闇 489(川越アルペジオ編)
闇 489(川越アルペジオ編)

2026/02/19 thu
前回の章
二千二十年三月二十一日、土曜日仏滅。
家から徒歩四十秒のカントリーファームキッチン。
近所でこういうブッフェ系の店があるのはとても助かる。

今日はある意味夕方になると憂鬱だ。
ただでさえ無駄遣いしてはいけないのに、優香との食事。
安っぽい店へ連れて行く訳にもいかないし、問題はそのあとだ。
あいつのガールズバーって、結構エグい料金を取るからなあ……。
顔もそんな好みじゃないし、酔って口説いたのって責任や義務が生じるのか?
どうせ食事へ行くならあの新人のエリカのほうがいい。
だがそんな真似、今さら通らないよな……。
あんな高い店へ飲みに行くなら、まだちかの店のほうがいいような気がする。
いやいや、あっちはキャバクラだぞ?
さらに尋常じゃない金額が掛かるだろう。
一日五千円の保障しかない中で、節約しなきゃ駄目なのに意思が弱いな俺って。
「智一郎さん、よしろかったらどうぞ」
カントリーファームキッチンの女の子が、二階席までスイーツを持ってきてくれた。
気の利く店だ。

元ポケットマネーだった場所を土地ごと買い取った彼女の両親。
その息子と娘の兄妹で、この店を回している。
「親切にありがとう。君、何歳だっけ?」
「二十一歳です」
おいおいセニョリータ、俺は男だから甘いものは食べないんだぜと言いたかったが、こんな家から近い場所で馬鹿だと思われたくないので心の中で呟く。
この子と先日会ったエリカが同じ年か。
片や真面目に働き、もう一人は飲み屋の女。
「本当に偉いよね。お父さんたちの手伝いを兄妹でしているんでしょ?」
「いえ、父と母はもっと南大塚よりのほうですが、八百屋を営んでいてこの店は私たち兄妹にと用意してくれたんです」
普通の家庭って、本来こうして家族一丸になってまとまっているんだよな。
だから近所の知り合いも、俺の世代はスムーズに交代して家業を継いでいる。
ヤスのところは特殊だが、カガヤカフェの場所はお袋さんの化粧品内のスペースを空けて家賃タダ。
俺など誰からも相手にされないから、家業は家業でも裏稼業。
そこさえ現在休業中。
「どちらにしてもこうやって毎日真面目に働いて、本当に素晴らしい事だと思うよ」
「ありがとうございます」
今日の優香との食事を最後に、節約モードに入らないとな。
四十八歳になってまで、いつまでも馬鹿をやっていられない。
部屋で大人しくゲームをして過ごす。
こういう時、セブンスターの値上げが今になってボディーブローのようにじわりじわり効いてくる。
優香との約束は六時から。
風呂入って、そろそろ支度をするか。
部屋を出て目の前のトレーニング室に放置されたベンチプレス。
昔あれほどシャカリキに励んだのに、もう何年そのままだろうか。
身体の鍛錬をいつの間にか辞め、老いを感じる俺。
三月なのにまだ肌寒い。
熱い湯に浸かりながら幸せを感じた。
親父が小包を持ってくる。
宛名を見ると、九州のひろみからだった。

