「創作大賞応募w」小説「ワシの道草」※30000字くらいです
2026年版がありますので以下をお読みくださいマセ。
※あらすじ
60代の主人公”ワシ”ことモモザワが、選挙の投票にいって帰るまでの物語。”ワシ”は、選挙の投票にいく途中で孫ハルトに会ってピックマン人形を買いにワタナベ商店にいくことになる。ピックマン人形を買って投票にいった公民館でジンくんの兄ちゃんに会い、またもや一緒にピックマン人形を買いにいくことになる。それから、高校の同級生キヌエのために悪徳業者と戦ったり新しい出会いに少しドキドキワクワクしたりしながら”ワシ”はまたワタナベ商店にいく。
※※
(一)
60代に入ってから、ワシは自分のことを”ワシ”と言うようにしてみたが、これが家族にすこぶる評判が悪い。
特に妻はジジくさいからやめてくれと言う。しかし、60歳を過ぎたらジジイではないのか。くさいも何もない。ならば年相応に自分のことを”ワシ”と呼ぶのがワシの中では当たり前のことだった。
実際にワシが若い頃には、おそらく60歳以上のジジイは皆自分のことを”ワシ”と言っていたものだ。
妻はここでも「そんなことはない」と言い張ったが、およそワシの周りではそうだった。確かにそうだ。きっとそうだった。
妻が嫌がる理由は、あたしまで余計に年をとったように感じるから、ということらしい。妻はワシと同い年だ。
しかし60歳も過ぎれば妻だって、言ってしまえばババアではないのか。
ワシは妻に、お前も自分のことを、”あたし”ではなく年相応に”このオババ”とか”あたしゃ”と言うようにしてみたらどうか、と提案したら鬼の形相で怒り始めたので身の危険を感じて、その提案を取り下げた。妻は冗談が通じない。
それまでワシは、自分のことを”私”と言っていた。
別に普通だ。
しかし、実は長い間”私”は自分のキャラクターには合っていないと感じており、言うたびにへその周りが痒くなったものだ。
ワシは”ワシ”という言い方にある種の憧れがあった。
それは、ワシが子供のころ大好きだった母方の祖父が、自分のことを”ワシ”と呼んでいたことが関係しているかもしれない。
祖父は熊本で生まれ育ったので、
「熊本では子供のころからみんなワシじゃよ」
と、あるときワシが聞いたときに言っていた。本当かどうかは知らないが。ただ、祖父は菅原文太に似たカッコいい男だった。
とにかくワシの中では昔から、年を取ったら皆”ワシ”というのが当たり前でワシも当然そうなるものと思っていた。
しかし、長年の社会生活のしがらみの中で、ワシはなかなか自分のことを”ワシ”と言うことができなかった。
もちろん社会生活上はそのことで特に問題はなかったし、60代までは”ワシ”というのもワシのイメージには合わなかったということもあった。
会社を退職して、しかも60歳を過ぎたとき、ワシはもう堂々とワシと言ってもいいはずだ、と思った。
小銭を貯めて早期退職したので、今は面倒な”しがらみ”もほとんどないし、ここでは”私”こちらでは”ワシ”と使い分ける必要もない。ワシは”ワシ”一本やりで何も問題はなかったのである。
ワシは、ワシのことを”ワシ”と言い始めた。
「今時の60代はそんな年寄りでもないんだから、”ワシ”なんておかしいよ。周りのお年寄りでも”ワシ”なんて言ってる人いないよ。お父さん、もう無駄に年寄りくさいからやめなよ。しかも似合ってないよ」
近所に住んでいる30代の長女ミユキにも言われたが、ワシがワシのことをワシと呼ぶのに娘とはいえ、とやかく言われたくない。
ワシはワシじゃ。
いろいろ言われたところでワシは”ワシ”を変えるつもりはない。
使い続けていると、ワシも”ワシ”以外だと逆に違和感を感じるようになってきている。やはりワシは”ワシ”なのだ。
”ワシ”と言い始めて2、3ヶ月もすると周りにもワシの”ワシ”も定着してきているようだ。
時々、昔の仕事仲間から連絡が来たりしてワシが”ワシ”と言うと「モモさん、ちょっと雰囲気変わりましたね」などと遠回しに突っ込まれたりもしたが、基本それ以上聞いてくる者はいなかった。
ただ”ワシ”と言うようになると、ワシはなんだか友達付き合いが億劫になってきた。それは、ワシが”ワシ”と言った時の相手の微妙な反応が、段々目に見えぬストレスになってきたからかもしれない。
”ワシ”と言うようになってみると、不思議なことに言葉遣いも何となくそれに合わせた感じになってきた。
ワシは男じゃ。このような言い方は昔は絶対にしなかったが”ワシ”と言うようになってみると「ワシは男です」と言うより「ワシは男じゃ」の方がシックリくる。
ただ、この辺りはまだ付け刃という感じなので、使っていくうちに馴染んでいくのだろうと思っている。
最近では妻も諦めたのか、呆れたのかもう何も言わなくなった。
(二)
というわけで、今日は選挙の投票日だ。
今となっては毎日が日曜日だが、それでも本当の日曜日は他の曜日とは何かが違う。近所の雰囲気も平日と違い忙しなさがない。
しかしは今日はいつもの日曜日とは違う。どこかはやる気持ちが夏の入道雲のように湧き上がってくるのが自分でもわかる。
今日ワシは、調子に乗っている与党に鉄槌を食らわすために、怒れる国民の一人として重い重い一票を投げつけてやろうと思っていた。
長い間眠っていたワシの大和魂は覚醒し、振り上げた怒りの鉄拳を苦しんでいる国民や未来ある子供たちのために振り下ろしてやるのだ。
妻は、選挙に向けてワシがしつこく与党がいかにとんでもないことをしているかを、入れ歯が口から飛び出す勢いでしゃべるものだから(ワシは実際には入れ歯ではなかったが)、もう政治の話になると面倒くさそうにその場を離れるようになっていた。
土曜日の夜、つまり投票日の前日、ワシは翌日の投票に備えて早めに床についた。
日曜日の朝は、6時に起き布団の中で軽く身体をほぐした後、心を平静に保つために目を閉じ瞑想をした。妻は別室で寝ているので、ワシはいつもワシのペースで朝起きている。
年をとると朝が早くなるというが、ワシはもともと仕事でも朝がかなり早かったので、退職してからはむしろ少し起きるのが遅くなった。
妻は毎朝7時くらいに起きて朝食を作ってくれる。
以前はワシが朝が早すぎたので、妻は朝食を作ることはほとんどなかったが、退職してからは毎朝作ってくれるようになった。
8時過ぎに妻が作った朝食を食べ、9時には投票に行けるように準備を整えた。妻は片付けや洗濯などをしてから行くということなので、ワシは一人で家を出た。
投票所は歩いて15分程のところにある公民館だった。
※
ワシは家を出て真っすぐ歩いていた。
天気は良いが、何しろ暑い。日中は今日もかなり暑くなりそうだ。
5分ほど歩いて、最寄りの小さな無人駅に向かう脇道を通り過ぎようとしたところで、「お父さん」と声をかけられた。
振り返ると長女のミユキと夫のタカシくん、それに小学3年の長男のハルトがこちらへ歩いてくるところだった。ミユキ達は近所には住んでいるが、たまたまで会うことはそうそうない。これはかなり珍しいことだった。
「暑いですねえ、、お義父さん、投票ですか?」
タカシくんが人当たりのいい笑みを浮かべながらワシに声をかける。
「ああ、君らもか」
ワシは言いながら可愛い孫にも声をかけた。
「ハルト、じいじじゃよ、もう夏休みかな?」
「じいちゃん、ピックマン買ってよ」
ん、なに?と聞き返そうとしたときに、ミユキが「コラ!」とハルトを睨んだ。
「ピックマンだよお、売ってるんだよ、そこのワタナベ商店でぇ」ハルトがワシに訴える。
「ん、キヌエさんとこでか?」
ワタナベ商店は、駅前にある小さな駄菓子屋で、ワシの同級生のキヌエさんがやっているお店だった。
「お父さん、いいのよ。気にしないで、この前買ってあげたんだから」
「あれはポックリマンでピックマンじゃないよお、オレが欲しいのはピックマンだよお」
珍しくハルトが駄々をこねている。余程欲しいのだろう。その、、ピックリだかポックリだか知らないが、、。
「よくわからんが、オモチャくらいワシが買ってやるよ」
「お父さん!」
「ヤッター!」ハルトが歓声を上げる。
もう、キリがないのよ、とミユキが心底呆れながら言った。
「お義父さん、コレ」とタカシくんが財布からお金を出そうとしていた。
「いいよいいよ」ワシは手を振りながら、じゃあハルト、おじいちゃんとワタナベ商店いくか、と孫の頭を撫でながら言った。
投票に行ったら家にハルトを連れて行くから、と言ってワシはハルトの手をとって無人駅がある脇道の方へ歩き出した。
じいちゃん、ありがとうとハルトは言って澄んだ目でワシを見上げた。
(三)
ピックマンというのは、少し前に流行ったゲームのキャラクターで今年になってその人形を集めるのが、なぜか小学生の間でブームになっているそうだ。
最近アニメ化されてテレビで放送されているらしく、ブームに拍車がかかっているらしい。
ハルトの話だと、ミユキに買ってもらったのはポックリマンという敵のキャラクターということだった。
ミユキが、ハルトが欲しがっているので気を利かせて仕事帰りに買ってきてくれたということだ。それはそれでいいのだが、人気なのはやはりメインキャラクターのピックマンらしい。
ピックマンは今非常に人気があるため、店頭に並ぶとすぐ売れてしまうということだ。ハルトは、友達からワタナベ商店にピックマンの人形を含めたグッズが売っているということを聞いて、それがどうしても欲しいのだと言う。
