闇 621(潔白の証明編)
闇 621(潔白の証明編)

2026/07/26 sun
※俺は13年間のブランクのリハビリをしているだけなんじゃないかなとまで感じるようになった。
前回の章

二千二十三年十月一日、日曜日先負。
誕生月が終わり、早くも十月。
五十二歳になってから、あまり変化もないまま時間だけが過ぎていく。
まあ二つの元凶であり厄災だった内の一つ、神田を切ったのだ。
あとは河本マンションからの脱出を考えればいいだけ。
しかし何故あいつは俺がここまで避けているのに、追い縋るようしつこく来るのだ?
多少の金を持てるようになったが、周りの人間には誰も気を許せないのか?
昔からの同級生である俺だけが、唯一気を許せた相手?
無視する形ではなく、向かい合ってキチンと話すべきだったのだろうか……。
いやいや、何度も言ったところで神田は聞く耳など持たない。
一度や二度でなく、過去を何度も振り返った挙句の果ての行動だろ。
何とか自分を正当化する理屈を頭の中で並べる。
しかし心に芽生えた罪悪感のようなものを拭いとる事はできなかった。
ん、待てよ……。
そういえばあいつが紹介した西谷泰人。
高円寺へ行った三十分二万五千円の手相占い師の言葉を思い出す。
「ふむふむ…、あなたはこれまで色々な事をしてきたんじゃないですかね? ん、生命線が一度途切れ掛けている。一度大病をしたんじゃないですか?」
大病…、ずっと健康に生きてきた俺にとってコロナワクチン接種翌日に起きた心筋梗塞しかあり得ない。
しかも一週間後に二度目が来て、本当に死に掛けたのだ。
のっけから正直この人凄いなと思う自分がいた。
それでも自分であえて情報は言わず、黙って聞く事に撤する。
「今年の九月で五十一歳…、あなた、五十二歳ぐらいから本当に面白くなりますよ」
「面白く? どういう意味合いでしょうか?」
「方位学も兼ねて言いますと、運気が爆上がりする傾向ですね。本当に長生きもするんですねー」
「長生き? 俺、去年死に掛けたんですよ?」
「でもこうして五体満足元気で、生きてらっしゃるじゃないですか。九十…、九十八歳ぐらいまで長生きしますよ」
「そんな無駄に生きたくはないですけどね」
「本当に色々な事をやられてきたみたいですね。五十二歳ぐらいから、あなた、凄いお金持ちになりますよ。これまでの事を色々な角度から精力的に動き、そうですね…、収入も多方面から入ってきます。六つ…、いや七つぐらいから。あなたが手掛けるのは、五つ…、うん、本当に器用に色々やられるんですね」
「……」
今の俺にとっての収入源はインカジ『レディ』で働いた時間分の給料のみ。
他に副収入で考えられるのが、心筋梗塞で入院した時の高額医療制度での返金ぐらいが関の山。
「多方面ではありますが、一番真剣に頑張ったものが主軸になりそうですね」
六つか七つの多方面からそれぞれ…、しかし主軸は一つ。
小説しか考えられなかった。
全日本プロレス、バーテンダー、総合格闘技、絵画、ピアノ、小説、整体、料理。
これらバラバラの点が何故、繋がったのか?
それは文章を書く事で初めて点と点が線として繋がる実感を知っているからだ。
もちろんこの年齢になった今、戦う事は無理だ。
ピアノだってもう二十年近く弾いていない。
つまり、酒と絵と小説、そして靭帯施術と料理…、この五つが肝になってくるという事か?
そして母体となるベースは小説しかないと……。
「つまり…、また作品を書けと?」
「作家さんでしたか?」
「ええ、随分小説は書いていませんが、過去処女作で文学賞を取り、本にした事はあります」
「うん、あなたの主軸は間違いなくそこなんでしょうね」
「……」
「凄いじゃん、岩ヤン!」
「ちょっとごめん、神田は口出さないで」
三十分しかないのだ。
神田のどうでもいい感想や雑談は必要ない。
それより十年以上執筆をしていない俺が、また小説を書く?
印税も入らず、生活苦に陥り再び裏稼業へ戻った底辺の俺が?
「それと同時期…、うーん、もうちょっとあとかな。素敵な女性と知り合いますよ」
「いやいや、俺はもう五十ですよ? さすがに色恋沙汰はもう……」
一瞬池袋のちかの顔が浮かぶ。
いや、あの子は飲み屋の女に過ぎない。
それにこの先出会うと言っているので、彼女は該当しない。
「そういう普通の色恋ではなく、そうですね、あなたが真に尊敬できるような…、お互いを高め合うような異性と出会うでしょうね」
「やったじゃん、岩ヤン! いい女との出会いあるってさ」
「いや、だから神田、ちょっと黙ってて」
「つまり、これまでのあなたは停滞し命を失い掛けもしました。でも、今年でなく来年辺り…、五十二歳ぐらいから金銭的な芽が多方面から出てきて、五十三歳ぐらいですかね。素晴らしい異性と出会う。そんな結果が出ていますよ。あと長生きも入りますね」
異性…、前回神田が連れてきた渚の顔が浮かぶ。
いや、あの子も違う。
彼女は人妻なのだから。
「あと一年半後ぐらいから面白くなると? その女性って言うのは?」
「そうですね、歳はあなたより少し若くなるのかな? 十歳ぐらいの年齢差で、それでも外見というよりも、心を尊敬するような方ですね」
もう五十二歳になったんだぞ?
何かしらちょっとぐらいの変化が起きてもいいんじゃないのか。
特にこれまで目立った事もないけど……。
そういえば、今日はスプリンターズステークスと凱旋門賞!
何かしら変化のある時期なのかもね。
多方面からの収入有り。
つまり、これは何をやっても金が入ってくると思っていい。
まずはスプリンターズステークスを買い、インカジ『レディ』へ出勤。
一時間もしない内にレースの結果が出る。
スプリンターズステークスは惨敗に終わった。
もっと真剣に予想しないと駄目だろ。
イージーに考え過ぎた。
凱旋門賞がまだ残っている。
13番と14番を軸に8番も絡め、相手はあと12番に14番。

