初心者でもわかる『レベル(段階)』人間の内的発達を示す地図~成長・発達のモデルについて~
先日は「初心者でもわかる『レベル(段階)』人間の内的発達を示す地図~人の成長・発達とは?~」ということで、そもそも「人の成長とは?」「発達とは?」という話をしました。
今回は前回の話の続きで、「意識構造の発達段階」について解説していきます。
それでは、各段階について一つひとつ見ていきましょう!

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
段階0:衝動的(本能的)段階 / ベージュ(インフラレッド)

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
人間は、生まれたときには何もかもが自分ではできません。
歩くことも、食べることも、排せつすることも、危険から身を守ることも難しいです。
「お腹が空いた」「寒い」「暑い」「寂しい」などの不快感に対して、自分で状況を変える方法がわからず、不安や恐怖に包まれるだけです。
人の意識構造の発達は、こうした「どうにもできない状態」から抜け出し、自分の人生を少しずつコントロールできるようになる過程をたどります。
しかし、この段階では、この世界がどのような法則で成り立っているのかを理解することはできません。その意味で、この時期、自分は非常に無力な存在として感じられます。
また、理解できないのは外の世界だけではありません。自分自身の体の感覚(例えば、お腹が空いた、トイレに行きたいなど)や感情(例えば、イライラする、寂しいなど)もまた、「不思議」なものとして、コントロールできないものとして経験されます。
こうした感覚や感情は、突然湧き上がり、自分を困らせるものとして感じられるのです。
この段階では、外の環境(暑さや危険など)や内側の感覚(欲求や感情など)の影響を受けやすく、脆い状態にあります。
このように、自分の感覚や欲求に従って行動する初期の段階を「衝動的(本能的)段階」と呼びます。
段階1:呪術型段階 / パープル(マジェンダ)

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
その後、人間は、身体の感覚や衝動から徐々に「心」を区別するようになり、「心」が少しずつ芽生え始めます。
ただ、この段階では、まだ自分の「心」と外の世界が区別できていない部分を残していて、世界の客観的な仕組みや法則を理解することはできません。
そのため、主観的な経験だけをもとにして世界観をつくりあげます。
たとえば、小さな子どもが「ある呪文を唱えると願いが叶う」と信じているとします。実際には偶然そうなっただけなのですが、子どもはその時の出来事を「法則」として信じています。
すなわち、この段階では、私の主観的な体験がそのまま法則化されているのです。
「私が歩くと夜空の月も一緒に動く」と考える子どもの例もありますが、これも、自分の視野に映ったことをそのまま「法則」として受け止めてしまう事例の一つです。
こうした信念は、後に「迷信」として認識され、忘れられていきますが、この段階では非常に強い影響力を持ち、その人の行動に大きな影響を与えます。
こうした行動の特質から、この発達段階を「呪術型段階」と呼びます。
段階2:利己的段階 / レッド

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
自己の力を自覚し、世界に働きかける
呪術的段階においては、人間は世界のさまざまな要因に対して基本的に無力でした。しかし、心と体の発達とともに、徐々に生理的な衝動をコントロールし、それを目的達成のために活かせるようになります。
呪術的段階において、人間は生理的な衝動に振り回されていましたが、この段階では、「どうすれば生理的な衝動を満たせるか」を考え、意識的に行動できるようになります。
つまり、自分の持つ能力(俊敏さや力強さなど)を活かし、積極的に世界に働きかけられるようになるのです。
進化の歴史において、人類は長い間、自然の脅威に怯えていました。
しかし、自身の肉体的・精神的な強さに気づくと、それらを活かして立ち向かうようになります。
そうすることで、自身の存在場所を勝ち取ることができるようになるのです。そして、恐怖を乗り越えることで、次第に自信を持つようになります。
この段階では、これまで意識していなかった自分の能力を自覚するようになります。「足があるから速く走れる」「手があるから物をつかめる」「鋭い視覚と聴覚で獲物を見つけられる」など、自分の可能性を理解します。