前回の横浜のお礼の手紙と、海外旅行へ行った時にセブンスターが安く売っていたからと二カートン。
そしてグレーのポロシャツが入っていた。
しつこい女であるが、感謝を返したい気持ちが強かったのだろう。
とりあえずタバコに関しては本当に有難い。
さすがにお礼ぐらいは伝えておかないとな。
部屋に戻るとちかからのLINEの他に、着信履歴がある。
ひょっとしてラッキーハウスが再開する連絡か?
「……」
着信は山下哲也からだった。
平穏無事に慎ましく暮らしている俺にとって、コロナウイルスのような存在の男。
不吉なものを感じたので放っておく。
そろそろ優香と待ち合わせの時間だ。
スーツに着替え、コートを羽織る。
ストールを首に巻き、玄関へ向かった。
セブンスターに火をつけようとした時に電話が鳴ったので出る。
優香からだろう。
「あ、岩上さんすか? 今自分本川越駅なんすけど」
「何でテメーまた来たんだよ!」
「ふざけんな! おまえが来ると散財するから嫌なんだよ。帰れ」
「冷たいすよー。せっかく川越来たんですよ」
「俺は約束もしてないし、呼んでもねえよ!」
一昨日の十万以上の散財を後悔しているのに、その元凶がまた来るなんて冗談じゃない。
まあ確かに最後のガールズバーだけは、俺一人でフラフラ行ってしまったのがいけないが、山下が来なければあんな事にはなっていない。
まだ何かを言っていたが、もう彼女と待ち合わせ場所へ着くので構わず電話を切った。
優香の店の前で彼女と落ち合い、何を食べたいか聞く。
「お寿司とかさっぱり系がいいかも」
「寿司か…、あ、すぐそこに俺の先輩がやっている美味い寿司屋があるんだよ。そこにするか」
江戸銀のマーさんのところでもいいし、寿司割烹栄のヨシさんところでもいい。
まずはこの道を少し行った先にある江戸銀にするか。
「岩上君ごめんよ。今日さ、予約でいっぱいなんだよ」
「いえいえ、こちらこそ飛び込みで失礼しました」
タイミングが悪いな。
栄にするか。
再び来た道を戻り歩いていると、背後から「こんばんわー」と声を掛けられる。
振り向くとエリカがいた。
「あれ? 何でおまえがここに?」
「これからお店出勤なんですよー」
好みのタイプであるエリカ。
どうせならコイツも誘っちゃうか?
「これから優香と寿司屋行くんだけど、おまえも一緒に来るか? いいだろ、優香。エリカが一緒でも」
「うーん、まあいいけど」
「え、私もご一緒していいんですか?」
どうせ食事のあと優香はしっかり同伴料を取るのだ。
飲むのをワンタイムにして、さっさと切り上げればいい。
山下から最後着信が入る。
俺は無視して五十メートル先にある栄に女二人従えて闊歩した。
中央通りへ差し掛かり、横断歩道を渡れば店。
車の通りが無くなるのを待ってから進むと、横から声を掛けられる。
「岩上さん! 冷たいすよー」
「山下! 何でおまえがここに?」
考えてみればこの馬鹿は川越へ過去二回来ている。
勝手に来てあてが外れ、途方に暮れながら唯一覚えている本川越駅から真っ直ぐ伸びる中央通りを歩いてきたと……。
「俺を無視しといて女二人連れで自分だけズルいすよ!」
「おい、山下……」
「岩上さん、こちらは?」
優香とエリカが不思議そうな表情で山ゴネスを見ている。
「あ、山下と言います。自分、岩上さんの後輩です」
「はじめまして優香と申します」
「岩上さん、酷いんすよ! 今日も……」
「おい、山下。何を言ってんだよ。おまえが来る事を想定して女性二人用意したんじゃないか」
かなり強引だったが、こうなったら変な事を言われる前に巻き込むしかない。
俺は三人を従えて、目の前の寿司割烹栄に入った。
つけ場へ立つヨシさん兄弟が俺の顔を見て笑顔になる。
「お、智一郎いらっしゃい。あれ、今日は随分と大人数だねえ」
「すみません、急に押し寄せちゃって」
俺はカウンターの中央に座り、左を優香、そしてエリカ、右横に山下を座らせた。
各自飲み物を注文すると、俺は先に注文を言う。
「ヨシさん、俺はいつものであとの三人は特上一人前を……」
「あ、自分握りよりも刺身の盛り合わせすか? 貝とか多めで。あとお新香も下さい」
「……」
このクソガキ……。
寿司割烹と書いてある超高級店で、何を勝手にベラベラ頼んでいるんだ?
二万円ぐらいで抑えようとした計画が、いきなり台無しだ。
「智一郎はいつものマグロの赤身がいいんだよな?」
「は、はい……。あ、ヨシさん、あと茄子味噌も下さい、人数分」
「あ、岩上さん。自分天ぷらのほうがいいす」
また余計な事を……。

