空を見上げて 4
これまでのお話は
友人タキの家で居候をしていたエマは、熱を出して寝込んでしまう。
熱が下がった後、タキに促されて病院へ出かけるが、そこでは誰もが当たり前のようにエマの存在を知っていた。彼は小さな田舎町に困惑する。
コニシさんのコメントやないけど
途中に変な記事がありすぎて
思い出せない
医者はなんともはっきりしない説明をしてくれた。
疲れているのだろうから、ゆっくり休め、とはタキの家でも聞いた。もしまた熱が出たときのためといって、解熱剤が出される。そうそう頻々と熱が出るわけでもないから、要は気休めだろう。
そう、医者は言いたいのだ、心因性のものだ、と。言ってくれればいいのに、なぜかエマにはそれを言わなかった。ぼやかしたのだか誤魔化したのだかした、微妙に遠回りな物言いだった。
他には症状はないか、夜は眠れているか、食事は取れるか、と聞かれる。夜は元から寝ていない。食事は、出てきたら食べます、と答えてしまって、医者となぜか看護師までがにっこり笑ったので、エマは最悪な気分だった。
子どものころから診てもらっている、のは本当なのだろう。病院にいるすべての人間がタキを知っていて、さらにはエマがタキの家に住んでいて、体調を崩していたことまで、知っている。医者は分かる。なぜ、待合にいる患者までが知っているのか、解せない。
「エマちゃん、無理せず、タキちゃんに頼ったらええんよ」
とは、エマが診察室から出てきた時にいた高齢女性で、これは、エマが最初に見た杖を持った高齢女性とは、別の高齢女性だ。
同じようなことを、医者も言った。帰りに受付にいた女性にも言われた。これも最初に病院では初診だから、と問診票について親切に説明してくれた、受付からわざわざ出てきた女性のことではない。別の受付の、おそらくは薬剤師であろう人物のことだ。
病院を出ると、雨が降り出していた。
ちょうど、入り口で六十代くらいの男性が、エマが出て行こうとするのを止めて、受付に向かって、
「タキんとこの子が帰るけど、雨が」
というのを必死で遮って、エマは逃げるように歩き出した。
どうやら、雨に濡れてもいい文化ではないようだったが、これ以上、構われたくはなかった。
幸いなことに、書店の入り口に辿り着くまで、本降りにはならなかった。が、エマはその手前で思わず足を止めた。今しも、タキが傘を二本持って出てくるところだったからだ。
引き返そうか、と彼は本気で考えた。しかし、土地勘のない彼が、しかも周りはタキが放ってある農地が広がるばかりで、雨を避ける場所などなく、引き返すとはどこのことを指すのか。
それ以前に、すぐに見つかった。当たり前だ。
「お前、ダメだろ、病み上がりなんだから」
早く入れよ、なんで突っ立ってるんだよ、と手招きされて、エマは結局、書店の玄関に向かった。逃げ場はない。そんな言葉がなぜか頭の中を過ぎる。
「ナガイさんが心配してたぞ、お前が傘ささないで帰ったって」
雨なんて、ちょっとしか降ってないだろ。
そう言いたかったのに、エマの喉から声は出なかった。口だけが動いて、彼は呆然とタキを見た。
タキは怪訝な顔をしている。
病院ではしゃべれたのに。
まるで店に入ったところで、音を吸い取られたかのようだった。焦るあまり、エマは説明しようと懸命に口と手を動かした。
「どうしたんだよ、落ち着けよ。ほら、スマホで打つんだったんだろ? 病院ではどうしてたんだよ? 先生にはなんて言われた? 薬は? ああ、薬は解熱剤を出してますって、聞いたわ」
タキに言われるまま、スマホを取り出して、病院では、と打ったところで手が震えた。端末が手の中から滑り落ちて、書店の木の床に当たって大きな音がした。
「大丈夫か?」
支えてくれようとしたのか、背中に回されたタキの腕を、エマは振り払った。おい、とタキが驚いた声を出す。
端末を拾おうと手を伸ばしたが、床が異様に遠く感じた。上手く屈めない。自分の手が別の人間のもののように見えた。タキの手が横から伸びる。
「大丈夫だから、エマ。これを拾うだけだから」
目の前に、自分のスマホが差し出された。ごめん、とエマは言いたかった。声は出ないから、仕方なく頭を下げた。
大丈夫だから、とタキが繰り返す。
エマは、どうにか二階を指差した。うん、とタキが言う。
「店にいるから。なんかあったら電……連絡しろよ」
二階に上がって一人になってから、もう一度「逃げ場はない」と今度ははっきりと頭の中のもう一人の自分の声がした。
