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弱い僕が、少しだけ強い“俺”になるまでの話。

フルマラソンチャレンジ②


「今年も一人で走ってきたのぉ。ホノルルマラソン」
その一言が、当時の僕には胸に突き刺さった。

「……すごいですね」

2024年12月。
休日出勤の静まり返ったオフィス。
休憩室の窓に映る麻布台ヒルズは、あまりにも整いすぎていて——
自分が“世界の外側”に取り残されているような錯覚を抱いた。

彼女は、おっとりした雰囲気の奥に、芯の強さを秘めたタイプだった。

「君はぁ、走らないのぉ?」

期待を含んだ光が、まっすぐにこちらへ向けられる。
僕はその視線に一瞬たじろぎながら、平静を装う。

「走ってますよ。ランナーズハイも感じましたし……いつかフルにも挑戦しようと思ってます」

言いながら、自分でも驚くほど空虚な“模範解答”だと思った。

「ほんとうー!? だったらぁ、いつか一緒に走ろうね!」

弾む声。
まっすぐな期待。
けれど、その思いを受け止める勇気は、当時の僕にはなかった。

日当たりの悪い休憩室には、
週末の都心特有の寂寥せきりょう感が薄く漂っていた。
その影が、そのまま当時の僕自身を映し出しているように思えた。


■ あの頃の僕は、走れなかった

確かに、走ってはいた。
だが実態は、

「少し走る → 苦しくて歩く → 情けなくて立ち止まる」
その繰り返しだった。

走れない理由を、僕は“身体の問題”にしたがったけれど、
本当はちがう。

目的はなく、続かず、自信がなく、
そして何より——自分の人生そのものに向き合えていなかった。

「どうせ自分には無理だ」
「やっても意味がない」
「続けられるわけがない」

そんな言い訳を、心のどこかでいつも探していた。

少しでも前に進もうと走り出しては、
苦しくなった途端、歩いてしまう。

その姿がまるで、あの頃の僕の人生そのものに重なって見えた。

生きていた証を残したいと焦る一方で、
何かを始めては“これじゃない”と投げ出してしまう。

挑戦する勇気も続ける力もなく、
“望む人生の入り口の前”から、一歩を踏み出せなかった。

弱かった。臆病だった。そして——
どこかで自分の人生を、静かに諦めていた。


■ 2025年春、自分を立て直すために「走る」と決めた


2025年4月下旬。
会社を退職し、長いようで短い“有給消化期間”に入った。

人生で初めて、会社に依存せず生きる時間を得たはずなのに、
胸の奥には、妙な空洞があった。

「働いていない自分」への後ろめたさ。
「自由なはずなのに、どこか落ち着かない」という感覚。
誰にも叱られないのに、自分だけが自分を責めていた。

ぼんやりした不安を紛らわせようと、
YouTubeを見たり、本を開いたり、掃除を始めたりしたが、
どれも心の奥に積もる“おり”のような重さは消えなかった。

そのとき思った。

——このままじゃ、何も変わらない。

焦って稼ぐ前に、
誰かに認めてもらうためにもがく前に、
まず“自分という土台”を立て直さなければいけない。

目先の収入よりも、
短期の成果よりも、
これから長く生きていくための“自分の基盤づくり”のほうが先決だ。

そして気づいた。

僕が本当に向き合うべき相手は、
他人でも社会でもなく——
「昨日の自分」だった。

だから僕は決めた。

「努力すれば届く目標を設定し、それをひとつずつ確実に達成する」

それが、長い空白期間から立ち上がるための、
僕なりの“最初の一歩”だった。


■ 小さな成功が、自分を「弱い僕」から「少しだけ強い俺」へ連れていった


3ヶ月で8kg痩せた。


ハーフを2時間以内で走り切った。


ネット麻雀「じゃんたま」雀豪3(麻雀中級者)到達(2025.12時点)。


ピアノも続けている。


別に劇的に人生が変わったわけじゃない。
ただ、このささやかな成功の積み重ねが、僕の内側に静かに変化を起こしていった。

相変わらず弱いところは多い。
他人の顔色を伺ってしまうし、本音を飲み込むクセも抜けていない。
感謝を素直に言葉にできず、ふとした拍子に理由もなく落ち込むこともある。

でも、以前と決定的に違うのは——
落ち込んだ自分を放置せず、その理由をちゃんと見つめられるようになったことだ。

最近、ジャーナリングを再開した。

書籍「ゼロ秒思考」の実践。

ひたすらA4に書き出していくと、不安の正体が輪郭を持ち始める。
感情という“もや”は、言語化されるとただの“タスク”になる。
すると、そのタスクに小さなアクションプランをつけられる。

