社会問題としての高次脳機能障害
社会って誰?
高次脳機能障害は”障害”と付いていることからわかるように、障害制度の一つです。障害制度というのは症状そのものではなく、なんらかの身体的医学的症状のために生活に支障をきたすこと、困っている状態をそれでもスムーズに生活できるようにするための福祉行政サービスです。
私達は社会の中で生活していますから、生活に支障がある、困っているというのは、とりもなおさず、社会の中で困っていることを示しています。つまり高次脳機能障害とは社会の中で起きている現象ということができます。
社会の中で起きている現象であり、それで困っている人がいるわけですから、これは社会問題です。高次脳機能障害は、社会問題なのです。決して個人の問題なのではありません。ですからその解決は個人の責任ではなく、社会が責を持って解決すべき問題と言えるでしょう。ここ、皆さん、異存はないようですね。
では早速、”社会さん”にご登場いただいて解決してもらいましょう、さあ、どうぞ!と言っても、”社会さん”という”誰か”が来て助けてくれるわけではありません。当たり前ですよね。
なぜなら、社会という人格が存在するわけではなく、社会は私達一人ひとりが集まってできているからです。私達一人ひとりが集まって社会ができているわけですから、社会が責任を持って解決する、とは、その責任は私達一人ひとりが負うことです。
つまり、社会が解決する、すなわち、私が解決する、なのです。”社会が解決する”ことに皆さん、同意いただいたので、さあ、どうぞ、解決してください。だって、いま、「私が解決する」って宣言されたでしょ?
「そんなこと言われても困る。」ですよね。困ります。社会だから解決できるのであって、私個人、一人で何ができるんだ!ごもっとも。
一般に社会問題の解決といえば、やはり、対社会的な活動、例えばデモとか、チラシを配るとか、演説するとか、そういったことを思い浮かべるのが普通でしょう。なかなか簡単にはできることではないし、まして、独りでやろうというのは大変です。
理解されない辛さ
高次脳機能障害の当事者や家族の悩みは、障害そのものはもちろんですが、障害が理解されないという点もあります。アンケート調査などの結果を見ると、この「社会からの理解の欠如」という点が、非常に大きな悩みであることが浮き彫りになります。個々の当事者の声を聞けば、その辛さがわかろうというものです。理解されないことの辛さはこの障害の大きな問題の一つです。
高次脳機能障害という障害カテゴリーが存在すること自体、社会の中で知らない人が大半(他の障害制度に比べて、まだ歴史が浅いのです)。であれば障害の内容、その特性、そういった諸々が理解されるわけがありません。
高次脳機能障害が理解されにくい理由は、一つは外見からはわかりにくいこと。脳の認知機能は主観的な心理過程ですから、他者からは行動から推測することしかできませんが、行動から認知機能の状態を推測するには専門的な知識と技術が必要です。したがって一般社会の中では、ある人が高次脳機能障害であることを見抜ける人はほとんど存在しないことになります。
さらに、高次脳機能障害の「障害」として現れるトラブルは、障害のない人でも起こりうる事象です。ちょっとした物忘れ・置き忘れ、見落とし、イライラ、食べすぎ・・・など、それ自体を取り出してみれば、格別、異常な事態には見えないでしょう。これらの事象は、その事象の全体を、「障害」というフレームワークで捉えて初めて、高次脳機能障害による事象であることが認識されるという構造になっています。
*高次脳機能障害の「4つの見えなさ」については稿を改めてアップします。
高次脳機能障害について理解を得るためには、まず、高次脳機能障害という障害カテゴリーが存在することが広く周知されていることが必要です。そのうえで、障害として起こりうる事象についての知識が共有されることです。つまり知識の普及こそが理解を得るための鍵なのです。
「知る」だけでできる社会変革
高次脳機能障害支援普及事業が2006年に始まり(現在の名称は「高次脳機能障害及びその関連障害に対する支援普及事業」)、その名称に「支援」とともに「普及」の文言が含まれるように、関係者は皆、高次脳機能障害についての情報発信に努めてきました。もちろん、広く社会に障害の理解を得るためにです。
事業開始から10年の節目の年、厚労省の全国会議の場では参加者から「10年の間、知識の普及に努めてきたが、まだ道のりは遠い、これからも地道に啓発活動を続けていこう。」との発言がありました。集まった者すべての実感でした。一つの概念が、社会の中に浸透するのは簡単なことではありません。そのためには、打ち上げ花火的な一過性の話題ではなく、少しづつ、常に情報が流れていることが必要です。支援する・される、高次脳機能障害に関わるすべての人が、周りの人と少しだけ、この障害について話題にしていけるといいですね。
「わたし」が変われば「社会」が変わる!