そして、そうした能力を駆使して、欲しいものを手に入れる喜びを体感します。
つまり、この発達段階では、自分の能力を活かし、生理的な衝動や欲求を満たすことが重要になります。この特徴から、「利己的段階」と呼ばれます。
快楽を求める本能と社会との衝突
精神的な面では、言語の習得をとおして、自分の中に生じる感覚や衝動、欲求に名前を付け、生理的現象を意識的にコントロールする力を身につけます。
たとえば小学校に進学すると、子どもは授業中、長時間椅子に座るという「苦行」をしいられますが、その過程で「教室を飛び出して遊びたい」という衝動を抑え、授業に集中する力を養うことになります。これもまた、自己統御の能力が発揮されている一例です。
ただし、「利己的段階」では、自己統御ができるようになっても、生理的な衝動や欲求に大きく影響されます。そのため、「快楽を求め、不快を避ける」という法則が意識の中心になります。
例えば、授業中に教室を抜け出そうとすれば、先生に叱られるかもしれません。そうすると、居残り勉強や掃除などの「不快」を経験することになります。それを避けるために損得を勘定して「ここはおとなしくしていよう」と判断するのです。
その意味では、この段階では、個人は目の前に立ちはだかる外的な規則や権威や監視と恒常的な衝突状態にあるということができます。
現代社会でも、この発達段階の特徴を持つ人々の中には、しばしば非合法な活動に関わる者もいます。衝動に囚われて暴走してしまうために、更生施設に収監されていることもあります。
しかし、彼らは同時に自分の肉体的・精神的な強さを誇りとして、それを鍛えながら生きているため、驚異的な生命力を発揮することもあります。
ある意味で彼らは、恒常的に、周囲の社会との衝突状態・闘争状態にあるため、しばしば「一匹狼」として強靭な生き方をする覚悟と活力を有しているのです。
他にも先進国では、非合法な活動だけでなく、自らの精神的・肉体的な強さを証明することに価値を見出す人々の間にも、この段階の特性が見られます。例えば、極限状況に挑む冒険家や武術家がそうです。
加えて、紛争や天災などの混乱した状況では、この発達段階の「生き延びる力」が不可欠になります。また、治安の安定した豊かな社会においても、自然災害や遭難、危険な状況に直面したとき、この力が発揮されることが重要です。
その意味で、この発達段階で培われる「生命力」は、その後の人生でも、生命体としての基本的な活力の源泉として私たちを支えてくれるものです。
段階3:神話的合理性段階(順応型段階) / ブルー(アンバー)

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
自己の強さと限界を知り、自分の存在を超えたものを信奉する
「利己的段階」価値観に基づく世界とは、個人の肉体的・精神的な能力の優劣がものをいう「弱肉強食」の世界です。そうした世界に生きることは、ほとんどの人にとって試練の連続となります。
また、たとえ他者を圧倒するような卓越した能力を持つ人でも挫折や衰えを経験します。どんな「強者」も、「弱者」と同じように、老・病・死を避けることはできないのです。
しかし、自分の脆弱さや限界を知ることは、精神の成長につながります。
誰でも子どもの頃は、自分の能力を過信し、物語の主人公のように世界を救う自分を夢想します。しかし、成長の過程で現実の壁に直面し、全能感は次第に薄れていきます。この幻滅を経験することで、人は自分への過信や執着を手放し、外に視点が向くようになります。
そして、自分だけでは乗り越えられないという限界を認識すると、「自分の存在を超えたもの」に目を向けるようになります。それは、カリスマ的な指導者かもしれませんし、「神」や「仏」といった超越的な存在、あるいは宇宙の法則や原理かもしれません。
自己の脆弱さ・矮小さを克服するために、そうした偉大なる存在が信仰・信奉されるようになるのです。
また、こうした価値や思想は、それまで慢性的な競合状態にあった人々をつなぐ役割も果たします。
共通の信仰や思想を持つことで、かつて競い合っていた人々が互いに同胞として認め合うことができるようになるのです。
このような人間関係ができあがると、共通の思想や信条、価値観を次世代に継承していくための、持続的な共同作業が営まれるようになります。
世代を超えて続く教義や思想のもとで、人々は共同体に「帰依」し、「所属」し、「奉仕」することを通じて、永続的な生命の意味を見出そうとします。(ウィルバーは、この人間の衝動を、人類学者アーネスト・ベッカーの概念を参考にしながら“アートマン・プロジェクト”と呼びました。)