タキは、帰ってきたエマの様子を医者に連絡するだろう。しないわけがない、あれだけ心配しているんだ。そうしたら、医者はエマが来たときのことを話すだろう。医者じゃなくても、他の誰かがタキになんの気なしに話すだろう。エマちゃん、普通にしゃべってたわよ。
本当は、そうじゃないのかもしれない。病院が特殊な場所だっただけで、何しろ、病院というくらいだから、一時的に声が出るようになっただけかも。きっとそうだ。そうに違いない。
翌朝、エマはできるだけ遅く起きた。いつも通りといえばそうなのだが、タキに会うのはなんとなく嫌だった。
昨日と同じ服を着て、そこで万が一、昨日会った人にまた会ってしまったらどうするべきかと考えたが、服のことなど、どうでもいい気がした。
じぶんのの服なんて、誰も見ていない気もしたし、反対に、彼らはエマの全てをとうに知っていて、エマが身につけていた全てをチェックした後かもしれなかったし、もしそうなら、彼がどんな人間かもすでに知っているだろうから、夏服はこれしかないし、同じ服を着ていることをどうとも思わない、駄目なやつだということも、もう分かっているだろう。
リビングにはメモが置いてあって、キッチンに朝食があるらしい。食べられるなら食べろ、と書いてあったが、エマは無視した。
さすがに店に下りてしまったら、タキと顔を合わせるかもしれない、と覚悟はしていたが、しゃべれないのは都合がいい。言い訳を考える必要がないからだ。
彼は出かけようとするエマに、どこへ行くんだ、体は大丈夫なのかと尋ねてくるだろうが、無視をすればいいだけだ。一言、出かける、とでも送っておけばいい。
と思っていたが、タキはいなかった。書庫にいるのか、トイレにでも行ったのか、不用心なことに店は開いていて、ただし客もいなかった。今日は平日なのかと思ったが、よく考えれば昨日は病院が開いていたのだから、昨日も平日だろう。
もう一つ、店の外にいる可能性を考えながら、エマは恐るおそる玄関を出た。ドアベルが思った以上に大きな音を立てて、彼は今しもタキが奥から出てくるのではないかと、びくついた。が、何も起こらなかった。
鍵を預かったことはないから、もしかしたら今、この家は無人なのかもしれないが、そのままドアだけを閉める。
外にもタキはいなかった。
逃げるように、店を離れて、昨日とは反対の上り坂を歩く。
今日もまた、空はどんよりと重く、空気は生ぬるかった。まるで、夢の中のようだ。本当は、それでタキもいないのかもしれない。
自分は目が覚めて、起きて活動を始めた気になっているだけで、夢を見ているのだ。だから、また同じように空は曇っていて、生ぬるい。
それかもしくは、これはエマが思っている現実とは別の、ループする空間なのかもしれない。だから、毎日曇りで、エマはいつも本を読むしかなくて、だとしたら、どうして今は外を歩いているのだろう。
世界には綻びができてしまったのに違いない。だからエマは本を読むのをやめて、道を歩いている。
少し進むと、道が明らかに農道のそれになった。
店の前の道は、それでもまだ車が離合できる幅があったが、いよいよ狭くなって、タキが適当に放置してある農地から伸びた草や木の枝がはみ出している。
このまま進んだら、いずれ山に入ってしまうのかと思っていたが、坂道は今度はゆっくりと下りに入る。エマはこの町の地図は知らないから、どうなっているのかはよく分からない。本当のところ、道の横にある土地がタキのものなのか、別の誰かの土地なのか、それだって分からない。
この町では誰でもが農地を放っているのかもしれない。考えてみれば、あれだけ人の世話を焼きたがる人々だ。タキが土地を持て余しているのに気がついて、放っておくだろうか。
のどかだった。
タキと出会ったのは、高校でだった。二年のクラス替えで同じクラスになったのだが、エマはタキのことを一年のころから知っていた。タキはいい意味でも悪い意味でも浮いていて、おそらく、同じ学校に知らないものはいなかった。彼は隣町からの進学組で、そのころは、高校の近くのアパートで一人暮らしをしていた。
雲岬町は、はっきりいって田舎だ。大きな学校も働き口もないから、外へ出る人は多い。とはいえ、高校から出てくる者は少数派で、さらには一人暮らしをしているとなると、もっと少ない。
