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新宿クレッシェンド【2004年度小説】著作権のある俺に断りもなく現時点で17500円?

2026/03/19 thu

新宿クレッシェンド

著作権のある俺に断りもなく新宿クレッシェンドが、現時点で17500円?
ふざけた値段で売っている業者ムカつくから、作品をタダで見せる。

何で印税もらえず、横浜と新宿で地獄を見た俺がこうなのに、こんな連中が利益を得ようとしてんだよ?

※トータル143,397文字の記事になります

2004/01/18~2004/02/04 原稿用紙371枚 18日間
手直し調整 2005/2/24 原稿用紙371枚分
再手直し調整 2006/10/08 原稿用紙402枚分
第一次校正 2007/09/22~2007/10/3 原稿用紙411枚分
第二次校正 2007/10/18~2007/11/2 428枚分
第三次校正 2007/11/8 428枚分で出版

第二回世界で一番泣きたい小説グランプリ受賞作品

 日本の景気?
 そんなもん、世の中、不況だろうが好況だろうが俺にはどうでもいい。
 今日もやる事がなく、家でただテレビをつけて横になっている。
 何かのドキュメンタリー番組で、やらせかどうかは分からないが、歌舞伎町特集をやっていた。本当、派手な街だ。ボーッと俺は、画面を眺める。
 二十四時間灯りが消えない街。新宿歌舞伎町。
「俺には関係ないことだ……」
 独り言をつぶやいて布団に横になる。すっかり肌寒くなってきた。もう十二月に入ろうとしている。
 現在、仕事もしていない状況で、わずかに貯めておいた金は、どんどん目減りしていく日々……。
 今の自分の現状が、嫌で堪らなくなる。
 目を閉じると、頭には昨日のことが思い出されてくる。
 
「もうっ、隼人なんか知らないから……」
「……」
 
 二年間付き合っていた泉にいきなりそう言われ、何も言葉を返せないまま、俺の前から走り去って行った。
 もう知らないからか……。
 確かに金も無い。仕事もしていない。…かと言って、特別、人よりこれが出来るという特技もない。俺には何もないのだ。
 何の価値もない男……。
 泉も、こんな俺に愛想を尽かしたのだろう。この先を見据えての決断だったのかもしれないな。
 まあ、俺にとっちゃ、昨日で唯一、セックスの出来る相手がいなくなっただけの話。
 別にあいつとやり直そうという思いなど、あるわけではない。二人にとって多分、昨日がいい潮時だったのであろう。強がりではなく、素直にそう感じた。
 風呂上りに鏡を見る。
 別に俺はナルシストではない。それでもつい、風呂上りに鏡を見てしまうことがしばしばあった。
 俺の顔には、右こめかみに三つの傷がある。
 鏡でこの傷を見る度、思い出される憎しみ…。
 力が無く、親の言いなりで無力だったガキの頃……。
 心の底から笑うことさえ許されなかったあの頃……。
 幼い頃を思い出すと、苦痛になる。いい思い出などありゃあしない。
 家は、裕福でも貧乏でもなかったが、食いたい物を腹いっぱい食ったという思いが一度もない。いつもビクビクしていた。思い出せば、思い出すほど惨めな過去だ。
 やめておこう……。
 思い出しても、辛くなるだけだ。
 
 気が付けば、二十五年も経っていた。振り返っても何一つ残っちゃいない。何一つ満足せずに、ダラダラと人生を過ごしてきた。
 本音を言えば、仕事にしても何にしても、どう金を稼ぐかということで頭がいっぱいだ。
 携帯料金の支払いさえ、困ることもある。
 職が安定してないから、まとまった収入もない。
 この仕事なら金を稼げるんじゃないか。そう思いながら、理想と現実の狭間に迷い込み、嫌気が差し、色々な職を転々とし続けた。
 こんな俺だって、いつかピッタリと合う職業に出会い、金を稼げるんじゃないか……。
 現実はそんなに甘くない。
 働かなくなり金に困ると、祖父母に借りにいく。
 そんなだらしない俺に、祖父母は顔を会わせる度、小言を言い続けた。たまにくる親戚からも文句を言われる始末である。そんな時は決まって自分が金を稼いでないからだと、いつも思っていた。金を稼いで社会的地位でもついてくれば、きっとみんな見返すに違いないと自分の中で勝手に思ったものだ。
 確かに今は何者でもないのだから、誰も認めてくれやしない。だからといって、ガミガミ言われるのは気分がよくないし、たまったもんじゃない。
 コネも無ければ、金もないときてる。無い無いづくしの俺。
 こんな俺が、今のこの世の中をうまく渡り歩いていけるのだろうか。そんなことばかりを考えると不安にもなるし、生きていることにも嫌になって来る。
 でも俺は自殺してこの世とオサラバする気はまったくないので、自分自身の在り方を考え、いい思いがしたければ、必死になって頑張らなくてはいけないのだ。そう、金を稼がねばならない。
 色々なアルバイトをした。建築関係で様々な業種はやった。土木に鳶、雑工事の仕事とか、結婚式場での配膳サービス、怪しげな教材を売る営業、ガードマン……。
 振り返れば、全部時給や日給の高いものを選んでやっていたような気がする。一攫千金じゃないが、こう辞めてばかりじゃ、俺は変われない。
 今の俺に、何が出来る……。
 一体、どうすりゃいいんだ?
 とにかく考えよう。頭はあまりいい方じゃないけど、頭を使って考えなくちゃ、何も変わりはしない。
 とりあえず具体的に考えてみよう。
 
 一番得意なものは…、腕っ節の強さ……。
 こんなもの、力仕事以外、何の役にも立たない。ガキの頃ならいざ知らず、今、喧嘩が強いっていうのをアピールして、一体、どうなるというのだろうか。
 学生の頃は良かった。喧嘩が強いというだけで周りから一目置かれ、みんなが機嫌を取りにくる。
 でも、今は違う。社会に出たのかどうかも分からないが、明らかに学生ではないことだけは確かだ。
 この世の中、喧嘩が強いってだけで渡り合えるほど、甘くはないことは分かっている。ヤクザの用心棒が務まる訳じゃないし、そんな甲斐性もない。ましてや格闘技の世界で食っていけるレベルでもない。
 あくまでも、そこそこ学生時代に喧嘩が強かっただけなのだ。世間に出れば、そんなものは、糞の役にも立ちゃあしない。
 考えろ。もっと考えろ。何が出来るんだ、今の俺に……。
 もう二十五歳なんだぞ?
 大学へ行った訳じゃないから最終学歴は高卒。
 今、新入社員として、心機一転という訳にはいかない。もうそんな年齢ではなくなっているのだ。どんどん周りに置いていかれるような感覚を受ける。
 時折、高校出たてで入社したサラリーマン時代を思い出すことがあった。くだらない上司、形だけ仲の良かった同僚。
 特に目的もなく毎日淡々と仕事をこなし、安い給料をもらってきた。
 休みの日には友達と近くのファミリーレストランに集まり、無意味な会話をして傷の舐めあいをするだけ……。
 上司を見ていても、こんな上司にはなりたくないなって奴ばかり。ここで頑張っていても、この上司ぐらいの立場が、何年か先の自分の姿である。
 誰とつるんでいても、いつも孤独なんだと感じていた。
 プライベートじゃ、基本的に部屋に閉じこもることが多かった。これといった趣味もないし、遊ぶ友達もいない。
 仕事にも必然性を感じられず、気付いたら辞表を出し、アルバイトを日々こなす生活になっていた。
 常に色々考えてきたつもりが、どうして今、こうなってしまっているのだろうか?
 理由はハッキリしている。自分自身のせいなのだ。基本的なことから逃げ、自分の小さなプライドを必死になって守ってきただけなのだ。
 何も取り柄はない。金もない。もちろん地位もない。無様で格好悪い奴。それが俺の現実だ。
 でも、リストラというものが生まれ、能力の無い奴は、会社からクビにされる時代になった。
 あのまま最初の会社にいたら、真っ先に俺は、リストラの対象になってもおかしくなかったであろう。あれはあれで、いい辞め時だったのだ。
 
 こう見えても、アルバイトとはいえ、色々な世界を見てきたつもりだ。そのおかげで世の中の厳しさ、様々な人間関係、それぞれの仕事に対する厳しさなどは、少なくとも見てこられたのだ。
 そう思うと、ちょっとだけ救われた気がする。
 しかし、そんな考えだから、俺はまるで駄目なんだろう。誰にも認められず、自己満足で自分の成長をストップさせていたのだ。
 実際に頑張って金をつかみ、もうこれぐらいでいいやと思ってから自己満足しても遅くない。
 俺は裸一貫だ。
 失うものなど何もない。
 自分で体ごとぶつかって行くしかない。
 恥をかいて初めて気付くこともある。
 まずは金を稼げ。すべてはそこからなんだ。
 ふと、一つの街が頭の中に思い浮かんだ。
 新宿歌舞伎町、不夜城ともいわれ、不況になった今でも日本で一番の繁華街。
 先ほどのテレビの影響だろうか。いや、それだけではないような気がした。
 繁華街なら、たくさんの金が動く。俺だって少しぐらいチャンスがあるかもしれない。今まで何をやっても居場所を作れなかったのだ。なら、普通じゃない場所へ行くのも一興かもしれないな。
 でも俺は自慢じゃないが、一度もあの街へは行ったことがない。周りの話で聞いたレベル。怖い街だということぐらいの知識しかない。
 ボーっとテレビを見ていて内容など何も覚えていなかったが、こんなことなら、もっとよく見とけばよかった。
 考えるのはもういい。今は行動するしかないんだ。
 深く考えるな。考えたって、今までいい結果など出ていないのだ。
 まず、行ってみよう、歌舞伎町へ……。
 コネも何もない俺だけど……。
 
 人間生きていれば、腹は減る。家から出て、近所の喫茶店アラチョンという名の店に入る。
「おー、いらっしゃい。隼人ちゃん」
 人懐っこいマスターが、声を掛けてくる。
「どうも、こんにちは」
 俺はこの店のハンバーグが大好きで、とても気に入っている。お決まりのオーダーをしてから料理を待つ間、スポーツ新聞に手を伸ばす。まず、新宿へ行く為の手掛りを考えなきゃいけない。
「……!」
 結構、歌舞伎町の求人広告欄があるじゃないか。すべて怪しそうな感じではあるけれど……。
 考えてもしょうがない、まずは飛び込んでみないと何も始まらない。
「喫茶店の仕事で一万二千円も日給でもらえるのか…。結構おいしいかもな。他にもモデルで二万?これはちょっと怪しいよな。ヘルスかー、ちょっと風俗はなー……」
 改めて見てみると、世の中には本当に様々な仕事があるものだ。ちょっとしたカルチャーショックを受ける。俺は歌舞伎町という街に、興味を覚えた。
「はい、隼人ちゃん、お待たせー」
 陽気なマスターはいつも愛想がいい。ハンバーグを置きながら、俺の持つ新聞を覗き込んできた。
「んっ、何だい、新聞なんか見ちゃって」
「たまには俺だって、新聞ぐらい見ますよ」
「そりゃそうか、失礼失礼。それにしても、最近どんどん男の顔になって来てるもんな。隼人ちゃんは…。大方すごい修羅場でも潜ってきたんだろ?」
「何、言ってんですか。お世辞言ったって何も出ないですよ」
「そんなことは何も期待してないよ。隼人ちゃんは、俺のハンバーグをうまそうに食ってくれるだけで充分満足だよ」
「じゃー、この店では俺がハンバーグをうまそうに食べる時、いい表情をする客ナンバーワンになれるよう頑張りますよ」
 我ながらつまらない台詞だ。こんなことしか言えないから、女にだってフラれるのだ。
「そうかい、期待してるよ。頑張れよ、ナンバーワン」
 調子のいいことを一通り言い終わると、マスターは他の客のオーダーをとりに、別のテーブルへと移動していった。
 再び新聞を読むのに集中する。
 当たり前のことだけど、出来ればあまりやばい商売はやりたくない。ブツブツ独り言をいいながら、目の前のハンバーグを一気に平らげ、店をあとにする。
「毎度どーもー」
 背後でマスターの威勢のいい声が聞こえる。俺は後ろ手でそれに応えた。
 
 店を出ると、早速、携帯で電話をする。
 さっきの新聞で目に付いたところの連絡先は、ちゃんと控えてあった。喫茶店の仕事で、一日一万円以上ももらえるのは確認してある。いい条件じゃないか。月に二十五日間働いたとして三十万近く稼げるのだ。
 しかし、たかが喫茶店の仕事で何故、そんな高額を……。
 いや、深く考えるな。
 金を稼げば、家の連中だって何も言わなくなるさ……。
 少しためらいながらもボタンを押す。受話器から通常の「プルルル…」という呼び出し音が鳴る。
「はいっ」
「えっ……」
「はい、どちらさんでしょう」
 普通にビックリした。これから行くつもりの仕事先に電話したが、いきなり出た相手は店の名も名乗らずに、「はい」のひと言で、俺からの返事を待とうとしているのだ。
 対応がまるでなっていない。仮にも喫茶店とはいえ、接客業じゃないのか?
 しかし、このまま無言でいてもしょうがないので、何か話さないと…。
「はじめまして、赤崎と申します。新聞の求人広告を見て、電話したのですが……」
「今、何歳ですか?」
「はい、二十五歳です」
「うーん…。うちは、ちょっとその年齢だとな……」
 ガチャッ……。
 年齢を言っただけで、いきなり電話を切られた。一体、なんという対応なのだろうか。少なくても店で働いている従業員なのだから、もう少し対応ぐらいちゃんとすればいいのに……。
 でも今の俺は、その訳の分からない店の客でも何者でもない。簡単に言ってしまえば、「働かせてもらえませんか?」「うちはその年齢じゃ駄目だよ」という現実を思い知らされただけなのだ。
 頭に来るが、どうしようもない。気持ちを切り替えて、次の店の番号を押してみる。
「はい、お電話ありがとうございます。喫茶ダークネスです」
 当たり前の対応だが、とても親切な話し方に感じた。これなら俺も、気持ち良く話せそうだ。
「すいません、赤崎と言います。新聞の求人欄を見て、お電話しました。今現在、従業員の募集はされていますか?」
「はい、失礼ですけど、今、年はいくつでしょうか?」
「二十五歳です」
「そうですか、問題ないですよ。それでは面接の方を行いますので、明日の午後五時に履歴書を持参の上、歌舞伎町に着いたら連絡下さい。赤崎さんでよろしかったですよね?」
「はい、そうです。赤崎です。分かりました。では、明日の五時に連絡します」
 電話を切ったあと、明日なのかと自分なりに考えてみた。
「とりあえず行ってみないと、何も始まらない」
 独り言をつぶやいて家に帰る。
 初めて行く新宿歌舞伎町。
 俺は埼玉県の狭山に住んでいるから西武新宿線一本で行ける。丁度、駅からは小江戸号という特急電車があるし、それに乗れば四十分ちょいで着く。
 履歴書を書いて写真を貼り付け、印鑑を押す。準備は整え終わった。サイは投げられたのだ。
 新宿、初めての場所。果たして俺はどうなるんだろう?
 正直、不安もあるし、期待もある。でも、想像したところで、何も思いつかない。
 日本一の繁華街、新宿歌舞伎町……。
 色々と考えても何の解決にもならず、早めに寝ることにした。
 
 午後四時三十分、初めて俺は新宿に辿り着いた。
 すごい人だ。まるで別世界に来た感覚を覚え、自分が田舎者になったような気がした。とりあえず、少し早いけれどダークネスへ電話しなくては……。
「はい、お電話ありがとうございます。喫茶ダークネスです」
「すみません。赤崎と申しますが、今日五時に面接する予定になっているものです。ちょっと早いですけど、歌舞伎町に着いたので連絡入れてみました」
「コマ劇場分かりますか?その裏側の方に店あるんです。近くにうちの人間を行かせますんで、その辺りで待ってて下さい」
 コマ劇場……。
 名前ぐらいは聞いたことあるが、どこにあるかなど全然分からない。でも知らないというのもあれだし、通行人に聞けば分かるだろうと思い、すぐに返事をした。
「はい、では、向かいます」
「それと服装はどんな感じですか?」
「えー、黒のスーツです。髪は黒の短髪です。身長は百七十五センチです」
「では、お待ちしています」
 電話を切り、駅から出る。
 目の前に広がる光景。すごい人の数だ。さすが新宿。地元と比べ、圧倒的な人口密度の違いに言葉を失う。
 様々なケバケバしい色のネオン。見たこともない色々な店。楽しそうに街を闊歩する人々。こんな大勢の中で、道を尋ねるのか?
 俺は恥ずかしい気持ちが出て、人に道を聞けなくなってしまう。
 まだ面接まで時間もあるし、歩き回って探せば何とかなるはずだ。
 歌舞伎町までの道を宛てもなく歩いていると、近くの道端の用水路のところで、何やら小さな黒いものが凄い速さで動いている。
「ん…、何だ?」
 目を凝らしてみると、でかい鼠だった。
 不思議な街である。当たり前といえば当たり前だが、どの通行人も鼠を気に止めようともしないで普通に歩いていた。
 人混みを避けながら歩いていくと、知らない奴が近付いて来て、いきなり声を掛けられた。
「お兄さん、あるよ」
 一体、何が“あるよ“なんだ?
 いきなり人に話し掛けてきて、何があるというんだ。何なのだろう、この人は……。
「はぁ、何があるんですか?」
「いい子、いっぱいいるから、おいでよ」
 これが俗にいうポン引きか……。
 瞬間的に理解し、無視することにする。俺はまずコマ劇場を探さなくてはならない。
「お兄さーん」
 客引きはしつこく俺のあとをついてくるが、無視するのがベストだろう。
 今までドラマやテレビの中での出来事だったことが、現実に目の前で起きている。
 自分は今、歌舞伎町をリアルに体験しているのだ。ちょっと奇妙で不思議な気持ちになる。
 ただし、ボッタクリに遭うのはごめんだ。相変わらず客引きはしつこく俺の横に並んで付いてくる。うざかったが、まともに相手をして、知らない土地で揉めるのも嫌なものだ。無視をしたまま、五十メートルほど進むと、客引きは諦めたように引き返し、人混みの中に消えていった。
 汚い格好の男が、コンビニのゴミ箱を漁っているのが視界に映る。
 三分の一ほど残っている烏龍茶のペットボトルを見つけると、彼は満足そうな笑みを浮かべ、ゴミ箱を元通り綺麗に戻し、フラフラとどこかへ歩いて行く。
 そんな彼を誰も気に掛ける人はいない。それがこの街の掟なのだろうか。
 似たようなところをグルグル回り、へんぴなホテル街らしき通りに出る。
 さっきまであった歌舞伎町の賑やかで華やかな雰囲気とは打って変わり、韓国か中国の字で書いてある料理屋らしき店。
 派手な飾りをした店構えのホストクラブ、ラブホテルなどが、交互に建っていて、全体的に薄暗い奇妙な印象を受ける。
 びっくりしたのは、そんな場所の近くにバッティングセンターまであることだった。
 ハイジアと書いてある大きな建物の脇の道に入る。細く薄暗い道で、そこに女がズラッと立っている。これが立ちんぼというやつか……。
 俺は、内心ビビリながらも歩いていく。
 次々と俺に声を掛けてくる女たち。俺はビクビクしながらも、無視して通り過ぎた。
 どう考えても女の声とは思えないトーンで話す奴もいる。これがおかまという奴なのか……。
 全身に鳥肌が立ち始める。
 
 小学生ぐらいの頃をふいに思い出す。
 まだ母親が家を出ていって間もない頃だが、笑うという感情を奪われ、根暗になっていたのだろう。当時、俺は、クラスで虐めに遭うようになった。
 机の上の筆箱なんか、隣に座る女の子に一日三回はワザと落とされたっけな。あの時のブスは、今頃どうしているだろう。どうせ、ろくな女になっていないだろうな……。
 中学に行くと、学校で粋がっているグループに目をつけられ、年中遣いっパシリをやらされた。
 初めて反抗した時に、校舎の裏に呼び出され、俺はビクビクしながら行った。怖い顔で睨まれ萎縮していると殴られた。
 今、思えば、その殴られた時に、俺は変われたんだよな……。
 その不良に殴られたパンチが、痛くなかったのだ。
 散々ガキの頃、母親にやられた理不尽な行為に比べたら、全然、屁でもなかった。
 こんなパンチしか出来ないで、こいつら人虐めて喜んでんのかと思ったら、何も怖くなくなった。
 あまりにしょぼいので、こっちが手を出したら、案の定、みんなヘナチョコだった。喧嘩って、こんな簡単なもんなのかと、その時悟った。
 いけないいけない……。
 そんなことより、早くコマ劇場を探さないと……。
 それから三十分ほど捜し回っても、いまだにコマ劇場は見つからず。
 一体、歌舞伎町の街中を何周しただろうか?
 人に聞けば済むのだが、恥ずかしいという感情が邪魔してなかなかそれができない。とりあえずダークネスに電話してみることにする。
「はい、ダークネスです、…んっ、おまえ何やってんだ?」
「すいません、新宿来るの初めてなもので迷ってます」
 さすがに向こうも駅に着いてから、三十分も待たせているから口調が荒い。
「人に聞けば、すぐ済むだろ。何してんだ」
「すいません。すぐ向かいます」
 最初の俺の印象は最悪だな……。
 人に聞いてみよう。ちょっと恥ずかしいけど……。
「あのー……」
 通行人に声を掛けても、みんな無視して行ってしまう。どれだけ人に声を掛けただろうか。誰も俺の言葉に耳を傾けてくれる者などいない。
 よく地方の人が、東京は冷たいというが、まったくその通りだ。
 いや、愚痴っていてもしょうがない。俺の聞き方に問題があるだけなんだ。仕事の面接の時間はすでに過ぎている。何とかしなくちゃならない。
 恥ずかしさを捨てろ。
 軽く深呼吸して通行人に話し掛ける。
「すいません、コマ劇場ってどこにありますか?」
 声を掛け、一気に話し終わると、その通行人に大笑いされてしまった。
 恥ずかしさと苛立ちが、俺の体の中で大きくなっていく。目つきが鋭くなっていくのが分かる。人が必死な思いで聞いているのに、馬鹿にしやがってこの野郎……。
 拳を固く握り締めた。
「どこってすぐそこじゃないですか、ほら」
 指を指された方向に顔を上げると、目の前にコマ劇場と書かれた大きな看板があった。
「あ、ほんとだ……」
 俺の目玉は、今までどこを見ていたのだ。
 苛立ちはどこかに行き、恥ずかしさだけが残る。素直にお礼を言い、通り沿いにコマの裏側に回った。何でこんなデカデカと看板があるのに、俺は気がつかないのだろう。今頃、さっきの人に大笑いされてんだろうな……。
 裏側に回ってみたが、人を待っていそうな奴は腐るほどいた。こう改めて見ると、様々な種類の人がいるもんだ。
 見るからにヤクザっぽい格好の三人組。プロ相手に見知らぬ土地で喧嘩はしたくない。俺は、視線を合わせないように心掛けた。
 ちょっとケバイけど、スタイルも良く滅茶苦茶綺麗な女…。デートで相手を待っているのだろうか。
 どこの国か分からないけど、とても喧嘩の強そうな黒人。
 歩いている通行人に無差別に声を掛けている中国か韓国か分からないけど、アジア系の女と客引き。
 他にも色々いるけど、この人混みの中で、俺を待ってくれている人がいる。とにかく人を一人一人見ていった。
 んっ…、口髭のある背の小さい男が、俺の方を見ながら近付いてくる。ひょっとしたら、この人が……。
「赤崎さんかな?」
 胡散臭そうな五十代後半の口髭の男。髪形はパンチパーマがだらしなく伸び、手入れをしてないように見える。体系も小柄でパッとしない印象だ。何故か、声のトーンが非常に耳障りである。ヨレヨレのグレーのスーツを着ているが、リストラを言われたばかりのくたびれたサラリーマンといった感じだ。生理的に受け入れられないタイプの人間である。
「そうです、本当に遅くなりすみませんでした」
「まったくもうー…、駄目だよ。子供じゃないんだから、頼むよ、本当」
「すみません……」
 自分が情けなかった。相手の言う言葉が突き刺さるが、正論だ、仕方がない。これじゃ面接は、まず駄目だろうな……。
「じゃあ、付いて来て」
「はっ、はいっ!」
 口髭の男の後を黙って付いていくことにする。それにしても、本当この男は後ろ姿まで胡散臭さが漂っているなあ……。
 男は人で溢れかえっている場所から、だんだんとひと気がない方向へ無言のまま向かっている。さすがにちょっと不安になってきた。
 少し軽はずみだったんじゃないか……。
 逃げようか?
 今なら逃げられる。自問自答した。頭の中で不安というものの比重が上がってくる。
 でもこの人は、時間に遅れた俺を三十分以上も待っていてくれたのだ。
 今さらここまで来て、逃げてどうするんだ。金のない惨めな生活が待っているだけだ。
「はい、こっち来て」
 口髭の男が小さなビルのところで止まり、俺を促す。
 似たような建物がそこら中に建っている通りだ。人もあまり歩いていない。
 コマのところからまだ二分ほどしか歩いていないのに、同じ歌舞伎町の中でも様子が大分違うのが分かる。ひと気もほとんどない通り。しかし、俺はここまで来たんだ。なるようにしかならない。口髭の男に言われるまま、あとを付いて行くしかない。
 それにしても、小さい建物だ。普通のアパートやマンションと変わらない造りである。その建物の入り口には、大層な名前で「第一杉沢ビル」と書かれてはいるが……。
 コンコンッ……。
 口髭の男が三階に着き、ドアをノックする。しばらくしてドアが開く。
「さっ、入って赤崎君」
「はい、失礼します」
 入るとその部屋の壁は一面真っ白で、清潔感と小綺麗さを感じる。
 正面の壁には、「BINGO」と書かれた板が貼ってあり、それに大きなトランプが掛かっている。七を除いたAからKまでの絵柄がSライン、Bラインと、上下に書いてある列に順序よく並んでいる。
 入って右手にキッチン。部屋は十畳ほどの広さで、昔はやったインベーダーゲームのようなテーブルが十台ほどバランスよく並べてある。見ていると、過去のことを思い出す。
 昔はよくゲームセンターに行って遊んだものである。薄暗い室内で不良の溜まり場。小遣いのほとんどをゲームで使ってしまったものだ。
 気の弱そうな奴が、トイレでカツアゲに遭っているのをよく見た。友達がカツアゲにあっているのを助けに行って喧嘩になったっけな。
 俺自身、カツアゲをしたことも、されたことも無かった。今、考えると、変なとこで正義感はあったのだろう。
 学校ではゲームセンターに行くのが禁止になっていたから、先生や補導員が見回りに来ると、トイレの窓から逃げたり、見つかって次の日職員室に呼び出されて殴られたりで、非常に懐かしい思い出がある場所だった……。
 いや、待てよ。今は何故、ここにいるのかを考えろ。俺は喫茶店の求人で初めて新宿に来たのに、気付けば、ここへ連れられてきて……。
 ヤバイなという感情が渦巻く。頭が非常に混乱していた。
「はじめまして、赤崎さんですね、店長の岩崎と言います」
 中にいた店員の一人が俺に声を掛けてきた。年は俺とそう変わらない感じだ。二十五前後といったところか……。
 多分、この人だろう、昨日の電話で俺に対し、親切な対応で話してくれた人は……。
「はじめまして、赤崎です。すみません、約束してた時間よりも遅くなってしまいまして…。本当にすみませんでした」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ところでゲーム屋で働くのは、初めてですか?それとも働くことは初めてでも、遊んだことぐらいはありますか?」
 ゲーム屋……。
 初めて聞く言葉だ。店の中を見ても、普通のゲームセンターでないことだけは分かる。並んでいるゲーム台は、トランプのポーカーみたいな感じのデモ画面がつきっ放しになっている。
「いや、初めてなもので何も分からないんです」
「ゲーム屋、又はゲーム喫茶っていうんですけど、よく喫茶店とかに一、二台、こういうゲームが置いてあるじゃないですか?分かりやすく言えば、うちはそのよくゲームオンリーで、営業している店なんですよ」
 ゲームオンリー?
 この人は、何を言っているのだろう。言っている内容がよく分からない。第一、この状態でどう商売になるのだろうか?
 パッと見た感じ客もいない様子だ。不思議そうな顔をしている俺に構わず、店長の岩崎と名乗った男が話し出した。
「紹介しときますね、こちらがうちの社長の水野さんです。…で、こちらがスタッフの鈴木と山下です」
 先程、俺を案内してくれた口髭の男が社長だったのだ。これにはビックリした。
 スタッフの二人はやたら愛想がいい。みえみえだとしても、愛想良くされるのは悪い感じはしない。鈴木は俺よりどうみても年下の二十二、三歳。山下は若く見ても三十は越えている。
 怪しい店ではあるが、このダークネス……。スタッフの対応に、なかなか好感が持てた。
「初めまして、赤崎です」
 挨拶を済ませると、昨日書いた履歴書を渡す。まずは社長の水野がサーッと見て、岩崎店長に手渡す。岩崎は俺をジッと見つめる。
「実は今日面接に来たの、赤崎さんで四人目なんですよね。…水野さん、彼でいいんじゃないですか?話し方もハッキリしてますし……」
 店長の岩崎が話し出す。ひょっとしたら、俺は採用になるかもしれない……。
「そうだなー、今日来た前の三人は、どうしょうもなさそーだしなー。君、この業界は本当に初めてなんだよね?やったこともないんでしょ?」
「ええ、恥ずかしながら、新宿に来るのすら初めてです」
「よし、彼にしようか。決まりだな。じゃあ、早速明日から大丈夫かい、赤崎君?」
 いきなり 水野が俺に話を振る。少し戸惑ったが、俺はここに金を稼ぎに来たのだ。腹を決めて頑張らないと、現状は何も変わりはしない。
「はい、よろしくお願いします。明日からで構わないです。お店の都合いいように使って下さい」
 俺の言葉に目を細める社長の水野。なかなかいい感触だろうと心の中で確信した。迷わず頭を下げた。これで俺は新宿歌舞伎町の住人に明日から仲間入りするのだ。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。なー、岩崎」と、水野が岩崎に相槌を打つ。案外、気さくな性格の人かもしれない。胡散臭さは変わらないが……。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
 元気良く、挨拶した。簡単なものだ。これで明日から歌舞伎町での生活が始まる。ちょっと自分でも安易でおろそかかもしれないと思う。けど、もう走り出してしまったのだ。こうなった以上、頑張って金を掴むしかない。
 それで周りには、文句など絶対に言わせやしないぞ……。
 危険な香りが漂う歌舞伎町。
 これからそこで働くことで、家族や親戚に色々言われることは、いっぱいあるだろう。あきらかに普通の喫茶店ではないし、人にちゃんと言えるような、まともな商売でもなさそうだ。しかし、それが何だというんだ。
 俺の人生だし、俺の生き方だ。俺はここで生きるんだ。今は確かに何の説得力も無いかもしれない。でも俺は、ここから心機一転、気持ちを切り替えて頑張るんだ。
 ここで頑張って金を稼げば、誰も文句など言わないさ……。
「腐るほど、金を稼いでやる」
 俺は心の中で誓った。
「特に用意するものは…、赤崎さんいつもスーツなんですか?仕事中はうちの鈴木と山下の格好見て分かる通り、白のワイシャツにスーツのズボン、それにネクタイ締めて終わりですから問題ないですね」
 俺はジーンズなどはいたことがまったく無く、持っている服は全部スーツだけだった。別に気取ってという訳ではなく、着替えるのも楽だし、ファッションも季節によって考える必要性がないから、スーツが好きなだけである。寒くなったらコートを羽織り、もうちょっと寒かったらマフラーを巻くだけでいい。夏になったら上着を脱げばすむ話だ。非常に気楽である。言い方を代えれば、ただの面倒臭がり屋ともいう。
「では明日朝の十時までに来て下さい。今日はもう大丈夫ですよ」
 こうして俺の歌舞伎町初日は終わった。特に金が有るわけではないし、真っ直ぐ家に帰って明日に備える事にしよう。
「明日からよろしくお願いします」
 誠心誠意、頭を深々と下げた。
 
 帰り道、何故か心はウキウキしていた。外を歩いているとさすがに肌寒いが、夜の歌舞伎町は、相変わらず大勢の人であふれかえっている。擦り寄ってくる客引きを無視しながら真っ直ぐ駅に向かう。
 今日の出来事を振り返る。
 社長の水野、店長の岩崎、スタッフの鈴木と山下。
 まだ四人しか会っていないけれど、みんな第一印象は良かった。今日、俺を含めて四人の面接者が来たらしい。俺はその中でもいきなり大チョンボをして、時間に遅れてしまったのに、気持ち良く向かえてくれた。そしてその中から俺を選んでくれた……。
 少なくともあの瞬間だけは、俺を必要としてくれたのだ。それがとても嬉しかった。きっとこの感覚は、俺にしか理解できない些細なものであろう。今はそれでいい。今の俺は、そんな些細な価値しかないのだから……
 電車に乗り、景色を眺める。窓ガラスに自分の顔が写っていた。右側の三つの傷も一緒に……。
 こめかみの傷にズキンと痛みが走り、途端に蘇る記憶。
 俺は幼稚園から小学校五年の頃までの記憶を鮮明に覚えている。そのことに関してだけは、我ながら感心するぐらいだ。
 何故、俺はハンバーグがこの年になっても大好きなんだろうか?
 子供の頃、レストランに行った時の憧れ、お子様ランチ。
 俺はこれを食べた事がいまだに無い。
 今じゃ食べたくても、もう食べられない歳になっている。
 お子様ランチの主役、定番のハンバーグ。デパートのレストランにあるガラスのショーウィンドーを見る度に羨ましかった。しかし、食べたくても食べられなかった。
 このことになると、いつも吹き出す憎悪……。
 やめておこう。あんなことを思い出しても、嫌な気分になるだけだ。
 小学校に行く手前のまだ幼い妹、愛をよくデパートに連れて行ったっけな……。
 レストランの入り口にあるガラスのショーウィンドー。その中にあるお子様ランチの模型を年中一緒に見に行ったものだ。
「お兄ちゃん、あれ食べたいよう」
 愛がお子様ランチを指差す。
「……お兄ちゃんも今さー、お金無いんだよ。今日は見るだけにしようよ。なっ、愛」
「いやだー、食べたいよー」
「じゃー、今度な。今度…。愛、おりこうさんだろ?」
「えー、愛、おりこーさんじゃなくていい」
 幼い妹は、兄である俺にせがんでくる。当時小学五年生の俺には当然そんな金も無く、妹にお子様ランチを食べさせることが出来ない。
 愛に食わせてやりたいなー……。
 そんな思いが高まり、ふと気がつけば、貯金箱に入っている小銭は、日々増えていった。
 妹の笑顔が見たい。それだけの為に食べたかったお菓子も我慢した。友達と遊びに行くのも我慢した。でも、その機会は永遠に訪れることが無かった……。
「えー、次は狭山市―、次は狭山市でございます」
 車掌のアナウンスが聞こえ、現実の世界に呼び戻される。
 もう地元に着いたのか……。
 いくら振り返っても何も戻らないあの頃。やるせない気持ちで電車を降り、家へと向かう。
 何を考えても、どうすることも出来ない。あの頃も無力だが、今現在も無力なのは変わらない。
 それを打破する為に、今日行ったんじゃないのか。あの歌舞伎町へ……。
 何度も似たような試行錯誤を繰り返しているが、とりあえず明日へ向かって歩き出したことだけは確かだ。
 どうやって帰ったか分からない内に、自分の部屋に戻っていた。考え事をしていると、時間が過ぎるのはとても早い。
 風呂に入り、早めに寝よう。今しなきゃいけないことは、そうして明日に備えることだ。
 風呂を出て布団に潜り込む。傷が疼く、憎悪が吹き出す。
 途端にまた、過去がプレイバックされる。
 
「何、ヘラヘラ笑ってんだい?」
 家に帰り着くなり、いきなり殴られる。倒れ込む俺。
 泣きながら「ごめんなさい」と、どれだけ懇願しても、母親の手は拳を握る。怯えながら俺が両腕でガードしているのに、無差別に構わず殴ってきた。何故、こんなに殴られるのだろう?
 今日は母親と一緒にデパートへ買い物に連れてこられて、そこで親戚のおばさんに偶然会い、向こうから声を掛けられたのだ。
「あら、隼人ちゃん、今日はどうしたの?」
 母親に付き合わされただけの話だが、当時五歳の俺に偶然デパートで会えたことが、おばさんには嬉しかったのだろう。
 俺はニコニコしながら手を振った。横でその様子を見ていた母親は、苛立ちを隠せないでいる。
 母親は、家の祖父母、父親とも仲が悪く、輪を掛けて親戚ともうまくいっていなかった。
 何が原因で不仲になったのかまでは覚えていない。ただ、母親は誰に対しても常に敵意を剥き出しにしていた。
 仲の悪い親戚に声を掛けられ、俺が笑顔で応対したのが癪に障ったのだろうか。
「何おまえは、あんな奴に媚を売ってんだ」
 怒声が聞こえ、頬に痛みが走る。
 泣きながら、俺は母親に殴られ続けた。
 何で俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。
 母親に対する憎しみだけが大きくなっていく。
 
 赤崎隼人。
 赤崎家の長男として生まれて、二年後に次男怜二が生まれた。さらに俺より五つ下の妹の愛が生まれ、三兄妹となる。
 二階は俺たち家族が住み、一階は祖父母という二世帯住宅になっていた我が家。
 父親は、愛が生まれてすぐに交通事故で亡くなってしまった。
 家は父親の実家で、初孫がとても可愛かったのだろう。俺は祖父母や親戚に、とても可愛がられ、笑顔が常に絶えない子供だったらしい。
 父親が亡くなる半年前ぐらいから、両親の仲が急激に悪くなったのを覚えている。理由は分からないが、夫婦としての折り合いが悪く、最後には母親がいつも口喧嘩で勝っていたように思う。言い争いの最中、「金がない」という言葉がよく出てきたのを覚えている。
 母親と祖父母の仲は、物心ついた時から悪かったが、父親が亡くなってからその傾向はより酷くなっていった。家族全員で、食事をした記憶がまるでない。
 夜になると始まる夫婦喧嘩。決まって家を飛び出すのは父親の方。あのまま母親と口論していたら、手を出してしまう。だから家を出て、ヤケ酒でも飲みに行っていたんじゃないだろうか。
 妹が生まれる前、残された俺ら兄弟二人は、母親の八つ当たりの対象になる。弟はまだ俺よりも小さかった為、どうしたって俺の方にそれは集中した。
 何故、殴られるのか、幼過ぎて分からない俺は、ただひたすら謝って、母親の怒りが収まるのを祈るしかなかった。
 そして母親は俺を殴ったあと、家を飛び出し、最低一日は戻ってこなかった。
 弟が泣いている。お腹が減っているのかな?
 今は親が二人ともいない。弟を抱っこして、一階の居間にいる祖父と祖母のところへ連れて行く。
「怜二はきっと、お腹減ってんだよ。今、おばあちゃんがおいしいもの作ってあげるから泣くのはおよし。隼人、おまえもお腹減ってんだろ。ちょっと待っててね。今、仕度するからね」
 祖母はそう言うと、台所に向かい料理を作り始める。
 待っている間、祖父がどこからか絵本を持ってきて俺ら兄弟に読んでくれる。とても心地良かった。
 しばらくすると、祖母は色々なおかずを食卓の上に並べてくれる。俺と弟はビクビクしながら回りを見まわし、安心すると、がっついて口に頬張る。とても美味しかった。
 でも、いつもこの料理を食べられる訳ではない。母親が家に居る間は、俺ら兄弟が他の人間に接触するのを極端に嫌った。
 だから、祖母がみんなのご飯を毎日作ってくれていたのにもかかわらず、母親は一切、俺たちを祖父母の元へは行かせなかった。
 たまたま俺ら兄弟が祖父母のところへいる時に、母親が帰って来たことがある。その時は、俺にとって言い表すことの出来ないような地獄絵図が待っていた。
 小さいながらも殺気というものは分かる。ドアの隙間から鋭い視線を俺に送ってくる母親。まさに憎悪の籠もった殺気である。
 俺はその視線に気付くと、自然に黙って立ち上がってしまった。
 隙間から見える母親の恐ろしい目。俺が気付いたことが分かると、こっちに来いと言うように無言で手招きしている。近づけば何をされるかぐらい分かっているはずなのに、俺の体は夢遊病者のように進んでいく。
「隼人、急にどうしたの?」
 祖父が不思議そうに話し掛けてくる。
「う、うん。もうお腹いっぱいだから……」
 自分でも訳の分からない言い訳をしながら、席から離れる。
 祖父や祖母、おいしそうにご飯を食べている怜二に、母親の存在を何故か気付かれたくなかった。今思えば、自分が生け贄になればいいという思いがあったのかもしれない。
 ドアを開けて出ると、仁王立ちという表現がピッタリ当てはまる感じで、母親は待っていた。部屋に着くなり投げ飛ばされ、何回も殴られる。
 攻撃が収まったと思い、顔を上げると、母親は口元を吊り上げながら目の前に立っていた。
「これを持ってろ」
 俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
 電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていく母親。
 幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。分かっていながら、離せなかった。
 受話器を……。
 手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
 まだ幼い俺には、その想像の方が怖かった……。
 恐ろしかったのだ。抵抗して、これ以上、殴られるのが嫌だった。
 おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、本体は母親の手元から離れていた。
 いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。思わずその場にうずくまってしまう。目の上が焼けるような痛みを発している。
 右側のこめかみにある傷の一つはこの時に出来たものだ。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
 未だ、あの時の母親の笑い声が、耳にこびりついている。
 今にして思えば完全な幼児虐待。おそらくヒステリーも入っていたと思う。
 どう考えても正気の沙汰ではない。
 
 多分、一生あの笑い声は、俺の中で消えないのだろう。そんな感じがする。
 母親は絶対に自分で食事を用意、又は調達してきた。
 独りぼっちで家の中でつっぱる母親。意地だけじゃ、自分と俺ら兄弟の食費をまかなうのは容易ではない。
 幼稚園に持って行く弁当はとてもじゃないが、友達に中身を見せられる代物じゃなかった。
 蓋を開けると中身は、スパゲッティの麺をケチャップで和えただけのナポリタンのようなものだけだったり、酷い時は焼いた餅が二つ入っているだけだったりして、弁当の時間になると、友達のそばから自然と離れ、いつも一人で食べていた。
 あんな固くなったガチガチの餅を食べたのは、後にも先にもこの時しかない。
 幼稚園では、いつも恥ずかしい思いをしたという嫌な思い出しかなかった。
 一度、担任の先生が弁当の時間にいつも独りなので、俺に注意をしてきたことがある。
「赤崎君、駄目よ。自分から仲良くしないと……」
 いくら言われても直す気はなかった。ましてや弁当の中身を絶対に見られる訳にはいかなかった。中身を見て、先生が母親に何かを言ったらどうしよう。それが怖かった。
 しかし、非情にも担任の先生は、俺の事を母親に報告した。協調性がなさ過ぎると……。
 幼稚園から帰ると、一週間はその件で当然のように殴られた。
 
