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アファンタジアと芥川龍之介『蜜柑』

ある日のこと。
朝起きたとき、妻と会話していて、梶井基次郎の短編小説『檸檬(れもん)』の話になった。 

夫(私)も妻も過去に『檸檬』を読んでいるが、それはもう何十年も前のことだ。
二人ともうろ覚え程度にしか覚えていない。
それでも二人で『檸檬』について語った。

まず最初に、夫も妻も『檸檬』を評価していない。そこははっきりさせておく。
とくに妻のほうは辛辣(しんらつ)で、『檸檬』はまったく面白くないし、なぜ作品が評価されているのか謎だ、と言う。

それで夫は持論を交えてこう答えた。
(以下、梶井基次郎の短編小説『檸檬』のネタバレなのでご注意ください)

『檸檬』という小説は、ゴリライモ(『ど根性ガエル』に登場するキャラクター)みたいな容貌の薄命な青年が、丸善(都会の書店)に行って、商品として売られている本の上にレモン(檸檬)を置く話で、その彼が「いま僕は真っ黄色なレモンを本の上に置いた、そしてぼくは書店を去る、そのあとお客さんがこのレモンを見たら、どう思うだろう。ドキドキッ💛。さらに、このレモンがもし爆弾(おそらく形の似ている「手榴弾」のイメージ)だとしたら、どうだろう。ワクワクッ💛」みたいなことを想像する話。

要するに、いかついゴマ塩頭の男(ゴリライモ)が、彼には到底似合わない象徴としてのレモンを片手に、ちょっとした可憐な少女のようなイタズラを妄想して「キャハッ💛」ってなる、そういう話。
だからこの小説を一言でいうと「キャハッ💛」。

たとえば、夜の公園で、全裸にコートをまとった中年のおじさんが突然前をはだけて「キャハッ💛(ドキドキッ)」って言うのと同じで、朝の満員電車で、全裸にコートをまとった中年のおじさんが内心「キャハッ💛(ワクワクッ)」ってやっているのと同じ。それが『檸檬』の本質。
つまり『檸檬』は「キャハッ💛」。

すると妻はこう言った。
電車のほうの話だけど、脚にスネ毛があるからバレるじゃん(笑)。

夫はこう言った。
いやいや、ヒザより下は、スーツのパンツ(スラックス)のヒザ下を切った筒状のものを、上からガーターベルトで吊って偽装してるからバレない。そういったスリリングさも込みで、衆人の中で『キャハッ💛(ウフフ)』ってする変質者と同じメンタリティ。それが『檸檬』的本質。

妻はこう言った(他にも会話はあったが省略)。
じゃあ、なんでそんな小説が評価されてるの?

夫の寝床には Amazon Fire HD 10 が常備してあるので、それを使ってChatGPT に「梶井基次郎の『檸檬』が評価されてるのはなぜ?」と聞いた。

すると ChatGPT は、文学の教授が講釈するように『檸檬』の凄さをトウトウと述べ、それを夫が読み上げて妻に聞かせた。

すると妻はこう言った。
説明されないと分からない小説なんてクソ!

そこで夫は、何の根拠もない勝手な憶測と想像でこう言った。
もしかしたら、梶井基次郎の『檸檬』(大正14年)は、芥川龍之介の『蜜柑』(大正8年)からインスピレーションを受けてるんじゃない? 『檸檬』はクソだけど、芥川の『蜜柑』はすごい小説で、なにが凄いかというと…

といった調子で、芥川の『蜜柑』について一気にまくしたてた。

ここで興味深いのは、夫はアファンタジア(視覚を含む心的イメージの生涯的不在)なので、頭の中に視覚的イメージというものが微塵も存在せず、夫の説明のもとになっているのは『蜜柑』という小説の概念である、という点だ。にもかかわらず、夫の説明は案外と視覚的な描写になっている。

おおよそ、次のようなことを言った。
(以下、芥川龍之介の短編小説『蜜柑』のネタバレなのでご注意ください)

芥川の『蜜柑』は、世に倦み切って世間や人間に対して興味を失っている灰色の世界の主人公(おそらく芥川自身という設定)が、汽車に乗り込むところから始まる。

しばらくすると、ホッペを赤くした、いかにも田舎者のような見すぼらしい少女が近くに坐る。その姿を眺めた主人公は、なんだか嫌な気分になる。

すると突然、少女が汽車の窓を開けた。「なんだコイツ? 迷惑すぎる!」と思ってイライラしていたら、汽車はトンネルに突入した。

当然ながら車両の中は汽車の煙で充満し、主人公は激しくせき込む。トンネルから出て、窓から身を乗り出して外を呑気に眺める少女の非常識さに、主人公は怒りを感じた。

すると、窓の外に何やら小さな子供たちがいて、ワーワー声をあげていた。

その瞬間、
燃えるような色に染まった蜜柑が数個、
窓の外の空(くう)を切った。

…このとき主人公は、一切を了解した。

この少女は、おそらく奉公のために身売りされたのだろう(この時代、身売りは日常だった)。そして弟たちが、姉を見送るために、わざわざ汽車の通る場所で待っていたのだろう。姉はその弟たちに報いるために、汽車の窓から蜜柑を投げ与えたのだろう。

