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発展するテーマと廃れていく項目と:研究や開発にもいろいろあるので「学び方」を身に着けよう


はじめに

 理系の多くの分野において、大学や大学院で学んだ内容や技術がそのまま社会に出て活かせることが最善であるのは間違いない。そこから先のキャリアで新しい知見を獲得していくための「糸口」になれば、なおさらと思う。

とはいえ、学んだことがそのままストレートに通用する場面ばかりではない。だからこそ重要になるのが、大学時代に知識そのものだけでなく「学び方(対応力)」を身に付けておけたかどうかではないか。

今回は、そんな「学び方」と「研究・開発における技術の巡り合わせ」について少し書いてみたい。

やってきたこと・やれること

 自分自身の感覚として、先端分野のスピードに頭がしっかりついていけるのは、あと10年ほどではないか……と感じている。専門分野ですら日々知識を更新し続けて、ようやくギリギリ追いついているような状態がずっと続いている。

現在の学生たちを見ていると、本当に頭が下がる思いがする。電話帳(という例え自体、いまやピンとこないかもしれないが)のような厚みのテキストを何冊も抱え、日々講義室を行き来している。若いからこそ、あの圧倒的な情報量とスピード感でも日々吸収し、頭と身体を適応させていけるのだろう。

私の場合、途中で研究の仕事から15年ほど離れた時期があった。だからこそ痛感するのだが、一度離れた人間が再び研究・開発の道に戻り、その間に進展した技術に追いつくのは並大抵のことではない。今もなお、その必死なキャッチアップは続いている。

見方を変えると

 ただし、若い頃と同じようにはいかない一方で、齢を重ねた分だけ「少しだけ要領が良くなった」と思える部分もある。

自分が現場を離れていた15年の間に「新しく生まれて、あっさり廃れていったもの」には深入りせず、「残り続けて生き残ったもの」を優先して学ぶという割り切りができるようになったこと。時間と体力に余裕があるときにだけ、廃れたものを横目でチラリと確認すればいい。このアプローチをとることで、限られた時間でもかなり効率よく学び直すことができると感じる。

もちろん、15年の空白期間と現在をなめらかに繋ぐ「綻びの縫合」は不可欠と思う。 「なぜその新しい考え方や技術が、既存の課題から派生して生まれたのか?」 という文脈(ストーリー)を理解すること。突飛な形で突然生まれる新技術など、そんなに存在しないから。

いずれにしろ

 もう若くはないし、残された時間も限られている。 だからこそ「残された時間でいかに効率よく学び、自分のものとし、そこから新しいものをひとつでも見いだせるか」が勝負になる。

しかし、自分にどこまでできるかは、我が身が一番よく知っている。5年、10年前を振り返ったときに「どれだけのことが達成でき、そこから何を生み出せたか」を思えば、今後10年で到達できる限界もおのずと見えてくる。

おそらく、いま抱えている案件の「すぐ先」あたりが、私が直接届く最後の場所かもしれない。

そう実感したとき、その先の長い未来は若い人たちに託すほうがいいのだと自然と納得がいく。自分ひとりで完結させようとする必要はもはやない。託したバトンを受け取った若い人たちが、その先をどう展開するかは彼らの判断に委ねればいい。私が余計な口出しをする必要はないと思っている。

おわりに

 いま発展しているテーマは、過去に誰かが切り拓き、大切に温め続けてきたものと言える。一方で、廃れていく項目の中には、このまま誰の目にも触れられなくなるようなものもある。

しかし一見すると「古くて誰も見向きもしなくなったもの」の中にこそ、未来を開く大切な鍵がひっそりと眠っていることがある。

せめてこれからを生きる若い人たちには、一見して時代遅れに見えるものや、一度表舞台から離れてしまったものに対しても、ふと目を向けるような柔軟な興味・関心を持ち続けてほしいと願う。

研究や開発にはさまざまなアプローチがある。こうした「温故知新」を含めた学び方を身に付けておくことも、決して悪くはないはず。


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