 ずっと家の状態は、父と母が個々の主張を譲らず、争いが絶えなかった。
 それでも、やることだけはしっかりとやっていたのだろう。ある日、鬼のような母親が出産の為、入院した。その間、とても平和な時間を過ごせた。そして妹の愛が生まれた。
 喜んだ父親は仕事帰り、バイクで急いで帰ってくる途中、事故に遭い亡くなった。一度も愛の顔を見ずにこの世を去ったのだ。
 思えば俺は、父親に対し、どれだけの思い出があるのだろうか。あまり父親のことは、正直覚えていない。母親の理不尽な暴力から、父親は守ってくれなかったという記憶はある。父親にしてみれば、虐待があったことすら知らなかったのかもしれない。
 愛の誕生と共に亡くなった父親。その事実に対し、悲しいとかそういう思いは特別ない。気付けばいなくなっていたという感じだった。
 祖父母は優しく接してくれたが、学校ではそうでもなかった。片親というだけで、からかう同級生たち。別に俺たちのせいでそうなった訳じゃないのにな……。
 父親がいなくなり、母親にはもう家の中に居場所が無かったのだろう。年中、家では祖父母との喧嘩が絶えなかった。父親のいた頃よりもさらに回数は増したように見えた。幼い俺から見ても、母親の方が理不尽だと感じることが多い。とにかく自分の思ったとおりに物事が進まないと怒り出すのだ。
 祖母が、みんなのご飯を用意しても、母親は俺ら兄妹へ絶対に食べさせない。では、自分が食事を作るのかと思えば、祖母の炊いたご飯をボウルに移し、二階へ持ってくることが多かった。おかずはスーパーで買ったコロッケ二つを四人で分けて食べたり、卵一つだけだったり、貧しいものばかり。当然、祖母は「何で一緒に食べないんだい」と怒り出す。みんなの分をちゃんと作っているのに、自分のエゴでそれを一切食べさせない母親。祖母が怒るのも当然である。こうして喧嘩になった日は必ずといっていいほど、母親は家を飛び出して朝まで帰ってこなかった。
 朝になると、怜二や愛が泣き出す毎日。自分ではどうしようもなく、祖父母のところへ連れて行くと、戻ってきた母親に見つかり暴力を振るわれる。
 ヒステリックさはさらに増し、俺の右側のこめかみには、二本の傷が新たに追加された。
 一つは、テストが百点じゃなかったという理由で、ガラスのテーブルへ顔面を叩きつけられた。漢字の読み方の問題で、つまらないケアレスミスをしたのが原因だった。
 もう一つの傷も、未だハッキリと覚えている。
 祖父母と言い争いをしたばかりの母親は、物凄く機嫌が悪かった。ブロックのおもちゃでたまたま遊んでいた俺。部屋に戻ってきた母親は、目の前のブロックを踏み潰しながら怒鳴った。
「おまえはこの間、百点とれなかったのに、何で遊んでんだ?」
「ご、ごめんなさい……」
「立て。“気をつけ”しろ」
「は、はい……」
 小刻みに震える体。母親は、床に散らばっているブロックを拾うと、俺の顔めがけて投げつけた。
「何、勝手によけてんだ!」
 誰だってそんなことをいきなりされれば、瞬間的によけてしまう。
 飛んでくるブロックをよけると殴られる。俺は震えながら、その場に立っているしかなかったのだ。
 くると分かっていながら、逃げられない恐怖。目を閉じたまま、いつ顔に当たるのか分からないブロック。これほど恐ろしいと思ったことはない。
「おい、動くんじゃないよ。ハハハ……」
 冷たい笑い声だけが聞こえ、顔に当たるブロックの衝撃。気が狂いそうになりながら、俺はバランスを崩し、うつ伏せに倒れ込む。
 その時、こめかみに鋭く熱い痛みが走り、俺は手で押さえながらのた打ち回った。母親が踏んで割れたブロックの破片が、こめかみに突き刺さったのだ。
 こうして俺に、三本の傷が出来たのである。体の痣も、日に日に多くなっていく……。
 
 生きているのが嫌でたまらなかった日々。
 すべて母親の言いなりだった。他の人間に笑いかけることさえ禁じられ、操り人形のような生活に、ほとほと嫌気がさしていた。
 小学四年の冬。この日、いつもと家の空気が違うのを感じた。朝、起きたら母親の姿が無かった。
 弟の怜二は状況を把握できず、キョトンとしていたのを今でも覚えている。愛は、腹が減ったのか泣いてばかりいた。
 何となく、母親はもうこの家には戻ってこないだろうと思った。だからビクビクしながらも、祖父母のところへ兄妹を連れて行き、ご飯を食べさせた。その時、俺は自然と顔がにやけだした。心の中で「自由」という文字が浮かび上がっていたのである。
 しかし、そう都合よくいくだろうか?
 食事中、またドアの隙間から、母親の鬼のような目が覗くのではないかと不安で溜まらなかった。一口食べては、ドアの隙間を見ながら食べた。
 母親が出て行ってから、一日、二日と時間が過ぎ去っていく。やはり二度と家に戻ってくることはなかった。
 あの朝、何故か自然と笑顔になれた事は、今になっても覚えている。
 学校のテストでは常に百点だった。先生にもよく褒められた。でも、そんなものは家に帰ると何の意味も無いのだ。
 何も俺を守ってくれやしない。「いい子だ、優等生だ」そんなことに何の意味があるのだろうか?
 ずっと自分の無力さを痛感していた。鏡で三本の傷を見つめる度、いつもそう思う。
 だが、母親が出て行ったことで、これからは自由になったんだと、開放感を本能的に理解していた。そして自然に心の底から笑みがこぼれた。
「……」
 嫌なことを長々と思い出してしまった。もう寝ないと明日に響く。俺にとって新しい転機の時なんだ。
 こめかみの傷の疼きは治まっていた。
 
 仕事の初日、朝、目を覚ますと雨が降っていた。憂鬱な気分になる。外がどんな天気であろうと仕事に行くことは変わらない。昨日のウキウキしていた気分はとっくに無くなっていた。
「風呂でも入るか……」
 目覚めたあとのシャワーはとても気持ちがいい。憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれる。
 コーヒーを飲んだら仕事に行くか。
 風呂を出ると、キッチンに向かい、俺の好きなキリマンジャロとモカを三対一の割合でブレンドさせる。いい匂いがキッチンに漂う。
「あれ、兄貴。もう起きてたの?おはよう」
 振り向くと、弟の怜二が眠そうな顔をして目をショボショボさせながら、入り口に立っていた。
「コーヒー作ったけど、おまえも飲むか?」
「ああ、頂くよ。兄貴の作るコーヒーは旨いからな」
 俺はそのまま返事をせずに、カップへコーヒーを二人分注ぐ。
「腹、減ってるか?簡単なもの作るよ。コーヒー飲んで待ってなよ」
 冷蔵庫を開けるとウインナー、卵、野菜が少しあったので、食パンを軽く焼いたあと、簡単なサンドイッチを二人分作り、一つを怜二に渡す。
「兄貴は料理人になりゃー良かったんだよ。作るもの全部うまいもんな。このサンドイッチだって、金取れるレベルだぜ。兄貴の作ったもので唯一、不味かったのがラムの唐揚げ。あれは酷かった。殺人的な不味さだよ」
 怜二は勝手なことを言いながら、サンドイッチにかぶりついている。あっという間に、さっき渡したばかりのサンドイッチは、怜二の胃袋に消えた。
「もう一つ作るから、俺の食べてもいいよ。料理人に関しては、生涯なることはないだろうな。人に言われて料理作るのは嫌だし、自分の気分で勝手に作るから美味しいものが出来るんだよ。まあ俺の勝手な言い分だけどな。ラムの唐揚げのことはもう言うなよ。あれは初めての試みで、どうなるのかなって感じで、作っただけなんだから」
「だってあれは酷いぜ。兄貴、実際、俺に味見させたじゃないかよ」
「俺もちゃんと食ったんだよ。ただ、自分で食っても不味いなと思って、ちょうどその時、おまえが腹減ったって来たから、これ食うかって言ってみただけだ。あれは俺の中で一番の失敗作だったよ。確かにおまえ、あれ食ったあと、こんな不味いもん食わせやがってよって、ブーブー言ってたもんな」
 その時の怜二の顔を思い出すと、自然に笑いが出る。
 ラム肉の臭みを消そうと自家製のたれを作り、ラム肉を一晩つけて寝かせておいた。もう大丈夫だろうと思い、唐揚げを作ったが、味見をすると、何ともいいようがないくらい酷かった。
 それを分かっていて、怜二に処分させようと勧めたのだから、いまだに根に持たれてもしょうがないかもしれない。
 俺も一緒に朝食を済ませると、そろそろ新宿に行く頃合いになる。ワイシャツを着て、ネクタイを締める。
「あれ、兄貴仕事?今度はどこ行くの?」
「新宿歌舞伎町だ。金の唸る場所へ飛び込んでみるつもりだ。行かなきゃ分からないこともあるだろうしな。昨日行ってみた感じ、店員の対応は悪くなかったよ」
「やばくねーか。歌舞伎町って…。兄貴は短気だし、怒りっぽいし…。だいたい何の仕事だよ。本当に大丈夫かよ」
「心配するな、何とかなるさ。今度ゆっくり話すよ。俺はそろそろ仕事行く時間だ。ここちゃんと片付けとけよ。じゃーな」
「そりゃねーよ、兄貴……。だいたい兄貴は……」
 怜二が俺に話しかけるのをほっといて家を出る。俺が作り手で、弟が洗い手。自分で勝手に心の中で決めたルールだった。
 外へ出ると雨は幾分、小雨になっていた。
 
 新宿歌舞伎町第一杉沢ビル二階、ダークネスへ初出勤だ。
 階段を上がり、入り口のチャイムを押す。
「おはようございます」
 しばらくするとドアは開き、鈴木が入り口に立っていた。心なしか表情が冴えていないように見える。俺はお辞儀をして店の中に入った。
 今日も見た感じ、客がいない。
 店長の岩崎が俺の方を振り向く。相変わらず愛想のいい笑顔でこっちを見ている。社長の水野と、山下の姿は見あたらない。
「どーも、赤崎さん。そういえばこの仕事初めてでしたっけ。ポーカーゲーム自体、分からないんですよね。まー、見ての通り客も今はいないし暇な店なんで、ゆっくりじっくりと仕事を徐々に覚えてって下さい。分からないことがあったら、何でも気軽に聞いてきて下さいね」
「お手数掛けてすいません」
「最初はみんなそうですって……」
 十畳ほどの狭い店の片隅で、昨日は見なかった顔ぶれが二人いる。
「あ、紹介しときますね。こちらが遅番の責任者の新堂とスタッフの田中です。こちらが今日から入る、赤崎さんです」
「初めまして、今日からお世話になる赤崎です。よろしくお願いします」
「ふーん……、赤崎君ね…。まっ、頑張ってよ。じゃー、店長。俺たちは仕事上がるよ。お疲れ」
「はーい、お疲れ様です」
 新堂が店を出て行く。遅番の責任者だと紹介された新堂。年は三十代半ばぐらい。正直あまりいい印象は受けなかった。ふーんと言いながら俺を値踏みするような嫌な目つき。まあこの程度で、頭に来てもしょうがないことだが……。
 続いて田中もこちらを向き、一礼すると慌てて新堂のあとを追いかけて行った。親分にくっついていく、子分といったとこか。
「相変わらずだなー、あの人は…、もうちょっとぐらいサービス業なんだから、愛想良くすればいいのに…。すいませんね、赤崎さん」
 岩崎が俺を気遣ってくれる。この人は、いい人なのかもしれない。
「いえいえ、とんでもないですよ。俺みたいな新入りに、気を使わせてしまいすみません。そういえば、社長と山下さんの姿が見えないみたいですけど……」
「ああ、山下は昨日付けで、うち、辞めたんですよ。田舎に帰らないといけなくなったみたいで。彼が辞めるから、従業員の募集を新聞に載せたんですよ。それで昨日、赤崎さんが選ばれた訳です」
「そうだったんですか」
 何と答えていいか分からなかったが、新宿歌舞伎町という街は、場所柄、きっと人の入れ替わりが激しいのであろう。
 さっきの新堂にしても何人も色々な従業員を見てきて、面倒を見て親切にした挙句、散々裏切られてきたのかもしれない。入って初日の俺を簡単に信用する方が間違っている。この歌舞伎町では……。
 最初に教えられたのは、客に出すドリンクや備品の買い出しだった。
 二十四時間常に開いているスーパーやディスカウントショップ。改めてすごい場所に来たものだと思う。
 俺のいるダークネスの横のビルでは、ピンサロがあり、眼鏡を掛けた従業員が手を叩きながら、客の呼び込みをしていた。俺がペコリとお辞儀すると、向こうもニコリと笑ってお辞儀してくれる。
 すごい量の荷物を持ちながら、歌舞伎町の人込みの中を歩くのは、とても大変なことだった。買い物袋を持ちながら歩いていると、不思議とあれほどうるさかった客引き連中は、誰一人として、俺に声を掛けてこない。
 店に戻ると社長の水野が来ていた。俺を見るなり嬉しそうに近付いて来る。
「おー、赤崎君、大変だったろう。今、客いないからその辺に座って一服でもしなよ」
 強引に椅子に座らせられると、鈴木が俺にアイスコーヒーを持ってきてくれた。水野は険しい表情で岩崎に何かを話している。岩崎は必死な表情でそれに答えている。鈴木はキッチンの方に行ったまま、こちらに出て来る様子もない。
「山下の野郎、見つけたらちゃんと報告しろよ」
 水野の声がでかくなり、俺の耳にもちゃんと聞こえた。
 待てよ、山下は昨日で辞めたんじゃなかったのか?
 さっき岩崎が俺に説明したばかりなのに、何故、水野は山下の件でこんなに荒れているのだろうか?
 とりあえず俺は聞こえないふりをして、煙草を吸いながら全神経を耳に集中させた。
「どうすんだ、あの二十万。鳴戸が来たら大変だぞ。これ以上、俺の立場を悪くするなよな。おいっ、岩崎」
「すいません。鳴戸さんが来たら、俺が謝っておきます。まさかあんな奴だとは思わなかったんで…。本当にすいませんでした」
 一体、何の会話なのだろう?
 二十万、鳴戸、山下をあんな奴……。
 チンプンカンプンだ。
 今、話しに出てきた人物、鳴戸……。
 ちょっと話を聞いただけでも、鳴戸という人物が、社長の水野よりも格上といった印象を受ける。
 二十万と山下に、何か結びつきがあったのだろうか?
 プルルル…、店の電話が鳴る。慌てて岩崎が電話に飛びつく。
「お電話ありがとうございます。ダークネ…、はっ、はい。そうです、岩崎です。はい…、はい…、すいません」
「鳴戸か?」
 水野の問いに、無言でうなずく岩崎。顔面が真っ青になっている。人間の表情がこうも極端に変化するものなのか。もし岩崎が、演技でやっているとしたらアカデミー賞ものだ。
「はい、水野さんは今、店にいます。はい…、かしこまりました」
 岩崎が受話器を置くと、店の中には何ともいえない緊張感が漂っていた。鈴木はまだキッチンから出てこない。水野と岩崎の表情はとても暗い。
 仕事初日の俺が、何をしていいかわからずキョトンとしているのに、まったく目に入ってない様子だ。とりあえず立ち上がり、雑巾をよく絞ってから、ゲーム台の上を雑巾がけしてみることにする。店の中の空気は、その場にいて何もしないでいられるほど、落ち着いたものじゃなかった。
「おお、赤崎君、気が利くなー」
「いえ、まだ何も分からないので、これぐらいして当然です」
 手を動かしながら水野に答える。内心はこれから何が起こるのか、ちょっと怖かった。この店の雰囲気をたった一本の電話で変えた鳴戸という人物。怖そうなイメージしか湧かない。
 誰もが無言のまま、俺の雑巾をゆすぐ音だけが聞こえる。
 ドンドンッ…、ピーンポーン……。
 入り口のドアが乱暴に叩かれ、すぐにチャイムが鳴る。
 キッチンとホールのところには、入り口に付けてあるカメラの映像を写すモニターがある。モニターには、三十代後半のサラリーマンみたいな男が写っていた。
 俺以外の店にいる人間の表情が途端に曇りだす。水野がドアを開けるようにジェスチャーをした。俺は頷き、ドアを開ける。
 モニターに写っていた男は、緩やかに店に入ってきた。
「おはようございます。今日からお世話になります。赤崎と申します」
「あ、鳴戸君、彼が今日入ったばかりの赤……」
 水野が話し掛けているのも構わず、鳴戸は俺の挨拶もまるで聞こえていないような感じで、一切反応を示さない。
 一見、普通のサラリーマン。ただ、体中からすごい殺気を放っている。只者ではないということだけは、本能的に理解出来た。岩崎が近寄って行く。
「おはようございます、鳴戸さん」
「どういうことですか、これは……」
 妙に甲高い声だ。見た目と声が一致していない。非常にアンバランスなのである。
 鳴戸は岩崎など視界に入らないかのように静かに目を動かし、水野に目線を合わせると近付いていく。水野の表情は、目をパチクリさせ、面白いくらい落ち着きが無くなっている。
「いやー私もあの時、店にいなかったんだよ。岩崎がいるし、まさかあんなことになるとは思わないだろ?」
「あのねー、水野さん、あんた、そんなことばっか言ってるから駄目なんですよ。ここの金は私が持つ、管理は水野さん。そうやって何度も話し合ったでしょう。今更、何を言ってんですか?ガキの使いじゃないんですよ、ガキじゃ」
 鳴戸の声はより一層甲高くなる。口調は丁寧だが聞いていると寒気を感じる様な話し方だ。水野は何かを言い掛けるが、口を閉ざす。
「黙ってちゃ、分からないでしょう、黙ってちゃ…、水野さん。私はこうなったというのを聞きたい訳じゃないんですよ。じゃー、そのあとをどうするか。それを聞きたいんですよ。どうするんですか、水野さん?あれは私の金ですよ、私の……」
 水野は下を向いて何も言えなくなっている。岩崎にしても鈴木にしても、俺の傍に来て、鳴戸を見ながら黙って立ったままだ。
「おいっ、岩崎。昨日の状況を言ってみなさい」
 鳴戸がこちらを振り向く。鳴戸の視線は、俺に向けられた訳でもないのに、一瞬にして鳥肌が立つ。岩崎は一瞬、俺の方を見てから躊躇うように話しだした。
「あ、あのー鳴戸さん、自分の横にいるのが、今日から入った赤崎さんです。すごい気がつくし、とても真面目なので……」
「おいっ、岩崎。そんなことは聞いてないでしょ。そんなことは。昨日何があったのか、それを分かり易く簡潔に話しなさいって、さっきから私は言ってるんですよ」
「すいません。自分が食事しに外に出てる間、客は二人いて、鈴木と山下が見てました。それで鈴木が客のINに行ってる時に、山下が金庫の中の金を二十万つかんで、いきなり店から走って逃げだしたんです」
「鈴木ー、あなたはその時、何してたんですか?」
 さらに体の強張る鈴木。もともと身長百六十センチぐらいしかないだろうが、委縮してもっと小さく見える。
「は…、はい。自分は店に客もいたので、自分が山下さんを追いかけたら、店に誰もいなくなってしまうので、岩崎さんが戻ってくるまで店にいました」
「なー、鈴木ー。山下にさんはいらないでしょ、さんは。本当使えない奴ですねー。もう帰っていいですよ。明日から来なくていいですから。分かりましたか?」
「は、はい。分かりました。今までお世話になりました。失礼します」
 泣きそうな顔をしながら、鈴木は荷物をまとめだす。水野も岩崎も黙ったままだ。
 何かとんでもないところに働きに来てしまったようだ。鳴戸が俺に視線を移してくる。甲高い声を上げて、無表情で淡々としていた顔が、急に笑顔に変わっていく。
「赤崎君でしたっけ。初めまして、鳴戸です。うちは暇な店ですけど、社長の水野さんと私とで共同経営でやってるんですよ。おい、鈴木、邪魔です。いつまでも私の視界に写っていると目障りなんですよ。早く消えなさい」
「はい、すいません。失礼します……」
 鈴木は荷物を持ち店から出て行く。目の前で起こっている光景があまりにも現実離れしていて信じられなかった。働いている人間がこんなにも簡単にクビになる。でも今、この目で見ていることはリアルな現実なのだ。
 昨日の今日で二人もスタッフがいなくなった。鳴戸の視線は俺を見ている。早く受け答えしないと……。
「初めまして、赤崎です。右も左もまだ分からない新参者ですが一生懸命に頑張ります。よろしくお願いします」
 目を細める鳴戸。作り笑顔かもしれないが、見ていて思わずゾッとする。
 どうやら俺のことをちょっとは気に入った様子だ。俺はこんな恐ろしい男の下で働き、これからどうなっていくのだろうか?
 辞めると言うなら今しかないような気がした。
 しかし、どう切り出せばいいのか……。
 なるようにしかならない。ここは腹をくくるしかないのだ。
「水野さん、いい感じの子入れましたね。これからは岩崎と赤崎君の二人いれば、店は大丈夫でしょう。岩崎、あなた店長なんだからしっかりと頼みますよ。…で、水野さん。明日までに水野さんの金で二十万埋めといて下さいね。これは店をまかせているあなたの落ち度ですから、いいですね。それでは私は帰りますが、しっかりと頼みますよ」
 一方的に話し終わると、鳴戸は店を出て行った。
 理不尽がまかり通る街、歌舞伎町……。
 その裏側の顔を少しだけ見たような気がする。水野はあれからずっと下を向いて無言のままだ。
 聞いた話をまとめてみる。昨日、俺がここで面接を終えて帰ったあと、客が二人来店。岩崎はご飯を食べに外へ行き、その間に山下は店の金を二十万持ち出し逃げた。その場に居た鈴木は責任を取らされクビ。店の金である二十万は水野が自腹で埋めなくてはいけない。
 そしてこのダークネスというポーカーゲーム屋は、鳴戸と水野の共同経営で成り立っている。ただし共同といっても、鳴戸の権力が強過ぎるといった感じはするが……。
「すいませんでしたね。赤崎さん、ビックリしたでしょ。鳴戸さんちょっと怖いとこあるから…。問題ないですけどね。それより早番、これで自分と赤崎さんの二人になっちゃいましたけど、これからも頑張りましょうね」
 鳴戸が帰ってからの岩崎は、とても飄々としているように見えた。水野には目もくれようとしない。
 これで俺は逃げ出せなくなったのだろうなと実感した。不安はメチャクチャある。でも今までに無い刺激を感じているのも確かだ。
 ミスの許されない世界。
 あとは岩崎のように、どううまく立ち回れるかでも違ってくるのだろう。さっきの様子を見ていると、鈴木がトランプのババ抜きで、ババを掴まされた感じがする。
 この岩崎という男、外見や仕草からは想像もつかないぐらいしたたかなんだろう。俺自身、いつ鈴木みたいになるか、分かったものじゃない。
 笑顔でも常に警戒心だけは怠らない様にしよう、気を付けないと……。
 まずは仕事を一から理解しなくては話しにならない。何も無い俺は、この場所に慣れて働き、金を稼いでいくしかないのだ。
 
 岩崎が親身になって教えてくれたトランプのポーカーゲーム。
 ルールはとてもシンプルで、最初にカードを五枚もらい、チェンジは一度限り。その一度のチェンジで五枚全部変えても、役が揃っていればカードを変えなくても良い。
 役の説明を弱い順に説明してみよう。
 同じ数字が二枚だけ揃うとワンペアー。
 二枚揃ったのが、二組あるとツーペアー。
 同じ数字が、三枚揃うとスリーカード。
 五枚のカードの数字が、順番に並ぶとストレート。
 五枚のマークがハートなら、ハート全部と揃うとフラッシュ。
 ワンペアーとスリーカードの競演でフルハウス。
 同じ数字が四枚揃うとフォーカード。
 ストレートとフラッシュの競演でストレートフラッシュ。
 さらにA・K・Q・J・十の数字でフラッシュだとロイヤルストレートフラッシュ。これが一番強い役だ。
 対人間とやる時は、どちらがより強い役を作って張り合うもので、これで金が絡むと何の役も揃ってなくても、ハッタリで、相手を賭けの対象から降ろさせる事も可能な心理戦になる。
 これを対コンピューターのゲームにすると、どうなるのだろうか。
 まず、ツーペアーが出ると、賭けたベット数の二倍。
 スリーカードで三倍。
 ストレートで五倍。
 フラッシュで七倍。
 フルハウスで十倍。
 フォーカードで六十倍。
 ストレートフラッシュで百五十倍。
 ロイヤルストレートフラッシュで五百倍になる。
 店ごとによりレートが違う。店のレートを表す上で、一円、十円、百円とだいたいこのようなレートに別れる。一円の店は、基本的に一ベットで一円。
 しかし、そんな金額でやられても商売にならないから、最低五十ベットからマックスで百ベットまでにしたりしているようである。簡単にいうと、一回ポーカーのゲームをするたびに百円かかる訳だ。
 十円のレートの店は一ベットで十円。マックスが五十ベットだから、一ゲームで五百円かかり、百円だとマックスは二十ベットなので、一ゲームで二千円かかる訳だ。
 カードを一度チェンジして何も揃わなかったら、どんどん金は消えていく。
 ゲーム屋によってポーカーゲームの機種も非常に多く様々な台がある。
 ここダークネスで扱っている機種のルールはとてもシンプルで、レートは一円。
 台は役を揃えたら、ダブルアップかテイクかを決める。一円は常識で言うと、役が揃ったらダブルアップで次に出る数字を予想する。七を基準にすると、それよりも大きい数字だとBIG。小さい数字ならSMALLを叩く。
 それを繰り返してベットで賭けた数字が一万点を越えると業界用語で「一気」となり、その点数はそのまま現金として客に帰ってくるシステムだ。つまり点数が一万点を越え、一気になると画面は赤く点滅しながら点数がクレジットに加算されていく。
 例えばマックスの百ベットで役がスリーカードと揃ったとしよう。
 百のベットが三倍の三百になる。三百点をダブルアップで叩いて当たれば、倍の六百点。また叩いて当てると千二百点。次は二千四百点、四千八百点、九千六百点となり、この九千六百点を更に当てると一万九千二百点となり一万点を超えるので一気となる訳である。
 また叩いた時の数字で、七が出ればそのまま×三倍になる。
 岩崎はこの台を赤ポーと言っていた。何でそういう名前なのか聞いたが、説明を受けても理解出来なかった。
 一万九千二百点の百の位は二百、四捨五入すると繰り下がり現金にして一万九千円が、客の手元に戻ってくる訳である。仕事初日、聞いたゲーム屋の説明は、こんなところだ。
 俺は朝十時に行って、終わるのが夜の十時だから、十二時間働く計算になる。一日行って日払い、一万三千円の金をもらえる。
 結局初日は、客が誰も来なくて、買い物と仕事の説明を聞き、掃除をしただけで金をもらったことになる。ちょっと申し訳なかったが、素直に受け取ることにした。
「じゃあ、赤崎さん、ちょっと早いですけど、今日はもういいですよ。お疲れ様です。また明日も十時に来て下さいね」
 岩崎は笑顔を絶やさずに話してくる。時間を見ると、まだ九時半だった。
「何か暇で、何も役に立たなくてすいません」
「いえいえ、気にしなくていいんですよ。さっきの鳴戸さんにしても、水野さんにしても赤崎さんみたいな人を欲しがってましたし…。あ、もちろん私もですけどね。さっき鳴戸さんの話、聞こえたでしょう?やっぱ歌舞伎町というだけあって、従業員も山下みたいに狡い奴多いんですよ。鈴木も今日でクビになったけど、目の前で二十万盗られてるのに、指くわえて何してたんだって感じですしね。ああなるのも仕方がないですね」
 岩崎は自分が外に出掛けていたことについては何も触れず、何の責任も無いような口ぶりで話している。でも、俺に対して、色々と気遣ってくれているのは事実だ。
 今日一日で、色々な経験をしたような気がする。
 あとから来た鳴戸というオーナー。
 外見はそれほどでもないが、面の皮を剥げば、ヤクザみたいなものだ。かえって、あの中途半端な丁寧口調が怖い。水野の背中がとても小さく見えた。共同経営とは名ばかりで、鳴戸が実質的なオーナーの店といった感じだ。
 でも、俺は歌舞伎町に飛び込んだのだ。せっかくだからやれるだけ、頑張ってみようと思う。うまくこの街を渡り歩いてやろう。スタートは、このゲーム喫茶ダークネスからだ。
「こちらこそよろしくお願いします。では明日も十時に来ますので」
 一礼して店を出る。隣のビルのピンサロの眼鏡を掛けた店員は、まだ外に立って客引きをしていた。
 俺に気付くと、ニッコリ微笑みお辞儀してくれる。あれからずっと立ちっぱなしで通行人に声を掛けていたのだろうか?
 俺にはこういう仕事は、絶対に出来ないだろう。
 そんなことを考えながら、お辞儀して駅へと向かう。夜になると一段と人の密度は上がる。通りには焼鳥屋があるのか、とてもいい匂いと煙が辺りに充満していた。
 
 帰りの電車はさすがにギューギューだ。特急の券を買おうとしても満席で買えなかった。仕方なく普通の急行に乗り、立ったまま窓の景色を眺める。
 電車が着くまで約一時間かかる。乗る前に雑誌か何か買っておけば良かった。
 次々と通り過ぎていく景色を見ながら昔を思い出す。
 どこの建築現場だったっけな……。
 二十一歳の時、ある建築業のアルバイトをしていた。
 朝の四時半に会社に集まるよう言われ、親方の香川と、先輩の…、といっても二日俺より早く入っただけで、一つ年下の緑川との組み合わせだった。
 その三人で田舎の方面へトラックで向かい、二時間くらい掛かって現場に辿り着いた時のことだ。
 俺の仕事はシャベルを持って延々と地面の穴を掘る。すぐに汗が噴出し、全身がビッチョリになる。そんな状況で途中、大雨が降り出してきた。親方は、雨宿りしながら煙草に火をつけ、退屈そうにしている。たまに俺に向かって怒鳴った。
「おいおい…。何、貴様、手を休めてんだよ。さっさと掘れよ。そんなんじゃ、いつまで経っても帰れねえぞ」
 雨でずぶ濡れの俺に、構わず罵声を浴びせる。息をすると白い煙が口から漏れる。髪の毛を伝って雨が目に入るのを拭いながら、俺は我慢して一生懸命穴を掘った。
 自分の中にある憎悪を閉じ込めるように……。
 帰って日給の一万円が欲しかった為に……。
 情けなかったなー、あの頃は、ほんと……。
 まあ、今もそんな変わりゃーしないか。
 ただ、その頃よりもちょっと年をとり、若気の至りというものがどんどん世間的に通じなくなっていくのを理解してきただけのことだ。
 金をつかんでみたい。周りにあいつは凄い奴だって言われてみたい。
 今まで俺は彷徨っていた。今も現状はそんな感じかもしれない。でも、足掻いてみるしかない。足掻くことだけが、今の俺を支える原動力となる気がする。
「おいっ、飯にするぞ」
 親方が俺に声を掛けてくる。仕事へ行く前に用意していた弁当の蓋を開けるが、服はずぶぬれ状態で寒気を感じるせいか、あまり食欲は湧かない。
 両手を広げてみる。爪の間まで泥が入り込み、とても薄汚れている。気になるので、食事を中断して手を洗いに行く。
 同僚の緑川が自動販売機でジュースを買っていたが、俺に気付いて手招きをしてくる。
「おまえ、もっと愛想振りまいて、要領良くやれよ。親方、機嫌悪くて、こっちにまでとばっちりがくるじゃねーかよ。おい、赤碕…。聞いてんのかよ、おいっ」
 急に俺を突き飛ばしてくる緑川。動じずにそのまま睨み付ける。
 緑川は一瞬ビクッとした反応を見せたが、まさか俺が、手を出すとは思っていないのであろう。胸倉をつかみ、さらに凄んだ。
「ここじゃ、俺の方が先、入ってんだよ。俺の方が一こ下だけど先輩だぞ。態度でけーんだよ、いつも赤崎はよー。殴んなきゃ分からね―か、あっ?」
「す、すみません……」
 誰に対して口を利いているつもりだ、このガキが……。
 そう言いたいのを堪えて、形だけ謝った。自分自身への不甲斐無さに体が震える。
 学生の頃なら、とっくにぶち殺しているところだ。いつから俺はこんな丸くなったんだ。拳を力一杯握り締める。
「おい、聞いてんのかよ、あっ?」
 緑川は殴るふりをし、色々喚きだす。血液が沸騰してくる。学生時代を思い出す。いつからこんな大人しくなっちまったんだろ。
「おらっ。舐めてんのか?」
「……」
 気が付くと、俺は緑川の鼻に頭突きをしていた。鮮血がほとばしる。鼻を押さえてうずくまる緑川。
 今まで溜まっていた鬱憤をぶつける。そのまま顔面を蹴り上げた。足のつま先から伝わる感覚が気持ちいい。殴ることに何の躊躇いも感じない。ゾクゾクとした快感が背筋に走る。嫌いな奴を殴るのは、何の罪悪感もない。
「赤崎さんすいません、すいません。勘弁して下さい」
 懇願する緑川。ちょっと暴力をちらつかせるだけで、ある程度の人間は暴力に屈服する。右側に口が歪む。顔がニヤけてくる。
 無言でうずくまった亀状態の緑川の体へ、ところ構わず無差別に蹴りを入れた。一発蹴るごとに、快感が増してくる。
「おまえら、何してんだ。おいっ、赤崎…。やめろ。やめろよ……」
 俺が暴力を振るっている状況を目の当たりにして、香川が大声をあげながら、向かって来る。俺は学生時代の残虐的な感覚にすっかり浸っていた。
「うるせーよ、クズが……」
 顔面に容赦なく拳を叩き込む。大袈裟に悲鳴を上げながら倒れこむ香川。
「あー、痛いよー。痛いよー」
「何、いつも偉そうにしてんだ、クソが…。ちょっと先に入った程度で、楽しながら胡座かいてんじゃねーよ。何が痛てえんだよ、オラッ。舐めてんじゃねえぞ」
「やめろ、やめてくれ…。悪かった。うげっ……」
「うげっじゃねんだよ。何ビビリ腐ってやがんだ」
 相当こいつにはムカついていたんだろうな。いくら殴っても蹴っても、罪悪感は無かった。心がスッキリする。まー、そろそろやめてやらないと、壊れちゃうか……。
「今日の金はいらねーから、テメーらにくれてやるよ。もう、俺は帰るから家まで送ってけや」
「うっ…、ゴホッ…、む、無理ですよ。まだ昼じゃないですか…。無理言わないで下さいよ…。勘弁して下さい」
 ためらわず横っ腹に蹴りをぶち込む。緑川はのたうち回る。
「聞こえなかったのか?俺は送ってけと言ったんだ。もう、同じ台詞吐かねーぞ」
「は、はいっ」
 腹を押さえたまま、よろめきながら二人は起き出す。狭山まで送らせると、「変な気起こすとぶち殺すからな」と、散々脅してから開放してやった。
「次は狭山市、狭山市でございます……」
 車掌のアナウンスで現実に戻る。もう地元の近くまで電車は来ていた。
 
 家に帰り、服を脱ぎ捨てて風呂に入る。さっき電車の中で思い出した暴力シーン。気持ちはスッとするが、いつも後悔の連続だ。
 まず金が手に入らない。後々面倒なことになることが多い。俺が殴った相手は俺を憎み、いつどういう形で報復があってもおかしくない。まー、あんなザコがきたところでどうってことはないが……。
 それより今日出会った鳴戸。
 ああいうタイプは初めて見た。威圧的な話し方といい、恐怖を感じる。どんな理不尽なことを言われても、多分俺は、以前のように怒ることも、感情を剥き出しにすることも出来ないだろう。
 いや、その場で殴り倒すことだけだったら出来る。
 ただ、その後の報復を考えると、どうなるのか想像がつかないぐらい恐ろしい……。
 所詮、俺の喧嘩の腕などその程度のもの。腕力だけじゃ通じないのが暴力の世界。
 うまく言い表せないが、鳴戸はそんな空気を身にまとっている気がする。そんな男の下で明日からまた、俺は働くのだ。朝、仕事に行く前に弟に言った台詞を口にしてみる。
「心配するな、何とかなるさ……」
 どんな状況にも動じない強い心を持たねばならない。そして絶対に騙されないことだ。出し抜かれたら、あの街では終わりだと思え。何とかなるには警戒して自分の立ち位置を常に把握しておかなければならないと感じる。
 これからどうなって行くのか……。
 現状では何も分からない。急に寒気が走る。湯船に漬かって体が温まっているはずなのに、腕を見ると鳥肌が立っていた。
 
 翌日仕事に行くと、ダークネスの店の中は、六名ほどの客がテーブルに座ってゲームをしていた。
 ホスト風の三人組、どう見ても四十は過ぎていそうな厚化粧の飲み屋風の女、自分と同じ年くらいのカップル。
 誰も一言も話さないで、一心不乱にテーブルの画面を見ながら、黙々とゲームをしている。俺が店に入ってきても、客は誰も振り向かないどころか、気付いた様子もない。
 ちょっと異様な雰囲気だ。従業員は岩崎、新堂、田中……。
 鈴木を除けば昨日と変わらないメンバーだ。
「おはようございます」
「おはようございます。赤崎さん、今日はお客さんいるから頑張ってもらいますよ」
 岩崎が、笑顔で話しかけてくる。
「もちろんです。色々と不手際はあるかもしれませんが、頑張りますのでよろしくお願いします」
「そろそろ上がるかな。じゃーね、お疲れ。赤崎、頑張れよ」
「お疲れ様です」
 入れ替わるように、新堂と田中が挨拶して部屋から出て行く。
「はい、お疲れ様でした」
 俺は挨拶を済ませてから、仕事について一通りの説明を岩崎から受ける。
「まだ慣れてないし、今日はIN(イン)を教えますね。簡単ですから。これ、台にクレジット入れる時に使うINキーです。持ってて下さい」
「INキーですか」
「ええ、INをする鍵だからINキー。みんな、そう言ってます」
「なるほど」
 ポーカーゲームを始めるに当たって、客は最初に金を払ってクレジットを入れてもらう。レートは一円なので、だいたいの客は千円から二千円を店員に渡し、店員はその分のクレジットをINキーを使って機械に入れるのだ。この行為を業界用語でINと言う。
 来店して最初にINを入れる時のみ、初回サービスというものがある。どの店でもやっていることらしいが、伝票を出して客に名前を書いてもらい、その代わりに二千から三千分のクレジットをプラスして客にサービスするのだ。
 これによって客の名前…、偽名かもしれないが、来店数もチェック出来る。
 ずるい奴は早い時間、遅い時間と二回来店して、違う名前を書くのもいるらしい。そうすれば、初回サービスが一日で二回入るからだ。
「ちょっとせこくないですか?」
「金持ってない奴の浅知恵ですよ。自分たちの時間帯と、新堂さんたちの時間帯に来て、違う名前書かれたら、さすがに分からないですからね」
「そんなことやって、何がしたいんですかね?」
「とりあえず初回サービスの簡単な説明しますね」
 そう言って岩崎はまた説明を続けた。
 ダークネスの初回サービスポイントは三千。客は初回二千円を払い、クレジットはこのサービスをプラスして五千スタートとなる。
 ここからゲームは開始となるが、一回プレイすると、マックスで百ベットかかる。マックスつまり満タンでゲームしたとすると、一ゲーム百円だから、役が一度も出ないと、五十回のプレイで初回入れたクレジットは無くなる。
 その後の客のINの入れ方は自由らしい。ただ初回サービスというものが入ってるので、最初のクレジットが溶けて、そのまま客が帰るのだけはお断りする。業界の常識としては在り得ないことであるらしい。
「岩崎さん、何故、初回のみで帰っては駄目なんでしょうか?」
 素朴な疑問を岩崎に言う。
 ここは、いうならば賭博場だ。例えばパチンコに行って、二千円だけカードを買い、パチンコをして、玉が無くなり帰ろうとしても、何もおかしいことはない。だが、ポーカー屋はそれでは駄目という。一体、何故なのだろうか?
「パチンコにしても競馬にしても、いくら使ってもサービスなんて無いですよね?例えばパチンコ屋が最初に玉買って、これ初回サービスですって三千円分の玉を来る客来る客にやってたら商売にならないですよね。ゲーム屋はその初回サービスをやってるから、せめて初回分だけじゃなく、一万円ぐらい使う勝負はしてって下さいということなんですよ。それはゲーム屋のルールで、暗黙の了解といったとこです。もしくは常識というか……」
「うーん、そういうもんなんですか。確かにサービスもしているし、理屈的にはそうなりますよね」
「それでさっきの初回サービスを欲しいが為に、時間ずらして来る客ですけど……」
「ええ」
「うちだけじゃなく、他にもゲーム屋を色々回る奴って多いんですよ」
「そんなことして、何かメリットでもあるんですか?」
「ええ、もちろんあります。同じ五万円を使うにしても、うちだけでその五万を使うとしたらどうなります?INというか、クレジットに換算すると」
「えーと、初回サービスが三千入るから、五万三千になりますよね」
「余所の店も回れば、もっとクレジットが入るじゃないですか。初回だけだとこっちも注意します。でも、初回サービス分が無くなったあとで、三千円分INを入れて帰ろうする客には、こちらは何も言えません」
「そうですね」
「だから五千円ずつ勝負で十件の店を回れば、十件分の初回サービスがもらえるじゃないですか。クレジットに直すと、一件三千点だから全部で八万点になります」
「あ、そうですね。普通にやるよりは、勝つ確立は上がりますよね」
「でも、やる時はいつも五千円で出ると、すぐに持ち帰りじゃ、店はまだいいとしても、ずっとうちでやっている他の客は、気分良くないじゃないですか」
「何でです?」
「パチンコで考えると分かりやすいので、例え話で説明しますね」
「ええ」
「ずっと一つの台につっ込んでる客がいたとします。その人は毎日十万ぐらい負けていても、懲りずに毎日打ちに来ます。店側にしてみたら、いい客だと思いません?」
「いい客ですね」
「その人の横で、千円のパッキンカードを持った客が座ってすぐフィーバーしたとしますよ。単発でも確変でもいいですけど。玉が出終わると、すぐに換金して終了。赤崎さん、そのいい客はそれ見てどう思います?」
「うーん…、いい客の立場にしてみれば、確かにムカつきはすると思いますが、この場合は仕方ないんじゃないですか?」
「ええ、仕方がないです」
 岩崎は一体、何を言いたいのだろうか。分からなくなってきた。
「でもそのせこいのが、いい客の目の届く範囲にいつも座ると仮定して、何回かはしょうがないですけど、負ける時は千円負けるとおしまいみたいな勝負の仕方見ていると、何だこいつはって思ってもしょうがないですよね」
「そうですね。でももし、そのせこいのが嫌なら台を変えるしかないんじゃないですか?それか我慢して打つか、もしくは別の店に行くしかないと思いますよ。あ……」
 自分で言っていて、やっと分かった。パチンコなら問題はないのだ。パチンコなら……。
 今の状況をこのダークネスで例えたら、とてもじゃないが話しにならない。規模が違うのだ。ゲーム屋とパチンコ屋とでは……。
 そのせこい客一人のせいで、いい客が逃げたら店のダメージはとてもでかい。岩崎が俺の表情の変化を見て笑っていた。
「だからそういうのは何度か同じことしてたら、出入禁止にしないと駄目なんですよ」
「……ですね」
「腐ったみかんのせいで、いいみかんまで腐らせることはないですから」
 なかなかいい表現だ。岩崎の話し方に好感を覚えた。
「でもせこい奴は、色々あの手この手って、せこいこと考えてくるんですよ」
「それで時間帯ずらして、初回サービスの伝票に名前を変えたりとかってなるんですね。他にも何かあるんですか?」
「友達と三人で来て友達に名前書いてもらったりとか、横で見ている彼女の名前を使ったりですね」
「はぁ、恥を捨てれば何でも有りなんですね」
「ま、実際に現場見てればゲーム屋が、どういうもんだかすぐ分かりますよ」
「……ですね。頑張ります」
「とりあえず、今日は客が帰ったら台の上を掃除して、ドリンク無くなってたら、聞いて出してあげる。キッチンに何でも揃ってますから。灰皿も二本溜まったらすぐ交換。それ以外は、客が入れてーとか言うから、千円出してきたらクレジットを千、二千円なら二千入れてあげて下さい」
「入れてー」
 ホスト風の客が声を出す。見ると前を向いたまま右手で千円札を二枚ヒラヒラさせている。何だ、このクソガキが…。でけえ態度しやがって……。
「ほら、赤崎さんお願いします」
「あ、は、はい……」
 ムカついているどころじゃなかった。今は仕事中なのだ。岩崎に急かされて客の二千円を受け取り、クレジットを二千入れる。画面を見ているとキングのフォーカードが揃う。画面が赤く点滅しだす。
「はい、五卓さん、キングのフォーカードです」
 岩崎が大きい声でそういうと、正面の壁に歩いて行き、マグネットの板の五と書いてある枠に赤いマグネットをつける。他のホスト風の二人が台に集まる。
「キングのフォーカード?ヒモは…、Aか」
「B…、いやSじゃねーの。自信無いならテイクしちゃえばー」
「叩くしかねーじゃん。うーん…、七出ねーかな…。六千の三倍で一万八千」
「ビックだよ、ビック叩いちゃえよ」
 ホスト風の三人組は色々話し合っているみたいだ。会話の内容を聞いて理解出来るのは、フォーカードをダブルアップして、BかSのどっちを叩くか、相談しているといった感じだ。見ていて非常にうざい光景である。
 パーラーラー……。
 機械がダブルアップで外れた時の音を出した。
「うわー、だからビックって言ったじゃん。絶対にビックだったよ。しかもビンゴだったじゃん。五万だよ、五万」
「しょうがねーだろー。うるせーよ」
 三人組は、好き勝手に言い合っていた。
「入れて下さい」
 七卓のカップルの男が呼んでいる。一万円札を出している。
「三本お願いします」
「はい」
 クレジットを三千入れ、七千円を客に返す。男の口調は冷静だが、表情はやや強張っているようにも見える。
「あっ君、突っ込みすぎよー。もう辞めたらー」
「うるせーよ、てめーは…。黙ってろよ」
 あっ君と呼ばれた男は、横で座っている彼女らしき女に怒鳴りだす。
「何よ、まったく…、ふんっ……」
 男は女の様子を一切気にせず、一心にゲームに集中している。俺は無言で台の上の灰皿を取り替える。グラスを見ると空だった。
「よろしかったら何か、ドリンクお持ちしますか?」
「あっ、すいません。じゃあ、コーラをお願いします」
 キッチンに入り、グラスにコーラを注ぐ。音を立てないよう静かに七卓のテーブルに置く。男は画面に目をやったまま、無言でお辞儀する。
 たったそれだけの行為に好感を覚える。不思議なものだ。でもこれが、お互い暗黙の気遣いというものなのかもしれない。
「店員さーん、私にもちょうだい。私ねー、えーとねー、暖かいコーヒーがいい。うーんと甘くてクリームたっぷり入ったやつがいいなー」
「かしこまりました。失礼します」
 俺は軽く笑顔を作り、彼女の空いたグラスを下げる。キッチンに行ってコーヒーを淹れる。砂糖を三杯、ポーションクリームを二つ入れ、ゆっくりと混ぜ合わせる。少し砂糖を入れ過ぎかと感じたが、別に自分の女って訳じゃないし、彼女がそれで虫歯や肥満になろうが知ったことじゃない。作り終えて先ほどと同じよう、音を立てずにテーブルに置いた。
「ありがとうー」
「いえいえ、とんでもないですよ」
「あ、おいしー」
 女はすごく嬉しそうだ。見ていてこっちも、つい、微笑んでしまうような笑顔を作っていた。さっきコーヒーを作った時に思ったことを思い出すと、作り直してあげれば良かったなと反省する。こんないい子を肥満にはしたくない。あとはINする客はいないか、後ろに下がってさり気なく観察する。
「なかなかいい感じですよ、赤崎さん。この仕事、本当に初めてなんですか。それとも何か以前に、サービス業でもやってたんですか?」
 岩崎がとても嬉しそうな表情で近付いてくる。
 確かに以前、配膳の仕事でホテルや結婚式場でサービスを学んだことがある。いくら初めてとはいえ、この店の中の客六人分の接客は簡単なものだった。
 式場では来場する客ですらマナーを問われる。そこで働く従業員に対しては、さらに周りの見る目は厳しい。きちんとした接客が出来て当たり前。粗相をするとつけこまれてしまう世界だ。何をするにも神経過敏になる。
 それに比べればずいぶん楽な仕事に思える。そのことを岩崎に説明するのは面倒だったので、誤魔化しておくことにした。
「そんなことないですよ。ただ、岩崎さんの教え方がうまいだけです。まだ、全然、役に立ってませんし……」
「何、言ってんですか。でもまー、この調子で頼みますよ」
「そういえば、よくお客さんがBとかSって言ってますけど、あれは……」
「BはビックのB。SはスモールのSですよ。ダブルアップの画面の時に七より大きいと思えば、Bを叩くし、七より小さいと思えばSを叩けばいいということです」
「へー、勉強になります」
 ホスト風の三人組があれから一万円ほど使って何も出ないと諦めて帰っていく。その日の稼ぎを全部摩ってしまったという表情だ。背中にどよんとした哀愁が漂う。俺は心の中で合掌した。小声で岩崎に話しかける。
「あのカップル、どのぐらい使ってるんですか。さっき彼女と揉めてましたけど……」
「うーん、十万ぐらいかな…。来た当初は調子良かったけど、徐々にズッポリとハマッてる最中って感じですね。まー、本人が望んでやってるからこちらとしても止めようがないし、しょうがないことなんですけどね。でも、綺麗に遊んでるから大したもんですよ」
 正に正論だ。よくパチンコ屋で台をガンガン叩いたり、落ち着きなくなったりしている客を見かけることがあるが、確かにあれはハタから見ていて非常に格好悪いものだ。
 いくら使って負けようと、自分で望んでやっていることなのだ。店員が、もっとやって下さいとお願いしている訳でもない。
 二時間ほど経つと、カップルの二人連れも諦めた様子らしく、無言で寂しく帰っていく。
「あ、ありがとうございました」
 カップルの男は、俺を一瞬睨むと、静かに階段を降りていった。何故、睨まれんだろうか?
 岩崎が小声で話しかけてくる。
「赤崎さん、客の帰る時にありがとうございましたは駄目ですよ。散々負けたあと、そう言われると、いかにも店にハメられたって感じじゃないですか。帰るときは、どうもすいません、お疲れ様ですって感じで言って下さい。お願いします。まあ、最初に言ってなかった自分がいけないんですけどね」
「すいません。以後、気を付けます」
 客に、ありがとうを言ってはいけない商売というのも珍しいものだ。
「最初だからしょうがないですよ。あっ、そろそろまた、ドリンクとかの買い出し行ってもらえますか。ゆっくり行ってきて構わないですから。お腹減ってたら、食事してきてもいいですよ」
 店の中は、四十過ぎてそうな厚化粧の飲み屋風の女が一人残っていて、黙々とゲームに没頭している。そのゲームの音だけがひっそりと店内にこだましていた。
 
