空を見上げて 8
これまでのお話は
居場所を失って友人の家に住むことになったエマ。本屋を営むタキの家で、朝から晩まで本を読んで過ごしていたが、体調を崩して声が出なくなってしまう。
タキは心配するが、それを重く感じ始めてしまったエマは、数ヶ月ぶりに自ら外出する。あてもなく歩いた先には、ちいさな山小屋があった。
少し休むはずのそこを、彼は毎日訪れるようになる。自分の心のうちと過去を行き来するうち、次第に時間の間隔も失われていく。
窓の外には、鈍い色をした海が広がっている。エマのいる場所から海までは、近いようで遠い。例えば、あの水面はどう見ても手が届く場所ではない。それなのに、ずっとここに座って見ていると、揺らぐ海面が目の前にあるように見えてくる。
本当は、彼の目の前には何もなくて、その向こうに窓があって、わずかばかりの平らな地面とその先に続く崖を経て、海が続くのに。
今日も空は曇っている。曇っているのに、何の光を反射するものか、海は小さなうねりの中で細かく色を変えている。ここは内海なのにあの水は、世界の果てにある海と同じ水で、どこまでも続いている。
世界には切れ目があるように見えて、どこまでも続いている。エマがどこに行っても馴染めないように。もしあの海に入っても、海に溶けることはないのだろう。
だとしたら、どこにいればいいのか。
タキがものすごく久しぶりに連絡をしてきたのは、エマが母の故郷にいるときだった。全く馴染めない異国の生活の途中で、スマホの通知に彼の名前を見つけて、ひどく妙な感じがした。
彼の存在は遠い世界の別の話の登場人物のようだった。あまりに長い間、ページをめくることを忘れていた、本の中に住んでいる架空の存在。そのくらい、タキはどこか遠くに行ったと思っていた。
実際のところ、物理的に遠くにいたのは自分で、もしかしたらタキはこれまでにも何度も連絡をよこしていたかもしれないが、見ないふりをしてきたのも自分だ。
会社の研修を終えて、配属された事務所に戻っても、エマはもちろん馴染めなかった。学校にいたころより、社会人の群れはもっと冷たいように思えた。
なぜ、いつかこの世界に馴染める日が来ると思っていたのだろう。中学を出たら、高校を出たら、大学を出たら、いつか自分も他のみんなと同じに扱われる日が来ると、なぜ信じていたのだろう。いや。信じていたとは知らなかった、エマ自身も。
自分でも気がつかないうちに、ずっと彼は期待していた。いつかどこかの地点で、溶け込める世界が現れることを。例えばあのときの、タキのように、自分の存在を見つけて、真に見つけて排除することなくそばにいてくれる誰かが現れることを。
それでも、タキはあちら側の人間だ。エマとは違って社会で生きていける。そのうち彼は、自分のことをひどく惨めな、どうしようもない人間だと思うかもしれない。社会人としてこの世界に馴染めないなんて、ダメなやつだと思うかもしれない。そんなやつとは縁を切りたくなるかもしれない。
もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。
ほんの気まぐれで、彼は高校の中で浮いていたエマに目をつけた。ただそれだけだったのかもしれない。タキと自分をつなぐものなんて、本当は何もない。だから、見ないふりをした。
いつか、本当のことを言われてしまうのが怖かった。
今も、怖い。
久しぶりの連絡は、こうだった。
『俺、家建てたんだよ』
あのときも、エマは思わず口元が緩んでしまって、そのことを後悔したのを覚えている。彼が笑っていると、周りに嫌な顔をされた。暗い顔をするな、人と話すのに笑顔でいろと言ったのは大人たちなのに、いざ、エマが懸命に笑顔を作ると怒られた。へらへらするな、笑ってごまかすな。
彼はそのとき、自分の部屋にいたから、もちろん誰も近くにはいなかったのに、周りを見回して、誰にも見られなかったことを確認した。そんなことまでも覚えている。
エマに当てがわれていた部屋は、今のタキの家の二階部分を全部合わせたくらいの広さで、バルコニーに向かって大きくて古風な窓がいくつも連なっていた。
