名前のない悪魔(かのじょ)第五章
著者紹介

⚠️タイトルは悪魔と書いてカノジョと読みます。
これまでのあらすじ
可愛くて人気者の彼女。
しかし牧野の前でだけ理不尽な“悪魔(カノジョ)”になる。
温泉旅行では計画を踏みにじられ、快楽と疲労の沼へ。
帰宅後、高熱で倒れた牧野に彼女は“看病”と称して恐怖のヘドロ粥を持参し、牧野は別れを決意する。
ところが彼女の家では両親を紹介され、彼女は借りてきた猫のように「良い娘」を演じてみせた。
夕暮れ、牧野が別れを告げると彼女は泣いて走り去る。
雨宿りの喫茶店で解放を噛み締めた矢先、母から「娘と連絡が取れない」と電話が入る。さらに事故で若い女性が下敷きになったという噂を耳にし、牧野は彼女の向かった先へ走り出す——。
第五章
事故が起きた現場には、パトカーの赤色灯が暮れた駅前商店街の水たまりに滲んで散らばっていた。
警察車両と消防車が何台も停まり、完璧な防水を誇るであろうレインコートを羽織った職員たちが、事故現場を厳重に守っている。
「すみません……事故に巻き込まれた女性が、どこへ運ばれたか分かりますか?」
そう尋ねると、職員が怪訝な表情を見せた。僕はハッとした。
パネルが落ちた事件現場に、彼女が履いていたパンプスが片方落ちて、惨めな姿で雨に打たれている。
心臓が握りつぶされるような痛みを伴い、再び大きな波を打った。
「事故に遭った女性は、僕の彼女なんです。お願いです! どこに運ばれたのか教えてください!」
熱のこもった声を張り上げると、職員は僕の訴えに目を覚ましたように、
「あっちに警察官がいるから、聞いてみるといいよ」
と親切に教えてくれた。
警察官は、
「君は事故に巻き込まれた女性の身内ですか?」
と尋ねてきた。
僕は寒くもないのに震えの止まらない腕で、彼女の両親に折り返しの電話をした。
両親に何を話したのか、どんなふうに状況を説明したのか、よく覚えていない。
雨の中、整理のつかない気持ちに支配され立ち尽くしていると、彼女の両親がやってきて、導かれるようにパトカーで僕たちは病院へ向かった。
救急センターのストレッチャーの上に、彼女が横たわっていた。
衣類は乱れ、汚れてしまっている。
頭と腕に包帯を巻き、乱れた髪をまとめていた。
「ご家族の方ですか? 救急センターの石井と言います。骨折はしていませんが、頭と腕を強くぶつけていたので処置しておきました。腹部エコーなどには異常は見られませんが、念のため、明日の朝一番で脳のCTとMRIの検査を行い、専門医に診てもらいます。急変する可能性もありますから、一泊の入院を勧めますが、どうされますか?」
彼女は泣いている。
止めどない涙は、事故の恐怖によって流れる涙だろうか。
僕に振られたときから流している涙だろうか。
僕にも分からない。
僕がいることに気がついた彼女は、母親だけを呼び、耳打ちをした。
彼女の母親が、
「牧野君と二人で話がしたいそうなの。行ってあげてくれる?」
と僕に伝えにきた。
彼女に近づくと、大きな黒目から真珠みたいな粒の涙が頬を伝い、白いシーツに大粒のシミをつくった。
僕は何も語りかけるセリフが浮かばなかった。
けれど、どうやら無事そうな彼女を目の当たりにして、心の底から安心している自分がいた。
散々迷った末に、
「大丈夫だった?」
とだけ、言葉を絞り出した。
「追いかけて来てくれると思ったのに、なんで私のこと一人にしたの? サイテーだよ! 私、マー君が追いかけて来てくれないかなって立ち止まって、後ろを振り返ったの。そしたらパネルが落ちてきた。あのとき、私にあんな場所で別れ話なんかしなければ、私は怪我しなかった! そうだよね? なんで一人にしたの? なんで、すぐに助けに来てくれなかったの?」
僕は何も答えなかった。
「もういいよ。本当の私を本当に好きになってくれる人なんて、どこにもいないの! マー君なんて大っ嫌い! こっちへ来ないでよ! 帰って!」
彼女は発狂した。
異変を感じた看護師がこちらへ近づき、
「大丈夫ですか?」
と心配している。
彼女の発狂は待合室まで届いたらしく、彼女の両親が駆け寄ってきて彼女をなだめた。
彼女は、見捨てられて小刻みに震える仔猫みたいに小さくなった。
僕はあまり動揺していなかった。
彼女の発狂や暴言なら何度も浴びている。
でも、なぜか彼女の両親は動揺していた。
僕は待合室に戻り、何事もなかったように座ると、彼女の母親が声をかけてきた。
「牧野君、ちょっといいかしら?」
僕は頷いた。
「あの子ね、本当は私たち夫婦の子どもじゃないのよ。あの子から聞いてる?」