ワタナベ商店は、小さな駄菓子屋だがちょっとした野菜や食品、日用雑貨まで売っている。子どもの客が多いということで子供向けのおもちゃもそれなりに置いている。近くの無人駅を使って学校に行く高校生なども利用していて、夕方近くなると、下校してきた高校生たちが店の前で駄菓子を食べながら集まって話をしている。
今日は日曜日なので、お店はやってないかもと思ったが、ワタナベ商店は営業していた。学校はもう夏休みだと思うが、だからこそ子どもたちがお店に来ることもあるのだろう。
ハルトは、入口の引き戸をもどかしそうに開けると店内に入り、目当てのピックマンとやらをウロウロしながら探した。店内は微妙にクーラーが効いている。
レジのあるカウンターを見ると、いつもキヌエさんが座っているイスに見慣れない女性が座っていた。
どことなく面影がキヌエさんに似ているので、ワシはおそらく娘ではないかと見当をつけた。
「じいちゃん、コレコレ!」
ハルトが興奮した様子でワシを呼んだ。
「これ買っていい?」
ハルトは、ビニールの袋に入った赤っぽい人形?をワシに見せつけてきた。
「これがポックリか?」
「違うよ、ピックマンだよ」
赤い体で目が飛び出ている得体のしれない人形で、何がいいのか全くわからない。こんなものが人気あるのか。
ワシはその赤い人形をハルトから受け取り、レジカウンターに置いた。
「これを」
「ハイ、ありがとうございます」
その女性は、30代くらいだろうか、やはり若い頃のキヌエさんによく似ているように思った。
キヌエさんは結婚して実家を離れていたが、いつごろからか母親と同居するようになったらしい。キヌエさんは離婚しているらしいので、それがきっかけなのかもしれない。
キヌエさんの母親は、ワタナベ商店を営業していてお店と別にある実家を行き来しながら生活していたようだが、病気で具合が悪くなりお店は一旦閉店した。
父親はすでに亡くなっており、母親もその後入院することになったようだが、そのうちキヌエさんがワタナベ商店を営業するようになった。
「今日はキヌエさんは?」
ワシはレジにいるその女性に聞いてみた。
「ああ、母はちょっと具合が悪くて、家で寝てるんです」
「そうですか」
キヌエさんが住んでいる家は、ワタナベ商店から7,8分ほどのところにある一軒家で、公民館に行く手前にあった。
キヌエさんに娘がいることは知っていたが、東京の方に出ていったと聞いていた。
「キヌエさんの娘さんかな」
少し馴れ馴れしい感じもしたが、ワシは彼女に聞いてみた。
「あ、そうです。、、ちょっと今帰ってきてて、、」
たまたま帰省しているという意味だろう、彼女は言った。
キヌエさんとは同級生でね、とワシは言いながら人形の代金を支払った。
「そうですか、、」と彼女は言ってやんわり微笑んだ。
袋にお入れ、、と彼女が言いかけた時にはハルトが、赤い目が飛び出たその人形をふんだくっていた。
ワシは苦笑いをしながら、手を軽く振って袋が必要ないことを彼女に伝えた。
「ありがとうございました」と彼女は、きれいな声で言った
ワシとハルトは、ワタナベ商店を出て、来た道を歩いて戻り始めた。ハルトは満足そうに赤い人形のビニール袋を手に持っていた。
歩きながら気が付いたが、ハルトは赤い人形、ピックリが描かれたTシャツを着ていた。そんなに好きなのか。ならば、手に入ってよかったな、ハルト。
ワシとハルトは元の道に戻り、ミユキ達と会ったあたりまで来た。それから二人で公民館の方へ歩いて行った。
ハルトとは手を繋ぎながら歩いた。多くはないがこの道は車も通る。
公民館で投票して、帰りにハルトをミユキの家に送り届けるつもりだったが、よく考えたらミユキ夫婦も投票で公民館に行くのなら、おそらく途中で投票を終えたミユキ達と会うはずだな、とワシは思った。
ワシとハルトは信号のある交差点を越え、公民館の方へ歩いて行った。選挙に行く人だろうか、チラホラ人が公民館の方へ歩いている。
ハルトは人形を買ってもらったことに満足したのか、喋らずに喜びを嚙みしめるように歩いていた。
(四)
道路沿いにある、玄関前にシルバーの軽自動車が停まったこじんまりとした一軒家の前まで来た。
道路から見える玄関の表札には「渡辺」の文字がある。キヌエさんの家だ。道路に面した部分にはフェンスがあり、庭の方はよく見えなくなっている。
ワシは見るとはなしに、フェンス越しに中を見ながら歩いていた。
庭の方に人の気配がして、ワシが「ん?」と思っていると、
「ひゃあ」
と女性の声がした。キヌエさんの声のような気もしたが、違う気もした。ワシはキヌエさんのそんな声を聞いたことがなかったから。
ワシは、ハルトと顔を見合わせフェンスの上から中を覗いてみた。
フェンス越しに見える庭には、小さな畑があって野菜らしき何かが整然と植えられていた。畑の脇のところに濃い茶色っぽいカーディガンを羽織ったキヌエさんが尻もちをついていた。
「キヌエさん」
ワシはハルトと一緒にフェンスを回り込んで庭に座り込んでいるキヌエさんに駆け寄った。
「モモザワさん」
キヌエさんがワシを見ていった。
「大丈夫ですか」
「あ、ええ、庭のトウガラシを獲ろうとしたらフラッとしちゃって、、」
「体調が悪いときは動かないほうがいいですよ」
ワシは、キヌエさんの身体を支えながら起こして、玄関の方までゆっくり寄り添っていった。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です、、」
玄関を入り腰を降ろしたキヌエさんは申し訳なさそうに言った。
ワシは、ついさっきワタナベ商店に寄ってきたこと、キヌエさんが具合が良くないと娘さんに聞いたことをキヌエさんに伝えた。
ハルトが、これ買った、と言って赤い人形をキヌエさんの前に掲げた。
「そうでしたか、大したことないんですけど、娘が休めって言うもんで、、」
少し微熱があるくらいなんですけど、とキヌエさんは言った。
「無理はしないで休んだほうがいいですよ、夏風邪はしつこいといいますし」
言い終えると「では」と言ってワシはハルトと玄関のドアを開けて外に出ようとした。
「あ、あの、、」
キヌエさんの声に、ワシは振り返った。
「あの、ありがとうございます」
いえ、と言ってワシはハルトと玄関を出た。
(五)
「ワタナベ商店のおばちゃん、危なかったね」
ハルトが、歩きながら少し興奮したように言った。
「そうじゃな」ワシは言いながら、考えていた。
ワシは、キヌエさんのことをキヌエさんというが、キヌエさんはワシのことをモモザワさんと言う。
以前からだが、なんとなくバランスの悪さを感じる。
キヌエさんとは、高校の同級生で同じクラスだった。クラス内にワタナベさんが3人もいたので、他の二人と呼び分けるために皆キヌエと名前で呼んでいた。ワシは呼び捨てすることはできなかったが、そもそも名前を呼ぶこともほとんどなかったと思う。女子には”キヌちゃん”と呼ばれたりもしていた。
ワシは、この当時キヌエさんに淡い恋心を抱いていたが、学校を卒業して離れ離れになると自然と忘れていった。
人生の喧騒の中で、ワシはキヌエさんのことを思い出すこともあまりなかったが、たまたま閉店していたワタナベ商店が、また再開したと聞いてなんとなくフラッとお店に寄ってみた。
このときにはキヌエさんのことはすっかり忘れていたが、実は高校の時にワシはこっそりワタナベ商店の場所を見に来たことがあった。どこで聞いたのかは覚えていないが、キヌエさんの家が隣町に会って、お店を営んでいると知って、若気の至りだが見に来たのだ。
わざわざ隣町から自転車で見に来たので、当時はそれなりにやはり恋心があったのだろう。今ならストーカーと言われてしまうのかもしれないが。
とにかくそこで、本当に久しぶりにキヌエさんと再開した。もちろん高校の同級生として。キヌエさんは昔の面影を残しながらも、やはり年相応になっていた。
ワシは、時の流れとともに自分の感覚の変化を感じていた。昔と違って実に気安く話せる自分に、若干驚いてもいた。そもそもそんなに話をする関係性ではなかったが、これが時の流れと同級生の気安さというものだろうか。
積もる話もなくはなかったが、共有できる話も少なく、近況を少し話す程度で、それでもしかし、ワシは春のように静かな喜びを感じていたのも事実である。
「モモザワさんも”ワシ”っていうお年になったのね」
と言って面白そうに笑うキヌエさんに、年甲斐もなくまた恋をしそうになった。
「じいちゃん、公民館行くんじゃないの?」
ハルトの言葉で我に返った。見るとワシらは公民館の前まで来ていた。一人だったら通り過ぎていたかもしれない。
「そうじゃった」
ワシはハルトの頭を撫でながら言った。
そういえばミユキ達とすれ違わなかったな。キヌエさんのところに行っているときに行き違ったか。なら、ハルトをミユキの家まで送り届けないとな。
公民館の入口は道路の裏手にあり、ワシらは建物を回り込んで歩いていった。
投票を終えた人であろう何人かの人とすれ違ったが、やはりミユキ達はいなかった。
「じいちゃん、ちょっと投票してくるからハルトはここで待っててくれな、暑かったら中に入っててもいいから」
公民館の入口前でワシはハルトに言って、公民館の中に入っていった。
(六)
投票を終えた。なんとなく街の空気として与党に対する怒りを感じていたワシは、投票所の静かな雰囲気に少し拍子抜けしていた。
なんというか、皆怒りに燃えていると思っていたのだ。しかし考えてみると、投票所を運営する人たちが、そんな怒りに燃えているはずもなかった。
投票所は至って静かで、厳かな雰囲気さえ漂っていた。
ワシは平静を取り繕いながら怒りの1票を投票箱に入れ、一礼をして投票所を出た。
入口のところではハルトが、、、ん? いない。どこに行った?