こういうの天中殺っていうのか?
優香と江戸銀行って満席で断られ、途中でエリカに会って、栄の前でバッタリ山下と遭遇するなんて、何とおぞましい偶然の一致なんだ。
嫌なシンクロニシティである。
俺が甘かった。
素直に山下など追い返せばよかったのである。
しかしそれだと女性陣に何て思われるか。
「え、美味しい!」
栄の寿司を食べて感動の声を上げるエリカ。
唯一の光はこの子だけ。
ああ、エリカと二人きりだったら、どんなに楽しかった事か……。

山下は目の前にあるお新香や刺身にはほとんど手をつけず、ヨシさんへ能書きばかりこいて酒をお代わりしていた。

最後に天ぷらが揚がると、山下は一つだけ食べて「すいません。自分、実はお腹一杯なんで、これ持ち帰りにできないすかね?」と言い出す。
「おまえ、この馬鹿! 何失礼な事を抜かしてんだよ」
「いいよいいよ、智一郎。容器もあるから大丈夫だよ」
和食の店での異物混入。
まるで分散和音だ。
これって確か、音楽用語でアルペジオっていうんじゃなかったっけ?
山ゴネスのフライング注文により、栄の会計は四万八千円。
本当に余計な注文ばかりしやがって、馬鹿山下が。
店を出るとまだ優香が少し時間があるというので、篠崎の働く本川越駅前の大漁丸へ向かった。
俺の同級生と知った山下は、またお得意のどうでもいい語りが始まる。
「あ、よかったらこれ、高級割烹の天ぷらなんで、あとで食べて下さいよ」
篠崎へ栄寿司の残った天ぷらを渡す姿を見て、思わず後頭部を強く叩く。
よし、決めた。
寿司と居酒屋は俺が払うのだ。
ガールズバーの料金は、この馬鹿に払わせよう。
毒を食らわば皿まで。
コイツだけいつもご馳走になるだけなんて、俺が月に代わってお仕置きしてやる。
大漁丸を出ると同伴でガールズバーへ。
山下へこっそり「ここはおまえが払えよな?」と耳打ちする。
「え、そんな持ってないすよ」
「知らねえよ。何で俺が六万ぐらい払っておまえが無傷なんだよ。ここぐらいいいから払え」
慎ましく生活してきたのを侵食してきたのは、この男なのだ。
四十七歳にもなっていつまでもちゃっかりご馳走になるなんて、俺が許さない。
斉藤さん…、何でこんな馬鹿を俺に残して先へ逝ってしまったんだよ……。
オーナーである酒井さんの提案だったとはいえ、ジョーカーの無くなった無職の山下など、ラッキーハウスへ入れるべきではなかったのだ。
斉藤弘一も、よくこんな馬鹿と一緒に何年も働けたものである。
「山下、グラスを持て」
「な、何すか、急に」
「斉藤弘一に献杯」
「急にどうしたんすか?」
今は亡き盟友斉藤弘一への献杯。
これだけ時間が経っても、やっぱ淋しいよ、斉藤さん……。
安いウイスキーを何杯も飲む。
ガールズバーをワンタイムで出たのに請求額は二万八千円。
渋々金を出した山下はずっとブツブツ愚痴をこぼしていた。
「寿司屋も居酒屋もご馳走してんのに、一時間であの金額なくないすか?」
「知らねえよ。同伴料でも乗せられたんだろ」
確かに山下の言うように優香の提示した料金はエグい。
前回彼女の為に絵を描き、また関わってしまったが、もうそろそろ潮時だ。
エリカと接近できないのは少し残念だが、やはり飲み屋の女とは関わってはいけない。
駅まで送る途中、文句が止まらない山下。
さすがに悪い事をしたと思い、リバティへ寄り酒をご馳走する。

