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空を見上げて 5

これまでのお話は
 病院では話すことができていたはずなのに、タキの家に帰るとエマの声はまた出なくなってしまった。
 翌日、彼は逃げるように家を出る。

読んでいて暗い気持ちになったら
お菓子でも食べてください

四話

六話



 例の山脈を回り込むように道は続いていた。
 途中から木々が増え、明らかにこれも放置された林に変わる。ここがタキの家の、いや、タキの持ち物なのかどうかはもう分からなかった。
 高齢化が進んだ田舎だから、どの土地も若者が持て余して、放置されているのかもしれない。
 空気が澱んで重いせいで、森林の中の清々しさのようなものはない。湿った土の匂いが立ち込めている。
 道路はかろうじて舗装されていたものの、大部分が落ち葉と朽ちた樹皮に覆われていた。また少し、上り坂になる。

 二年の夏休みに、エマはタキの家に呼ばれた。タキが一人暮らしをしていたアパートではなく、ここにあった彼の祖父の家だ。
 エマにも祖父母の田舎はあったが、父方の家はここよりももっと都会にあって、母方の家はよその国だったから、エマは初めていわゆる田舎の家に泊まった。
 それまでずっとタキは家とは折り合いが悪いのだと思っていた。だから、祖父母とタキが仲良く話すのを見て、拍子抜けした。どちらかというと、がっかりした。
 本当は、エマも噂を信じていて、彼になんらかの神秘を期待していたのかもしれない。そして、彼がエマを仲間だと認識してくれた理由の一つには、家族との不和があってほしかったのかもしれない。

 タキの家は楽しかった。彼の祖父の蔵書は興味深かったし、祖母の手料理は美味しかった。普段、あまり食べる気にならないエマでも、珍しく食べるということに意欲がわいた。小さな子どものように、その辺りを駆け回って虫を捕まえたり、魚を獲ったりすることをタキが教えてくれた。
 彼が噂にあるような人物ではなく、ただの人間であることを自分だけが知っている。そう思うと嬉しかった。しかし、ここでもエマは一人だった。彼らはエマをあたたかく迎えてくれたけれども、結局は他人で、彼らは一つの家族だったがそれはエマとは違う世界の違う家族だった。

 タキは、あの家を潰したのだという。残しておけばよかったのに、とは言っていない。その話を聞いてから、あの夏のことが何度も思い出される。
 傷みが激しかったから仕方なかったのだとタキは言っていた。後には広大な土地と新しくぽつんと建った真四角の現代風の建物だけが残った。そして草木が伸びて自然へ還ろうとしている。
 あんなにもあたたかい家だったのに、なぜ潰したのだろう。あたたかい思い出を持つ者は、その思い出には執着しないのかもしれない。あまりに当たり前すぎて。

 道が少し先で大きく左に曲がっている。木々の向こうに水面が見えて初めて、エマは自分が随分と歩いてきてしまったことに気がついた。
 空が曇っているせいで、今が何時なのかもわからない。ポケットにスマホが入っているような気もするし、忘れてきたような気もする。もしかしたら、タキが何か言ってきたかもしれないが、画面を見るのが億劫だった。
 林はいっそう深くなって、もう森と言っても差し支えない。いよいよ、世界を隔てる山脈に入ったのかもしれない。
 随分と歩いた、と自覚すると足が重くなった。一昨日までは寝ていたのだ。それ以前に、日々、あの小さな建物の中で暮らしていたのだ。もっと言えば、エマには元より頑健な足腰などない。体力もない。
 空気も重く感じて、息が苦しくなってきた。どこかで休みたい。
 ここへ来るまで、建物はもちろんのこと、椅子やベンチのようなものもなかったから、下手をすると引き返して店に戻るまで、休む場所はないのかもしれない。
 引き返す選択肢を考えたところで、エマは気力を振り絞って足を前に出した。戻りたくはなかった。

 曲がった道の、坂道がもう山道に思える先で、森が途切れていた。建物が見える。
 建物には人がいるかもしれなかったし、それはタキの知り合いで、また面倒なことになるかもしれない。そう思ったものの、エマは道を登った。

 近寄ってみると思ったよりも小さな建物だった。外壁も屋根も木でできていて、作業小屋のようにも見えたが、それにしては小綺麗だ。
 森は建物から海の方へ向かって切り拓かれている。石が敷かれるでもなく、何かが植えられているわけでもない、庭とは呼べないものだったが、確かに毎日誰かが手を加えて、森に呑み込まれるのを防いでいるようだった。
 玄関ポーチには木札が下がっていて「welcome」と書かれている。作業小屋ではないようだ。

