空を見上げて 6
これまでのお話は
タキから逃げるように出かけたエマは、山の中で小さな建物を見つけた。そこまでに疲れ切っていた彼は、引かれるように中に入る。
誰もいない建物の中で、日が暮れるまでただ過ごした。
忘れたのですが……
明くる日は雨だった。
朝から天窓を叩く音で目が覚めるほどの、雨だった。遠く雷鳴が聞こえる。
思うに、これが普通の世界でいうところの雨の日なのだ。いつもの曇りの日は晴れなのだろう。そしていつもの、エマが病院に行った日のように、静かに降ったり止んだりする日が、曇りの日と考えればよい。
タキの家はリビングから中庭を回るようにして階段がある。一階と二階の間にはテラスがあって、それがリビングと中庭を囲っている。中庭に雨は降っていなかったが薄暗く、外の雨音はいよいよ強くなった。
中庭越しに見える店はもう開いていて、書架の向こうでタキが何やら作業をしているのが見えた。中庭が薄暗いから、階段を降りた自分がガラスに映る。その向こうにぼんやりとタキが重なる。
昨日、家に帰るとタキは店にいて、おかえりとだけ言った。どこへ行っていたのか、何をしていたのか、もっと聞かれるかと思っていたのに、何も言われなかった。
スマホは部屋に置いたままになっていて、しかし、それにもタキは何も送ってきていなかった。
それを見て、エマはがっかりした。がっかりした自分に呆然としながら、腹が立った。どうして何も聞いてくれないんだ。そうタキに詰め寄りたい気持ちでいっぱいになった。
自分がどこかへ行ってしまって、なんとも思わなかったのか。どこへ行ったのか気にならなかったのか。
構われたくないと思ったのは自分だというのに、身勝手にも彼は憤った。こんなにも激しく気持ちが揺れたのは久しぶりだった。そのことに別の自分がどこかでひどく動揺し、また別の自分が落ち込んだ。
おそらく夕飯の時間になってもタキは二階に上がってこなかった。単に今日はそのまま飲みに出かけたのかもしれなかったし、それはいつものことだったのに、それもまたエマの気に障った。
自分の中でバラバラになった自分を、どう繋ぎ合わせればよいのかわからず、彼は左手を強く握りしめた。そうしていれば、そこに全てが集約される気がして、そうしていれば、自分がまた一人のエマに戻れる気がした。
店に入る戸を開けた音で、タキが気がついてこちらを見た。
「おはよう」
と彼が言うのに、エマは黙って頭を下げる。店は静かで少し暖かく、そして乾いていた。あんなに世界は濡れているのに、まるで別の空間のように静かで、乾いていた。
「傘、持って行けよ」
タキの前を通り過ぎると、そうエマの背中に声がかかった。玄関にはエマの気分とは全くかけ離れた明るい紫色のチェック柄の傘が置いてあった。思った通りの傘すぎる。思わず口角が上がって、そのことが彼の気分を重くさせた。
何も楽しいことなんてない。何も楽しいことなんてないのに、なんで笑っているんだ。少しも笑うような気分じゃないのに。
頭の中も体の中もぐらぐらと煮詰められたようになって、エマは立ち止まって目を閉じた。自分がまたバラバラになってしまいそうで、すぐそこにタキがいることで、そんな自分を知られたくはなくて、でもそんな自分を分かってほしくて今にも振り返って彼に全てをぶちまけてしまいそうで、どこかに縋りつきたいのにここには本棚に詰まった本しかない。息を吸って、左手を握る。
手のひらに爪が食い込んで、その痛みはエマをどうにか世界に繋ぎ止めた。目を開いて歩き出す。
悪趣味な傘を持って、彼は店を出た。
傘をさして昨日と同じ道を足元だけを見て歩く。
雨粒が傘に当たる音はエマと雨の降る世界を隔てる。もしかしたら誰かが道を歩いていて、もしかしたら誰かが雑木林の中にいて、エマが一人で歩いて行くのを見ていたかもしれないが、彼は何も見ていなかったから、世界には彼しかいなかった。
彼の世界は悪趣味な紫の傘の下に作られたとても狭い空間で、そこには彼しかいない。ときおり、道は明るく照らされて大きな音が響いた。一度か二度は、はっきりとすぐそばに落ちたようで、空気だけではなく山そのものが揺れた。揺れていたけれど、歩いていたから揺れていても同じだった。