凱旋門賞はこの組み合わせで来てください、お願いします。
仕事を終え、結果を楽しみに待つ。
疲れていたのか、俺はそのまま寝てしまった。
二千二十三年十月二日、月曜日仏滅。
夜中に目を覚まし、慌てて凱旋門賞のレース結果を確認する。
手相占いが正しければ、俺はきっと当たっているはず……。
あの占いで、俺は五十二歳になってから金がバカバカ入ってくると言われたのに競馬をしたら、三レース共外れ。
オマケに宝くじも駄目だった。
本当にいい方向の変化なんてあるのかよ……。
まあそんな人生など都合よく行く訳がないんだよね。
またこうしていつもの日常が始まる。
二千二十三年十月四日、水曜日赤口。
フェイスブックで松永さんと飲んだ三年前の過去の思い出が表示される。
今はもう灰になってしまったあの人。
この時は元気だったんだけどなあ。
いつだって誘いは櫻井さんから始まった。
「あ、智一郎。松永さんから連絡あって、連繋寺のライフで飲んでるって。一緒に来る?」
「ハンサム松永さんですか。行きましょう」
ヤスの店を出て経つ門前通りへ向かう。
元カフェアンジー跡地キッチンライフ店内で、松永さんが一人で酒を飲んでいる姿が見える。
「おう、サク。遅いじゃねえかよ。お、智一郎も一緒か」
「松永さん……」
「ん、何だよ?」
「入学金は用意できたんですか?」
「テメー! また抜かすか?」
「あれ、松永さん、赤ワインなんて洒落たもん飲んでいるじゃないですか」
「テメー、俺がワイン飲んじゃいけねえって言うのかよ!」
「別にそんな事言ってないじゃないんですか。俺もワイン付き合いますよ」
櫻井さん、松永さんとライフでしっぽりと飲む。
サーロインステーキがあったので、ライスコロッケ同様色々頼んでみる。
「そうそう、智一郎。この店って面白いもんが飾ってあるんだよ」
「面白いもの?」
俺は額縁に入ったA4サイズの写真を見て吹き出す。