 ビルを出ると、ピンサロのメガネ店員が相変わらず客の呼び込みをしていた。ピンサロ…、ピンクサロンを略してピンサロなんだろうか。俺に気付くと、いつものようにお辞儀してくる。
「大変ですね。最近寒いですし……」
「いえいえ、しょうがないですよ。これが私の仕事ですし……」
「頑張ってくださいね」
「いえいえ、ありがとうございます」
 通常の挨拶程度のどこにでもありそうな会話だが、歌舞伎町という場所を考えると、面白い会話にも思えてくるから不思議だ。
 買い物を終えると、真っ直ぐに店へ歩を進める。岩崎はゆっくり飯を食ってきていいとは言ってくれたが、まだ二日目だ。真面目に真っ直ぐ帰ろう。夜に比べて昼の歌舞伎町の人通りは少ない。
 ふと、人混みの中で歩いている一人の人間に視線が定まる。
 もしかして、あれは山下か……。
 ジッと見てみる。見間違いじゃない。あれは、店の金を持ち逃げしたと言われている山下だ。
 どうするか……。
 岩崎に報告…、いや、彼をチクるような真似は出来ない。
 とりあえず、様子を伺うことにする。すぐにおかしなことに気付く。
 山下は左足を引きずるようにしながら歩いていた。痛々しそうに、人混みの中を必死に掻き分けながら進んでいる。右腕には痛々しそうにギブスがつけられ、すれ違う何人かの通行人はビックリした顔で山下を振り返っていた。
 あのあと、鳴戸に見つかったのだろうか……。
 俺にはそれ以外思いつかなかった。見なかったことにしよう。このことに首を突っ込まない方がいい。本能的にそう感じた。
 徐々に彼との距離が近づく。山下とすれ違うが、向こうは俺に気付く様子もなく、必死に痛みを堪えて歩いている。声を掛けずに黙って後ろ姿を見つめた。
 しばらくすると、山下の姿は人混みの中に消えていく。
 三十分ほどでダークネスに戻ると、客は誰もいなくなっていた。岩崎は正面の壁にあるマグネットのボード板に、様々な色のマグネットを適当に付けていた。
「お疲れ様です。岩崎さん、何してるんですか?」
「やー、どうも。もっとゆっくりしてても良かったのに…。これはですね、ボードと言ってどこの卓に何が出たか、例えば四卓でフォーカードが出たら赤、一気が出たら黄色をこのボードの四って書いてある下の枠に付けるんです」
「先程のお客さんは、もう帰られたんですか」
「負けて自分にブツブツ言いながら帰りましたよ。負けは四万ぐらいですね。まー、昨日の夜中からずっとテケテケでやっていたから、結構遊べてたと思うし、問題ないですよ」
「テケテケって……」
「ああ、そう言えば、赤崎さん。まだ、何も分からないですよね。テケテケってよく客によってテイクしたり、ダブルアップしたりするじゃないですか?」
「ええ」
「ダブルアップで叩いて外すのが嫌で、毎回毎回テイクばっかりして、ちまちまゲームをする客もいるんですよ。そういう奴をテケテケって言うんです」
「そうなんですか」
 そういうものなのかな。この業界分からないことだらけだから、よく理解していかないといけない。
 先ほどの山下の姿が頭の中に蘇る。それに昨日、急にクビを切られた鈴木。いつ何時も、油断は出来ない。慎重に、クールにやっていかないと……。
「……で、岩崎さんは、今、そのボードに何してんですか」
「いや、あまりボードがついてないと、この店出ないなーって、客が来て思うじゃないですか。だからこうしてマグネットを付けて偽造してんですよ。うちだけじゃなくてどこの店でもやってることですけどね」
「確かにそうですね。何か手伝うことありますか」
「もうだいぶ付けたので、大丈夫ですよ。それより赤崎さん、これ……」
 岩崎はいきなり一万円を俺に差し出してきた。一体、何の金だろうか……。
 不思議そうな顔をしていると、突然入り口のチャイムが鳴る。
「早く、早くポケットに入れて……」
 岩崎は焦りながらそう言うとドアを開けにいった。俺は訳も分からずに受け取った一万円をズボンのポケットに捻り込む。
 モニターを見ると、あの恐ろしい鳴戸と水野の顔が映っていた。
 意味不明の一万円。何でこんなものを……。
 心臓がいつもより三倍は早く動いているような気がする。
 落ち着け、落ち着け……。
「おはようございます」
「おはよう。どうですか、今日は……」
 鳴戸の甲高い声が俺の神経を刺激する。相変わらず、異様な殺気を身にまとっていた。さっきの一万円のことについては、きっと何も知らないふりをした方がいいのであろう。あの岩崎の慌てぶりを見た感じでは……。
「ええ、昨日の夜は忙しかったです。全体のINが遅番だけで三百超えましたから。上がりが昨日は…、二十八ですね」
「その調子で頼みますよ。赤崎君も入った事ですし、いい感じになってきたじゃないですか。水野さんも、昨日の二十、用意してくれましたしね。ほら、岩崎。これ金庫に入れときなさい。これでもう問題ないですよね。ねー、水野さん」
「あ…、そっ…、そうだね……」
 鳴戸は機嫌がいい。対照的に水野はとても暗い。胡散臭そうなというより、リストラされ、家族に言えず、公園辺りでくすぶっている親父ような表情をしていた。よほど自腹で二十万埋めたのが痛かったと見える。
 オーナーでありながら、本当に金が無いのだろう。哀れな感じがして、ちょっと同情してしまう。
「赤崎君、だいぶ慣れましたかー」
 鳴戸が俺を見る。顔は笑っているが、目は笑っていない。まるで、俺を観察するような感じだ。
「はい、お蔭様で…。これからもよろしくお願いします」
 落ち着け。自分に言い聞かせる。さっきの一万円のことは、絶対に表情に出してはいけない。演技しろ。いや、演技じゃない。演じた役柄になりきれ。
「そーか…、うんうん……」
 鳴戸の口調はとても穏やかで優しい。それなのに何故か、素直にそう思えない。どこか裏のあるというか、何て表現したらいいのだろうか。
 油断するな。頭のどこかで警告音が鳴る。
「じゃあ、今日は帰るからよろしくな。行きましょう、水野さん。頼みますよ、岩崎に、赤崎君」
「あ…、ああ……」
「はいっ、お疲れ様でした」
 俺と岩崎の声が、同時に重なり合う。申し合わせた訳でもないのに、もし、カラオケに行ったら、いいデュエットが出来そうだ。俺には暇でもカラオケに行って歌うという趣味はないけれど……。
 
 鳴戸が出て行くと、あれだけ重苦しかった部屋の空気が、どこかに行ってしまったように感じる。
「やっと行きましたね…、鳴戸さん。あの人といると、緊張するでしょう、赤崎さん」
「…そうですね。なかなかああいうオーラっていうんですか。気迫というか、今まで見たことない人ですよね」
「絶対に内緒ですよ」
「えっ……」
「さっきの金ですよ。昨日忙しかったし、俺は店長じゃないですか。多少だったら誤魔化せるんですよ。バレたら殺されても、おかしくないですけどね」
 さっきの一万は、店の売り上げから抜いた金だったのか……。
 しばらく呆然とする。なり行きとはいえ、俺はその金を受け取ってしまったのだ。岩崎は口止め料代わりに俺に渡した。知らない間に、後戻りが出来なくなったようなものだ。
 しかし俺なんて、この業界へ入ったばかりの素人に過ぎない。わざわざ俺に渡さないでも、自分で黙って懐に入れとけば、絶対に分からないはず……。
 自分の利益が減るだけなのに、何故、俺に……。
 岩崎の思考が理解出来なかった。素直に聞いてみよう。まだ仕事二日目の俺には、理解出来ないことばかりが多過ぎた。
「い、岩崎さん…。何故、俺に分け前をくれたんですか……」
「信用されてるからですよ」
 岩崎はニコリともせずに、真面目な顔をして言った。
「信用?俺に一体、何の信用があると言うんですか?」
「赤崎さんはこの業界にまったく染まっていない。まあ赤崎さんの性格もありますけど、ちゃんと親元に住んでる。簡単に言うと、この街に来る人間とは、種類がちょっと違うんです。もちろんいい意味でですけどね。昨日の山下の話、聞いたでしょう。ああいうことする奴が腐るほどいるんですよ。この街…。まー、山下のやり方は、別に置いといたとしても、この街ではよくあることなんですよ。日常茶飯事なんです。オーナーサイドからしたら、使う従業員は安心出来る方がいいに決まってるじゃないですか。身元もハッキリして、真面目で頑張るようなタイプが…。だから、赤崎さんは信用されているんです」
「でも、それと金を渡すことと、どういう関係があるんですか……」
「俺がこの場にいない時とか、水野さんにしても鳴戸さんにしても絶対に赤崎さんに色々聞いてくるはずです」
「え、何をですか?例えばどんな……」
「何かあいつは不自然なことしてないかとか、色々な聞き方をしてくるはずです」
「別に変なこと言わないですよ」
「今、自分が金渡していなかったらどうします。悪意はまるでなくても、ひょっとしたら自分にとって致命的なことがばれるかもしれない。事前に自分から、ちょこっとだけでも言っておきたかっただけなんです。俺を裏切らないで下さいね、赤崎さん」
 この状況で裏切れる訳がない。
 一見、質問しているようで岩崎は、イエス以外の選択肢を一切与えなかった。一瞬の早業で俺を丸め込んだのだ。
 再度、街で見かけた山下の姿を思い出した。鳥肌が立つ。
 絶対にあんな目に遭いたくない。
 そうだ、岩崎にさっき見かけた山下のことを話すべきか……。
 岩崎は捻じ曲がった感覚ではあるが、俺を味方に引き入れようとしているのだけは分かっている。もう、後戻り出来ないところに来ていた。
 言うべきだ。このような形で金をもらうのは理想ではない。普通に働き、評価された上で金をもらいたいものだと……。
 しかし、綺麗事を通したいが、それを通せるほど、現実的に今の俺は満たされていない。要は金がないのだ。ただ、岩崎の言い分をすべて聞いても、ちょっと引っかかるところはあった。
 口止め料代わりで、一万という金額は不自然だ。俺はこの仕事に関して、何も知らない素人だし、実際に岩崎がどうやって店から金を抜いているのかすら、まったく分からない。
 黙っていれば、自分だけおいしい思いが出来るのに、わざわざ自分から悪事をバラした。
 それ以外の細かいところは、気にしても意味の無いことだ。考えても分からないのだから……。
 とりあえず俺は、山下のことを話しておくことにした。情けないが、今は岩崎に媚びるしかない。
「分かりました。俺も岩崎さんを絶対に裏切らないですよ。そう言えば、さっき買い物の帰りにさくら通りで、山下さんらしき人を見かけましたよ」
「えっ、…で、どうしたんです」
「人違いだったら嫌なので、じっくり確認しましたけど、右腕にギブスをしてましたね。左足も引きずりながら歩いていました」
 俺が簡潔に話すと、岩崎の顔はさすがに青ざめていた。しばらく沈黙が続く。
「そうですか…。実は、赤崎さんが買い物行ってる途中、店に知り合いから電話あって、おまえのとこの従業員、随分と酷くやられたなー。抜きか何かバレたのかって教えてくれたんですよ」
「鳴戸さんです…、か…、ね……?」
「おそらく…。いや、それしかないですよ。くれぐれもバレないよううまく頼みますよ、赤崎さん」
「は…、はあ……」
 これで早くも俺は、歌舞伎町の住人として、仲間入りしたのであろうか……。
 俺は少なくとも、プラスアルファーの金をもらえるようになったということだけは確かだ。
 その代わり、何か大事にしていたものを失ったような気がする。
 ある一線を越えるとは、こういうことをいうのだろう。俺も結局のところ、薄汚れていた。自分を少し嫌いになった。「金がない」と言っていた母親の台詞を思い出す。
「そんな心配そうな顔しないで下さい。今まで通り普通にしてればいいんです。大丈夫ですよ。大丈夫です」
 岩崎は俺に、今日、一万円をくれた。彼は今日だけで、どのくらいの金額を店から抜いたのだろうか。まったく想像もつかなかった。
 家に帰り、布団に潜る。さくら通りで見かけた山下の姿が、頭から離れなかった。
 岩崎がどのようにして金を抜いたのか、術は分からなかった。
 分かっていること、それは俺が岩崎と秘密を共有するようになり、共犯になったという事実だけなのだ。
 そして、もしそれがバレたら、とんでもない目に遭う。
 岩崎は俺を歌舞伎町に染まってない人間と言った。
 だが、今日で何パーセントくらい染まったのだろう。手探り状態で始まった俺の歌舞伎町の物語……。
 どのような終焉を向かえるのか。
 ここでは、喧嘩が強いなど何の意味も無い。
 もっと頭を働かせろ。
 もっと考えろ。
 そして、油断はするな……。
 
 暗闇の中を歩く俺。
 ここはどこだろう。
 かなり遠くに微かな光が見える。俺はその光に向かって歩き出した。
 どのぐらい歩いただろうか。なかなか光のある場所まで辿り着かない。歩きながら考える。俺はそこまで行って何をしようというのだ。何も分からない。
 それでも自然と光に向かって、ただ歩いていく。
 ぼんやりした光の中に、ブランコみたいなものが見える。ブランコには、嫌な思い出しかなかった。
 その場に立ち止まって、おぼろげに見えるブランコを見つめる。
 どこからか音楽が聴こえてきた。聴き覚えのある曲。確かこの音は…、ドビュッシーのアラベスク第一番……。
 クラシックの中でも好きな部類に入る曲だ。
 聴いていると癒されていく。非常に心地良い気分になる。目を閉じ、曲に聴き入る。
 この曲は、泉から電話が掛かってきた時の着信メロディにもしていた。この間、ふられたばかりの泉のことを考えるとイライラしてくる。まだ、未練でも残っているというのだろうか。
 アラベスク第一番は、悲しい音色で流れ続ける。何かが変だ。よく聴くと、さっきから同じフレーズばかり流れている。
 それにここは、一体、どこなんだ?
 目を開いて辺りを見渡すと、いつの間にか自分の部屋になっていた。
 あの暗闇は一体…、ただの夢だったのか……。
 おぼろげに見えたブランコ。嫌な思い出が蘇る。
 アラベスクの曲とブランコ……。
 俺の心の奥底に封印した記憶、夢となって何かを教えたかったのか。
 
 アラベスクの曲はまだ流れ続けている。
 待てよ、俺の携帯から音が鳴っているのか?
 もう一度、目を開く。広がる景色は、見慣れた自分の部屋であった。どうやら夢を見ていたようである。
 夢と現実が、ごちゃ混ぜになっていた。携帯のメロディは鳴り続けている。
 ひょっとして……。
 着信画面を見ると、案の定、泉からだった。
 今さら何の用だってんだ……。
 色々と考えている内に、着信メロディは止んだ。
「けっ……」
 携帯を放り投げて、再び、布団に寝転がる。このまま眠りにつきたかったが、泉からの電話のせいで、いまいち落ち着かない。
 だいたいあいつは、一体、何のつもりなんだ。苛立ちが募るばかりだった。
「もうっ、隼人なんか知らないから……」
 泉に言われた台詞を思い出す。
 ふざけやがって……。
 突如、また携帯が鳴りだした。着信メロディは同じくアラベスク。
 泉からだった…。今度は慌てて携帯を手に取る。ガツンと言ってやらないと、気が済みそうもない。
「何の用だ?」
「隼人…、あの時、言いたいことだけ言って、あの場から逃げちゃって…。私、ちょっと卑怯だったよね」
「だから何だ?」
「えっ……」
「だから何だってんだよ。それでどうしたいんだ?また、俺に抱かれたいのか?冗談じゃねー。もう、とっくに女は間に合ってんだよ。今さら話すことなんか、何もねーんだよ、ボケッ」
 怒鳴りつけて、電話を切った。再度、メロディが鳴る。悲しそうなアラベスクの音色……。
 俺は放っておいた。
 何度も何度も携帯は鳴り、アラベスクの美しい音色だけが、無情に鳴り響く。女は間に合っている…、とっさに出た嘘だった。
 一体、今の俺に、どんな女がいるってんだ。年齢的に、性欲は充分にある。女とセックスするのは嫌いではない。
 きっと泉はヨリを戻したがって電話をした。いや、そんなものは俺の自惚れかもしれない。こんな薄汚れた環境にいる男など、相手にしない方が泉の為だ。
 おかしい……。
 あいつとのことは、もうとっくに割り切ったはずだ。
 それなのに自分自身、非常に混乱している。色々考えるのは、今の職場だけで沢山だ。
 あんな女、相手にするな……。
 気付くと、部屋の中は煙草の煙で真っ白になっていた。ちょっと寒いが、換気をしようと窓を開ける。外は、結構強めの雨が降っていた。
「んっ……」
 外の電信柱の影に、人が立っているのか…。目を凝らして凝視する。
 あれは…、泉か……。
 傘も差さずにずぶ濡れになって、俺の方を見ている……。
 俺は窓を閉め、すぐ部屋の明かりを消し、真っ暗にした。
 確かに人影は、泉だった……。
「あの馬鹿が……」
 頭から布団を被り、目をつぶる。
 混乱していた。頭がおかしくなりそうだった。
 いつ頃から泉は、あの場所にいたのだろうか?
 俺は、こんな逃げ方をして、無様じゃないのか?
 自問自答してみるが、答えは返ってこない……。
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。外の音で、雨はまだ強い降り方をしているのが分かる。
 泉は、まだ俺の部屋を見ているのだろうか?確認すら出来ない。
 一体俺は何から、逃げているのだろう?答えは相変わらず出ない。
 この落ち着きの無さから開放されたい。
 いや、本当の答えは分かっている。どうすればいいのかは……。
 時計を見る。夜の十一時を過ぎていた。
 こんなところで、布団を被っている場合ではないのだ。一刻も早く外へ出て、泉のところへ行かなければ、答えは出ないのだ。布団を投げ捨て、手早くスーツを着る。
「兄貴、バタバタしてどうしたの」
 ドア越しに怜二が声を掛けてくる。今の俺には答えられる余裕が無い。コートを掴みながらドアを開けると、怜二が不思議そうな顔で立っていた。
「どけよ、ボケッ!」
 怜二を押しのけて玄関まで走る。靴を履いたところで、遠くから声が聞こえた。
「いきなり何しやがんだよ。馬鹿野郎!」
 あとで謝ればいい。怜二には悪いが、今は構っている暇などない。玄関を飛び出して、ずぶ濡れになりながら、俺は泉が立っていた場所辺りまで、懸命に走っていた。
 
 新宿歌舞伎町で働き始めてから、一週間が過ぎた。
 物事に夢中になれると、流れる時間が、とても早く感じる。
 気付けばたった一週間働いただけなのに、俺の財布には十万以上の金が入っていた。
 あれから、岩崎とはなかなかいい感じの呼吸で、うまくコンビが組めていると思う。
 岩崎は、毎日五千円から、多い時は二万円くらいの臨時収入を作り、俺に手渡してくれた。
 日払いの一万二千円と食事代の千円。
 平均してみると、一日分で、二万三千円くらい稼いでいる計算になる。
 今まで色々な仕事をしてきたが、こんな楽な仕事はない。それにもかかわらずこれだけの金額をくれる仕事は他になかった。
 歌舞伎町といういかがわしい街の裏稼業。普通に仕事をして稼ぎたかったが、金の魅力には逆らえない。自分の持っているプライドや信念を簡単に捻じ曲げてしまう魔力があった。
 今のところ、そういう風に生きていく以外、他にいい術が見つからない。
 このまま金を貯めることに専念した方が、自分の為にもなるだろう。
 今は岩崎という人間に寄生して金を稼ぐ、蛆虫のような生き方しか出来ないのだ。悔しいが、それが俺の現実だ。
 初仕事から十日後、初めての休みをもらえた。
 サラリーマンをやっている訳ではないから、休みが無くても我慢出来た。しかし、いざ休みをもらえるとなると、やはり素直に嬉しかった。
 あの雨の日、外に立っていた泉を思い出す。
 走ってその場所まで行ったが、すでに泉の姿はなかった。
 直接電話して確認でもすれば、済む問題なのは分かっていた。
 何度か携帯を持ち、泉の電話番号を画面に出したはいいが、発信ボタンを押すことは出来なかった。
 実際のところ、泉の言葉を聞くのが怖いだけなのかもしれない。泉からの電話はあの日以来、まったく無い。
 あいつは金もなく職もない俺に、愛想を尽かして去っていった女なのだ。今は違う。財布を見てみた。
 金は以前よりある。
 汚い金かもしれないが、この金を使えば、どこへ行っても笑顔で俺を迎えてくれる。
 泉に対する後ろめたさが頭から離れないが、休みの日ぐらいは自分を癒したかった。
 後ろめたさ?
 何故、俺はあんな女にそんなものを感じているのだ?
 もう関係ないんだ。
 あの時、割り切ったはずだろうが……。
 せっかくの休みの日だというのに、何をしたらいいのか分からない俺は、自然と新宿に、向かっていた。人間の欲望と本音が渦巻く新宿歌舞伎町が、いつの間にか自分を癒す場所になっていたのかもしれない。
 孤独は辛い。だから人は金を使って誰かに構ってもらう。あそこなら、寂しさを紛らわせようと、金で割り切って癒してくれる女がいる。
 新宿に着くと、何の目的もなく歌舞伎町を彷徨いだした。
 まだ夕方だからか、客引きの姿もチラホラしか見えない。
 日頃いると、ウザイだけなのが、あまりにも見かけないと、淋しいと思うのはおかしな感情だろうか。
 いや、彼らだって、自分の生活があるのだ。本当はやりたくないけど、しょうがなくやっている人だっているだろう。
 真面目に生きているから偉いという訳ではないと、俺は思う。
 でも、今の俺にはそういうことを主張するよりも、淋しさでポッカリ空いた穴を埋めたい気分だった。
 気を張り詰めているだけじゃ駄目だ。誰かに癒してほしい。
 セントラル通りを歩いていると、一つの看板に自然と目が向いた。
「痴漢してる最中を覗くスリル…、日頃出来ない欲望を満たせ。ナイトスコープ 当ビル地下一階 入場料、たったの千円!」
 泉に去られてから、誰ともセックスをしていなかった。
 正確には、やらせてくれる女がいないだけの話なのだが……。
 誰でもいい。癒してもらいたかった。
 歌舞伎町での生活は、知らず知らずのうちに、俺の心を傷つけていたのだろうか。今の俺には分からない。
 俺も男だから、スケベなことに興味はある。さっきのナイトスコープという名の看板が目に焼きついて離れなかった。
 あそこへ行ってみたいという衝動に駆られる。
《行けよ。行ってスッキリさせろよ》
 何かが、俺の心の中で命令する。
《男は元々そういう生き物なんだよ。我慢するな。淋しかったら行け。行ってスッキリしてこい。何だ、怖いのか?》
 心の中で、その何者かは叫び続ける。
「うるせーな。行きゃーいいんだろ。行ってやるよ」
 俺は一人なのに、心の中の何者かに向かって声をあげていた。通行人は不思議そうに俺を振り返る。
 人々の視線が恥ずかしかったが、気にしてもしょうがない。俺は構わずナイトスコープという名の風俗店らしき店の階段を下りていく。
 一瞬だけ泉の顔が頭にちらついた。
 
 店の中に入ると、薄暗い異様な空気が体にまとわりついてくる。
 心臓の鼓動は、明らかに早くなっていた。
 一歩一歩階段を下りるたびに、妙な期待感が俺の心を支配していく。下に着くと、受付があり、従業員が暇そうに鼻くそをほじっていた。
 大丈夫か、ここ……。
「あっ、いらっしゃいませ。当店のご利用は、初めてですか?」
 入口でどうしようか迷っている俺に気付いた従業員が、歩み寄ってきた。
「は…、はい」
「では、入場料千円頂きます。先を進み、十二番と書かれているカーテンを開けて、中に入ってお待ち下さい。はいー、一名様入りまーす」
 有無を言わさぬ話し口調。
 ドクドク…、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。この従業員に心臓の音が聞こえそうで恥ずかしかった。俺は千円をさっさと払い、奥へと進む。
 ひと一人、ようやく通れそうな狭い通路を歩いていく。
 通路の両サイドは真っ白なカーテンで仕切ってあり、カーテン越しに、卑猥な女の声が聞こえてくる。
 体中の毛穴を意識して開かないと、息が詰まりそうだった。
 十二と書かれた札のあるカーテンがあったので、ちょっと様子を見て、少し躊躇ってからカーテンを開く。
 中は小さなベッドが置かれただけのシンプルな部屋だった。人のいる気配はまったく無い。ベッドに腰を下ろし、煙草に火をつける。
 一体、これの、どこが覗きなのだろうか……。
 大きな部屋をカーテンで何ヵ所かに区切っただけの、とてもシンプルな作りの風俗店。表の看板に書いてあったイメージとは少し食い違う。
 辺りをいくら見回しても、覗き見が出来るような穴はどこにも無さそうだ。
 今まで風俗というものに来たことがなかった。金で女を買うというイメ―ジがあったし、どこかで風俗嬢という存在を小馬鹿にしていたフシもある。
 だが、俺は今、その軽蔑していた風俗店に来ている。
 以前感じた感覚は、単純に自分に金が無い後ろめたさの誤魔化しに過ぎなかったのだ。
 俺は過去、四人の女を抱いたことがある。ただ、誰にも言えないことがあった。
 一度もいったことがないのだ。
 女からは、「何でよ」と、よく責められたものだ。
 自分でも、原因がまるで分からないのだから、答えようがない。泉との仲がおかしくなり始めたのも、このせいだと思う。いや、それは自惚れ過ぎか……。
 このような場所に来れば、この悩みも、何とかしてくれるのではないか。淡い期待が、心の片隅にあったのかもしれない。
「お待ちどうさまー……」
 カーテンが開き、風俗嬢が部屋に入ってくる。
 見た感じ、俺よりちょっと年上の二十代後半。髪型はポニーテールで、顔は普通よりもちょっと落ちるなといったところか。体型はポッチャリというより、明らかに太めだな……。
 泉と似ている点は、髪型だけだった。
 果たして、この女で俺はいけるのか?
 そう思うと、非常に緊張してくる。
 女の手が、俺の股間に伸びてきた。
「いらっしゃい、初めて?」
「は…、はい」
「そう、ここがどういう店だか分かってるの」
「えっ、俺、風俗自体来るの初めてで……」
「みんな、最初は誰でもそんなもんよ」
「そんなもんですか……」
「あんた、いくら持ってるの」
「はっ?」
「金よ。いくら持ってきたかって聞いてんの」
 随分、高飛車な態度だ。
 苛立つものの、俺はビビッていた。この状況において、店の背後に潜む、暴力的なものを勝手に想像し、畏縮している。
 確か財布の中に十万は入っていたはずだ。
 でも、正直に言ってはいけない気がする。別のポケットの中に、バラで一万四千円は入っていたはずだ。危険を察知した警報が、ずっと体のどこかから鳴っている。
「い、一万四千です……」
「えっ、あんたそれしか持って来ないで、ここに来たの?」
「はぁ……」
 女はしばらく考え込み、俺が話し掛けようとすると、今、話し掛けないでというジェスチャーで遮る。滅茶苦茶不安になってきた。鼓動が、さらに早くなる。
「しょうがないわね。それ全部出しなさい」
「えっ……」
「持ってきた一万四千円、全部、出しなさいって言ってんの」
 凄いことを言う女だと思ったが、その迫力に逆らえず、素直にポケットから金を出す。女は、俺の手から金をひったくるように奪い取った。
「本当は話にならないんだけど、まー…、しょうがないわね。…いいわ。寝なさい。手でしてあげるから…。何してんのよ。早くサッサと寝なさいよ」
 言われたまま、ベッドへ横になる。
 そんな自分が、とても情けなかった。入ってきた時の興奮や期待など、とっくにどこかへと行ってしまっている。
「何してんのよ。サッサとズボンとパンツ脱いで、出しなさいよ」
 ズボンを脱ぐ。この状況下で、俺のあそこはこれでもかというぐらい、小さく萎縮している。さすがにパンツは、脱ぐのを躊躇ってしまう。
 途端に女の手が伸びてきて、あっという間にパンツを剥ぎ取られた。女の手が俺のあそこに触れ、指がまとわりついてくる。でも、全然気持ち良さを感じることは出来ない。
「何、緊張してんの?もっとリラックスしなさいよ。ほら、力抜いて……」
 女の手は小刻みに上下に動き出す。しかし一向に俺のあそこは勃起する気配すらない。何をしてんだろう。こんな情けない格好で……。
 俺は、女の手を振り払った。
「何すんのよ」
「帰る」
「え?」
「もう帰るからいい」
「何それ?気取ってるつもりなの?あんた馬鹿じゃないの」
「黙れ、面グジャグジャにしてやんぞ。あんまり男を舐めんじゃねえ。どけよ!この馬鹿女が…。ぶち殺すぞ。ムカつくんだよ、テメーの態度はよー!」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 女は呆気に取られ呆然としている。
 俺は手早く身支度を整え、無言で部屋をあとにする。
 店を出るまで恐怖がずっと付きまとってくるようだった。色々な想像が頭の中を駆け巡る。いつ、カーテンが開いて、ヤクザが出てくるんじゃないかと震えながら歩いた。嫌なイメージしか湧いてこない。行きに通った通路をそのまま走る。
 受付を過ぎ、階段を駆け上がると、やっと店の外に出られた。辺りはすっかり夜になっている。安堵と共にドッと汗が全身から吹き出す。
 何をするでもなく、歌舞伎町の中を何周も歩いた。そうすることで風俗店に行った事実を無くしたかったのかもしれない。
《臆病者、とっとと帰れよ》
 心の中の何者かが、俺に話し掛けてくる。
「黙れ」
《何だ、いきなり強気になって、情けない野郎だ》
「黙れ!」
 何も考えたくなかった。きっと俺は疲れているんだ。休みの日なのにこんな目に遭うなんて大馬鹿野郎だ。まだ財布の中にある十万の使い道すら分からない。酷く自虐的な気分になる。
 泉の悲しそうな顔が思い浮かぶ。まだあいつに未練でもあるのか……。
 俺は何も変わっちゃいない……。
 電車に乗り、地元に向かう。窓に写る俺の顔。情けない面だ。負け犬の顔だ。何も考えたくない……。
 
 帰り道に行きつけの喫茶店、アラチョンの看板が視界に入る。
 無性に腹が減っていた。大好物のハンバーグを思い出すと我慢できなくなった。アラチョンに自然と足が向かう。
 店の中へ入ると、閉店一時間前のせいか、四人の客が一組しかいない。そのグループ客も、食後の一服を終え、席を立とうとしていた。
「おっ、いらっしゃい」
 マスターが声を掛けてきた。何だかんだいって、このマスターとは結構長い付き合いになる。
「ありがとうございました。ちょっと待っててくれよ」
 他の客の会計を済ませ、その客がいなくなると、店内には俺一人だけになった。マスターは食器を手早く片付け、俺のところへニコニコしながら歩いてくる。
「何だよ、座って待ってればいいのに…。相変わらず固い奴だなー。ほら、座って。今日はカウンターの方でいいでしょ?他に客いないしさー」
 マスターはカウンターの椅子を引いてくれる。素直に腰を下ろすことにした。それにしても何故、この人はこんなに明るいんだろう。そういう表情を普通に出せるのが、見ていてとても羨ましかった。
「注文はハンバーグでしょ?」
「やっぱり分かりますか……」
「何年、隼人ちゃん、うちに食べに来てると思ってんの。隼人ちゃんもう七年くらい来てくれてるのにハンバーグ以外のもの、頼んだことないじゃん」
「そう言われれば、確かにそうですよね……」
「最初の頃は変わった奴だなーって印象しか持てなかったよ。ただね、ここまで一つのものを頼まれるとさー、料理人冥利に尽きるなってね。いやー、本当、宣言出来るよ」
「何をですか?」
「だって俺のハンバーグをさ、そこまで気に入ってくれる客はいないもん。他の料理だって自信はあるけど、ハンバーグ作る時は、気持ちの込め方がやっぱ違っちゃうよなー。特に隼人ちゃんのやつ作る時は、気合入れまくりー」
 マスターの気遣いに自然と笑顔がこぼれる。
「おっと…、ごめんごめん…。腹減ってんだろう?すぐ作るから待ってくれよ」
 奥の厨房にマスターの姿が消え、しばらくすると、肉を焼く音といい香りが漂ってくる。
 気持ちがリラックス出来ている。あの、人懐っこいマスターのおかげだ。
 暇を持て余し、新聞を手に取り眺める。気付くと、自然に求人広告欄を探していた。今のダークネスを辞めるつもりは、まったくない。他の店がどのような広告を出しているのか、ちょっとチェックしてみたかっただけに過ぎない。
 急募、日払い、高額収入。
 どの店も書いてある内容は、さほど変わらない。もちろん、どこを探してもダークネスの求人広告は、掲載されていなかった。
「お待たせー」
 マスターがいつものハンバーグを運んでくる。今日のはちょっといつもと違う。ハンバーグ以外に、エビフライ、クリームコロッケまで付いていた。
「マスター、これ……」
「いいの、いいの。俺の気持ちだから…。たまには隼人ちゃんにハンバーグ以外の物も、味わってほしかったっていうのもあるしね」
「ありがとうございます。でもこっちを気に入ってしまって、今度からはエビフライって、言い出すかもしれませんよ?」
「それならそれで、俺が作る物には変わらないから、それも全然有りでしょ」
 俺とマスターは顔を見合わせて一緒に笑った。久しぶりに心から笑えたような気がする。空腹度が増していたので、一気に食べた。
「どうだった?」
 勝ち誇った顔のマスター。返答に困ってしまう。
「うーん、いけますけど…、やっぱ俺はハンバーグですね」
「やっぱりそうか」
 マスターは残念そうな表情を浮かべていた。でもすぐにいつもの笑顔を俺に向けてくる。正直、ハンバーグ以外のものは、お世辞にもうまいとは思えなかった……。
 このマスターはハンバーグだけ作っている方が、店ももっと流行るような気がする。さすがに笑顔で得意顔のマスターには、絶対に言えない台詞ではあるが……。
「マスター、俺、明日も仕事有るからそろそろ帰りますよ。ご馳走様でした」
「あいよ。ありがとな、隼人ちゃん」
 家に帰り、部屋の明かりを点け、携帯を見てみる。
 泉からの着信履歴は今日もない。酷い休日だったけど、最後にアラチョンのマスターに救われた。
 しかし、俺は何故、ハンバーグにあれほど執着するのだろう?
 幼い頃、妹の愛とよく見に行ったレストランのショーウィンドーにあるお子様ランチ。あの中にあるハンバーグが食べたい。妹の愛にも食べさせたくて仕方がなかった。
「おにーちゃーん……」
 愛の声が聴こえる……。
 また嫌な思い出が、頭の中に鮮明に蘇る。
 
 妹の愛を連れ、近所の公園に遊びに行く。
 俺は弟の怜二も可愛がったが、よりいっそう妹の愛を可愛がった。
 無邪気にお兄ちゃんと懐いてくる愛。俺もまだ幼かったが、愛のことが可愛くて仕方がなかった。甘ったれでどこへ行くにも、オンブって言いながら、俺の背中に飛び乗ってくる。
「しょうがねー奴だなー」
 肩車でご機嫌の愛は、両手で俺の髪の毛を鷲掴みして、グイグイ動かしている。ロボットでも操縦している気分になっているらしい。得意げな表情で、喜んでいる。
「おにーちゃん、今日、愛ねー。あれやりたいの」
「何だ?あれって……」
「イヒヒ、あの公園のブラブラするやつ」
「ブラブラするやつ…。何だ、そりゃ?」
「あーれ」
 愛の指差す方向を見ると、ブランコがあった。
「なんだ、ブランコのことか」
「そう、ブランコ。あれに乗ってみたいの」
「駄目駄目、愛には無理だよ。もうちょっと大きくなったらな」
 愛は俺の背中から勝手に下りだす。そしてブランコの方向へ向かって、元気いっぱいに走り出して行く。
「愛、ブランコ乗るの」
「駄目だよー。愛にはまだ危ないよ。別のにしなよ。そうだ、お兄ちゃんと砂場で一緒に遊ぼうよ。な?」
「ヤダー、あれがいいー。愛、絶対、あれ乗るー」
「お兄ちゃんの言うこと聞いてくれよ。愛はお利口さんだろ?」
「お利口さんじゃなくていいー。だからあれで遊ぶの~」
 デパートのお子様ランチを食べたいと言っても我慢させ、今度は公園にあるブランコですらも、愛に我慢させるのか?
 妹に対し、可哀相だなという思いはいつもあった。
「しょうがないなー。ちょっとだけだぞ」
「イヒヒー」
「何がイヒヒーだよ…。変な笑い方しやがって」
 愛のあまりの熱意に折れることにした。愛は楽しそうにブランコを漕ぎだす。
 ギィ…コゥ…ギィーコゥ……。
 ブランコは徐々に揺れる……。
「愛、あんまり大きく漕ぐなよ。危ないぞ」
「うわー、おにーちゃん、おもしろーい」
 愛はとても楽しんでいる。生まれて初めてブランコというものに乗ってみて、完全に虜になっている。あまりにも嬉しそうにしているので俺はずっとその笑顔を見守っていた。
 可愛い妹の愛。こんなに喜ぶのならもっと早くブランコに乗せてやれば良かった。これから出来る限り、ここに連れてきて、ブランコで遊ばせてあげよう。
 どのぐらい時間が経ったのだろう。愛は全然飽きる様子がなく、夢中でブランコを漕いでいる。
 俺は喉の渇きを覚え、水を飲みに行った。
 遠目で愛を見ると、心なしかブランコは加速が付いて、大きく揺れているように見える。思わず大声で言った。
「おいっ、危ないよ。愛、大きく漕ぎ過ぎだぞ」
「イーヒーヒー。おにーちゃーん」
 俺の声が何も届いてないのか、愛は、さらに大きく漕ぎだす。
「愛っ!」
 飲みかけの水を出しっ放しのまま、俺は愛の乗るブランコへ向かって一目散に走った。
「おにーちゃーん……」
 愛はとても興奮している。
「愛っ!」
 俺がどれだけ心配しているのかも分からずに、愛はニコニコしている。ブランコを漕いでいる状態で、愛は俺に片手をブンブン振り出した。
「バカ野郎、手を離すな。愛…、愛、手を離すなー」
「イヒヒ、おにーちゃーん、面白いよー。おにーちゃ……」
 途端に愛の体はバランスを崩した。
「バッ、馬鹿、愛ー……」
 全力で走った。
 バランスを崩した愛が、ブランコから投げ出される。まるで映画のスローモーションシーンを見ているようだった。
 地面にぶつかる前に受け止めようと、懸命に走った。
 間に合わないか…。
 そう感じた瞬間、俺は飛びついた。
 指先が触れた時、愛は、俺の目の前で頭から地面に激突した。グニャリと首が、ありえない角度で折れ曲がる。
「愛―……」
 あと二秒早く気付いていれば、間に合ったかもしれない。地面に横たわった愛はピクリともしなかった……。
 いくら呼んでも、愛は何も反応してくれない。
「愛!愛!愛!アイー……」
 声が枯れるまで叫び続けた。でも愛は返事すらしてくれない。涙が溢れ出て愛の顔が歪んで見える。それでも一生懸命叫び続けた。
「愛!愛!」
 近所に住んでいるおばさんが、異常事態に気付き、駆けつけてくれた。
 叫びながら愛の体を揺らし続ける俺をどかし、すぐに救急車を手配した。目の前で起こった惨劇が、信じられなかった。
 俺のせいで愛は……。
 救急車を待つ時間がとても長く感じた。それから先はよく覚えていない。人がとにかくいっぱいに集まって、ゴチャゴチャしていた……。
「おにーちゃ……」
 最後に聞いた愛の声……。
 いまでも耳にこびりついている。
 根負けして、愛のワガママを聞いた俺が馬鹿だった……。
 そばにいながら、その場を離れたことを今でも悔やむ。
 どれだけ悔やんでも、その思いは消えない。
 俺が小学校五年生の時の出来事だった。
 
