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空を見上げて 7

これまでのお話は
 行くあてをなくして、タキの家に暮らすようになったエマは、それでもまだ、落ち着ける場所を見つけられずにいた。
 次第に、タキと共にいることも嫌になり、山の中に見つけた小さな建物へと逃げる。

なんのはなしですか

自分でも思っています

六話

八話



 陽が落ちると、前の日と同じようにあかりが灯った。鍵が開いて、昨日の女性がやってくる。エマは立ち上がって、部屋を後にした。
 いつの間にか雨は止んでいて、ただ暗い空だけが頭上に広がっていた。いつだって暗いと思っていたが、夜はもっと暗い。空に星は見えない。
 夜空こそいつだって暗いものだと思うが、曇っていればさらに暗い気がした。自分がそう勝手に思い込んでいるだけかもしれないし、月や星が見えないことが、暗く思わせるものなのかもしれない。

 タキの店の名前は星空書房という。なぜそんな名前をつけたのか、エマは知らない。これこそ、酔いでもすればその由来についていくらでも語ってくれそうなものなのに、タキは一度もそれには触れなかった。酔っ払いは大抵、頭のネジが何本も緩んでいるから、本人が本当は心の奥底に封印しておくつもりだったことを、うっかり漏らしてしまうことがある。
 タキもその例に漏れず、時々、彼の本心をエマにうっかり打ち明けてしまうことがあった。そういうときは、散々にしゃべり散らかして、酔いに酔って、たとえばエマが酒だと偽って水を飲ませても気が付かないくらいのときだ。この短期間でそんな状態に何度も陥る友人というのも、いかがなものかと思うが、それでも、店の名前については聞いたことがなかった。
 なんの思い入れもなくつけたわけではなかろう、と思われる。なぜなら、タキは何かとこだわる性格だったし、部屋という部屋に天窓があることを考えると、星空にもなんらかの思い入れがあるのではないか、とは思う。
 あれだけしゃべる本人が、口に出さないのだから、聞くのはどこかためらわれた。
 そうでなくても、その、酔っているときに漏らしたタキの本音を、エマは聞かなかったことにしている。そんなの、フェアじゃない気がするし、ずるい気もする。聞いてしまった自分が、ではない。タキがだ。
 そんなことで言った気になられては困る。大事なことならちゃんと、酔っていないときに言ってほしい。それに、酔っているから冗談なのか本気なのか、区別もつかない。とにかくずるい。

 振り返ってみても、特にタキと星空を繋ぐものは思い至らなかった。それだって、考えてみれば彼の人生の半分を、エマは知らない。子どものころの話は、これまたタキらしく自由に話してくれていたが、全てを知っているわけではない。
 そう思えば、タキのことをそこまでよく知っているわけではないのだ。エマが知っているのは、彼が話したことだけ。それ以外のことは知らない。
 なぜ、今、彼の家に住むことになったのか、やっぱりエマにはよく分からなかった。考えれば帰る足が重くなる。

 それでも、エマはあの家に帰らなければならない。他に行く場所はないからだ。


 家に帰り着いてから、エマは傘を忘れてきたことに気がついた。しばらく、玄関に立ち尽くして朝、タキが傘を出しておいてくれていた場所をぼんやりと眺めた。
 店の中も暗かった。
 タキがどこにいるのかは分からない。店を閉めているのに、玄関が開いているのは不用心な気がしたが、自分が帰ることを分かっていて、開けておいてくれたのかもしれない。
 エマは、左手を握った。
 分かっている。悪いのは全部、自分だ。タキではない。彼は何も悪くない。それなのに、どうしても彼に何か言わなければ気が済まない。罵声を浴びせて、そうしたらタキは困るだろう。怒るだろうか。怒ってくれたらいいのにと思う。何もかもが台無しになってしまえば、そうすれば何かが変わるかもしれない。

 二階に上がっても、タキはいなかった。
 エマはそのことにやっぱり半分ほっとして、半分腹立たしく思った。自分が粉々に引き裂かれていく気がして、どうしようもない。
 リビングは電気が消えていて、キッチンの奥の窓の向こうに曇った夜空が見えた。どういうわけか知らないが、窓にはカーテンの類がない。夜に電気をつければ、外から中が見える気がしたし、防犯上どうなっているのか気がかりだが、それもこれも、タキが決めたことだし、彼の家だ。
 エマは階段を上がって、キッチンに立った。いつもはタキが料理を作るのを待つばかりだから、あまりキッチンに立ち入ったことがない。大きな南向きの窓に向かって、備え付けのテーブルがあって、椅子が二脚並んでいた。椅子は、きちんとテーブルにあった色とデザインで、最初からここがダイニングとして設計されたのだろう。エマは一度も座ったことがない。
 タキは誰とここに座るつもりだったのだろう。
 冷蔵庫には、作り置きの惣菜がいくつか入っていた。冷たい何かを食べる気にはなれなくて、かといって今から何かを温めたり、湯を沸かす気にもなれない。喉が渇いていたから、ペットボトルの水を取り出した。
 食器棚にひしめいている個性的なグラスやマグカップを無視して、一つだけ白いマグカップを手に取る。