松永さんの顔の下は、白いTシャツを持ち上げて人差し指と薬指の二本で乳首を隠すくだらないもの。
明らかに合成写真だと分かる。
「あー! テメー、サク! またどうでもいいもん智一郎に見せやがって」
「これ作ったの、どうせ始さんですよね?」
和菓子屋の伊勢屋始さんと、松永さんは同級生。
櫻井さんはその一つ下の後輩になる。
俺より六つも七つも年を食っているのに、本当何をやってんだか……。
悪ノリして店に飾ってある松永さんの写真を撮ってみる。
考えてみれば、このライフもこの写真を常備置いてあるなんて、かなりヤバい店だぞ?
酒の入った松永さんは落ち着きがなくなり、狭い店内をウロウロしながら店のオーナーに話し掛けていた。
「もう俺は明日早いから先に帰るからな!」
俺たちを置いて連繋寺前の中央通りを信号無視で渡ろうとする松永さんの写真を激写。
その瞬間、青に変わる信号。
この人は変なところで運がいい。
「……」
運なんて、まるで良くなかったじゃねえか。
還暦前に癌で亡くなっちまうなんて……。
松永さんの遺品であるジッポをポケットから取り出す。
ベランダへ出るとセブンスターに火をつけ、ゆっくり煙を吐き出した。
二千二十三年十月五日、木曜日先勝。
九月だけで松永さんにビストロ岡田のマスターの訃報。
いづみ食堂、とんかつ早川、ビストロ岡田。
大好きだった三つ並んだお店も、今じゃ一つもなくなってしまった。
時代とはこういうものなのか。
年齢がある程度行くと、必然的なのか。
子供の頃は全然気にならなかった事が、今では大きく色々なものが圧し掛かってくる。
こんな人生になるなら、何故あの心筋梗塞でくたばらなかったんだろう。
二千二十三年十月七日、土曜日先負。
仕事を終え、串市場んへ飲みに寄った。
閉店間際なので、客は俺一人だけ。
あまり長居しては失礼だな。
マスターへ一杯ご馳走しつつ酒を飲んでいると、少し年配の夫婦が一組入ってきた。
大久保駅近くにあった焼肉でめ金が潰れ、この夫婦が跡地で焼肉屋を始めたらしい。
マスターにこの辺の事を色々聞いている。
オープンしたばかりで客入りがいまいちよく無いようだ。
自分にも話を振られたので、親身になって受け答えをする。
悪い人たちではなさそう。
明日は休みだし、早速顔を出してみようかな。
いきなり行ったら驚くか、少しは喜んでくれるだろうか。
俺は先にチェックを済ませると、河本マンションへ帰りすぐ眠った。
二千二十三年十月八日、日曜日仏滅、寒露。
でめ金跡地で始まった焼肉屋。
看板を見ると『ホルモン焼肉縁』と確かに変わっている。
昨日の夜、串市場んで顔を合わせたばかりだから、すぐに気付くだろうと入って注文をした。
しかし俺の顔を見ても、まるで反応の無い夫婦。
つまみを食べながら酒を飲み、肉を焼く。

酒三杯に焼肉四皿、小料理四つ頼み、一人で侘しい食事。

これだけ注文の度、顔を見ているのに、昨日の夜会った客だと気付かないのか?