 エマは戸口までたどり着くと、迷うことなく扉に手をかけた。
 ここへ来るまでに本当に疲れ切っていて、座れる場所があるならなんでもよかったのだ。
 扉を開く一瞬、そういえば自分が財布を持ってきていないかもしれない可能性に気が付いたが、それもどうにかなるだろう。結局こんな狭い町だし、彼が誰だか知られているわけだし、そうではない場合も店の名前を出せばどうにかなるだろう。そうなるとまたしてもタキに連絡が行くのだろうが、もういい。もう疲れた。
 どうせエマには行き場所がなかったし、何からも逃げられない。とはいえ、もはや何から逃げているのかもわからない。元々も何かから逃げていたのだったか、そうだった気もするし、そんなつもりもなく追われているような気持ちだけがあって、今ここにいる気もする。


 建物の中は静かだった。
 ここの玄関にも土間があって、エマは靴を脱いで上がった。やはりこの土地の風習なのかもしれない。靴を履いたままで暮らすと何か悪いことが起きるのだ。
 上がり框にはスリッパが何足か並べられている。どれも焦茶色のあたたかそうな見た目をしていて、これからの季節とは合いそうになかった。
 小屋に玄関ホールがあるのも変だが、二階まで吹き抜けた空間がある。左手にはソファとローテーブルがあった。右端に木製の階段がある。目の前にカウンターがあって、受付のように見えたが人はいなかった。カウンターにもローテーブルにも、同じ花が生けられた花瓶が置いてある。
 昼間なのに薄暗い。
 それは、空が曇っているからかもしれなかったし、暗い色で作られた壁や床のせいかもしれなかった。ホールの窓にはレースのカーテンがかかっていて、それがまた、外の光を柔らかく遮っている。
 調度は森に建つ小屋にしては洒落ていて、凝っていた。カウンターにも階段の手すりにも見上げた天井にも窓枠にも、控えめだが上品な飾りが彫られている。

 カウンターの奥には、まだ部屋が続いていた。
 奥の窓は海に向かって大きく設けられている。床には毛足の長いカーペットが敷かれていて、彼はそこで座り込んだ。
 窓のない両脇の壁とカウンターの裏には棚があって、さまざまな形をした洋式の古いランプが置かれていた。本を売るようにランプを売る仕事があるのだろうか。今の時代に?
 それを言うなら、そのうち本を売る仕事もそんなふうに思われるようになるかもしれない。本を売る仕事があるのだろうか、今の時代に? 今だって、もうすでに紙に書かれた文字は貴重になりつつある。
 それ以外には何もなかった。

 窓の向こうに、手前の小さな崖とその向こうにまだ続く茂みを越えて、海が見えた。
 海を見たのは久々だった。
 空と同じように鈍い色をして動いている。海面はどこまでも揺らいでいる。

 エマも最初、タキのことを苗字で呼んでいた。彼の名前がどうしてタキというのか、エマは知らない。聞いてみたことがないからだ。いつか話してくれるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。もしかしたら、彼のことだから、すでにエマが知っていると思っていて話していないのかもしれない。
 この町の人たちは、みんな普通にタキの名前を呼ぶ。それはそうだ。名字で呼んでしまったら、彼のことなのか、彼の祖父のことなのか分からなくなってしまう。

 タキもエマのことを苗字で呼んでいた。ずっと最初の頃だ。
 エマの名前は正しくは「Emma」という。そう祖母に教わった。祖父の名前だから、大事にしなければならないのだそうだ。
 もちろん、子どものころから延々とこの名前のせいで揶揄われた。女みたい、というのが主な理由だ。だから、これは祖父の名前なのだ、と主張してみたのだが、さらに笑われた。じいちゃんのの名前をつけるなんて変なの、だそうだ。
 祖母には滅多に会わなかったし、説明するのはひどく疲れることに思えたから、それについて抗議したことはない。する前に亡くなった。

