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『必要』という言葉に立ち止まる──『宗教の起源』感想文

2025年、問いからはじめるアウトプット読書ゼミ「問い読」に参加した。
6週間かけて1冊をじっくり読み、正解のない問いを立て、オンラインで対話するゼミである。

選んだ課題図書は『宗教の起源』(ロビン・ダンバー著/小田哲訳/白揚社/2023)。


以下、感想文。
ありがたいことに、「問い読」共同創業者で編集者の岩佐文夫さんに添削いただいた(喜びの舞)。



もし人間に「神秘志向」がなかったら、世界はどうなっていただろうか。
人智を超えたものを信じたがる心理が存在しないと仮定したとき、私たちは何を理解でき、何を理解し損なうのだろうか。

この感想文は、ロビン・ダンバー『宗教の起源』を通読し、問い読ゼミでの対話を踏まえながら、宗教を「必要性」や「設計可能性」の語りに回収してしまう誘惑に立ち止まり、自分の中に残った違和感と問いを整理したものである。
※内省を重視した記録であり、用語や議論の詳細な説明は省いている。

1.思考実験としての出発点──「もし神秘志向がなかったら」


本書を読み終え、全6回のゼミを終えた今、あらためて振り返ってみても、やはり第2回ゼミの問いは良い問いだったと、しみじみ思う。

この本最大の主張である「神秘志向」の重要性。ダンバーの議論を理解しようとするならば、この概念の理解は避けて通れない。「もし神秘志向がなかったら」という思考実験は、その核心に迫るための、まさにうってつけの問いだった。

「もし人間に神秘志向がなかったら、世界はどうなりますか?」
(※神秘志向=人智を超えた世界を信じたがる人間心理

「問い読」『宗教の起源』第2回ゼミ(第2~3章)で、問い立てチームが作成した問い

私が最初に引っかかったのは、認知はどこまで可能なのか、という点だった。

因果律の理解は可能だろうか。出来事と出来事を結びつけ、目の前の現象を理解すること。それ自体は、できるだろう。

では、他者の死を、ただの「死」として受け取るとしたら、時間の捉え方はどうなるのか。
「死後の世界」が存在しない前提で、「祖先」や「子孫」という概念は生まれるのだろうか。 昨日・今日・明日といった短い時間の区切りは認識できるとしても、 過去・現在・未来という線的で抽象的な時間概念は必要になるのだろうか。

そうした時間スケールの抽象概念なしに、 自分が死んだあとに何かを残そう、という発想は生まれるのか。
科学技術の発展は、研究の積み重ねによって支えられている。自分の一生をデータ収集のために差し出すような営みは、あり得るだろうか。

大きな共同体は成立するだろうか。
短期的な目的――たとえば「マンモスを一緒に狩ろう!」というような協力は成立するかもしれない。 しかし、巨大な灌漑施設のように、1日や2日で終わらない作業は可能だろうか。

さらに、「罰」という概念はどうだろうか。
「罰」という言葉を持たない共同体の事例は、実際に存在する。はみ出した人間、「ヤバいやつ」と皆から烙印を押された人間は、どう扱われるのか。追放?それとも再統合される道は?

共同体の一員としての振る舞いを、人間同士の相互監視だけで維持することは可能なのだろうか。
筋力のある人間が追放すれば終わり、という世界かもしれない。
だとしたら、その共同体が大きくなっていく道は、果たしてあるのだろうか。

2.思考実験後の読み進めと納得感


今の私が当たり前のように使っている多くの抽象概念。
それらと比べても、現実世界の出来事を「別の世界が存在し、そこから影響を受けている」と捉える神秘志向のほうが、先に立ち上がっていたのではないか。
思考実験を進めるうちに、そんな考えに至った。

もし、数々の抽象概念が生まれそこなっていたとしたら…。

そうした思考実験を経たあとに、第4章・第5章を読み進め、共同体の規模やメンタライジング能力、ヒトが持つ認知の特性に関する議論に触れたとき、私は強い興奮を覚えた。
自分の頭の中で転がしていた問いが、ダンバーによって、部分的に照らし出されていくように感じられたからだ。

さらに第7章「先史時代の宗教」では、狩猟採集社会を対象とした民族誌データの分析が紹介される。

アニミズム、シャーマニズム、祖先崇拝、死後世界への信仰、地域神、高みから道徳を説く神──この六つの宗教的特徴の分布を再構築した研究によれば、 最も古く、かつすべての社会に現在も存在している唯一の特徴はアニミズムだったという。