高次脳機能障害に関わる方だけではなく、社会全体がこの障害のことを知ること、それが実現すれば、前述の理解されない悩みは解消に向かいます。それは障害の悩みの大きな部分の解消につながるはずです。障害が社会の問題である以上、その解消には社会が変わっていく必要があります。「高次脳機能障害を知らない社会から理解して受け入れる社会へ」。私達一人ひとりが変われば、社会が変わります。高次脳機能障害について社会が知ること、それは「知る」だけでできる社会変革なのです。
適応するに値する社会を目指して
さて高次脳機能障害について社会問題として捉えると、私達の社会そのものが変わっていく必要があることがわかりました。私達の社会を変えていこうという以上、変わっていく先、目標とするあるべき社会像として、今より少しでも社会が良い方向に変わっていくことを願うのは当然です。
別記事でも述べたように、高次脳機能障害の本質は、環境に対する不適応です。私たちが生きる環境=社会ですから、社会問題としての高次脳機能障害という観点からは、障害の本質は社会への不適応ということになります。
盲目的適応の恐ろしさ
我々高次脳機能障害外来の使命の一つはメンバーの皆さんの社会への適応を支援することです。一人の社会人として社会に受け入れられること、社会の一員として尊重される存在になることが目標です。生活リズムを整えたり、身だしなみを整えることも、その一環です。このような指導をしながら思うのは、はたして、盲目的に社会への適応を目指して良いものだろうかということです。
言い方を変えると、果たして現在の社会は適応に値する社会なのだろうかという疑問です。極論すれば、たとえば、独裁者ヒトラーの支配するような社会に盲目的に適応してよいのかって問題意識です。
例えば映画「暗殺の森」(ベルナルド・ベルトルッチ監督、1970年作品)。舞台は1938年、つまりムッソリーニによるファシズム政権下のイタリア。この社会ではファシズムが「普通」、ファシストがマジョリティです。主人公は幼少時のトラウマから、「普通」を(過剰に)追い求め、ファシスト党に入党してファシストとして振る舞うようになる、つまりファシズムの社会に適応する、それも過剰適応というほどに。そしてそれがもたらす結末の意味。原題 Il conformistaは「体制に順応する者」の意。数多の映画に影響を与え続けてきた美しい映像に彩られた本作は映画史に残る名作といえるでしょう。「だって、美しいじゃないか」(劇中のセリフ)。
もう一品。「カメレオンマン」(ウディ・アレン監督、1983年作品)はカメレオンの保護色のように周囲の環境に過剰適応してしまう人をめぐるコメディ。この映画もやはりというか、独裁者ヒトラーに絡む話になります(封切り時の矢島正明吹替版がモキュメンタリーらしくて良いのだが)。
適応するに値する社会、それはどのようなものか、考えてみましょう
障害の社会モデル
いつも同じ話で恐縮ですが、高次脳機能障害の方の苦手なことの一つとして、察することが苦手になった方が多いことが挙げられます。察することが苦手になると困るのが、空気が読めないからとコミュニティから疎外されるようになることです。
「空気を読む・察する」ことの是非
さて、ここで「空気を読む(察すること)」について一度立ち止まって考えてみましょう。私たちが生活している日本の社会・文化の中では「空気を読む・察する」ことが生活する上での大前提になっているといっていいでしょう。文化そのものが察することができる人の集まりとしての社会あるいは共同体を前提に組み立てられている。したがって私たちの社会では「空気を読む・察する」行動は無条件に善とされているきらいがありはしないか。
というのは、一つは、空気を読む・察する文化というのは、時間的・空間的に限られた存在と思われるからです。もう一つは空気を読む・察することへの過剰適応が悪い結果をもたらすことがまれならずあるからです。
まず前者。筆者が子供の頃、大ヒットしたのが会田雄次「日本人の意識構造 (講談社現代新書) 」。その中で子供ながら印象に残ったのが、察する文化が当然の日本のホストファミリーと、日本ほどには察することをしない文化圏の留学生との齟齬のエピソード。私たちの文化では当たり前のことが、時間的空間的な広がりの中では当たり前でないことを鮮やかに示していました。
また後者については、山本七平『「空気」の研究 (文春文庫)』を持ち出すまでもなく、場の空気に過剰適応することによる社会的弊害が大きな戦禍を私たちの社会にもたらしたことは皆さんご存知の通り。であれば、社会の構成員の中に「空気を読まない(読めない)人」が含まれることは、むしろ、社会の安全弁になるのではないか。多様性とはそういうことではないのか。
「空気を読めるようにしなさい」との上司の指導は妥当か
実際、ある患者さんから、職場で「君は空気が読めないから読めるようになりなさい。」と指導されたと相談がありました。「空気を読めるようになるにはどうしたらいいか、教えてほしい。」というのが切実な訴えでした。
この相談に対する筆者の回答は、「空気を読むな。」というにべもないものでしたから、相談者が一瞬、固まってしまったのも無理はありません。
高次脳機能障害の社会復帰支援では、医学的リハビリテーションや生活・職能訓練を行うことにより、低下してしまった環境適応力を改善していくことが常套手段のひとつですからね。当然ながら「空気を読めるようになって社会に適応する術」を期待するわけでしょう?読者も奇異に思われるかもしれないのでかんたんに説明しておきましょう。
