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子どもの「好き」を守るということ―「聴いてくれる大人」が育てる探究心―

私は、「博士ちゃん」というテレビ番組が大好きです。

幼い子どもたちが、自分の大好きなことについて、大人顔負けの知識を披露します。

蒸気機関車、電車、昭和バブル、エジプト文明、機械式時計、神社仏閣、日本史……。

その興味関心は実に多岐にわたります。

しかも、単に知識が豊富というだけではありません。

「どうして、そんなことまで知っているの?」

と思うほど、深く、細かく調べています。

そして何より、そのことについて語るときの表情が輝いています。

まさに「博士」と呼ぶにふさわしい子どもたちです。

エジプト文明に興味を持った子が、実際にエジプトまで足を運び、その見識の深さから、一般の人ではなかなか見ることのできない場所まで案内される。

そんな姿を見ると、

「子どもの『好き』という気持ちは、ここまで人を動かすのか」

と、驚かされます。

しかし、今回、私が心を動かされたのは、博士ちゃんの知識の深さだけではありませんでした。

ある博士ちゃんが、昭和バブルの時代に興味を持ち、その足跡を追いかけていました。

そして番組の中で、両親や祖母に向けて、感謝の言葉を述べたのです。

その言葉が、私の胸に深く残りました。

幼い頃、その子は工事現場を見ることが大好きだったそうです。

普通なら、大人は思うでしょう。

「そろそろ帰ろうか」

ところが、その両親は、その子が「帰る」と言うまで、2時間でも3時間でも付き合ってくれた。

その子は、そんな幼い頃の経験を振り返りながら、

「だから、自分は好きなものに純粋でいられた」

という趣旨のことを話していました。

私は、この言葉に、しばらく心を奪われました。

子どもが何かを好きになること。

それ自体は、特別なことではありません。

電車が好き。

虫が好き。

恐竜が好き。

時計が好き。

歴史が好き。

工事現場が好き。

大人から見れば、「そんなことに興味を持って、何になるのだろう」と思うこともあるでしょう。

学校の勉強に直接つながるわけでもない。

将来の仕事に役立つかどうかも分からない。

それでも、その子にとっては、たまらなく面白い。

だから、もっと見たい。

もっと知りたい。

もっと調べたい。

そして、誰かに話したい。

私は、ここに「学び」の原点があるのではないかと思うのです。

「好き」を育てるのは、教えることだけではない

私たちは、教育というと、つい「何を教えるか」を考えます。

どんな知識を与えるか。

どんな問題を解かせるか。

どんな力を身につけさせるか。

もちろん、それらは大切です。

しかし、博士ちゃんたちの姿を見ていると、その前にもっと大切なことがあるように思えてなりません。

それは、

「この子は、いったい何に心を動かされているのだろう」

と、大人が子どもの内側を見ようとすることです。

そして、その「好き」を否定しないことです。

「そんなことを知ってどうするの?」

「もっと勉強になることをしたら?」

「そんなに夢中になるなんて、ちょっと変わっているね」

そんな言葉を投げかけられたら、子どもの「好き」は、少しずつ小さくなってしまうかもしれません。

反対に、

「そんなに好きなんだね」

「それで、どうなったの?」

「どうしてそこが面白いの?」

「もっと教えて」

と、大人が耳を傾けてくれたらどうでしょう。

子どもは、自分の「好き」を、もっと語りたくなります。

もっと調べたくなります。

もっと知りたくなります。

そして、

「好き」が「興味」になり、「興味」が「探究」になり、「探究」が「学び」になっていく。

私は、そんな順序があるのではないかと思っています。

「聴く」という教育

だからこそ、私は「聴く」ということを、もっと教育の中心に置いてもよいのではないかと思います。

子どもが何かを熱心に話しているとき、大人はつい、「教える側」に回ってしまいます。

「それはこういうことだよ」

「正しくはこうだよ」

「もっとこうしたらいいよ」

と、すぐに答えを与えようとします。

しかし、子どもが求めているのは、いつも「答え」なのでしょうか。

そうではないことも、たくさんあるのではないでしょうか。

「僕は、こんなことが好きなんだ」

「私は、これが面白いと思うんだ」

そんな気持ちを、まず誰かに受け止めてほしい。

「そうか。そんなに好きなんだね」

その一言を聞くだけで、子どもの心は安心するのではないでしょうか。

自分の話を聴いてもらえた。

自分の興味を大切にしてもらえた。

自分の「好き」を笑われなかった。

その体験は、

「自分は大切にされている」

という感覚につながっていくように思います。

「聴く」ということは、単に相手の話を聞くことではありません。

相手の存在を認めることです。

相手の世界を尊重することです。

そして、

「あなたの感じていることには、価値がありますよ」

と伝えることなのだと思います。

「聴いてくれる大人」がいるということ

今回の博士ちゃんの話で、私は特に、ご両親の姿が心に残りました。

幼い子どもが工事現場を見たいと言う。

大人には、何がそんなに面白いのか分からないかもしれません。

それでも、その子が「帰る」と言うまで付き合う。

2時間でも、3時間でも。

それは、単に工事現場を一緒に見てあげたという話ではないと思います。

その時間を通して、ご両親は、その子に、

「あなたが面白いと思っているものを、私たちも大切にするよ」

と伝えていたのではないでしょうか。

言葉ではなく、行動によって。

それが、その子の「好きなものに純粋でいられた」という感覚につながったのかもしれません。

子どもにとって、「聴いてくれる大人」がいることは、とても大きな意味を持つのだと思います。

学校の成績が良いかどうか。

テストで何点取ったか。

どんな賞を取ったか。

そうしたものとは別のところに、

「自分の好きなことを、好きなままでいられる場所」