死後世界への信仰や祖先崇拝、シャーマニズムはそれよりあとにまとまって進化し、 「高みから道徳を説く神」は、農耕や牧畜の始まりと結びついて現れた可能性が高いことが示されている。

3.読む前に持っていた仮説――教義宗教の“必要性”


ここで、本書を読む前の私が抱いていた、教義宗教に関する漠然とした理解について触れておきたい。

罰の概念をともなう教義や、「高みから道徳を説く神」は、大きな共同体を維持する必要性に応じて生まれたのではないか、という素朴な仮説である。

農耕の開始と人口の増加。巨大な灌漑施設。共同体の拡大。
狩猟採集社会では、関心の時間軸が今日・明日に向きやすかったのに対し、農耕社会では、より長い時間スケールで未来を見通すことが避けられなくなる。
漠然とした未来への意識。不確実性への不安。そして高まる未来予測の重要性。
探しに行って「あるか・ないか」という世界と、種を蒔き、収穫を待つ農耕の時間軸とでは、未来に向けた見通しの意味合いが大きく異なるように思えた。

農耕の人類史。

ここで、漢字伝来前の日本の歴史を思い浮かべてみる。
木の実や魚などの資源が比較的豊かで、共同体の規模が小さくても暮らしが成り立っていた環境。

日本語には「罪」という言葉が音読みと訓読みの両方を持つのに対し、「罰」には音読みしかない。能楽者の安田登さんの指摘によれば、日本には元来「罰」という概念が存在しなかった可能性があるという。
罪は、罰するものというより、祓い、水に流すものとして扱われてきた。古代日本の神道においては、罰という概念を文字にして固定する必要すらなかったのかもしれない。

また、日本は「農耕が始まったから定住生活に移行した」という分かりやすいモデルからも外れている。
縄文時代にはすでに縄文土器が存在し、大規模な移動をせずとも、比較的安定した食料にアクセスできていた。
農耕による余剰食糧が定住を支えた、というモデルに対して、日本列島の歴史は例外的な側面を持っている。

古代日本では、そもそも共同体規模を大きくする必要がなかったのではないか。

そう考えると、大きな共同体を維持するための、強い規範装置や「高みから道徳を説く神」は、必ずしも普遍的に「必要」だったわけではないのではないか――
本書を読む前の私は、そんな漠然とした理解を持っていた。

4.しかし残る、すんなりとは飲み込めない感覚


しかし、私は何度も立ち止まった。

読んでいる間、すんなりとは飲み込めない感覚が、どうしても残り続けた。

自分の頭の中で転がしていた問いが、ダンバーによって次々と照らし出されていくように感じられる。けれども、それはあくまで部分的に、だ。
整合性があるような予感がする一方で、何か、分かりやすさの快感に引っ張られているような感覚もある。

ここで言い切ってしまっては落としてしまうものがあるのではないか。
そんな違和感が消えない。脳内で「立ち止まれ」と警報が鳴っている。ダンバー自身は、絶えず慎重に論を展開している印象だ。

それなのに、読み手である私は、勝手に物語をまとめにいってはいないか。本を開いては閉じ、また開く。立ち止まり、じっと考えてみる。

5.違和感の正体──「必要」という言葉への引っかかり


日本の自然環境では、大きな共同体をつくる必要がなく、だから「高みから道徳を説く神」も必要ではなかったのではないか。

……この「必要」という言葉に、どうにも引っかかる。相応しくない言い回しのようだ。本書を読み進めるうちに、その感覚は次第にはっきりしてきた。

では、この違和感の正体は何なのか。

「必要」の代わりに、どんな言葉を置けばよいのだろうか。

6.設計できる制度ではない──ダンバーの明確な否定との衝突


支配層が大衆に行動を促すために宗教をこしらえた、という説を、ダンバーは明確に否定する。

「宗教、とくに新しい宗教は、底辺から発展していく」
「宗教の始まりは貧困にあえぐ虐げられた大衆からであって、支配層ではない」
「支配者が大衆に宗教心を植えつけ、規則に従わせることはできない」

(p.86)

支配者は、あらかじめ存在する宗教的な傾向につけこむことはあっても、「自らの存在を正当化するために宗教を発明したのではないようだ」(p.88) 。

宗教は上から設計されたものではない。下から立ち上がったもの。
支配者は宗教を「利用」することはあっても「発明」することはできない。

つまり宗教は、誰かのコントロール技術ではないのだ。

この点は、第4回ゼミで取り組んだ「共同体意識を高める上で最も効果的な儀式は何か?」という問いをめぐる対話ともリンクする。
大事なのは主体性か、それとも継続の場を生み出す強制力か。
強制されれば形だけは維持できるかもしれないが、そこには「しらけ」が生まれる。
内側から立ち上がる感情を欠いた儀式は、共同体の求心力にはなりえない。