季節は冬だったのに、わずかでも陽がさせば部屋中に明るい光が溢れた。苦手な部屋だった。身の置き場がない。自分が伝承上の怪物のように、いずれあの光で滅せられるのではないかと、そんなふうに思っていた。
窓からはできるだけ離れていると、部屋の隅にある大きな姿見に自分が映る。それも嫌だった。
貧相な自分を見せつけられている気になって、ちょうどあのときも、端末の画面を見ながら緩んだ顔をした自分が鏡に見えて、ひどく気が滅入った。
鏡の向こうが世界中に通じていて、自分が笑ったことが、自分を知る誰も彼もに伝わったように思って、手に持った端末を危うく鏡に投げつけるところだった。
どこにいたって、逃げ場はない。
そう思っていたから、だろうか。
タキは、彼が今どこでどうしているか、まるきり知らないようだった。こちらの近況も、自分の近況もそっちのけで、言いたいことだけ送ってくるのは、いかにもタキらしい。
エマは返信をするのに、何日か悩んだ。悩みながら、元々も、こうして彼の脈絡のない連絡になんと答えたらいいのか分からず、放置していて今に至ったのだと気がついた。
結局、おめでとう、だとかそんなことを返した気がする。
自分のことを話すのは、嫌だった。特に、あちら側にいるタキに知られるのは嫌だった。
この世界に自分の居場所がないことを、人に知られるのは嫌だった。認めてしまったら、ますます存在が希薄になる気がしたし、惨めな気持ちになるだろうとそう思っていた。
しかしそれ以上に、エマは母の国にいることが嫌だった。だからといって、故郷に戻ったところで、さして状況が変わらないことも分かっていた。それでも、せめて、この家族から離れたかった。
エマが返事をすると、すでに書くことを打ち込んであって送るのを待っていたかのように、タキから怒涛の返信が届いた。このとき、故郷では深夜だったはずだ。
どうしているのか、元気でいるのかとしつこく聞いた挙句に、今にも家までやってきそうな勢いだったから、エマは仕方なく、タキの知っているあの家はもう人手に渡っていて、自分は遠くにいるのだと説明した。
そう。
このときも、エマは何も言っていないのに、タキは勝手に察してくれたのだ。自分が全くこの国に馴染めていないことを。
帰ってこいよ。
いいじゃん、部屋なら余ってるから。
ほら、家建てたからさ。
エマは部屋のベッドで目を覚ました。
天窓の向こうは暗い。
今が夜なのか、それともいつもの通りに天気が悪くて暗いのかは、全く分からなかった。
昔のことを思い出していたからか、時間の感覚が曖昧になっている。この部屋にずっといたような気もするし、全く別の場所にいた気もする。夢を見ていたのか、自分が思い出していたのかも、よく分からない。
自分のずっと中の方から、ぐったりと疲れていた。この肉体を手放すことができれば、この疲れからも解放されるだろうか。違うだろう。肉体がなくなっても、自分が存在する限りはこんな気分のままなのだ。
周りと見た目が違うから、馴染めないのだと思っていた。もし、全員が肉体を手放して、それぞれの存在だけになったとしても、エマはどこにも馴染めない。
活字の間に紛れ込もうとして、そこに少しだけ居場所を見つけた気になっても、彼は文字ではないからそれだって迷惑な話だろう。
溶けて消えてしまいたいと思っても、きっと溶けたところでこの空気にすら馴染めないのかもしれない。
家の中は静かだった。
物音はしない。
酔っ払ったタキの存在以外はいつでも静かな家だ。最近は、その酔っ払ったタキすら見ていないから、静かだ。
帰ってこいと言われて、まるでそれが当然のようにエマは帰ってきてしまった。
人の家に居候をすることには抵抗があったし、雲岬に対するネガティヴな感情もあった。それよりも何よりも、自分の希望を家族に伝えることが一番の障壁だった。
それがそこまで高いハードルだとは、彼自身考えてみたこともなかった。
タキは最初の自分の提案を、この世で最も優れた思いつきだと信じて疑っていないらしく、エマが答えを出せないでいる間に何度も連絡をよこしてきた。しつこいほどに。