 俺たちを捨てて、家を出て行った母親は、未だに愛が亡くなったことすら知らないのだろう……。
 でも、そんなことはどうでもいいことだった。
 気付けば俺は、泣いていた。
 涙が止まらなかった。
 愛が亡くなって何年経つのだろう。
 あの時の件で祖父と祖母は一気に老け込んだ。誰も、俺を責める者などいなかった。いっそのこと、みんなで俺を激しく罵倒してほしかった。自責の念にずっと駆られる。
 母親とは別の意味で、ずっと引きずっている愛。
 愛が好きだったハンバーグ。一度でいいから食べさせてやりたかった。
 でも、それは絶対に叶わない非情な現実が、俺に襲い掛かる。苦しむのは全然構わない。いくら苦しんでも構わない。
 だから愛を返してほしい……。
 どこからこんなに涙が出てくるのだろう?
 怜二が高校を卒業した日の夜、怜二が俺の部屋に来て、兄妹で話したことがあった。
「兄貴、今さらかもしれないけどさー。愛の件なんだけど…。ずっと、自分のせいだって思ってんだろ?」
「……。ああ…、悪いか?」
「そんな自分ばっかり追い詰めて、どうすんだよ」
「わからねーよ。分かってたら、こんな今でも苦しんでるかよ」
「別に、兄貴のせいじゃないじゃん」
「俺があの場所に連れて行ったんだ。俺があの場から目を離したんだ……」
「仕方ないだろ。そりゃー、まるっきり何も責任感じないっていうのは違うけど、兄貴は充分に反省してるじゃん」
「反省したからって、愛が生き返るのか?違うだろ……」
「ブランコに乗って、すごい楽しそうだったんだろ、愛……」
「ああ……」
「今頃、生きてたら二十歳か……」
「……」
「愛、絶対に今頃いい女になってたぜ」
「そうだな……」
「彼氏出来たのーとか言って、俺らのとこ連れて来てるかもな。小さい頃兄貴、俺よりも愛をすごいえこひいきしてたからなー。あの勢いだと、愛が連れてきた彼氏を、いきなり認めんとか言って、本当に殴りかねないからな」
「何、想像の世界で言ってんだ。そんなこと、する訳ねえだろ」
「いや、兄貴は絶対やるって。俺が認めた奴じゃないと駄目だって、いつも愛を困らせそうだ。そしたら愛は困って、いつも俺のとこに相談に来るんだ。兄貴を何とかしてちょうだいって……」
 俺を懸命に気遣ってくれる玲二。すごくありがたかった。
 想像していて目頭が熱くなってくる。成長した愛の姿がリアルに想像出来た。
 ヤバイ…、怜二の前で涙をこぼしそうだ。何とか誤魔化さないと……。兄貴が弟の前で、涙など絶対に流せない。
「何だテメー。玲二、おまえ、俺に喧嘩売ってんのかよ」
「何だよ、急に…。別に俺はそんなつもりで……」
「消えろよ。俺の部屋から出てけよ。ムカつくんだよ」
「何だよ、いきなり……」
「早く出て行け!」
「分かったよ」
 怜二が不機嫌そうに部屋を出て行くと、俺は静かに声を殺して泣いた。怜二に泣く姿を見せたくなかっただけだ。
 怜二が冗談で言った言葉が、鮮明に頭の中で映像化される。俺の中で勝手に大きく成長した愛は、色々喋りはじめる。
 学校に行っても沢山のラブレターをもらい、その内、彼氏が出来る。愛は、俺の性格を理解しているから、恐る恐る彼氏を紹介する。何だこのニヤけた軟弱な野郎はって、俺は殴る。愛は泣きながら怜二のとこに行き、愚痴をこぼす。怜二は愛を慰めてやる。兄貴は本当に短気だからなー…。あんな野蛮人、もう私のお兄ちゃんじゃないもん。そして愛は俺のことを毛嫌いするようになっていく……。
 やめよう……。
 勝手に想像しておきながら、自分が本当に惨めになっていく。俺は疲れているんだ。今日はもう寝よう。
『おにーちゃ……』
 俺が眠ろうとしても、愛の声がどこからか聴こえてくる……。
 
「おはようございます」
「おはようです。赤崎さん。昨日は、ゆっくり出来ました?」
「ええ、ありがとうございます」
 今日のダークネスは、客が帰ったばかりで暇だった。
「昨日で結構、金、使っちゃったんじゃないんですか」
 岩崎がニヤニヤしながら二万円を渡してきた。俺は軽く会釈して、金を受け取る。この分でいくと、一ヶ月でいくら金を貯められるのだろうか。
 仕事もだいぶ慣れてきた。常連の客にも少しずつだが顔を覚えてもらえて、完全に店の一員になったような気がする。
 岩崎は相変わらず、したたかだった。今は何もすることがないみたいで、暇そうに風俗店の紹介雑誌をボーっと眺めていた。
「赤崎さん。この子、結構良くないですか?」
「うーんと…、ちょっと自分の好みではないですね」
「そっかー、なるほど…。赤崎さんとは女の好みでぶつかることなさそうだから、仲良くキャバクラでも何でも一緒に行けそうですね」
「よく、岩崎さんは風俗行かれるんですか?」
「まあ、ぶっちゃけ、しょっちゅうですね」
「恥ずかしくないですか?例えば、こっちが裸になる時とか……」
「慣れですよ。慣れ」
「そんなもんですか」
「そんなもんです」
「俺、風俗行ったことないんですけど、いいもんですか?」
 咄嗟に出る自分の嘘。
「当たり前じゃないですか。そうじゃなきゃー、何でこの街に、これだけの風俗店があるんです。何件あるかどうか分からないぐらい、風俗店がありますよね?」
「ええ、確かに……」
「男は本来、みんな好きなんですよ」
「……」
 男はみんな好き……。
 この街を見ている限り、非常に的を射た意見だ。
「ただ、赤崎さんが言ったように、恥ずかしいとか、いまいち勇気が出ないとか…、あとは金が無いとか、色々な理由が、人それぞれあるだけですよ」
「物事の本質をついた鋭い意見ですね」
「あはは……」
 一緒に岩崎と笑うが、作り笑いするのがやっとだった。自分の失態は、冗談でもこの男の前では言えない……。
 プルルル…、店の電話が鳴る。
「はい、お電話ありがとうございます。ダークネスです。あっ、お疲れ様です。そうですね。今はノー卓です。昨日までは忙しくて常連さんもほとんど来てたんで…、ええ、そうですね。分かりました。では、コマの前のとこでいいですね。…はい、はい…、かしこまりました。では、準備しますね。はい、お疲れ様です」
「水野さんですか?」
「いえ、もう一人の怖いほうです。たまには飯でも食いに行こうって……」
「へー、珍しいですねー。鳴戸さんがですか」
 今までニコニコしていた岩崎が一変し、真面目な表情になる。
「多分、俺、行ってる間に水野さん、ここに来ますよ」
「え…、何でです?」
「探りですよ。あの二人は赤崎さんのこと、まるで疑ってませんから…。ただ働いてから十日以上経っているし、ちょっとだけ探りいれて、自分たちを安心させたいんですよ。基本的にオーナーなんてみんな、従業員のことを疑ってかかりますからね」
「まー、何、聞かれても問題ないですよ。余計なこと、一切言うつもりないですし……」
「俺は信用してるから大丈夫ですって。じゃ、鳴戸さん待ってるから行ってきますね」
「分かりました」
 岩崎が店から出て行く。
 そういえば、ここに入ってから店の中に俺一人になったのは初めてだ。ただボーっとしているのも悪いので、とりあえずテーブルを雑巾で拭いた。
 終わると、キッチンに溜まっているグラスを洗う。仕事的に客がいても苦ではないが、まったくいないと、遊びに来ているようなものだ。
 やることを終わらせると、椅子に座ってボーっとする。岩崎の推測ではこれからここに水野が来ることになっている。水野なら何を聞かれてもうまく誤魔化せそうだ。
 逆に鳴戸だとしたら……。
 想像するだけで恐ろしい。その時、店のチャイムがなった。
 ピンポーン……。
 モニターを見ると、水野が映っている。岩崎の言った通りだ。水野なら焦る必要はない。軽く深呼吸をし、リラックスしながら俺は、ドアを開けに行った。
「お疲れ様です」
「うん、お疲れさま。赤崎君、私にアイスコーヒー入れてくれるかね」
「分かりました。待ってて下さい」
 キッチンに行き、アイスコーヒーを作る。ガムシロップとクリームを入れて掻き回してから、水野に渡す。
「だいぶ慣れたかい?」
「ええ、お陰様で……」
「私と鳴戸は赤崎君みたいに真面目で、この業界に染まってない従業員が欲しかったんだ。バブルはとっくに弾け、もちろんこの歌舞伎町にだって、不況の波は押し寄せている」
「不況ですか……」
「うむ、以前はこの業界だって二十四時間、連日賑わっていたもんだよ。客が店からいなくなるなんて状況、昔じゃ、信じられないもんだった」
「そんなに忙しかったんですか?」
「ただ、その時代の従業員は結構悪さする奴が多くてね。以前はうちだってレートは十円だったんだ。やっぱり一円じゃ、どれだけ忙しくたって、稼げるのは限界があるからね。私の予想だと今、この店で金を抜いてる奴が絶対にいるんだ。誰だかはよく判らないんだがね。伝票をチェックしていると、おかしな点が、かなりある」
「え、誰がですか……?」
「分からんよ。だから鳴戸と話し合って、新しい従業員を入れようとね。運がいいことに赤崎君は、この業界にまるで染まっていない。まったくの素人で初心者だからな。だからもし従業員が、ちょっとでもおかしなことしてる素振りがあったら、私に逐一で報告してほしんだ」
 俺にスパイ行為をしろと、遠回しに言っているのだろうか。そのつもりなら少しタイミングが遅い。すでに俺は岩崎に、金をもらってしまっているのだから……。
「うーん、確かに自分はこの業界は入ったばかりで、右も左も分かりません。今は岩崎さんぐらいしか接する人いないですけど、自分の見た感じでは、おかしな点はないですね。かえって色々教えてもらって、世話になってるぐらいですから」
「ふむ、そうか…。じゃ、やっぱり新堂の奴か」
 新堂とはあまり話をしたことがないから、答えようがない。ここは正直に言うしかない。
「自分には遅番の方たちとは行き帰りの時しか面識ないので、その辺は何とも分からないです。無責任なことも簡単には言えないので……」
「そうか、悪かったね。変なこと聞いて……」
「いえ、とんでもないです。自分は水野さんに雇われている訳ですし、そのぐらいオーナーなら心配して当然だと思います。何かあったらちゃんと連絡します」
 水野は単純だ。俺の台詞に目を細める。
「お腹減ったなー。出前でも頼むか」
 俺は歌舞伎町内で出前をしている様々な店のメニューが収まったファイルを渡す。和食にイタリアン。歌舞伎町には何でも揃っている。うなぎ屋から寿司屋、そば屋に仕出し弁当屋。カレー専門店にスパゲティ専門店。中にはお好み焼きの出前というのもある。水野は丹念に、一つ一つメニューをじっくり見ている。
「うーん、さっぱりしたのがいいかなー…。そば屋でいいかな。うん、これでいいか。よし、赤崎君は何にする?」
 水野が俺にファイルを手渡してくる。オーナーである水野がこのそば屋を選んだのでは、この中から選ばないと失礼だし、あまり高価なものは頼めない。適当に目を通してすぐに決めた。
「自分はこれでいいです」
「じゃあ、電話してくれ」
「はい」
 そば屋のまこと屋に出前の注文を入れる為、受話器を耳に当てる。その瞬間、ズキンとこめかみの傷が疼き出す。どこかで、母親の笑い声が聞こえてくるような気がした。
「もしもし、第一杉沢ビル二階のダークネスですけど…。出前、よろしいでしょうか」
「毎度どうも」
 以前もここに出前を頼んだことがあるのか、店の対応は非常にスムーズだった。
「えー、天婦羅そばの上と、たぬきうどんのカレーセットのやつ、もらえますか」
「はい、ありがとうございます」
 受話器を置くと、傷の疼きも自然と静まる。幼い頃に刻み付けられた永遠の痛み……。
「やっぱ若いから食べるなー」
 水野が感心したように俺を見つめる。
「そんなことないですよ。そういえば今、水野さんはおいくつぐらいに、なられるんですか。随分と貫禄もありますし」
「私はもう五十六だよ。この店ポシャッたら、何の価値も無い只のジジーだ」
 水野と話をしていると、気の毒で可愛そうな人間に感じた。岩崎との汚い金のやり取りをしていることに、罪悪感をひしひしと覚える。この人は、見た目は胡散臭いけど、あの恐ろしい鳴戸に踊らされ、うまい具合に利用されているだけで、案外根はお人好しの犠牲者なのかもしれない。
「でも今はこの店をやってるから違うじゃないですか。昔みたいにもっと客来るように、俺、頑張りますよ。今は何も戦力にならないかもしれないですけど…。でも自分の目線で見た感覚で、新しいものが出来るようになれるかもしれないですし…。とにかく客が少しでも喜べるようにしたいです」
 俺は何故か、ムキになって熱く本心を語っていた。水野はニコニコしながら頷く。
「ありがとうよ。ぜひ、頼むよ。鳴戸も、君には期待してるしね」
「ええ、頑張ります」
 水野と世間話をしていると、ドアのチャイムが鳴った。
「お待ちどうさまです。まこと屋です」
「おいくらですか?」
 水野が応対に出る。
「そうですね、両方千円ずつです」
「おい、赤崎君、千円だって……」
「……」
 目の前の光景が、信じられなかった。
 水野はまるでここに千円乗せろというように、右手を差し出している。まったく悪びれた様子もなく、平然と手を出したまま、俺を見ていた。
 オーナーから何を頼むかと言われ、半強制的に俺に出前をとらせておいて、それはないだろう。千円くらいをケチりやがって……。
 顔に出さないよう、感情を押さえるのに苦労した。さきほど水野に同情した自分が馬鹿みたいだ。非常にムカついてくる。
 財布から千円札を一枚出して、水野に渡す。とぼけた面したせこいオーナー。胡散臭さが、これでもかというぐらい爆発だ。
「はい、どーもー、お疲れ様です」
 本当にしけたオーナーだ。プライドを疑ってしまう。一気に嫌いになった。
「早く食べないと伸びちゃうぞ」
 大きなお世話だと言ってやりたかった。
「は、はい。頂きます」
 こんなしけた奴と一緒に飯を食うのは癪に障るが、これでも一応、現時点では腐っても俺のオーナーなのだ。
 信用され、期待されている俺は、あくまでも優等生面を通さなくてはならない。うどんとカレーを交互に胃袋に放り込む。
 しけた奴が横にいるから、とてもまずく感じた。
 チラッと横目で水野を盗み見る。想像通り、下品な食い方でそばを啜っていた。天婦羅の切れ端が口髭にくっついて、鼻クソがくっついているようにも見える。
「ケッ、しけた奴は食い方すらしけてやがる。小汚ねー野郎だ」
 そっと心の中で呟いてみる。水野と目線が合うと、ニッコリ微笑んでみせた。
 水野は、完全に信用している目つきで俺を見て、微笑む。歯も煙草のヤニですっかり黄ばみ、汚らしかった。
 
 水野が帰ってから、一時間ほどして岩崎が帰ってきた。
「どうも、お疲れ様です」
「いやー、あの人と二人きりの食事は、心臓に悪いですよ」
「それは大変でしたね」
「そうでもないですよ。自分の場合、あの二人とは、二年ほど付き合ってきてますから、手馴れたもんですよ」
「確かにあしらい方が手馴れてますね」
「ハハ…、そういえば水野さん、何か言ってましたか?」
 おちゃらけた岩崎が、一瞬にして真面目な顔つきに変わる。
「岩崎さんが以前言ったようなことをズバリ言ってきましたよ。あまりにもドンピシャで、笑いを抑えるのに苦労しました」
「あの二人の行動は先読みしやすいだけです」
「実際にすごいと思いますよ」
「そんなことないですよ」
「そういえば、水野さん。俺に飯何を食うんだって自分から勧めといて、実際に出前が来たら、千円とられましたよ。赤崎君、千円って右手を突き出してきて」
「相変わらずセコいなー、あの人は…。一年前に歌舞伎町でケチコンテストやったら五本の指に入った実績を持ちますからね」
「え、そんなのって、本当にあるんですか?」
「冗談です」
 岩崎との会話は小気味良く進むからとても面白い。
「でも赤崎さん、鳴戸さんだけは要注意ですよ」
「……ですね」
「昔ここ、ダークネスの前の店の話しですけど」
「ええ」
「当時の店の名前はフロッガー。日本語にするとカエルですよ、カエル…。笑っちゃいますよね。そんなダサい名前の店でしたけど、三年前は実際にあったんです。レートは十円でした。その時のオーナーは、水野さんともう一人の人がいて、今と同じ共同経営だったんですよ」
「まだ、その時は鳴戸さん、絡んでいなかったんですか?」
「その時の店の店長が、鳴戸さんです」
 言葉が途切れた。
 全然、話の展開が読めなくなっている。これからどうなるのだろうか?
 今の岩崎と同じ立場だったのか。それがどうやって一人のオーナーをどかし、自分がその位置に行けたのだろうか?
 共同経営とはいえ、現在の力関係は、どうみても鳴戸の方が上だ。主従関係がたったの三年で、こうも逆転するとは……。
 一体、鳴戸は、どんな魔法を使ったのであろうか?
「鳴戸さんが店長の時なんか、俺なんて比較にならないほど、金を抜いてましたよ。俺が鳴戸さんの下でやってた時も、ほんとすごかったです。もちろんその分、店は今なんか話しにならないくらい忙しくて、従業員を新しく入れても仕事がきつくて、ほとんど一日で辞めてしまう状況だったんですよ」
「じゃあ俺は、入った時期が恵まれてたんですね」
「仕事の暇さだけで見ればそうですけど、一概にはそうとも言えないですよ。赤崎さん、例えば今、手に入る金が二倍、三倍だったら、同じこと言えますか?」
 考えてみた…。答えは一つしか考えられない。
「言えないですね……」
 また一つ、歌舞伎町の住人として染まったような気がした。
「でしょ?」
「でも、派手に抜いたのは分かりますけど、それからオーナーには、どうやって上がったんですか?」
「ハッキリ言うと、水野さんてちょっと間が抜けてるじゃないですか」
 岩崎の確信をついた言い方に、どう返答したらいいか困ってしまう。
「ま、まあ……」
「うまい具合に鳴戸さんが口車に乗せて、水野さんは簡単にその話しに乗る。…で、前のもう一人のオーナーを協力して、うまく追い出したんですよ」
「だいたいの内容は掴めましたけど、一体…、オーナーを追い出すなんて、どうやったらそんなことが可能になるんです?」
「もう片割れのオーナー、名前は島谷っていうんですけどね。その人、店の上がりだけで満足すればいいのに、借金してまで競馬に使うほど狂っていたんです。パチンコとかならよかったのに……」
 回りくどい岩崎の言い方。早くその先を知りたいのに……。
「何でパチンコならいいんです?」
「パチンコと競馬、同じギャンブルです。でも、何が決定的に違うか分かりますか?」
「競馬は一瞬で決まるギャンブル、パチンコは時間を使って勝ち負けが決まるギャンブルということですか?」
「それも当たりですけど、まだあるんです。同じ十万円を使うのに、パチンコで使うのは大変だけど競馬は一瞬です。いくら金儲けしてても、その一点に張る金額が多くなるだけで、根本的な勝ち負けは何も変わらないところなんですよ。競馬の怖いところは百円でも百万円でも、負ける時は同じ一瞬という点なんです。当たれば天国ですけど、そんな周りが見えてない人間が大金を賭けて当たると思いますか?前の島谷というオーナーは、競馬に完全狂ってました。負け続け熱くなり、首が回らなくって水野さんから借金をしてたんです」
「簡単に言うと、その金の貸し借りが水野さんに対して、頭が上がらなくなったということですか?」
「そこに鳴戸さんは、目を付けたんですよ。まず、店を流行らなくする。当然客は来ないから売り上げもないし、金が抜けなくなるから、自分も今まで抜き放題だったという資金源は止まるけど、最低でも給料は日払いでもらえる。オーナーサイドは、従業員の給料や経費、家賃など、収入がなくて赤字経営でも、金は出る一方です」
「……」
 狙いが分かってきた……。
 でも俺に構わず、岩崎は話し続ける。
「店が調子いい時、儲けは半分ずつ…、赤字になると片方は借金してて金が無い。今回に限って言えば、負担は水野さんだけにのしかかる。水野さんの資金源が僅かになるまで、鳴戸さんはじっと待ってたんです。水野さんは間が抜けていて、お人好しな部分があるから、いつもオロオロするだけ」
 なんてエグイ話なんだろう。普通じゃ考えられない。
 でも、この歌舞伎町では誰も気付かなかったら、騙されておしまいなだけだ。ここでは許される行為なのだ。
 会社登記もしないで闇でやっている商売だから、泣き言も法律も一切通用しない。騙されるほうが悪いだけなのだ。
「鳴戸さんは機を見て、水野さんに、自分の暖めておいたプランを話し掛けます。さて、そこで赤崎さんに質問です。鳴戸さんのプランとは何でしょう?」
 岩崎も充分、鳴戸のエキスを吸ってきた人間だ。鳴戸に似通った部分を非常に多く持っている。
 俺は吐きそうになった。でも、もう後戻りは出来ないところまで来ていた。
 考えるふりをして目をつぶると、真っ暗な暗闇になる。
 二つの影が浮かび上がる。
 一つは愛。
 もう一つは母親。
 愛は悲しそうな顔で俺を見る。
 母親は、『だからあんたは私の子なんだよ、ハハハ……』と、大笑いしている。こめかみの傷が疼きだす。俺は軽く深呼吸してみた。
「もう分かりますよ。その店は駄目でしょう。店を一度潰して新規開店。新しい店としてオープンするんです。もちろんレートも一円に下げて…。前の店とは全然別物ということを客にアピールするんです。私は今まで真面目にやってお金をちゃんと貯めてきました。でも島谷さん、もうあの人は終わりです。あの人を切って、これから私と一緒に共同経営として、うまくやって行きませんか…って、感じで言ったんじゃないですか?」
 パチパチパチ……。
 岩崎は拍手をしている。顔は真面目だ。
「素晴らしい。赤崎さんはいいですね。ここまで緻密な答えを言うとは、思いませんでしたよ。ビックリです」
「岩崎さんの話の持って行き方が、抜群にうまいだけです。俺はただ、その流れに乗って物事を言ったまでです」
「謙虚だな、赤崎さんは…。これ、その答えに対する賞金です。今日は気分いいんで特別にボーナス代わりです」
 岩崎が金を俺に渡してくる。五万円あった。
 俺は黙って受け取る。そしてすぐ自分の財布を取り出してしまう。
 一体、岩崎は、このダークネスからどれだけ金を抜いているのだろうか?
 しかしそんなことはもう、どうでもよかった。岩崎は五万という金額を渡しても、まるで痛くも痒くもないのだ。きっとその数倍以上の金を抜いているのだろうから。
 もともと岩崎自身の金ではない。今まで何故俺にと思っていたが、もう金をもらっても、必要以上、岩崎にペコペコすることはないだろう。
「いやー、赤崎さんとは、運命的なものを感じてますよ」
 続けて岩崎は話しだす。いつもより饒舌だった。非常に興奮しているようだ。負けずに俺は、自分で感じ取ったものを言い続ける。
「見事、水野さんを丸め込んだ鳴戸さん。でも、その時点で水野さんは、資金がほとんどない状態だった。だから鳴戸さんは、今まで貯めてきた金の一部をこのダークネスの開店資金に当て、面倒な現場の確認は、水野さんにやらせる。この商売、みんなが言ってるように悪い従業員が多い。もし現場で、従業員が何かトラブルを起こし、店の売り上げが減ったり、余計な経費が掛かったりしたら、形式上、水野さんが責任をすべて被るように持っていった…。こんなシナリオだったんじゃないですか」
 主従関係を逆転させた下克上のシナリオ。
 水野が気付いた頃には、時すでに遅し。鳴戸の用意した蜘蛛の糸に、がんじがらめに絡まり、身動き出来ない状況になっていた。
 可愛そうで哀れな水野。金が無いから、格好すらつけられない。だから従業員である俺に、たった千円の食事代をケチったのかもしれない。
 しかし、現時点で俺は、騙している側の人間に回ってしまっているのだ。主犯ではないが、充分、立派な悪党になっている……。
「いやー、鋭いなー、赤崎さんは…。初めて会った時から普通の人とは何か違うなって、自分は感じてたんですよ」
「口の達者なクズですよ。俺なんて…。ただのクズ……」
 本心だった。
 今まで自分は、どちらかというと正義感は強い方だと思っていた。金で心は動かされない。何のメリットも無いかもしれないけど、自分の中で大事にしてきた部分だった。
 確かに金を稼ぎたかったが、出来れば綺麗に…、いや、誰にでも自慢できる稼ぎ方がしたかった。
 でも現実に、汚い金をもらって生活している。当然、陰で泣く人間もいる。ここでは水野だが、俺は状況を知っていながら平気な顔をして水野に嘘をついている。今までの考えなど、所詮、甘ちゃんな理想論でしかない。
 もう愛は、絶対、俺に笑いかけてくれないだろうな……。
「自分をそういう風に見れる人は、そうはいませんよ。クズで結構じゃないですか。赤崎さんだって、この街に金を稼ぎにきたんでしょう。違いますか?」
「ですね……」
 岩崎が俺の肩に手を置く。目と目が合う。その視線は、裏切るなと語っていた。
「この街にいる時だけ限定で、クズになればいいじゃないですか」
「そうですね……」
 俺は無理に笑顔を作った。
 今のこの状況を自分から放棄することなど、出来やしないのは自覚している。今日だけで八万三千円の金が、俺の財布に増えただけのことだ。
 客が来たら接客しながらINを入れ、夜十時になると、遅番の新堂と田中が来る。俺は挨拶をして帰る。それが毎日続くだけの話だ。
 そもそも俺は金をそんなにもらったことがないから、あっても使い方がよく分からない。
 彼女がいたら、プレゼントを買ってやったり、雰囲気のある気取った店に連れていったりしただろう。
 泉はあれから何のリアクションもない。俺からも、行動は何も起していない。もし今、俺と逢ったら、泉は変わったと言ってくれるだろうか……。
 
「兄貴―、入っていい?」
 ドア越しに怜二の声がする。
「ああ、構わないぞ」
 怜二が部屋に入ってくる。顔はニヤニヤしている。
「最近、真面目に働いてるみたいじゃん。忙しい?」
「フッ…、真面目にか……」
 俺は歌舞伎町での現状を振り返って、おかしくなった。
「何だよ。何かおかしい?最近、兄貴ちょっと変だぜ。急に無口になって、どこ見てんのか分からないけど、一点をジッと見つめていたり……」
「気のせいだ」
「やばいことしてんじゃねーの」
「する訳ねーだろ」
「そういえば、彼女の泉さん、最近、見ないじゃん」
「もう別れたよ。関係無い女だ」
「そんなこと言うなよ。実は俺、昨日外でバッタリ会って、ちょっと話したんだよ」
「どこで?」
「駅前のデパートで。近頃兄貴が仕事始めて忙しいから会ってないけど、元気なのかとか色々聞いてたぜ。電話してみればって言ったけど、この間、喧嘩しちゃって、掛けづらいから今はいいんだって……」
 自分から別れを切り出しといて、勝手な女だ。終わったと思っている女に対し、まだこれだけイライラしている。確かに別れた時はどうでもいいと思っていたけど、まだ俺の中に泉という存在は、大きく残っているのかもしれない。
「じゃあ、ほっとけよ。本人がそう言ってんだから……」
「冷たいなー、兄貴は……」
「うるせー、それより、何か別の用があるんだろう?」
「ありゃ、お見通しか…。明日女とデートでさー、ちょっと金貸してほしいんだよね」
 財布をとって一万円札を五枚ほど抜く。そのまま無言で怜二に渡してやる。どうせ俺には使い道のない金だ。
「こんなにいいよ。一体、どうしたの?」
「普通に働いているだけさ。気にしないで使えよ。兄貴らしいこと、何もしてやってないしな。持ってけよ、怜二」
「ありがとう、本当にいいの?」
「しつこいな、いらないんなら返せ。必要ならとっとと、それ持って部屋に帰れ」
「ありがとな、兄貴」
 怜二はダッシュで俺の部屋から出て行く。現金な奴だ。
 それにしても泉の奴、一体、どういうつもりだ?
 気にはなるが、今は向こうが動き出すまで放っておくことにしよう。
 俺はあの街に行って金の欲望に負けた、薄汚れている男だ。いくら風呂に入って体を洗っても、絶対に落ちることのない汚れ。その汚れと引き換えに金をもらえるようになった。
 俺はどこまで堕ちていくのだろうか。
 とても大事にしていた俺のちっぽけなプライドは、あの街で金と引き換えに無くなった。
 布団に入り、目をつぶる。暗闇の中に愛が浮かび上がり、俺を見て泣きながら悲しそうな目を向けている。
 こっちは生きているんだよ。金を稼がなきゃ、クソなんだ。
 俺は、気付かないフリをするしかなかった……。
 
 今日はクリスマスイブだ。もちろん俺はこれから仕事に行く。
 去年は泉と一緒に過ごした。携帯の着信履歴を見る。着信歴は弟の怜二か、ダークネスの岩崎の名前だけがズラッと並んでいる。
 あの時の泉の着信履歴は、もう消えていた。
 店に近付いていくと、ダークネスの横にあるピンサロのメガネの店員が、相変わらず、客引きをしていた。俺に気付くと、ニコリとしてくる。
「おはようございます」
「おはようございます。朝から大変ですねー」
「いやー、参っちゃいましたよー」
「何かあったんですか?」
「ほらっ、いつもあるうちの看板、無いじゃないですか」
「そういえば……」
「さっき、歌舞伎町内を警察がトラック動員して、ちょっとでも道路にはみ出した看板をすべて片っ端から強制撤去ですよ。うちもこのザマです…。こっちがすぐどかしますからって言ってんのに、無視して看板を強引に撤去されました。十二月になると、警察もこういう訳分からないことする回数、多いんですよねー。今日イブなのに、見てくださいよ。この小さなツリー…。こんなんじゃ、看板代わりにも何もなりゃーしませんよ」
 よく見ると、昨日まで看板のあった場所に、五十センチくらいの小さいクリスマスツリーが、ポツンと寂しく置いてあった。看板の代わりとして置いたらしいが、メガネの店員は不服そうだった。
「酷いもんですねー」
「まぁ、看板一つで実際は二十万ぐらいしますからねー。溜まったもんじゃないですよ。お宅のは無事で良かったですけど……」
「そんなにするもんなんですか?看板て……」
「回転式とかになると、もっとしますよ」
「はー…、気を落とさず、頑張って下さいね」
「ありがとうございます…。あっ、いらっしゃい、いらっしゃい、花びら三回転、若い子ばっかりですよ。どうですかー」
 大変な仕事だ。メガネの店員は声色を切り替え、通行人に声を掛けている。
 この人は、俺がここに来た時から、いつもニコリとお辞儀してくれ、それだけで俺は、だいぶ救われたような感じがする。メガネの店員を見守りながら、階段を上がっていく。
「おー、コラッ、舐めてんのか!おいっ!」
 上から叫び声がする。見ると、ダークネスの店の外でチンピラっぽい男が、新堂の胸倉をつかみ、粋がっている。
「お客さん、冷静になって下さい。最初に初回のみのサービスはお断りですよって、散々言ったじゃないですか。それを初回フォーカード出て、叩いて五万のビンゴを取り、オリ無しで帰られたんじゃ、こっちも商売にならないですから……」
「うるせーよ、コラッ!じゃー、今から戻ってよー。いくらか使えばオメーらは気が済むんだな?」
「今さらそんな風に言っても、実際にお客さんは、オリ無しって帰ろうとしたから、私はこう注意してるんです」
「この野郎、俺は客だぞ。ふざけんじゃねーぞ、オラッ!」
 新堂が殴られて地面に倒れる。チンピラまがいの奴は、その上から無茶苦茶に蹴りを入れている。俺は慌てて飛び出した。
「何してんですか。よしましょうよ」
「何だ、テメーは?」
 そのチンピラはかなり逆上していて、俺にまで殴りかかってくる。
 いきなりきたので対応が間に合わず、一発いいのをもらってしまった。
 さすがにカチンとくる。
 こめかみの傷が疼き、幼い頃を思い出す。あの頃の痛みに比べたら、今の俺には蚊に刺されたようなもんだ。
 昔ほど、俺は無力ではない。冷静にチンピラを見据える。チンピラは調子に乗って更に殴りかかってきた。
「ふざけんな、このガキ」
 相手のパンチをかわして、膝へ垂直に前蹴りを入れる。
「ギャーッ……」
 チンピラは脚を押さえ、転げ回る。これでこいつは、しばらくまともに立てないだろう。俺はニヤリとしながら、倒れている新堂を抱え起こした。
「大丈夫ですか?新堂さん」
「いてて…、おまえ喧嘩…。相当場慣れしてんだな。ありがとな……」
「偶然ですよ、偶然。それよりこいつ、どうするんですか?」
「今ので店長か田中が、ケツモチに連絡入れてるだろうから、逃げないように見とけばいいよ」
「ケツモチ?何ですか、それは……?」
「おまえ、本当に何も知らないんだなー。どこのゲーム屋だって、普通の素人が、堂々とこんな商売してたら、ヤクザが黙ってないだろ?誰に断ってやってんだって……」
「そうですねー」
「毎月のミカジメ料を払って、こういう時や他の組が嫌がらせに来た時、守ってもらうんだよ。この街はほとんどそうだよ。でも客は一般人だから、なるべくそういうところは見せないようにしてるだけなんだ。普通どこも客に対してのサービスには、気を使って営業するもんだけどな。それでも、こういうのがいるだろ?」
 新堂はあごを動かして、倒れているチンピラを指す。
「ふ、ふざけんな。きょ、今日のところは帰ってやるからどけよ」
 チンピラはよろけながらも何とか立ち上がり、睨みつけてくる。ケツモチという言葉を聞いてから、顔が真っ青になっている。これ以上いくら粋がっても意味がない。
「どけよ」
 俺は近づいて、もう片方の膝の皿を蹴飛ばしてやる。再び転がるチンピラ。
「大人しくしとけ」
「おまえも無茶すんなー……」
「正当防衛みたいなもんですよ」
「正当防衛ねぇ……」
「どっちにしても俺らは、こいつを見張っていればいいんですよね?」
「とりあえず、こいつ逃がすと、こっちにとばっちりが回ってくるからな」
 チンピラは脚を押さえて呻いている。その時、階段から人が上がってくる気配があり、俺と新堂は自然と会話をやめて、階段の方へ視線を走らせた。階段の影からケツモチらしき、見るからに暴力的な雰囲気をまとった二人が現れる。
 二人は、静かに辺りの様子を伺い、新堂を見た。ただならぬオーラだ。俺たちとは住んでいる世界が、全然違う気がした。
「こいつか……」
 新堂はピーンと背筋を真っ直ぐ伸ばして、とても緊張している。チンピラが来店した様子から、外に出て自分が殴られるまでを身振り手ぶりを加えて詳しく説明している。ケツモチの一人が何かを言う度に、新堂は愛想笑いをしながら頷く。
 話が済むとケツモチは、チンピラの両脇をかかえ、どこかへと連れて行った。チンピラは散々喚いて抵抗していたが、腹にパンチをもらうと大人しくなった。素直にケツモチの指示に従い、階段を降り、俺たちの視界から消えていった。
「一発もらったろ?大丈夫か?」
 新堂は、ケツモチがその場からいなくなると、俺に声を掛けてきた。
「まったく問題ないですよ。新堂さんこそ、お怪我ありませんか?」
「痛いけど、まー、この業界長いし、慣れたもんさ。でもあそこで普通、膝に蹴り入れるような事を瞬間で出来るって、一体、今までどんな場数、踏んできたんだ?」
「大袈裟ですね、別に何もしてないですよ。普通に喧嘩ぐらいはしましたけど……」
「ふーん、とりあえず、おまえには喧嘩売らないようにするよ」
「ところであいつは連れてかれましたけど、これからどうなるんですか?」
「そんなことまで俺は分かんないよ。あんなドケンチャン」
「ドケンチャン?さっきの奴の名前ですか?」
「違うよ。最初の新規サービスってあるだろ?」
「ええ」
「それが無くなって帰ろうとする奴をケンチャンって言うんだよ」
「……?」
「例えばうちは違うけど、よその店だと新規でサービス入れるのに、サービス券っていうのを持ってないと、サービス三千点が入らなかったりするんだ。そのサービス券の券だけ使って帰るセコイ奴だから、ケンチャンマンって、この業界では言うんだよ」
「じゃー、ドケンチャンってことは……」
「毎回来てて、初回サービスと、あと千円くらいやったとしても、そんな奴に限ってたまたま一気を取ったりするんだ。そういう奴にビンゴで五万なんてとられたら、店はどうなるよ?」
「確かに……」
 この店に入りたての頃、岩崎が色々教えてくれた説明の中で、新堂も同じようなことを言っていた。あの時はケンチャンという言い方までは、聞いていなかったが……。
「それ以外にも、他のお客さんにだって迷惑だろ?そういう馬鹿は、さらにドが付いて、ドケンチャンって言われるんだよ」
「そりゃ、そうですよね。他の客がビンゴでリーチまで叩いて、一生懸命めくっているのを急にケンチャンに横取りされたら、何だこいつってなりますよね」
「それですぐに帰られたら、営業妨害もいいところだよ。だからああいう馬鹿はさっきので、どうにかなっちまえばいいんだよ」
 想像はしないようにしておいた。どうせ想像したところで、俺たちには分からない世界に連れていかれたのだから、考えるだけ時間の無駄だ。
 
 新堂と俺は、店の中へ向かった。
 客が帰っても遅番の新堂と田中は、珍しく店に残り、色々話しをしていた。
 岩崎が気をきかせてくれたのか、食事休憩として一緒に外で食べてくればいいじゃないですかと、勧めてくれる。
 新堂と田中にも、三人で一緒にランチでも食わないかと誘われたので、俺は快く承諾した。
 店の近くを探し、コマ劇場の中の定食屋に入る。
 楕円形のカウンターテーブルのみで席が成り立っている店で、しわくちゃなおばあさんがカウンターの中に立っていた。何だか味がある店だ。
 メニューを見ると、フライ関係の品が多かったが、一番端にハンバーグと書いてあるのを発見する。俺は迷わずにハンバーグ定食を注文した。
「やっぱ、ハンバーグは最高ですよね。男のロマンを感じません?」
「は?何でいきなり男のロマンな訳……」
 新堂は不思議そうな顔で、俺を見る。田中も似たような顔つきをしていた。
「分かりませんか、この感覚が……」
 俺が悲しそうな表情で言うと、新堂は困った顔をする。
「ハンバーグについてはよく分かんないけど、ここのお新香は絶品だぜ。今日は俺が奢るから、食べてみな」
「ええ、いただきます」
 新堂に勧められたお新香を食べてみると、本当においしかった。俺は田舎というものはないが、これがおふくろの味というものなんだろうなと、勝手に思うほどおいしかった。
 おばあさんがご飯のお代わりはどうかいと、手を伸ばしてくる。俺は頭を下げてお願いする。
 新堂もお代わりを要求すると、おばあさんはこれでもかと、ご飯を盛りだす。ご飯を盛りつけるのが私の生き甲斐さと言わんばかりに、しゃもじを豪快に動かす。新堂がそれを見て、慌てて静止に入った。
「おばあさん。俺、そんな食えませんよ。そのぐらいで……」
「何、言ってんのさ。若いんだから、もっと食べなさいよ」
 新堂の言い分は一切通じず、どんどんご飯は増えていく。まるで親の敵のように、しゃもじにご飯を乗せている。すごいおばあさんだ……。
 漫画に出てきそうな超山盛りのご飯を片手に、困った顔をする新堂。俺と田中は、その光景を見て吹き出してしまった。やっとの思いで、新堂はご飯を食べ終えると苦しそうにしている。
「そういやー、赤崎君はこの業界初めてなんだよね?」
「はい。歌舞伎町って面白いとこですよね。俺、まだ来て間もないけど気に入ってますよ。思ったより怖いところじゃなかったですしね」
 おばあさんが口を挟んでくる。
「ここはいいところだよ。あたしはずっとこの街にいて、色々見てきてるからね」
「へー、そうなんですか」
「あんた、あたしいくつに見える?」
「えっ、うーんと七十ぐらいですか?」
「あたしゃー、八十二だよ。八十二。どうだい、元気なもんだろ。みんな、あたしのことは知ってるんだよ。この街に長くいるどんな奴だって、みんな、あたしを知ってるよ」
 すごい自信だ。まさに豪の者と呼ぶに相応しい、豪快なおばあさんだ。
 こういう一つ一つの風景が、歌舞伎町という街を形成していくのであろう。
 店を出ると、新堂はきつそうに腹を押さえ、「あのババー」と怒っていた。二人は、岩崎に挨拶してから帰ると言うので、三人で一旦、ダークネスに戻ることにした。
 
 さきほどの件で、どうやら俺は一目を置かれたようだ。
 店では完全にヒーロー扱いだった。バラバラに見えたダークネスの従業員が、今は一体感を出している。
 あれだけ無愛想だった新堂が、俺に向かって笑いながら話し掛けてきたのは素直に嬉しく思う。これで店の人間全員から、やっと仲間に見られたような感じだ。
 岩崎は「あの日、赤崎さんをここに入れて良かったでしょう?」と、自分の事のように自慢げに誇っていた。歌舞伎町のこんな小さな一軒の店でも、和気藹々と出来ることがある。
 皮肉なことにイブの日、男だけで生まれた奇妙な一体感。金が絡まなくても、今日のことは同じぐらい、むしろそれ以上の価値があるんだとハッキリ言いたかった。たまには俺の暴力も役に立つことがある……。
 もちろん、時と場合によってだけど……。
 俺の頭の中の辞書に、新たな教訓が生まれた瞬間だった。
 
 気分はとてもウキウキしていた。
 仕事が終わり歌舞伎町の街並みを歩いていると、性の欲望が出てくる。そういえば、一ヶ月ほど女を抱いてない。ここで働き始めてから今、俺は五十万くらいの金を持っている。
 もうちょっと節約しながら貯めれば八十万はあったと思う。
 以前、行ったナイトスコープという風俗店の嫌な思い出が蘇る。あの店はどうなったのだろう。駅への道を遠回りしてナイトスコープのあった方向に歩を進める。
 途中、客引きが近付いてきた。相変わらずこういう時は、とてもウザい。無視をしても、ずっと俺の横に付きまとってくる。
「社長―。一人寂しくどうしたんですか?」
「……」
「お一人じゃ、寂しいでしょ?」
「うるさい」
「つれないじゃないですかー。いいとこあるんですよ。社長」
「ほっといてくれ」
「お安くしときますから……」
「うるせーよ、さっきから黙ってりゃ、この野郎!しつこいんだよ」
 カップルの幸せそうな顔を散々見てきて、苛立っていたのかもしれないが、それを差し引いてもこの客引きはウザ過ぎる。
「何だよ、チェッ……」
「おい、テメーから声掛けといて、何だ?その言い草は……」
「え、すいません」
 客引きは逃げるように引き下がる。何人かのカップルが俺を見ていたが、全然気にならない。この街に来た当初は、客引き一人にもビビッてたのにな……。
 セントラル通りを歩いていると、前にあったナイトスコープの看板が見つからなかった。
「あれっ?」
 店が無い。同じ場所には、別の名前の風俗店が構えてあった。
「淫乱人妻勢揃い!うっふん人妻倶楽部」
 よりによって、うっふんはないだろう。うっふんは……。
 このネーミングを考えた奴のセンスを疑ってしまう。ここも時間の問題だろう。冷静に考えてみれば、あんな接客をする店が、この街でずっと通用するほど、歌舞伎町は甘くない。ナイトスコープの看板や店すら無いのなら、もう潰れてしまったのだろう。
 あの太めで生意気な女は、どうなったのだろう?
 知ったところで、俺にとっては別にどうでもいいことだが……。
 イブのせいか、通行人はカップルが多い。この状況で一人寂しく風俗に行くのは、さすがにちょっと気が引ける。
 あの雨の日、すぐ泉のところへ行けば、こんな寂しい日を向かえずに済んだだろう。イブなのに泉からの連絡はない。
 何組いるか分からないカップルに嫉妬心を抱きながらも、家に真っ直ぐ帰ることにする。俺の後ろ姿は哀愁を漂わせていると指差されながら、カップルの笑いのネタにされるのもごめんこうむりたい。
 