こうした他者に与えられた期待や規範や規則に従って自らの思考や行動を律する段階を、「順応型段階」といいます。
持続的に自己を磨き、他者と共生・共同できる力を育む
順応型段階の感性は、私たちの日常的な価値観や世界観を通じて育まれていきます。
例えば、スポーツ選手の活躍は、自身を鍛錬して、懸命に努力することの素晴らしさを教えてくれます。また、彼らは、ひとりで目立つのではなく、時には自分を犠牲にして仲間を盛り立てることの美しさを教えてくれます。
こうした姿に感動した子どもたちはスポーツに関心を持ち、継続的に鍛錬することの価値を理解するようになります。思うように成長できず苦しい時でも、努力を続けることの大切さ、仲間と励まし合うことの素晴らしさを学びます。
クラブ活動などで規則を守り、仲間と協力することも、順応型段階に必要な精神的成長を促します。
集団の規範に従い、自分の欲求(例:目立ちたい気持ち)を抑え、仲間と共に成果を築く経験を通じて、個人の成長だけでは得られない価値に気づくのです。
これは、囲碁や将棋、武道などの個人競技にも当てはまります。「好きなように練習したい」「飽きたからやめたい」といった衝動を乗り越え、一定の「型」に従いながら鍛錬を続ける経験は、人間が持続的に自己を磨き、他者と共生・共同できる力を育むために重要な条件といえます。
仲間と価値観を共有し、共に活動することは、個人の狭い世界を越えて、より大きな価値を理解する重要な経験となります。過酷な練習を乗り越えて得た連帯感は、その人にとって揺るぎない価値となり、仲間との絆は証明の必要のないほどに正統であり、時に神聖なものと感じられるでしょう。
つまり、それは「神聖な物語」——すなわち「神話」なのです。
信じる価値観を疑うことへの恐れ
一方で、順応型段階の人は、自分が信じる世界観や価値観を深く検証することを避けがちです。なぜなら、検証を通じて自身の信奉する世界観・価値観が誤っていることに気づいたとき、自身の存在の根底が大きく揺さぶられてしまうことに気づいているからです。
このために、順応型段階の意識には大きな恐怖が潜んでいます。そして、そうした恐怖感をはらうために、懸命に「神話」の正当性を主張しようとするのです。また、自分とは異なる神話を信奉する人々の存在が脅威に感じられることもあり、しばしば他者を自分の価値観に引き込もうとします。すなわち「改宗」を迫るようになるのです。
この段階の人が、自身が帰依する神話の正当性を外部に向けて必死に主張しようとするのはこのためです。あらゆる資源や能力を使い、それを擁護し、広めようとするのです。
こうした行動の特徴を持つ発達段階を、インテグラル理論では「神話的合理性段階」と呼びます。
この段階では、単に神話を信じるだけではなく、その正当性を周囲に説明し続ける強い衝動を持っています。
ここで重要なのは、神話の内容ではなく、「神話との関係の持ち方(神話への執着の度合い)」です。
それが宗教的なものであっても、科学的な理論であっても、資本主義や社会主義のような思想であっても、神話として絶対視されるとき、そこには神話的合理性段階の意識が関与している可能性があるのです。
今日の人類は総じてこの神話的合理性段階にあるとされています。
世界中でさまざまな共同体が、自らの神話の正当性を証明しようと争いを繰り広げています。それは時に「宗教活動」として表れ、時に「政治活動」として表れます。しかし、根本にあるのは、排他的な「神話的合理性」の意識構造なのです。
段階4:合理性段階(達成型段階) / オレンジ

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
「神話的合理性段階」の限界と「合理性段階」の目覚め
神話的合理性段階で身につけた能力は、健全な社会生活を営むための基盤となります。困難に直面してもくじけない力や、社会の価値を理解し他者と協力する力は、人間が社会的存在として生きるうえで欠かせません。
しかし、この段階では、価値観や世界観が絶対視されがちであり、それを冷静に検討することが難しくなります。
そこで、神話的合理性段階の限界を克服する段階として「合理性段階」が登場します。合理性段階では、師匠や先輩、伝統、書物など権威ある存在が示す「真実」に対して、本当に「真実」であるのかを自らの責任で検証する姿勢が育まれます。
すなわち、それは健全な意味での懐疑と実験の精神を重視する段階と言えます。
社会は常に変化しており、かつて真実だと考えられていたことが否定されることが、簡単に起こりえると認識する段階ともいえます。
合理性段階の「懐疑や実験の精神」と「創造の可能性」
