかったから気が付かなかったが、壱野医院という看板が乗った建物がすぐに目に入った。
その場所と、手持ちの怪しい地図を見比べて間違いがないことを確かめる。確かに、タキの字で壱野と書いてあるように見えなくもないし、曲がり角に描いてある謎の記号と、道端にある何かの祠のようなものが、合致するような気もする。
この距離なら、傘を持たされなかったのも分かる。仮に雨が降っても、多少なら問題ないだろう。土砂降りにでもなったなら、とエマは想像して自分で嫌になった。きっとタキは迎えにくるんだろう、傘を持って。
思えば、エマが寝ていた間、タキは何かと家にいた気がする。店はどうしていたんだろう。一歩ずつ足を踏み出すたびに、体が重くなる気がした。空の雲が自分の足にまとわりついて、ずぶずぶとその中に沈んでいくような気がする。
どうして自分は言われるがまま、彼の家に越してきてしまったのだろう。
重い暗い色の塊に、体の下半分ほどを覆われたあたりで、エマは医院の表玄関にたどり着いた。入り口はガラス張りだったが自動ドアではない。丸い大きな取っ手には引くと書いてある。
ここへくるまでにすっかりくたびれていた彼は、苦心してドアを引いた。病院には具合が悪い人が来るだろう。この辺りは高齢の人も多いだろう。なのになんだって、こんなドアなんだ。
ドアの内側にはもう一つ今度は引き戸があった。引き戸のそばにスリッパが入った靴箱がある。土足じゃないのか。
思えばタキの本屋も玄関に沓脱がある。あれはいわば家の玄関も兼ねているわけで、先ほどエマもそこを出てきたわけだが、そのせいで疑問に思わなかった。客にとっては面倒ではないのだろうか。それともこの町では、入り口で履き物を脱ぐのが当たり前なのだろうか。
待てよ、と靴を脱ぐのにかがみ込みながらエマは考えた。これは、雨が多いからこその造りなのかもしれない。本屋などは湿気は大敵だ。濡れた靴で客が入ってきたら、困るのだろう。しかし、かがんだ拍子に体がふらついて、危うく転ぶところだった。この町の高齢者は誰もが頑健なのか。例えば杖をついて、靴の脱ぎ履きができるのか。
引き戸の先は、えらく広い待合だった。町の、というか集落の規模を考えても、こんなに広い待合は必要ないだろう。真ん中には柱があって嘘みたいに大きな柱時計が鎮座していた。何かの折に寄贈されたものらしい。振り子時計だ。エマはくらくらした。何もかもが旧時代的だ。振り子時計なんて久しぶりに見た。
待合には背もたれのついたソファが四脚も置いてあった。それでもまだ空間がある。ここだけで、タキの本屋の二倍はあるだろう。ここの空間とあの店を取り替えたらどうかとさえ、エマは思った。ソファには、高齢の女性が杖を持って座っている。頑健ではないようだ。他にも、腰の曲がった高齢の男性がもう一人、二列目のソファの真ん中にちんまり腰掛けていた。
その、二人ともがエマを見て、一瞬、怪訝な顔をした後、何か非常に納得した顔をした。
「ミヤコさん、エマちゃんが来たよ」
エマは耳を疑った。女性は受付に向かって声をかけているのだが、なんだそれは。受付の方から、あらあ、という甲高い女性の声がする。おそらく、ミヤコという人物だろう。あらあらあらあら、と言いながら、なぜか受付から出てこようとしている。
「迷わずにこれたかね」
とは、男性の方だ。
「いい酒が入ったけんの、今度、また小豆堂さんと寄ってくれって、タキに伝えといてくれんか。あの子もあんなに大きくなって、なあ、」
「ソウダさん、ダメよ、エマちゃんは具合が悪くて来たのよ、ソウダさんとおしゃべりに来たんじゃないの」
「いえ、僕は」
とエマは口を開いて、呆然とした。なんだ、しゃべれるじゃないか。
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