 ひっそりと家に帰った。弟の怜二は彼女と出かけているのか、姿が見えない。
 きっと、この間あげた五万で、彼女に色々と振舞って格好をつけているのだろう。要領の良さは天才的な奴だ。
「俺に感謝しろよ」
 怜二に向けて話すように独り言を言ってみた。さすがに惨めだ。
 俺から泉に電話してみるか、少し考える。
 あいつはあの大雨の中、ずっと傘も差さず、俺の部屋の前で、ずぶ濡れになって立っていた。その前に電話も掛けてきた。
 泉の誠意を感じられずにはいられない。
 俺は感情的になって聞く耳すら持たなかったけど……。
 何度も何度も掛けてきたけど、俺は無視した。
 怜二の奴がバッタリ道で会い、泉が俺のことを気に掛けていたと言う。
 俺はどうなんだ?
 こうして考えている時点で、本当は泉のことが、気になってしょうがないのだ。でも事の発端は、あいつが言いたいことを言って、俺の前から消えたことだ。簡単に許す訳にはいかない。
 簡単に許す……。
 俺はヨリを戻そうとしているのか?
 同じようなことを繰り返し考えて、気が付けば、二時間ほどの時間が過ぎた。
 時計の針は十一時を回っている。あと、一時間もしないでイブは終わり、クリスマスの聖なる夜がやってくる。
 そう思うと、自然と指は携帯を操りだし、泉の番号を押していた。
 プルルル……
 プルルル…プッ……
「はい……」
 何を話せばいいんだろう…。電話を掛けたはいいが、言葉が出ない。
「久しぶりだな」
「う…、うん……」
「元気か?」
「う…、うん。…いや、ううん…、全然元気じゃない。ごめん…、私、また隼人に嘘ついちゃったね……」
「何がだ?」
「ううん…、なんでもない…。全然、たいしたことじゃないから……」
「迷惑みたいだったな…。切るよ。悪かった……」
「……」
「じゃーな……」
「…待ってよ……」
「……」
 俺は言葉に詰まる。今になって電話したことが、格好悪く感じたのかもしれない。
「何でいつも…、いつも勝手に…、すぐに決め付けるの?」
「別に俺は相手の反応を察知して、気を使ってるだけだ」
 単なる誤魔化しの嘘だった。やっぱりこいつの前では格好をつけていたい。
「そんなの全然気を使ってるなんて言わないよ……」
「なら、俺のアンテナが故障したみたいだな」
「何でいつもそうやって、逃げるの?」
「別に逃げている訳じゃない」
「私にはもっと素直に気持ちを…、感情をぶつけてくれたっていいじゃない……」
「……」
「何か言ってよ。何か話してよ」
「悪かった、切るよ……」
「待ってよ。じゃー、何故、私に電話してきたの?」
「……」
「確かに私…、あの時、隼人をすごい傷つけちゃった…。だから…、だから、ずっと気になってたの!」
「それであの時、電話してきたのか?」
「そうよ…。すごい気になって…、何しても隼人のこと、思い出しちゃって……」
「もう俺はおまえが知っている頃の俺じゃないんだ」
 泉の言葉が嬉しかった。それでも俺は、素直に感情を出すことが出来ない大馬鹿だ。
「あ…、新しい彼女でも出来たの?」
「違う。そんなくだらないことじゃない……」
「……」
「何を黙ってんだ」
「…良かった…、良かったー……」
 泉の泣き声が受話器を通して聞こえる。
 俺は卑怯な男だ。自分が言い辛い言葉にはオブラートをかけ、すべて泉から言わせている。
 体が何故か震える……。
 俺は、泉のことがまだ好きなんだ。
 自分の感情に気付き、ちょっと楽になったような気がした。恥ずかしさも覚える。とりあえず、何か話し掛けてやらないと……。
「何故、大雨の時、外にいたんだ?」
 そんな野暮なことを聞いて、俺はどうしたいんだ。泉のすすり泣きが、携帯というフィルターを通し、俺の耳に聞こえてくる。
「あ、あんな言い方して私、あの場から逃げたでしょ……?」
「あんな?」
「隼人なんか知らないって……」
「ああ…、で?」
「ずっと考えてたんだ、隼人の事ばかり…。一人になると、隼人が傍にいて当たり前だった事がそうじゃなくなっている事に気付いてね…。何で私、あんなきつい言い方をしちゃったんだろう…。これからどうしたらいいんだろう…。ずっとそんな事ばかり考えちゃって、部屋に籠もっていたの…。何となく窓を開けたら雨が振っていて、私の心と同じだなって…。気付いたら隼人の家の近くにいたんだ……。あんな酷い事を言った私が、今さら何をしてんだろう…。馬鹿じゃないのって、ずっと自分を責めても……」
「おい!落ち着けよ、泉…。俺は今、新宿に行ってるんだ。もちろん働きにね。明日も仕事だ。今度、俺…、時間作るからゆっくり逢おう。逢って、色々話そう。なっ?」
 あの時の雨に打たれた泉の姿を思い出す。もっと俺が早く駆けつけてやれば良かったんだ……。
「…うん、ほんとごめんね…、ごめんね」
「謝ることなんて何もないさ。俺の配慮が足りなかったんだ」
「こんな時に堅苦しい言葉なんて言わないでよ」
「ああ、分かったよ、悪かった」
「隼人、私のこと、どう思っているの?」
「え…?そりゃー…、まぁ…、分かんじゃねーかよ……」
「何よ、その言い方は…、ちゃんと言って!」
 さっきまで泣いていた奴が、もうこんな強気な口調になっている。この問い詰め方は半分苛めだ。これだから女って奴は……。
 俺は今まで付き合ってきた女に「愛している」と言ったことが一度もなかった。もちろん恥ずかしいというのもあるが、そんな簡単には言えない言葉だ。
 何故なら、「愛している」という言葉の中には、亡くなった妹の愛という字が入っている。愛に対しての罪悪感からか、未だにそのことにこだわって簡単に「愛している」と、言えないでいた。
「いや、まあー、そのー……」
 バタンッ……。
 その時、下で玄関の開く音が派手に鳴る。怜二だろうか。階段を駆け上がる音がして、俺の部屋の方へ足音が近付いてくる。間違いなく怜二だ。俺にとって大事な電話をしている時に、本当邪魔する奴だ……。
「おーい、兄貴―。ちょっと聞いてくれよー。なー」
 怜二は俺の部屋のドア越しに興奮した声で話し掛けてくる。タイミング悪過ぎだ。前門の虎、後門の狼とはこのことを言うのだろう。
「泉、弟の怜二が今、部屋の前に来てんだ…。ま、またな……」
「ちょ…、ちょっと何がまたなのよ!」
「それじゃ、また電話する。なっ……」
「隼人―、なんなのよ!だいたいあなたは……」
 ブツッ……。
 泉が何か言おうとしているのも構わずに、電話を切った。あとが怖い……。
 泉とヨリを戻したとしても、俺はまたあいつの尻に敷かれそうだ。
 そう次のことを思えるのは、また二人の距離が、それだけ近付いた証拠だろう。これでとりあえず、前門の虎はクリア出来た。
「兄貴―、鍵開けてくれよ。ちょっと俺の話し聞いてくれよー」
「何だよ?」
「聞いてくれよ。あの女、二股かけてやがってよー。とにかく部屋入れてくれよー」
「俺は明日も仕事で、これから寝るんだ。また今度な」
「アニキー……」
「うるせー、クソしてとっとと寝ろ」
「何だよ、冷てーなー。じゃー、いいよ」
 怜二はいじけて自分の部屋に戻ったみたいだ。
 泉のことが気になって、今は怜二の愚痴を聞ける余裕はない。暇な時にでも俺から声を掛けてやればいいだろう。
 携帯からドビュッシーのアラベスク第一番が鳴りだす。泉から着信があった時の音だ。出たところで、どうせさっきの言葉を追及してくるだけだ。俺はバイブに切り替え、放っておくことにする。
 明日も朝から仕事だ。備えて早めに寝ることにしよう。
 今日は目をつぶっても、愛の姿は浮かんでこなかった。
 
 家を出て新宿へ向かう。クリスマスのせいか町並みは華やかになっている。昨日と変わらない数のカップルが、イチャイチャしながら街を歩いていた。
 昨日の電話の時に、泉と逢う約束でもしておけば良かったと後悔する。
 でも昨日街を歩いた時のような惨めさは、微塵も感じない。自分にとって特別な女がいるだけでこんなにも違う。やっぱり、男にとって女は偉大なのだろう。
 俺にとって泉は、非常に大事な存在なのだ。
 店に近付くと、ピンサロのメガネの店員がいつも通り威勢よく、通行人に呼び込みしている。話した感じ、とても好印象を受ける人だ。
 俺が新宿に遊びで来ていてここを通っただけなら、ただ、邪魔な存在にしか感じられなかったかもしれない。お互い名前も年齢も素性も分からないけど、その間に奇妙な友情は存在している。
「おはようございます。朝から頑張ってますね」
「おっ、もうそんな時間か、おはようございます」
「昨日、うちもあれから大変だったんですよ」
「隣で私は外にいつも立ってますから、ある程度、様子は分かりましたよ。ゲーム屋さんだと、よくある風景みたいですね」
「まだ、俺、ここに入って一ヶ月経ってないんですよ。だからさすがにちょっとビックリしました」
「まだそんなもんでしたっけ?そんなに時間経ってないんですね。なんか結構前からいるような感じしますよ。今度時間とお金出来たら、遊びに行かせてもらいますね」
「ありがとうございます。でもそんな使わないで下さいよ。知ってるお客さんが負け込むと、こっちだって本当に心苦しいんですから……」
「もちろん、ほどほどにしときますよ。おっと…、時間そろそろ危なくないですか?もう五分前ですよ」
「ありゃ、では失礼します」
 時計を見ると十時五分前だった。急いで階段を駆け上がる。店の中は七卓ほど客がいて、そこそこ忙しそうだ。
「おはようございます」
「おっす、昨日からずっと客が切れないで忙しいよ」
 新堂が親しげに話してくる。今までで無愛想だった新堂が、店内で仕事中、このように話し掛けてくるのは初めてだろう。
 昨日の一件で、俺は完全に店の一員とみなされたようだ。俺以外、急がしそうにINをしながら、話し掛けてくる。
「この流れを引き継いで、頑張りますよ」
「入れてー」
 客は店内のビンゴがリーチなので、異様な雰囲気をかもし出しながら、ゲームにのめり込んでいる。田中は必死になってINをしている。
 俺もすぐに着替えて、INキーを手に取り、ホールに出た。新堂が近づいて耳打ちしてくる。
「あの八卓に座っている人いるでしょ。小倉さんといって、うちだと一番太くていいお客さんなんだよ」
「あのー、太いって、どういう意味ですか?」
「簡単に言えば、いっぱいうちでつかってくれるお客さんといったとこだ。ビップ客とも言うけどね。来るとだいたい一晩で、うーん、四十五万前後はINを回してくれる。最低十万は毎回負けるし、いくら負けても一切ごねたりしない」
「へー、すごいですねー。見た感じ、普通のおじいちゃんって感じですけどね」
「ああ、服装も普通の格好してるしな。でも財布の中見ると、すごいんだぜ。いつも三百ぐらいの現金は持ち歩ってる」
「へー、そんな風には見えないですねー」
「そこが歌舞伎町の面白いとこなんだよ。うちみたいな一円のレートだと、暇つぶしで来てるようなもんなんだろ。以前、夜に来て十五万負け、朝方になって帰ったことがあるんだ。こっちがすいませんて近寄ると、小倉さんは一晩いて十五万くらいで済むんじゃ、安いもんだよなーって、ニコニコしながら帰っていくんだから……」
 絶句する。まさに今まで見てきたことのない完全に別世界の人だ。見た目はただの普通のおじいちゃんだけど、何をしている人なのかまったく想像がつかない。後ろ姿はとても小さく小柄だ。
「今日はその小倉さん、どんな感じなんですか?」
「最初来て、すぐに五万のビンゴ取って、おまけに一気も連発してたから、十七万くらい勝ってたんだ。俺がたまには勝って持ってって下さいと言っても、そんな真似は出来ないよって、まだ今もやってるんだ。たまには、勝って帰ってもらいたいのに……」
「義理堅いんですね。何だか格好いいですね」
「ああ、それで結局、今は五万負けってとこかな」
 俺は小倉さんというおじいさんに非常に好感が持てた。
 金を持っているとか、ここで太いからとか、そんなことじゃない。俺は、ここだけしか知らないが、小倉さんの生き方というか在り方……。
 その辺に男としてのダンディズムを感じる。
 テーブルを見ると、灰皿に煙草が溜まっている。俺はすぐに灰皿を交換する為に八卓へ歩いていく。
「失礼します」
 灰皿一つ換えるのにも、何故かとても神経を使う。
「おや、初めて見る顔だねー」
 小倉さんが俺に気付き、声を掛けてくれる。
 素直に嬉しかった。見た目は本当にただの小柄なおじいさんなので、肩でも揉みましょうかと気をつかいたくなるような感じなのに……。
 たったひと言で親近感を覚える。
「はい、赤崎といいます。はじめまして。まだ入って一ヶ月経ちません。これからもよろしくお願い致します」
「そうか、ワシはいつも来る時間帯が夜中だし、君は早番だから、なかなか会わない訳だよなー」
 口をモゴモゴさせながら、小倉さんは優しい口調で俺に話す。とても優しそうに見えた。このダークネスにというか、歌舞伎町にいるのが非常に似合わない。そんな感じの不思議な人だった。
「まだ、この仕事に慣れていませんが、よろしくお願いします」
「フォッフォッ…、岩崎君。いい新人が入ったねー」
「ええ、おかげさまで…。これもひとえに小倉さんみたいな、いい常連さんたちに支えられているからですよ」
「岩崎君も、お世辞が一人前になったねー」
「いやー、そんな。まだまだです」
 小倉さんは少ししてから、機嫌良く帰って行った。
 結局八万負けだった。それでも綺麗に遊び、ニコニコ笑って帰れる小倉さんはすごかった。
 この間、新堂に絡んでいた情けないチンピラと比較すると、まるで月とゴキブリぐらいの違いがある。
 今日の客の入りだと、岩崎は俺に二万くらいは渡してくるだろう。それにしても、岩崎はいつもどうやって誤魔化し、店の売り上げから金を抜いているのだろうか?
 岩崎はそのやり方について、俺にひと言も話したことがなかった。まあそんなことは、俺から聞くことでもないし、岩崎の出方をみるしかないだろう。
 仕事に行って十二時間が経ち、夜になると新堂、田中が来て俺の仕事は終わる。
 今日、岩崎は日払いの金とは別に三万円をくれた。予想より一万も、多くもらっているのにあまり嬉しさが湧いてこない。
 金に麻痺してきた証拠だろうか……。
 
 狭山の駅に着いて、すぐ泉に電話した。時間は十一時を回っている。皮肉にも昨日、泉に電話を掛けた時間と同じ頃だ。
 残り一時間を切ったけど、まだクリスマスには違いない。
「おう、昨日は悪かったな。今、仕事終わったんだ」
 自然に言葉が出る。昨日の気まずい空気とはえらい違いだ。
「お疲れさま。昨日、隼人に何度も電話してんのに、全然、出てくれなかった」
「悪かったよ。怜二が二股かけられたって…。あのあと、俺の部屋来て、あいつの愚痴を聞くの大変だったんだよ」
「あらー、二股?怜二君、女見る目ないわねー」
「あいつは調子良過ぎて、誰かれ構わずに女を口説いてるから、そういう目に遭うんだ」
「相変わらず、隼人は言い方きついなー」
「それを承知でおまえは俺に惚れたんだろう?」
「バカじゃないの。本当相変わらずね」
 自分で言っといて、自分の台詞に恥ずかしくなる。言わなきゃよかった……。
「ねえ、今度いつ逢える?隼人、何してんのか分からないけど、仕事頑張ってんでしょ」
「うーん、まー、確かに頑張ってるね。ただ、休み決まってないんだよな。でも近い内、絶対に時間作るよ。それでいいか?」
「うん、話していて隼人、頑張っているというか、意欲に燃えてるの分かるもん。それを邪魔したくないし、私は大人しくしてるよ」
「悪いな、ありがとう」
「でも、逢った時は何か、ねだっちゃうかもね」
「ああ、好きな物買ってやるよ」
 金なら腐るほど、いくらでも入ってくるのだから……。
「ほんと?すごい嬉しいー。確かに隼人、ちょっといい風に変わったかもしれないね」
 確かに変わった。歌舞伎町の住人として、金の魅力にとり憑かれだしている。
「どうだかな。まあ帰り道だし、俺はこれから家に帰ってすぐ寝るよ」
「気を付けて帰ってね」
 携帯を切ると、真っ直ぐに帰ることにする。
 途中、アラチョンの看板が目に入る。
 腹は減っていたが、クリスマスのこの時間帯に一人で入っていったら、あのマスターのことだ。色々と突っ込んでくるだろう。
 さすがにそれは勘弁なので、家へ向かう。窓越しにマスターがてんてこ舞いで、忙しなく動き回っているのが見えた。
「頑張れよ」
 マスターに向けて呟いたつもりだが、近くを歩いていたカップルが不思議そうな顔をして、俺の方を見ていた。
 
 いい気分だ。湯船に浸かり、手で湯をすくい顔にかけた。
 泉とまた、ヨリを戻せたんだなと実感する。あいつと一時、別れて、いや見捨てられてという表現の方が正しいのだろうか。色々な葛藤や矛盾に、時にはへこんだりしたけど、結果的に良かったと思う。一時の別れは冷却期間となり、お互いの大切さを感じることが出来た。
 去年と違って、今年はイブもクリスマスも一緒には過ごせなかったが、充実している。俺に一番しっくりくる女が居てくれるのだ。少なくとも幸せを感じている。
 歌舞伎町に来る前の俺は最悪だった。泉と別れ、金もない辛く惨めな日々。しかし、悪い事があったからこそ、今、いい時だと感じられる。
 運気が変わってきたのは間違いなく歌舞伎町で働きだしてからである。今のダークネスの仕事が、もちろん一生の仕事とは思っていない。自分から辞めるつもりはないが、働き出して一ヶ月という月日が経とうとしている。
 その短い期間で、俺は今まで、絶対に手にすることの出来なかった金額をもらえている。それがどんな方法であれ、岩崎には感謝しないといけない。
 恐る恐る行ってみた歌舞伎町ではあるが、案外、俺には水が合うのだろう。
 今まで働いてきたどんな職場よりも、居心地が良く感じるのは正直な気持ちである。
 風呂から上がると、自然と鏡に目が行く。
 こめかみの三本の傷が鏡に写る。今日は見ても、傷が疼きだす様子はない。
 愛のことを思い出す。
 今みたいに金があれば、一緒に見に行ったデパートのレストランで好きなだけお子さまランチを食わせてやれただろう。
 あんなガラスのケースに入ったものを見せるだけなんて、絶対にさせない。
 しかし、この金は俺のものには違いないが、結局は欲望にまみれた薄汚れた金だ。そんな金で、愛にハンバーグを食べさせるのか。
 愛と繋がっていた目に見えない糸が、一本切れたように感じる。
 何本繋がっているのか分からないけど、一つ、また一つと、その糸が切れていくたびに、俺は人間らしさを失っていく。
 だが、どんなに頑張って綺麗な金を稼いだとしても、愛は俺のところに戻ってきてはくれない。開き直ってでも、俺は生きるしかない。
 割り切れ……。
 目を閉じた。愛の悲しそうな顔が、浮かび上がる。
 このままいくと、俺は頭がおかしくなるのではないか……。
 愛…、ハンバーグ、大好きだったよな……。
 アラチョン、まだやっているかな?
 急いで服を着て、アラチョンに向かった。
 俺は罪滅ぼしという訳ではないが、自分の中のやるせなさを何とかしたかった。
 アラチョンの看板は点いていたが、ドアにはすでにクローズと掛かっていた。マスターが店の中から俺に気付き、近付いてくる。
「どうしたんだい、隼人ちゃん。こんな遅くに……」
「も、もう終わりですよね」
「何かあったのかい?」
「いや、いいんです」
「コーヒーぐらいご馳走するよ。外、寒いだろ。そんなとこいないで、中に入りなよ」
「いつもすいません、マスター……」
 アラチョンの店内に導かれる。俺はお言葉に甘えることにして店の中に入った。
 マスターはコーヒーを淹れている。いい香りが辺りに漂う。薄汚れた金でもいい。アラチョンのおいしいハンバーグを愛に食わせてやりたかった。
「ほら、飲みなよ。体、冷えてるだろう?」
「いつもすいません」
「どうしたんだい?」
「マスター、ハンバーグのテイクアウトって、やってましたっけ?」
「何、遠慮してんだよ。店をクローズしてたって、隼人ちゃんに言われたら、いつだって作るよ。今、作ってやるから食ってけばいいじゃんか」
「持ち帰りは…、無理ですよね……」
「何だ、自分で食うんじゃないのかい?」
「いや、やっぱいいです。悪いし……」
「話してみなよ。少なくても俺は隼人ちゃんの倍は生きてる。何かしら力になれるかもしれないだろ」
「いいんです…。放っておいて下さい」
 俺の言葉を聞くなりマスターは、クルリと向きを変える。
 気を悪くさせちゃったのかな……。
 当たり前だ。俺は何を考えているのだろう。
 マスターは引き出しを開けて、ゴソゴソ何かを探しているみたいだ。何て声を掛けていいか分からない。
 もし、気を悪くさせてしまったのなら、何かしら声を掛けないと失礼だ。
「き、気を悪くさせてしまいましたか?」
「……」
 マスターからの返事はない。
 俺の言い方が悪かったのだ。閉店時間にいきなり来て、親身になってくれているマスターに対し、何故、あんな言い方をしてしまったのだろう。背中を見ていると、心苦しくなる。
 静かに引き出しを閉めたマスターは、そっと一枚の写真を俺の前に置いた。
「お…、親父…。マスター、ひょっとしてこの写真…、俺の親父ですか?」
 ニコッと笑い、マスターは軽く頷いた。
「俺の大事な親友だったんだ……」
「……」
 今まで親父のことなど、思い出すことさえなかった。
「確かに親としては、あいつは失格だよ。自分の息子が苦しんでいるのに、近くにいないんだもんな。でもあいつは何とかしたくたって、もう出来ないところにいる。だから俺は親友として、あいつのケツぐらい拭いてやりたいんだ。たまに俺の夢に出てくるんだぜ。隼人ちゃんの親父さん…。向こうでも心配なんだろ、きっと…。よかったら話してみなよ。せっかく言い掛けたんだからさ。駄目かい、隼人ちゃん?」
 愛の顔を見る前に亡くなった親父。そんなんじゃ、天国に行っても、愛だって分からないじゃねえか、馬鹿親父……。
「……」
「本当にいいなら、こんな時間に俺のとこ来ないだろ?言ってみなよ。それとも俺なんかじゃ、頼りないか?」
 親父は、マスターに頼んでいたんだな…。目尻が熱くなる。
「いや…、そんなことないです。妹の愛のこと、急に思い出してしまったんです」
「……。愛ちゃんかー…。あの子は本当に可愛い子だったな。隼人ちゃんには残念な事件だったよな。…で、愛ちゃんがどうしたんだい」
「あいつ、本当にハンバーグ大好きだったんです。小さい頃、よくデパートに連れて行くと食べたがっていたんです」
「うん」
「でも、俺もまだ小さかったから、一回も食べさせてやることが出来なかったんです。それで、今日、クリスマスじゃないですか?もう日にち変わっちゃいましたけど…。今さらかもしれないですけど…、マスターのハンバーグ、食わせてやりたかったなって……」
「俺も、あの日のことは覚えているよ。隼人ちゃん、ひょっとして、まだ自分のせいだと思っているのかい?」
「違いますか?俺があの時、愛をブランコに乗せてなければ…、愛は…、愛はあんな風にならずに済んだんです。そうすれば本当は今、ここにだって一緒にハンバーグを食いに連れて来れた…。いや、もっとあいつが小さい内に、いくらだって腹いっぱい食わせてやれたんです。俺が、愛を殺したようなもんだ…。俺が……」
 長い間、抑えていた思いが……。
 溜まっていた感情が……。
 ついに言葉に出てしまった。
 心の奥底で渦巻いていたものを、自分ではもう、とめられなかった。
 不覚にも俺はマスターの前でボロボロと泣いていた。
 マスターは、俺の肩にポンッと手を置くと、厨房の方に無言で歩いていく。
 しばらくして、「ジュー……」と肉の焼けるいい匂いがする。マスターは再び火を起こして、ハンバーグを焼いてくれているのだろう。
 俺はテーブルに突っ伏し、思い切り泣いた。
 肉の焼ける音が聞こえなくなっても、マスターはしばらく出てこなかった。きっと俺に気を使ってくれているのだろう。気持ちが暖かくなる。
「お待たせ。ほらっ、これ持っていきな」
 泣き顔を見せたくないので、俺はマスターの顔を見られなかった。うつむいたまま無言で受け取り、財布を出す。汚い金だけど仕方ない。
「お代はいらないよ。うちはもう閉店してる時間だ」
「そんな訳いかないです。こんな迷惑かけて……」
「俺からの些細なクリスマスプレゼントだ。それ持って、さっさと行きなよ」
「でも……」
「隼人ちゃんの親父さんから、とっくにお代はもらってるからさ、な?」
「あ、ありがとうございます……」
「また、来てくれよな」
「本当にありがとうございます。俺、何て言ったらいいか……」
「今日の俺のハンバーグ…、大失敗作だ。ちょっとしょっぱくなってる。こんなんじゃ、お金取れないよ……」
 思わず顔を見上げた……。
 マスターの目には涙が滲んでいた。マスターは泣き声のまま、俺に諭すように優しく話し続ける。
「いいかい隼人ちゃん。ずっと自分を責めるのは分かる。それでも隼人ちゃんは生きている。だったらさ、自分の足で立って、ちゃんと生きていかないと駄目なんだ。気の済むまで責めたっていいさ。でも隼人ちゃんは、愛ちゃんの分まで生きなきゃいけないんだよ。隼人ちゃんの親父さん、あいつだって生きてたら、きっと、そう言うと思うぜ……」
「…ありが…とう…ござい…ました……」
 それだけ言うのが精一杯だった……。
 
 外に出て、煙草に火をつける。
 こんな真夜中に、俺は愛の墓へと向かっている。
 涙は、もう出ていなかった。愛の前で泣く訳にはいかない。
 真心のこもったハンバーグ。俺は、今日この日を絶対に忘れないだろう。マスターには頭が上がらない。でっかい借りを作ってしまった。
 それにしてもマスターと親父が昔、親友同士だったとは驚きだ。親父の奴、愛の生まれた時に事故に遭い、愛の顔すら見ていない……。
「俺が代わりに今、愛のとこ行ってくるからな、馬鹿親父……」
 暗い夜道を黙々と歩くが、クリスマスの余韻かまだ何組かのカップルを見かける。
 泉と逢って楽しい時間を過ごしたいという思いもあったが、今はこの温かいハンバーグを愛の元へ持って行ってやりたかった。
 正直、夜中に墓場へ行くのは、あんまり気持ちいいものじゃない。
 お寺の入口にまで来た時、ひと気がなく明かりのない様子に薄気味悪さを感じ、鳥肌がたった。
 マスターから受けた感動は、恐怖心の前に徐々に薄れつつある。非常に怖かった。自分で自分を情けなく思う。
 お寺の入口をくぐっても、なかなか足が進まない。何度も後ろを振り返った。
「墓場で転んだら、そこの土を舐めないといけないんだよ」
 幼い頃聞いた、祖母の言葉を思い出す。今となっては迷信だろうと思うが、この現状では絶対に転びたくない。震える体、手足を踏ん張りながら、ゆっくりと一歩、また一歩と進む。迷信かもしれないが、転ぶのはやっぱり嫌だった。
 ハンバーグの入ったビニール袋に手を触れると、少し冷めてきていた。
 一体、何の為にここへ来たんだ?
 マスターの心意気を無駄にするのか?
 愛に、これを届ける為に、来たんじゃないのか?
 自分を叱咤する。少しだけ、前に進む意欲が湧いてきた。
 勇気を振り絞り、足を一歩一歩慎重に進めて行く。臆病風にふかれ徐々に進むのがやっとだった。俺の体は恐怖と寒さでブルブル震えていた。
 しばらく進むと、墓場の入り口が見える。
「愛の墓は……」
 独り言を言いながら、少しでも気を紛らわせようとした。墓石をグルリと見渡してみる。ひと一人もいない静けさ……。
 そこには亡くなった者だけが眠る、聖なる無の神秘的な世界が広がっていた。
 こんな場所に、生きている俺がいてもいいのか。そんな時だった。
「ん……」
 一箇所だけ、鈍い光を放っているように見える墓石。
 あれだけあった恐怖心が、不思議となくなる。俺は鈍い光に向かって進む。
 明かりはほとんどなく、この薄暗い状況の中、愛の墓は、俺を優しく導いている。
「愛……」
 慎重に足元を確認しながら、愛の墓に近付く。
「あっ……」
 途中で足をつまずき、俺はバランスを崩す。ハンバーグだけは、死守しないといけない。右手でビニール袋を空に向かって突き上げたまま、俺は墓場の地面へ転んだ。
 ホッ…、ハンバーグは無事か……。
 祖母の言った言葉が頭の中で鳴り響く。
「墓場で転んだら、そこの土を舐めないといけないんだよ」
 俺は舌を出し、地面の土をそのまま舐めた。小さな小石も含んだ固いザラザラした嫌な感触が、口の中に充満する。唾液を一点に集め、土と一緒に吐き出した。
「これで文句ねえだろ……」
 独り言を呟きながら、淡々と歩く。
 やっとの思いで愛の墓の前に立つ。マスターの用意してくれたビニールからハンバーグを取り出そうとした。
「……」
 容器は二つあった……。
 マスターの心遣いがとても嬉しかった。
 でも、愛の前だから泣く訳にはいかない。妹の前で兄は、いつも毅然とした態度をしてなきゃいけないのだ。
 一つを愛の墓の前に、そっと置いた。
「遅くなってごめんな…、愛…。これ、おにいちゃんが今、一番おいしいと思ってるハンバーグなんだぞ。一緒に食べような。随分待たしちゃったよな。本当にごめんな、愛…。もう、ショーウインドーの中のハンバーグなんかじゃないんだぞ。好きなだけ食べていいんだぞ……」
 首筋にヒヤッとした冷たさを感じ、思わず空を見上げる。
 空が、俺と愛を歓迎してくれたかのように、真っ白な雪を降らせ始めた。
 白いマフラーを外し、愛の墓石に巻いてやる。そして愛に向かってニコリと微笑みかけた。
「ハハハ…、こんなことってあるんだな…。でも愛は寒いよな。風邪ひいちゃうよな。愛、見てみなよ。おまえの好きな雪が降ってるぞ。愛、早く食べないとハンバーグ冷めちゃうぞ。おまえ、あんなに食べたがってたもんな。おにいちゃん、ここに来るまでおっかない思いしてきたんだぞ。仲良く一緒に食べような……」
 愛の墓石の前で、俺はゆっくり腰を下ろし、俺の分のハンバーグを取り出す。
 マスターのハンバーグを一口食べた。ちょっとしょっぱい。当たり前だ。愛の前で涙を流したくなかったけど、ハンバーグの上に俺の大粒の涙がこぼれ落ちていた。
 一気に平らげると、ゆっくり立ち上がる。
 愛の墓を改めて見た。俺の巻いてやった白いマフラーが風になびいている。真っ白な雪がもたらした幻想だろうか……。
「ハンバーグありがとう。おにいちゃん。じゃーねー」
 雪がしんしんと降る中、愛の声が聞こえたような気がした。白いマフラーが揺れる度に、愛が俺に向かって、手を一生懸命振っているように見えた。
「おにいちゃん、明日も仕事だから帰るぞ。寒いだろうから、マフラーは愛にあげるな。うん、おにいちゃんは大丈夫だよ。また来るな」
 クリスマスの日に、天が、俺に与えてくれた美しい現象。愛とのことを雪も喜んでくれ、ドラマティックに演出してくれている。俺はまた愛の墓に近づいた。
「まだ世の中、捨てたもんじゃないよな…。愛、おにいちゃん、頑張るからな……」
 しばらく愛の墓に突っ伏して大声で泣いた。
 これは何の涙だろう……。
 歌舞伎町で働く汚れた自分への悲しみなのか。それとも、もう会えない愛へのせつなさからなのか。
 
 明日も仕事だから、そろそろ俺は行かなくちゃいけない。ちょっとの間だったかもしれないけど、愛と会話出来たような気がする。最初は怖かったが、ここへ来られて良かった。まだ名残惜しいが、愛の墓を見ながら、俺はゆっくりと立ち上がろうとした。
 急に背中でゾクッとした寒気を感じる。
 何かにジッと見られている視線を感じたのだ。明らかに、雪による寒さとは違う種類のものだった。俺の血液が激しく動き回る。
 最近では感じられなかったが、幼い頃にこれと似たような感覚は、嫌というほど体験している。立ち上がり背後を振り返った。確かに、人の気配を感じたのだ。
「誰だ。出てこいよ……」
 言葉を発してみたが、シーンと辺りは静まり返っている。
 しばらくその場に立ち、辺りを見回した。こんな真夜中の墓場に俺以外、一体、誰がいるというのだろうか。俺の考え過ぎか気のせいだろう。
 辺りは雪が積もり始め、一面に銀世界を形成しつつある。
 俺と愛の為だけの綺麗な空間。
 その新雪の中に、消えかかった女性のハイヒールらしい足跡が目に入った瞬間、過去のおぞましい記憶が蘇ってくる。
 こめかみの傷が疼きだす。
 いくら見回しても、辺りには誰もいなかったはずなのに……。
 ハイヒールの足跡を残していった何者かに、俺と愛の神聖なるこの空間を汚された感じがした。
 あの女、愛が亡くなったのを知っていたのか……。
 もう今の俺は、幼い頃に比べたら無力ではない。拳に自然と力が入る。
 しばらく愛の墓から立った状態で辺りの様子を窺ったが、人の気配はまったくしない。雪だけが、静かに舞い降りていた……。
 
 目覚めて時計を見ると、朝の十時を過ぎていた。
 すぐに立ち上がろうとするが、体がいうことを利かない。昨日、雪の中でしばらく佇んでいたことが体に響いているのか。寒気もダルさもあるから、おそらく風邪をひいたのだろう。
 それにしても完全な遅刻だ。ついに、やってしまった。自分の中で遅刻は許されないものがあったが……。
 自己嫌悪に陥る。遅刻をする人間を俺自身が大嫌いだった。この世の中、何人の人間が遅刻というもので、仕事に支障をきたし、周りに迷惑を掛けてきたのだろう。それに対し、激しい感情を持っていた俺自らが、ポカをする……。最低だ。
 俺は携帯をとり、ダークネスに電話を入れた。時間は元には戻せないのだ。素直に謝るしかない。
「すいません。赤崎です。はい、はい…。本当に申し訳ありません。…いや、そんな訳いかないですよ。でも…、はい、ええ。確かに鼻声ですけど…、はい、はい…、本当に今日、大丈夫ですか?はい、分かりました。明日は必ず出勤します。はい、はい…、本当にすいませんでした。失礼します」
 岩崎は、俺の声の調子から具合が悪いのを察知したみたいで、今日は休んでいいと、気を利かせてくれた。今日、岩崎はダークネスの早番の仕事を一人でこなすのだろう。俺を気遣って、店は暇だと言ってはくれたが、電話越しに聞こえたあのゲームの色々な音は、店の忙しさを物語っていた。
 彼に悪いことをした。やるせない気分に陥る。
 とりあえず今日は、大人しく寝ることにした。布団に横になると、突然携帯が鳴り出す。アラベスクの一番…、泉からだった。ダルい体を動かして電話に出る。
「もしもし……」
「うわっ、すごい声。風邪でもひいたの?」
「ああ…、そうみたいだ……」
「大丈夫なの?」
「駄目みたいだ。大人しく仕事も休んで寝てる……」
「怜二君は?」
「分からない……」
「もう、ちゃんと寝てなきゃ駄目だよ。具合悪そうだから、電話とりあえず切るね」
「ああ、悪いな」
「お大事にー」
 泉との電話が終わると、俺は横になる。苦しい……。俺はいつの間にか眠りについた。
 
 夢の中で、俺と怜二と愛の三兄妹は、ガキの頃の姿になっていた。
 公園で怜二と愛を連れて、遊び回る。俺と怜二が滑り台をして遊び、愛は大人しくベンチに座り、俺たちを見て喜んでいる。
 夢中になって滑り台を滑っていると、近所のガキが愛を苛めて泣かしていた。怜二が俺に愛が苛められているよと、教えに来る。
 俺は近所のガキを蹴散らして、愛を守る。愛はしばらく泣いていたが、俺に抱きついて甘えだす。俺は愛の頭を撫でてやり、一日の小遣いを全部使って、お菓子を買ってきた。
 そして三人で仲良く分け合って食べた。
 怜二も愛も、笑顔でいっぱいになる。俺も笑顔だ。
 鳩の群れが俺たちのところに集まってくる。愛はスナック菓子を小さく千切って、鳩に与えた。鳩はドンドン集まってくる。
 三人で持っていたお菓子をすべて千切って鳩に与えた。お菓子が無くなると鳩は次々に飛び立って、その場からいなくなる。現金な生き物である。
 愛が「ブランコに乗りたい」と言う。俺は駄目だと止める。愛が泣き出し、怜二は俺に「乗せてやれよ」と勝手なことを言い出す。
 ふと、ここは夢の中なんだということに気付き、俺は愛をブランコに乗せてあげることにした。
 楽しそうにブランコを漕ぐ愛。
 俺と怜二はそれを楽しそうに見守る。急に喉が渇いてきたが我慢した。愛が俺と怜二に向かって手を振り出す。
「バカッ!」
 全速力で、俺は愛に向かって走り出す。
 愛はバランスを崩し、ブランコから落ちていく。前と決定的に違うのは、俺と愛の距離だ。
 全力で駆けつけ、地面に頭がぶつかる瞬間に、俺は愛を体ごとうまくキャッチした。
 そのままの勢いで俺は後ろ向きに倒れ、後頭部を地面にぶつける。夢の中なのに痛かった。
 でも、良かった。これでいい……。
 手の平には、愛を受け止めた感触がある。
 怜二と愛が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。俺は愛の顔を確認すると、ニコリと笑って見せた。
「良かったな、愛…。ほんと良かった……」
 視界がぼやけていく……。
 
 誰かが倒れている俺の額に、手を当ててくれている。
 暖かい手だ……。
 怜二の手か…、愛の手か……。
 いや、違う。誰の手なんだろう?
 その瞬間、ハッと目を覚ました。
 ボンヤリと映りだす見慣れた景色。視界の片隅に、誰かが映っている。
 ゆっくり横を振り向くと、泉がいた。視線に気が付くと、俺の額に手を当てたまま泉はニッコリ微笑んでくる。髪型もポニーテールのままだった。
 自分の部屋に、泉がいることの不自然さを、自然と受け入れている。
「大丈夫?」
「いつから来てたんだ?」
「そんな経ってないよ。それより挨拶ぐらいしてよ。お互いちゃんと逢うのって、ほんと久しぶりなんだよ。まったく……」
 泉はワザと膨れっ面をしている。久しぶりに逢ったのに、いきなりその顔はないだろう。相変わらず、可愛い奴だ。
 自然と俺は笑顔になる。こいつは、やっぱり俺に必要なんだ。
「ああ、ごめんごめん…。言い遅れたけど、おはよう」
「何、言ってんの、もう夕方だよ」
「え、そんなに俺、寝てたんだ……」
「私、隼人の寝顔ずっと見てたんだよ。途中、何かにとても慌てて苦しんでいて、ちょっとして、寝ながら急にニコニコしてたのよ。変なの……」
 泉は俺を心配そうに見つめている。まだ俺の手には愛を受け止めた感触がある。確かにあれは夢だったんだ。今、俺の横で泉が居てくれる方が現実なのだ。
「夢だったんだよな……」
 両手を見ながら、静かに言った。
「えっ?」
「でも、救えたんだ…。良かった……」
 泉は優しい瞳で黙って微笑んでくれる。
 目と目が合う。何分ぐらい目線を合わせただろう。泉の顔が近付いてくる。唇に優しい感触が触れた。一瞬だったが、心地良い感触は、まだ唇に残っている……。
「風邪うつるぞ」
「平気だもん」
「馬鹿」
「やっと逢えたね。こんな形だけど……」
 泉は恥ずかしそうな笑顔を俺に向ける。自分が今したことに照れているのか、頬が赤い。
「一ヶ月ぶりぐらいか?」
「うん」
「寂しかったか?」
「うん」
「そうか、俺も寂しかった」
「う…、ん……」
 泉の目元がウルウルしだしている。本当に泉は俺の前で、よく泣く。
「やっぱさー…、何て言ったらいいのかな……」
「何?ハッキリ言って」
「お、おまえは俺の女だ」
「…、う…、うう……」
「また泣き出す。本当におまえは泣き虫だ」
 泉は泣きながら俺の胸に突っ伏してくる。俺は優しく頭を撫でてやる。さっきの夢の中で、愛にしたのと同じように。
「何か欲しい物あるんだろう?」
「ううん。ないよ」
「この間、言ってたじゃねーか」
「言ってみただけだよ。何もないよ」
「遠慮してんじゃねーだろうな?」
「してないよー。じゃあ、今度逢う時まで考えておくね」
「ああ、そうしろ」
 俺の稼ぐ金は汚い金だ。その気持ちを忘れる為にも、泉に何かを買い、少しでも綺麗な使い方をしたかった。それに、こいつの喜ぶ顔がもっと見たい。
「さっき、何の夢見てたの?」
「俺が小さい時の夢だ」
「怜二君とかもいたの?」
「ああ、もちろん愛もいたよ」
「そう……」
「以前、話したことあったよな」
「うん」
「夢の中かもしれないけどさ……」
「うん」
 布団から両腕を出して、ゆっくり天井へ向ける。まだ手の平には愛を受け止めた感触が残っている感じがした。あれは夢だったのに、まるで現実のような錯覚を起こしている。
「でも…、今度は救えたんだ」
 俺は布団をめくり、上半身を起こした。泉は優しい瞳で俺を見つめている。
「……良かったね」
 泉は俺の肩に、自分の頭を横向きに乗せてくる。
「どうなんだか…。よく分からないよ」
「ねえ…、隼人、目をつぶってみて……」
「え?」
「いいから…、早く目をつぶって」
「ああ…、分かったよ」
 俺が目をつぶると、泉は抱き付いてきた。いい匂いがする。一ヶ月ぶりに嗅いだとても懐かしい匂いだ。ポニーテールの尻尾が俺の顔をくすぐる。
「昨日さー。泉と電話して家帰ってからさー……」
「どうしたの?」
「アラチョン行って、マスターに無理言って、ハンバーグ作ってもらって……」
「うん」
「愛のとこに置いてきたんだ」
「ふーん」
「あいつ満足したかな…」
「隼人は今、生きてて楽しい?」
 楽しいか……。
 すぐには返答できない。
 新宿で薄汚れた金を稼ぐ俺。すっかり歌舞伎町の汚染された菌に犯され、腐っていく。でも今は、泉が俺のそばにいる。それだけが救いのような気がした。
「俺か?うーん……、少なくても、今は幸せだと感じてるよ」
「じゃー、愛ちゃんだって嬉しいに決まってるじゃない」
「そうか?」
「そりゃそうよ。女の直感ってやつだもん」
「……少し、気が楽になった…」
「やっぱり私が必要でしょ?」
「……ああ、返す言葉がないな」
「へへ……」
「心なしか、具合も良くなってきたみたいだ」
「明日も仕事なんでしょ?」
「もちろん」
「じゃあ、私、今日はもう帰るから、ゆっくり休んでね」
 泉は俺から離れて洋服の乱れを直す。目元はさっき泣いたせいか、ちょっと赤い。
「泉……」
「どうしたの?」
「今日はありがとうな」
「何よ、いきなり…、もう…。じゃーね、お大事に……」
 部屋のドアが閉まる。俺は泉に感謝した。唇にはまだ泉の唇の感触が残っている。俺は自分の唇を手で触ってみた。
 