 水を飲みながら、エマは家の中をぼんやりと眺めた。
 キッチンはリビングの南側にある。
 タキの部屋は北にある。西は部屋ではなく書棚が並んでいる。これは、リビングにももちろんあって、エマの部屋にもあった。見たことはないがタキの部屋にもあるのだろう、もちろん。
 彼の部屋は東側にあった。最初に案内されたとき、こっちは客間だと聞いた。友だちが来たら泊めるつもりで作ったから、遠慮なく使ってくれ。そう言われた。
 家全体の作りの感じからすると、二つの個室はどちらも同じ広さ、同じ作りになっている気がする。それに、客間というわりには、ベッドも机も、クローゼットも本棚も、まるで誰かが暮らすために作られたようだった。本当は、タキの部屋と対になっているのかもしれない。
 妙な話だと思った。
 客間が主寝室と同じなんて、変じゃないか。

 タキはどうして、この家を建てたのだろう。わざわざ、祖父の家を潰してまで。どうしてこんな窮屈な家に住むことにしたのだろう。
 彼は少しも肝心のことを言わない。聞かない自分もいけないのかもしれないが、タキはいつもどこかふざけている。若いころにあったあの熱のようなものはどこかへ消えて、自分の心の奥にある芯を見せなくなったように思った。いや、あの頃も、周りを避けていた頃も、周りのみんなから見れば、本心がわからない人間なことには変わりないのかもしれない。
 そう考えれば、変わったのは自分との関係性の方なのだろう。エマが現実から逃げて、タキからの連絡さえ見ないようににしていた間に、いつの間にか関係性が変わってしまったのだ。
 だったら、どうして、自分はここにいるのだろう。

 マグカップを使って水を飲んだことを知られたくなくて、エマはその場でマグカップを洗った。冷蔵庫の水とキッチンが濡れていたらあまり意味がない気がしたが、洗い終わったところで疲れてしまって、どうでもよくなった。拭けばいいのか乾かせばいいのか、それすらも分からなかったから、その辺にあったキッチンペーパーで拭いて、棚に戻す。
 キッチンペーパーを捨てようとして、これが捨てられていたら何に使ったのか考えるかもしれないと思ったら、それも嫌になって、ゴミを持ったまま彼は自室に戻った。


 気がつくと、エマはあの部屋に座っていた。
 いつからそうしていたのか、自分でも分からない。タキの家に帰った記憶はあるのに、そこから先がどうしても思い出せなかった。

 窓の向こうに広がる海は、今日も鈍い色をしていた。空はやっぱり曇っている。昼間であるということ以外は分からない。
 耳を澄ますと、海の音が聞こえるような気もしたし、気のせいのような気もした。それは森の木々が風に揺れる音なのかもしれなかったし、風なんて吹いていないのかもしれない。
 雨は降っていないように見える。それだって、窓に当たるほど、ここから目で見えるほどの大粒の雨でないだけで、本当は降っているのかもしれない。
 窓の向こうにあるものは全て、部屋の中に座っているエマには、それが本当のものなのかどうか分からなかった。
 この建物の外にいたときに、木立の向こうに水面が見えていたから、位置関係から考えてあれが海なのだろうと思っているだけで、本当はこの窓は大きなスクリーンになっていて、海のようなものを映し出しているだけなのかもしれない。

 そんなことを言うのなら、自分の目も同じようなものだ。
 そうだ、これもまた夢なのかもしれない。
 今は自分の部屋にいて、夢を見ているのだ。夢だって、実際には目で見ているわけではないのに「見ている」ように思う。それはなんらかの情報が映像として脳内のスクリーンに映し出されているだけだ。
 それとも、家に帰っていたところが、夢だったのかもしれない。家には誰もいなかった。今も誰もいないから、夢なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 どちらでも構わないか、とエマは思った。窓の外をただ眺める。
 これが夢にしろ、映像にしろ、よくできている。現実のようにも見える。
 しかし、よくよく考えてみれば、自分は現実になど生きてはいない。ずっと自分は一人だと思っていたが、今もまさにその通りだった。本当は世界に人間は自分しかいないのかもしれない。反対にこれが夢なら、エマ自身の中にある世界なら、彼しかいないのもおかしくはないだろう。

