梅雨入りしたばかりの雨降りの空をながめつつすでにきもちは明けたのちの台風のほうへとうつりはじめる
はじめに
さて、梅雨入り。せんたくしようか、どうしようかと窓の外の空を見上げる。空が明るくしとしと降る程度、あるいは降ったり止んだりならば決行し、ベランダに干す。迷ったら決行するほう。梅雨の時期は空をみつめる、気象情報にアクセスする機会がいつも以上にふえる。雨降りでの振る舞いがその日の行動に直結するから。
雨の予報しだいでボランティアの研究サポートを前日のうちにお休みすると報告する。自身でおぼつかず身動きしづらい両親のホテル避難にそなえて。ことしもいよいよ油断のならない季節がやってくる。
きょうはそんな話。
梅雨らしい
ことしはいつも以上に最初から雨のよく降る梅雨。週間天気予報に雨マークがずらり。ただし週2~3回の研究サポートの通勤に傘をささずに行き来できているからふしぎ。
例年ならばつねにわたしの頭の上に雲があり、陽がさしていても外に出て暫く歩くと降りはじめるほど。つねに傘、靴や服まで濡らして帰る始末。部屋干し中の洗濯ものが増えていた。
こんなときになぜかふとんを干したくなる。からりと晴れた日を想像しながらうらめしく空をながめる。
こんなものだった
しとしと雨がつづく。それが本来の梅雨だったような。うすら寒い小雨のなか、ガタガタふるえながら学校のプールにはいる。そんな日々だった記憶が。それがどうだろう。ことしはこれまではわりとおとなしい部類だが、年によっては豪雨をもたらす。どこか尋常でない。
激しく降ったり、かと思えばぴったり止んだり。まるで熱帯のスコールのよう。これもむかし、梅雨が明けて真夏がやってきたときの夕立ちのような降りかた。ぬれた土のにおいが同時にやってきた。
それぞれの時季に特有などこか季節の特徴を感じられる雨の降りかただった。過去形で示さないとならないのは、年間を通じて雨の降りかたが風情を感じるような生やさしいものでなくなったから。いつも激しさや極端をもちあわせ、時節柄を感じる余裕など年間通じて感じにくくなった。
物語のなかで
そんなふうだから、すこしまえの文学の作中で著される雨の表現のイメージが、伝わりにくいかも。「春雨(はるさめ)じゃ、濡れていこう。」というせりふの奥に秘められた微妙なこころもちが、いまの降りかたではどうもそぐわず、コメディになりかねない。「春雨」だからこそ、微妙なかげんでじんわり伝わるし、名ゼリフになり得る。
雨の降りかたひとつとっても、このクニの文化と密接で、切っても切れない関係がある。それらをはたして、年がら年中激しさばかりの雨で今後伝えていけようか。こんなところにも影響しそうな状況になってしまったのかと残念なきもちになる。
おわりに
農業をやっていたころは多少の雨のなかでも作業を中断せずにやっていた。すでにそのころから年々、おかしいなを感じつつあったのはたしか。それでも野菜やくだものたちはある程度耐えながら実りを授けてくれた。
作物に日々接していると、やめて離れてしまった今よりも変だなと感じたり、いつもの年ならばできたことが通用しなくなったり。さまざま微妙でこまかなことまで経験できた。それから幾数年、もっと頻繁に変だなと感じるようになったのはたしか。いつおさまるだろう。もはやもとへはもどらないのでは。こどもたち世代を思うと、みずから対策を打てないはがゆさと責任を痛感する。
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