そのやさしさは、誰のためのものか | 観察ノート 【職場編】
——「いい人そうな人」に疲れてしまう理由
営業時代、先輩からこんなことを教わった。
「本当にいい人は、いい人であることを隠している」
当時は、ちょっと極端な言葉だなと思った。
今も、この言葉がそのまま正しいとは思っていない。
最初から感じがいい人が、みんな危ないわけではない。人を助けるのが自然な人もいるし、その場にいる人が安心できるように、さりげなく気を配れる人もいる。
無口で目立たない人が、必ずやさしいわけでもない。
ただ、昔より気にするようになったことがある。
その人が「いい人そうか」ではなく、
その人のそばで、こちらの言葉がどう扱われているのか。
私は、そこを見るようになった。
以前の私は、人当たりのいい職場の先輩から、
「大丈夫?」
「何でも相談してね」
と声をかけられ、悩んでいたことを話した。
その言葉は、私の知らないところで別の人へ運ばれていた。それでも私は、
「話した私が悪かった」「信じた私が悪かった」
と、自分を責めた。
今回は、その経験をきっかけに、相談に乗るように近づいてきた人へ言葉を渡した時、それがどんなふうに使われることがあるのかを、もう少し整理してみたい。
目次
自分の言葉が「材料」にされる時
相談に乗るような形で、人の不満を引き出す人がいる。
「大丈夫?」
「何かあった?」
「私には言っていいよ」
「正直、どう思ってる?」
「みんなも言ってるよ」
そんなふうに声をかけられると、最初は味方のように感じる。自分のことを気にかけてくれているようにも見える。
自分からは言いにくかった気持ちを、相手の方から言葉にしてくれることもある。
「〇〇さん、ちょっとしんどいんじゃない?」
「最近、困ってるんじゃない?」
図星を突かれると、つい、
「そうなんです」
と答えてしまう。
話した側は、ただ少し聞いてほしかっただけかもしれない。誰かを責めたいわけでも、職場の問題として大きく訴えたいわけでもない。
その日のしんどさを、ほんの少しこぼしただけだった。
でも、その言葉が後から、
「〇〇さんも困っているそうです」
「現場では、そういう声が出ています」
「みんな同じことを言っています」
という形で使われることがある。
自分の意見として言うのは怖い。だから、誰かの言葉を借りる。
一人の不満では弱いから、いくつか集めて「みんなの意見」にする。
本人はそこまで言ったつもりがないのに、気づけば問題を訴えた人の一人にされている。
相談しただけのつもりだった。少し愚痴をこぼしただけだった。本気で問題提起するつもりではなかった。
それなのに、自分の言葉が、自分の知らないところで運ばれている。自分が話した時とは、少し違う意味で伝わっている。
巻き込まれた側からすると、これはかなりしんどい。
何を言ったかだけではなく、その言葉をどこで、誰に、どんな意味で伝えるかまで、自分の手元から離れてしまうからだ。
「みんなも言っている」という盾
本当は、自分が不満を持っている。
でも、それを自分の意見として言うのは怖い。
間違っていたらどうしよう。自分だけが不満を持っていると思われたくない。上の人から嫌われたくない。面倒な人だと思われたくない。
そう考えると、
「私がそう思っています」
とは、なかなか言いにくい。
そこで、誰かの不満を拾う。同じように感じている人を探す。
「私だけではない」という形にしてから、上に持っていく。
そうすれば、自分一人の意見ではなくなる。自分が矢面に立たなくて済む。
しかも、うまくいけば、
「現場の声を集められる人」
「みんなのことを考えている人」
として見てもらえる。
もちろん、本当に必要な現場の声を集め、上へ届けている人もいる。
職場の問題は、一人で抱え込むより、共有した方がいいことも多い。情報を集めることも、上司へ伝えることも、それ自体が悪いわけではない。
ただ、話した本人に確認しないまま、話が進んでしまうことがある。
どこまで伝えていいのか。名前を出していいのか。本人にも問題提起する意思があるのか。
それとも、その場で少し聞いてほしかっただけなのか。
そこを確かめないまま、
「〇〇さんも言っていました」
と使われる。
そうなると、話した内容が、本人の意図とは違う形で使われてしまう。
誰かが自分を守ったり、自分の意見を通したりするための盾に変わってしまう。
誰もが、自分を守るための癖を持っている
人には、それぞれ自分を守るための癖がある。
嫌われないように、いい人でいようとする。人の相談に乗ることで、自分の居場所を作る。誰かから頼られることで、自分の価値を確かめる。
