縄文エコミュゼへの道 03|なぜ、いま縄文なのか?
差別、貧困、環境破壊、そして今も続く紛争など、国際社会には様々な問題が存在しています。
SDGsをはじめとする国際的な取り組みも一向に効果がなく、問題の根は大きくなる一方。なぜなら、それは制度や技術的な問題ではなく、どのような世界観で生きるのかという「根本的な問い」が抜けているからではないでしょうか。
人は自然の一部であり、自然がなければ一刻も生きられない小さな存在。
食料となる動物や植物だけでなく、水も土も鉱物も。すべての自然に人は支えられています。その当たり前の事実を、いつしか人は自然とは別の存在と誤認し、管理する側に立ってしまった。
この誤認と傲りに、あらゆる問題の根があるのかもしれません。
こうした自然との分断を疑い始めているのは、近年の思想や科学の世界でも同様です。
フランスの哲学者であり社会学者でもあるブルーノ・ラトゥール(1947-2022年)は、アクター・ネットワーク理論(ANT)において、社会は人だけではなく、全ての自然、環境、物質などあらゆるものがアクターとなり、絶えず変化するネットワークで構成されていると述べている。つまり、自然と人の社会という区別自体が幻想ということを述べています。
縄文はこの区別を最初からしていません。
豊かではあるが、厳しい自然環境のなかで暮らした狩猟採集文化にとって、それは当たり前のこととも言えます。
食べた貝の殻、魚や動物の骨が堆積した「貝塚」は、これまで「ゴミ捨て場」と考えられてきました。しかし、いまでは、かつて「命」であった食べものに感謝し、その魂をあの世へ返す「送り」の場と解釈されています。なぜなら、多くの貝塚から、祭祀で使う骨角器や貴重なヒスイの装飾品が出土し、さらには人の墓もつくられ墓地となっているからです。
こうした状況は、食べものとなった生き物に対してだけではありません。同じように、一見するとゴミ捨て場のように見える「盛土遺構」は、膨大な量の壊れた土器や石器などの道具類が堆積した場所。そこにも人の墓がつくられています。
おそらく、縄文時代の人々は、人だけでなく、動物や植物、そして土や石などで作られた道具にも祈りが宿っていて、その役割を終えたときには、感謝してその命をあの世へ「送る」という行為をしていたのでしょう。
こうした文化的メンタリティは、近代の日本の中にも垣間見ることができます。
食事の前に何気なく発する「いただきます」という言葉は、単なるマナーではなく、自分の食べものとなった命への感謝の気持ちを表しています。また、現代も針供養、鋏供養、包丁塚などの道具に対する感謝を示す儀式が行われています。これらは、もちろん縄文時代から続いているものではありませんが、どこか共通の価値観が感じられます。人間と自然の関係が、ある条件のもとで自ずと生まれる形、まさにゲーテの言うUrform(原形)。
こうした記憶が現代まで環流しているからこそ、縄文の実践知は単なる過去の話ではなく、西洋との対話における言葉になりうると考えています。
一方、イギリスでは、「自然の権利」運動(Rights of Nature)が急速に展開しています。
2023年春にUK Rights of Nature Networkという組織が発足し、法律家、学者、アーティスト、活動家など多分野の人々が集まり、自然を法体系・統治・意思決定に組み込もうという運動です。
具体的には「Interspecies Council(種間評議会)」という市民集会モデルがイングランド南部のウーズ川流域のコミュニティで実際に使われ始めており、意思決定を人間中心から複数の種の利益を代表する方向へと転換しようとしています。「Nature's Rights Bill」という法案も準備されており、自然に法的地位を与え、人権・経済的権利を自然の権利の中に埋め込む統合的な枠組みを目指しています。これはラトゥールの思想に法的根拠を与え、制度化する動きともいえるものです。
西洋が悪化し続ける環境問題に直面し、「自然に権利を与えよう」と必死になっている状況。一方、縄文社会は、自然と権利関係を結ぶ必要がなかった。そもそも分けていなかったのだから。
ここに、「東洋の過去と西洋の未来の接点」があるのだと思います。
縄文は過去の物語ではありません。現代が、ようやく縄文に追いついてきたのでしょう。
ただ、ここではっきりと提示しておきたいことがあります。
それは、どちらの価値観が良い悪いということではありません。状況に応じて選択できるのが人類の叡知。そのことを私はどこまでも信じています。
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