会計六千円ちょっと。
焼肉の縁とは皮肉もいいところ。
どうやらこの店とは店名と違い、縁がなかったようだ。

下手に自分から繋がりを作ったところで面倒なだけ。
一体俺はこの店へ何を求めたのだろう?
虚しくなり、何もする事のない状況の中、一旦河本マンションへ戻る。
寝転がりながら時間を潰していると、渚から電話が入った。
今日八王子の店に入るから、良かったら来ないかというもの。
一人だけの時間を過ごし、人恋しさもあった。
冷凍庫に作り置きの料理のストックも増えたし、彼女へついでに持っていってやるか。
昼過ぎになって八王子のベトナム料理ビーベドへ向かう。
行くのは二度目なので、今回はスムーズに行ける。
色々いい加減な部分の多い渚であるが、一緒に居て話をしていると、楽しい気分になれる事だけは事実。
彼女は俺が持ってきた料理に感動し、ビーベドのママと取り合っていた。
自分の作ったものをこうして目の前で喜ばれるのは嬉しいものだ。
実家にいた時では考えられない光景。
叔母のピーちゃんは、意地でも手を付けようとさえしなかった。
冷蔵庫へ入れておいても、永遠に放置され、白カビが生えてもそのまま。
以前弟だった貴彦が、以前俺が作った大根おろしを使ったみぞれ風焼肉を食べた時の事を思い出す。
まだ俺が二十代後半の頃。
「ピーちゃん! 今日の焼肉今までで一番旨いよ!」
「おい、ター。それ作ったの俺だぞ?」
俺の言葉を聞き、苦虫を潰すような表情になる貴彦。
「どうりですげえ不味いと思った」
無言で足を蹴飛ばし二階へ上がる。
人のものを食っといて、何だあの偉そうな言い方は。
当時お袋と親父を離婚させる為に、社会人になって独断で決めて動いた結果、それが引き金となり、俺は家族から孤立していた。
母親がそんなに恋しかったのかとなじる親父。
白い目で俺を見る家族。
「おまえのお母さんは、他の男の人と一緒に住んでも、家の財産目当てでお兄さんと離婚しないんだよ」
幼少期ピーちゃんが何度も言われたこの台詞。
これがきっかけで、自然と考えるようになっただけなのに。
そういえば何故俺は、あんな行動をしたのだろう?
進学する道を諦めたのは何故?
大学に関しては、親父のこれまでの行動がすべてだった。
西武台高校の学費も、おじいちゃんが全部出した。
おそらく進学すれば同じように出してくれただろう。
ネグレストで近所で酒を振る舞い遊んでいただけの親父。
決まって周りにはこう言いふらしていた。
「コイツは頭がいいんだ。だから六大学に行かせる」
内心自分じゃ金を一円も出さず、またおじいちゃんに出させるくせによく言うよと呆れていた俺。
対極にあった頭が悪いイメージの自衛隊を選んだのも、親父が恥と思うような行動をしようというのもある。
それといち早く社会人になるには、自衛官が一番早く決まる時期でもあった。
独り立ちした社会人になる。
そこで初めて母親のいる囲炉裏端の飲み屋『鬼』へ行き、親父との離婚話をできるのではないか。
いつからか学生時代から、それをまず考える自分がいたのだ。
当時二階堂さんと一緒に住み、共に経営していたお袋。
俺は十数年ぶりの再会を緊張しつつ、深呼吸して『鬼』へ入る。
「お久しぶりです。智一郎です」
事実上血の繋がった親子。
だが育ての親ではない。
俺ら三兄弟を捨てた母親。
だからこそ他人という意味合いもあり、礼儀正しく敬語で話し掛けた。
まさか彼女も、自分が捨てた長男が突然訪ねてくるとは思わなかったのだろう。
「智ちゃん…、すっかり大きく…、礼儀正しくなっちゃって……」
目に涙を溜めながら近寄ってくるお袋。
もう幼き頃虐待によってつけられた左瞼の二本の傷が疼く事はなかった。
他人と思うからこその敬語なのになあ。
勝手に勘違いして泣くなんて、何て馬鹿な人なんだろう。
生みの親に対し酷く滑稽な気持ちを抱いたが、あえて口にする事はしない。
何故ならこれから親父とこの人を離婚させるようだから。
ずっとこの事をしないといけない義務感のようなものに駆られていた。
自分でもどうしてかは分からない。
ピーちゃんの財産目当てという言葉がキーワードになり、心を苦しめていたのだけは事実。
「俺が八歳の時、母さんが出ていって、十年が経ちました。七年以上の期間が空けば、双方の承諾でなく一方の承諾で離婚は成立すると聞きました。うちの親父は相変わらずです。女遊びも酷いまま変わりません。母さん…、こうして別の男性と一緒に住んでいるのなら、岩上家との籍を抜いたほうがお互いの為になりませんか?」
いつからだろう。
この言葉だけをどれだけ頭の中で整理して反芻してきたか覚えていないほど。
それを初めて口にした瞬間。
ワインの澱のようなものが、ゆっくり崩れ液体に馴染んでいくような錯覚を受ける。
「そうよね…。ごめんね、智ちゃんにこんな事を言わせちゃって。分かった。それはこちらでちゃんとしときます」
十年ぶりの母親とのファーストコンタクトは、こんな形で終わった。
目の前に料理が置かれる。
「岩ヤン、お待たせ―。ママがさ、岩ヤンの作った料理をどれにしようか虎視眈々と狙ってんの。私がもらったやつなのにさー」

渚の運んできたベトナム料理。
過去を思い出し殺伐としていたので、冷え切った心を溶かすような彼女の笑顔。
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