私はずっと、誘惑に抗いながら本書を読んでいた。

宗教を「理性で裁ける対象」や、「設計できる制度」として読んでしまう誘惑に、である。
目的があって、宗教が生まれたわけではない。
最終章で、「宗教は、突きつめれば知性ではなく、感情の現象である」(p.262)という一文にたどり着いたとき、私は思わず唸った。

宗教を、合理性や制度の問題としてではなく、人間のコントロール不能性――揺れや不確実性、生身の感情――から立ち上がる現象として読む。

何度も立ち止まらなければ肚落ちしない。とことん、ダンバーの文章を咀嚼するのだ。

7.答えを求めてしまう読み手の心理


現代的な読みの癖、というものがある。

読み手はつい「どう反省して、どう行動につなげればいいのか」を求めがちだ。この先も世界はコントロールできる、という前提で読んでしまう。
問題がある。原因がある。ならば解決策を設計できるはずだ。
そんなコントロール感への欲望が、読む行為そのものに忍び込んでくる。

ダーウィンの進化論もそうだが、ダンバーの主張もまた、未来を設計する話ではない。
それは、現在地の説明だ。にもかかわらず、読み手はつい処方箋を探しに行ってしまう。

本書を読み進めるなかで、私の中に強く浮かび上がってきたのは、この「コントロール感」への警戒だった。

個人レベルでは納得感のある心理的説明が、そのまま社会構造や歴史スケールに接続されるとき、私たちはつい「人類はこうすべきだった」「だから今後はこうすればいい」と考えたくなる。
しかしダンバーが描いている宗教の進化は、人間の意志や設計の積み重ねというよりも、「結果として」残った文化的表現の集積に、より近いと言えるのではないか。

「社会的な利点は、進化がもたらした絶好の機会であり(すでに醸成されている宗教的感情につけこむさらなる方法)、宗教に進化をもたらした要因、というわけではないようだ。」

(p.88)

この一文も、宗教を統治技術として読む誘惑に対する、ブレーキになっている。
社会的な利点は、宗教を生み出した原因ではない。すでに存在していた宗教的傾向が、ある環境のもとで利用され、強化される。その「機会」が訪れただけなのだ。
この区別を見失うと、宗教を統治技術として誤読してしまう。

ダーウィンの進化論が、環境にたまたま適応した結果としての枝分かれを描くことで現在地を説明するのに対し、ダンバーの宗教進化論は、文化(表現型)として方向づけられた適応、という言い方をとる。

「一連の宗教の変化は、地域の人口が変動した結果生じたストレスに対応して、文化が牽引した」

(p.278)

その文脈で語られる、「宗教の各段階も、歴史のそれぞれの場面で立ちはだかる社会や環境の脅威に対して人類が見つけ出した解決策のひとつにすぎない」(p.278)という表現。
「方向づけられた」、「解決策」という言い回し。

ここで起きがちな誤解がある。

「方向づけられた」とは、「意図的に設計された」という意味ではない。個々人が、「よし、社会を安定させよう」「こういう宗教を作ろう」と考えたわけではない。
高木の葉を食べたくて、キリンは首を努力で伸ばしたわけではないのだ。

「社会的な利点は、進化がもたらした絶好の機会であり、宗教に進化をもたらした要因ではない」
――この一文は、ものごとの順番を慎重に読まなければ、簡単に取り違えてしまう。

宗教が社会に役立ったから進化したのではない。すでに人間の側に存在していた宗教的感情が、ある環境や状況のもとで、社会的に利用可能な形として残った。
読むべき順序は、そこだ。
宗教の現在は、人間の意志の積み重ねではなく、環境と人間の傾向が相互作用した結果として残ったものに近い。

宗教を、非合理な遺物や支配の道具といった枠に回収することは、もはやできなくなった。
むしろ、人間が世界を完全にはコントロールできない存在であること、その前提の上で生まれ、残り、積み重なった文化的現象として、宗教が見えてくる。

そして最後に残るのは、「わかりやすいモデルで捉えたくなる衝動」そのものに、立ち止まるという態度だった。
本書をじっくり読む行為そのものが、私にとってはその練習になっていたのだと思う。