この合理性段階の懐疑や実験の精神は、それまで「絶対不可侵」のものとして信奉されてきた自身の世界観や価値観にも向けられます。また、そうした世界観や価値観を伝授してくれた恩人(例:師匠や先輩)にも、それは向けられることになります。
その意味では、合理性段階の意識は、それまで安定的に維持されてきた伝統的な世界観や価値観を、厳しい再検証の目にさらす「変革」の可能性を秘めたものであるといえます。
この考え方は、思春期に芽生えることが多く、養育者から教わった諸々の「答え」をいったん疑い、自分自身で納得できる答えを求める姿勢として現れます。
こうした検証の過程では、ありとあらゆるものが検証の対象とされるため、大きな精神的な混乱を伴うことになりますが、一方では、それまでに認識されなかった「解答」が新たに見出される「創造」の可能性も開かれます。
この段階が「達成型段階」と呼ばれる理由はこのあたりにあります。
限界のない真実の探求へ
合理性段階を経て、人は過去のすべてを検証の対象とし、それに縛られず新たな可能性を追求できる自由が自身にあることを自覚します。
そして、想像力を働かせ、夢を描きながら行動するようになるのです。
“The sky’s the limit.”(限界はない)という表現は、この段階の精神を象徴しています。
思春期に芽生えた合理性段階の発想は、その後さまざまな知的訓練を積む中で徐々に成熟していきます。
たとえば、大学や大学院では、単に知識を吸収するだけでなく、その限界や盲点を批判的に検討することが求められます。さらに、個人的な信念ではなく、誰もが納得できる論拠を示しながら主張を組み立てる能力を鍛錬することになります。
この段階では、「この主張は日本文化に通じていけなければ理解できないのだ」「この真実はあの時代を経験した者にしか理解できないものなのだ」といった地域や時代に依存した価値観を排除し、いかなる時代や地域に生きている者でも納得できる事実や普遍的な真実を追求しようとするのです。
その意味では、合理性段階は「普遍主義的な精神」を持つ段階であるとも言えるのです。
段階5:相対主義型段階(多元型段階) / グリーン

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
合理性段階の探求とその限界
合理性段階では、人は試行錯誤しながら真に納得できる答えを見出そうとします。
権威的な思想や見解を鵜呑みにせず、それらを批判的に検証し、「幻想」や「神話」や「迷信」を可能な限り排した真実を追求します。
しかし、合理性段階において、人は自分もまた特定の時代や社会の枠組みにとらわれた存在であることを忘れがちです。
合理的な探求の方法として拠り所とされている科学的手法も、実はこの数百年の間に西欧社会を中心に発展したものにすぎません。
未来の人類が用いる探求方法はまったく異なるものに変化しているかもしれませんし、別の惑星に高度な知性を持つ生命体が存在していれば、彼らの方法はわれわれの想像を絶するものかもしれません。
このように、現在「普遍的」だと信じられている方法や真実も、本質的には限られた時代や文化に根ざしたものです。時代が進めば、それらもまた過去の迷信のように忘れ去られる可能性のある暫定的なものなのです。
極端な言い方をすれば、われわれが大切にしている価値観や世界観、そして、それらを支えている方法や真実は「虚構」であるともいえるのです。
こうした認識を獲得する段階を、相対主義型段階(多元型段階)といいます。
相対主義型段階:多様な視点への目覚め
合理性段階は、神話的合理性段階を克服する「自由と自立を獲得する闘争」として確立されました。
しかし、そこで得た「真実」や「方法」にわれわれの意識が囚われる危険性があります。とりわけ、それが普遍性を謳うものであれば、その呪縛はより強固なものになります。
しかし、それもまた時代や環境によって変化する、絶対的なものではないことに気づくのです。
現代の社会を支える科学や自由、民主主義などは大きな功績を残しましたが、それらが完璧なものではないことが認識されています。「自由」や「科学」などの「正しい」思想や技術が、時に予期せぬ混乱や悲劇を招くことも認識されているのです。
例えば、科学技術の発展が自然破壊や人間性の抑圧を生み出すことがあり、今日の深刻な課題のひとつとなっています。また、自由という価値観が肥大化し暴走するとき、共同体の伝統的な文化や規範を壊し、共同体を深刻な混乱状態に陥れるケースも見られます。
相対主義型段階では、「真実」や「その検証方法」が絶対的なものではなく、特定の条件下で有効であるにすぎないことを認識します。