 エマはタキとは別の意味で目立っていた。雲岬ほどではないが、彼が育った場所も田舎の部類に入る。この辺りでは栄えているというだけで、都会ではない。
 名前もさることながら、見た目に色素が薄いことを何かにつけて馬鹿にされる。馬鹿にされた、と彼は感じていた。好きでこう生まれたわけではないのに。
 彼の三つ上の兄は、顔立ちこそ彫りが深かったが、目も髪も父親に似て黒い。肌も浅黒く、それがかえって人には魅力的に映る。その上、背も高く骨太だから見た目だけでもインパクトがある。
 なのにエマは少しも兄とは似ていなかった。色の話だけではない。背もちっとも伸びなかったし、骨も太くなければ筋肉も贅肉もつかない。エマは写真に映るのが嫌だった。自分だけ別の生き物のように思えた。家でも。学校でも。
 タキのように、余計なことを言うやつを睨みつけるとか、明らかに他とは違う雰囲気を纏えればよかったのだろうか、と思う。しかし彼は、自分の見た目にも名前にも、劣等感を抱いたまま大人になるしかなかった。
 実際に、エマちゃん、とよく呼ばれた。病院にいた人たちにはなんの悪気もないのは分かる。あれは自分がいまだに頼りない子どもに見えるからでも、女の子のように見えるからでもないだろう。単に、彼らにとっては子どものころから知っているタキの友だちだから、そう呼んだにすぎないはずだ。
 それも、無視すればよかったのだろうか。曖昧な記憶の中にある曖昧な自分は、いつもそれに曖昧に答える。同級生に揶揄われても、どう反応するのが正しいのか分からなかった。高校のときのタキのように、あんなふうに憤ってみればよかったのだろうか。そうすれば、何かが変わっただろうか。

 それなのにあるときから、タキはエマのことを名前で呼ぶようになった。彼は正しく「Emma」と言う。カタカナのエマではない。どこで身につけたのか、んでもむでもない「mm」の発音はとても独特だった。いつか、祖母が教えてくれたのに似ている気がする。
 そのころから、タキは自分のことも下の名前で呼べ、と強要するようになった。今でも癖で苗字で呼ぶと、絶対に聞こえていて分かっていても完全に無視をする。
 いつだって、タキははっきりしていた。
 彼は自分のやりたいことや、自分の言いたいことや、自分の考えや、そういうものがはっきりしていて、悩んだり言い淀んだりするのを見たことがない。後ろ暗いこともないのか、自分の意見をすっぱりと言う。例え、完全に孤立するような場面でもだ。

 初めて会ったときから、タキは本を読むのが好きだった。祖父の影響だと言っていたから、子どものときからずっと本を読んで育ったのだろう。
 エマが本を読むようになったのは、本の世界にしか逃げ場がなかったからだ。きっと、タキとは違う。彼のように前向きに読んでいるわけではない。
 本を開いて、活字の間に紛れ込んでしまえば、自分の存在はもっと薄らぐ。薄らいでこの世界から消えてしまえばいいのにと、何度思ったことかしれない。なのに実際には、こんなにも見た目は薄らいで見えるのに、彼ははっきりとこの世に存在していて、だからこそ周りからも見えてしまって、今日もまた憂鬱な思いをしなければならないのだ。

 ずっと窓の外を見ていたはずなのに、いつの間にか海は暗く薄闇に沈んでいた。
 そのことに気がついたのは、部屋の明かりが灯ったからだった。一つ、ふたつと、まるで夜空に少しずつあらわれる星のように、ゆっくりと灯る。初めは、エマがいる天井の小さな一つが、続いて、ホールのどこか高いところが、そして受付が。
 彼は窓を変わらずぼんやりと見ていた。遠く波間に透けた自分が座っている。膝を抱えて暗い海の上に漂うように。
 それは、ついさっきまで彼自身が思い描いていた姿とは違って見えた。子どものころのことを考えていたような気がするから、そのせいかもしれない。自分に形があることが、不思議に思えた。
 そして滑稽だった。
 もう子どもではない。いくら標準の成人男性よりも小柄だからといって、見た目には大人だ。人によってはもう結婚もして自分の子どもがいて、家族を養っているような大人だ。
 それなのに自分は、ただ膝を抱えて座っている。子どものように。今日一日、ただここに座って本も読まずただ海を見ていた。いや、海を見てすらもいなかった。

 背後で音がした。
 聞き間違いでなければ、鍵の開く音だ。
 エマは確かにさっき、扉をただ開けて入ったはずだし、その後、鍵をかけたりはしていない。それとも本当は鍵がかかっているのが正しくて、誰かが鍵を開けようとして、開いていたものだから今は閉まってしまったのか、とも思ったが、違った。
 誰かが扉を開けて入ってくる気配がする。
 彼はなんとなく後ろを振り返り、玄関でスリッパを履こうとしていた相手と目が合った。女性だった。彼より、ひとまわりほど年上に見える。
 彼女は勝手に入って座っているエマを見ても、少しも驚かなかった。お待たせしました、と頭を下げる。
 それを見て、どういうわけかエマは自然と立ち上がった。彼女はカウンターの内側に立って何かをしている。その横を頭を下げながら抜けて、玄関へ向かう。
 彼がそうやって、黙ったままに建物を出るのを、彼女は止めもしなければ問いもしなかった。



四話

六話



#なんのはなしですか
#空を見上げて
#君と魔術と星空と




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