待ちきれずに、そこら辺で遊んでいるんだろうとも思ったが、時間にして5分も立っていないはずだ。しかし、こんなところで何も起こりようがないはずだが。
ワシは表の道路の方に出てみた。
しかし、ハルトの姿はない。じんわりと汗がにじむ。
どこに行った?
ワタナベ商店で売ってるんだよ、というハルトの声がさっきまでいた公民館の入口の方から小さく聞こえた。
ワシは、入口の方へ足早に戻った。何もないとは思ったが、姿が見えないとやはり心配になる。
入口のところで、ハルトとハルトよりも身体の大きい中学生くらいの少年が、話をしていた。
「だから、ワタナベ商店で買ったんだよ。いけば、たぶんまだあるよ」
ハルトは、その大きな少年に、ホラ、駅前のお店、と言いながら身振りも交えて説明していた。
「へえ、いいなあ」
水色のTシャツに半ズボンのその大柄な少年は、大きな身体の割にどこか子どもっぽい喋り方をしていた。
あ、じいちゃん、とワシに気づいたハルトが言った。
「ハルト、どこにいたんじゃ。探したぞ」
「ごめんなさい。ジンくんの兄ちゃんが、、」
「こんにちわー」
ジンくんの兄ちゃんといわれた、その身体の大きな少年がワシに大声で挨拶した。
「ハイ、こんにちは」
と挨拶を返して、ワシはその”ジンくんの兄ちゃん”を見た。
中学生にしても、大きい方ではなかろうか。それにしても不思議な雰囲気を持った子だ。
ワシは、ジンくんの兄ちゃんになぜか軽くうなづいて、ハルトに言った。
「お母さんが心配するといかんから、帰るよ」
たぶん、入れ違いで先に家に帰っとるよ、と言いながらワシはハルトの頭を撫でた。
「じいちゃん、ジンくんの兄ちゃんもピックマンが欲しいんだって、さっきからワタナベ商店にあるって言ってるのに、、」
ハルトが、もどかし気に言った。
「そうか、、ピックリの人形なら駅前のワタナベ商店にあるよ」
ワシは、大きな少年を見て言った。
「いいなあ、ピックマン。オレもほしいなあ」
なにか微妙な会話のズレを感じながらワシは
「だったらワタナベ商店の近くまで一緒にいくかい? どうせ帰り道じゃし」と言ってみた。
「うん!」
大きな少年は元気に頷いた。
ワシは、友だちなのか?、とハルトに聞いた。
「だから、ジンくんの兄ちゃんだよ」
ハルトは、さっき言ったじゃん、とでも言いたげにワシに答えた。
まあ、いいか。ワシは納得して、三人で歩き始めた。
(七)
キヌエさんの家の前まで来た。
ワシは見るとはなしにキヌエさんの家の玄関の方を見てみたが、特に変わった様子はない。
ゆっくり休んでいるといいんじゃが。ああいう人は動いてないと落ち着かんみたいじゃからな。ワシは、キヌエさんの家の前を通り過ぎながら考えていた。
ハルトとジンくんの兄ちゃんは、なにやらピックマンについて話しているようだが、どこか話がずれているようで、ハルトは少しイライラしているようだ。
「だから、それはポックリマンじゃなくて、プックリウーマンだよ、それ敵だからね、味方じゃなくて」
「ああ、プックリウーマンも好き。ホントはやさしいんだ、プックリウーマンも」
ワシは、なんの話をしているかさっぱりわからなかったので、相槌も打ちようがなかった。ただ、このジンくんの兄ちゃんもどこか危なっかしい感じがしたので、気を抜かないように注意しながら歩いていた。
まさか、いきなり道路に飛び出すことはないと思うが、そう思わせる気配があってワシは歩いていて、気が抜けなかった。
「あ、兄ちゃん!」
信号のある交差点まで来たとき、横からハルトと同じくらいの男の子の声がした。
「ジンくん」ハルトが声の方を見て言った。
じいちゃん、ジンくんだよ、とハルトは言ってワシの腕をポンポンと叩いた。
「兄ちゃん、何してるんだよ! 勝手にいくなよ!」
白いTシャツに短パンのその少年”ジンくん”は少し怒っているようだった。
「ピックマンを買いにいくところ」
ジンくんの兄ちゃんは、特に悪びれる様子もなくジンくんに言った。
「選挙終わったらばあちゃんチに行くってお母さんが言ってただろ」
ジンくんの言葉でワシは大体何があったのかを理解した気がした。
つまり、ジンくんの兄ちゃんも家族で投票に来ていて、おそらく家族が投票している間に、ジンくんの兄ちゃんだけ家族と逸れてしまったのだ。そして、ジンくん家族はこれからおばあちゃんの家に行くことになっている。
「兄ちゃんがすいませんでした」
ジンくんは私に丁寧に頭を下げた。
いいって、いいって、とワシの代わりにハルトがジンくんに手をヒラヒラと振った。
兄ちゃん、いくよ、とジンくんがジンくんの兄ちゃんを促すと、ジンくんの兄ちゃんは
「ピックマン買いに行く!」
とガタイの大きさに似合わない子どもっぽい仕草で地団駄を踏んだ。
皆んな待ってるんだよ、兄ちゃん、とジンくんは言って、ワシにまた「すいません」と頭を下げた。
「ワタナベ商店はもうすぐそこだから、ピックリだけ買っていったら?」
ワシはジンくんに提案した。この感じで無理やり家族の元に連れて行っても、よくないだろうとワシは思った。
「でも、兄ちゃんお金持ってないんで、、」
いいよいいよ、とワシが言うとジンくんの兄ちゃんは嬉しそうにヤッターと言って、小さく大きな身体を横に揺らした。
「すいません」
ジンくんは、本当に申し訳無さそうに頭を下げた。
「気にしなくていいんじゃよ、欲しいものは欲しいときに手に入れるのが一番いいしな、なあ」
ジンくんの兄ちゃんは満面の笑みだ。
いいってことよ、とハルトがジンくんの肩を叩くと、ジンくんは少し照れたような笑みを見せた。
「でも、時間は大丈夫なのかい? ワタナベ商店はすぐそこじゃが、、お母さんたちは、、」
「大丈夫です。家で待ってるだけだから」
あー携帯電話があれば連絡できるんだけどなあ、とジンくんは言っていたが、ジンくんの表情から、おそらくそんなにキッチリした予定というわけではないのだろうとワシは思った。
ピックリを買っても大した時間はかからないだろうから、問題ないとワシも判断した。
そういえば、ワシも携帯電話を家に置いてきたようだ。退職後はあまり使わないので、つい家に置いたまま出かけてしまう。
じゃあ、いこうか、とワシは言って歩き始めた。
ワシとハルト、それにジンくんとジンくんの兄ちゃん。ワシらは4人で信号を渡った。
ワシとハルトに続いて、ジンくんとジンくんの兄ちゃんは後ろから付いてきていた。見ると、ジンくんはジンくんの兄ちゃんと手を繋いでいる。
(八)
ワシ達たち4人は無人駅への脇道へ入り、ワタナベ商店の方に歩いて行った。
ワタナベ商店の前まで来ると、入口のところに自転車が一台停まっていた。ワタナベ商店は、正直客がいる印象があまりないので、ワシは珍しいなと思った。
ハルトが入口の扉をガラガラと開けた。ジンくんとジンくんの兄ちゃんがハルトに続いて店内に入る。
ワシも店内に入ると、レジカウンターの前にワシと同じくらいの年に見える男性が立っていた。
男性は、キヌエさんの娘さんと話をしていたようだが、こちらをチラッと見て、子供だけじゃなく大人もいたのか、というような顔をした。この辺りでは見かけない顔だ、少なくともワシは見たことがない。
「あ、いらっしゃいませー、あら」
キヌエさんの娘さんが、ワシに気付いてニッコリと微笑んだ。
ワシはハルトたちを指さして苦笑したような顔をしてみせた。事情はなんとなく伝わったのか、キヌエさんの娘さんは察したように口元を押さえて笑った。
ハルトは、目当てのポックリのある場所をジンくんたちに教えている。
「ほら、ジンくんの兄ちゃん、ここにピックマンあるよ」
ホントだ、というジンくんの兄ちゃんの声が聞こえる。
兄ちゃん、プックリウーマンもあるよ、とジンくんの少し興奮したような声も聞こえてきた。
レジ前の男性はワシをチラッと見てから、特に気にする風でもなくキヌエさんの娘さんと話を再開した。
「じゃあ、キヌちゃんは今日は家で休んでるの?」
「そうなんです」
キヌエさんの娘さんが答える。
「じゃあ選挙はいけないのかなあ、このあいだ行くって話してたのに」
男性は少し残念そうに言った。
「体調次第ですけど、いけそうなら母はたぶん投票にはいくと思いますよ。そういうのは欠かしたことがないんで」
「そうだよねえ、キヌちゃん色々怒ってたからねえ、でも大丈夫なの?」
聞くとなしに聞いているとワシは、この男性とキヌエさんの関係が少し気になってきた。なんとなくキヌエさんに対する馴れ馴れしさがある。”キヌちゃん”などと呼んでいるし、同級生とかなのだろうか。もしそうなら、ワシとはポジション的には同じはずだが。いや、別に張り合っているわけではないが。
「ちょっと熱があるくらいなんですけど、最近疲れているのか体調があまり良くないって言ってたんで、、。今日もここに来ようとしてたんですけど、無理しないでって止めて、、まあ少し休めば回復するとは思うんですけど、、」と、キヌエさんの娘さんが男性に答える。
「トモちゃんは投票は?」
「あたしは向こうで期日前で済ませてたんで、、」
キヌエさんの娘さんがそう言うと、男性は「そっかそっか」と言ってカウンターの横に置いてあるパイプ椅子に座った。
ワタナベ商店には、近所の高齢者が暇を持て余してキヌエさんと話しに来るので、カウンターの横にパイプ椅子が2つ置かれていた。
男性がこちら向きになったので気が付いたのだが、男性は黒地に黄色い文字で「終活」とプリントされた微妙な丈のTシャツを着ていた。
ワシが、ちょっとギョッとしたようにそのTシャツを見ていたのに気が付いた男性は、自分の来ているTシャツをチラッと見て、
「これ、孫がプレゼントしてくれたもんでね」
と照れるでもなくどこか誇らしげに、ワシに向かって言って笑った。
「あ、ああ」
ワシは話しかけられるとは思っていなかったので、少し動揺して曖昧に頷いた。
「じいちゃん、コレ」