その条件(時代・文化・地域などのコンテクスト)が変わるとき、それまでに隠れていた限界や盲点が露呈することを認識するのです。
すなわち、真実はあくまでも「暫定的」なものであることを認識するのです。
実存的な目覚めと孤独な探求
こうした認識から、相対主義型段階では、人は世界に存在する多様な視点を尊重し、それらが提供する感性や発想に敬意を払うようになります。
この段階がしばしば「多様性尊重主義的段階」とも形容されるのはこのためです。
そして、自分が生まれ育った社会の価値観を深く内省するようになります。
ある特定の時代や文化の中に生まれることで無意識の内に内面化してきた無数の前提条件(例:価値観・習慣・世界観)を問い直し、それが自身にどのような影響を与えているかを真剣に問うのです。
それは自己を「時代の産物」として認識し直す行為だとも言えます。
こうした探求をとおして、時代や社会の呪縛から自己を解き放ち、改めて自己の存在の深くに息づく希求を見出そうとするのです。真の意味での自己実現の始まりです。
しかし、ロバート・キーガンが代表作“In Over Our Heads”の中で述べているように、この気づきはしばしば深い疎外感をもたらし、実存的な危機を引き起こします。
というのも、ここで人は同時代に生きる周囲の人々の大多数が虚構を現実と信じて生きていることに否応なく気づくからです。
周囲の人々の多くは、時代の慣習や常識の枠組みに基づく「物語」(昇進・成功・富の蓄積など)を現実だと信じて生きています。また、社会を見渡すと、こうした「物語」が真実であるという前提に基づいて構築された文化や制度であることが認識されます。
そのため、こうした物語の枠組みから目覚めた人は社会に居場所を見つけるのが難しくなるのです。
このために、相対主義(多元)型段階はしばしば深い疎外感をもたらし、われわれを実存的な危機に陥れることになります。
ウィルバーがこの段階(および次の段階)をこの段階を「実存的段階」と呼ぶのはそのためです。
ここで人は価値観や世界観といわれる「子宮」から抜け出し、自分の素の姿で世界と向き合うことになるのです。
システム思考段階への移行
この目覚めのプロセスを経験すると、人は自分自身の思想や信念と社会の常識との間で折り合いをつけていくことが大きな課題となります。
同時代の物語に対する「信仰」を失っても、物理的には社会で生きていかなければなりません。
そのため、自己の内と外にある異なる価値観・世界観を両立させていく必要があるのです。
たとえそれが、まったく相容れないものでも、意識の中にそれらを包容し、全体の調和を確立するための大きな枠組み(メタシステム)を構築する必要が生じます。
この段階が「早期システム思考段階」と呼ばれる理由はここにあります。
さまざまな視点や立場を関係づけ、それらを統合してひとつの大きなシステムを構成するように思考することが求められるのです。
段階6:統合的段階(進化型段階) / ティール

ケン・ウィルバー (著), 加藤 洋平 (翻訳), 門林 奨 (翻訳)
統合的段階:対立の根本原因に目を向ける
相対主義型段階では、対立する視点を調和や統合に向かう道を志向する段階です。
一方、統合的段階(進化型段階)は、こうした対立や軋轢が生まれる構造的な原因そのものに目を向け、それを解決しようとします。
例えば、ある問題で異なる思想が対立している場合、統合的段階の意識は単なる対話や妥協点を探るのではなく、「そもそもこの対立を生んでいる構造的な原因」に直接アプローチするのです。
長年議論が繰り返されても抜本的な解決に至らない場合、「両者ともに見落としている本質的な原因があるのではないか?」と発想するのです。
すなわち、そのような対立軸が維持され、その文脈の中で関係者が議論に没頭している間は、意識化されずにいる構造が存在している可能性があるということです。
『マトリックス』に見る、統合的段階への意識の進化のプロセス
統合的段階の意識は、一見すると自由な議論が交わされている社会に対して、一歩引いて冷静に観察します。そして、こう問います。
「この議論の場で誰も意識していない、あるいは意図的に言及しないことは何か?」「そして、そうした状態が維持されることで、どのような構造が維持され、また、誰が利益をえるのだろうか?」
ウィルバーは統合的段階を説明する際、映画『マトリックス』(1999)をよく引き合いに出します。この作品では、人類は「マトリックス」と呼ばれる仮想空間に意識を縛られ、夢見状態のまま生きています。主人公のネオは、ある出来事をきっかけにこの夢見状態から目覚め、マトリックスに人間を従属させる機械に戦いを挑んでいきます。
