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人は、もっとも小さな自然 06|縄文エコミュゼへ

知識ではなく身体と感性で「生の感覚」を呼び戻す

私たちは長い時間をかけて、世界を「人とそれ以外」に分け、整理し、効率化することで近代という巨大なシステムを築き上げてきた。その過程で多くの利便性を手に入れたが、一方で、一つの命が終わり、自分の命へと繋がっていく「変態のプロセス」は不可視化されてしまった。私たちが失いつつあるのは、単に自然保護の精神ではなく、自分が自然に支えられて生きているという、ごく当たり前の「命への手触り」である。

いま、社会に問われているのは、SDGsなど、新しい制度や技術的な解決策ではない。どのような価値観をよりどころに世界と向き合うのか、という根本的な姿勢である。「発展」か「循環」なのかという二項対立の罠に陥るのではなく、人が自然という巨大な円環の「内部」にある存在であると再認識できるか否か。それが現代に生きる私たちに問われている。

縄文時代の人びとは、人と自然を切り分けることなく生きていた。人は、動物や植物だけでなく、土や石、水や風といった自然の輪の一環であり、全てが繋がっている。彼らにとって、それは「知識」ではなく、身体知として、生活の隅々にまで染み込んだ感覚だったのである。

縄文エコミュゼとは、例えば、食品を手にする時、デジタルな決済音にかき消されてしまった「生の感覚」を、現代においてもう一度呼び覚ますための試みである。それは既存の文化財保護の枠組みでも、ましてや消費されるだけの観光振興でもない。人が自然の外部に立つ「管理者」という立場ではなく、自らを「もっとも小さな自然」として、世界との関係性を取り戻すための〈場〉の創出に他ならない。

私がフィールドとしている函館市の南茅部地域は、山・川・海が濃密に近接し、そのダイナミックな循環のなかに人の暮らしが営まれている。縄文から現在に至るまで、地形や水の巡りといった自然の構造そのものは現在も大きく変わっていない。この土地には、人と自然の関係が、分断されることなく重なり合ってきた一万年の時間が層をなして堆積しているのである。

私たちの縄文エコミュゼが目指すのは、新しい価値を外から持ってくることではない。これまで私たちの心の奥深くを水脈のように流れながら、近代の合理的な論理のなかで忘れかけてしまった価値観を、もう一度見えるようにし、感性で受信できる「場」を創造することである。

そのための方法は一つではない。
縄文遺跡を訪れ、悠久の時間を感じること。食を通して「他者の命」が「自分の命」へと変貌する瞬間に立ち会うこと。そして、アートの力を通じて、人と自然の間に張り巡らされた見えない関係性を浮かび上がらせることである。アートはその見えない命の繋がりを感性の目で見えるようにし、確実に私たちに伝えてくれるだろう。

「人は、もっとも小さな自然」

このテーゼは、頭で理解する概念ではなく、心と身体で震えるように感じる経験そのものである。森や川や海の水の循環が豊かな生態系を形成し、私たちはその巨大な円環の中に、一つの小さな位相として生かされている。その視点を、知識としてではなく、身体と感性で「生の感覚」を感じ、自然への深い感謝を呼び戻すこと。

そこから、「縄文エコミュゼ」の真の実践が始まっていく。

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