 昨日の泉効果か、体調はすっかり良くなっていた。
 一日ぶりにダークネスに出勤すると、岩崎ら従業員が駆け寄ってくる。今日も客はいないみたいだ。
「具合大丈夫ですか、赤崎さん」
「ええ、おかげさまで…、昨日はすいませんでした」
「気にしないで下さい。ただ、鳴戸さん、そういう休み方嫌うんで、もし今日、ここに来ることあったら、赤崎さんにうるさく言ってくるかもしれませんが、あまり気にしないようにして下さいね。あ、あと、水野さんはしつこくて嫌味な言い方すると思いますけど、そっちは大丈夫ですよね」
 途端に憂鬱な気分になった。
 老婆心で岩崎が教えてくれるのはありがたいが、あの鳴戸の機嫌を損ねたということを聞くと、この場から逃げ出したくなる。
 昨日、幸せだった分のしわ寄せが、今日にプラスされた感じだ……。とても憂鬱だ。鬱病になりそうだ。
「大丈夫ですよ。ガーッとは言ってくるかもしれませんが、あの人はあとにまで引きずりませんし、言い終われば、いつもと一緒ですから」
「はぁ…、了解です」
「休んじまったもんは、しょうがねえって」
 溜息をつく俺の肩を新堂はポンと叩くと、「じゃーな」と帰っていく。田中も、俺を無理に励まして帰る。みんないい従業員たちだ。
 しかし、現実問題、鳴戸にどやされることを考えると、やっぱり怖い…。恐ろしい……。
 岩崎に頼まれて買い出しに行く。
 昨日休んだだけあって、いつもの倍近くの量だから大変だ。クリスマスが終わっても、歌舞伎町の賑わいは変わらない。違うのはカップルの数が減ったぐらいだ。
 買い物を済ませると、店に戻るのが憂鬱になる。足取りが次第に重くなっていく。
 ピンサロのメガネの店員に挨拶を済ませ、ダークネスに戻ると水野、鳴戸の両オーナーはすでに店に来ていた。
 水野は俺のことを嫌な目つきで睨んでくる。
 鳴戸はあくまでも自然体でゆったりと椅子に座り、遠くを見るような目つきをしていた。どこを見ているのか、俺には分からない。とても嫌な雰囲気が、店中に充満している。
「昨日はすいませんでした……」
「やる気あんのか。私の顔、潰すんじゃないよ。真面目だと思って俺は採用したのに、これじゃ意味ないよ。まったく……」
 水野がほざく。嫌味な言い方をしてくる奴だ。でも、こいつはどうだっていい。問題は横に座っている方だ。続けて、鳴戸が口を開く。
「おーい、赤崎ー。ここで働くってことはねー。ガキが働きに来てんのと違うんですよー。ガキがねー。その辺、ちゃんと理解してるんですかー?理解してんですかー?」
 嫌な敬語の混じった言い方。鳴戸、独特の口調だ。心臓に悪過ぎる。
「は、はい。すいません」
「あのなー、謝ったって何にもならないんですよ」
「はい……」
「じゃー、何で昨日、店に来ないんですかー?」
「風邪で具合が悪く、電話では岩崎さんの方に言ったのですが……」
「おい、さっきから私は何で店に来ないんだと言ってるんですよー。電話の話しろなんて、いつ言いましたか?」
 鳴戸の独特なアクセントを含んだ甲高い声は、より一層甲高さを増す。
 思わず体が萎縮した。鳴戸の話し方に嫌悪感を覚えるが、それ以上に恐ろしさを感じる。昨日は岩崎が休んでいいとは言ったが、それについては、絶対に今の状況で俺の口からは言い出せない。もう素直に謝るしか方法は思いつかなかった。
「すいません、たるんでました。以後、このようなことは絶対にしません」
「そう、次に同じことを繰り返さない。それが大事なんです。謝るだけじゃ、何の意味もないんですよー。その辺のとこ、理解しましたー?」
 どうやら鳴戸の納得いく答えを言えたようだ。少し声のトーンが下がっている。
「はい、気を付けます!」
「分かってくれればいいんです。分かってくれればねー」
「はい」
「本当に悪いって、心から謝ってんの?まったく……」
 さっきから黙って聞いてりゃ、まったくまったくと、それしか言えんのか。このハナクソ親父め……。
 水野はまだ何か言いたそうな素振りをしていたが、鳴戸は言うだけ言うと、俺に対して興味をなくしたように、水野に話しかける。
 そのあと、二人は客がいないせいか店にそのまま残り、色々話していた。鳴戸が店にいるだけで、神経をすり減らす。
 こんなのが毎日続くなら、とてもじゃないが俺はもたない。
 最初は穏やかに話し合っていたが、徐々に鳴戸の声が甲高くなる。俺と岩崎は、部屋の角で直立不動にビシッと立っていた。
 内容は聞こえないが、何やら揉め出したみたいだ。
 一丁前に、水野が珍しく言い返している。表情を見ていると、非常に滑稽で面白い。名前の通り水の中、口を尖らせながら溺れそうな顔つきで、懸命に足掻いているようにしか見えない。
 俺の全身には、いつの間にか鳥肌がたっていた。横目で岩崎の表情を見てみる。見る限り岩崎も同じ鳥肌がたっていそうだ。
 水野の声が次第に大きくなる。
「いやー、鳴戸君、私だってね…。別に現状で何もしてない訳じゃないんだよ。そう自分ばっかりやっていると言われてもねー……」
 水野の顔は今にも泣き出しそうだった。必死になって鳴戸に声を吐き出している。この間の鼻クソのように見えた口髭の天婦羅の切れ端が、、オーバーラップする。危なく吹き出しそうになった。
 水野の言い方や態度で、俺は再び水野を嫌いになっていたようだ。惨めで滑稽で、哀れで、落ち目な五十六歳の男。
 俺と岩崎がいるからか、従業員の前で必死になって鳴戸に食い下がっている。
 しかし水野が何を言ったところで、鳴戸に通用するはずがない。俺に向けて話した時よりも、格段に鳴戸の声は甲高くなる。
「あー、そーですか。そこまで言うならやってもらいましょう。それでいーですね、水野さん。私はそれでも、全然、構いませんから……」
 水野のさっきの勢いはどこに言ったのか、下を向いてションボリしている。それに構わず、鳴戸はさらに捲し立てた。
「頑張って下さいね、水野さん。ただし、ここの店の回銭は私のお金です。これは私の物ですから持って行きます。いいですね、自分のケツは自分で拭いて下さいね」
 そう言うと、金庫の方に歩いて行き、中にある金を自分のバックにしまいこんだ。パッと見、二百万ぐらいだろうか……。
 金をしまい終わると、鳴戸はそのまま黙って店を出て行ってしまう。
 水野は、頭を抱えて塞ぎ込んでいる。
 見事に対照的な二人のオーナー……。
 これが漫才なら笑えるが、実際にその場にいると笑えない。二人の決定的な違い。それは金があるか、無いかだけの差ではないような気がする。
「水野さん、これでまったく店の回銭ない訳ですけど、一体、どうするんですか?」
 岩崎が冷淡な口調で言葉を掛ける。ゆっくりと顔を上げる水野。
「分かってる。そんなことは言われなくても分かってる…。何とかするから待ってろ」
 無理に虚勢を張る天ぷらハナクソ親父。確かに水野にとっては、絶体絶命のピンチだろう。脳みその無い頭の中で、色々と金策を考えているに違いない。
 何故、おれはここまで水野が嫌いで、ボロクソに思ってしまうのか……。
 それは会った時から、俺の生理的に嫌いなオーラを放っていること。それ以外にも、この歌舞伎町という街で騙され、完全な負け犬になっているからだ。
 さっきの鳴戸に言った台詞は、正に負け犬の遠吠えということわざが、ピタリと当てはまる。
 ふらーっと力なく立ち上がり、水野は無言のまま、夢遊病者のような足取りで店から出て行こうとした。ドアノブに手をかけた状態で、一言だけ岩崎に声を掛ける。
「おい、岩崎。偶数の台は、全部最低設定にしておけ、ロイヤル、ストフラも、ちゃんとカットしとけよ。んー…、明日の昼頃、鳴戸君が来るかもしれないから、それまでには元に設定戻しておけよ。それと鳴戸にこのことは内緒だからな」
 水野の言う台詞は本当にクズでろくでなしだ。金が無いから店のゲームの設定をきつくして客から搾り取るという、安易な発想しか考えていない。負け犬はそれだけ言うと、店から出て行った。
 岩崎はタメ息をついて、煙草を一服してから、俺に愚痴を言ってくる。
「あの人、本当に現場のこと、何も考えてないですよね。そんなことしたら客は怒って、自分らに八つ当たりしてくるだろうし、自然と客だって、ここから足が遠のくぐらい、分からないんですかね?鳴戸さんにしても店の金を全部持っていって、これからどうやって営業するんだって感じですよ」
「あの~、岩崎さん……」
「何ですか?」
「さっき会話に出ていた回銭って、何のことですか?」
「ああ、店にある金のことを指すんです。例えば、INで二本入れた時、お釣り八千渡すじゃないですか。OUTになった場合、払う金だって必要ですよね?だからあらかじめある程度の金を店で用意してあるんです。賭博ですから」
「なるほど、そうなんですか」
「まあ、こんな設定にしちゃあ、OUTなんて、ほぼないですけどね…。まったく……」
 岩崎はブツブツ言いながらも、台の後ろに回り、設定を直しだす。
 今日の夜は、常連の小倉さんみたいな太くていい客が、ダークネスに来ないことを願うばかりだ……。
 俺は買ってきたドリンク類を整理してから、無言で店の掃除をした。
 
 翌日、仕事に行くと、そういう日に限って、常連客は沢山来たらしい。
 俺が店に着くなり、田中が大変でしたと愚痴ってくる。遅番は散々文句を言われ続けたようだ。話を聞いていて、小倉さんが来なかったのが唯一の救いだと感じた。
 昨日の夜だけで六十万は上がったらしい。新堂と田中が帰ると、岩崎は面倒臭そうに台の設定を直しながら口を開いた。
「赤崎さん、昨日の遅番、珍しくINが三百八十万いったらしいですよ」
「俺、よくみんながINいくついったとか言うじゃないですか。その辺がよく分からないんですよね」
「赤崎さんが仕事で客にIN入れに行くじゃないですか。そのINを早番、遅番に分けて一日のINを入れたトータルを言ってるんですよ。昨日で言えば、INが三百八十。つまり、遅番だけでINが全部で三百八十万円分ありましたってことなんですよ。もちろん、新規の初回サービスの分のINも、入りますけどね」
「つまりこのダークネスは全部で台が十台あるから、一台辺り十二時間の間に平均三十八万は、INが入ってるということですよね。お客さんが入れてーって、よく言うじゃないですか?あれで金額にすると、一台辺り三十八万円分のお金が、この機械に入ってることに……」
「その通りです。相変わらず冴えてますね」
「たった一日、遅番の時間帯だけで六十万も、利益が上がったってことですよね?」
「上がり過ぎですよ。水野さんは馬鹿だから素直に喜ぶだろうけど、鳴戸さんはこの数字見て、どんな設定してたんだって、絶対に怒りますよ。鳴戸さんは現場上がりだけあって、客の気持ち、分かる人ですから」
「ようするに、現金儲かったって、ただ喜ぶのは、水野さんだけってことですか」
「そうですよ。INが一晩で三百八十なんて、この歌舞伎町でもかなり忙しい部類になります。そのINで上がりが二十万から三十万くらいだったら、客だってこの店は負けても良く出る店だって納得出来るんですよ。元々うちはそれぐらいの設定の優良店なんです。昨日、水野さんが、あんなこと言わなければですけどね」
「水野さんの昨日言ったことで、少なくても、数の卓に座った人は、絶対勝てない犠牲者になったんですね?」
「いや、ところがそうでもないんですよ。そこがまた、ポーカーの面白いところなんですけどね。赤崎さんビンゴのこと、まだよく理解してないですよね?」
「え、ええ…。理屈はある程度分かりますけど……」
 岩崎は正面の壁に貼ってあるビンゴのボードのところへ歩いていき、何枚かのトランプの札を適当に裏返してから、俺に振り返る。
「いいですか?赤崎さん」
「はい」
「今は何の札がリーチになってるか、分かりますか?」
 通常、ビンゴのボードは、トランプの札、Sラインが、A、二、三、四、五、六。
 Bラインが、八、九、十、J、Q、Kに並んでいる。
 しかしSラインで岩崎がめくった札は、三、四、五、六で、Aと二の札は見えている。Bラインは、Kのみだけ見えて、残りの札はめくられて見えない状態になっている。
「うーん…、今の状況だと、BラインのKだけです。叩いて一気して、最後の決まり手がKならビンゴですよね?Sラインは誰かが一気して、Aか二のどちらかが出れば、残った方がリーチになります」
「そうです。それでKが出てマークがハートなら五万、スペードなら三万」
「ダイヤ、クローバーで一万ってプレミアがもらえるんですよね」
「はい、あれだけ忙しい状況だと、一気もバンバン出ますから、当然ビンゴも比例してすぐにリーチとなるからチャンスはいっぱいあります」
「パチンコやスロットと似た形のギャンブルですね。決定的に違うのは、初回サービスがあるという点と、そのビンゴのプレミアが有るってことですね」
「一度もテイクしないで叩いていると、一時間で約五、六万は軽く入りますけど、その分ワンチャンスで、七万ぐらい簡単に取れますからね」
 客はみんな、何を求めにこのダークネスへ来るのだろうか?
 勝ちたくて来る客が大半だろう。でも、小倉さんみたいに勝ちを求めている訳ではない客もいる。
 本当に勝ちを狙いたいなら、ある程度叩いて三千や四千にいったらテイク。そしてビンゴがリーチになったら、一気を狙えば利口なやり方だ。
 ただ、そうするとセコく見られてしまう。店内中の客と従業員が、どっちらけムードになることは間違いないだろう。
 ポーカーゲームというフィルターを通して、打ち方や金の使い方で、その人間の性格が出る。
 小倉さんみたいな太くて一度もテイクせず、常に叩く客は、確かに金を大量に使う。その分ツボにはまると、十万二十万くらい、簡単に勝つこともある。
 店員の立場で見ると、綺麗な遊び方で非常に格好いいし、見ていて気持ちいい。
 そんな新宿歌舞伎町という街の不思議な空間の中で、俺は働いているのだ。岩崎は台の設定を直し終えたらしく、椅子に腰掛ける。
 ピンポーン……。
 チャイムが鳴る。誰か来たようだ。モニターを見ると鳴戸だった。俺の背筋に冷たいものが走る。
「おはよう。昨日は忙しかったらしいですねー」
「おはようございます」
 俺と岩崎は口を揃えて挨拶する。鳴戸は一瞬ニヤリとしてから、すぐに真面目な表情で話しだす。
「あとはこの時間帯も、もうちょっと客が常時入ってれば文句ないんですけどねー」
「すいません。暇な時間、営業やデン張りとかするようにして頑張ります」
「そうです。ゲーム屋はやることやったら、待ちの商売ですからね。まー、いいでしょう。でも、昨日のあの上がり具合が明らかにおかしいです。水野さん、昨日私が帰ったあと、設定、下げろって言いましたね?」
「いえ、台の設定は変えてませんよ」
 岩崎は平気な顔で誤魔化している。確かにさっき鳴戸が来る前に台の設定は直してある。昨日言われた通り、水野を形だけ庇っているのだろう。
 途端に鳴戸の表情が一変する。
「岩崎―、私はですねー。嘘をつかれんのが非常に嫌いなんですよねー。あなたそのことは、ちゃんと知ってましたか?」
「画面確認して下さい。設定そのままじゃないですか」
 鳴戸は無言で岩崎に歩み寄る。岩崎は怯えた表情になっていた。鳴戸が近づいた瞬間、岩崎はいきなりしゃがみ込む。
 よく見ると、鳴戸は右膝を突き出していた。不意打ちで、膝蹴りを腹に入れたのだろう。
 鳴戸は、床に額をつけた状態で苦しむ岩崎の後頭部辺りに、足を乗せ踏んづける。俺は一通りの光景を、ただ固まって見ているだけだった。鳴戸の甲高い声が部屋に響く。
「おーい、いつまでも舐めたこと抜かすんじゃねーよ。このガキが…。数字見りゃー分かんだよ。数字見りゃーよー。そんなに俺が馬鹿に見えんのか。あっ?」
「すいませんでした。すいませんでした」
 また一気に鳥肌がたつ。
 鳴戸の本性を初めて見た。これが本来の姿なんだろう。
 岩崎は必死に懇願する。俺は一歩も動けない。しばらくすると、鳴戸は足を離す。
「…ゴホッ…、昨日、鳴戸さんが帰ったあと、水野さんの命令で…、うっ…、設定を変えました…。ゲホッ、ゲホッ……」
「始めから素直にそう言えばいいんですよ。そう言えばね…。あなた、本当に間抜けですねー」
「す、すいま…、ゴホッ…、せんでした……」
「赤崎君、私にアイスコーヒー作ってもらえますか。砂糖無し、クリーム一つだけでお願いしますよ」
「は、はい。かしこまりました」
 俺は慌ててキッチンに行く。岩崎はまだ床に座り込んでいた。
 迅速にこれでもかというスピードでアイスコーヒーを作り、鳴戸のところへ持っていく。鳴戸は足を組んだ状態で、俺のことを気にする様子もなく、岩崎に視線を移す。
「岩崎ー。いつまで痛がってるんですか。私はそんなに強くやってないのに、いつまでもそんな痛そうな素振りしてると、赤崎がビックリするじゃないですか。早く男なんだから、さっさと立ちなさい」
 よろめきながら立ち上がる岩崎。何も出来ず、ただ立っているだけの自分が歯痒い。
 コンコン…、ドアをノックする音がした。
 モニターを見ると、水野の顔が見える。俺はすぐに鍵を開けに行く。
 これから始まる地獄の宴など知らずに、水野は笑顔で店に入ってくる。相変わらず隙だらけの大馬鹿野郎だ。今日は紺のスーツを着ているが、まったく似合わないピンクのネクタイを締めていた。
「おはよー。あれ、鳴戸君、先に来てたんだ。昨日の数字見たかい?」
 呑気なものだ。こんな奴を庇って、腹に膝蹴りを入れられた岩崎が、本当に可愛そうで仕方がない。
 どっちにしろ、こいつはまた従業員の前で、鳴戸に赤っ恥をかかされるのだろう。このダークネスの異様な雰囲気。普通なら誰でも感じるだろうに……。
 水野は哀れなピエロだった。
「水野さーん。あんた、何を考えてるんですか?何を……」
「はぁ、いきなり何だね?」
「私はねー、何を考えているんですかと言ってるんです」
「昨日の夜はIN三百八十。上がり六十万。それの何がおかしいのかね」
「店、潰す気かって私は言ってるんですよ、水野さん。とぼけるのも、いい加減にして下さいよー」
「とぼけるって、何をだね。私はね……」
「あのねー、岩崎がちゃんと、唄ってんですよ」
 水野がまったく迫力のない目つきで、岩崎を睨みつけた。岩崎は顔を合わせずに知らん顔をしている。鳴戸は続けて捲くし立てた。
「もー、私ねー。限界なんですよ。限界。分かりますか、水野さん?あんた、忙しい遅番の時間帯に店、よく顔出して客がいるのにホール見ながら、いつもニヤニヤしてるみたいじゃないですか」
「いやー、それはだね……」
「今は私が喋っている番なんです。その件だって遅番の新堂が、ちゃんと私に報告してるんです。あんた、オーナーでしょ?そのオーナーがね、客が負けてるとこに顔出して、客の前で平気でニヤニヤしてるんですよ。ちょっと頭おかしいんじゃないですか?神経疑っちゃいますよね」
 物凄い剣幕だった。甲高い声を聞いているだけで、冷や汗が止まらない。水野は、口を挟む暇すら与えられず、みるみるしょぼくれてうつむく。
「もー、ハッキリしましょーよ。あなたは私に借金があります。店のことですら、ちゃんと出来ません。どーします?どーするんですか?」
「い、いやー…、私は……」
「方法は二つあります。一つはトイチでもトザンでもいいから借りてきて、私に借金をちゃんと清算して、この店を今まで通り共同経営として続ける。もう一つは、ここのオーナーである権利を私に譲り、ここは関係なく勝手に生きていくかです。さあ、どっちにしますか、水野さん?どっちにするんですかー?」
 究極の選択。果たして水野はどっちを選ぶのだろうか。しょぼくれた水野は下を向いたまま、何も話さない。起死回生の一発など、何もないだろう。
「岩崎、赤崎。おまえたち、日払いの金額いくらでしたっけ?」
 鳴戸はこちらに振り向き、急に優しい声になり、俺と岩崎に話し掛けてくる。
「自分は一万五千円です」
 岩崎が答える。
「自分は一万三千円頂いてます」
 鳴戸は自分の懐から財布を取り出す。分厚い財布だ。いくら入っているのか判らないぐらいの札束が、ぎっしりと詰まっている。鳴戸は一万円札を四枚取り出すと、俺と岩崎に二万ずつ手渡す。
「これ、今日の日払いです。今日はもう店、営業しませんから帰っていいですよ」
「あ、あのー」
 岩崎が鳴戸に話し掛ける。
「岩崎―。私はもう帰っていいですよと言ったんですよ。聞こえませんか?」
 俺と岩崎は慌てて帰り支度をしだす。
 水野がどっちを選択するのか興味あったが、今はそんなことも言ってられない。この嫌な雰囲気から開放されるだけでも、ありがたいと思わないと……。
「お、お疲れさまです…。失礼します」
 ドアノブに手をかけた時、背後から甲高い声が響く。
「あー、明日は、通常通り、営業しますから、ちゃんと出てきて下さいね」
「は、はい……」
 
 時間は午後七時。いつもより早く仕事が終わった。
 これから泉と逢おうかなと考えていると、岩崎が声を掛けてくる。鳴戸に膝蹴りを食らったことは、おくびにも出していない。
「赤崎さん、たまには一杯どうですか?」
 断る理由が見つからないし、こういう機会も初めてなので、付き合うことにする。
「そうですね。たまにはいいですね。水野さん大丈夫ですかねー?」
「あの二人の問題ですよ。どっちに転んでも自分らには、オーナーが一人になるか、今まで通りかだけの話です」
 あくまでもクールに話す岩崎。この人も、相当、場数を踏んできたのだろう。話している最中に、真正面から綺麗な女が歩いてくる。派手な服装と化粧ではあるが、元が良くなければ、ここまで華やかに見えないだろう。
 その女はこっちを見ている様子だった。ひょっとして俺を見ているのだろうか。いや、そんなことはないだろう。
「岩崎くーん……」
「何だ、玉枝か」
 玉枝と呼ばれた女は、岩崎の言い方に対し、不満そうな顔をしている。俺にはあれほど丁寧な口調で話すのに、こんな綺麗な女にはどうでもいいような感じで、吐き捨てるように話せる岩崎は、本当に不思議な男だった。
 一体、この街でどのぐらい顔が広いのだろうか。俺にはまったく想像もつかない。
「最近、会う時間とれないの?」
「今、忙しいんだ。またな」
「もー、冷たいなー」
「おい、俺が大人しく話してる内に行けよ。今、人といるのが分からねーのか?」
 突然、岩崎の眼光が鋭くなる。こんな風に感情を出すのを初めて見たので、ビックリした。この辺は、鳴戸のエキスを吸収しているせいなのだろうか。
「そ、そうだよね。ごめんね…。またね……」
 バツが悪そうに玉枝は、足早に俺たちの前から姿を消した。
「すいませんでしたね、赤崎さん。見苦しいところをお見せしちゃって」
「いえいえ、自分なんか気にしないで、一緒にいてあげれば良かったじゃないですか」
「何、言ってんですか。こちらから誘っておいて、そんなことは出来る訳ないでしょう。赤崎さんが逆の立場だったら、そうしますか?」
「いや、やっぱり最初の約束を優先しますね」
「じゃあ、早いとこ飲みに行きましょうよ」
「そうですね。…で、どこ行きます?」
「新宿プリンスホテルの上にあるラウンジ、シャトレーヌなんてどうです?見える景色は歌舞伎町の下品なネオンですけど、落ち着いていて、なかなかいいですよ」
 場所は岩崎にまかせることにして、そのまま歌舞伎町の町並みを歩き出す。
 
 コマ劇場を横目に通り過ぎそのまま真っ直ぐ歩くと、すぐに新宿プリンスホテルは見えてくる。西武新宿駅と同じ敷地内にあるので、俺には馴染み深い。レンガの壁を見ながら横伝いにホテルへ入る。
 中はシンプルな造りにはなっているが、落ち着いた雰囲気だ。こういう感じは嫌いではなかった。上向き三角のボタンを押して、エレベーターが来るのを待つ。壁にはホテル内の案内用パネルがある。
「二十五階 LOUNGE Chatelaine」
 ラウンジ、シャトレーヌとアルファベットで書かれたパネルには、綺麗な色のカクテルや、お洒落に盛り付けてある食べ物の写真が、色々と写っている。パネルを見ている内に、エレベーターが到着する。中に入り、二十五階のボタンを押す。
 二十五階に着くと二手に道が別れていた。
 右側がレストラン、左がラウンジになっている。シックで高級感があって、落ち着いた雰囲気の場所だ。
 俺はこういう場所に来るのは初めてだが、ウキウキするような感覚を覚える。きっと泉を連れてきたら喜んでくれるだろう。今日のところは野郎同士で我慢しておく。
 道を左に曲がり、ラウンジの方へ歩を進める。案内するホテルマンの黒服が、近付いて来た。どこかで見たような顔だった……。
「あれっ?加藤さんじゃないですか」
 ホテルマンは慌てて手で制止する。ダークネスに来る常連客だったのだ。
「勘弁して下さいよー。ここではちゃんと江島という名前でやってんですから……」
「加藤さんって、偽名だったんですか?」
「シー…。お願いしますよ。声、大きいですって」
「いやー、すいません。本当こっちもビックリしたものですから」
 江島の慌てぶりを見ていると、非常に面白い。すごい偶然もあったものだ。しかし本当に困っているようなので、俺たちも客らしく振舞うことにする。
 いつもの逆パターンだと変な気分だが、何が起こるか分からないものである。江島は男二人連れの俺たちに、見通しのいい窓際の席を用意してくれた。
 絶対に泉を今度ここに連れてこよう。そう思うぐらい素敵な夜景が、目の前に広がる。歩いている分には、下品なネオンの街ではあるが、こうしてみると、また、違って見える。
 メニューを見ながら酒を注文する。
「すいません、マティーニとスカイダイビング頂けますか」
 江島はニッコリと笑顔を見せ、席から離れていった。
「岩崎さん、お腹大丈夫ですか?鳴戸さんも、ちょっと乱暴過ぎますよね」
「不意にだったから、息、出来ませんでしたよ。でも、ああいう輩は、絶対に地獄行き、間違いないでしょうね」
「そうですね。でも、俺…。何も出来ずにすいません」
「しょうがないですよ。あの状況じゃ。新堂さんや田中も夜、行ったらビックリするんじゃないですか?」
「ですよね。水野さん、一体、どっち選択するのか気になります」
「うーん…。どっちに転んでも地獄行きでしょう」
 話が盛り上がっていると、江島が左腕に四枚のお皿をうまく持ちながら近付いてくる。
「どーも、こんなもんしか用意出来なかったんですけど、良かったら私の気持ちなので、召し上がって下さい」
 サービスで出してくれた四枚のお皿は、エスカルゴのガーリック風、チーズの盛り合わせ、鴨肉のテリーヌ、フルーツの盛り合わせだった。江島の心遣いに感謝する。
「気を使わせて申し訳ないです」
「いえいえ、では、ごゆっくりとどうぞ」
 新宿の景色を見ると、歌舞伎町の下品なネオンがこうこうと光っている。それでも上から眺めるのは面白いものだ。酒も運ばれてきて、フードを摘みだす。
「おいしーですね」
「江島さんがまさかここの従業員だなんて思いませんでしたけど、本当にここのカクテルうまいですね。食事もうまいです。そういえば岩崎さんって、すごいですね」
「何がですか?」
「いや、ここに来る前、綺麗な女性に会ってもまったく動じずに、今、忙しいんだ。またな…、で、済ませたじゃないですか。中々ああは、出来ないですよ」
「あれはただの飲み屋のねーちゃんですから、そんな自分には関係ないんですよ。どうせまた店に来いって感じの営業で、自分に声を掛けただけだから、適当にあしらっただけですよ。そんなことよりも、ほら、ガンガン飲みましょう。料理も色々あるし」
「そうですね」
 あまりにおいしいので調子に乗り、何度も酒を頼む。
 歌舞伎町のネオンが二重に見え始めた。
 
 俺はもともと酒がそんなに強い方ではないので、すぐに酔いが回ってくる。岩崎も、結構酔いが回り始めている様子だった。
「れ、れも…、岩崎ひゃん、俺にいつも良くひてもらって、ありがとうごらいます」
「なーに、言ってんですか。前にもちゃんと理由は言ったじゃないですか」
「俺、嬉ひいれすよ。ほんと」
 相当、酔いが回ったようだ。完全にロレツが回ってない。
「赤崎さん、グラス、空ですよ。何か頼みます?」
「ん、えーとれすねー……」
「カクテルの王様、マティーニにしましょうか?」
「ふぁい……」
 運ばれてきたマティーニを一気に飲み干す。頭の中がグルグル回っている。
「はい、赤崎さん。今度はXYZです」
「ふぁい……」
 味も何も分からなくなってきている。また一気に飲み干した。頭の中がシェイクされる。それでも喉の渇きは満たされない。
「ここ、暑いれすねー。れも、気分ちゃいこうれすよ」
 一瞬、岩崎の目が怪しく光ったような気がした。酔っている俺の錯覚だろう。
「こんな夜景だけど、綺麗に見えますよね」
「……!」
 ゾクッとした感覚を覚える……。
 瞬間的に左手を見た。
 テーブルの上に乗せていた、俺の左手の甲に、岩崎が右手を重ね合わせている。
 俺は瞬間的に、手を引っ込めた。全身に鳥肌がたち始める。
「何ですか、いきなり……」
 一気に酔いも吹っ飛んだ感じだ。焦点は定まらないでいるが……。
「あれ、赤崎さん、やっぱりノーマルなんですか?うーん、残念だなー」
「あ、あのー……、何かの冗談ですよね……」
 岩崎、こいつはホモだったのか……。
 俺に対し、会った時から必要以上に親切過ぎて、頭のどこかで違和感はあった。抜いた金をもらっていた為、その辺の感覚がすっかり麻痺していたようだ。
 あれだけ飲んで、気持ち良く酔っていたのに、今は冷静になっている。冗談であってほしかった。心臓の鼓動がバクバク音を立てている。
「本気って言ったらどうしますか?」
 岩崎は危ない怪しげな目つきになっている。人の顔を覗き込むようにじっくり見ていた。
「あ、あの……」
「どうしたんですか?」
「やめてください……」
 声を振り絞るように、それだけ言うのが精一杯だった。
「いやー、拒まれちゃしょうがないですよねー。最初見た時から、男らしくていいなって思ったんですけどね。あっ、もちろん自分、女だって好きですよ。ただね、赤崎さん…。男にくわえてもらったことってあります?」
「あ、ある訳ないに決まってんじゃないですか」
「結構というか、かなりいいもんですよ。自分は無理にとは言わないですけど、男のツボは男の方が絶対に分かりますって…。どうですか、試してみませんか?」
「す、すいません。俺、彼女いますし……」
「黙ってれば分かりませんて……」
 岩崎が微笑む。もう俺には、薄気味悪い笑顔にしか見えなかった。ゲロが一気に上昇してくる。ここで吐くわけにはいかない。
「トイレ行ってきます」
 すぐに立ち上がり、口を押さえながらトイレへと向かう。
 ラウンジの静かな空間で俺の走る音だけが響く。他の客は迷惑そうに、非難の視線を俺に浴びせてくるが、こっちはそれどころじゃない。
 トイレの便器に屈みこむと、一気にゲロを吐き出した。指を咽の奥まで強引に入れ、スッキリするまで吐いた。目の前で見た、おぞましい光景をすべて吐き出したかった。
 席にこのまま戻るのが怖い。
 洗面台に行き、手で水を貯めてうがいする。
 岩崎に触られた左手。念入りに石鹸をつけてゴシゴシ洗う。いくら洗っても嫌な感触を拭えなかった。
 ジッと鏡を見てみる。いつもの俺の顔が写っているだけだった。こめかみの傷は不思議と疼かない。ちょっと落ち着いてきたので、席に戻ろうと思うが、これから岩崎に、どう対応すればいいのだろうか……。
 時計を見ると、九時半になっていた。
 
「大丈夫ですか?何かすいませんでしたね」
 席に戻ると、岩崎が謝ってくる。俺は無言で椅子に座った。
「そんなにショックでした?でも赤崎さん、うちの店は辞められないですよね」
 出来れば、この場を逃げ出したかった。でもダークネスでの高収入が手に入らなくなるのも嫌だった。
 迷う……。
 そろそろ俺には潮時かもしれない。精神的ショックが大き過ぎる。
「どうしたんですか。ひょっとして辞めちゃうんですか?」
 今まで生きていて、多分、今が一番悩んでいるのだろう。もう、こんなホモ野郎と一緒に仕事するのは嫌だ。でもダークネスを辞めたところで、俺はまた振り出しに戻ってしまうだけなのも自覚していた。
「ほかの店に行ったって、赤崎さんにとって、うちぐらい環境いい店は絶対にないですよ。それでも辞めるんですか?」
 岩崎の言うことはもっともだ。今の俺に何が出来るんだ。自分が情けなかった。結局のところ、へつらうことしか俺には出来ない。岩崎から金をもらうことが当たり前になっていた。こんな状況になっても、まだ俺は店を辞める意識がないのだ。
 俺には金の為、もうちょっとだけ我慢するしか、道は残されてない。
「た、確かに…、おっしゃる通りです。これからもお願いします……」
「いやー、安心して下さいよ。もう変なことはしないですから。今まで通りですって」
 俺は岩崎に分からないように拳を後ろに回し、力一杯握りしめていた。そして岩崎に向けて、精一杯の笑顔を見せてみた。岩崎も笑顔を返してくる。思いっ切り、その面をぶん殴りたかった。
 あくまでも思うだけだ。
 今のおれにはそんなこと、絶対に出来やしない……。
 岩崎が伝票を持って立ち上がる。俺は黙ってあとをついていく。キャッシャーのところでは、江島が笑顔で立っていた。
「今日は本当にありがとうございます。料理とか御口に合いましたか?」
「大変美味しかったです。また機会作って、ぜひ、来させて頂きます」
 岩崎は何事もなかったように応対している。俺は後ろで笑顔を作るので精一杯だった。
「私の方も暇作って、また、お店にお邪魔しますんで……」
「その時は、まかせて下さい」
 岩崎はいやらしい笑みを浮かべる。このホモ野郎なら店の売り上げをくすねて、江島が来店してきた時に、汚い金で機嫌を取ることぐらい難しくないだろう。
 江島はレジを打ち出す。普通にあれだけ頼んで、飲み食いしたのだ。俺の予想では合計の金額が、三万は超えていた。
「お待たせ致しました。合計で六千と三百二十七円になります」
 岩崎のさっきの件でのショックはあったが、江島の心遣いがあまりにも想像以上で、つい、口を開いてしまった。
「ちょっと待って下さいよ。何ですか、それ…。俺、何杯も酒飲んだし、食べ物だって…、そんな安い訳ないですよ」
「いやいや、いいんですよ」
「本当にいいんですか?何か申し訳ないですよー」
「気にしないで下さい。私が勝手にやったことですから」
 俺は財布から一万円札を取り出した。キャッシャーの受け皿にそのまま置く。
「赤崎さん、自分が出しますよ」
「いえ、いつもお世話になってますし、今日ぐらい出させて下さい」
 俺は岩崎を強引に制止して、意地でも金を払った。ここだけは少なくとも岩崎に借りを作りたくなかった。最低限の意地である。俺の熱意に負けたのか、何度か押し問答して、岩崎は仕方なさそうに諦めて引き下がる。江島に心からお礼をいい、ホテルをあとにした。
「じゃー、自分はこの辺で失礼します。明日、また来ますんで」
 簡単に挨拶を済ませ、その場から逃げるように去った。
 まだ全身に鳥肌がたっていた。泉と一緒にここへ来たかったが、多分、さっきの岩崎のことを思い出してしまう。だから、ここへ来ることはもう二度とないだろう。
 泉の声が聞きたい……。
 癒してほしかった。
 
 前みたいに仲良く戻れるかな、私たち……。
 仕事を辞め、すっかりふて腐れていた隼人。いくら私が言っても動こうとしてくれない。激を飛ばすつもりが、「もうっ、隼人なんか知らないから……」と、あんな言い方になってしまった。勢いで去ってしまったから、また連絡をとるまでに時間が掛かった。
 あのままじゃいけない。そんな焦りがあったのも事実。でもあの時、追い駆けてきてくれたっていいのに。私のことをどう思っているのか、ちゃんと口にしてくれないし。
 でも、思い切って私から動いて良かった。不器用な隼人は、いつも周りから振り回され誤解されるところがある。本当はとても優しいのにな……。
 何で私は彼をこれほど望んでいるのだろう。優しさだけじゃない。以前聞いた隼人の生い立ち。幼い頃、お母さんの虐待に遭い、女性不信な部分もある。同情というより、私が何とかしてあげたいと素直に思った。
 それに妹さんの不慮の事故。私は一人っ子だから、兄妹が亡くなった悲しみを半分も分かってあげられないだろう。隼人はたくさんの悲しみに包まれながら、私と出逢った。
 頑固で真っ直ぐで真面目。それが彼の第一印象。付き合うようになって、心の奥底に見え隠れする優しさにどんどん惹かれていった。
 両親に愛されながら育った私。彼とは間逆だけど、何か支えてあげられないかな。自然とそう思うようになっていた。
 隼人と一緒にいると、私の心はとても和む。お互い譲らずよく口論になるけど……。喧嘩するほど仲がいいって言うしね。
 私の携帯が鳴った。
 ジョーン・コレトレインのマイ・フェイバリット・シングスの着信音。隼人からだ。ほんとこの曲、私は大好き。このまま着信メロディを聞いていたいところだけど、ウキウキしながら急いで携帯をとる。
 隼人の携帯から電車のアナウンスが聞こえてくる。仕事が終わって、駅のホームにいるみたいね。
「お疲れさまー。隼人、仕事終わったんでしょ?」
 私の声はきっと弾んでいるに違いない。
「あ…、ああ……」
 隼人の声に元気がない。
「どうしたの?元気ないよー?」
「う…、うん……」
「隠しごとは、私、嫌…。辛いことでも、何でも話してほしいわ」
 これだけ私は隼人のことを思っている。
「い、いや、仕事でちょっと、とちっちゃってね。特に用があった訳じゃないけど、おまえの声が聞きたかったんだ……」
 嘘だ……。相変わらず嘘をつくのが下手くそな隼人。
「怪しい…。ほかにも何か隠してんじゃないの?」
「馬鹿。そんな言い方するんじゃ、電話切るよ」
「何でそうなるのよ?私は心配だから言ってるんでしょ。都合悪くなると、すぐ切るってさ……」
「悪かったな。俺が言ってることに対して何かあるなんて、本当に無いのに突っ込まれたら、こっちの機嫌だって悪くなるよ。じゃーな」
「まっ、待ってよ……。」
 プツッ…、プー…プー…プー……。
 無常にも無機質な機械音だけが聞こえる……。
 隼人、電話を切っちゃった。何でこうなるのかな……。
 きっと私には話したくないことがあったんだ。隼人、ちょっと機嫌悪いみたいだし、掛け直すにしても、時間、少し置いたほうがいいみたい。
 何の仕事をしているのか、いまだに私には全然分からない。聞きたいけど、隼人の方から言って欲しい。でも、こういうのって寂しいし、嫌だな……。
 
 ちょっと俺、短気だったかな。
 反省しつつ、家にそのまま真っ直ぐ帰る。
 泉からは電話を切ってから連絡がない。
 今日の出来事を振り返る。
 まずはダークネスで、岩崎が鳴戸に蹴りを入れられ、鳴戸の本性を垣間見た気がする。
 そして水野の今後に関わる究極な二つの選択。
 早めに仕事が上がって岩崎と新宿プリンスへ……。
 江島さんとの偶然な接触。
 岩崎がホモだったという事実。ホモセクシャルという人種に対して深く考えたことはなかった。しかし、自分に被害が及んでくるならば話は別である。もちろん差別はいけない事だ。頭では分かっている。でも、俺にはどうしたってそれを理解などできない。
 たった一日でこれだけのことがあり、俺は明らかに参っていた。
 辛かったから、つい、泉に連絡してしまったが、今日の出来事で泉に何の話ができると言うのだろうか。
 プリンスの江島のことぐらいなら…、いや、そのあとに起きた衝撃的な岩崎の奇行。
 やっぱり何も話せない……。
 確かに俺はあの街に、いや、金の魔力にとりつかれていると言った方が正しい。だから泉に連絡はしたが、何も話せないことに気付き、ワザと怒って誤魔化した。
 またこれで、泉とは気まずくなるだろう。相変わらず俺は大馬鹿野郎だ。
 出来れば、すべて泉に話したい。話してスッキリしたい。もちろん泉は「そんな仕事は辞めて」と言うに決まっている。
 それで俺は辞められるのか?
 簡単に金を稼げる今の環境を手放せやしない。
 明日も仕事なのだ。時間になれば、俺は新宿へ向かうだけである。
 水野がどうなったかも気になるが、そんなことよりも、岩崎と顔を合わせて一緒に仕事をすることに、果たして俺は耐えられるのだろうか?
 考えても憂鬱になることばかりだった……。
 
 温度調節のつまみをひねってシャワーの温度を上げる。冷えていた体が徐々に温まっていく。形のいいバストが揺れる。朝のシャワーって最高。昨日の隼人とのやり取りを思い出す。
「隼人のバーカ……」
 私は声に出して、ワザと呟いてみた。
 結局あいつ、あれから電話くれなかった。隼人を受け止めたい気持ちはいつも持っているつもりだけど、あいつはすぐ私から一線を引こうとする。
 このまま隼人と一緒にうまくやっていけるのかな……。
 正直不安はあった。
 シャワーを止めて、風呂場から出る。昨日、弘美におのろけたのが馬鹿みたい。
 鏡を見る。隼人に義理立てして、みんなからの誘いをいつも断ってばかり……。
 もし今日、誰かが私を誘ってくれたら、誘いに乗っちゃおうかな。あいつ、こんないい女ほっといて、ほんとどうしようもない奴だ。もう一度口に出して言ってみる。
「隼人のバーカ。今日は一段と綺麗になってやるからね」
 髪の毛を乾かして、鏡台の前に座る。
 お気に入りの化粧水を取り出し、顔にぬって 軽く叩く。
 乳液を塗り、パフを手に持ってファンデーションを伸ばす。
 ティッシュを一枚、顔に当てて、優しくちょっとずつ指で押していく。
 きつめのアイラインをひき、マスカラも多くつけてみる。
 仕上げに、鮮やかな色の口紅を慎重にぬる。
 鏡を見ると、いつもよりちょっとだけ自分が綺麗に見えた。これで今日、誰かに誘われても知らないからね。
 胸の奥がキューンと痛くなる。
 もうじき仕事の時間だ。行かなくちゃ。玄関に行き、靴を履いてドアを開ける。
「じゃー、お母さん、仕事行ってきまーす」
 仕事に行くと、スタッフが私を見ているような気がする。念入りに頑張った化粧のせいだろうか。ちょっとだけ自分を誇らしく感じた。
「あれっ、星野さん?いつもとちょっと雰囲気違ってて、何だかとても綺麗だね」
 同じ職場の斉藤さん。ストレートに綺麗と言われると、照れちゃうな……。
「良かったら、今日、仕事終わったあとさ、食事どうだい?一度でいいから君みたいな綺麗な子と食事するのが、僕の三つある夢の中の一つなんだ」
 爽やかな笑顔を私に向けてくる。
 胸がドキドキしている……。
「そんな…。斉藤さんの残り二つの夢って、何なんですか?」
「今日、仕事終わったら、食事付き合ってよ。そしたら話しちゃうかもね」
 隼人のこと、忘れちゃおーかな……。
 心が揺れていた。
 