ハルトが横から人形を差し出しながら声をかけてきた。ジンくんとジンくんの兄ちゃんも笑みをたたえながらハルトの後ろに立っている。
「ジンくんの兄ちゃん、ピックマンじゃなくてやっぱりプックリウーマンにするんだって」
「プックリ、、?」
「やっぱりプックリウーマンの方が本当はやさしいから、プックリウーマンの方がいいんだ」
ジンくんの兄ちゃんが言った。
「そうか、わかった」と言ってワシは、ビニール袋に入った名前の通りプックリした体形のピンク色の人形を受け取った。
一体どこがそんなに子どもたちを惹きつけるのだろう、とワシはまじまじとその丸っこい人形を見てみた。
太ったおばちゃんがSM女王のような恰好でムチを持っている。ピンク色のデザインじゃなかったらワシはなかなか教育上よろしくないような気がした。いやピンク色でも、よろしくないんじゃないか。
いずれにしても何がいいのか、ワシにはまるでわからなかった。
ワシは、そのプックリをレジカウンターに置きながら「じゃあ、これを」と言った。
(九)
「それ今人気あるんですよねえ」
パイプ椅子に座っていた「終活」男が言った。
「そうみたいですね」
ワシは作り笑いをしながら「終活」男に言った。ワシはなぜだかこの男性とは絡みたくなかった。
「プックリウーマンは本当はやさしいんだよなあ」
と「終活」男はジンくんの兄ちゃんに話しかけた。
「うん、プックリウーマンはやさしいんだ」
ワシは、これほど短い時間で「プックリ」という言葉がこんな会話に出てくることがあるだろうか、と考えていた。
「プックリウーマン、、、」
考えていたらなんとなく呟いてしまったが、生きてるうちにこんな言葉をが口から出てくることがあるとは、ワシは想像もしたことがなかった。
「でもピックリじゃなくていいのかい?」
ワシは一応ジンくんの兄ちゃんに聞いてみた。
ピックマンね、と訂正した後、
「オレも言ったんだけど、ジンくんの兄ちゃんプックリウーマンがいいんだってさ」
と、ハルトがワシに言った。
プックリの人形の支払いを済ませると、ジンくんとジンくんの兄ちゃんが揃って「ありがとうございます」と頭を下げた。
ワシが2人に「よかったな」と言って店を出ようとしたとき後ろから、
「キヌちゃんのお見舞いでも行ってみようかな」
という「終活」男の声が聞こえた。ワシは振り返って思わず、
「キヌエさんはたぶん寝ているので、そっとしといたほうがいいと思いますよ」
と言ってしまった。
「終活」男がワシを見て、
「あ、キヌちゃんを知ってるの?」
と言った。
咄嗟のことで少し動揺したワシが「あ、あ、」と答えあぐねていると「終活」男は、
「そっか、確かに具合が悪くて休んでるのにいきなり言っても迷惑なだけか、、」
と言って少し考えるようにイスを座り直す素振りをした。
キヌエさんの娘さんが、ワシを見ながら
「お母さんの同級生なんですよね」
と言って「終活」男を見た。
「え、そうなの? 幼馴染みですかあ」
「終活」男がワシに、問いかけるような問いかけていないような微妙な感じで言った。
ワシは「高校の同級生です」と言って、そちらは?と気になっていたことを聞いた。
「あ、高校の、、、私はキヌちゃんが東京にいた時の知り合いなんです。実家がこちらの方で、キヌちゃんのとことたまたま近くで、、隣町なんですけど」
今はこっちにいるんですけどね、と言って「終活」男はキヌエさんの娘さんをチラッと見た。
「サカキさんは父親の友達で、向こう、、東京ではけっこうお世話になってて、、ちょっと前にこちらに戻って来られて、お母さんと仲良くしてくれてるんです」
キヌエさんの娘さんの言葉に、ワシは”仲良く”がちょっと気になりつつ「そうですか」と答えた。
「じいちゃん、いこうよぉ」
ハルトが手を引っ張るので、ワシは、
「キヌエさんはたぶん休んでいると思うんでそっとしといたほうが、、」
と、もう一度「終活」男に言って、店を出ていこうとした。
その時、レジカウンターの方で携帯電話の着信音が鳴った。
ワシが振り返ると、キヌエさんの娘さんがどこからか携帯電話を取り出し画面を見て「お母さん!」と小さく言って、携帯電話を耳に当てた。
(十)
ワシは、少し心配そうな顔の彼女を見て、何事かあったのかと見つめていた。
「終活」男サカキさんと一瞬目が合った。サカキさんも少し心配そうな顔をしている。
「お母さん、どうしたの?、、、え?、、うん、、うん、え? 泥棒? どこに? 、、、今?、、そこにいるの? 廃品回収? え、二人いるの?、、ち、ちょっと待って待って、よくわからないけど、、帰ろうか? 、、わかった、、今戻るから待っててよ、すぐ帰るから」
キヌエさんの娘さんは携帯電話を切って、レジを閉めたりバタバタとカウンターの中で動き始めた。
「トモちゃん、お母さん何かあった?」
サカキさんがキヌエさんの娘さんに聞いた。
「、、よくわからないんですけど、家に泥棒がいるって、、廃品回収だって言ってるらしいんですけど、帰ってくれないらしくて、、」
私ちょっと行ってきます、と言ってキヌエさんの娘さんは付けていたエプロンをはずした。
「僕もいくよ」
サカキさんは勢いよく立ち上がった。Tシャツに書かれた「終活」の黄色い文字が大きくワシの目に飛び込んできた。
「ワシも行きますよ、相手が本当に泥棒ならみんなで行った方がいい」
ワタナベ商店のおばちゃんどうしたの?と、ハルトたちも何かあったと感じて不安そうな顔をしている。
「大丈夫じゃよ、ちょっと言ってくるからお店で待ってくれな」
ワシはできるだけ不安にさせないように優しく言って、少し緊張したような表情のハルトとジンくんの肩に手を置いた。
ジンくんの兄ちゃんは先に店の外に出て、プックリの人形を見ている。
ワシは、ジンくんとジンくんの兄ちゃんは、二人で帰ってもらってもいいかなとも思ったが、もし泥棒の話が本当ならちょっと物騒な感じもしたので、ワタナベ商店で待っててもらうことにした。
「トモちゃんはお店にいてよ、僕とこの人でちょっと様子を見てくるから、子供たちだけだとちょっと、、なんで、ね」
サカキさんが、なるほどということをキヌエさんの娘さんに言った。ワシも、
「なら、悪いんだけどジンくんの親に連絡してくれんかね、携帯電話を置いてきてしまって、、、迎えに来てくれるのが一番いいが」
と言ってジンくんを見た。
電話番号が、、とジンくんが言った。「わからんのか?」と言うとジンくんが頷いた。
「でも、すぐ近くだから、踏切りの向こう側のちょっといったところだから、、」
と、ジンくんは言うがジンくんの兄ちゃんもいるし、ワシはちょっと心配だった。
キヌエさんの娘さんが「もし心配だったら、この子は私が家まで送っていきましょうか」と言ってくれた。
大丈夫だよ、いつも通ってる道だから、とジンくんが言って、店の外にいるジンくんの兄ちゃんをチラッと見た。
「とにかく早くいきましょう」
サカキさんが言って店の外に出る。
ワシは「わかったよ、でも何かあったら大変だから。すぐ戻ってくるから少し待っててくれな」とジンくんに言い、ハルトにも待ってるように声をかけ、サカキさんの後に続いた。
ワシは、目の前のサカキさんの背中に
”死ぬ気で生きる”
と黄色い筆文字で大きく書かれているのを見つけて、またギョッとなった。
前面の「終活」となんとなく関連しているようでよくわからない。まあ、孫にプレゼントされれば何でもうれしいからな、とワシはちょっと余計なことを考えながら外に出た。
店の前でプックリの人形を見ていたジンくんの兄ちゃんに、ワシは「ちょっと行ってくるから、お店の中に入って待ってなさい」と強い口調にならないように気を付けて言った。
はーい、とジンくんの兄ちゃんは言って素直にお店の中で入っていった。
サカキさんが店の前に停めてある自転車に跨りながら
「じゃあ、後ろに乗ってください、ええっと、、」
と言うので、ワシは「モモザワです」と答えて後ろの荷台に跨った。自転車の後ろに乗るのは少し躊躇したが、サカキさんが当然のように言うので迷う素振りを見せないように気を付けた。
じゃあ行きましょうモモザワさん、と言ってサカキさんはペダルを漕ぎだした。
(十一)
サカキさんの腰に手を回すのはやはり抵抗があったので、ワシは荷台の前側を両手で掴んで身体を支えた。自転車がバランスをとりながらゆっくり動き出す。
自転車の二人乗りなんて何年ぶりだろう、いわば緊急事態ともいえるような状況でワシはなんだか呑気なことを考えていた。が、いや今はそんなことを考えている場合ではない、と自分を奮い立たせた。
ジジイの二人乗り。考えたくはないが、どうしてもこのよくわからない状況を滑稽に捉えてしまう。
今日初めて会ったジジイ二人が、中学生のカップルのように自転車に仲良く二人乗りしている。
ドキドキする、というと何か違った意味にとられてしまうかもしれないが、自転車の二人乗りという行為自体が久しぶりだからか、呑気なのに妙にドキドキしてしまう。自転車のスピードが意外に遅いのもなんだかモヤモヤしていた。
緊急事態の割には、景色も夏の日常をのんびりと現わしていた。気温も上がってきている。
よくわからんが、キヌエさんが大変なんじゃから。ワシはなんとか気を引き締めようとした。
”死ぬ気で生きる”
目の前のサカキさんの背中に書かれた黄色い文字をワシは何度も心の中で読み上げた。
そうしているうちに、なんだか心に変な高揚がありワシはこんなことで自分自身におかしな充実感が湧き上がってくることに驚いていた。
信号のある交差点の赤信号で、サカキさんは自転車を止めた。
ワシは「大丈夫ですか?」とサカキさんに聞いた。一息ついてサカキさんは大丈夫です、と頷いて「しかし暑いですね」と続けた。
「あら、あんた何してる?」
ふと横を見ると、妻がワシを不思議そうな顔をしながら立っていた。
「あ、お前こそ、、」
ワシは少し動揺した。ワシは何をしているのだ?