昨日は随分と歩いた気がしたものが、一度距離を覚えたからだろうか、さほど遠いとは思わずにあの建物のある場所まで着いた。
森を抜けたところでエマはほっとして、息が楽になった気がした。それまで自分が、息を詰めていたことにも気が付かなかった。左手は強張っていて、扉を開けるために傘を持ち変えるのに苦労した。
もし、本当は鍵がかかっているのが正しくて、閉まっていたらどうしようか。もしくは、本当は昼間も開いているのが正しくて、人がいたらどうしようか。
そう思ったが、昨日と同じで扉は簡単に開いたし、中は静かだった。本屋と同じに少し暖かく、乾いていた。土間には昨日はなかった傘立てが置いてあった。エマは今日が雨だと知らなかったが、あの女性は天気予報を見るきちんとした人で、翌日に備えて用意したのだろう。
しかしよく考えれば何かにつけて雨は降っているのだ。気が付かなかっただけで、昨日も置いてあったのかもしれない。晴れていれば、いや、晴れてはいなかったのだが、濡れた傘を持っていなければ、傘立てがあったとしても目には入らないだろう。それが人間というものだ。自分に必要なものは目に見えていても脳では認識しない。
傘から滴る雫が、土間を濡らす。せっかくの乾いた空間が汚染されてしまった気がした。
スリッパの横には畳んだタオルが置いてあった。タオルを手に取って、エマは自分が頭以外のほぼ全てが濡れていることに気がついた。傘が作った小さな彼の世界は思った以上に狭かったようだった。
昨日と同じに、奥の部屋に座る。
窓の外は、当たり前だが雨が降っていて、雨の向こうに昨日よりも暗い色をした海が見えた。雨が降っていても、内海だからかそこまで波が荒れているようには見えない。もっとも、彼は晴れた海も雨の海もよくは知らない。
高校を卒業して、周りと同じように大学に行った。取り立てて特色があるわけでもない地元の大学だ。意外だったのは、タキも同じようにそこに進学したことだった。彼はもっと遠くの大きな都市にある、エマにはわからないような難しい名前の学科に入るような気がしていたからだ。
何より、タキは頭がよかった。そもそも、彼がいろんな意味で一目置かれていた理由の一つは成績がよかったからだ。
よく考えてみれば、あの高校そのものが進学校ではない。雲岬の高校の学力と比べれば上になるのかもしれないが、タキは本当はもっといい高校へ行けたのではないだろうか。そのくらい、周りとは実力が違っていた。
学生時代の成績のよさ、平たく言えばテストの点数がよいことは、それだけで大きな意味を持つ。嫉妬の対象にもなるかもしれないが、タキになるともう、妬んでもどうしようもないレベルだった。いや、妬まれてはいたのだろう。だからあの噂だったのだ。山向こうからきたヒトではないもの。それなら、勉強ができて当然だろう。
本当はそうなのだろうか。タキは人ではないのだろうか。エマの知る彼はどこまでも人間臭いと思っていたが、違うのだろうか。だから、あんなにもこの世界を恐れず、自信を持っていられるのだろうか。
タキとエマは同じ大学に行ったが、専攻は違っていた。同じ授業を受けることはあまりなく、それでもなぜか彼と一緒にいた記憶がある。
エマはもちろん、サークルになど入らなかった。タキはもちろん、ありとあらゆるサークルの勧誘を受けた。彼を入れたいものだから、彼と一緒にいたエマに声をかけた者もいた。
タキの妙な噂はもちろん、ここでも展開されていたが、高校とは少し風向きが違った。恐れられるというよりは面白がられるほうが強くなって、タキはよくエマの知らない上級生と談笑するようになった。もしかしたら、町から出てきた幼馴染や先輩がいて、だからこそタキの世界は元の町にいたときのように馴染んだのかもしれない。
エマにとっては地元の大学なのに、ここでも彼は孤独だった。この頃から、タキは飲み歩くようになってそれにはついていけない。いつも一緒にいたような気がするのに、タキはどこか遠い存在で、彼との間にはいつも目に見えない隔たりがあった。世界が彼とエマの間では分断していて、すぐそこにいて手を伸ばしても彼には触れられないような隔たりだ。