ウィルバーは、「統合的段階への意識の進化の過程」は、まさにこの「主人公がたどった覚醒の過程」にたとえることができると言います。
そこでは、もはやマトリックスの中で展開されている物語に意識を奪われるのではなく、それが単なる幻影であることに気づき、そうした幻影に自らの意識を呪縛している構造そのものに批判的なまなざしを向けていくのです。
前の多元型段階の目覚めが、人間はマトリックスが提供する「夢」に呪縛されていることに気づくことであるとすれば、この進化型段階の目覚めは、そうした夢を創造し人々に提供している構造の存在に気づくことであると言えます。そして、そのように、人間を恒常的な夢見状態に置くことで何が達成されているか、を問うのです。
ところで、『マトリックス』という映画の興味深いところは、主人公の成長のプロセスを単にマトリックスの呪縛から逃れる物語としてだけでなく、意識的にマトリックスと現実の間を行き来するダイナミクスの中で描いていることです。
主人公には、目覚めた者として改めて夢の世界に戻り、そこで目覚めた者としての責任を果たすことが求められているのです。
ウィルバーが、この作品を統合的段階の特徴を示す格好の教材として評価するのは、このあたりにあります。
すなわち、統合的段階では、いっそう高い視座から世界を洞察できるように意識を高めていく上昇的なダイナミクスとあわせて、そのようにして洞察された世界にかかわろうとする下降的なダイナミクスが融合されるからです。
「発達は必ずしも幸福を保証しない」
ただし、ここで伝えておきたいのは、発達心理学のスザンヌ・クック=グロイターが述べていたように、「発達は必ずしも幸福を保証しない」ということです。
端的に言えば、それは、人に「気づかなくてもいいもの」「見なくてもいいもの」「考えなくてもいいもの」に意識を向けさせ、周りの誰とも共有できない苦悩を背負わせる可能性を秘めているからです。
21世紀を迎えても、人類はまだ「利己的段階」~「神話的合理性段階」~「合理性段階」に基盤を置いて社会を運営しています。
その結果、いまだ先進諸国を巻き込んだ戦争や紛争などの暴力が社会を深く支配しているのが現状です。
その意味では、ここで紹介している「相対主義型段階」や「統合的段階」は、ほとんどの人にはまったく無縁の認識の形態です。なので、そうした視座を獲得することは、むしろ、その人の実存的な孤独と苦悩を深めることにならざるを得ません。
少なくとも、「発達を遂げれば、さらなる社会的な成功が得られるはずだ」と安易に考えるのは、的外れだと言えるでしょう。
結局のところ、発達とは、報酬を求めて「する」ものではなく、やむにやまれず起きてしまうものだからです。
社会に変革をもたらす「進化を喚起できる精神」
ところで、フレデリック・ラルーらは、この段階を「進化型段階」と呼びます。
先述のようにこの段階の人は、マトリックスを支える構造を対象化し、それを批判的に分析する能力を持っています。
ここでは、単にマトリックスの中であてがわれた役割を忠実に果たし、その空間の規制に則って行動するのではなく、「ゲームの規則を変える」あるいは「ゲームそのものを廃止し、まったく別のゲームを創造する」可能性を生みだすのです。
そして、こうした変革を現実のものにするためには、「てこ=どこに働きかければ最も大きな変化が生まれるのか?」という決定的な要素を見極めることができるうようになるのです。
単にゲームの規則を所与の条件として錯覚しているだけでは引き起こすことのできない類の変化や変革を想像し、その実現のための糸口を見出す能力を獲得する段階——これが「進化型段階」と名付けられた理由です。
そして、今日われわれが必要としているのは、まさにこの進化を喚起できる精神なのかもしれません。
まとめ
いかがだったでしょうか?
ここまでケン・ウィルバーが自著の中で紹介している主な発達段階を概観&解説しました。
だいぶ長くなってしまいましたね……
「人間の内的発達を示す地図」ということで、全体把握のためにも一気に駆け抜けさせていただきました。
私たちの意識構造の発達は、段階的に視野を広げ、自己の枠組みを超えていく旅のようなものです。それは、時に自己への孤独や苦悩を伴いますが、同時に新しい可能性への扉を開く経験でもあります。
この記事が、読者の皆さんが自身の成長・発達を振り返り、現在地を把握するとともに、未来へと進むための手がかりとなれば幸いです。
次回は「健全な発達を遂げるためには?」ということを書いていきたいと思っています。
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