「あたしは選挙、選挙でしょ、あんたは? 投票いったんじゃなかったの?」
妻はキョトンとしながら、サカキさんを見た。
どうも、とサカキさんは軽く頭を下げた。
「投票はもうしてきた」
と、ワシが答えたところで信号が青に変わった。サカキさんが、モモザワさん、行きますよ、と言って自転車を漕ぎ始める。
ワシは
「後で話す、急いどるんで」
と片手をあげて言い残した。妻は一瞬いぶかしげな表情をしたが、すぐに関心をなくしたように手に持ったハンカチで顔の汗をぬぐった。
「奥さんですか?」
自転車を漕ぎながら、サカキさんが背中越しにワシに言う。
ええ、とワシは答えた。
「選挙ですからね」と言って、サカキさんはハアーと息を吐いた。
もう少し行ったところの庭に軽自動車が停まっている家です、とワシは言った。
「そうですね」
サカキさんは、そこがキヌエさんの家であることを知っているということをほのめかすように、また当然のように言った。
(十二)
しばらく行くと、キヌエさんの家の前に軽トラックが1台停まっているのが見えた。若干車線にはみ出しているが、通る車は多くないのでこの辺りでは全く問題ない。
サカキさんは、キヌエさんの家の庭に自転車を乗り入れて停めてあるシルバーの軽自動車の横に停めた。ワシは、自転車が停まると同時に降り、玄関の方を窺った。
玄関の方からは言い争うような声が聞こえた。
何もありませんから、それよりその空気入れを返してください。ハイヒンカイシュー無料デス。もういいですから、いいかげんにしてください。自転車、タイヤ、ナンデモカイシューデキマス。
玄関の方にいくと、2人の黒っぽいキャップを被った作業服の男が、玄関の前に立っていた。玄関の引き戸は全開になっており、キヌエさんが中から男たちを家に入れさせないように防いでいるように見えた。
「キヌエさん」
「キヌちゃん」
ワシとサカキさんはほぼ同時にキヌエさんに声をかけた。
「あ、モモザワさん、サカキさん!」
キヌエさんは、我々を見てホッとしたのか、額に手を当てフラフラと玄関に座り込んだ。
「あんたたち、何ですか!」
ワシは2人の男に大きな声を出した。
「ハイヒンカイシューデス」
男の一人が答えた。外国人っぽい訛りがある。顔は日本人ぽく見えるが、どこかに違和感がある。 もう一人は浅黒い肌の東南アジア系の顔をしていた。
違います、その人たち泥棒です、そこの空気入れを盗もうとしました、とキヌエさんがハアハアとどこか苦しそうに言った。
浅黒い方の男は、手に自転車の空気入れを持っていた。
「あ、勝手に持っていくなよ!」
男の横まで来たサカキさんが、浅黒い男から空気入れを取り上げた。
「大丈夫ですか? キヌエさん、もう大丈夫だから家へ入りましょう」
ワシは、玄関口にへたり込んでいるキヌエさんを家の中へ促した。
「モモザワさん、キヌエさんを中まで連れていってあげてください」
サカキさんの言葉にワシは頷いて、お邪魔します、と言ってキヌエさんを支えながら家の中へ入った。居間には布団が敷いてあり、キヌエさんはあ、ありがとうございます、と言って横になった。
キヌエさんが横になったのを見て、ワシはすぐに玄関の方に戻った。
「あんたたち、廃品回収って許可とってるのか?」
サカキさんが2人の男に聞いている。役所に聞いてみるよ、あるいは警察に、、と言ったところで抜け目のない目をした中国人らしき男の方が、フラーと後ろの軽トラックの方へ歩いていった。そして、
「〇△✕✕☆△!」
と、どこの言葉かわからない外国語で浅黒い男に言うと、浅黒い男もスタスタと軽トラックの方へ歩いていった。
「あ、こら待て!」
とサカキさんが追いかけようとした時、持っていた空気入れが足に絡まったのか、ガチャッと音がしてサカキさんはバランスを崩した。
サカキさんの背中の”死ぬ気で生きる”という文字がフラフラと左右に揺れたたあと、うわあと言ってサカキさんは庭の畑の方へ倒れこんだ。
「あ、サカキさん!」
ワシは慌ててサカキさんに駆け寄った。
イテテテテ、とサカキさんは言って「モモザワさん、あいつらを!」とワシに叫んだ。
ワシは「おのれ!」と言いながら、浅黒い男を追いかけた。もう一人の男の方はすでに軽トラックに乗り込みエンジンを掛けている。
浅黒い男は、もうなりふり構わずに軽トラックに走っていき、動き始めている車の助手性に飛び乗った。荷台に積まれた自転車やら家電などがガシャガシャと音を立て、軽トラックはスピードを上げ道路を走っていった。
ワシは道路まで走り出たが、なすすべもなく軽トラックを悔しい気持ちで見送った。少し、走っただけだがワシは、ハアハアするほど息が切れていた。
「あら、あんたまたここで何してる?」
後ろから声がして振り返ると、また妻がびっくりした顔で見ていた。
キヌエさんの家は、投票所である公民館までの道の途中にあるので、妻がここを通るのも当然なのだが、息が上がったワシは何となく決まりが悪い気持ちになった。いや別に何もやましいことはないのだが。
「おのれ、コソ泥め」
ワシは決まりの悪さを誤魔化すように、小さくなっていく軽トラックを再び見て少し芝居がかったセリフを吐いて、時代劇のように見得を切った。
(十三)
「なに、どうしたの? なにかあったの?」
妻が今度は少し心配そうに言った。
ワシは息を整えながら
「いや、後で話すから、選挙に行って、そっちも大事だから」
と言って妻を促すように手を振った。
ワタナベさんとこ? 大丈夫なの? と妻は庭の方をちょっと覗きこんだが、すぐに思い直したように公民館の方へ歩いて行った。
は! ワシはサカキさんのことを思い出し、庭の方を振り返った。サカキさんは、倒れこんだ畑を囲うブロックに腰かけていた。Tシャツの「終活」の文字が歪んでシワになっている。
「サカキさん、大丈夫ですか」
ワシはサカキさんに駆け寄りながら言った。
「ああ、逃げられましたな」
最近、多いんですよああいうの、と言ってサカキさんはイテテテと腰をさすった。
「ああいうの、本来は許可がいるんですよ。無料と言いながら依頼するとお金を請求したりね。知り合いがしつこくされて困ったって聞いたことがありますよ」
「外国人でしたな」
ワシは、2人の抜け目なさそうな目つきを思い出して、さらに悔しさが込み上げてきた。
「サカキさん、、」
玄関の方から声がして、キヌエさんがフラフラと出てきた。
「あ、キヌちゃん、大丈夫大丈夫、そこにいて」
サカキさんが慌ててキヌエさんを制止する。ワシは、立ち上がろうとするサカキさんを支えた。
キヌエさんは、申し訳なさそうな顔をしながら頭を下げた。
※
キヌエさんの話によると、ワシとハルトがキヌエさんの家を出た後、しばらくは横になって休んでいたが、やはり何となく退屈で、身体のダルさはあったが少し動きたくなった、と。
トウガラシを獲ろうとまた庭に出ようとしたところに、さっきの二人組が玄関のところにいたのだという。
二人組は「ハイヒンカイシューデス、無料デス」と言って何でもいいから不用品はないかと言ってきた。最初は断っていたキヌエさんだが、二人がしつこいので、そういえば壊れた扇風機があったなと思い出して部屋の押し入れにある扇風機を取ってこようとした。
玄関の引き戸を一旦閉めてから部屋の奥に行こうとした時、何気なく引き戸のガラス越しに二人を見ると、玄関先に置いてあった自転車の空気入れを一人が勝手に持っていこうとしていた。
泥棒だ、と思ったキヌエさんは怖くなってワタナベ商店に代わりにいっている娘のトモミさんに電話した。
二人は空気入れだけでなく、玄関先で何やら物色している気配があったので、キヌエさんは勇気を出してやめるように言った。二人は「ハイヒンカイシューデス」の一点張りで、玄関から家の中まで入ってきそうな勢いだったので、とても怖かった、とキヌエさんは少し震えながら言った。
「キヌちゃん、大変だったねえ」
サカキさんが布団の上で身体を起こして座っているキヌエさんに言った。
「本当に助かりました、ありがとうございました、モモザワさんも」
いえ、捕まえられなくて、、とワシが言うと、キヌエさんは「いえいえ、怪我がなくて本当によかったです」と言って小さく息を吐いた。
「僕もコケちゃって、、年をとるとダメですね、足がもつれちゃって」
とサカキさんが言う。
畑に倒れこんだサカキさんの背中の”死ぬ気で生きる”という黄色い文字を、ワシは思い出した。
サカキさんとは、話しているうちに、やはり同い年だということもわかり、何となく距離が近づいた感じがしていた。
ワシは、サカキさんは最初のあまり絡みたくない印象から、そんなに悪いヤツではなさそうだな、に変わっているのに気が付いた。
「そういえば、お店の方は大丈夫かな? 子どもたちは、、」
とサカキさんが言った。
トモミに電話してみます、とキヌエさんが携帯電話を取り出した。
(十四)
「それで、そのサカキさんがワタナベさんが投票に行くのに付き添っていったってわけね、じゃあ、あの一緒にいたのがサカキさんか」
妻がワシに歩きながら言った。妻とはキヌエさんの家の前でまたもやバッタリ会った。ワシは妻に事情を説明しながら、孫のハルトが待っているワタナベ商店に向かって歩いていた。