まずは上述のごとく、「空気を読むこと」は必ずしも絶対善とは言えない以上、過剰適応は避けねばなりません。別の言い方をすると、私たちの社会の中で「空気を読むこと」の意義を考えた上で、その適応への可否を考えるということです。
一方、「空気を読めないこと」への対処が個人の努力として達成されなければならない課題なのかを検討する必要もあります。だって練習して空気が読めるようになるんだったら、そもそも誰も困りはしないのです。このような観点を踏まえた上での、筆者の回答が先述の言葉です。
障害の社会モデル
この場合の筆者の指導は大げさに言えば、「障害の社会モデル」に基づくものです。件の患者さんは脳損傷の後遺症のために、察することが苦手になりました。これは後遺症なので、職場の上司から「治せ」と言われても「治せ」るものではありませんし、ご本人の努力や頑張りで変えることもできません。
このように障害を個人の”欠損”と捉え、本人の努力”だけ”でなんとか欠損を埋めて障害を克服しろ、適応せよという考え方を「障害の医学モデル」と呼び、現在では障害という概念の捉え方としては不適切と考えられています。
ではどうすればよいのか。解決策はシンプルです。職場の上司や同僚の方たちが、相談者が無理に察することをしなくても良いように、明示的に具体的に指示すれば良いのです。察するのではなく、明示的な指示さえあれば、与えられた職務を果たせる、その人の力を社会の中で発揮できるのです。
当事者を取り巻く環境の側が障害を正しく理解して対処すれば、障害は支障ではなくなるのです。このように個人の努力”だけ”に頼るのではなく、障害とは社会による排除という障壁であると捉え、社会という環境が適切に対応することにより障害は解消できる。これが現在の考え方です(障害の社会モデル)。
さて固まってしまった件の患者さん、「そうか、外国からの留学生なら日本の社会の空気が読めなくて当然。今日からは留学生になったつもりで出勤するよ!」と元気に診察室を後にされました。良かったね。
お互いの存在を尊重できる
高次脳機能障害の方は全国に数十万人あるいはそれ以上と推定されています。非常に大きな数字ではありますが、日本の人口からすればマイノリティに過ぎません。日本の社会の圧倒的多数の人は高次脳機能障害のない人、あるいは、ご存じない人です。
社会に適応するとは、その圧倒的マジョリティの行動規範、価値観に適応的に振る舞うことにほかなりません。マジョリティであるということは単にマジョリティである、つまり、単に数が多いことを示しているだけで、それが善であるとか、正しいとか、その価値を主張するものではありません。
逆に少数であることが少数であるがゆえに異常である、病的であるということにもなりません。数の違いに過ぎない。マジョリティがマジョリティであることをもって正しい、善であるという保証はありません。そうである以上、我々は盲目的に、無批判に社会の現状、あるいはマジョリティに適応することを推進するわけにはいきません。
私達の目標である「社会の一員として尊重される存在になること」とは、自らが尊重されるとともに他者を尊重できる存在になることでもあります。考え方の違い、生活習慣の違い、肌の色の違い、性別、年齢、自分と異なる他者の存在は必ずしも愉快なものではないかもしれない。たとえそうであっても、お互いの存在を尊重できることこそが、「社会の一員として尊重される」ことにほかなりません。
私達は高次脳機能障害というマイノリティの立場から運動を展開してきましたが、高次脳機能障害以外の属性については必ずしもマイノリティではなく、むしろマジョリティに属する面もあるでしょう。ですが往々にしてそのことは意識されません。なぜならマジョリティであるとは意識せずに済むことだからです。であれば意識的にマイノリティ、つまり、自分とは異なる他者を尊重できる姿勢が必要です。尊重されることは尊重することと表裏一体なのです。尊重される存在を目指すことは、そもそも、その社会に属する誰もが、すべての人が尊重される社会が実現した状況があって初めて、目標としての意義を持つと言えましょう。
であれば私達のリハビリテーションの目標は、ある一人の患者が社会復帰・社会参加を目指すという個人的な領域の課題にとどまるものではなく、私達一人ひとりが、よりよい社会、誰もが自尊心を持って参加できる社会を実現するために不断の努力を続けていくという、社会の課題にほかなりません。
高次脳機能障害という問題は、まさに私達の社会の課題であり、社会を構成する私達一人ひとりが、誰もが暮らしやすい社会を作っていくという、社会の一員としての”わたし”が引き受けるべき責任なのです。
*最近の動き
超党派「高次脳機能障害者の支援に関する議員連盟」2025年4月25日設立総会
2025年高次脳機能障害支援法案提出目標
→法案成立しました!
まとめ
・高次脳機能障害は社会が解決すべき社会問題
・社会とは私たち一人ひとりの集まりであるから、社会問題とは私たち一人ひとりが責任を引き受けるべき問題と言える
・私たち一人ひとりが障害を知ることが責任を持って問題を解決することにつながる
・障害の捉え方を医学的モデルから社会モデルに変えていけば、社会による障害の解消を実現できる
・参加に値する社会、個人の尊厳が尊重される社会を作っていこう
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