8.問い立ての葛藤


私は最終回・第6回ゼミ(第10章)の問い立てチームだった。

最終的に採用された問いは、「宗教は今後いかに進化していくか?」
――原題 How Religion Evolved から導かれた、オーソドックスな問いである。

これまで私は、本書を通して感じ続けてきた「コントロール感」への警戒について書いてきた。
にもかかわらず、問い立ての場で他の参加者に聴くと、思考はやはり「では、どうなるのか」という未来へと向かっていくものらしい。
あるいは、「宗教に代わるもの」への希求へと。

たとえダンバーが、「人間の営みにおいて宗教に取ってかわる何かが存在すると証明するのは、難しい」(p.286)と述べていたとしても、私たちはどうしても、そこを考えずにはいられない。
その引力の強さを、私は問い立ての場であらためて感じていた。

人類は、宗教をめぐって多くの血を流してきた。
その反省として、近代以降、宗教はしばしば「前時代的なもの」「克服されるべきもの」と見なされてきた。
合理主義、宗教不要論、教育万能論―― 人間の理性や制度によって、宗教はやがて不要になる、という見方。
それらに対するさらなるカウンターとして、ダンバーは本書を執筆したのではないか。 私はそのように読んだ。

第9章「カルト、セクト、カリスマ」においても、ダンバーの姿勢は印象的だ。
カルト現象を「不合理だから排除すべきもの」としてではなく、「なぜその形で噴出するのか」を理解すべき対象として扱っている。
読後感を他の参加者に聞いてみると、内容の生臭さゆえに語りづらさを覚えた人もいれば、「ここはダンバーが一番乗っている章だと思った」という声もあった。

ここで、しばしば一般的に語られる「カルトにはまる人」の事例を思い浮かべてみる。
教育が行き届いていれば、 経済状況がもっと安定していれば、 そんな「でたらめなもの」にすがらずに済んだのではないか。そうした語り口を、私は何度も目にしてきた。

しかし、理性的で、対等で、自由意思にもとづく共同体は、本当に人間に可能なのだろうか?

神秘志向、人智を超えた世界を信じたがる人間心理は、知性で書き換えられるものではない。
“不要なバグ”として切り捨てられるものではない。
一部、薄れているように見えたとしても、それでも、宗教は現在までしぶとく続いてきた。

ダンバーの主張を読み終えてなお、参加者たちは、そして私自身も、「現代では宗教心が薄れているように見える」という前提に、どうしても立ち返ってしまう。

「経済状況が良好で、富の格差が小さいと、宗教への関心が低下することはすでに指摘されている」

(p.283)

ここで、視点を反転させてみたいと思った。

人類にとって宗教とは何か、ではなく、宗教にとって人類とは何か。

宗教を、人間が管理すべき対象として見る視点から離れ、宗教という現象の側に立ったとき、人類はどのような存在として見えてくるのだろうか。

How Religion Evolved And Why It Endures

『宗教の起源』原題

本書のスタンスは、「人類はなぜ宗教を発明したか」ではなく、原著タイトルの通り「宗教はいかに進化し、なぜ消えずにきたのか」にある。

しかし、「宗教にとって人類とは何か」というこの問いは、抽象度が高く、取り組む難易度が高い。
問い読が30分の対話の場である以上、語りやすさはやはり重要だ。

ダンバーの「150」という有名な数字がこれほど広く受け入れられているのは、データの妥当性が理性的に精査されたからというよりも、受け手がそれを自分の生活世界に引き寄せ、「なんとなく分かる」と感じてしまうからではないだろうか。
その意味で、この数字の説得力もまた、知性だけでなく、感覚に支えられている。

では何か別の切り口はないものか。
本を読んでは閉じ、寝て、また読み、閉じて、寝る。そうした往復のなかで、頭の中に、ぽんと抽出された言葉があった。
「理不尽」

9.蝶番になり得る「理不尽」という言葉


「神秘志向」や「宗教」という言葉には、どうしても距離を感じてしまう人がいる。
けれども、「理不尽」という言葉であればどうだろうか。

理不尽をどう処理してきたか――その経験なら、誰もが何かしら思い当たるはずだ。
つまり「理不尽」は、相対化できる人/できない人、宗教的な人/そうでない人、そうした分断が立ち上がるよりも手前にある、共通の経験だと言える。