ここで何軒目になるんだっけ?
今日は少し酔っているようだ。
明日の競馬で今日の散財を取り戻さないとな。
二千二十年三月二十二日、日曜日大安。
用心はしていたが予想以上の散財。
本当に山下の奴には参ってしまう。
珍しく優香の店の会計を払わせたが、俺が七万近くの金を使った事には変わりない。
さて、新宿で働いているよりも無駄な金を使ってしまった道は一つだけ。
全レースをじっくり吟味して、中山の最終レースのみ研究し、金を取り戻そうじゃないか。
かつて四歳以上二勝クラスのレースを真剣にここまで予想した事など無いほど集中し、俺は金を賭けた。
果報は寝て待て。
ゲームをしながら睡魔に引きずり込まれる。
久しぶりの斉藤弘一の夢を見た。
彼は何も話さないが、俺を見る目は優しい。
しきりに何かを伝えようとする俺。
しかし辺り一帯は無音に包まれ、俺の声は届かない。
斉藤が俺の肩をポンポンと二回叩き、去っていく。
追い駆けようとしたところで目を覚ました。
変な夢を見たもんだ……。
一体彼は俺に何を伝えたかったのだろう?
あ、競馬終わってるじゃん。
結果を確認する。
え、またクビ差で、一着二着四着?
ギャンブル収支表へ賭け額を記入する。

負け額四十万超え……。
ヤバいだろ、俺?
一体どこまで馬鹿なんだ?
フェイスブックの投稿に対し、横浜時代の同僚の平田が『GⅠ、GⅡ以外もやってんじゃん』と突っ込みが入っていた。
うん、彼の言う通り。
やはり人間日々慎ましく生きなければいけないのだ。
二千二十年三月二十三日、月曜日赤口。
しばらくアルコールは禁止。
ギャンブルも禁止。
食事はしないと生きていけないからね。

この日はカントリーファームキッチンへ行くと、大好物であるハンバーグやミートソースがあったので胃袋が悲鳴をあげるほど詰め込んだ。
二千二十年三月二十四日、火曜日先負。
以前寄って密かに気に入っていたクレアモールの小江戸亭にて、茄子味噌定食を食べる。

先日はマグロ、昨日がハンバーグだから、今日こそ念願の茄子を。
あー、岩上整体の隣りにあった王賛の茄子の辛み炒めがまた食べたいよー。
当時レシピは伝授されているから自分でも作れるが、川越に帰ってからまるで料理する習慣がなくなった俺。
本当に金ある時に、自分の好きな料理を出す飲食店でもやっていればなあ……。
キリギリスはいつまで経ってもキリギリスでしかない。
二千二十年三月二十五日、水曜日仏滅。
この日はひたすら横になりながらダラダラとゲームをして過ごす。
夕方になり何も食べていなかったので、どこへ食べに行こうか迷っていると山下から電話が入る。
「岩上さん、花小金井来ませんか?」
「はあ? 何でこのコロナの中、俺がわざわざそんなことろ行かなきゃいけないんだよ」
「駅前でいい店見つけたんすよ」
「おまえのいい店は当てにならないからいいよ」
「そんな酷い事言わないで下さいよー。いつもご馳走になってるから、今日は俺が奢ろうと思ったんですって」
「……」
「川越からなら急行でも何でも来れるじゃないすか」
「小江戸号なら通過するよ、あんな駅」
「まあとりあえず来て下さいよ。待ってますからね」
人の事を言えないが、あいつは友達がいないのか?
あくまでもラッキーハウスが始まるまで待機だという期間に……。
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