 泉にフォローの電話ぐらい、しとけば良かったかな。
 新宿に着くまで、ホモ野郎の件で、頭がいっぱいだった。
 店に近付くと、隣のピンサロのいつもの店員が今日はいないようだ。毎日、挨拶するのが当たり前になっていたから、ちょっとした違和感を覚える。
 階段を上がり、ダークネスのドアの前に立つ。
 途端に気が重くなった。帰ってしまおうか……。
 そんな考えが頭をよぎる。
 俺は一体、何を考えているのだ。今、帰ったところで明日からどうなる?
 どうせ今、自分が立っている場所は、中のモニターに写っている。なるようになれだ。自問自答を繰り返した挙句、ドアをノックした。ドアが開くと、新堂が立っていたので、少しホッとした。
「おはようございます」
「おはよう。昨日、俺たちが帰ってから、大変だったみたいだな」
「ええ」
「誰も詳しく教えてくれないから落ち着かないんだ」
「あれ、岩崎さんから話を聞いてないんですか?」
「まだ、あいつ今日、来てないんだよ。いつもは三十分前には、出勤してるんだけどな。ひょっとしたら、まずいなー…。ま、ここに立って話しててもあれだし、とりあえず中に入れよ」
 岩崎がまだ来てない。それを聞いてまた少しホッとした。新堂にうながされるまま中に入ると、田中が挨拶してくる。
「おはよーございます」
「あ、おはようご…、ざい……」
田中の顔を見てビックリして、挨拶が途中で止まってしまった。右目が半分腫れて塞がっており、左の鼻の穴には、鼻血が出たのかティッシュが詰めてある。
「酷いだろ?こいつの顔…。昨日の夜、出勤した時、水野の野郎に殴られたんだよ」
 彼の怪我というより、水野がいたという事実に驚いた。
「夜来たら、客はゼロで水野さん一人だけいて、妙に目が血走っていたんです」
 水野がいたということは、どこかから金策をしてきて、かろうじて首の皮一枚残ったのだろうか。
 鳴戸の言っていたトザン。十日で元金の三割の利息が追加される闇の金融業者。例えば、十万円を借りたとしたら、十日後には利子だけで三万円がつくという恐ろしい計算になる。
 もしそういうところで借りてきたら、水野はただでさえ精神的余裕がないのに、まったくなくなるだろう。
 田中は続けて話す。
「機嫌悪そうだったんですけど、一昨日のIN三百八十。上がりは六十万だったんです。客だって馬鹿じゃないから、僕や新堂さんに、散々、客が文句言ってくるじゃないですか。それで水野さんに客のことや、現場で働く人間のことをもうちょっと考えて下さいよって言ったんです」
「そしたら殴られたんですか?」
「…と、いうより、いきなり灰皿投げつけられ、右目に当たり、おまけに鼻まで殴られたんです……」
 田中はそこまで言うと、今にも泣きそうに口を閉ざした。新堂が会話に入ってくる。
「俺より田中が先に出勤したから、こいつが犠牲になっただけで、俺が先に来てたら俺がそうなってたかもしれないな。そのあと、水野は田中に誰がおまえらの飯食わせてやってると思うんだ。文句、言うなら辞めろってね…。俺が来た時は、すぐに、あと頼むぞって逃げるように帰りやがったけどな。本当、酷いオーナーだよ」
 最低のクズ野郎。このダークネスには、色々な種類のクズ野郎がいる。俺は何て言葉を掛けたらいいか、思いつかない。
「そうですよね。大丈夫ですか、田中さん。そういえば新堂さん。さっきまずいなと言ってましたが、何がまずいのですか?」
「赤崎君、岩崎にいつももらってるだろ?」
「もらってるって、何をですか?」
 抜いた金のことを指しているのは分かったが、とりあえず新堂の出方を見てみることにする。用心するに越したことはない。
「なーに、とぼけてんだって。俺たちも、遅番は遅番でやってるから隠すなよ」
 ある程度の予想はついていたが……。
 今このダークネスに関わる人間では、新堂と田中の遅番メンバーが一番信用出来る。もう、誤魔化すのはやめよう。
「うーん、一定ではないですけど五千から一万ぐらいは頂いてます。まさか…、ひょっとして、それがバレたとか言うんじゃないですか?」
「何とも言えない…。岩崎が遅刻するって、今までないことだし、昨日の水野の荒れ方も気になるしね……」
 俺は昨日、店で起きたことを話した。岩崎がホモだったということは除いて……。
「……てことは、水野の野郎、どっかで金借りてやけになって俺を殴ったんですかねー?」
 田中は憎しみを込めた目で語る。
 ちょっと整理してみよう。水野は間違いなくどこかで金を借り、鳴戸に借金を返したはず。それによって水野は生き残り、二人のバランス関係は平等になる。ただ、水野は金を借りたことにより、ケツに火がついた。従業員の分際でオーナーに何だと、八つ当たりで殴るのは充分考えられる。
 以前から岩崎、新堂は金を抜いているんじゃないかと疑われていた。ただ、現時点じゃ証拠不十分で、判断の材料が少な過ぎる。
 ピンポーン……。
 ドアのチャイムが鳴る……。
 俺達三人は一斉にモニターを凝視した。
 岩崎だった。顔に傷やアザがついていないのを確認すると、全員に安堵の表情が浮かぶ。
 俺は順番を考える。ここで起きることで、一番嫌なこと。それは抜きがバレることだ。次に鳴戸と二人きりになる。同じくらいに岩崎と一緒の時間を働くこと……。
「いやー、すいません。ちょっと寝坊してしまいまして……」
 岩崎の笑顔を見て、昨日のことがプレイバックされる。ゾッとした。
 しかし抜きがバレるよりはマシだ。新堂と田中が帰っても岩崎は以前と変わらない様子で俺に接し、その日は何事もなく、無事仕事は終わった。
 ホモ男は、俺に二万くれた。俺は当たり前のように金を受け取り、店を出てすぐ、泉の携帯に電話を入れる。
 
 ブー…ブー…ブー……。
 私の携帯のバイブが鳴っている。多分、隼人からだ……。気付かないふりしとこう。今は、同じ職場の上司、斉藤さんと食事をしている最中だ。
「どうかした?ここの星野さんの口に合わなかったかな?」
「い、いえ、おいしいですよ。今日は誘って頂いてありがとうございます」
「何度もくじけずに、勇気出して誘って本当良かったよ。君と食事出来るなんて、夢のようだ」
「い、いえ…。そんな……」
 私は笑みを返す。確かに、職場の女の子に人気があるのも分かる。顔もハンサムで、女性に対する扱いも気遣い方も慣れていて、色々お洒落な店も知っていて、なおかつ顔も利く。
 非の打ち所が無いと言ったら大袈裟だけど……。
 一度は断った。それにめげずに私を誘ってくれている。さすがに、女として生きている以上、悪い感じはしない。こういう人と付き合えたら、私をいつも大事にしてくれて毎日が楽しいんだろうな。
 隼人のことを忘れられたら、私は……。
 また、携帯のバイブが鳴っている……。
「星野さん。ここ食べ終わったら、雰囲気の良くておいしいカクテルを飲ませてくれるとこあるから、一杯付き合わないかい?」
「…え、ええ……」
「なんだい元気ないなあ。何か悩みがあったら相談に乗るよ」
「い、いえ…。なんだか気を使わせてしまって、すいません」
「いやいや、一緒に居られるだけで、僕はとても幸せを感じてるよ」
 斉藤さんの暖かい笑顔。胸にキュンとくる。
 隼人のバカ……。
 
 繰り返し何度か電話したけど、泉は出てくれない。
 昨日の件で怒っているのか。もしくはちょっと時間が早いけど、もう寝てしまったのか。
 新宿から地元の狭山に着く。
 もう一度泉に電話してみるか……。
 携帯を手にした時、背後で鋭い視線を感じた。俺はその場で立ち止まる。
 あのクリスマス、愛の墓に行った時、感じた視線と同じだ。ゾクッとする寒気を肌で感じる。
 鳴戸とは違った種類のプレッシャー。
 途端に、こめかみの傷が疼きだす……。
 しばらく会ってない。その存在すらも思い出したくない。だけど誰なのかはよく分かる視線だ。俺は振り向かずに声を出した。
「おい、こそこそしないで、出てこいよ」
 暗い路地から人影が出てくる。
 幼い頃はその姿を見るだけでガタガタと震えた。
 今は違う。不思議と体は震えていない。少なくとも俺は、生まれてから二十五年の月日が流れているのだ。少しは成長したのを感じる。
 もう、あの頃とは違う……。
 俺は出てきた人影を相手に、一歩も引かず対峙する。この間のクリスマスから、いつかは、こういう時が来るという覚悟は出来ていた。
「大きくなったね…。隼人」
 久しぶりに聞いた鬼の声。鼓動が大きくなる。落ち着け……。
 あの時とはもう違うんだぞ。怯えるな。
「……勝手に大きくなっただけだ。それに…、俺の名前を気安く呼ぶな……」
 体が震えていた。幼い頃の記憶が、俺をそうさせるのだろうか。
 世界で一番嫌いな相手と、俺は今、相対している。憎悪しか生まれてこない相手の前で、こめかみの傷が疼きだす。
「本当ごめんね。ごめんなさい……」
 世界で一番嫌いな母親。
 出来れば母親という表現も使いたくない。ほかの代名詞があったら教えてほしいぐらいだ。
 今さらいくら謝られても、憎悪しか湧いてこない。俺の細胞の一つ一つが意思をもったように母親のすべてを拒絶する。
 俺は間違っているのだろうか?
 自問自答してみるが、答えは分からない。分かりたくもない。
 今、俺の頭の中は吐き気と憎悪しかない。みんなに誇れる生き方をしてきた訳じゃない。人に褒め称えられるようなこともしていない。ただ歌舞伎町に行き、汚い金を稼いでくるしか能がない。出来ればすべてを今、目の前にいる母親のせいにしたかった。全部、おまえのせいだと……。
「隼人……」
 冷淡な目で母親を見る。以前より老けた。当たり前だろう。
 俺が小学校四年の時に出て行ったきり、二十五歳になるまで一度も顔を会わせなかったのだから……。
 しかし、それがどうしたって言うのだ?
 母親と、俺の視線が合う。老けただけで、中身はまるで変わらない。反省したというお面を被っているに過ぎない。
 俺の横柄な態度に対し、きっと徐々に本性を現してくるに違いない。
 母親の目からは、涙が出てきている。昔と変わらず、流れる涙は黒かった。
 さらにこめかみの傷が疼く。自然にあの頃を思い出す。
 
 俺が五歳の時、いつものように両親は喧嘩していた。父親に殴られ、母親は涙を流しながら食ってかかる。
 母親の流す涙は真っ黒だった。厚化粧だったから、涙で化粧がとれてしまい、黒い涙となって頬を伝っていた。
 鬼のような母親の流す涙は黒かったと……。
 まだ幼かった俺には強烈なインパクトだった。母親の恐ろしさを知っていたから、黒い涙はとても似合っているように思えた。
 父親がその場にいなくなると、母親は俺の方に向かってきて肩を両手で捕んだ。俺がいくら痛いと言っても、黒い涙を流しながら爪を立て、力任せに食い込ませる。両肩から血が滲む。母親は、俺にこう叫ぶ。
「あたしはこーやられたんだよ。分かる?こーやられたんだよ」
「痛いよー。痛いよー」
 あの時は俺がどんなに痛がっても、泣いても、肩から手を離してくれなかった。
 爪がドンドン食い込み、両肩から血が滴り落ちる。でも、そんな痛みよりも、鬼の流す黒い涙の方が怖かった……。
 三本の傷が疼く。
 顔面目掛けて飛んできたおもちゃの電話。
「ハハハ……」
 あの時の笑い声は、未だ耳にこびりついている。
 漢字のテストで百点を取れなかっただけで、ガラスのテーブルに叩きつけられた。
 ブロックを顔に投げつけられ、避けると殴られた。ブロックの破片が突き刺さった時の痛みは、まだ覚えている。
 親戚とデパートで偶然会い、微笑んだだけで殴られた。笑うことさえ自由にできなかったのだ。
 腹一杯、ご飯を食べさせてくれなかった。
 幼稚園の時、スパゲッティをケチャップで和えただけの手抜き弁当。恥ずかしくて友達に見せられなかった。
 憎悪の原因になった多くの出来事。
 地獄のような日々……。
 
 あれから何年の月日が経ったのだろう。
 現時点で母親の涙は、前ほど黒くなかった。
 厚化粧を辞めたからか、化粧品会社が、涙を流しても黒くならない物を作ったのか。そんなことはどうでもいい。
 それよりもあの母親が俺の前で人並みに涙を流しているのが、とても滑稽だった。笑い出しそうになり、憎悪が次第に引いていくのが分かる。
「フッ……」
「何がおかしいの、隼人?」
「さっきも言ったろう。気安く俺の名を呼ばないでくれ」
「くっ……」
 こいつの悔しさが手に取るように分かる。何でこんな奴に俺はビビっていたのだろう。まだ幼く、あの頃は力も何も無かったからだ。
 今は違う。俺も生きて成長してきたのだ。そろそろ、もう一つのケリをつけてもいい。いや、つけたかった。
「ちょっといいか?」
「何?」
 俺は、深く深呼吸をして落ち着かせる。
 長い長い憎悪に、終止符を打つ為に……。
「今後、俺の人生に二度と関わんじゃねえよ!」
 俺の台詞を聞いた途端、母親は目を剥き出し、昔と同じ鬼の顔へと表情が一変した。幼い頃、あれほど恐れた鬼の顔になっているのに、何故か不思議と怖くなかった。
 あれは、ただ俺が幼過ぎて、無力なだけだったんだ。もう母親に対する憎悪はまったく関係なくなったのだろう。
 過去からやっと今、開放されたのだ。怯え、笑うことすら許されなかったけど……。
 こめかみの傷はもう疼かない。これからもずっと、疼くことはないだろう。言うだけ言うと、俺は家に向かって歩き始める。
「ずいぶんと偉くなったみたいだねー」
 母親……、いや別の形容詞を使いたいが、俺にはもう、どうでもよかった。この人とはまったくの無関係になったのだ。
 何かヒステリックに一人で騒いでいるが、滑稽に映るだけだった。その様子は知らないおばさんが、理不尽に怒鳴っている風にしか見えない。いや、知らないおばさんどころか他人以下の存在だ。
 憎しみ、悲しみ、喜び…。人間には様々な感情がある。昔からの憎悪、それは裏返せば足りなかった愛情を求めていたのかもしれない。今は違う。目の前の俺を産んだ人を見て、何の感情も湧かないでいる。哀れさすら感じない。現在の正直な心境は、本当に関わりたくないという思い。人と人の真の別れとは無関心なのだと、今、俺は悟った。
 憎悪の対象だった母親は、この瞬間俺の中で、完全な無になったのだ。
「ちょっと待ちなよ。いつからそんな偉くなったんだい」
 もう何を言っても、俺の耳には届かない。
 俺の中で無になった存在が俺の肩を掴んできた。肩についたゴミを払うような感じで、手を振り払う。
「あんたとは、もう関係ないんだ。これ以上、頼むから俺に関わらないでくれ。それとも、もう一本ここに傷をつけたいのか?やりたいならやれよ」
俺はこめかみの傷を指で指す。
「き、貴様……」
 母親…、いや、無になった存在は俺を凝視している。もの凄い目つきだ。歯も剥き出して、ギリギリと歯軋りをたてているようである。
 俺を操り人形のように操れなくなったので、イライラして仕方がないのだろう。
 昔と何も変わらないな……。
 この人とは会話をしたくない。
 この人の顔を見るのも嫌だ。
 この人と同じ空気を吸うのも嫌だ。
 何故か相手の顔を見ている内に、何だか可哀相な人だなと思い始めた。あれだけ憎んでいたのに、俺は何かが落ちたようにスッキリしてしまった。
 なら、ちゃんと口にしよう。この人に向けた最後の台詞を……。
「もう…、お願いだから俺に二度と関わらないで下さい。あれから今まで自分の好きなように生きてきたんでしょ?これからも好きなように生きて下さい。そして俺の前に、もう顔を出さないで下さい。頼むからそっとしておいて下さい。お願いします……」
 自然と出る敬語。憎しみを超越し、心の底から出た素直な言葉だった。
 それに対し、無になった存在はしばらく呆然と立ちつくしていた。
 これ以上ここにいても仕方ない。もう帰ろう……。俺は背を向け歩き出した。
 ふと、正面から来るカップルらしい二人連れの影に気付いた時、背後から視線を感じ振り返る。無になった存在はきびすを返し、逆方向へ走って視界から消えた。悔しそうな表情が印象的だった。
 あんな鬼みたいな女でも、世間一般、人並みの体裁だけは持っているのだろうか。
 随分と滑稽でちんけなものだな。
 さようなら…、俺を産んだだけの人……。
 
 俺は歩き出す。しばらくすると、正面から歩いてくるカップルの姿形が、ハッキリしてきて、その姿に思わず立ち止まる。
「は、隼人……」
 カップルの人影の一人は泉だった。その横にいるのは以前、俺が泉と同じ職場で働いていた時に先輩だった奴だ。
 泉…、おまえ、こんなところで何をしてんだ?
 状況を把握しないと……。
 泉の横にいる男が、俺に話し掛けてくる。
「あれ、君…。確か前にうちの式場で仕事してた…。うーん…、そうそう、赤崎君って名前だっただろ?何だよ、久しぶりじゃないか」
 俺を舐めているのかどうか知らないが、肩を気安く叩いてくる。拳を握り締め、力を込める。このクソ野郎が、ふざけやがって……。
「俺のこと、覚えている?斉藤だよ、斉藤。ところで君は今、何やってんだい?ねー、星野さんさ、彼って以前、うちで働いていたの知ってるかい?当時、彼は僕の下で頑張ってたんだよ。一所懸命、お皿とか運んで頑張っていたよね。そうそう、赤崎君。今、この子と食事の帰りでね。これからもう一杯行くとこなんだけどさー……」
 そう、よく覚えている。ペラペラ喋るキザで嫌な野郎だった。
 周りの男スタッフに年中、この間は誰を口説いただの、この女とやっただの自慢ばかりしている馬鹿なクズだ。
 俺はこいつの下で、仕事をしたことなんか一度もない。何を偉そうに余裕こいてハッタリ抜かしてんだ、このクズは……。
 今、俺は、こいつをすごい目つきで睨んでいるだろう。斉藤は俺の顔をまともに見ずに、泉のご機嫌をとることにばかり、気を使っているようだ。
「いやー、君が辞めても、うちの式場はこんな可愛い子がいるんだよ。彼女とか見ちゃうと、辞めたのちょっとは後悔するだろう?きっとしちゃうよなー。今日は彼女がさー、ようやく僕の誘いを受けてくれてねー」
 泉にちょっかい出しているのも気に食わないが、軽薄そうなこの男の存在自体が気に食わない。聞いているのもイライラしてきた。もう、限界だった。
「グチャグチャとうるせーよ。ダラダラと男がくっちゃべるんじゃねー」
「あれー、しばらく見ない内に随分と偉そうな態度になったね。あ、分かった。僕がこんな可愛い子とデートしていて、楽しそうに話しているから、それが気に食わないんだろ?おいおい、ヤキモチはよくないぞ。短気もよくないって。もっとリラックスしてさー、気持ちを穏やかにいかないと…。もう今は関係ないかもしれないけど、前の会社の先輩から忠告だと思って聞いてくれよ」
「少しは黙れよ、クソが……」
「あら、怒っちゃったの?勘弁してよー。別に喧嘩売ってる訳じゃないんだ。こっちは女連れなんだよ?状況をもっと考えてよ。揉め事は勘弁だよ」
泉の方を見ると、困った表情をしていた。だんだんと状況が理解出来てくる。
 俺は右の拳を思い切り握り締め、得意そうにペラペラ話している斉藤の横っ面を殴り飛ばす。派手にすっ転ぶ斉藤……。
「ひっ、ひぃー…。いきなり殴るなんて……」
「殴るのは駄目か?」
 間髪入れず、斉藤の足に蹴りをぶち込む。
「あーーーっ…。痛い、痛い、いたーいー……」
「やめて、隼人!」
 泉が俺にしがみついてくる。斉藤は俺の一発で大袈裟に痛がって、その場にへたり込んだ。情けない、上っ面だけの軽薄野郎。暴力に対する面識がなさ過ぎる。
 残虐な感情だけが俺の中で増幅してくる。俺を止めようとする泉を振り払い、倒れている斉藤の腹に、つま先で蹴りをぶち込む。最高に気持ちがいい。会社を辞めて何年も経っているのに、いつまで先輩面してるつもりなんだ。昔からこいつは殴りたい面をしていた。
「お願い、やめて、隼人……」
 泉が泣いている。俺はニヤリとして、斉藤に唾をぶっかける。斉藤は悶絶して、手足をバタバタしている。
「こんな女くれてやるよ。釣りはいらねー、とっとけ」
 数歩歩き、振り返る。もう少し、おまけしとくか。
「出血大サービスだぜ、おい」
 数メートル離れた距離から、ダッシュで斉藤に近づき、顔面に膝を叩き込んだ。意識をなくした斉藤は、地面にだらしなく崩れ落ちた。
 そのまま黙って歩きだすと、泉が俺の前に立ち塞がる。
「待って、待ってよ。私は物じゃないのよ?」
「……」
 軽蔑の眼差しを泉に向けた。泉は懇願するような目で俺を見ている。しばらくお互い、何も話さなかったが、泉の方から口を開く。
「待って…、違うの。隼人、これは違うの。お願いだから話を聞いてよ。私はこんなんで終わりにしたくない……」
「何、抜かしてんだ?おまえとは初めから何も始まってない。いまさら終わりも糞も無いだろう。女はやっぱり信用出来ねーんだよ」
 溜まっていた感情を泉にぶつける。無茶苦茶なことを言って、泉を傷付けたかった。感情が修まらなかった。
「話を聞いてよ……」
「うるさいよ…。俺は…、今なら女だろうが、平気で殴れるぜ……」
 出来る限り、機械的に話した。憎悪と軽蔑と冷淡さ、すべての感情を自分の視線に込めて泉を見る。
「俺は常に…、いつだって一人だ。何も…、誰も…、いらない。とっとと失せろ」
「隼人……」
「ケッ、新しい彼氏を介抱してやれよ」
「違うの!」
「いい加減黙れよ…。その声聞くと、ムカつくんだよ……」
「隼人……」
「俺はおまえという存在をすべて…、否定する……」
 泉を乱暴に手でどかし、家に向かって歩く。アラチョンのマスターのところへ行きたがったが、今はまったく食欲が湧いてこない。
 
 布団の上に横になった。天井を見上げ、しばらくボーっとしてみる。
 何の気力も起きない。裏切られた。そんな感情しか湧かない。仕事の帰り道で嫌なことが起こり過ぎた。
 戸籍上、母親だった人間。
 俺や怜二、愛を産んだだけの人。
 昔、受けた虐待の数々。
 長い間のトラウマから、自分の力で脱出できたのだ。
 もう母親でも何者でもない。
 自分に関わりのない無の存在として割り切れたのは、俺にとって良かった。
 しかし、その後の泉と斉藤とのことは、裏切られたという怒りしか出てこない。吸っている煙草が酷く不味く感じる。
 愛はいない。
 泉もいなくなった。
 もう何もすがるものなどない。
 朝になれば、いつもと同じように新宿へ出勤して金を稼ぐだけだ。
 財布を取り出し、中身を数えると一万円札が八十枚以上入っていた。七十万を取り出し、机の引き出しにしまう。約一ヶ月で無駄遣いしなければ、百万は溜まっていたはずだ。
 これが今の俺の現実。とっくに一歩、足を踏み出しているのだ。
 こうなったら、とにかく金を稼ごう。それが俺にはすべてだ。人を信用しなければ、傷つかずに済む。
 携帯をいじり、泉の携帯番号を着信拒否に設定した。これであいつとは完全に終わりだ。
 世の中、クズばかりだ……。
 視界がぼやける。俺は泣いていた。
 人間は何故、涙が出るのだろうか?
 この涙は、どのような種類の涙なんだろうか?
 どうでもいい。目をゆっくりつぶる。
 もう疲れた。考えるのはやめよう。
 いつの間にか、深い眠りに落ちていた。
 
 また夢を見た。
 夢の中では怜二と愛が、俺のそばで寝ていた。二人とも姿は小さい時のままだ。
 俺は愛の頭を優しく撫でる。可愛い寝顔だ。
 怜二もスヤスヤ寝息をたてて、気持ち良さそうに寝ている。このまま時間が止まればいいのにな。
 愛は、永遠に俺を裏切らない……。
 
 私が悪かった。軽率だった。
 隼人にあんな目つきで見られ、あんな台詞を言われたのは初めてだった。
 斉藤さんを殴っている時の隼人、とても怖かった。
 でもあの時は、私が斉藤さんにちゃんと言うべきだったんだ。
 斉藤さんが、隼人に向かって喋ったことは、侮辱以外に受け取れなかったと思う。会話を聞いていて、私も斉藤さんのこと、軽蔑したぐらいだもん。
 それ以前に、誘いをハッキリ断るべきだった。
 私の考えを伝えたいと思い、隼人に何度電話しても話し中。何度掛けてもプープーと鳴る通話音で、着信拒否されたのが分かる。
 何故、私はあの時、念入りに化粧なんかしたんだろう……。
 隼人に見せる為だったら分かる。誰かに声を掛けてもらいたかったの?
 いくら寂しかったからって、そんなのはただの言い訳。
 半分ヤケになっていたとはいえ、このことをずっと後悔してしまう。
 ヨリが戻った時に、私は自分で誓ったはずじゃなかったの。隼人の苦しみや悲しみから、逃げたりしないで受け止めるって……。
 もう、遅いかもしれない。でも、やれることはやってみよう。
 何日掛かってもいい。隼人に誠意を持って謝ろう。
 今の私はそれしか考えられない……。
 
 自然と目が覚める。
 携帯を見ると、着信拒否にした泉の携帯から、何回も着信の履歴があった。それを見ても何も感じない。いや、携帯を確認していること自体、気にかけている証拠か……。
 相当酷い台詞を思いつく限り、泉にぶつけた。
 こめかみの傷を指でなぞってみる。もう疼くことはない。くどいぐらい繰り返す、俺の昔からの癖。
 机の引き出しを開けると、昨日寝る前に入れた七十万が入っている。煙草に火をつけ、窓を開けると、非常にいい天気だった。皮肉なものだ。十二月の暮れなので空気は冷たいが、肌に当たる風の感触が心地良かった。また暇を見て、愛の墓へ行ってみよう。
 いつもより早く家を出て、新宿に着く。
 時刻は八時半だった。
 新堂や田中がまだ働いている時間だから店に顔を出してもいいが、もしも鳴戸や水野が来ていたら、顔を見るのも嫌なので、適当に歌舞伎町をブラブラしてみた。
 正直、金を稼ぐんだと割り切っていても、やるせない思いがあった。
「あれ、どうもおはようございます。今日は早いですねー」
 背後から声を掛けられ、振り返ってみると、ダークネスの隣にあるピンサロのメガネの従業員が、普段着で立っていた。一日会っていないだけで、懐かしさを感じる。
「あれ、こんなとこで奇遇ですね。おはようございます。昨日見かけなかったですけど、仕事、お休みだったんですか?」
「違うんです。私、昨日付であそこ辞めたんですよ」
「えっ、そうなんですか…。ちょっと寂しいものがありますね」
 メガネの従業員は、嬉しそうに微笑んでいる。
「何だかんだ言って、あそこに私、五年もいたんですよ。それでも全然給料上がらず、毎日立って客の呼び込みしてるのが、何だか嫌になっちゃいましてね……」
「酷いですね……」
 それ以外の言葉が掛けられなかった。実際に俺はあそこで働いた訳でもなく、客として遊びに行ったこともないのだから、同情ぐらいしかしてやれない。
「私、こう見えても四十三歳なんですよ。嫁さんと四歳の娘がいるんです」
「色々と大変ですね…。でも、娘さん、本当に可愛い頃じゃないですか」
 自然と愛の姿が浮かんでくる。あの頃の可愛い姿のまま、亡くなってしまった愛…。
「一昨日、いなくなってたんです……」
「えっ?」
「仕事終わって、アパートに帰ったら、二人ともいなくなっていたんです……」
「…で、どうしたんですか?」
「置き手紙が一通だけありました。もうピンサロの汚れた金で生活するのは嫌だ。そこで働くあなたはもっと嫌だって…。そんな言い方ってあると思いますか……?」
 メガネの従業員は、今にも泣き出しそうな表情で話していた。四十三年間生きてきた一人の男の哀愁が見えたような気がした。時計を見る。
「時間ありますか?」
「は?はぁ……」
「俺、仕事まで、まだ一時間ほど時間あるんです。そこら辺のコーヒーショップにでも、入りませんか?ここで話してても、寒いじゃないですか」
「すいません……」
 俺は出来る限り、優しく微笑んだ。
 
 二人で歌舞伎町の一番街を歩く。お互い名前も知らない男同士で……。
 考えてみると奇妙な光景だ。
 目に付いた近くのコーヒーショップに入る。朝の時間帯メニューがあったので、モーニングを二つウェイトレスに注文した。
「私はこれでも嫁と子供の為に頑張ってきたつもりなんですよ。確かに何の才能も技術もないです。でも、だからといって客の呼び込みを好きでやってきた訳じゃないんです。以前は、嫁だって今のピンサロで働いていたのですが、向こうから声を掛けられ、気付いたら、自然と一緒に暮らす仲になってまして…。こんな話したってしょうがないですよね。すいませんでした」
 メガネの従業員は寂しそうに無理をして笑顔を作る。誰だって辛いのだ。
 俺だけが辛い思いをしている訳じゃない。俺は女と一緒に住んだことも、結婚したこともない。だから経験していないことの大変さは分からない。でも相手の辛さや悲しさは、出来る限り、共有してあげたい。俺は何とかメガネの従業員を励ましたかった。
「いえ、誰にでもそういう話って、話せる訳じゃないじゃないですか。俺に話してくれて嬉しいですよ。言えば、スッキリすることだってあるじゃないですか?」
「あいつだって、元はピンサロ嬢で、他人のくわえて金稼いでたくせに、ふざけんなって感じですよ。私の稼いだ金の何が汚いんだ…。プライドを捨てても、ここまで頑張ってやってきたのに…。チクショウ……」
 メガネの従業員はテーブルの上に突っ伏した。肩が小刻みに震えている。
 俺はしばらくそっとしておくことにした。時計を見る。まだ、九時をちょっと回ったところだった。仕事まで時間はある。
 煙草を吸い、煙を静かに吐き出す。ウェイトレスがモーニングメニューを運んでくるのが見える。
「そろそろコーヒー来ますよ」
 メガネの従業員は、ようやく少しだけ顔を上げた。
「お待たせしましたー。モーニング二つの両方ともアイスコーヒーでよろしいですね」
「はい、どーも」
 ウェイトレスが去るのを待って、話しかける。
「女ってそんなもんですよ。男と女は生き物として見ると、種類が違うじゃないですか。少なくとも何年かは体張って、飯食わせてきたんじゃないですか。恥ずかしいことなんて何もないです。きっと時間が解決してくれますよ」
「嫁はもういいんです。ただ、娘は……」
「可愛い盛りですからね。でも、奥さん、出て行ったはいいですけど、そのあとどうするっていうんですか。きっと困って戻ってきますよ。その時は男の度量で、許してやれたら格好いいじゃないですか」
 自分で言っていて、理不尽なことに気付く。
 泉と斉藤の件だ。
 斉藤などどうでもいいが、泉のことを必要で大事に想っていたのなら、何故、ああなってしまったんだろう?
 人には許せと言っておきながら、自分ではこのざまだ。泉は何度も連絡をしてきたが、俺は一切、応じなかった。
 泉を信用すらしなかった。自分のどこに男の度量があるというのだろう?
 確かにいきなり母親が出現したことで、イライラしていたのは事実だが、泉に言うだけ言って、勝手に俺から連絡を遮断した。その時の泉の心境なんて、考えてやれなかった。あいつは美人だし、性格も可愛い。
 そんな奴が、男から言い寄られない訳がない。寂しい時にたまたま気分転換のつもりで、食事の誘いを受けてしまったと、何故、考えてやれなかったんだろう。
 俺はいつも独りよがりだった。考えてみれば、俺は自分の仕事の都合で、あいつと逢う時間すら作ってやれなかった。
「ありがとうございます。何か、元気づけてもらって……」
 名前も知らない他人には親切に接っすることができるのに、泉にはそうじゃなかった。時計を見ると、九時半を過ぎていた。
「いえ、とんでもないですよ。じゃー、俺そろそろ仕事行く時間なんで失礼しますね」
 ニッコリと笑いかけて、伝票を手に取る。
「私が出しますよ。置いといて下さい」
「ここは出させて下さい。俺も大事なことを気付かせてもらえましたから……」
 俺の言葉にメガネの従業員は、キョトンとした顔をしている。
「じゃー、今度会った時は、ご馳走になります」
 それだけ言うと、メガネの従業員を席に残し、俺はそのまま店のレジに歩いていった。
 
 ダークネスに向かう途中で、突然こめかみの傷が疼き出す。あまりの痛みに、その場でしゃがみ込んでしまった。
 この間で母親との絆を断ち切ったつもりでいたが、単なる俺の思い込みだったのだろうか。いや、少なくとも俺の中では完結させたつもりだ。頭を拳で数回、叩いてみる。それでも痛みは治まらなかった。
「大丈夫ですか?」
 誰かに声を掛けられる。見ると、さっきまで一緒にいたメガネの従業員だった。
「ええ、大丈夫です。何でもないですよ」
「頭でも痛いのですか?」
「少し寝不足なだけですよ」
「ちょっとそこにいて下さいね」
「えっ?」
 俺が答えるよりも早く、メガネの従業員は駆け足でコマ劇場の方向へ向かって行った。時計を見ると九時四十分。あと二十分で仕事の時間なのに……。
 頭を片手で押さえながら、煙草を吸い時間をつぶしていると、五分もしない内にメガネの従業員は戻ってきた。
「ど、どうぞ。こ、これよかったら……」
 そう言って頭痛薬と栄養ドリンクを俺に手渡してきた。よく見ると肌寒いにもかかわらず息を切らし、汗をかいていた。
「すいません…。そんな汗までかいて……」
「いやいや、何、言ってんですか。あなたのおかげで、私はどれだけ救われたか……」
「そんな、俺は……」
「早く飲んで下さい、薬を」
「お言葉に甘えます」
 箱から薬を取り出して、栄養ドリンクと一緒に飲み込む。いつの間にか傷の疼きは止まっていたが、親切にしてもらった気持ちが、素直に嬉しかった。
「気遣っていただき、本当にすいませんでした」
「いえいえ」
 そういえば俺は、この人の名前すら知らない。名前ぐらい聞いておきたかった。
「あのー、出来たらお名前を教えていただけたら……」
「あ、そう言えば私たちって、まだお互いの名前すら知らないんですよね」
「そうですね。自分、赤崎隼人って言います」
「赤崎さんですね。私は遠藤と言います。もし縁があったら、またコーヒーでも飲みましょう。赤崎さん、もうそろそろ仕事の時間じゃないですか?」
 時計を見ると十時十分前だった。
「げっ、いつの間に…。それでは仕事に行ってきます。遠藤さん、本当にありがとうございました」
「とんでもない。私はさっきの喫茶店に戻って暇つぶししてますよ。仕事頑張って下さいね。いってらっしゃい」
 心から深々とお辞儀をして、俺はダークネスへ向かった。
 
 今日は仕事が休みで良かった。
 結構泣いたせいで、目が腫れている。暗く沈んだ気分を変える為、私は大好きなお風呂に入る。
 湯船に入り、バシャバシャ音を立てて水面を泡立てさせる。
 今朝、斉藤さんから電話があったけど私は出なかった。もう誰の誘いも受けない。
 ドンドン泡立つ様子を見ていると徐々に楽しくなる。給料が安いから、あんまりこうやって泡風呂って出来ないけどやっぱり最高。
 いけない、いけない…。浮かれている場合じゃなかった。
 誠意を持って隼人に接するってどうしたらいいのかな……。
「私はやっぱり隼人じゃなきゃ、駄目……」
 ワザと口に出して言ってみた。
 両手で泡を救い、フーと吹き飛ばすと、四方八方に飛び散り、幻想的な世界を私に見せてくれる……。
 
 店に向かう途中で、俺は泉に一刻も早く電話を掛けたくなった。
 泉はどんな反応をするだろうか…。
 そう思うと、携帯のボタンを押す勇気が出てこない。一度は壊れた仲なんだから、もう恐れるな……。
 自分に言い聞かせる。
 覚悟を決めて携帯のダイヤルを押す。しかし、いくら鳴らしても出てくれない。無視されているのだろうか?
 あれだけの罵詈雑音を言ったのだ。当然の結果かもしれない。
 もうあまり時間がない。泉と連絡をとるのは諦め、店に向かうことにした。
 店はそこそこ混んでいた。小倉さんが来ていた。
 新堂と田中は忙しそうにINをしている。キッチンに行くと、岩崎が着替えていた。
「おはようございます。今日は客、そうそうたるメンバーですね。気合入れてやらないといけませんね」
「おはようございます。はい、頑張ります」
 会話するのも嫌なぐらい薄気味悪いホモ野郎だったが、そう感じる暇がないぐらい店は忙しかった。
 でもその方が、気が紛れていい。すぐに俺は着替え始める。
 岩崎のねっとりした視線が、俺の下半身に集中しているのに気付き、鳥肌がたつ。また俺のをくわえたいなどと、馬鹿なことを言い出すんじゃないかとハラハラする。
 逃げるようにしてホールに出ると、真っ先に小倉さんの座る台へ向かう。
「お疲れさまです」
「んっ…、おぉ、おはよう。赤崎君が来るってことは、もうこんな時間かー……」
「何時ぐらいから、いらしてたんですか?」
「夜の二時ぐらいかな。フォッフォッ…、今日は調子いいよ」
 小倉さんはとっても元気なおじいちゃんだ。話していて自然に顔の表情がほころぶ。
「じゃー、勝ってますか?たまには本当、持っていって下さいね」
「いやー、一晩中遊んで、勝って帰るんじゃ、申し訳ないよ」
「そんなことないですよ。頑張って下さいね」
 八卓は席が埋まっている。今日は客層がバシバシ叩く客ばかりなので忙しい。必然的にINを入れる回数が多くなるからだ。店側にとって、嬉しい悲鳴ではある。
 一人の客が俺の方を見ている。視線を感じ、振り返ると新宿プリンスの江島さんが三卓に座っていた。俺はニコニコしながら近付き、この間のお礼を言う。
「この間は本当にご馳走さまでした。とてもおいしかったです」
「いえいえ、そんなことないですよ」
岩崎も近付いてきて、江島と話をし始める。俺はさり気なく岩崎のそばから離れ、仕事に精を出すことにする。
 客はひっきりなしにINを入れるから、こっちは大忙しだった。あっという間に時間は過ぎていく。
 小倉さんが五万のビンゴをゲットして、集中力の切れた客からキリのいいところで帰り始める。小倉さんはまだやりたそうだったが、時計を見てボソボソと口を開く。
「そろそろうちのが怒っている時間だなー…。じゃー、今日は勝たせてもらうね」
 口をモゴモゴさせながら帰っていく。
 また一人また一人と客は帰り、夕方近くには客が切れた状態になった。
 
 俺と岩崎の二人だけになる。嫌な感じだ。
「赤崎さん。これ……」
 岩崎は三万を出してくる。俺は会釈だけして、それを受け取り財布にしまう。
「まだこの間のこと、気にしてるんですか?」
「え…、いや、あのーその……」
 いきなり言われると、何て答えていいか困る。
「もうあんなことしませんから安心して下さいよ。嫌がってる人に自分の性癖を押し付けても、さらに嫌われるだけですしね」
 そう言って岩崎はこっちを見てニヤリと笑う。気持ち悪かった。思わずこの場から逃げ出したくなる。
「大丈夫ですって、それよりも鳴戸さんや水野さん…。赤崎さんに色々聞いてきてませんか?以前よりも気のせいか、チェックが厳しくなっているような感じするんですよね」
「最初の頃、確かに色々聞かれましたよ。何か変なことあったらこっちに教えてくれって。でも、もちろん言うつもりないし、裏切ったりしませんよ」
 岩崎は俺の台詞を聞いて、いやらしい笑いを浮かべる。こんな気持ち悪いホモ野郎を庇うのは癪だが、それでも俺に毎回金をくれる貴重な存在でもあった。仕方がない。
 ピンポーン……。
 モニターを見ると鳴戸だった。俺はドアを開けて挨拶する。
「お疲れ様です……」
 鳴戸は俺に見向きもせず、真っ直ぐ岩崎の方へ向かっていく。表情は通常のままだが、変な違和感を覚えた。岩崎がいつもの調子で、今日の営業の状況を話す。
「あっ、お疲れさまです。さっきまで忙しかったのですが、今のとこ…、グッ……」
 ズダンッ!
 派手な音がする。岩崎の座っている椅子が、岩崎ごと真後ろにすごい音を立ててひっくり返る。
 何が起きたんだと思う前に、鳴戸が岩崎の腹の上に足を乗せた。まったく動けなくなる岩崎。
 鳴戸の視界には、俺などまったく入っていないようだ。甲高い怒鳴り声が響き渡る。
「ようやく気付いたんだよ。岩崎ー!」
 鳴戸の表情は変わっていないのに、声だけがいつも以上に迫力がある。聞いているだけで、身がすくむ。
 まさか、売り上げから金を抜いているのがバレたのか……。
 俺にはそれ以外、考えつかない……。
 仰向けになっている岩崎のあごに、鳴戸は容赦なくつま先で蹴りをぶち込む。ゴツッと鈍い嫌な音が部屋に響く。
 普通の神経じゃ出来ない芸当だ。
 岩崎はあごを両手で押さえ、もがき苦しんでいる。指と指の間から、すごい量の血があふれ出していた。
「立てよ。どのくらい抜いていたんだ、あっ?立てよ!」
 またもあごに思いきり蹴りを入れる。岩崎の顔が一瞬、上を向き、真正面の壁にあるボードの下辺りまで、鮮血が飛び散った。
 鳴戸はゴロゴロ転げ回る岩崎の髪の毛を情け容赦なくワシ掴みにすると、強引に立たせようとしている。
 俺は目の前の光景を見て、何も出来ず、一歩も動けないでいた。
「立てよー、おいっ!私は立ちなさいと言ってるんですよ!」
 鳴戸が俺の方を急に振り向く。身動き一つ出来ない。まるで蛇に睨まれたカエルだ……。
 細胞の一つ一つが恐怖を感じている。
「赤崎ー。おまえは、岩崎から金をもらっていたのですかー?」
 何て答えたらいいのか、頭が真っ白になる。岩崎がゲーム台に手を掛け立ち上がろうとしていた。思わず目が行く。
 岩崎は俺をジッと見ていた。酷い出血だった。鼻から下が血で真っ赤になり、口の形すら見分けがつかない状況だ……。
「……!」
 岩崎が、白い歯を一瞬だけ見せ、確かにウインクした。
 俺に話すなとでも、合図したのか……。
「赤崎ー、私の言ってることが聞こえないんですかー?」
 鳴戸が目を剥いて俺を睨みつけてくる。こんな恐ろしい顔を初めて見た。
 さっきの岩崎の合図というかウインクを見て、何も喋れないでいる……。
 でも、何かしら言わないと鳴戸は、俺に向かってくることだけは確かだ。何でもいい。とにかく口を開け。
「い…、いえ……」
「本当ですね?」
「は、はいっ!」
「じゃー、今日はもう帰っていいですよ」
 鳴戸はそう言うと財布から二万円出して、俺に渡す。俺はガタガタ震えながら、日払い分の給料を受け取る。
「よし、確かに渡したぞ。じゃー、明日十時な。お疲れさま」 
 鳴戸はもう俺に興味をなくしたのか、岩崎に振り向く。そのまま岩崎の体をところ構わずメチャクチャに蹴り出した。あれだけ無抵抗の人間に、まったく遠慮せず、蹴りをぶち込める人間を初めて見た。
 急いで着替えようとするが、指が震えてなかなかボタンがしめられない。やっとの思いで俺は着替え終わり、店を出ようとする。ドアノブに手を掛けてから、恐る恐る岩崎の方を振り返る。俺だけ助かって済まない思いでいっぱいだった……。
「……!」
 今、岩崎は、確かに優しく頷き、一瞬だけだが、俺と目を合わせた。
《それでいいんですよ、赤崎さん……》
 原形が分からなくなるほど、顔がグチャグチャになっているのに、岩崎が、そう訴えた気がした。
 何故、俺を庇うのか分からなかった。岩崎の誘いを断り、忌み嫌った。『赤崎も抜いた』と言えば、鳴戸の攻撃はこちらに来るのに……。
 どうして……?
 不思議でたまらなかった。
 岩崎の顔は、アザと血でメチャクチャになっている。それでも鳴戸はまだ、攻撃をやめない……。
「おいっ、赤崎ー、帰れって言ったの、聞こえなかったのですかー?」
「し、失礼します!」
岩崎はぐったりしていて、意識をなくした様子だった。
 俺は自分の身の可愛さに、慌てて店を出る。結局のところ、俺もクズ野郎と変わらなかった……。
 
