見出し画像

どうやら理系に関してはこのクニの言葉でほぼ最先端の学術用語で学べるようだが


はじめに


 明治以来、このクニでは諸外国の技術をとりいれ、解釈し身につけてきた。それは連綿と受け継がれ今に至る。ところが一部にちがう動きがあらわれた。たとえば高校では、基本的に英語の授業は英語でおこなうように。

ある大学の專門課程では日本語ではなく英語ですべて講義がおこなわれるという。一部の講義を英語でおこなう大学院もある。それらについてひととおり考えた。

きょうはそんな話。

このクニのことばで


 小学校から大学まで授業や講義は、基本的にこのクニのことばで語られた。わたしは学校英語をネイティブのティーチングアシスタントがついて教わっていない世代。つまりほぼこのクニの先生方からそのまま母国語で教わってきた。

そのために、正確な学術用語や専門用語の英語は高校以降、いや大学で照合しながら覚えたといっていい。專門ごとに同じ単語であっても意味が異なると知った。たとえばおなじ化学の分野でも、’activity’という語は生化学では酵素活性など「活性」と訳しがち。ところが物理化学では「活量」と訳す。あきらかに両者の日本語で科学上の意味はまったく異なる。

ふだんのままで


 さて、日本語でものごとの理解をすすめる行為は、こどものころから培ってきたことばの概念の延長線上にある。つまり新出語について既得のやさしい語に置きかえ、自分なりに解釈できる。

小学校以来ほぼおなじ概念を発達段階に応じ、より高次でふさわしい語に置き変えくりかえし教わり、使いわけられる。かみくだいたことばで記された書物や説明がなされ、理解が深まる。

とはいえ、なかにはこどもたちがとらえにくい語も登場する。たとえば算数で登場する「もとにする量」(base quantity)や「くらべる量」(quantity being compared)など。こうした「割合」の単元で登場する概念は文章題のなかで把握しづらい。

ほかにも


 のちに中学校で習う「確率」を、かなり以前の小学校では「ものごとのおこる確からしさ」と教わっていた。これもなかなか理解しづらい言葉だった。現在は小学校では習わないそうだ。

もちろんそれまでの日本語にない概念などは日本語の熟語で造語(「文明」、「自由」など)したり、カタカナでそのまま外来語として表記したりして、あらたな意味をなす言葉として登場する。それらは各々が登場するたびに定義される意味合いを各自でつかむ必要がある。その語のもつ概念を理解するとみずからあやつり使えるようになる。

英語のままならば


 最近、英語をそのままあたまに流すとよさそうだという機会があった。英語を日本語に訳しつつあたまに入れるプロセスがまどろっこしく、「ひと手間多い」と感じたから。たとえば英語を話すようすの動画。最初はボタン操作で同時に日本語のテロップを表示させていた。ところが文字を追うと画面の話者と目を合わせられない。

「目は口ほどものを言う」はまさにそのとおりで、表情の情報を得ることができない。そのため話の一部の内容が伝わってこないと知れた。むしろ英語のまま受けとり、そのまま頭にいれる。とくに形容詞のニュアンスなどは日本語に訳さないままのほうがしっくり伝わりやすい。

それ以来、日本語訳のテロップをほとんど表示しなくなった。そのままじかに受けとる。

ときと場合による


 いまのところ日本語のほうがいい場合と、英語のままがよい場合のいずれもありそう。気軽にコミュニケーションする場合はじかにゼスチャーや顔の表情込みでそのままがよさそう。

英語の論文に目を通す場合は両方ありそう。さらっと概略を知りたいならばななめ読みするほうがいいし、じっくり内容を汲みとりたいならば、わたしはやはり日本語に正確に訳したうえで知るほうがよさそう。

講義を英語でやるとどうだろう。かえって上で触れたように、聞く立場のヒトが英語をどんな位置に据えるかによってちがいそう。たとえば深くこみいった内容を果たして英語のままで教われるものかどうか、以下の点からすこし考えたい。

さらに考える


 ある大学の専門領域の範囲で、英語で主に講義する方針を定めたらしい。果たしてどうなるか。小学校から高校まで積み上げてきたものとの整合性を図るうえで、理解の段階やタイミングのどこでそれをやるかは悩ましい。

たとえば上にあげた英語のみの大学の課程を卒業して、日本の学校や企業で働く場合。高校以下の児童や生徒には日本語の用語で教えることになる。つまり大学で身につけた語(英語)を、逐一日本語の概念へと再変換したうえで理解し直し、しかも高校生までがわかる用語として教えねばならないだろう。

その作業は、つねに大学の用語との整合性を頭に入れて説明する点では今までと変わりない。日本の企業で働く場合もそうなりそう。その多くはいままでの学校でやってきたことのほぼ逆の筋道。

大学でいったんその語に対する日本語での理解が備わらないままいわばとぎれて教える立場になる可能性が出てきそう。その教師は「穴埋め」を個々人でやらねばならなくなる。もちろん研修などを受ける機会はありそうだが。どこか文明開化のころにもどるような…。

おわりに

 ほんとうは英語で考え、発語し、リスニングし、執筆できれば申し分ない。でも大学だけでそれをやるのはなかなか難しい。心配しすぎかもしれないが、日本語の書籍、とくに高校生以下向けの啓蒙書や読み物を日本語で執筆する大学人がその大学の当該分野から出てこなくなりそう。

 おそらく実際には教える際、学習するそのときどきで臨機応変に母国語が混ざるのではないだろうか。rice ball (onigiri) のように。ただし寿司のシャリ(sushi rice)もrice ballの一形態のように見えるかも。

それらを日本人ならそれまでのさまざまな経験で即座に見分けられ、おにぎりにネタをのせないとわかるのだが…。ことばの修得において背景となる文化の素養の積み重ねがいかに大事かがわかる。それが大学のある期間、ことばの文化の上乗せぶんを学校でのせられなくなるわけで。

こちらの記事もどうぞ


広告


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集