見出し画像

空を見上げて 2

これまでのお話は
 エマが居候している友人の家は、雨ばかり降る地域に建っている。雨が苦手な彼は、自室に天窓があってそこに雨が降ることですら、憂鬱に感じていた。
 彼は目が覚めると、一階にある本屋の中庭に面したソファへ移動する。そこには雨が降らないからだ。そして、夜になるまで本を読むのが今の日課だった。

ぱちこの妄想の町と
妄想の建物を
全否定してくる主人公

一話

三話



 パスタが茹でられている匂いがする。パスタではないかもしれない。小麦粉が練られたものが湯に入れられている匂いがする。
 間違いなく自分は、店のソファにいたはずなのに、目の前にはリビングのローテーブルがある。あの変なサボテンが植えられた中庭ではない。あれは夢だったのかもしれない。いや、今が夢なのかもしれない。エマは自分がかぶっている見覚えのない毛布を見つめた。

 キッチンからは、誰かが料理をしている音がする。誰か、ということはないだろう。タキだ。実際にパスタが茹でられていたようで、シンクに湯が流される音がして、匂いがさらに強くなった。

 壁に掛けられた時計は七時を指している。朝なわけはないから、夜なのだろう。もちろんリビングにもある天窓の向こうは、暗かった。夜だから暗いのか、雨だから暗いのか、それとも夢だから暗いのかは分からない。
 夢にしては、妙にリアルに思えるから、現実かもしれない、と少しずつエマは思い始めた。さっきのが夢で、今が現実なのだ。だとしても、なんでこんなところで寝たのか、記憶にない。記憶にはないが、答えはすぐに思い当たる。本を読んでいるうちに、疲れて寝たのだ。

 体を起こそうとしたが、思うように動けなかった。変な時間に寝たせいで、だるい。彼はすぐに諦めた。少しも腹は減っていなかったが、ここでぼんやりしていたら、あのパスタがやってくるに違いない。そんなに食べる気にはなれないが、タキがある程度、分けてくれるはずだ。

 フライパンがコンロに置かれる音がする。すぐに火がついて、ごま油の匂いがした。違うだろ。なんでごま油なんだ。パスタじゃなかったのか、うどんなのか。違うだろ。うどんもごま油では炒めないだろ。いや、炒めるのか?

 蔵書や庭と同じで、タキの料理は時々おかしい。味の取り合わせが変なのだ。不味くはないのだが、変だ。いや、おいしい気もするが変だ。最初は酒の飲み過ぎでおかしくなっているのかと思っていたが、蔵書だの中庭だのを見るに、彼そのものがおかしいのだ。
 家具は悪くないのにと思っていたのだが、その理由はすぐに知れた。彼が用意したものではないからだ。この家全体が、いわば、例の何とかいうデザイン事務所の作品で、モデルケースで、モデルルームだ。中のインテリアも綿密に設計されたのだという。
 変なのは、この毛布だ。緑色をしている。ひどい緑色だ。バケツみたいな緑色だ。全く安らがない。どこから出してきたのか、こんな緑色の毛布で安心して寝られるやつの気がしれない。だから、少なくとも自分のものではない。うっかり寝てしまったエマのために、タキが自分の部屋から持ってきたに違いない。
 そういうところだよ、とエマは思う。別に、エマの部屋から持ってきてもいいのに、変な遠慮をしている。だったら酔ったときも、勝手に入ってこなければいいのに。

 料理長の作業は終盤に入ったらしい。火が止められた。いずれにしろいい匂いがしはじめる。タキが皿を出しているのが聞こえる。思うに、先に皿を出しておけばいいのだ。なぜ、料理ができてから皿を探しているのだろう。この皿というのも、珍妙で、どれにもやかましい模様がついている。
 それぞれ、どこそこのなになにという陶芸家だか、窯元だかがこれこれというコンセプトで作った、というのも、酔っ払ったタキの繰り返される話リストだ。
 これは、無条件で繰り返されるのではなく、そのときに出てきた皿なりタンブラーなりで内容は変わる。変わるがエマは一切覚えていない。バリエーションが多すぎて、これは前にも聞いたぞ、と思いはするものの、確実ではないからだ。
 ただ言えることは、すべてタキが心底惚れ込んで連れ帰ってきたということと、その何がいいのかエマには全く分からないということと、ジャンルも色も形も何の統一感もなく雑多に存在している、ということだ。蔵書や中庭のように。