そうやって考えてみれば、今どうして自分がタキの家にいるのか、よく分からない。
高校の時は人を寄せつけず、誰とも群れなかったのに、そうではなくなった。何かにつけて憤っていたのは確かだが、もっと彼自身が開かれた存在になった。大学も後半になると、タキの変化についていけていなかった、かつての同級生たちもそれが本来の彼であったように、打ち解けていった。もちろん、彼は過去に自分に対して下されていた評など気にもかけなくなっていたから、水に流したというよりは笑い飛ばした。
その勢いの人脈で、タキはエマの町のそこそこ大手の企業に就職した。就職してからは、お互いに会う機会はどんどん減っていった。タキは相変わらず知らない誰かと飲み歩いているようだったし、それとは別に仕事は順調で、上司や先輩にかわいがられ、忙しい以外は何の不自由もないように見えた。
それだって、別に自分の知っているところの間違いのないタキなのだが、エマは彼がもう、どんどんとどこか遠くへいってしまったように感じていた。会わなくなっていたから、ますますそうだった。たまに、酔っ払ったタキから何の脈絡もない連絡が飛んでくることはあったが、エマはエマで自分のことに精一杯だったから、次第にそれに返事をすることも減っていった。
なのに。
なぜ今、自分はタキの家にいるのか分からない。
確かに彼にはどこにも行く場所がなかった。
半年ほど前、仕事を辞めた。そして、家族が母の故郷へ戻るのに従った。祖母が亡くなったからだ。葬式に行った話ではない。
元々、両親はあちらの国で出会っている。父が仕事の関係で向こうの国にいたからだ。結婚した後、ここで暮らすことになって、それでも、何かにつけて子どものころは家族で母の家に帰っていた。
エマが高校生になった後、父は頻繁に向こうでの仕事をするようになって、両親そろって家を空けることが多くなった。大学生だった兄は、タキのように忙しい人で、すでに何か、エマにはよくわからない仕事をしていて、滅多に家にいなかった。両親がいないのだから、息子が家に帰っていようがいまいが、気にする人は誰もいない。
彼はだから、自分の家に住んでいたが、一人だった。それは気楽なことでもあったが、完全に孤独でもあった。一人なのだ。タキのように望んだのでもないのに、一人で暮らしていた。家族が四人住むのでも、大きな家に。何かあっても、助けを呼べる相手はいない。仮に家に誰もが住んでいたとしてもエマは彼らに助けを求めなかっただろうが、それでも、いるのといないのとでは、まるで違った。
ずっと自分は一人だと思っていたのが、現実になった。現実になってみたら、それは思っていた以上に辛い日々だった。人と話したいわけではないのに、寂しさだけが募った。
だからかもしれない。家は売りに出して、本格的にあちらの国へ引っ越すことになって、エマはなぜか、ついていくことにした。
父は知らないうちに独立していて、事業は上手くいっているらしかった。兄は大学の頃からやっていた仕事と、父の手伝いと、新しく自分でも何か事業を始めたらしい。
引っ越しは、兄の結婚も併せていた。向こうの国で式は盛大に行われ、兄と兄嫁と、そしてエマの家族と、母の実家で暮らし始めた。母の実家には母の姉妹の家族や、従姉妹の家族も住んでいた。そんなにも人がいるなら、なぜ母は家族を連れて家へ帰ることにしたのか、エマには分からない。聞いてもいないし、聞く気もなかったし、母も話すことはないだろう。
エマは父とも兄とも関係のない仕事を紹介された。それは実に理にかなっている。出来損ないの次男を自分たちのそばに置いておきたくはないが、何もさせずにいるわけにはいかないから、当たり障りのない仕事が割り振られたのだ。
知らない国での暮らしは、ここで暮らす以上にエマには合わなかった。実は彼自身、期待していたところがある。自分は母の故郷に近い見た目をしている。ここではあまりにも他人と違うから、それで何もかも馴染めないのだと思っていた。そうではなかった。
世界のどこにいても、エマは一人だった。

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