「キヌエさんは一人で大丈夫だと言ってたんじゃが、サカキさんが心配してな、、まあ、ワシも体調が悪いなら無理しなくてもと言いたかったんじゃが、今回の選挙にはなるべく行ってほしいということもあってな、キヌエさんも行きたがっていたし、じゃあサカキさんが一緒に付き添うって話になって、、、ワシはハルトをワタナベ商店に待たせていたからな」
ワシが言うと、妻は「はーん」とよくわからない声を出した。
「ただ、ワシはキヌエさんがどこに投票するかは知らんけどな。サカキさんはもしかしたら知ってるのかもしれんが、、色々話をしていたらしいからな」
「ほーん」
妻はまたよくわからない声を出した。
「ま、投票できるなら投票はして行ってほしい、どこに入れるにしても今、与党に入れる人はおらんだろうからな」
「ふーん」
と妻は言って少し黙った。そして思い出したように、
「でもワタナベさんも災難ね、、廃品回収、怖いわあ」
と言った。
しつこいからな、とワシは言いながら、またあの二人に逃げられた悔しさを思い出してしまった。
しかし、大分時間がたってしまったので、ハルトは待ちくたびれているかもしれんな。
キヌエさんに、ワタナベ商店にいるキヌエさんの娘のトモミさんに電話をしてもらったら、ジンくんとジンくんの兄ちゃんは先に帰ったということだった。
そういえば、家族でおばあちゃんの家に行くと言っていたな。もうお昼近いし、ワシは、待ってるように言ったのはちょっと悪かったかな、と思い直していた。
ハルトにはキヌエさんから、これからワタナベ商店に戻ると伝えてもらった。
キヌエさんは、今ならいけそうなのでこのまま投票に行ってくると言って、ワシは大丈夫なのか心配になったが、サカキさんが付き添うことになったので、ちょっとモヤッとしながらもサカキさんに任せることにした。
キヌエさんが投票に行く準備をして、ちょうどサカキさんとワシと三人で家の前の道路に出たところで、さっきも言ったが、ワシの妻とまたバッタリ会ってしまったのだ。
「あら、また!」
と妻はまた驚いた様子で言った。公民館の方から歩いてきたので、投票を終えて家に戻るところだろう。
ワシと、キヌエさんサカキさんの二人とはキヌエさんの家の前で別れた。
妻が一瞬、ワシと一緒にいるキヌエさんとサカキさんを訝し気に見ていたので、片手をあげながらワシは「じゃあ」と二人に言って早々に反対方向に歩き始めた。
ありがとうございました、と言うキヌエさんの声が後ろで聞こえた。
さすがにキヌエさんと自転車の二人乗りは出来ないので、サカキさんは自転車をキヌエさんの家に停めたままで歩いていくことになった。
(十五)
二人と家の前で別れて、ワシは妻と歩きながら、更に妻に事情を説明していた。
妻はキヌエさんとは面識があったが、サカキさんはもちろん知らないので、誰なのか気になったようだ。
ワシは妻に、ハルトがワタナベ商店で待っていることを伝え、娘のミユキに携帯電話で連絡を入れてもらった。
ミユキは「遅いから、二人でどこかで道草してるんだとは思ってたけど」と言ったらしいが、やはり心配だったようでワシの携帯電話に何度も電話したようだ。家に置いてきたワシの携帯電話にはミユキからの着信が何度も入っていることだろう。
ミユキは妻にも電話したらしいが、なぜか繋がらなかったらしい。
「ああ、携帯電話、バッグの中に入れてたからね」
と妻はけろっとした顔で言った。
携帯電話は携帯していなければ何の役にも立たないが、携帯していてもこれでは意味がないわな、とワシは思った。
(十六)
そうこうしているうちにワシと妻は、信号のある交差点のところまで戻ってきた。
しかし、日曜日とはいえ車が一台も走っていない。平日でもほとんど車はいないが、やはりこの地域の過疎化を象徴するように車のない交差点で信号機だけが点滅を繰り返している。
目の端に何か動きを感じて、ふと交差点の左手にある踏切りの方を見ると、水色のTシャツを着た見覚えある大柄な少年が踏切りの向こうでウロウロしているのが見えた。
「ジンくんの兄ちゃん」
ワシは、思わず声を出した。先に家に帰ったんじゃないのか、一体あんなところで何をしているんじゃ?
ワシは疑問に思い、近くにジンくんの姿を探したが、ここから見る限りジンくんの姿は見えない。
「あんた、どうしたの? 青よ」
信号が変わっても横断報道を渡ろうとしないワシに、妻が声をかけた。
「ちょっと、先にワタナベ商店に行っててくれ、ハルトと先に帰っててもいいから、ミユキも待ってるだろうから」
「どうしたの?」妻がまた訝し気な表情で聞く。
「先に家に帰ってるはずの子が、あそこにいるみたいじゃからちょっと見てくる」
と、ワシは妻に言って、踏切りの方に歩いていった。後ろで、じゃあ、あたしはハルトと先に帰ってるよ、という妻の声が聞こえた。
(十七)
踏切りを越えて、ワシはジンくんの兄ちゃんの方へ歩いて行った。
踏切りを超えた先の道路は、かなり向こうの方までまっすぐ伸びており、その右側には田んぼがあり、緑色の稲が絨毯のように広がる、いわゆる田園風景が広がっていた。
道路と田んぼの間には幅2,3メートル程の用水路があり、道路の奥の方からこちらの踏切りの方まで田んぼに沿って伸びている。
ジンくんの兄ちゃんは、慌てたような焦ったような顔で、道路の脇の用水路の方を覗きこみながら、こちらに向かって歩いて来ていた。まだ100メートルほど離れているだろうか。
用水路の両脇には足元が隠れるくらいの雑草が生い茂っていた。
「一体何があったんじゃ」
ワシは、ジンくんの兄ちゃんの顔色を見て、何か大変なことが起こったんじゃないかと心配になり、思わず独り言を言った。
ふいに、ジンくんの兄ちゃんの後ろの方で、用水路の方からジンくんが現れた。
「兄ちゃん、待って!」
ジンくんが叫ぶ声が聞こえた。ジンくんもこちらに向かって走ってくる。
ワシは、50メートルほどのところまで近づいていたジンくんの兄ちゃんに
「どうした!」
と大声で言った。
ジンくんの兄ちゃんがワシに気が付き、
「プックリウーマンが! 川に、、流された!」
と声を裏返しながら焦ったように言った。”川”とはたぶんこの用水路のことだろう。
なに!? ワシは、雑草を踏みしめて、道路脇の用水路を覗き込んでみた。
用水路の水の流れはゆっくりに見えたが、水嵩はどれくらいだろう、いつもよりは多く見えた。
ワシは用水路の上流の方に目を凝らしてみたが、キラキラと光が反射してよく見えない。
徐々にジンくんの兄ちゃんが近づいてきて、ワシのすぐ側まで来たとき、例のピンク色のプックリの人形がプカプカと浮かんでこちらへ流れてくるのが見えた。
こうして見ると、15センチほどのプックリの人形はかなり小さく見える。目を反らすと、すぐに見失ってしまいそうだ。
ワシは「どうした!」とまた叫んだ。
もちろん、状況はすぐに分かったが、なぜこのようなことが起きているのかを、ワシは思わずジンくんの兄ちゃんに問うてしまった。
「ジンの奴がプックリウーマンを蹴飛ばして、、川に落ちた、、!」
なんでまたそんなことを!
ジンくんの兄ちゃんは泣きそうな顔になっていた。
ワシは、ジンくんの兄ちゃんに「心配するな、拾ってやるから!」と言って、プックリの人形を目で追いかけた。
用水路は、踏切りの脇を、線路をくぐるように横切って、その向こうに伸びていた。
線路を超えると、追うのが大変そうだったので、ワシは線路を横切る前にプックリを捕まえようと思った。
幸い、用水路の水の流れはゆっくりだったので、急いでいけば、線路の手前でプックリを捕まえることができそうだった。
ワシは、急いで踏切りの方へ引き返し、線路脇で用水路に降りられそうなところを探した。
線路の手前のところに下に降りられる小さな階段があるのが見えた。
ワシは、雑草の中に足を踏み入れて、その階段を下りていった。
ゆっくりとはいえプックリは着実にこちらの方へ流れてきている。ここで捕まえられなかったら、この先を追うのはかなり難しそうだった。
ワシは、階段を水面ギリギリのところまで下りて、プックリが流れてくるのを待った。
「おじちゃん!」
ジンくんの声が聞こえた。振り返ると、ジンくんは1メートルくらいの木の枝を持っていた。
これで! とジンくんがワシの方へ、その枝を投げた。
放物線を描いて、木の枝がワシの方へ飛んでくる。ワシは片手でその枝を「パシ!」と掴んだ。
「おじちゃん、来たよー!」
ジンくんの兄ちゃんの叫び声が聞こえた。
水面を見ると、用水路の中央辺りをプックリが流れてきていた。
ワシは、バランスをとりながら木の枝を伸ばした。
「うぬ!」
思わず声が出た。届くか届かないか微妙なところだ。
プックリはもうすぐ近くまで来ていた。
木の枝を思いっきり伸ばす。何か捕まるものはないか。ワシは、左手で探るがコンクリートの壁に触れるだけで、掴まれそうなものはない。
プックリが目の前に来た。ゆっくり通り過ぎようとしている。
ワシは木の枝を最大限伸ばす。もう少し、、。
「おじちゃん!」
「おじちゃん!」
「ああ!」
ワシとジンくんたちが同時に声を上げた。
ワシはバランスを崩して、用水路の中に倒れこんだ。
バッシャーン!!!
