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理系か文系かの境界線を飛び越えて、誰かの「思考のプロセス」を追体験する読書の話



はじめに


 これまで経験してきたことは、何ひとつ無駄にならない。私にとって、その最たるものが「読書」。 何度も読み返すお気に入りの一冊でも、図書館でふと手にとった新しい一冊でもいい。もはやジャンルなんて選ばなくていい。理系重視の昨今。理系とか文系とか、そんな境界線は一度忘れてみては。おもに高校生や大学生に向けて。

きょうはそんな話。

「頭の中」を覗き見るということ


 どんな本にも共通していることがある。それは「誰かが何を考えていたか」が記されているということ。 著者がどのような着想を得て、どう悩み、どう結論へと至ったのか。そこには特定の思考の過程や変化が、生々しく刻まれる。

小説や学術論文はもちろん、絵本や探検記だって同じ。文字だけでなく、図や表、写真を通して、彼らは自分の世界を懸命に伝えようとする。ただ、ひとつだけ覚えておきたいのは、人間に与えられた時間は有限だということ。読書に充てられる時間は、文字通り限られている。どの本を手に取ろうかと逡巡するあいだも、時は刻々と過ぎていく。

限られた時間を、どう使うか


 もちろん、人生には本を読む以外にも楽しいことがたくさんある。ゲームもしたいし、美味しいものも食べたい。友人との語らいも大切な時間。 特に理系の道を志す人ほど、「読書は文系の人がやるもの」という錯覚を抱きがちかもしれない。

でも、それは誤解で本を手に取ることに文系も理系もない。むしろ、かつて私の周囲にいた理系の学生たちの部屋には、専門書とは無縁の本がかなり多く並んでいた。彼らがどんな内容であれ、膨大な文字と向き合ってきたことの証。

本に埋もれる経験を


 もしよかったら、一度でいいので「本に囲まれる」経験をしてみてほしい。 飲み食いするその隙間に本を開く。それだけで、まるで窓を開けた時に吹き込む風のように、自分とは違う「ものの見方」や「捉え方」が思考のなかに混ざり込んでくる。その積み重ねは、生身の人間との対話に匹敵するほどの威力を持っている。

本という「他者の想い」に触れる旅は、部屋に籠ったままでもできる。思考の一端に触れたとき、「なぜ著者はこの本を書こうと思ったのか」という目論見や意志が、ふと感じられる瞬間がある。 すると、その筆者の世界をもっと知りたい、浸りたいと思うようになる。そんなふうに別の著作に出会えたときの高揚感といったら、ほかに代え難いものがある。 これこそが読書の至福の部分。

おわりに


 良書に出会うには、多読しかないのかもしれない。ときには途中まで読んで、そのまま本棚に眠ることもあるかもしれない。 けれど、歳を重ねてから再度ページをめくると、以前は理解できなかったことが驚くほどすんなりと心に落ちてくることがある。ようやく筆者の波長と同調できた――そう感じられる瞬間。

経験がものを言う場面もある。大人になってビールの苦みを嗜むように、子どもの頃には分からなかった良さが、今の自分には分かる。筆者とのすれ違いもあれば、あとがきを読んでようやく人となりに触れられることもある。 そんな一期一会の巡り合いこそが、読書の醍醐味ではないだろうか。

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