このとき主人公は、このくだらない、どうしようもない世界や人間のことを、一瞬だけ、忘れることができた。
そして先ほどとは違う心で、相変わらず田舎臭いその少女を見つめるのであった。

といった内容なのだが、この小説がすごいのは、鬱々としたトーンの曇った世界の中で、突然、鮮やかな色をたたえた蜜柑が空(くう)に切ったとき、主人公が一瞬、この不可解な人生を忘れることができた、その場面転換、その鮮烈さ、その象徴として空(そら)に燃える色を放つ蜜柑。そういった一切が、わずか数ページの短編の中に描かれていて、読者にハッと息を呑ませる。その感覚的な印象さが、いつまでも余韻として残る。

芥川の『蜜柑』は、梶井の『檸檬』のように、わざわざ説明しなければ気づけない暗号解読みたいなクソな話ではなく、何の説明も不要で物語に没頭できて、予期せぬ鮮烈な感覚体験がそこにある。

と、まあ、こんなことを夫は言った。

すると妻(非アファンタジアの人で、日常的に視覚的イメージと戯れている人)はこう言った。
アファンタジア(脳内映像不在)なのに、なんでそこまで具体的に感覚的に説明できるのか。

夫は少し考えて、こう言った。
案外、視覚化が容易な人よりも、観念(あるいは情動)として、灰色の世界の中でひときわ放たれる燃えるような色を放つ蜜柑というインパクトを、感じ取っているのかもしれない。それと、言語化する際の語彙が、案外と豊富(いやむしろこれはサービス精神のようなもの)なのかもしれない。

そこで二人の会話は終わり、朝ごはんのために寝床から出た。

とまあ、こういった話なのだが、オチがないので、せめて要点をまとめておく。

  • 別に珍しくもなんともないが、アファンタジアの人であっても、仮想の中の感覚の鮮やかさを言語化する場合がある。

  • その言語化のもとになっている情報は、心的イメージではなく、概念・観念・知識・意味・関係・構造・言語・非言語など、そういった非イメージ的なものである。

  • ときには心的感覚者(非アファンタジア)よりも明瞭に、仮想の中の感覚について説明することもある。

このとき、30分~1時間くらい妻と雑談していた。
夫の趣味は妻と会話することであり、妻の趣味も夫と会話することなので、私たち夫婦はこうやってよく雑談をする。

なお、このときの会話で登場した他のキーワードは、「結核」、「風立ちぬ(堀?なんとかさん?)」、「萩原朔太郎」、「中原中也」⇒「尾崎豊」、「中二病」、「江戸川乱歩」⇒「屋根裏の散歩者」⇒「変質者」、「田山花袋」⇒「蒲団」⇒「変質者」、「村上春樹」、「鈴木光司」⇒「リング」⇒「貞子」などであった。

免責事項:
本稿における梶井の『檸檬』や芥川の『蜜柑』の内容について、夫のおぼろげな記憶と、おそらく改ざんされた記憶とが入り混じっているため、正確さは一切保証しません。あくまで夫婦の間だけで盛り上がった、バカバカしい雑談の一つです。表現も含めて、お見苦しい点もあるかと思いますが、寛大な心でお読みいただければ幸いです。


余談で、私の好きなエピソードをひとつ紹介します。

井上陽水の傑作『氷の世界』(1973年)に、『白い一日』という歌があります(作詞は小椋佳)。歌詞はこうです。

真っ白な陶磁器を
ながめては飽きもせず
かと言って触れもせず
そんなふうに君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく

「真っ白な陶磁器(とうじき)」が何を示しているのかは別として、以前ある人が「ぼくはずっと、真っ白な掃除機(そうじき)だと思っていた」という記事を読んだ。

※ 1973年の頃は、白物家電や電気式掃除機の「一家に一台」がほぼ定着した時期で、戦後の貧困から激動の1960年代を経て、ささやかながら豊かになりつつあった日本の一つの姿を象徴。

その人によれば、「真っ白な掃除機」だからこそ、この歌がとても好きだったそうだ。
おそらく、そこにある慎ましい生活、四畳半(1970年代を象徴するキーワード)、のんびりした時間、平凡で、平穏な日常、そして「君」、そういったものを、感じ取っていたのかもしれない。
その後、何かの機会があって歌詞を知ったら「真っ白な陶磁器(とうじき)」だったことに気づいたそうだ。

私はこのエピソードが好きだ。
この人の中では「真っ白な掃除機」だったのだ。そしていまもそれは「真っ白な掃除機」のままでいいと思う。

だからだろうか、私の中で感じた芥川の『蜜柑』は、元の小説に記されている内容とはちょっと違うかもしれない。でも、私はそれをあえて確認したくなかった。いつもなら青空文庫の『蜜柑』のリンクを貼るところだが、今回はそれをしたくなかった。自分の中では、それが正しかったか間違っていたかよりも、そうした感動を抱いたときの気持ちのほうを大切にしておきたかった。そのままでいいのだ。何でも知ればいいというものでもない。