ゴボゴボゴボッ!
身体が回転する。水中の独特の音の響きと、下から水面を通して見える空の光。全身に冷たい水の感触が伝わる。
”死ぬ気で生きる”
サカキさんの背中の黄色い文字が脳裏をよぎる。
水中のくぐもった音が、ワシから時間の感覚を奪っていく。
ワシは中学校のころの水泳の授業でのプールの中を思い出していた。
ゴボッゴボッ!
水泳は割と得意な方だった。クラス対抗の水泳大会で選ばれたこともある。普段はそれほど目立つことはなかったワシだが、水泳大会では、クラスのみんなが応援してくれたものだ。
「モモザワくん、頑張ってー!」
女子が声を揃えて応援してくれる。泳ぎながらでもその声はハッキリと聞こえた。アンカーを務めたワシは、歓声を浴びながら他のクラスの選手とデッドヒートを繰り広げる。
「モモザワくん、頑張ってー!」
黄色い声援は実に心地よかった。ワシの心は勢いよく奮い立ったものだ。
ゴールまであと数メートルのところで、ワシは一位の選手に追いついた。ゴールは際どく、ほぼ同時でタッチした。
勝ったか? どうだ?
ワシは審判を務めている学年主任の先生を見上げる。先生はワシのところで大きく手を挙げる。
「一位!」
ワアー!! っと大きな歓声が上がった。普段地味だったワシも、この時は勢いよくガッツポーズをした。
(十八)
バシャー! ワシは、水面から顔を出した。足はつく。用水路の深さはワシの腰のあたりぐらいだった。意外に深い。気を抜くと流されてしまいそうだ。
「おじちゃん!」
ジンくんの声が聞こえた。
プックリは、ワシの少し先を線路の方へゆっくりと流れていた。
「おのれ!」
ワシは慌てて、手に握っていた木の枝を伸ばす。プックリに枝の先を当てて何度か位置を戻した。プックリの人形が水面でクルクルと回転する。
枝の先でなんとかプックリを引き寄せて、ワシはプックリを片手でガッチリ掴んだ。
「やったー!」
「おじちゃん!」
ジンくんたちがまた同時に声を上げる。
ワシは、二人にプックリをつかんだ手を掲げて見せた。
興奮して、雄叫びを上げたつもりだったが、声が裏返って「おひょー!」という変な動物の鳴き声みたいになってしまった。
(十九)
「だから、わざとじゃないって!」
ジンくんが、ワシに”ことの経緯”を説明する。
ジンくんの話では、こういうことらしい。
ジンくんの兄ちゃんを連れて家に帰るのが少し遅くなってしまったので、ジンくんは速足で帰っていた。ちょっと走ろう、とジンくんが提案して二人は走り始めた。ジンくんの兄ちゃんはプックリの人形を手に持って遊びながら走っていたが、ちょっとした弾みで手からプックリを落としてしまったらしい。それを、ジンくんが間違って蹴飛ばしてしまった。
プックリはそのまま川(用水路)に落ちてしまった。
家の近くまで来ていたのに、プックリを追いかけてドンドン来た道を戻っていった。ジンくんは、木の枝を見つけて何度か取ろうとしたが、獲れなかった。追いかけていくうちに踏切りの近くまで戻って来てしまった。
ワシは用水路と反対側のマンションのブロック塀に持たれて座りながらジンくんの話を聞いていた。
蝉の鳴き声が三人を覆うように聞こえており、ワシはなんだか不思議な感じを味わっていた。まるで子供のころの夏休みのようだ。これは一体なんじゃ。
ジンくんは、話し終わると「すいませんでした」と謝った。
ワシは、いやいや、と手を振った。実際、ジンくんはワシに謝るようなことは何もしていないと思った。
ジンくんの兄ちゃんは、大事そうにプックリの人形を握りしめていた。
ワシは、もう落とさないようにな、と言って「とにかく早く帰りなさい」と二人を促した。
もう午後1時過ぎだ。さすがに親が心配しているかもしれない。
「気を付けて帰るんじゃよ」
とワシは言って、自分も立ち上がった。
ブロック塀に寄りかかっていたところが、ワシの形に濡れていた。
(二十)
ガラガラと、ワタナベ商店の引き戸開けると、キヌエさんの娘さんのトモミさんのキレイな声が奥から聞こえた。
「いらっしゃいませー」
トモミさんは、いきなりビショ濡れになったワシが入ってきたので、ハッとしたような顔で
「どうされたんですか!」
と言った。
「そこの用水路に落ちてしまって、、」
とワシは言ったが、これではただの”おっちょこちょい”だな、と思い言葉を付け足した。
「プックリの人形を獲ろうとしたら、バランスを崩して用水路に落ちてしまって、、」
いや、これでもやはり”おっちょこちょい”だな、と思ったが、長々と説明するのもなんだか言い訳がましいので、仕方がないので愛想笑いをした。
大変、と言って、トモミさんは店の奥に入り、タオルを持ってきてワシに渡してくれた。
ああ、すいません、と言ってワシは、大分強い今日の日差しのせいで乾き始めていた頭を拭きながら、ハルトは帰ったか聞いた。
「はい、奥様が迎えに来て、一緒に帰りましたよ」
とトモミさんは言った。それから、
「すいません、母からも連絡ありました。さっきはありがとうございました、大丈夫でしたか?」
とワシに聞いた。
「ああ、いえいえ、悪者は逃がしてしまって、、あまりお役に立てなかったんですが、、サカキさんの方が大変で」
「あれ、そういえばサカキさんは?」
「サカキさんはキヌエさんの投票に付き添っていってます」
「え、そうなんですか、もう、おかあさんたら、無理しないように言ってるのに、、サカキさんにも付き添わせてるんですか」
「あ、いや、サカキさんが、キヌエさん一人じゃ心配だからって、、」
無理やり、と言おうとしてワシはその言葉をグッと飲み込んだ。
「まあ、色々ありましたし、体調も万全ではまだなさそうだったので、サカキさんが付き添っていってよかったと思いますよ」
とワシは言った。
「そうですか、、」
と、トモミさんは言って、ワシに申し訳なさそうな顔をした。
「ところで、サカキさんとキヌエさんは付き合いは長いんですか」
と、ワシは気になっていたがなかなか聞けなかったことを、トモミさんに聞いた。全身ビショ濡れになると、人間は躊躇がなくなるのかもしれない。
トモミさんは、一瞬えっと言う顔をしたが、そうですねえ、と言った後、思い出すように目を伏せながら、
「もともとは父の知り合いで、東京にいる頃は、父と母が離婚する前まではよく家族ぐるみで行き来があったんですね、だから結構付き合い自体は長いですねえ、でも、母が離婚してこちらに帰ることになって、しばらくは全然会うことはなかったと思います、サカキさんは東京でしたから」
と言った。
「なるほど」
「でも、サカキさんの奥さんがご病気で亡くなってしまって、、それで、詳しい事情は分からないんですけど、サカキさん実家に帰ることになって、、もともと母とサカキさんは出身がこの辺りで、実家が近いって話してて、、それで、たぶん連絡取り合うようになったんじゃないかな、、」
すいません、私もよく知らないんです、、とトモミさんは言った。
「私も、サカキさんは私が小さい頃から知ってるので、なんか親戚のおじさんみたいな感じなんですよね、、母も色々と地域のシガラミなしで話ができる人がいるのは嬉しいみたいですけど、、一度東京に出て戻ってくるとなんか色々付き合いも面倒くさいみたいで、、」
あ、そんなこと言っちゃダメか、とトモミさんはペロッと舌を出した。
なるほど、サカキさんも能天気なようで色々とあったのだな、とワシは思った。
ちょっと立ち入り過ぎた気もしたので、ワシは、「そろそろキヌエさんも家に帰ったころですかね」と言ってみた。
あ、電話してみましょうか、私もちょっと心配なんで、と言ってトモミさんは携帯電話を取り出した。
そのとき、ガラガラと入口の引き戸が開いて、サカキさんが入ってきた。
「いやあ、まいったねえ」
と言ったところで、ワシがいるのに気が付いたサカキさんは
「あれ、モモザワさんどうしたんですか、ビショ濡れじゃないですか」
と驚いて言った。
「ええ、そこの用水路に落ちてしまって、、」
と、ワシは言ったが、やっぱりマヌケだな。だんだん、ワシはそもそもマヌケなのかも、と思い始めていた。
ええ、大丈夫ですかあ? とサカキさんは心配そうな声を出した。
「サカキさんは? キヌエさんは投票は終わったんですか?」
ワシは話を変えた。ワシがビショ濡れだとあまり言われても、それを一番わかっているのはワシだから。
「あ、ええ、無事投票してきましたよ、でもキヌちゃん、家に帰ったらやっぱり疲れたみたいで、、すぐに横になって、、」
「色々、ありましたからな」と、ワシは言った。
「今回の選挙は、大事な選挙だからってキヌちゃんも言ってて、、やっぱり国民が今の政治に怒っていることを示さないと」
と、サカキさんが言って、ねえ、とトモミさんに同意を求めた。
トモミさんは、ワシの顔を見て少し困ったような顔をして、そうですね、と控えめに言った。
ワシは、どうしようか少し迷ったが、我慢できずに
「ワシも、今の与党は許せないと思っていて、今回は国民から鉄槌を下すつもりで投票しました」
と言った。思想や考えの違いがあると面倒なので深入りするつもりはなかったが、サカキさんも「ですよねー」と言って、それ以上の話はしなかった。
ただ、ワシはいつかサカキさんと政治について色々話してみたいと思った。まあ、機会があるとはあまり思えなかったが。
そもそも、ワシとサカキさんはどういう関係だろうか。キヌエさんを介した知り合いというところだろうか。いやしかし、実際に知り合ったのは、キヌエさんを介しているわけではないので、ワタナベ商店でたまたま知り合った人、というところだろうか。