心に余白が生まれ、焦りに飲まれなくなる。
これは本当に大きな発見だった。

ネガティブに傾く瞬間は、今もある。
だけど、そうした瞬間に、

俺、いま『陥っている』な

と気づき、小さく姿勢を正せるようになった。
弱さを否定するのではなく、柔らかく扱って前へ運ぶ感覚に近い。

気づけば“弱い僕”は、少しずつしなやかで折れにくい“俺”へと変わっていた。
ほんの少しの変化だ。
でも、大きな一歩だった。


■そして俺は“走る意味”を知った



健康維持だけなら、ウォーキングや軽いジョグで十分だ。
正直、それで問題なく人生は回る。

だから俺は、マラソンを“特別な何か”として神棚に祀るつもりはない。
走ったからといって人生の全部がうまくいくわけじゃないし、誰にでも勧める万能ツールでもない。

それでも——
俺は、あえてマラソンを選んだ。

走り続ける過程で、嫌でも自分と向き合わざるを得なくなる。
そこで鍛えられるのは、タイムでも記録でもなく、もっと根っこの部分だ。

・続ける力
・折れそうな時に踏みとどまる力
・弱い自分を直視する勇気
・小さな達成を積み重ねて、自分を信じられる感覚

こうしたものは、マラソンのためだけの技術じゃない。
人生を生き抜くための“基盤”みたいなものだ。

人生は相変わらず思い通りにはいかない。
不安はあるし、自信が揺らぐ瞬間なんていくらでもある。

でも、走るたびに思うんだ。

「ああ、まだ俺はいける」
「ゆっくりでも進んでいれば、大丈夫だ」

走りながら、そんな小さな確信を積み上げていく。
その感覚が、俺にとっての“走る意味”になった。


■ なぜ俺は、これからも走り続けたいのか


走ることは、決して万能ではない。

健康のためだけなら、マラソンは“最適解”じゃない。
長時間の強い負荷は免疫を一時的に下げるし、
ケガのリスクだって決して軽くはない。

だから俺は、走ることを美化しない。
「走れば全部うまくいく」なんて、そんな都合のいい話もしない。

俺はこれまで、膝を三度痛めた。
そのたびに無理をせず、時間をかけて回復し、またゼロから走り直した。

(ケガ予防ため、noteのランナーさんの記事を参考にした)


それでも、走り続けたい理由がある。

走るたびに、昨日よりほんの少しだけ前へ進めるからだ。
1秒でも、1キロでも、気持ちでも体力でもいい。
“成長が目に見える” という確かな実感が、俺の中の何かを静かに変えていく。

「賢者は少しの進歩を喜び、愚者は結果を求める。」

焦って結果を求めても、身体はついてこない。
成長とは、特別な才能でも奇跡のような瞬間でもなく、
“昨日より1ミリだけ積み重ねる” という極めて退屈で地道なプロセスと悟った。

正直に言う。
他人をうらやむ日なんて、いくらでもある。

自分より速い人、強い人、すごい記録を出す人を見ると、
嫉妬心がゼロになるなんて、ありえない。

でも、その嫉妬に意味はない。
他人は他人だ。
俺は、昨日の俺に勝てればそれでいい。

走っていると、自分の弱さに何度もぶつかる。
その弱さと向き合い、一歩だけ乗り越えたとき、
「昨日より強い俺」が確かにそこにいる。


だから俺は、走る
速くなくていいし、かっこよくなくてもいい。
ただ、自分自身を積み重ねるために走る。

2026年11月8日。
ちばアクアラインマラソン。
歩かずに完走することを、次の目標にした。

これはただの挑戦じゃない。
俺が俺の人生を、もう一度ちゃんと走り直すための旅だ。

ここからまた、静かに走り出す。


【おまけ】僕がメンタルを整えるために再開した習慣

文章中にも少し触れたけれど、最近「ゼロ秒思考」を改めて実践しはじめた。
頭のモヤモヤを言語化するあのメモ書きは、走ることと同じくらい、心の余白を作ってくれる。

正直、走り始めた頃より今のほうが精神が安定している。
その理由の半分は、走ること。
もう半分は、この習慣だ。

※この記事はAmazonアフィリエイトリンクを含みます。

更新履歴
2025.12.13 じゃんたまの段位を更新

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