なぜ、私の中にこの言葉が浮かび上がってきたのか。
恐らくひとつは、長谷川眞理子氏による解説ページにある。
同調行動が大嫌いで、無神論者を自認する解説者が、ポル・ポト政権下の大量虐殺跡地を訪れた際のエピソードが紹介されている。そこで彼女は無性に「お祈りしたくなった」という。

「頭で認識できる事態の悲惨さに対し、それを認識している私が何もできないという無力さの実感」
「こんな理不尽なことが起こったという事実の認識に対し、私自身の心の平安を得るには、何か、超自然の力に祈るしかすべがなかったのだ」

(p.295)

この記述は強く印象に残った。

ここには、「信じているから祈った」のでも、「合理的に判断した結果」でもない。
ただ、あまりにも理不尽な現実を前にして、それを受け止めきれない自分自身の感情を、どうにか扱おうとする身体の反応がある。

理不尽とは何か。
この言葉は、問い読の参加者たちのスタンス、これまでのゼミで積み重ねてきた対話、そしてダンバーが本書で描いてきた宗教の理解や、私自身の「コントロール感」への警戒とも、自然につながっていくように思えた。

そしてこれは、明らかに感情を伴う言葉である。

宗教や神秘志向という言葉を使わなくても、私たちはすでに、日常のなかで「説明できないもの」「受け止めきれないもの」に感情をかき乱されながら、折り合いをつけて生活している。
「理不尽」は、その接点を照らす、とても世俗的で、しかし重要なキーワードになり得るのではないか。

そしてもう一つ。
「理不尽」という言葉は、つねに「本来なら、こうなるはずだった」という期待や見通しを、前提としている。
その前提が崩れた瞬間に立ち上がる感情――
そこにこそ、ダンバーが繰り返し扱ってきた、宗教の核があるのではないか。

10.コントロール不能性──理性で捉えきれない、一時的に立ち上がる感情


ダンバーは、私たちが迷信と呼ぶものについて、次のように述べている。

「私たちはこうした迷信を本気で信じているわけではないが、万が一本当だった場合に備えて、完全にやめるつもりもない。」

(p.30)

繰り返すが、宗教は過去に多くの血を流してきた歴史を持つ。
日本で言えば、宗教が「やっかいなもの」として語られるようになった背景には、カルト集団による事件、オウム真理教の影響も大きいだろう。
その反省から、「盲目的に信じるのは危ない」「理性を持って距離を取るべきだ」という態度が、教育や社会の中で強化されてきたように思う。

問い読の参加者も、どちらかといえばそうしたスタンスに近い人が多いのではないか。 「なぜそこまで夢中になれるのか、正直よく分からない」という距離感。

しかし、人は常にものごとを相対化できるわけではない

理性的に判断できるときと、そうではないときがある。 そして、非理性的に見える行動を取るからといって、その人がそれを「本気で信じている」とは限らない。

たとえば、結納の日取りを大安に選ぶこと。
仏滅にすると離婚につながると本気で信じているわけではない。 それでも、「万が一」に備えて、その選択肢をあらかじめ潰しておく。
それは迷信に支配されているというよりも、将来の不確実さや、自分でも予測できない感情の揺れに対する、ある種の保険のような行為なのかもしれない。

人には、理性的に考えられる「とき」と、そうではない「とき」がある。
そして、言葉にできる領域と、言葉にした瞬間にこぼれ落ちてしまう領域が、確かに存在している。
当たり前のことだが、私たちはこれをつい忘れがちだ。


また、ダンバーは、トランス状態について、熟練者がそこに入る際の共通した感覚を紹介している。
それは「暗い穴、あるいはトンネルに入る感覚から始まる」というもので、どの部族社会でもほぼ同じだという(p.57)。

トランス状態は一時的なもの。 ずっと没入し続けているわけではなく、ひとつの感覚が永続するわけでもない。
トンネルはいつか終わる

なぜ私がこの点を強調したいのか。

没入体験や神秘体験について語られる言葉は、言語化によって、しばしばその「一時性」を置き去りにしてしまうように感じるからだ。

仮に、没入体験をした人にインタビューをして、その感覚の言語化を求めたとしよう。臨死体験の分析にもあったように「不死身感」「宿命感」「自分を偉大に思う感覚」「神や運命から祝福されている感覚」「死後も存在が続くという確信」といった言葉が語られたとして。

それを、いま本を読んでいる私のような、 安全な部屋で、エアコンが効き、椅子に座って理性的に考えようとしている状態から聞くと、正直なところ「ふーん」「大袈裟だな」という、どこか醒めた感覚になる。