だってほら、お前、本好きだろ、俺の家に来たらいくらでも本が読めるぞ。
仕事を辞めて、本屋を始めたという話も、そのときに聞いた。なんであんなに周りから期待されていたのに、故郷へ引っ込んで本屋を開くのか理解できなかった。本が好きなのは知っていたが、彼は活字よりも人と話す方が好きなはずだ。本屋なんて孤独な人間が憧れるものだと思っていた。
エマは父親というものと真正面から話をしたことがない。家にいなかったからというのもあるが、父が自分を一人の人間として数えてくれているかは分からない。
家族は父と兄と母。四人家族だったが、存在が認知されているのは兄と母だけの気がしていた。エマはとりあえず名前が書いてあるだけの存在。
子どものころからずっと、言われた通りにしてきた。自分のやりたいことがあるかどうかを聞かれたことはなかったし、それを発言していいのか考えたことすらなかった。たとえば、食べたいものや欲しいものがあっても、それをいうのは兄だ。エマではない。
それをここへきて、父が用意した仕事を辞めて、友達の家に居候をしに行くとどうやって伝えればいいのか。自分はチョコレートよりバニラのアイスのほうがいい。それの方がずっと簡単に言えたんじゃないのか。
結局のところ、エマは黙って家を出た。荷物というほど大事なものはなかったから、普段出かける格好をしていつも通りを装ってあの家を発った。家にはたくさんの人がいたから、彼がそうやって出ていくのを見た人も大勢いただろうが、誰の目にも映らなかっただろうと思う。どこにも馴染めないのに誰にも見えてはいない。エマがいなくなっても誰も困らないだろう。もしかしたら、探されているかもしれないが、それは自分を心配してのことではないはずだ。家の名前に傷がつくから。自分の息子が弟がそんなやつでは困るから。
でも、どうなったのかは知らない。
タキは空港まで迎えに来ていた。
スーパーに買い物に行くくらいの荷物しか持って帰らなかったエマを見て、それなのに、そういえばタキは何も言わなかった。
彼は、エマがどうしていたかを、非常に簡単に、ごく一般的な挨拶の中に織り交ぜて聞いただけで、たったそれだけのことにエマが体を強張らせてなんと答えるか迷い始めた次の瞬間には、タキの近況に話題は移っていた。
まず、空港に来るのに、軽トラだった。曰く、自分の車は持っていなくて、これは近所の誰それが貸してくれたのだ、という。確かに知らない屋号が側面に入っていたし、二度見してしまうほど使い古されていた。町から空港まではかなり距離がある。どう見ても、この軽トラは、町で配達をするのに使われていて、どんなに遠くてもあの山を越えるのがせいぜいだったのではないか。それをなんだって人から借りてこんなところまで運転してきたのだろう。
車については、あの町ではまあ必要もないかなと思った、らしいのだが、エマからすれば、あの町だからこそ、自家用車は必要ではないのかと思ったのを覚えている。もちろん、エマが口を挟む隙はなかった。
一を聞いて十を知るという言葉があるが、エマがまだ十分の一も聞いていないうちに、タキは百万くらいのことをしゃべってくれた。おかげで、余計なことは何も考えず、ぼんやりと過ぎゆく景色を見ているだけでよかった。
力が抜けた。
見慣れた山並みが近付いてきて、エマは息を吐いた。これまでずっと、吐き出せなかったものが、塊になって出ていったように思った。
そのときはそう思ったのだ。
タキは横で町にある本屋だか出版社だかよくわからない店の話を延々としてくれていた。
車は、エマの故郷を逸れて海沿いの道へと向かう。
遠回りなのにと思ったが今なら分かる。どうしてだか、一度も何があったかなんて話していないのに、タキは知っていたのだ。
山の向こうはあの日も曇っていて、ちょうどこんなふうに、鈍い色の海が広がっていた。光るものは何もないのに、何かを反射して揺らぐ海が。
賢いぱちこはマガジンを作りました。
エラい。

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