 もちろん、料理によって皿が選ばれることもない。お気に入りの皿を選んでいるわけでもない。単に、そのとき作った料理の量や形態によって選ばれているにすぎない。
 絵皿と料理の組み合わせは、センスのいい人間がやれば、新たな美を産むものである。しかし、残念ながらタキの場合はすべてがランダムに行われるから、そういうために謎に大量の皿を買ってきているわけではない。
 稀に、ごく稀に、これまでに一度だけ、すばらしくマッチングした時があったが、それに感動したのはエマだけで、本人はそんなもの見てもいなかった。そのとき酔っていたのもあるが、たぶん、酔っていなくても見ないと思う。
 彼は作ることよりも盛り付けることよりも、食べることのほうが大事だからだ。

 だから、今日はまたどんなおかしな取り合わせで、料理が運ばれてくるのか、エマは楽しみに待っていた。が、来ない。盛り付けられた皿は、キッチンにあるダイニングテーブルに置かれてしまった。

 どうしてだ、とエマは憤慨した。ここに自分がいるのに、と思って、ふと不安になる。これはやはり夢か、もしかすると、タキは自分の存在を忘れてしまったのかもしれない。自分のことは見えていないか、見えなくなってしまったか。
 それか、もしくは本当は自分はこの世には存在していなくて、さっきまで存在しているつもりだったし、自分が記憶だと思っているものは全く何か別のもので、もしくは、本当はエマは人間ではなく、この毛布かソファの意識なのかもしれず、そうなると、タキが確かにここに座って毎夜同じ話をしていたとして、酔っ払いは毛布かソファを話しているだけなのかもしれない。
 しばらくエマは呆然とその可能性を探ってみた。
 考えれば考えるほど、自分が人間だ、という論拠が薄らいでいく。そんなわけはない、と思ってもう一度起きあがろうとしたが、動けない。やはりソファか毛布なのかもしれない。いや、毛布は自分にかかっているから、ソファなのだ。タキがエマにかけた、のではなく、自分が横になるために部屋から持ってきて、ソファに置いてあるだけなのだ。

 エマは焦った。何らかの人間である証拠がほしい。

 おい、とキッチンへ向かって呼びかけたつもりが、声が出なかった。本当にソファなのか? いや落ち着け、手足は動いている。手足が動くソファというのはないから、人間で大丈夫なはずだ。
 声が出ないなら、スマホで呼び出せばいい。至近距離だがタクシーじゃないから怒られないだろう。いや、何か文句のようなものは言われそうだが、文句が言いたいのはこちらだ。何で自分だけ飯を食ってるんだ。
 ほんのわずか、顔を上げて目線だけでローテーブルを見ると、本の山の横に自分の端末が置いてあった。遠い。エマは懸命に手を伸ばす。本にしか手が届かないから、そこからどうにかしてあれを取らなければならない。

 結果、うまく手は動かず、本の山と端末が床に落ちて、ひどい音がした。ガンガンと頭に響いて、そのとき初めて頭が痛いことに気がついた。よかった、ソファではなかった。

「なんだ、起きたのか、大丈夫か」

 キッチンからタキの声がする。よかった、ソファではなかった。

 何を暴れてるんだ、と呆れたように言いながら、タキはリビングまで歩いてきた。が、エマは説明ができない。本と一緒にスマホも床に落ちてしまって、何より、今の動きでひどく疲れてしまって、仕方がないのでやってくるタキの顔をぼんやり見つめるしかなかった。
 大丈夫か、と近くまできたタキは、ソファの横に膝をついて、エマの顔を覗き込んだ。何やってるんだこいつ、と思う間もなく、顔に向かってタキの手が伸びてくる。反射的に身を引いて、手で払おうとして、そのどちらもできなかった。額にタキの手が当てられる。

「まだ下がってないな」

 まだ、の意味が分からない。というか熱があるのか。

「お前、何であんなとこで寝てたんだよ。びっくりしただろ」

 あんなとこ、とエマは口の動きだけで言った。

「なんだ、喉もやられたのか。痛いか? 喉。喉は腫れてないって言ってたんだけどなあ」

 言いながら、タキはエマが落とした本を拾う。ああ、と彼は納得したようにエマの端末も拾った。

「ほら、持てるか? これで話そうと思ったんだな? いや、話すだけだぞ? 本読んだらダメだからな? 大人しく寝てろよ? ああ、でも薬飲まないとな。とりあえず、熱のやつをもらったんだよ。頭も痛いか? お前、熱出すと頭痛くなるもんな」