がある。

それが子どもにとって、大きな心の支えになるのではないでしょうか。

私も、これまで「聴く側」にいた

そして、番組を見ながら、私は自分自身のことを考えていました。

私はこれまで、長い間、子どもたちの話を聴いてきました。

子どもたちは、本当にいろいろなことを話してくれました。

今日あったこと。

学校のこと。

友達のこと。

家族のこと。

好きなもののこと。

時には、大人からすれば、どうでもいいように思えるようなことを、目を輝かせながら話してくれることもありました。

私は、そんなとき、できるだけ話を聴いてきたつもりです。

「そうか」

「それで?」

「もっと聞かせて」

そんなふうに、子どもの話に耳を傾けてきました。

そのときの私は、それが特別な教育だとは考えていなかったかもしれません。

子どもが話しているから聴く。

ただ、それだけでした。

けれど、今回の博士ちゃんの言葉を聞いて、ふと思ったのです。

もしかすると、私がこれまで聴いてきた子どもたちも、いつか大人になったとき、

「自分の話を聴いてくれた人がいた」

と思い出してくれることがあるのだろうか、と。

もちろん、それは分かりません。

分かりませんが、もし一人でも、

「あのとき、自分の話を真剣に聴いてくれた大人がいた」

と思ってくれているのなら。

そう考えると、これまで子どもたちと過ごしてきた時間が、少し違って見えてきます。

そして、胸が熱くなりました。

「聴いてくれて、ありがとう」

博士ちゃんが両親や祖母に向けて語った感謝の言葉。

そこには、単純な、

「自分の好きなことに付き合ってくれて、ありがとう」

という思いがあったのだと思います。

けれど私は、その奥に、

「僕の世界を大切にしてくれて、ありがとう」

という気持ちもあったのではないかと思います。

自分が夢中になっているものを笑わなかった。

自分の話を面倒がらなかった。

自分が納得するまで付き合ってくれた。

その積み重ねが、

「自分の好きなものを大切にしていい」

という確かな自信につながったのではないでしょうか。

そして、それがやがて、一人の「博士」をつくった。

そう考えると、教育とは、知識を与えることだけではないのだと思います。

その子の中に生まれた「好き」を、大人が一緒に守ってあげること。

それもまた、教育なのです。

子どもの「好き」を笑わない

私は、子どもの「好き」を、大人がもっと大切にしてほしいと思います。

それが、将来何の役に立つかなど、最初から分からなくてもいいのです。

役に立つかどうかを考える前に、

「この子は、今、何に心を動かされているのだろう」

と見てほしいのです。

そして、その話を聴いてあげてほしい。

子どもが夢中になって話し始めたら、忙しい手を少し止めて、

「そうなんだ」

「それで?」

「もっと教えて」

と聴いてあげてほしい。

それだけでいいのかもしれません。

大人には分からない世界でもいい。

大人には価値が分からないものでもいい。

その子にとって、それが大切なのなら、一緒にその世界を覗いてみる。

それが、「その子を一人の人間として尊重する」ということなのではないでしょうか。

子どもの「好き」は、小さな芽のようなものです。

水をやり、肥料を与え、形を整えることばかりが教育ではありません。

ときには、ただそばにいて、その芽が伸びていくのを見守ることも必要です。

そして、そのためには、大人の「待つ力」と「聴く力」が必要なのだと思います。

「聴く」ことから、教育は始まる

私はこれまで、教育についてたくさんのことを考えてきました。

「ことば」の大切さ。

「学ぶ」ことの意味。

子どもの可能性。

思考力。

探究心。

そして、「愛」。

今回、「博士ちゃん」という番組を見ながら、そのすべてが一つにつながったような気がしました。

子どもが何かを語る。

大人が耳を傾ける。

子どもが安心して、また語る。

もっと知りたくなる。

もっと調べたくなる。

そして、いつの間にか、その子だけの世界が広がっていく。

その始まりにあるのは、ひょっとすると、とてもシンプルなことなのかもしれません。

「あなたの話を聴かせて」

という、大人の姿勢です。

私は、これまで多くの子どもたちの話を聴いてきました。

その時間が、どれほど子どもたちの人生の糧になったのか、それは私には分かりません。

けれど、今回の博士ちゃんの言葉を聞いて、

「聴いてくれて、ありがとう」

という言葉が、心の奥から聞こえてくるような気がしました。

そして同時に、私自身も、

「聴かせてくれて、ありがとう」

と、子どもたちに伝えたくなりました。

子どもが話してくれるということは、

「僕の世界を見てほしい」

「私のことを知ってほしい」

ということなのかもしれません。

だから、私はこれからも子どもの話を聴きたいと思います。

たとえ、それが大人にはよく分からない話であっても。

たとえ、同じ話を何度聞かされても。

たとえ、それが学校の勉強とは何の関係もないことであっても。

その子が目を輝かせて語るのなら、まず聴いてあげたい。

なぜなら、

「聴く」ことは、相手に「あなたは大切な存在ですよ」と伝える、最もシンプルで、そして最も強い行為の一つだからです。

今回、若い「博士ちゃん」から発せられた言葉は、私の心を大きく揺さぶりました。

そして、長い間、子どもたちと向き合ってきた私自身に、もう一度、大切なことを教えてくれました。

子どもの「好き」を笑わない。

子どもの「なぜ?」を急いで消さない。

そして、子どもが語り始めたら、まず、聴く。

教育は、案外、そこから始まるのかもしれません。


―― Ishikawa Method|基礎から未来を育てる教育へ
             Ishikawa Education Research Institute
               イエリ「石川教育研究所」


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