別に電車で移動できない距離ではないからだ。確かに、エマが住んでいた町とは、山脈を隔てるからなんとなく遠いイメージがあるが、そこまででもない。進学や就職で出てくる、といっても単に日々通っているだけというケースの方が多い。そういう意味でも、タキは目立っていた。
いや、そんなことはわざわざ本人が言わなければ知れないだろうから、もともと、タキという人間が目立っていたからこそ、噂になっていたのだろう。
高校時代のタキは、尖っていてぎらぎらしていた。
見た目はいたって穏やかで、かつcoolだったから、彼はもちろん女子生徒に人気があった。同年代のまだ中学生を引きずっていたような連中や、大人になろうと妙にちぐはぐな連中とは違って、すでにタキという人間が完成しているように見えた。遠目に見る分には、余裕が感じられていたのだ。
ただし、周りの誰も寄せ付けなかった。
彼を下の名前で呼ぶことは禁じられていた。これも噂で聞いていて、そんなことをしようものなら、後から「怖い目に遭う」のだそうだ。
後から本人に聞いたところによると、確かに、下の名前で呼んでくるやつを全員睨みつけるか無視していた「だけ」らしい。
ただ、そんな噂があったのは、彼の見た目や雰囲気だけではない。
山の向こうには、とかく不思議な噂ばかりがあった。山をひとつ隔てるだけで、あちらは異界になる。子どものころから聞いていた昔話には、山向こうからやってくるもの、の話は多い。
それは、現代になってからもそうで、説明のつかないことは全て、あの山か、その向こうから来たものの影響とされた。巷に溢れる「怖い話」や「都市伝説」の類も、この辺りではオチに必ず山向こうがつく。
昔なら分かる。
山脈は険しく、人が歩いて越えるのは困難だっただろう。海側から回ろうにも、どちらも険しい崖が続くから、足を滑らせでもしたらことだ。どころか、山はいつでも雲がわいているのだから、そう易々とあちら側との行き来はできなかった。
残された手段は海を渡ることだったが、それもそう単純ではない。確かに、外海に比べて波は穏やかだ。ただしそれは表面上のことで、海底の地形や周りの島々との関係から海流は複雑で、特に山の境を越えるのが「妙に」難しい。
命を落とした者も多いだろうから、そうなると異形のものが現れるという噂にも信憑性が増しただろう。
これらの理由については、もちろん、地形の関係から科学的に説明がされている。この辺りの学校では地域の特色を学ぶ授業できちんと教わる。
のだが、いまだに誰もがどこかで「山の向こう」に畏怖の念を持っている。人によってはそれが、蔑む対象になる場合すらある。
雲岬から来ていた生徒は他にもたくさんいたにもかかわらず、タキは「あちらから来た」と言われ続けた。一人で暮らしているのも、本当は親などおらず、異形のものだからだという。
もちろん「怖い目」というのもそういう「怖い目」だ。タキが暴力を振るうとか、彼がそういう集団を飼っているとか、そういうことではない。まあ別の意味で「そういう集団を飼っている」とは言われていた。素行の悪い若者という意味ではない方の。
今、冷静に考えれば、酷い偏見もあったものだと思う。エマ自身、この名前や親や見た目のせいで、面倒な目にはあっていたものの、一応、人間ではあった。
タキはなぜかエマに構った。
噂に聞いていた人物像では、彼は孤高の存在で、およそ「友達」がいるとは思えなかったし、誰かと「仲良く」したりあまつさえ相手を「構う」などという状態があるとも思えなかった。そういう意味では、エマも彼を正しくなど認識しておらず、勝手な噂を信じ込んでいたのだろう。
遠くにいると、余裕綽々に見えるのに、実際のタキはもっと人間臭く、周りが思うような神秘性はなかった。まあ、その年代の若者は誰だって、大人社会やもっと大きな意味でのこの世界や、それから人生やなんかについて、上の世代が決めたことに対して反発があるものだ。
タキはもちろん、自分自身についてしようもない噂を流されていることにも憤っていたし、社会に対しても憤っていて、何かにつけて長々とエマに自論を聞かせてくれた。そういう意味では、人の話は聞かないでどこまでもしゃべってくるのは子どものころからかもしれない。
ただ、だから、彼が町の活性化に貢献しようと張り切っているのを見ると、なんともいえない気持ちになる。なんだって、故郷に戻って家を建てたのか、さっぱり分からない。

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