周りのことを知っていると、少し安心できる。
たぶん、どれも珍しい気持ちではない。
私にも、必要とされたい時期があった。頼られると、ここにいていいような気がした。
人の役に立てば、自分にも価値があると思えた。
だから、その気持ち自体を悪いものだとは思わない。
誰かの話を聞く時だって、純粋な思いやりだけで聞いているとは限らない。
相手を心配する気持ちの隣に、
「私を頼ってほしい」
という気持ちがあることもある。
本人にも、どこまでが相手のためで、どこからが自分のためなのか、はっきりわからないのかもしれない。
私自身、昔はそんなところまで自分の気持ちを分けて見ていなかった。
必要とされたら、ただうれしかった。頼られたら応えたかった。自分が役に立っていると感じると、安心した。
でも、その気持ちが強くなると、
「話を聞きたい」の中に、少しずつ「情報を知っておきたい」が混ざってくる。
「みんなの役に立ちたい」が、「みんなのことを把握しておきたい」に近づいていく。
そして、人から預かった言葉まで、自分の居場所や立場を守るために使い始める。
そこに悪意があったのかは、本人にしかわからない。本当に心配して、話を聞いただけかもしれない。良かれと思って、上の人へ伝えたのかもしれない。
でも、
本人の了承なく、言葉が別の場所へ運ばれた。
そこは、なかったことにはできない。
相手の本心をずっと考えるより、自分の言葉が実際にどう扱われたのかを見る。
今は、その方がわかりやすい。
相手の本心は、わからなくてもいい
昔の私は、違和感を持つたびに考えていた。
「悪気はなかったのかもしれない」
「私の受け取り方が悪かったのかもしれない」
「でも、みんなはいい人だと言っている」
考えれば考えるほど、最後には自分の方が間違っているような気がしてきた。
相手を悪い人だと決めつけたくなくて、自分が感じたことを打ち消していた。
その人が、本当はどんな人なのか。悪意があったのか。私を利用しようとしたのか。
私は、長い間そこを考え続けていた。
でも、そこはもうわからない。
わかるのは、私が話したことが、私に確認されないまま別の人へ渡ったということ。
私の名前と一緒に言葉が運ばれ、そのあと、話が伝わった相手から強く当たられるようになったこと。
そこまでは、実際に起きたこととして見ていい。
相手の事情を考えることと、自分の受けた影響をなかったことにすることは違う。
悪気がなかったとしても、私はその人に安心して言葉を預けられなかった。
それだけはわかる。
だからといって、その人のすべてを否定しなくてもいい。
雑談をすれば楽しい人かもしれない。仕事では頼りになるところもあるかもしれない。
ただ、深い話は渡さない。いない人についての話には乗らない。
今は、それくらいでいい。
心を雑に扱わせないための、静かな距離
職場では、完全に関わらずに済む人ばかりではない。
だから今の私は、そういう人とも普通に話す。雑談をして、楽しい時は普通に笑う。
その人を嫌いになる必要もない。
ただ、いない人の話が始まった時は、少し引く。自分の深い話も、すぐには渡さない。
「何でも相談してね」と言われたからといって、本当に何でも話す必要はない。
しばらく関わっていると、その人が人の言葉をどう扱うのかが見えてくる。
聞いた話を、本人のいない場所で簡単に話す人なのか。誰かに伝える必要がある時、先に本人へ確認できる人なのか。
話したくなさそうな人の口を、無理に開かせようとしない人なのか。
信頼は、第一印象で決めなくていい。時間の中で、少しずつ見ていけばいい。
私が安心して話せるのは、何でも聞いてくれる人ではない。
私の言葉を、私の知らないところへ勝手に運ばない人だ。
そんな人になら、話したあとも、「言わなければよかった」と不安にならずに済む。
反対に、自分の言葉がどこかへ運ばれそうで、少し落ち着かないなら、その感覚をすぐに打ち消さなくていい。
人を疑いたいわけではない。
ただ、誰かを信じるために、自分の感覚まで消さなくていい。
自分の言葉を勝手に運ばれても、私は長い間、自分の違和感より相手の言葉を信じていました。
その頃のことを、こちらのエッセイに書いています。
▶ 私が感じたことは、いつも間違っている気がした|エッセイ
——自分の感覚より、相手の言葉を信じていた頃
そして、話したあとの後悔が何度も戻ってくる夜には、少しだけ考えることを休められる文章を。
▶ 小さな夜話|「言わなければよかった」と思う夜に
——信じた自分まで、責めなくていい
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