 歌舞伎町のおぞましい光景。
 以前見たテレビでこの街を映し出していたが、俺が見た限り、その番組は大袈裟だった。本当の怖さは、世間一般じゃ知らない場所で静かに行われているというところなのだ。
 抜きがバレた時の恐怖……。
 哀れにも顔面をグチャグチャにされている岩崎。
 まだ彼は、鳴戸にやられているのだろうか?
 このことを誰かに言ったところで、「店の金を抜いていたんでしょ?じゃあ、しょうがないんじゃない」と軽い言葉が返ってくるだけだろう。
 ただ単に店の売り上げから、金をちょろまかした従業員に、オーナー自らが制裁を加えているだけとしか捉えてくれない。
 この街では真面目に生きるだけで、いやそう見えるだけで一つの武器になる。それだけここには悪い人間が多くはびこっているのだろう。すでに、俺もその中の一人だ。
 岩崎は一体、どうなるのだろうか……。
 狭いゲーム屋から開放されたからか、全身から汗がドッと吹き出す。
 岩崎がどうなったのかを考えていたら、気付くと家の前にいた。
 考えたところで、何ができよう……。
 自分の身を案じ、その場から逃げただけの俺。卑怯で臆病者。
 疲れた……。
 非常に疲れが溜まっている。
 今、何時ぐらいだろう。
 携帯を見ると、沢山、泉からの着信履歴があった。着信拒否を解くのを忘れていた。でも、今は泉のことまで考える余裕がない。
 携帯を投げ出し、布団の上に横になる。自分が本当に何者でもない無力な弱者だと、痛感した。あんなになってまで俺を庇った岩崎の心理状態が、理解できなかった。
 ホモで俺を求め、気に入っていたからなのか……。
 あの最後に見た岩崎の目は、俺の安全を確認できて良かったといった感じの目つきだった。
 その心境は、永遠に俺には理解できないだろう、そんな気がする。
 結局のところ、俺はホモの岩崎に救われたのだ……。
 俺は明日、またあそこへ行かなければ…、出勤しなければならないのか……。
 俺一人がダークネスに行って、何ができるというのだろうか?
 急に吐き気を催し、トイレに駆け込む。胃の中にあった物を全部吐き出したが、まだ何か残っているみたいだ。
 ここ数日で、色々な出来事が起こり過ぎた。精神的に参っていた。まるで悪夢の中にいるみたいだった……。
 頭が痛い。
 傷も疼きだしてくる。
 今朝、遠藤からもらった頭痛薬を飲んでみる。目を閉じて横になっていても、痛みが消えることはなかった。
 
 隼人からの着信履歴があった。さっきまでお風呂に入って、携帯をチェックもせずに買い物へ行った自分を呪う。
 買い物から帰ってきて、着信に気付いてすぐに連絡したけど、隼人はまだ私の番号を拒否にしている。
 当たり前だ。あの時の隼人の目つきは、私を一生許してくれない…、そんな感じだった。
 今頃、隼人は、仕事頑張っているのかな。もう私のことなんて何にも思ってないのかな。
 でも、この着信履歴は何の為だったの?
 密かな期待を胸に抱いてしまう。携帯から目が離せない……。
 電話が鳴りそうな気配がして急いで携帯を取る。隼人かもしれない……。
 微かな振動を感じ、相手が誰か確認もしないで、通話ボタンを押した。
「あっ…、この間はどうも」
 声の主は、斉藤だった。かなりガッカリくる。
「はい、何の用ですか?」
 自然と声も対応も冷たくなってしまう。
「いや…、あの時、いきなり不意打ちで僕、殴られちゃったでしょ?急にで状況つかめなくて、気付くと星野さんあの場所にいなくなってたから…。心配だったんだ」
「私は問題ないです。斉藤さんこそ怪我、大丈夫ですか?」
「うん、ただあの赤崎って奴はさ、知り合いに頼んでお礼させないとね。こう見えても僕って顔が結構広いんだよ。他にもそういう関係の知り合い、いっぱいいるしね」
 ほんとにくだらない男だ。口で顔が広いと自慢して、他人に頼んで何とかしてもらうのが格好いいと思っている。
 隼人は完全な一匹狼だった。喧嘩っ早いが、全部自分で何とかしてきた。単純に比較して、どっちが男らしいかは、一目瞭然だった。
「あのー…そういうのって、やめたほうがいいんじゃないのでしょうか」
「いやー、彼には僕の力ってものをね……」
 何の力があるというのだろう。声を聞くのも嫌だった。
「すいません、切りますね」
「えっ、星野さ……」
 プツッ……。
 私は通話を切った。その後も斉藤はしつこく電話を掛けてくるので、携帯の電源をオフにした……。
 
 目が覚める。
 昨日ダークネスに出勤しようかどうか悩み、そのまま寝てしまったようだ。
 すっかり頭の痛みは治まっていた。本音をいえば、もうあそこでは働きたくなかった。とりあえず、辞めるにしても、履歴書で俺の情報は知られているので、ちゃんと筋を通して辞めないと、あとあとが怖い。
 鳴戸の狂気じみた性格を考えると、何をされるか分からないという恐怖を感じる。俺は心底、鳴戸にビビっていた。
 出勤時間が近付いていたので、仕方なく新宿へ向かうことにする。足どりが、非常に重い。
電車の中でどう言って辞めるかということばかり考える。
 このまま逃げ出したかったが、そんなことをすれば鳴戸が何をしてくるか……。
 想像しただけで、嫌になってくる。正攻法で堂々と言うしか、方法は残されていないのかもしれない。
 考え事をしていると、あっという間に電車は新宿に到着した。
ダークネスのある通りまで来ると、さらに足取りが重くなる。
 ピンサロの遠藤も、もうあの場所にいない。歌舞伎町に来て、たったの一ヶ月で自分を取り巻く状況が、こんなに変わるなんてまったく予想もつかなかった。
 とても気が重い状態で、杉沢ビルの階段をゆっくり上がる。今の俺には鳴戸が店に来ていないのを願うばかりだった。恐る恐るドアのチャイムを鳴らす……。
 水野がドアを開ける。店内をさりげなく見ると、鳴戸はいないみたいで、ちょっとだけ安心する。
「おはようございます」
「うむ、おはよう。昨日は色々と大変だったみたいだなー」
「え、ええ……」
 正面の壁には、まだ赤い血がこびりついていた。岩崎の血だ……。
「参ったよー…。昨日の夜になって新堂も田中も、ここをいきなり辞めますって言いやがるんだよ。まあ、一応はとめたけどね。赤崎君はそんなことないよな?」
「えっ…、は、はぁ……」
「ただ確定した従業員が君一人で正月も近いし、その間はちょっと店の営業を閉めようと思うんだ。その間に新しい従業員入れてね」
「そ、そうなんですか」
「でも、岩崎の野郎…。一体、いくら抜いてやがったんだ、ちくしょう。赤崎君も不審な点あったら、ちゃんと言ってくれよって、あれほど頼んでたのに……」
「すいません…。でも自分には全然分かりませんでした。まだ入って一ヶ月ぐらいで……。本当に申し訳なかったです」
「まー、君にこんなことを言っても仕方がないか……」
 相変わらず水野は大ボケ野郎だ。少し演技するだけで、コロッと騙される。それでいて変に金にセコイし、汚い……。
 鳴戸相手だったら、こうはいかないだろう。
 ここへ鳴戸がやって来たら厄介だ。長居は無用だ。今、ハッキリ辞めるとカタをつけるのが懸命だ。
「水野さん…。ここ、しばらく閉めるんですよね?」
「だって、しょうがないだろう」
 今だ。このタイミングで言うしかない。
「……すいません、俺……。辞めさせて下さい」
「おいおい、いきなり何を言ってんだ?」
 水野が慌てて席を立ち上がる。こいつだけなら楽勝だ。
「昨日の件とか見ていて、正直、怖いです…。自分には勤まりません。今まで大変お世話になりました」
 言うだけ言って、深々と頭を下げた。
「いやー、考え直しなよ、赤崎君。君みたいな真面目な人材が必要なんだよ。本当ロクなのがこの街はいないからね。もちろん給料だって上げてあげるし……」
 水野の台詞に何の興味も持てなかった。岩崎に散々金をもらってきた。今さら、こんなしけた奴に千円、二千円の日払いを上げてもらい、へつらって生きるのはごめんだった。それにここにはあの恐ろしい鳴戸もいる。出来れば、もう関わり合いになりたくなかった。
 俺は水野の目を見て、もう一度、ハッキリと言う。
「すいません。お気持ちは非常に嬉しいのですが、自分にはもう無理です。今までお世話になりました」
「赤崎君…。鳴戸君も君には期待しているんだよ」
「すいません…。無理なんです」
「そうだ、お腹減ってないかい?これからさ、うまい焼肉でも食いに行かないか?」
「大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした」
 俺は頭を下げ、そのまま店を出ることにした。水野は、呆然と俺を見送る。
 歌舞伎町に来て一ヶ月。
 初めての店、ダークネス……。
 本当に色々なことがあった……。
 店を出ると、すぐに階段を駆け降りる。鳴戸とは、絶対に顔を会わせたくなかった。
 外へ出て財布をチェックすると、十七万入っている。このまますぐに帰るのも、ちょっと味気ない。しかし、風俗に行く気分でもなかった。
 たった今、無職になったのに不思議と気分はスッキリしている。
 岩崎はどうなったろう?
 気になりだすと、いても経ってもいられなくなる。岩崎の携帯に電話を掛けてみることにした。
「お客さまのお掛けになった電話番号は、現在使われていません……」
 無情にもコンピューターのアナウンスが鳴り響く。気になるが、今の俺には何も出来ない。知る術も手掛かりもない。
 あのいやらしい笑みで俺の左手に自分の右手を重ねてきた岩崎。今にして思えば、不思議な男だった。知り合ってたった一ヶ月で、俺に八十七万もの金を与えて行方不明になった。
 一度ぐらい望み通り、相手してやれば、良かったのか……。
 想像して身震いする。やっぱり俺には無理な話だ。
 同情はする。でも、それとこれとは別問題だ。
 
 さくら通りを歩き、一円のゲームの看板を見つける。
 そういえば俺は、客としてゲーム屋へ行ったことがない。自然と足が向き、中へ入る。
「いらっしゃいませ!当店のご来店は初めてですか?」
 店員が話し掛けてくる。中は結構奥行きのある広い店で、二十卓ほど台があり、そこそこ客も入って賑わっていた。ビンゴのシステムも、ダークネスとは全然違った。
「はい、初めてです」
「組関係とか、そちらの方は大丈夫ですか?」
 店員が、組関係お断りと細かく書いてあるボード板を指して、聞いてくる。俺が組員に見えるのだろうか。ちょっとおかしくなる。
「違いますよ」
「はい、では台の説明がですねー……」
「分かるから大丈夫ですよ」
 俺は適当に空いている台に座る。財布から二千円を取り出すと、店員に渡す。
「ドリンクはコーラで……」
「はい、かしこまりました。十六卓さん、ご新規二本です」
「はいっ」
 何人、店員がいるのだろう。数えてみる。四人の店員が一斉に揃えて大声を出していた。店のコールもダークネスと違い、気合いが入っている。
 俺はゲームに集中することにした。最初の新規サービス込みの五千点は、すぐに溶けてしまう。
 ダークネスに来ていた常連の小倉さんの様に、一度もテイクしないで、格好つけて打ちたかった。しかし格好つけているつもりでも、五万円が一気に台に吸い込まれると、さすがに熱くなってくる。なるべく表情に出さないよう努めた。
 いきなり画面上で、Kの四カードが揃い、台が点滅しだす。
「はい、十六卓さん少々お待ち下さい。そのままで少々お待ち下さい。はい、十六卓さん満タンキングの四カードです」
「はい、こちら四カードビンゴ完成でプレミア二万ポイントです。プレミア二万ポイントボード、OKです」
 たまたま揃った四カードがビンゴだった。
 ご祝儀の二万円をもらう。
 俺はダブルアップを押す。すると「×五」とトランプの裏に表示してあるカードが出てきた。
 これを当てれば、六千の五倍だから一気に三万になり、今までの負けを取り戻せる。迷ったが、ビックを押した。ハートのJが出て、一気となった。画面が赤く点滅して、派手な音を出し始めた。店員が、俺の台を確認して叫ぶ。
「はい、十六卓さん、やりました。一気の決まり手ハートのJで、一気ビンゴ完成、プレミア五万ポイントです。プレミア五万ポイント、ボード、OKです」
 ビンゴを見ると、たまたまJでリーチになっていて、ハートが出れば、ご祝儀五万だった。
「おめでとうございます」
 さすがに興奮してくる。一気に全部で十万の金を手にする。その後、調子良くなり、一気を飛ばし続けた。
 終わってみれば、十三万も勝っていた。丁度、財布の中は三十万になった。僅か、二時間ほどの時間で……。
 店員にありがとうと、お礼代わりにチップで一万円を渡す。
「いやー、受け取れないですよ」
「いえ、本当にこんな勝たしてもらって申し訳ないです」
「勝つ時もあれば、負ける時もあるのがポーカーですから……」
「それは分かりますけど、俺の気持ちです」
 俺の熱意に押され、店員は渋々一万円を受けとってくれた。俺はお辞儀して店を後にする。
 さっき、一万円チップを渡したから財布は二十九万、家の引き出しに七十万がある。合わせて九十九万の金額を、俺は持っていることになる。
 初めてポーカーをやって二時間ほどで、こうまで増えてしまい、正直笑いが止まらない。ポーカーにハマる客の心理状況が、少しだけ理解できたような気がする。
 生まれてこのかた、これほどの大金を持ったのは、初めての経験だった。さすがに人生嫌なことばかりではない。たまにはこんなツキもついてないとやってられない。
 気分がウキウキしてくる。もう一軒寄ってみようか……。
 調子に乗って歌舞伎町をグルグル歩き回り、セントラル通りにさしかかった。
 
 行く宛てもなく歩いている内に、ちょっとした、違和感を覚える。
 気のせいか人の流れが全体的に、あずま通りへ向かっているような……。
 道の端で客引き二人組が、大きな声で話をしているのが目につく。
「すげーぜ。店に爆弾が投げられたんだってよ」
「あくどい商売でもやって、大方恨みでも買ったんだろ」
「それにしても爆弾はねーだろ」
 随分と物騒な会話をしているので、自然と客引きの声が耳に入ってくる。
 爆弾……。
 一体全体、何のことを話しているのだろう。声を掛けてみた。
「あ、あのー…、何かあったんですか?」
「ああ、あずま通りを横に入った道のビデオ屋があるんだけどさー。爆弾が投げ込まれたって、大騒ぎがあったみたいよ」
「ば、爆弾ですか?何で、また……」
「さあ、そんなの分からないよ。爆弾を店の中に投げ込まれたってこと以外はね」
「そうなんですか」
「まだ今なら野次馬がいっぱいいるから、あずま通り行けば、すぐにどこか分かるはずだよ。行ってみれば?」
「そうですね。じゃあ、行ってみますね。ありがとうございます」
 客引き二人組は俺が話し掛けても、嫌な顔一つせずに受け答えしてくれた。俺は礼を言ってから、あずま通りに向かって歩きだした。通りに出ると野次馬が密集しているので、自分も野次馬の列に加わることにした。
「もうちょっと先に行けないかな」
「まだ煙、出てるよ。すげーな」
 野次馬連中はみな、好き勝手に話をしている。まあ、俺も人のこと言えないか……。
 背を伸ばして見てみると、爆弾を投げ込まれたという裏ビデオ屋は、真っ白な煙をモクモクと吐き出していた。
 非現実的な光景を目の当たりにして、俺はしばらく煙の出る店を、呆然と眺めていた。さすが歌舞伎町らしいというか……。その時、誰かに肩を叩かれた。
「ずいぶんご機嫌そうじゃないですかー、赤崎君」
 聞き覚えのある甲高い声がする。一気に鳥肌がたつ。
 振り向くと、あの鳴戸が俺の後ろに立っていた。思わず固まる。
 鳴戸は笑っていた。俺は、その笑顔が怖い……。
「どーしたんですか?水野さんから聞きましたけど、うちの店、辞めちゃうんだって?」
「は…、はい…。すみません……」
「ちょっと、お茶でもどーですか?」
「えっ…、いえ……」
「お茶でもどーですかと、私は言ったんですよー」
 野次馬連中が鳴戸を見て、あとずさる。鳴戸はどんな場所でも鳴戸らしかった。こうも堂々と来られては、逃げ場などどこにもない。
「は、はい」
「じゃー、行きましょう。あなたは黙って言われた通り、私のあとをついてくればいいんです。分かりましたか?」
「……」
「分かったんですか?」
「は、はい……」
 俺は黙って鳴戸のあとをついて行くハメになった。
 自分の馬鹿さ加減を呪う。図に乗ってゲーム屋などで遊んでいるから、こんな目に遭う。こんなことになるならすぐに帰ればよかった……。
 せっかく勇気を出してダークネスを辞めたのに、また俺はあそこで……。
 いや、この恐ろしい鳴戸の下で、働かないといけないのだろうか……。
 
 職場の式場に電話を掛ける。
「あ、もしもし…。ええ、星野です。すいません、今日ほんと具合悪くて…。ええ、はい、大丈夫ですか?は…、はい、ええ、心配して頂いて申し訳ありません。はい…、すいません。はい、明日には必ず体調良くして出勤致します。はい、ええ。そうですよね…。では、失礼致します」
 仮病を使って仕事を休んだ。
 隼人はだいたい、いつも夜の十一時くらいに狭山市の駅に仕事を終え、帰ってくるはずだ。
 あれから連絡はまだない。今日中に何とかしたい。
 隼人の顔が見たかった。
 でも、電話も通じないし、どうしたらいいんだろ……。あれから一度でも私に連絡くれたってことは、プラスに考えなきゃね。
 よし、決めた。
 私、隼人の家の前でずっと待ってよっと……。
 やっていることはストーカーみたいだけど、構わないわ。それで白黒をハッキリできれば、楽になるしね。
 よーし、そうと決めたら念入りに綺麗になろっと。女の……、いや、私の意地を見せてやる。
 お風呂場の脱衣所で衣服を脱ぐ。裸の状態で、鏡を見つめる。
「うん、プロポーションもまだまだいけるぞ。金欠になっちゃうけど、今日も泡風呂にしちゃおっと……」
 こんなに気合い入れてお風呂に入るのって、初めてかもしれない。ちょっとは元気が出てきたぞー……。
 
 鳴戸と近くの喫茶店に入る。様々な客層が座っている。席に着くと鳴戸は、俺の意思など無視して勝手に注文する。
「お姉さん、コーヒー二つね」
 結構、美人なウェイトレスが笑顔で応対する。
「はい、かしこまりました。もし、よろしければセットで、ケーキなどいかがですか?」
 ジロッと鳴戸が、そのウェイトレスを一別した。
「誰がいつそんなこと、頼みましたか?私はコーヒーを二つと言ったんですよー。他に何か頼みましたか?」
「は?」
「いつ、私がそんなこと言いましたかって、聞いてるんですよ」
「は、はい……」
「はいじゃないでしょ、はいじゃ。さっさとコーヒーを持ってきなさい」
「す、すみません」
 ウェイトレスは逃げるように、その場を立ち去る。可哀想だったが、俺もウェイトレスみたいに、この場を走って逃げ出したい気分だった。この男は女でも容赦がない。
「そうそう、赤崎君。岩崎のことが気になりますか?」
「えっ?は、はい…。気にならないと言ったら嘘になります」
「でもねー、今はそんなことはどうだっていいんですよー」
 自分で聞いといてかなり勝手な言い分だが、鳴戸が言えば、その通りに物事は進む。それがこの男の世界なのだ。
 もう嫌だ……。
 もううんざりだ……。
「私はねー、赤崎君に対して非常に期待していたんですよ。面構えも性格もいい。ましてや真面目です。ずっとそういう人材を探していたんです」
 先程のウェイトレスが小刻みに震えながらコーヒーを持ってくる。ウェイトレスが行くのを待ってから、俺は必死に考えたことをまとめ、口を開く。
「……買い被り過ぎです。自分にはそんな価値ありません」
「いいですか?私があると言ってるからあるんです。あなた自身がどう思うかなんてね、こっちはそんなことは聞いてないんですよ」
「す、すいません……」
 萎縮してしまう。やっぱり鳴戸は普通じゃない。
 一体、いつまで俺はここにいるんだろう?
 もう、ちゃんと店を辞めたのに……。
「いいですか?私はあなたを非常に気に入ってる。考え直しませんか?」
「……い…ぃ…ぇ……」
 鳴戸にハッキリ言うのが恐ろしい。声が震えてしまい、蚊の鳴くような声しか出ない。もう、嫌だ……。
 何で俺がこんな目に……。
「何ですか?ハッキリ言いなさい。ちゃんと話さなきゃー、聞こえませんよー。男でしょー。私は店に戻りなさいって言っているんです。聞こえたのですかー?」
「あ…、あのー……」
 もういいや……。
 どうなっても……。
 殺されることまではないだろう。
 断ると、何をされるのかだけ聞いて、それから自分の意思を伝えよう……。
 そう思っても、なかなか口に出せない。
「あのねー、イライラしますねー。男でしょー?ちゃんと話しなさいよ」
 周囲の客がこっちに注目しているのを感じる。
 こっちだってあんたに会ってからずっとイライラしているんだ。この男の理不尽さには、そろそろ我慢の限界を超えそうだ。
 俺は、何をしてんだろう……。
 何故、鳴戸にここまで言われなきゃいけないんだろう……。
 色々あってうんざりだ。いつもは怖く聞こえているはずの鳴戸の声が、とてもうっとおしく聞こえるのは、気のせいだろうか……。
 ゆっくりと深呼吸をしてみた。
「何、さっきから黙っているんですか?」
 こんな奴に岩崎は……。
 あれから彼はどうなってしまったのだろうか?
 ホモで金に汚く、ずる賢い奴だったが、あの時俺を庇ってくれたのは事実だ。
「あ、あのー……」
「何ですか?早く言いなさいよ」
「い…、岩崎さんはどうなったんですか?携帯に掛けても通じなくて……」
「さー、私にも分かりません。ただ、ちゃんと生きてはいますよ。それよりもさっきの話です。私はあなたを買ってるんです。戻りませんか、もう一度」
 俺は自分の意思でしっかり鳴戸を見据える。ここでハッキリしないと、俺は疲れっぱなしだ。鳴戸も俺を見据えている。
 自分の意思で意見をちゃんと言え。心臓の鼓動が早くなり冷汗が吹き出す。年末で寒いのに、背中が汗でびっしょりになっている。
「お、お断りします……」
 嫌な沈黙が流れる。心臓が壊れるんじゃないかってぐらい、ドキドキしていた。
「もう一度だけ聞きますよ…。今、何て言ったんですか?」
 こんな、一緒にいるだけで神経をすり減らす奴なんかに、たとえ仕事でも使われたくない。俺は席を立ち上がり、鳴戸の目をしっかり見据え、口を開いた。
「お断りします!すいません。俺は今までお世話になりましたけど、もう限界です。辞めさせて頂きます。本当にお世話さまでした」
 鳴戸は、予想外の俺の反応に戸惑った表情をしていた。周囲の視線も俺に突き刺さるが、もう何も気にならない。
 いくらなんでも命まではとられないだろう。そう考えると、少しは楽に感じる。
 いいたいことを伝えると、一礼して喫茶店をあとにした。
 鳴戸が追い掛けてくる様子は微塵もなかった。
 よくもあの鳴戸に、あんな口を利けたもんだ。自分で言っておきながら、ビックリしている。まだ心臓がバクバクなっていた……。
 堂々と歩いていたつもりだったが、喫茶店からしばらく離れると、俺は一目散に駅へ向かって全力で走りだした。
 
 私は隼人の携帯に電話してみる。まだ着信拒否だった。
 辛いけど今は落ち込んでいる暇はない。
 ちょっと早いけど、隼人の家に行ってみよう。準備しないと……。
 
 何か疲れた……。
 これからどうするか考えなきゃいけないのに、俺は酷く疲れている。
 鳴戸相手に退かなかった自分を誇りたいが、その為に使ったエネルギーと、神経のすり減らし方は、半端ではなかったみたいだ。
 リアルな現実は、財布に入っている二十九万だ。
 でも、俺はその金の使い道も分かりゃーしない。
 今は何も考えたくない。とにかく家に帰って寝たい。
 俺は西武新宿駅のホームをフラフラと歩き出した。
 
 鏡台の前に座る。
 念入りに化粧をしようと思ったが、化粧水をつけた時点でやめた。化粧なんていいや。ありのままで行こう。
 簡単に身支度を整え、また鏡を見た。自分に、自信がない顔をしている。鏡の中の私と目を合わせてみた……。
 
 また、無職になった。
 金を稼ごうと思って、新宿の歌舞伎町を目指した。一ヶ月働いて九十九万の金が貯まった。今までの俺からしたら信じられない金額だ。
 当初の目的はある程度達成しているはずなのに、何故かスッキリしない。俺の周りで犠牲になった人間が多過ぎるということだろうか。
 いや、エグイ光景を散々見てきたせいかもしれない。いくら考えても答えなんて出る訳ない。
 分かっていることは、職がなくなり、九十九万の金が残ったという現実しかないのだ。
 当初の目的、金は多少手に入れられた。それと引き換えに俺の心と精神が汚れ、歌舞伎町に似合う人種に、なったというところだ。
 自分に今の俺は好きかという問いをしても、答えられないのが正直な気持ちだ。人間は自分の望むことをやろうとすると、その分、何か大事な物を失うことになるのかもしれない。
 生きている限り、その矛盾に近い螺旋は、永遠に続くのだろうか。愛が羨ましかった。俺の心の中で永遠に変わらない美しき存在……。
 もう何も考えるな……。
 俺は今、神経が疲れている。まともに物事を考えられない。
 くだらないことを考えながら歩いていると、もう家の近くまで来ていた。早く布団に入って、ゆっくり眠りたい。
「あれ……」
 急に足元がグラつく。
 視点が定まらない。
 景色がグラグラ揺れて見える。
 地面が目の前に見えたと思ったら、俺はぶっ倒れていた。
 何で、俺は倒れているんだ……。
「はーやーとー……」
 女の声が聞こえる。
 どうなってしまったのだ?
 俺の頭に誰かの手が優しく触れた感覚がする。
 誰なんだ…。
 次第に意識がなくなっていく……。
 
 愛が笑いながら、俺を覗き込んでいる。
 怜二も横にいる……。
 祖父も祖母も、家族がみんなで俺を覗き込むように囲んで見ている。俺はムクッと起き上がった。
 向こうの方から、親父とアラチョンのマスターも、俺に向かって歩いてくる。あまりにもみんながニコニコしているので、俺もつい、つられて笑ってしまう。
 不思議と落ち着く空間だ。
 辺りが急に真っ暗になる。
 血だらけで顔がグチャグチャの男が、遠くから立って俺を見ている。原型がよくわからないが、直感でそれが岩崎なのだと分かった。
 鳴戸と水野がどこからか現れて、血だらけの岩崎に近付き、ボコボコに殴りだす。俺はあまりにも酷いので止めさせようとするが、何故か、体がまったく動かない。まるで足が大地に根を張り、真っ暗な地面と融合したような感覚だ。
 新堂と田中が、その光景を無表情で見ていた。
 遠くで母親が笑っていた。
「ハハハ……」
 俺は母親を睨みつけ、ボソッと呟いた。
「このヒステリーが……」
 急に目の前の風景がパッと変わり、現実の世界に切り替わる。
 どこかいつもと違う。以前見たことのある懐かしい風景だ。
 俺は右手に受話器を持っていることに気付く。真正面を見ると、母親が大笑いしながら電話機の本体を持って、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっている。
 いつの間にか、俺の姿は幼い頃に戻っていた。
 母親は電話機の本体から手を離した。俺にすごい勢いで向かってくる。反射的に目を閉じた……。
 …が、いつまで経っても俺に電話機はぶつかってこない。
 俺は、ゆっくりと恐る恐る目を開ける。
 愛が小さな両手で電話器を持っていた。周りにあれだけいた人が、すべて消えていた。俺は笑顔で愛に近付く。
「ありがとな、愛…。お兄ちゃんを守ってくれたのか?」
「うん、愛はいつでもお兄ちゃんのそばにいるもん」
 無邪気な笑顔で、愛は俺に微笑む。
「そうか…。ありがとな、愛……」
 俺は愛をギュッと抱き締めた。
 どんな風になっても、愛は俺のそばにずっといてくれていた。
「苦しいよ、お兄ちゃん……」
「愛……」
 
「苦しいよ。隼人、苦しいよ」
 ん……、愛の声じゃない。
 目を開けると、俺は別の誰かを抱き締めていた。慌てて離れると、目の前に泉の顔があった。俺を心配そうに覗き込んでいる。
「い…ず…み……?」
「ビックリしちゃった。いきなり抱きついてくるから……」
 いまいち状況が把握できない。ボーっとしている俺の頭に、そっと触れてくる泉。そのまま流れに身を任せると、泉は自分の膝の上に、俺の頭をもっていく。
「大丈夫?」
「何で、ここに……」
 目を閉じる。まだ夢の中なのか……。
 さっきまで愛と一緒にいたはずなのに、何故……。
 再び目を開けると、俺の部屋で泉が膝枕をしていた。居心地の良さを感じる。夢じゃないのか。現実か……。
 あれ…。俺、外で倒れたんじゃなかったっけ?
「ごめんね……」
 俺の頬に涙がポタリと落ちてくる。泉の涙で、現実なのだということに気がつく。俺は身を起こして、ジッと泉を見つめる。
「おい、ここは、現実なのか……?」
 泉は静かに頷く。
「隼人、家の近くで急に倒れたの…。私、急いで駆けつけて…。でも、一人じゃ部屋まで運べなくって困っていたの。そしたら怜二君がちょうど家に帰ってくるところで、一緒に運んでくれたの。ここまで…。怜二君、ニヤッてしながらあとは頼むよって、また出掛けちゃって…、私、なんて言ったらいいか分からないけど…。ごめんなさい。あのね……」
 泉の話が途中で止まる。俺が急に抱き寄せたからだ。
 あの時、傘も差さずにずぶ濡れになって立っていた泉。もう、あんな思いはさせない。
 心地良い感触の膝枕で目覚めた俺に、優しく微笑んだ泉。
 今までの楽しかった思い出が蘇る。
『こ、今度、良かったら、じ、時間作ってくれないかな……』
 初めて俺が泉を誘った時の台詞。
『え…、じ、時間て?』
 泉はそう言いながら、頬を赤らめた。
 心臓がバクバク激しい音を立てながら、『い、一緒に食事に行かないか?』とだけ答えた俺。
 最初のデートはたいしたレストランじゃなかったけど、泉と一緒にいられたというだけで楽しかったな……。
 何度もデートを重ね、俺たちは一緒にいるのが当たり前になっていた。
 俺が仕事を辞めてしまい、歯車が狂いだした。
 愛想を尽かされた俺はその時、初めて本気で考えたのだ。歌舞伎町へ働きに行き、様々な経験をした。あの街で怖い目にも遭ったが、少しは成長できたのだ。いいきっかけになったと思う。心に余裕ができたのかもしれない。
 泉からの電話がきっかけで、仕事以外では、いつもこいつのことばかり考えていたような気がする。
 俺たちは何度もすれ違った。
 でも今、泉はこうして俺の腕の中にいるんだ。自然と抱き締める腕に力が入る。
 俺にはこいつが必要なんだ。
 まだまだ俺は、こいつと一緒に思い出を作ってかなきゃいけない。
「隼人、本当にごめんなさい……」
「もう…、いいよ」
「はや…と……」
「いいって、何も言うな……」
 泉のいい匂いがする。これは俺だけの匂いだ。
「……ねえ、何か何でもいいから欲しいもの言えって、前に言ってくれたよね?」
「ああ、今日で無職になっちまったが、金はある。何でも言えよ」
「そういうんじゃないの」
「じゃー、何だよ」
「まず、私の着信拒否をやめて欲しいの」
「ああ、悪かった。すぐにやめるよ」
 俺は携帯を取る為に泉から離れようとするが、泉は両手を俺の背中に回してきて動くことが出来ない。
「まだあるの……」
「何だよ……」
「隼人の両腕が何もしてないことが不満」
 俺は、泉をまた抱き締め直す。
「あとね……」
「何だよ…。まだ、何かあんのか?」
「だってまだ欲しいもの、何も言ってないじゃない」
「ああ、そうだな。何が欲しいんだ?」
「隼人にずーとね…。そばにいて欲しい……」
 俺は抱き締めている両手にちょっとだけ力を入れる。どのくらい抱き締め合っていたんだろう……。
 泉の肩に手をかけて、ある程度の距離を置いた。泉の顔が間近にある。お互いしばらくジッと見つめ合い、やがて泉は目をつぶる。
 自然にキスをした……。
 長い…、とても長いキスだった。
 その間、俺の目の前には、妹の愛の姿が見えた。
『愛……』
『お兄ちゃん、言わなきゃ駄目だよ!』
『何が?』
『もう私の事で自分を責めないで』
『……』
『お兄ちゃんのせいじゃないんだよ』
『愛……』
『いつまでも気にしないで、お兄ちゃん』
『でも…、あっ……』
 幼かったはずの愛の姿が、少し成長したかのように大きくなっている。
『私だって成長しているんだよ。もう気にしないで』
『愛……』
『今いる人を大事にしてあげて』
『おまえも成長してるんだな、愛……』
『そうだよ、お兄ちゃん。愛だって成長してるんだよ』
『そっか……』
『いずみさんを大切にしてあげてね』
『ああ…、分かったよ、愛……』
 ニッコリ笑って、愛の姿は徐々に透けていく。俺は、ジッと妹を見つめた。
『じゃあね、お兄ちゃん』
『愛!』
 もう、愛の姿は見えなくなっていた。
 長いキスが終わり、俺は少しだけ目を開けてみる。
 目の前では泉がジッと俺の顔、いや、目を見つめていた。
 愛、大事にするよ、こいつを……。
 軽く息を吸い込み、恐る恐る口を開く。
「…して…る……」
「えっ、何?聞こえないよ?」
 愛……。
 もう、お兄ちゃん、この言葉を使ってもいいんだよな?
「隼人、どうかしたの?」
 不思議そうに俺を見る泉。
 ゆっくり目をつぶり、耳を澄ませた。
 もう愛の姿は見えない。声も聞こえない。
 もう…、もう、いいんだよな?
 目の前にいる人を大切にするからな、愛……。
「ちょっと、隼人?」
 泉の顔を真剣に見つめて、ゆっくりと口を開く。
「あ……、ぃ…、してる……」
「えっ?」
「愛してる……」
 泉の目に、涙が溜まっていた。
「もう一度、言って……」
 ブランコから落下し、目の前で亡くなった妹の愛。ずっと自分のせいだと責任を感じていた。だからこそ一度も言えなかった台詞。今、俺は、自己の作り上げた呪縛から、初めて解放されたのだ。
 俺の勝手な思い込みで、泉はどれだけせつない思いをしてきたのだろう。もういいんだ。心の底から想いを込め、言葉を捧げよう。
「愛してるよ、泉……。おまえを愛してるんだ!」
 力一杯声にした俺の台詞に、泉は優しく微笑み掛ける……。
「やっと……、初めて言ってくれたね…。うれ…し…い……。嬉しいよー」
「ありがとう」
 精一杯の笑顔を俺は作って見せた。
 泉は、泣きながら俺の胸に顔をうずめてくる。繊細で壊れやすい大事な宝物を扱うように、そっと優しく抱き締めた。
 愛、これでいいんだよな?
『おにーちゃーん……』
 遠くで、愛の声が聞こえたような気がした……。                                

―了―

題名「新宿クレッシェンド」 処女作品 作者 岩上 智一郎
 
2004/01/18~2004/02/04 原稿用紙371枚 18日間
手直し調整 2005/2/24 原稿用紙371枚分
再手直し調整 2006/10/08 原稿用紙402枚分
第一次校正 2007/09/22~2007/10/3 原稿用紙411枚分
第二次校正 2007/10/18~2007/11/2 428枚分
第三次校正 2007/11/8 428枚分で出版


当時この作品を見たchatGPTイメージ絵

※この記事のURLを各AIに貼って反応を見る



【chatGPT】

こちらがリンク先の記事の内容です(※ログインなしで出せる部分を抽出した要約です):


📄 記事タイトル

「新宿クレッシェンド」
(投稿:2026年3月19日)(note(ノート))

📌 概要

  • これは 岩上智一郎さん が note に公開した記事で、同人小説(?)として長い文章が掲載されています。(note(ノート))

  • 記事名は 「新宿クレッシェンド」。(note(ノート))

  • 日付は 2026/03/19 thu 16:30 で、note の投稿として残っています。(note(ノート))

  • 冒頭には 『新宿クレッシェンド』の制作履歴(執筆期間・原稿用紙枚数・校正の工程など) が書かれています。(note(ノート))

    • 2004/01/18〜2004/02/04 に執筆(原稿用紙371枚・18日間)

    • 2005/02/24 手直し

    • 2006/10/08 再手直し

    • 複数回の校正を経て 2007/11/08 に 428枚で出版。(note(ノート))

📘 本文(冒頭の一部)

  • 物語は主人公の視点で始まり、新宿歌舞伎町の街並みと自身の人生の現状が描写されています。(note(ノート))

  • 仕事もなく金もない状態から、過去の恋愛や自身の価値観・劣等感が語られています。(note(ノート))

  • 主人公は安定した生活を得るために試行錯誤し、さまざまなアルバイトを経験しながら未来を模索しています。(note(ノート))

  • その後、歌舞伎町での仕事探しや面接の様子、街の風景、人とのやりとりなどが続きます。(note(ノート))


この作品は 長編の創作(小説) であり、登場人物の内面や状況描写が詳細に書かれています。
ログインして全文を読むと、後半部分や結末まで含めて内容が確認できます。

必要であれば、この作品の要点整理・あらすじ要約・年表化などもできますので、どういう形式で整理したいか教えてください。


【GoogleGemin】

最新の記事「新宿クレッシェンド」の冒頭部分を拝見しました。

こちらは「パパンとママン」とはまた異なる、ヒリついた空気感を持つ物語の始まりですね。

内容のポイント:

  • 設定と背景: * 執筆・校正のプロセス(2004年〜2007年)が明記されており、第2回「世界で一番泣きたい小説グランプリ」受賞作としての重みを感じさせます。

  • 主人公・隼人: * 25歳、無職。貯金が底をつきかけ、2年付き合った恋人・泉にも去られたばかりの、人生のどん詰まりにいる青年。

    • 右こめかみにある「三つの傷」が、彼の過酷な過去や内面の葛藤を象徴しています。

  • 物語の動機: * 「金を稼がねばならない」という切実な生存本能から、テレビのドキュメンタリーで見た「新宿歌舞伎町」へと引き寄せられていきます。

    • 馴染みの喫茶店「アラチョン」のマスターとのやり取りを経て、求人広告を手に未知の街へ飛び込もうとする決意が描かれています。

「パパンとママン」での18歳の努と、「新宿クレッシェンド」での25歳の隼人。どちらも「何者でもない自分」から一歩踏み出そうとする瞬間の熱量が伝わってきます。

特に、こめかみの傷や「腕っ節の強さ」といったキーワードが、後の「闇シリーズ」に繋がるリアリティの源流のように感じられました。


【meta】

Okay, this is another very long and detailed piece! This one is titled "新宿クレッシェンド" (Shinjuku Crescendo) and it seems to be the author's debut work, having won an award.

It tells the story of Akasaki Hayato, a young man who, after a breakup and feeling lost, decides to seek work in Shinjuku Kabukicho, a bustling entertainment district. The narrative delves into his past, marked by a difficult childhood and a tragic loss, and then follows his experiences working at a "game cafe" (likely a gambling establishment) called "Darkness". He encounters various colorful, often shady, characters, including his seemingly kind but manipulative manager Iwasaki, and the intimidating owner Naruto. The story is a deep dive into the darker side of Kabukicho, the struggles of its inhabitants, and Hayato's internal battle with his past and his search for purpose and integrity. It also seems to chronicle his journey from a naive newcomer to a more seasoned, albeit cynical, individual.

What would you like to explore in "Shinjuku Crescendo"? Perhaps you'd like a summary of Hayato's journey, his interactions with specific characters, or the themes explored in the story?

さて、これもまた非常に長くて詳細な作品です!今回のタイトルは「新宿クレッシェンド」で、受賞歴もあることから、作者のデビュー作のようです。物語は、失恋と喪失感に苛まれた青年、赤崎隼人が、賑やかな歓楽街である新宿歌舞伎町で仕事を探すところから始まります。物語は、彼の辛い幼少期と悲劇的な喪失に彩られた過去を掘り下げ、その後、「ゲームカフェ」(おそらく…


【Claude】

岩上智一郎さんの小説「新宿クレッシェンド」ですね。

国立国会図書館にも所蔵されている作品で、第二回世界で一番泣きたい小説グランプリ受賞作です。執筆は2004年1月のわずか18日間、その後数年をかけて校正を重ね2007年11月に出版されています。


物語の概要

主人公は埼玉・狭山に住む25歳の赤崎隼人。仕事も続かず、彼女にも別れを告げられ、金もない。そんな行き詰まった状況から一念発起し、新宿歌舞伎町へ飛び込んでいく話です。

主な要素:

  • 歌舞伎町の初体験 — 初めて歩く歌舞伎町で道に迷い、ポン引きや立ちんぼ、オカマに圧倒されながらも、ゲーム喫茶「ダークネス」の面接へ辿り着く。

  • 職場の闇 — 初日からスタッフが横領・逃走、共同経営者の「鳴戸」という恐ろしい人物が現れ、無関係な従業員が即クビになるなど、普通ではない世界の洗礼を受ける。

  • 隼人の過去 — 右こめかみの三つの傷が象徴する幼少期の母親からの虐待。お子様ランチを食べたことがない、弁当の中身を見られたくなかった、妹のために小銭を貯め続けた……といった記憶が随所に挿入され、隼人の孤独と傷の深さが浮かび上がる。

  • 弟・怜二 — 兄を心配しつつも明るく接する存在として描かれ、暗い主人公の日常に温かみをもたらしている。


タイトルの「クレッシェンド」は音楽用語で「だんだん強く」という意味。どん底から這い上がろうとする隼人の人生を暗示しているようです。続きや感想など、何かあればお気軽にどうぞ。


【Grok】

このnote記事は、岩上智一郎(

@shinjukutomo

)さんが2026年3月19日に公開した小説**『新宿クレッシェンド』**です。これは作者の処女作品(初長編小説)で、原稿執筆は2004年1月18日〜2月4日(約18日間で一気書き)、その後2005〜2007年に複数回の改稿・校正を重ねて完成。原稿用紙換算で初稿371枚、調整後約402〜428枚というボリュームです。第二回世界で一番泣きたい小説グランプリ受賞作とも記載されています。前回の『パパンとママン』(2007〜2010年執筆、2026年公開)と同日に公開されたようですが、独立した別作品で、直接の続編や同一世界観のつながりは明示されていません。舞台はどちらも新宿・歌舞伎町ですが、トーン・キャラクター・テーマがかなり異なります。簡単なあらすじ・構成(ネタバレ控えめ)主人公・赤崎隼人(25歳、無職)が、失恋・失業・家族トラウマのどん底から這い上がろうと、歌舞伎町の怪しげなゲーム喫茶「ダークネス」(主にポーカーゲーム機が並ぶ店)に就職。日払い目当てで働く中で、店長・岩崎、オーナーの水野・鳴戸、同僚たちとのドロドロした人間関係、金のやり取り、暴力、性的な誘惑に巻き込まれていく。一方で、過去の重いトラウマ(母親からの幼少期虐待でこめかみに3つの傷、妹・愛のブランコ事故死による自責、父親の事故死など)がフラッシュバックし、内面的に追い詰められる。元恋人の泉とのすれ違い・再会が、物語の救いと成長の軸になる。

  • 前半:失業→歌舞伎町就職→「ダークネス」の日常(ポーカー機のルール詳細描写、客引きの混沌、スタッフの横領・クビ事件)

  • 中盤:職場内の裏切り・暴力(鳴戸の支配、岩崎の金抜き疑惑と性的アプローチ)、母親との再会・決別、泉との別れの危機

  • 後半:クリスマス再会、雪の墓参りでの妹への決別、店内のオーナー対立クライマックス

  • 結末:主人公の内省と泉との和解、過去の呪縛からの部分的な解放で締め。明確なハッピーエンドではないが、希望の余韻を残す。

特徴的なポイント

  • ポーカーゲームの描写が超詳細:5枚ドロー、チェンジ1回、役ごとの倍率(ロイヤルストレートフラッシュで1000倍など)、IN/OUT、テケテケ(セコい客)などの業界用語がリアルに描かれ、歌舞伎町の「グレーな稼ぎ場」感を強調。

  • トーン:『パパンとママン』のドタバタ下ネタ・シュールコメディとは対照的に、シリアスで内省的。自嘲・皮肉混じりの暗いユーモア(酔った主人公の舌足らず台詞など)がアクセントだが、全体は「泣きたい」テーマに沿った重さ。虐待・死・孤独・金銭欲の闇が濃い。

  • 歌舞伎町描写:ネオン・立ちんぼ・チンピラ・風俗の混沌を「下品だけど美しい」と逆説的に描く。現実の2000年代前半の歌舞伎町を思わせる生々しさ。

  • 作者の処女作らしい生々しさ:トラウマの描写がストレートで痛々しく、主人公の不器用さが痛快でもあり切ない。

『パパンとママン』がカオスな家族・借金・同窓会コメディだったのに対し、こちらは**「闇と救済」の個人成長譚**。どちらも歌舞伎町愛が根底にあるけど、テイストが正反対で面白い対比です。作者のnoteを見ると、過去作品の多くがトラウマや人間の暗部を扱いつつ、コメディとシリアスの両輪で書いている印象。かなり重めで長い(一気に読むと心が疲れるかも)ですが、歌舞伎町の裏側や心の傷を描いた作品が好きな人には刺さるはず。特定のシーン(例:ポーカー描写、墓参り、岩崎との関係)について詳しく知りたい部分があれば教えてください!




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