けれども待て。

それを語っている当人も、その感覚が24時間365日、何年も同じ濃度で続いていると思っているわけではない。
あくまでそれは、特定の状況や意識状態のもとで立ち上がった、一時的な感覚の記述なのだ。
形容しがたいものに、後からあえて名前をつけるような行為。
それにもかかわらず、私たちは言葉だけを追っていると、その一時性を忘れ、あたかも人格全体や生き方そのものが、常にその状態に支配されているかのように受け取ってしまいがちではないだろうか。

「トランス状態から復帰したあとは、俗世の雑事が肩から落ちて、穏やかな心境になる。」

(p.58)

俗世の雑事。
そもそも人は、生きているあいだ、常にそれらを真正面から引き受け続けることができるのだろうか。 仕事、生活、他者との関係、将来への不安。
それらを理性的に処理し続けることを、私たちはどこまで可能なのだろうか。

トランス状態を現実からの逃避と見るか。それとも、いったん俗世の重さを肩から下ろし、再び戻ってくるための「間(ま)」と見るか。  

理性的に文章を書いている「今の自分」には捉えきれない感情。
一時的に立ち上がり、また消えていく感覚。
言語化した瞬間に、こぼれ落ちてしまうもの。

神秘志向が人の心から引き出すのは、「言葉では説明しがたい圧倒的な『生身の感情』」である(p.69)。

宗教は知性ではなく、感情の現象だ。
神秘志向を核として、没入型の身体的、感覚的宗教という古い層を消さずに、その上に教義宗教たちが積み重なってきた。宗教を前時代的なものとして、思想や制度のレベルで取り払おうとしても、それは宗教という層の表面に触れているにすぎない。感情、その核は、取って替えられるものではない――それがダンバーの一貫した主張だ。

漁師がまじないを行うのは、常にではなく、遠洋に出るときだけで、環礁内での漁では行わないという事例も紹介されていた。
宗教的なふるまいもまた、理性や感情と同じく、永続する状態ではなく、状況に応じて現れては消えるものなのだろう。

11.読み終えて、日常に残った問い


ダンバーの枠組みにのっとり、何度も立ち止まりながら読んできたつもりだ。

第1章を繰り返し読み返し、その都度、ダンバーがどの位置から宗教を論じているのかを確認した。
言うまでもないことだが、あらゆる現象に言及できる万能な本など存在しない。
先行研究を整理し、どこが足りていないのかを示し、自らの執筆意義を示す。これが研究者の基本姿勢だ。

本書では、宗教の定義はあえて広くとらえられている。
行うものとしての儀式の要素と、信じるものとしての信念の要素、その両方を含めたものとして。
そしてダンバーは、「理解したいのはあくまで現実世界の現象であって、定義ではない(定義は頭のなかにしか存在しない)」(p.18)と述べる。
今回は定義を厳密に詰めることはせず、広く宗教をとらえたうえで議論を進めていく。 私は「わかりましたよ、ダンバーさん。今回はそのスタンスでいくのですね」と一度飲み込み、そのまま最後まで読み進めた。

けれど読み終えたとき。
問い読の場で他の参加者からも出ていたように、やはり再び立ち戻ってきたのは、この問いだった。

私たちは何をもってして『これは宗教だ』と認識するのか。

宗教という名前がついていないだけで、宗教“っぽい”もの。 それと、そう見えないものとの違いは何なのか。
自分の身近な日常で「これは宗教っぽい」と感じるとき、私は何を手がかりに、そう判断しているのだろうか。

「宗教っぽい」と、ある集団に対して感じるとき、そこにはたいてい、私とその集団とのあいだに、ある種の距離が生まれている。
それは、思想や教義への違和感というよりも、集団のなかで立ち上がっている熱量や、感情の濃さに対する距離感かもしれない。

一方で、仮に自分自身が「宗教っぽい」集団だと他人から見なされるその瞬間、私には、おそらくその自覚はないのだろう。
沸き上がる感情のただなかにいるとき、人はそれを相対化して眺めている余裕など持てないのだから。

意味づけはいつも、その一瞬後に始まる。

カリスマやシャーマンのはじまりを「聞き上手さ」から捉える仮説や、「推し活」と「役に立ちたい欲望」との接続、「同族嫌悪」とは何かなど、考えたいことは尽きない。
しかし今回はここまでとし、以上をもって本書の感想文としたい。

※入りきらなかった話や、「問い読」体験、添削コメントを受けて考えたことは、また別記事で徒然と。


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