「……いいえ、初耳です」
「あの子の母親はね、私の歳の離れた末の妹なの。でも、あの子を育てられなくて、施設に預けたままいなくなってしまってね。私たち夫婦には子どもがいなかったから、五歳になったとき、あの子を引き取ることにしたの。施設でも良い子だったけど、我が家に来てからも、ワガママひとつ言わずに本当に良い子でね。でも違うのかもしれない。あの子は、誰にも自分のワガママを言えなかったのよね。あの子の、あんな取り乱した姿、初めて見たわ。悪い子じゃないのよ? きっと牧野君に甘えているんだと思うの」
僕は絶句した。
そして彼女の両親に、
「今日のところは帰りますね」
と伝えて自宅に帰った。
一人暮らしのマンションの真っ暗な部屋のソファに座り、電気もテレビもつけずに、僕は佇んだ。
僕は怖かった。
彼女を失うことが怖かったのだろうか。
別れた瞬間から他人になったはずなのだから、同情する余地などなかったはずだ。
でも、彼女の笑顔にもう会えないのかもしれないと思った瞬間、身体が動いていた。
そして僕は、心の底から腹を立てている。
身震いがするほど腹立たしい。
なぜ、僕にだけ自我を出すんだ? と。
そもそも自我とはなんだろう。
という当たり前すぎる謎が、僕の中に生まれる。
僕は誰に自我をぶつけているのだろう?
いや、誰にぶつけていたのだろう。
――という、自分自身の自我の謎だ。
僕は翌日、実家に電話をかけ、母親に僕自身の自我のことを尋ねてみることにした。
「え? 子どもの頃のこと? 覚えてないの? あんたは生まれたときから夜泣きはひどいし、おっぱいは飲まないし、ちょっと動けるようになってきたと思ったら、目の前にあるものは全部手に取って粉々にするし、おもちゃはボロボロに破壊するわ、食べ物は見事に全部ひっくり返すし、育てるのホンットに大変だったんだから。託児所に連れて行くと保育士さんに嫌な顔されて、お母さん育児ノイローゼになりかけたのよ? なのに不思議よねぇ、小学生になる頃にはすっかり優等生になっちゃって。幼稚園ではあんた、モンスターってあだ名つけられてたの、本当に覚えてないの?」
そういえば僕は、確かにモンスターと呼ばれていた。
保育園の若い女性の先生をからかっていじめるのが好きだった。
トカゲを捕まえて先生のエプロンのポケットに入れたり、先生の携帯をこっそり盗んで泥団子で固めたり。
おそらくクソガキだっただろう。
でも、僕は多分、その先生が好きだった。
そして僕の標的になった先生は、僕を嫌ってとうとう保育園を辞めてしまったんだ。
昨夜、彼女に送ったメッセージは既読になっていたが、返事がない。
彼女はヘソを曲げているのだ。
僕は仕方なく花屋に寄って、彼女が大好きな緑色の花を選び、小さなアレンジメントを作ってもらった。
仕上げてもらったアレンジメントを眺めて、出会った頃の出来事を思い出した。
それは、僕のマンションに彼女が初めて遊びに来た夏の日のことだ。
最寄駅に迎えに行くと、白いワンピースを着た彼女は緑色の花束を持って立っていた。
暑い日差しを反射させるように、白い清楚なワンピースに緑の花束が、彼女をさらに白く美しくした。
あれは、まだ彼女が悪魔だとは気づいていなかった頃だ。
まだ彼女の本性を知らない僕が
「ごめん、待たせてしまったかな?」
と声をかけると、彼女は
「大丈夫」
と恥ずかしそうに照れると
まつ毛をそっとしならせ下を向いた。
つづく♡
寄稿者
編集長後記
今回の第五章は、「別れ」と「未練」と「理解」が、同時に押し寄せてくる回でした。
事故という出来事は、ただの不幸では終わらず、二人の関係の“歪み”をはっきりと浮かび上がらせます。
彼女の言葉は理不尽でありながら、どこかで「そう言うしかなかったのではないか」とも感じてしまう。
そして明かされる過去。
“良い子”であり続けた彼女と、“モンスター”だった牧野。
どちらも極端で、どちらも本当で、どちらも未消化のまま大人になってしまった二人です。
だからこそ、この物語は単なる恋愛では終わらない。
「人はどこで自我を押し殺し、どこで爆発させるのか」という問いが、静かに読者の側へ渡されていきます。
次章では、牧野が“自分自身”とどう向き合うのか。
そして彼女との関係に、どんな選択を下すのか。
その答えは、まだどこにもありません。
文芸高校出版部 編集長 兼 用務員
風間静人(静月)
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