 なんとなく入学してなんとなく大学を卒業したあと、エマも周りと同じように近くの会社に就職した。全国に支社を持つそこそこ大きな会社の、支社、ではなく、その支社が下請けにしている名前だけは大きな会社を冠した小規模な事務所だった。その会社が具体的に何をしていたのか、自分がなんの役割があってそこにいたのか、よく思い出せない。
 入社して、どこか遠くに研修に行ったことは覚えている。同じ年に入った新入社員が集められていた。全国から支社やその下請けの関連企業の、エマたちのような小さな会社の新入社員まで集まっていたから、人数は多かった。学校の延長のようだった。下手をすれば、大学より窮屈だった。
 タキが勝手に信じている通り、間違いなくエマは人見知りだったから、これだけの人数の中にいるのは苦痛だった。彼が入った事務所そのものは小さいから、これだけたくさんの人間がいても本当の同期はいない。彼はそこに一人で出向いて、よく分からない日課をこなさなければならなかった。

 エマ以外の人間は、誰もがやる気に満ち溢れているように見えた。特に、本社や支社の新入社員は、妙に目がぎらついていた。もちろん、彼のようにこの集団にいることを不快に思っていた者もいただろうし、ついていくことに不安を覚えた者もいただろう。ただ、そういう人間は前へは出てこないものだから、目がおかしい人間だけが目立って見えた。
 ただの研修だ。会社が思うところの「社会人として」のあり方や礼儀作法が叩き込まれる。加えて、自社のメインサービスについての説明や、それが提供されるに至った背景や、開発者の思いや、とにかく新人を洗脳するための講義が続く。
 座って聞いている分には、明後日のことを考えていても、問題はない。苦痛だったのは、何かにつけてコミュニケーションを取らされるところだった。社会人としてコミュニケーション能力は非常に重要だと会社は考えているらしく、やれグループになって話し合えだの、隣の人と会話をしろだの、名刺交換をしろだのと迫られる。こういう傾向は、学校にいたときからあって、ただし、大学では一旦、この妙な文化からは遠ざかった。それがまた、ここへきて再燃する。
 そうなると、目の色を変えている連中は、ここでも張り切った。思えば、彼らは常に誰かと競っていて、だからこそ、研修とはいえ、自分たちを管理している大人に、我こそは有能で会社の役に立つ人間なのだと見せつけなければならなかったのだろう。
 全くついていけなかった。

 三日目で、エマは体調を崩した。元から、新しい環境に馴染むのは苦手だったから、自分の中では想定内のできごとだった。宿泊中の生活も含めて、面倒を見てくれていた研修のリーダーに休ませてほしいと伝えると、言われた。体調管理も会社員の大事な仕事だと。誰かが一日休むだけで、別の誰かにしわ寄せが行く。それは巡りめぐって、みんなのやる気に、会社の業績にも響く。学生と違って、体調が悪いから休みます、は効かないんだよ。
 ついていけないと思ったが、それが社会人になることなのだと思った。無理はしないように、どうしても無理だったら言って、と付け加えられて、どうしても無理だから言ったのに、結局、研修に出るしかなかった。
 実際のところ、ここで頑張らなければ、この先、仕事をしていくのに困るだろうと思ってしまった。そう、思ってしまったのだ。我慢しなければならない。社会人なのだから。

 ついていけないでいるうちに、気付けばいつものようにエマは集団の中で孤立していた。広い世界へ出れば、自分と同じように異国の血を引く人間もいるだろうと思っていたし、そのコンプレックスもなくなるかと思っていた。
 彼が研修そのものや集団生活に馴染めないでいるうちに、周りはあっという間に一つの集団になっていた。確かに、目をぎらつかせていないやつもいた。そういうやつは、そういうやつで、上手に集団に紛れ込んでいた。
 エマだけが、その外側にいた。
 あるときそれに気がついて、それを冷たい気持ちで眺めたことだけを、はっきり覚えている。幸いだったのは、この先、彼らと直接仕事をするわけではなく、彼らとポジションを争うこともないということだった。




六話

八話


#なんのはなしですか
#空を見上げて
#君と魔術と星空と




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