「モモザワさん、今日はありがとうございました、モモザワさんがいて助かりました。キヌちゃんもとても感謝してました」
サカキさんが言った。
唐突に言われて、ワシは「あ、いえこちらこそ」と戸惑い気味に言った。
「あの廃品回収の業者は、たぶん無許可で勝手にやってる悪徳業者ですよ、無料と言いつつ実際の処理にはお金がかかるとかなんとか適当なことを言ってお金を請求したり、あいつらみたいに勝手に家のものを持って行こうとしたり、回収したものも不法投棄したり、とにかく関わっちゃいけない連中ですよ、、日本から出て行けって感じです、キヌちゃんとこに来たということは、この辺りをウロウロしている可能性があるので、モモザワさんも気を付けてくださいね」
サカキさんの言葉にワシは「わかりました」と言った。
ところで、とサカキさんは一旦目を伏せて、
「モモザワさん、もしよかったらなんですけど、携帯の番号を交換しませんか、これも何かの縁ですし、、そのうちタイミングが合う時に、お茶でも飲みましょうよ」
と言った。
ワシは、そんなことを言われると思っていなかったので、少し驚いたが、サカキさんは身元もしっかりしており、確かに、これは縁かもな、と思い直してポケットの携帯電話を探った。
あ、そうか。
「サカキさん、申し訳ないが、今日は携帯電話を家に置いてきてしまって持ってないんですよ」
と、ワシは言った。
「ああ、そうなんですか」
とサカキさんは言って、トモミさんに「トモちゃん、メモある?」と言って紙を貰いそこにサラサラと番号を書いて、その紙をワシに差し出した。
「これ、私の携帯の番号です、都合がいいときに電話してください、親がそろそろ具合が悪いんで、出れない時もありますが、時間はあるんで、今度本当に色々お話しましょう、これも縁ですから」
よかったら、キヌちゃんも誘って、ね、とサカキさんは言ってトモミさんに同意を求めた。
トモミさんは「いいですね」とだけ言って微笑んだ。
「モモザワさん、無理はしなくていいんで、気が向いたら、電話ください、私も年なんでね、こういう出会いを大事にしたいだけなんで、ホント、気が向いたら」
と言ってサカキさんは「ねっ」とワシを正面から見た。
サカキさんの胸の「終活」の黄色い文字が、ワシには少し浮かび上がって見えた。
(二十一)
「そうなのよー、ビショ濡れで帰ってきて、、そう、、なんか、用水路に落っこちたらしくて、、、ハハハ、、いや笑い事じゃないからね、下手したら死んじゃう人もいるからね、、子供だって毎年何人か落っこちて溺れたりしてるから、、」
隣の部屋から妻の話し声が聞こえる。電話で誰かと話している。相手はたぶん、娘のミユキだ。
部屋の電気は消えており、真っ暗だ。今、何時だろう。ワシは、壁の時計に目を凝らしてみたが、暗すぎて見えない。八時は過ぎているように見えるが。
なんだか疲れており身体が重い。まだもう少し寝たいが、起きるか、いや、もう少し、、、。
「朝、出て行って帰ってきたの午後3時くらいよ、、そう、公民館に投票に行っただけなのに、、なんでもワタナベ商店の奥さんとこに、悪徳廃品回収が来たとかなんとか、それで、ハルトをワタナベ商店に置いて、それをやっつけに行ったって、、うん、、、そう、あそこの奥さんとは同級生だって言うから、、、ほら、おとうさんとあたしは隣町に住んでいたから、、、意外に近かったのよ、、まあ、あたしはおとうさんとは高校は違ったけど、、、でもあたしも、あの実家から高校に通ってたのよ、、そうよー、、、え、ああ、、、それが逃げられたらしいのよ、、、」
やはり電話の相手はミユキだ。暗い部屋の中で、ワシは横になったまま天井の暗闇を見つめ、妻が娘のミユキと電話で話している声をぼんやりと聞くとはなしに話に聞いていた。
「、、そう、で、用水路に落ちてビショビショになって帰ってきて、、お風呂に入ってしばらくしたら、何も食べずに寝ちゃったのよ、、、そう、だから疲れたんじゃない、、、うん、まだ寝てるのよ、、、うん、選挙番組も観ないで、、まあ与党が大敗してるって知ったら、大喜びして祝杯あげるわね、きっと、、選挙選挙って騒いでたから、、」
実はワシは、ワタナベ商店でアンパンを買って食べていた。だから、何も食べていないわけではない。、、そうか、、与党は大敗してるのか、、。
結局、あの後サカキさんと色々話して、物凄く簡単に言うと意気投合してしまった。同世代ということもあって、時代的に共有できるところもあり、意外なほど話が盛り上がった。政治的な話も、するつもりはなかったが、意外に近い考えを持っているように思った。キヌエさんとは、そのような話をしたことはないが、キヌエさんも割と同じようなことを感じているらしいとサカキさんは言った。今度ジックリ、とサカキさんには言われたが、どこまで考えを共有できるか試してみたい気持ちは確かにある。サカキさんともキヌエさんとも。
夏休みの小学生たちが数人、ワタナベ商店に入ってきたのをキッカケに、じゃあそろそろ帰るか、と言うことになったが、本音を言えばもう少し話したかったくらいだ。
サカキさんは、ワシが店を出るときに
「じゃあ、また!」
と言った。
ワシも
「また!」
と言って店を出た。
なんだか子供の頃に夕方、友達と遊んだ後「また、あした!」と言って別れるときのような、再会の確信に満ちた気持ちを思い出した。ま、そうは言ってもこの先どうなるかはわからないが。そう、こうなることもわからなかったが、その後どうなるかもわからない。だが、こんな人生の後半のある日に、こんな気分を味わうことになるとは、ワシは想像もしていなかった。
「ああ、あんたたち、投票の後スーパーキタジマにいったの、、いや、あの人がすれ違わなかったって言ってたから、、で、ハルトは? 大丈夫? あの人に連れまわされたんでしょ、、え、、ああ、そっか、夏休みだったね、、、でも気を付けるようにハルトに言っといて、、用水路に落ちないように、、」
ワシは、妻の話し声を聞きながら、堪え切れずに深い眠りの闇の中にまた落ちていった。
(二十二)
それから数日後、ワシは家の納屋の奥から久しぶりに出した自転車に空気を入れていた。
今日も暑いが、いい天気だ。
「ちょっとあんた、ハルトが来てるよ」
妻が呼びに来たので、ワシは自転車に空気を入れる手を止めた。
玄関の方に行くと、ハルトとジンくんとジンくんの兄ちゃんが三人で立っていた。
「ハルト、どうしたんじゃ、ジンくんも!、みんな揃って」
ハルトは片手をあげて、
「ジンくんとジンくんの兄ちゃんがじいちゃんにお礼だってさ」
ジンくんが、ジンくんの兄ちゃんに「兄ちゃん、ホラ」と促した。
ジンくんの兄ちゃんが、
「おじちゃん、ありがとう」
と言って、何かが入ったスーパーのビニール袋をワシに差し出した。
なんじゃ、と言ってワシはそのビニール袋を受け取った。ズシッと重いそのビニール袋の中には、トマトとピーマンがたくさん入っていた。
「おお、すごいな!」
と言って、ワシはジンくんとジンくんの兄ちゃんを見返した。ジンくんチの畑で獲れたんだって、とハルトが補足した。
「何のお礼かな?」とワシが聞くと、ジンくんが
「いろいろ、、ねえ、兄ちゃん」
と言って、少し笑いながらジンくんの兄ちゃんを見た。
「そ、いろいろ!」
ジンくんの兄ちゃんも笑った。
「そうか、ありがとう」
ワシがそう言うと、ハルトが「いいってことよ」と言ってワシの腕をポンポンと叩いた。
(二十三)
ハルト達が帰り、ワシは自転車の空気を入れた。玄関前に自転車を停め、ワシは家の中にいる妻に玄関を開けて声をかける。
「じゃあ、ワシはちょっと行ってくるよ」
ハイハイ、と言いながら妻が玄関まで出てきて、
「あんた気を付けてよ、自転車なんてあんまり乗ってないんだから」
と言った。
大丈夫だって、とワシは言ってペダルを漕ぎだした。
久しぶりの自転車は、確かに少しバランスがとりづらいような気がしたが、歩くスピードより遥かに速いし、自転車は便利な乗り物だなとワシは思った。
夏の日差しが背中に当たり、身体に感じる風も夏らしくカラッと暑い。蝉がジージー鳴いている。
ワシは無人駅に向かう脇道を曲がった。ワタナベ商店の前に、ちょうど自転車を降りたところのサカキさんがいた。
「あ、どうも」とサカキさんは、ワシに気が付いて笑いながら手を挙げた。
ワシは、ワタナベ商店の手前で自転車を降りながら、サカキさんに近づいて、なぜか嬉しいようなちょっと照れくさいような気持ちになりながら耐えられずにフッと笑って
「どうも」
と言った。
サカキさんとは、あれから一度電話して話をした。サカキさんの方からも電話が来てキヌエさんの状況を聞いた。サカキさんは、キヌエさんと頻繁に電話で話しているのかと思いきや、そうでもないらしい。
「いや、大人は色々忙しいですからね」と言ってはいたが、単純に気を使って遠慮しているのかもしれない。サカキさんが、そういう人だとワシは段々わかってきた。
今日からキヌエさんがお店に出てくるというので、ワシとサカキさんはキヌエさんの快気祝いがてらワタナベ商店に集まろうと話をしていた。
なんじゃろう、この感じ。
ワシは、遠い記憶の奥から湧き上がってくる感慨にも似た不思議な感覚を、懐かしくも新鮮に感じながら、サカキさんと並んでワタナベ商店の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませー」
キヌエさんの元気な声が、お店の中から聞こえた。
「ワシの道草」終わり
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