 実際のところ、スマホの小さな画面に焦点を当てるのは一苦労だった。確かに熱があるようで、ぼんやりしているし、頭も痛い。端末から放たれる光が、異様にぎらついて見える。
 エマが苦心してアプリを開いて、文字を打ち込む間、タキは横で好き放題にしゃべった。酔っ払っていなくてもやかましい。それか、もう酔っているのか。
 文字を打ってタキに見せるつもりだったが、何となく腹が立ってやめた。そのままタキ宛に送信する。キッチンの方で、受信音がした。

「何で送るの!? 今ここで見せてくれればいいだろ」

 案の定、タキは素っ頓狂な声を出した。頭に響いたが、エマは満足した。タキが文句を言いながらキッチンへ引き返す間に、少しだけ落ち着いて、そしてまた腹が立ってきた。
 なぜ、知らないうちに薬を処方されているのか。
 あんなとこ、というのは店のソファのことだろう。となると、あれは夢ではなかったのだ。確かに具合が悪いという自覚もなく、だらだらと寝そべった記憶はある。寝そべったのは、具合が悪かったからかもしれないが、店が休みのようだったから、いつもよりも何割かだらしなくしていたのだ。
 それで仮に熱があったのだとしよう。起こしてくれればいいだけじゃないか。なぜ、勝手にリビングに運ばれて、医者まで呼んで、勝手に診せているんだ。自分のプライバシーとか、そういうのはどこに行ったんだ。

「ぱした、ってなんだよ?」

 タキの声がする。

「何だよ、これが食いたいの? いや、無理だろ。ちょっと待ってろ、お前の分、作ってあんだよ、あっためるから」

 そういうところだよ。
 何が食べたいかなんて、エマの勝手だ。熱が出たって、どこで寝てたって、エマの勝手だ。
 そう言いたかったが、声が出ないこと以前に、自分にはそんなことを言う資格はないことも彼は分かっていた。
 ここはタキの家だ。友人が自分の店で熱を出して倒れていたなら、心配して家に連れ帰ったってタキの勝手だし、それを心配して医者を勝手に呼んだって、それだってタキの勝手だ。友人はパスタを食べたがっているが、きっと熱があるから食べられないと勝手に気を回して、何か食べやすいものを事前に、そう、自分の食事よりも事前に作ってあって、それを温めて持ってきてくれようとしているのも、タキの勝手だ。

 じゃあ、何で部屋に運んでくれなかったんだよ。
 放っておいてくれなかったんだよ。放っておいてくれればよかったのに。

 突然、エマは泣きわめきたくなった。声が出ないものだから、わめくことはできず、ただ涙が溢れてきた。手がだるすぎて、拭うのも億劫で、もう流れていくのに任せていた。このまま涙がリビングの床を抜けて、中庭に降り注ぐところを想像しながら、でも涙は止まらなかった。
 大人の男がこんなふうに涙を流しているなんて、わめくこともできずに、泣くしかないなんて、それがまたみっともなくて、情けなくて、何かすごく悔しくて、そう思うだけでさらに涙が出た。
 途中で、タキが何かを言いながらやってきて、あろうことか、エマの頭を撫でて、それがまた悔しい。

 タキは何も言わない。何も言ってくれない。
 ここにいれば大丈夫だ、何も心配ない、本を好きなだけ読んでたらいいんだよ。
 でもエマはちっとも大丈夫ではなかったし、そんなことではどうしようもないことは分かっている。毎日本を読んでいたが、読んでいる間だけだ。読んでいる間は現実を忘れられる。最後の一ページを閉じたところで、エマは現実に戻る。空虚な現実に。何もない日常に。どこにも行けず、何もできない。生きる価値があるとは思えないエマという人間に。
 怒ってくれればいいのに、と思ってしまう。そんなことを思うことすら、自分が小さくて卑怯な人間の証な気がする。タキは優しい。酔っ払っておかしい以外では、いつだってエマのことを考えている。そんなふうに見える。
 本当は、本当は自分のことが重荷なんじゃないかと、聞ければいいのにと思う。自分では言い出すことはできないし、でもタキは絶対に踏み込んでこようとはしないから、それが彼の優しさなのだとしても、エマは息苦しい。


 こんなことなら、ソファのままでよかった。人でなんていたくなかった。 


一話

三話



#なんのはなしですか
#空を見上げて
#君と魔術と星空と
#雲岬町




雲岬町はこちらです





いいなと思ったら応援しよう!

フジ笑八コ(ぱちこ⭐︎) よろしければ、サポートをいただけるとうれしいです! いただいたサポートは、くもみさきまちの運営費に活用しています!