かげろうの君と #08 第二話 憧憬④
第二話 憧憬④
「映画、とても面白かったわ。綺麗な色も着いていて驚いたし、音も凄かった。わざわざ隣町までありがとう、拓海」
「どういたしまして」
幸子が嬉しそうに、店内を見回す。
「それにしても、橋の近くにこんな純喫茶があったなんて」
隣町で映画を観終えた二人がやってきたのは、あの橋の近くにある、昔ながらの喫茶店。
どうしてもここに連れてきたくて、わざわざ戻ってきたのだった。
「このお店で良かったかな?」
「ええ。落ち着いていて、とても素敵な雰囲気だわ。あたしがずっと思い描いていた通り」
向かいの席に腰を下ろして微笑む彼女。
「このお店は休みの日に、たまに来てるんだ」
「そうなのね。日常にこんな純喫茶があるのは、とても羨ましい」
「さっちゃんの時代にもコーヒーはあったんでしょ?」
幸子が寂しそうに首を振る。
「コーヒーは高級品だし、あたしが大人になった頃にはコーヒー豆は手に入らなくなって、代用コーヒーばかりだった。お店も次々に潰れて」
「そうなんだ……」
何となくだが、これまでの話から、彼女が生きたのは日本がとても暗く貧しかった戦前から戦時中にかけてだろう。
もっとも、そこを詮索することに意味は感じない。
二人にとって大切なことは今、この瞬間。
「ね、拓海。お品書きが見たいな。あたしは飲めないけど」
ああ、とテーブルの横に立てられたメニューを開いて、彼女に見せる。
「さっちゃんが気になるものを頼むから、決まったら言ってね」
「うん。……えっ? ブルーマウンテンがあるの!? 英国王室御用達の、幻の高級コーヒーじゃない!」
「そうなの?」
「見たいわ! あ、でも高いかしら……。なっ、700円!?」
書かれた値段に青ざめる彼女。
そういえば前に、戦前の1円は今の数千円の価値だったと聞いたな、と思い至る。
「大丈夫だよ。ブルーマウンテンならいつも頼んでいるやつだし」
「……拓海はお金持ちなの?」
「まさか。ただの庶民だよ。じゃあブルーマウンテンね」
拓海は笑いながら店員を呼ぶと、ブルーマウンテンを注文した。幸子はそわそわした感じで、落ち着かない様子だ。
「お待たせしました」
コトリ、と目の前に置かれた、湯気の立ち上る漆黒のコーヒー。
彼女はそっと覗き込むと、香りを嗅ぐ仕草をしてみせる。
「これがブルーマウンテンなのね……。一度でいいから本物の匂いを嗅いでみたかったわ」
彼女の身になってみると、その無念さは痛いほど分かるが、さすがにこればかりはどうにもできない。
そんな拓海の心中を慮ったのか、彼女が笑顔を作ってみせる。
「ありがとう、拓海。大丈夫よ。あたしに気にしないで、味わって。あたしはあなたと一緒にこのお店の雰囲気を味わえただけで幸せなの」
そっと手を胸に当てて目を瞑る幸子。
「それにここはあたしのいる橋からも近いし。よかったら、また、連れて来てくれる?」
こんな些細なことで幸せそうな表情を浮かべる彼女に、胸がいっぱいになる。
「……そのことなんだけどさ、さっちゃん」
「なあに?」
意を決して幸子を見つめる。
「よ、良かったら、このままずっと俺に取り憑いて、一緒に暮らさないか?」
「え?」
拓海の言葉に、豆鉄砲を食らった鳩のような目の幸子。
「動けると分かった以上、あんな寂しい橋に君を放置しておくなんて嫌だし、俺はこの先もずっとずっと、君と一緒に居たいんだ」
「拓海……」
幸子は驚きのあまりしばらく固まっていたが、やがて双眼からボロボロと涙が溢れ出した。
「あたし、幽霊よ? お料理も出来ないし、洗濯も掃除も出来ない。何ひとつ拓海の役に立てないのよ?」
泣きながら首を横に振る彼女。それが拒絶を意味していないことくらい分かる。
「君にそんなことは求めちゃいないし、今はそんな時代じゃない。俺はただ、君にずっとそばにいて欲しい。俺には君の存在が必要なんだ」
「でも……」
嘘偽りのない、心からの言葉。彼女はずっと俯いたまま、涙を流し続けている。
「……あたし、幸せになっていいの?」
消え入りそうな声で聞いてくる。
「当たり前じゃないか。それにね、何より俺が幸せになりたいんだ。さっちゃんと一緒に」
その言葉に彼女がスッと顔を上げる。涙に濡れながらも、悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「いいわ。拓海と、ずっと一緒に居てあげる」
「本当に!? ありがとう、さっちゃん」
ホッとすると同時に、彼女の手を握り締めたかったが、その手は虚しく空を切る。
だが、それでも良かった。生まれて初めて、心から繋がれた愛おしい存在。
「二人でもっともっと色んなところに行こう。さっちゃんが生前に行きたかったところに連れて行ってあげる」
「ありがとう。でも無理はしないでね。あたしは拓海と一緒にいられるだけで幸せなんだから」
「俺も。……好きだよ、さっちゃん」
驚いた。
奥手だった自分の口から、こんなにサラッと愛の言葉が出てくるようになるなんて。
想いが溢れるとは、きっとこういうことを言うのだろう。
「ほっ、ほらっ、拓海! 早く飲まないとせっかくのコーヒー冷めちゃうわよ!」
真っ赤になって慌てふためく彼女に拓海は微笑むと、促されるままに、カップを口に運んだ。
すっかりぬるくなっていたが、その日のブルーマウンテンは、いつもよりも芳香で甘酸っぱい味がした。
プロローグ かげろうの君と #01 プロローグ|京
